Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

平成最後の日に

2019年04月30日 | 身辺雑記
 平成最後の日の東京は、朝方、雨模様だった。4月からリタイア生活に入り、午前中は近くの図書館で過ごすことが多いのだが、今日はなにか感じるところがあって、CDを聴きたくなった。では、なにを聴くか。フッと思い浮かんだのは、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」だった。演奏は? 大家の録音が目白押しだが、あまり重くないほうがいい。そう思って、1954年オランダ生まれのロナルド・ブラウティハムの盤にした。

 その演奏では、モダン・ピアノではなく、フォルテピアノが使われている。古雅なその響きを聴いているうちに、ベートーヴェンが弾く姿が目に浮かんだ。ボサボサの髪を振り乱して、猛烈な勢いで弾いたのではないか、と。

 「ディアベリ変奏曲」を選んだのは、33曲もの変奏の迷宮に心を遊ばせたくなったからだ。平成最後の日の過ごし方として、それはふさわしく思えた。

 平成という時代区分にどれほどの意味があるのか、その議論は別にして、今上天皇への想いはたしかにある。それをはっきり意識したのは(いや、わたしの想いがなんであるかを、はっきり理解したのは)、一昨年、政治学者で音楽評論家でもある片山杜秀氏と宗教学者の島薗進氏の「近代天皇論――「神聖」か、「象徴」か」(集英社新書)を読んだときだ。

 一言でいうと、今上天皇は象徴天皇制をだれよりも深く、突き詰めて考え、それを実践してきた、という論旨だったと思う。退位の意向をにじませた「お言葉」は、その帰結であり、総仕上げのようなものだと、本書がそこまで明言していたかどうかは、今、記憶がないが、少なくともわたしはそう理解した。

 「お言葉」が発表されたとき、日本の保守層からは猛反発が起きた。わたしのような者でも、当時、保守層の某シンポジウムを傍聴する機会があり、その反発の大きさに驚いた。その「お言葉」は、はからずも、今上天皇がなにと闘ってきたかを可視化した。今振り返ってみると、そう思う。

 象徴天皇の威力が、もっとも望ましい形で、最大限に発揮されたのは、東日本大震災に当たって発表されたビデオメッセージではなかったろうか。大震災の発生後まだ間もない時期に、人々が深い喪失感のうちにあったとき、今上天皇の国民に寄りそうデオメッセージは、国民の心を一つにした。

 ペリリュー島への慰霊の旅も印象的だった。海に向かって頭を下げる天皇皇后両陛下の姿は、わたしたちに「戦争を忘れてはいけない」と語っているようだった。それは戦後民主主義の(その価値観の)体現のように見えた。
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インキネン/日本フィル

2019年04月28日 | 音楽
 日本フィルが4月上旬~中旬にヨーロッパ公演をした。その凱旋公演というと物々しいが、現地で演奏してきた曲目の一部を、先日の東京定期で披露し、それ以外の曲目を今回横浜定期で披露した。

 1曲目はラウタヴァーラ(1928‐2016)の「In the Beginning」。2017年11月の東京定期で演奏されたので、わたしは2度目だが、2度目だと前回の印象を確認できる。霧が湧きたつような音楽は、前回の印象の通りだが、今回は意外なほどシベリウス的な世界を感じた。この作品はシベリウスへのオマージュかもしれない。

 だが、曲が力感を増し、頂点に達したかと思われる時に、断ち切られるように終わる唐突なエンディングは、今回も理解できず、戸惑った。

 2曲目は武満徹の「夢の縁へ」。武満徹の作品は、ヨーロッパ公演には「弦楽のためのレクイエム」を持っていったが(これは先日の東京定期で演奏された)、「夢の縁へ」はヨーロッパ公演にはなく、今回の横浜定期独自の選曲だ。「弦楽のための‥」で武満作品の演奏方法を会得したかのように、薄い音のテクスチュアを繊細に表現し、堂に入った演奏だった。

 この作品は独奏楽器にギターが入るが、ギター独奏は村治佳織。アンコールに武満徹がギター用に編曲した「オーバー・ザ・レインボウ」と「イエスタデイ」が演奏された。

 3曲目はチャイコフスキーの交響曲第4番。響きを確かめながら、入念に音を紡いでいるような演奏だった。じつは今回の横浜定期は「神奈川県民ホール」で開かれたのだが、いつもの「みなとみらいホール」や東京定期での「サントリーホール」と違って、デッドな音響のホールをどう鳴らすか、そのノウハウを興味深く聴いた。

 アンコールにシベリウスの「悲しきワルツ」が演奏された。ヨーロッパ公演でのアンコール曲だが、そのニュアンス豊かな演奏は、当夜の白眉だった。後半、音楽が途切れとぎれになる箇所の、その無音の間が、これほど意味を持った演奏はない。インキネンと日本フィルが達成したものがこの「悲しきワルツ」に凝縮されているようだった。

 日本フィルは、東京定期に引き続き、今回もソロ・コンサートマスターの木野雅之と扇谷泰朋の両名を、またソロ・チェロ奏者の菊池知也と辻本玲の両名を揃えて、万全の態勢をとった。ヨーロッパ公演の総仕上げとして、東京定期と横浜定期まで気を緩めず、緊張感を持続したことが喜ばしい。
(2019.4.27.神奈川県民ホール)
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大野和士/都響

2019年04月27日 | 音楽
 大野和士指揮都響のBプロには、わたしの好きな曲が並んだ。武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」、シベリウスの交響曲第6番そしてラフマニノフの「交響的舞曲」。これら3曲にはなにか共通するものを感じるが、それはなんなのか‥。

 まず武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」。大野和士のどっしり腰を据えた指揮ぶりが印象的だ。曲を大きく把握した演奏。その中に小さなディテールがしっかり組み込まれている。何度も聴いたこの曲だが、今まで意識しなかったディテールが、確かな意味をもって聴こえてきた。オーケストラともよく噛み合っていた。最近気になっていた前のめりの姿勢が、今回は感じないで済んだ。

 次にシベリウスの交響曲第6番。全7曲あるシベリウスの交響曲の中では、第3番とともに、もっとも演奏頻度が少ない曲だが、わたしは好きだ。比較的コンパクトでわかりやすい第1~第3楽章に比べて、第4楽章の、とくにコーダの部分で、幽境に踏み入るような幻想性が生まれる。わたしはそこに惹かれるようだと、今回思った。

 大野和士/都響の演奏は、武満徹の「鳥は星形の‥」と同様に、曲を大きく把握して、どっしり腰を据えたものだった。第1楽章冒頭の弦楽器の清澄な音にハッとしたが、そのような音色も全体の中に組み込まれていた。

 最後にラフマニノフの「交響的舞曲」。これも前の2曲と同様に、曲を大きく把握した演奏だった。しかも個々の旋律への思い入れが熱い。何度も聴いたこの曲だが、思えば、時に空虚な(といっていいかどうか、言い直すとすれば、クールに流す)演奏もあった。それに対して、今回ははっきり目的意識を持った演奏だった。

 都響のアンサンブル能力の高さも感じた。とくに第3楽章ではスリリングな演奏が展開された。なお、第1楽章で印象的なソロがあるアルトサクソフォンには上野耕平が、ピアノには長尾洋史が入り、キラリと光る演奏を聴かせた。

 寺西基之氏のプログラムノートによれば、この曲は元々「幻想的舞曲」と名付けられていたそうだ。最終的には「交響的舞曲」となったが、曲の幻想的な性格をよく捉えた仮称だと思う。それに加えて、武満徹の「鳥は星形の‥」が、夢にインスピレーションを得た曲であることを考え合わせると、今回の3曲には幻想性という共通項がありそうだ。

 だが、(だからということではなくて、演奏として)それら3曲が同じように聴こえたことが、気にならなくもなかった。
(2019.4.26.サントリーホール)
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わたしの卒業旅行

2019年04月25日 | 身辺雑記
 4月からリタイア生活に入った。事前に卒業旅行を計画した。友人夫妻が福島県の飯坂温泉に住んでいて、遊びに来ないかと誘ってくれたので、友人夫妻を訪問しようと思っていた。だが、3月に入って、まずわたしが風邪をひき、続いて妻も風邪をひいたので、止むを得ず、4月初めの訪問予定はドタキャンして、4月22日から2泊3日で訪問させてもらった。

 4月22日、妻とわたしが福島駅に着くと、友人夫妻が迎えに来てくれていた。車で飯坂温泉へ。友人宅に行く途中、「花ももの里」(写真↑)に寄った。40品種・約300本の花ももが咲く桃源郷だった。

 友人宅で昼食。昔話に花が咲く、というよりも、久しぶりに会った気がしない。ブランクを全然感じないで話に入っていけた。友人とわたしは、長年、同じ団体で働いていたが、職場が違うので、仕事上の接点はあまりなかった。友人は2つの病院の事務部長を歴任して定年を迎えた。趣味が広くて、若い頃から登山と写真を本格的にやっていた。また、定年前後の時期にはタイとミャンマーの医療支援のNGO活動に参加した。再就職が終わって郷里の飯坂温泉に引っ込んでからは、畑仕事を始めた。畑仕事はまったくの未経験。同窓生の指導を受け、本を読みながら、約500坪の畑で多様な野菜や果物を作っている。

 その夜は友人夫妻とわたしたち夫婦で大宴会。友人が作ったアスパラガスその他の野菜に舌鼓を打ち、友人が支援しているワイナリーのワインを飲みながら、夜の更けるのも忘れて語り合った。

 翌日は午前中、畑の隅に設けられたピザ窯でピザを焼き、晴れた空の下で、空き箱に座って食べた。その美味しかったこと! 気分は最高!

 午後は車で福島第一・第二原発のそばまで連れて行ってもらった。浪江町、双葉町、大熊町と名前だけは知っている町を通過。「帰還困難地区」の立看板が林立し、民家の出入り口にはバリケードが付けられている。持参した線量計は、飯坂温泉では0.05マイクロシーベルト程度だったが、みるみる上昇して0.95程度までいった。帰りは高速道路を使った。道路脇に線量表示があり、2.4程度を示している。車内と屋外ではずいぶん違う。友人は「こういう所でも働いている人がいるんだからなあ」と言っていた。

 帰宅後、妻と温泉に行った(前日も行った)。飯坂温泉には10か所以上の温泉場がある。各温泉場には個性があり、また風情がある。

 その晩も大宴会。友人とこんなに語り合ったことはかつてなかった。それがなによりの収穫だった。
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山田和樹/N響

2019年04月21日 | 音楽
 山田和樹が振るN響定期の1曲目は平尾貴四男(1907‐1953)の交響詩曲「砧」(1942)。山田和樹は「平尾の次女、木下まゆみにピアノを習っていた」そうなので(プログラムに掲載されたプロフィールより)、その縁での選曲かもしれない。

 平尾貴四男の作品は、フルートの曲を何か聴いた気がするが、「砧」は初めてなので、事前に音源を探したら、YouTubeに山岡重信指揮読響の音源が見つかった(1971年の演奏)。それを聴くと、日本的な情緒が漂う、のどかな曲だった。そう思って演奏会に臨んだら、印象はずいぶん違った。のどかな、というよりも、引き締まった構成を感じた。今回の演奏の方が、わたしには好ましかった。

 2曲目は矢代秋雄のピアノ協奏曲。ピアノ独奏は河村尚子。多くの方と同様に、わたしも中村紘子の演奏ですりこまれている曲だが、河村尚子の演奏で聴くと、印象はずいぶん違った。スリムでシャープな感じがした。それに比べると、中村紘子の演奏は豪快だったが、もう時代が変わったようだ。今回オーケストラの演奏も鮮烈だった。演奏時間約27分の大曲だが、稲妻が光るように駆け抜けた。

 アンコールが演奏された。心に沁みる日本の曲。懐かしさが胸に広がった。だれの曲だろう。矢代秋雄のピアノ協奏曲で緊張しきった神経が、優しく慰撫された。休憩中にロビーに行ったら、矢代秋雄(岡田博美編)の「夢の舟」(ピアノ独奏版)とのことだった。

 休憩後はシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」。山田和樹の語り口のうまさが発揮された演奏だ。演奏時間約40分の長大な曲だが、飽きずに聴けた。メーテルリンクの戯曲の筋を追いながら、全体を4部に分けて構成し、(リストの交響詩「前奏曲」と同じように)交響曲のように仕上げた曲だが、曖昧模糊とした経過部も多い。そこで道に迷わずに、全体の流れの中に収めた。

 だが、率直にいえば、語り口のうまさを超えた、もう一段上のレベルのものが欲しかった。それは何だろう。研ぎ澄まされた音色か。むせかえるような官能性か。それとも他の何か、か‥。

 というのは、山田和樹が日本フィルを振って演奏したシェーンベルクの「浄夜」が忘れられないからだ(2014年9月の定期だった)。その演奏には、凄みのある美しさというか、何か突き抜けたものがあった。それから5年たち、山田和樹は格段にうまくなり、またスケールも大きくなったが、名演が生まれるためには、さらに磨き上げてほしいと思うときもある。
(2019.4.20.NHKホール)
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インキネン/日本フィル

2019年04月20日 | 音楽
 ヨーロッパ公演から帰ったばかりのインキネンと日本フィル。インキネンはともかく、日本フィルはツアー疲れが出ていないかと、内心不安を抱きながら、東京定期へ。だが、その不安は1曲目の武満徹「弦楽のためのレクイエム」が始まった途端に消えうせた。

 驚くべき繊細な音が流れてきた。薄いヴェールが空中に漂っているような音。その中から今まで聴こえなかった(あるいは、聴こえていても、その意味に気付かなかった)音が聴こえる。緊張感が途切れることがない。雑な音、無神経な音が鳴ることは皆無だ。美しく、しかもクールで、甘くはない音。今まで聴いたどんな演奏よりも美しいと思った。

 ヨーロッパ公演で練り上げた演奏かもしれないが、それにしても、馴れがなく、新鮮で、緊張感を保った演奏ができるところに、日本フィルの成長と、インキネンの指導力が窺われた。

 2曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はイギリスの巨匠ジョン・リル。まさに巨匠というにふさわしい演奏家だ。第1楽章と第2楽章は真綿で包むような演奏。柔らかく、けっして声を荒げないが、それでいてしっかり芯のある演奏。自分のペースを乱さず、そのペースにオーケストラも聴衆も引き込んでいく。

 第3楽章は大きな音で、はっきり発音していたが、それは全体設計に沿ったものと思われた。オーケストラもそれに合わせてよく鳴らした。

 3曲目はシベリウスの交響曲第2番。前曲の第3楽章に現れた演奏スタイルを敷衍し、完成させるような、明確な方向性を持った演奏。オーケストラがよく鳴る。その音はエッジが効いて、彫りが深い。北欧情緒とか、情念とかのシベリウスではなく、純音楽的な、音の構築物としてのシベリウス。

 インキネンには、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」に現れた、肌理の細かい、綿密なテクスチュアを志向する面と、シベリウスの交響曲第2番に現れた、エッジの効いた音でオーケストラを鳴らす面と、その両面がありそうだ。それが今後融合して、ユニークな個性に結実するのかどうか。

 ヨーロッパ公演でアンコールに演奏されたシベリウスの「悲しいワルツ」も聴いてみたかったが、終演後ホールを出たら、21:10になっていた。意外に時間がかかったようだ。聴いているうちはそれに気付かなかったのは、興味を惹くポイントが沢山あったからだろう。凱旋公演を成功裡に終えたことを、聴衆としても喜びたい。
(2019.4.19.サントリーホール)
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オラリー・エルツ/読響

2019年04月18日 | 音楽
 オラリー・エルツ(1971‐)の指揮を聴くのは2009年5月の読響定期以来なので、10年ぶりだ。そのときはラフマニノフの「交響的舞曲」その他を聴いた。音楽の運びに強引なところがあり、あまりよい印象が残っていないが、さて、今回はどうか。

 1曲目はエルツと同じエストニアの作曲家エリッキ=スヴェン・トゥール(1959‐)の新作「幻影Phantasma」。トゥールの作品は、やはりエストニア出身のパーヴォ・ヤルヴィがN響で積極的に紹介しているので、大分馴染みになった。今回の作品も、細かいリズムの動きと音の鮮度のよさが、いかにもトゥールらしい。

 作曲者自身のプログラム・ノートによれば、ベートーヴェンの「コリオラン」からのモチーフが「亡霊のように忍びやかに現れ、現れたときと同じように密やかに消えていく」そうだが、「そのモチーフは〈コリオラン〉のメロディーなどではなく、作品そのものの主構造を基にしている」。わたしにはその点はよくわからなかった。

 2曲目はストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はノルウェー出身のヴィルデ・フラング(1986‐)。この奏者を聴くのは初めてだが、たいへんな才能だ。自動車に例えれば、どんなにスピードを出しても、安定走行が揺るがない高級車といった感じの奏者。

 それともう一つ特徴的なことは音だ。最近のスター・ヴァイオリン奏者のような、強く張った(どんなときでもオーケストラに埋もれずに、はっきり聴こえる)大きな音とは違って、丸みのある、小さめな音。その音がオーケストラのテクスチュアの中に(縦糸、横糸のように)織り込まれる。よく聴けば、くっきりと聴こえるのだが(そして楽器もよく鳴っているのだが)、放っておいても聴こえるタイプの音ではない。

 アンコールにハイドンの「皇帝」のメロディーをヴァイオリン独奏用に編曲したものが演奏された。とてもモダンな感じがしたが、帰りがけに掲示を見たら、クライスラー編曲だったので、意外だった。

 3曲目は武満徹の「星・島(スター・アイル)」。わたしは(当夜の曲の中では)この曲の演奏がもっとも気に入った。ノスタルジックな音色が舞台いっぱいに広がった。

 4曲目はシベリウスの交響曲第5番。読響の高度なアンサンブルが活かされて、精緻な演奏が繰り広げられたが、エルツの指揮には(比喩的にいえば)雑味のない日本酒のようなところがあり、わたしは次第に飽きてきた。
(2019.4.17.サントリーホール)
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フルシャ/N響

2019年04月15日 | 音楽
 ヤクブ・フルシャのN響初登場。都響でその成長を見守ってきた指揮者が、成熟した指揮者となって(といっても、まだ30歳代後半だが)別のオーケストラに登場する姿を見るのは、感慨深いものがある。

 1曲目はR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」。音楽を巻き上げていくドライブ感に目を瞠った。フルシャは基本的には楷書体の演奏をする人だと思うが、都響の首席客演指揮者退任公演となった2017年12月のブラームスの交響曲第1番では、うねるような躍動感が生まれていた。その傾向が今回の「ツァラトゥストラ…」で全面的に展開した感がある。

 コンサートマスターにはライナー・キュッヒルが入った。その艶のある音といったら! この曲がヴァイオリン協奏曲のように聴こえる箇所が何度もあった。その割に弦セクションの音に照度が不足していたのはなぜだろう。

 2曲目はベルリオーズの「クレオパトラの死」。ソプラノ独唱はヴェロニク・ジャンス。オペラの一場面のような曲だ。そのドラマ性には凄みがある。クレオパトラが毒ヘビに我が身をかませて自殺する場面では、あまりにもリアルな表現にゾッとした。

 ヴェロニク・ジャンスの歌唱はドラマティックで、深く掘り下げたものだったが、それにピタッとつけて、寸分の隙もなかったフルシャとN響もたいしたものだった。

 てっきり休憩は1曲目の「ツァラトゥストラ…」の後に入るものと思い込んでいたが、休憩なしに「クレオパトラ…」が演奏され、その後で休憩が入った。休憩後はヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。なるほど、休憩が入った後だと、気分が一新し、この曲の独立性が際立った。

 演奏はフルシャの正統的な音楽性と、N響の高度な技術とが融合して、稀にみる見事なものになった。余計なものを削ぎ落した、透徹した美しさがあらわれた。わたしは今まで聴いた演奏の中で(実演もCDも含めて)今回がベストではないかと、思わず言いたくなった。舞台奥に並んだバンダも美しいハーモニーを響かせた。なお、ハープは舞台上手のヴィオラの後ろに配置された。その分だけ客席に近くなり、わたしの3階席からでもよく聴こえた。

 定期のプログラムに毎回連載された「オーケストラのゆくえ」が今回で最終回になった。最終回はキュッヒルへのインタビュー。その中でキュッヒルは日本のオーケストラの「世界的にみても優れた奏法の一体感」(※)を指摘していて、示唆に富んでいた。
(2019.4.14.NHKホール)

(※)参考までに、引用した語句を含む前後の発言を引用しておきたい。
「いくつかの名門楽団は世界の優秀な音楽家を獲得しようと、国際オーディションを繰り返した結果、かつて固有だった響きの個性を失いつつあります。この点、日本のオーケストラは言語や地政学の問題もあって、日本人の割合が多いままに構成され、世界的にみても優れた奏法の一体感があります。ウィーンから来た私が予言するのも何ですが、21世紀はN響をはじめ、日本のオーケストラが一段と強い個性を発揮して、世界に羽ばたく時代といえるでしょう。」
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高関健/東京シティ・フィル

2019年04月14日 | 音楽
 高関健体制になって、東京シティ・フィルの定期は毎回注目すべきプログラムを組んでいる。今回もその一つ。1曲目はモーツァルトの「魔笛」序曲。ノンヴィブラートというほどではないが、最小限のヴィブラートで、ピリオド奏法の影響を感じさせる演奏。生気のあるその演奏に、「今回も好調だ」と思った。

 だが、次のR.シュトラウスの「4つの最後の歌」では問題を感じた。高関健はプレトークで「カラヤンの演奏でこの曲を何度か聴いた」と語っていたが、その余韻が残っているのか、重い音でたっぷりとオーケストラを鳴らしていた。その音がソプラノ独唱の森麻季の声と合っていたのかどうか。

 森麻季の声は、元々細くて軽い声だと思うが、今回はオーケストラの音に合わせたのだろうか、太い声でしっかり歌おうとしているようだった。だが、それでも声がオーケストラに埋もれがちで、結果が出なかった。

 持ち前の細くて軽い声で旋律線をくっきり出し、オーケストラの編成をもっと絞って(当日は14型)、透明で室内楽的な世界を目指したら、ユニークな演奏が生まれたのではなかろうかと、後で想像した。

 上記の「魔笛」序曲と「4つの最後の歌」は、それぞれ作曲者最晩年の作品だが、最後のブルックナーの交響曲第1番は、作曲者の若書きというか、すでにオルガン奏者として名を成していたが、そのブルックナーが交響曲という意外な分野に転戦した、その初期の頃の意欲と苦心が刻まれた曲だ。

 その曲を、おそらく初演のときはこのような曲であったろうと、初演時の姿を復元しようとした「1868年リンツ稿、新全集版」(2016年出版)で演奏した。おそらく日本初披露ではなかろうか、とのこと。2018年5月にパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響が同曲を演奏したが、そのときは「1866年リンツ稿、ノヴァーク版」と謳っていた。1866年は作曲年、1868年は初演年なので、実質的には同じだろうが、違いは「新全集版」と「ノヴァーク版」だ。

 耳で聴いて、その違いがわかるわけではなかったが、時々音が薄くなって、次の展開が読めなくなるところとか、音楽の運びが率直で速いところとか、全体的にいえば、初々しいところがおもしろかった。絵画でいえば(完成作の前の)デッサンを見るような感じがした。

 演奏は慎重だった。最後はよく鳴っていたが、そこに至るまでの過程では、慎重に音を吟味しているようなところがあり、感興が湧かなかった。
(2019.4.13.東京オペラシティ)
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「フィレンツェの悲劇」との組み合わせ

2019年04月12日 | 音楽
 大野和士芸術監督は1年おきにダブル・ビルを制作する方針のようだ。今回の「フィレンツェの悲劇」と「ジャンニ・スキッキ」はその第一弾。今回の公演は(残念ながら)あまり面白い出来ではなかったが、第二弾、第三弾に期待したいと思う。

 プログラムに東条碩夫氏が「ダブル・ビル、トリプル・ビルの醍醐味」というエッセイを寄稿している。1969年に旗揚げした東京室内歌劇場のダブル・ビルから始まって、内外のダブル・ビル、トリプル・ビルの注目すべき公演を辿り、ダブル・ビル、トリプル・ビルでは何と何を組み合わせるか、その組み合わせが何を生むか、また演出はその組み合わせを(一晩の演目として)どう見せるか、といった点を検討している。

 願わくは、今後出てくる第二弾、第三弾のダブル・ビルでは、斬新な組み合わせと、斬新な(観客への)問題提起があらんことを!

 さて、「ジャンニ・スキッキ」はともかく(というのは、元々三部作の一つとして書かれたものだから)、「フィレンツェの悲劇」は、それを上演しようとすると、(それ一作では上演時間が短いので)ダブル・ビルが避けられない。では、何と組み合わせるか、という問題がつきまとう。

 舞台が同じフィレンツェなので、今回のように「ジャンニ・スキッキ」と組み合わせる例もあるが、同じ作曲家(ツェムリンスキー)の作品として、「こびと(王女の誕生日)」と組み合わせる例もある。念のためにOperabaseを検索してみたら、ドイツのハレ歌劇場ではモーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」と組み合わせている。

 わたしが今まで経験した組み合わせで、一番インパクトが強かったのは、シャリーノ(1947‐)の「私を裏切った瞳Luci mie traditrici」との組み合わせだ。そのオペラは、ルネサンス期の作曲家ジェズアルド(1566?‐1613)が妻とその不倫相手を惨殺した事件をオペラ化したもので、「フィレンツェの悲劇」と同じテーマといっていい。

 そのダブル・ビルはフランスのリヨン歌劇場が2007年4~5月に上演したもので、そのときはダブル・ビルの3連発だった。上記の組み合わせと、プーランクの「人間の声」とバルトークの「青ひげ公の城」との組み合わせ、3つ目はビゼーの「ジャミレー」とプッチーニの「外套」との組み合わせ。わたしは日程的にビゼー/プッチーニは観ることができなかったが、あとの二つは観た。どちらも大変刺激的だった。

 大野和士がリヨン歌劇場の首席指揮者に就任したのは2008年9月なので、大野体制が始まる前のプロダクションだが。
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田沼武能写真展「東京わが残像 1948-1964」

2019年04月11日 | 美術
 田沼武能写真展「東京わが残像 1948-1964」を見に行った。日本が敗戦後の混乱から復興に向けて立ち上がった1948年から、東京オリンピックを開催して復興した姿を内外に示した1964年まで、東京という街の変貌を辿った写真展。

 なんといっても強烈なインパクトがあったのは、戦災孤児の写真だ。「ペコちゃん人形の持つミルキーが欲しい戦災孤児」(銀座、1950年)では、裸足でボロをまとった戦災孤児が、ミルキーの箱を持つペコちゃん人形を、道端で見つめている。ペコちゃん人形も薄汚れている。

 もう一つ例をあげると、「上野公園に住む戦災孤児」(上野、1951年)は、ボロをまとった戦災孤児の顔が大写しにされている。泥で汚れているが、腹の座った、(多少語弊があるかもしれないが)ふてぶてしい顔だ。わたしは石川淳の小説「焼跡のイエス」を思い出した。このような戦災孤児=焼跡のイエスが、当時大勢いたことが、実感として迫ってくる。

 わたしは1951年生まれなので、戦災孤児を実際に見たことはないが、チラシ(↑)に使われている「路地裏の縁台将棋」(佃島、1958年)のような光景は、日常的に見慣れた光景だ。わたしはこのような環境の中で育った。路地裏にはいつも子どもがいた。でも、今では路地裏はなくなった。

 本作をよく見ると、近景に将棋を指す少年2人とそれを観戦する少女1人、中景には花火をする少女2人とそれを見つめる少年1人、遠景にはお婆さんが1人いて、それらの人物が逆「く」の字型に配置されている。動きがあり、同時にバランスが取れている。羽目板、洗い場、物干しの竹竿など、夥しいディテールがおもしろい。それにしても、屋根の上の番傘はなんだろう。地面が濡れているので、本作は雨上がりの光景かもしれず、そうだとすれば、濡れた番傘を乾かしているのか‥。

 わたしなどは、このような写真を見ると、ノスタルジーを感じるが、今の若い人(たとえば中学生とか高校生とか)はどう感じるのだろう。

 本展の最後の方には「皇太子ご成婚の日の街の光景」(銀座、1959年)がある。その皇太子=今上天皇は、今、退位が目前となっている。そして最後に展示されている「国立競技場聖火台に点火され東京オリンピックが開幕」(新宿区、1964年)は、(敗戦後夢中になって走ってきた)一つの時代にピリオドをうつようだ。東京という街が自分探しをするなら、そのルーツはこの時代にあるのかもしれない。
(2019.4.9.世田谷美術館)

(※)本展のHP
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フィレンツェの悲劇&ジャンニ・スキッキ

2019年04月08日 | 音楽
 大野和士芸術監督がプログラム編成の柱の一つに掲げるダブルビルの第一弾、ツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」とプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」が初日を迎えたが、残念ながら、公演は低調だった。

 「フィレンツェの悲劇」ではシモーネ役が圧倒的な存在感を誇るが、同役を歌うベテランのセルゲイ・レイフェルクスは、新国立劇場のFacebookによると、本作のリハーサル中に73歳の誕生日を迎えたそうだ。73歳‥。一抹の不安がよぎった。

 幕が開くと、案じた通り、声に凄みがない。かつてのドスの効いた声ではない。舞台姿に衰えはないが、アクの強さというか、押しの強さというか、そんなオーラが薄れたように感じる。ドラマの進展とともに、存在感が増していったので、最初はペースを抑え気味だったのだろうが、それにしても、粘りつくような嫌らしさはあまりなく、最後の決闘の場面でも不気味な威圧感はなかった。

 レイフェルクスといえども、年齢からくる変化は避けがたいのだろう。それは(肉体的・精神的な)自然な変化なので、良いとか悪いとかという話ではないのだが、そろそろシモーネという役は卒業ではないだろうか。

 他の2人の歌手(いうまでもないが、本作はシモーネを含めた3人の歌手からなる)と演出、美術、衣装、照明に関しては、とくにいうべきことはなかった――それも寂しいが。

 一方、「ジャンニ・スキッキ」は、タイトルロールのカルロス・アルバレスが、現役バリバリの活きのよさで気を吐いた。オペラはやっぱり歌手だな、と思った。タイトルロール以外はすべて日本人の歌手で固めたが、その中ではリヌッチョを歌った村上敏明が、張りのある声と切れのよい歌いまわしで、舞台に活気をもたらした。ラウレッタを歌った砂川涼子もよかったが、本領発揮には至らなかった。

 だが、「ジャンニ・スキッキ」も、わたしにはつまらなかった。1950年代に設定したという粟國淳の演出その他(美術、衣装、照明)が学芸会的に見えた。大人のオペラではなかった。日本人が制作すると、どうしてこうなるのだろうと、わたしは一般論で考えたくなった。子どもっぽい甘えのあるオペラ。それを楽しむ層もいるだろう。でも、現実社会との接点は、そこには見出せない。言い換えると、今なぜこのオペラをやるのか、という視点が弱い。

 沼尻竜典指揮の東京フィルの演奏は、両作品とも場面ごとの意味を的確に捉え、綿密に表現していた。
(2019.4.7.新国立劇場)
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こどもしょくどう

2019年04月06日 | 映画
 近頃ささやかなボランティアをしている。近所の公民館の一室でやっているのだが、先月のある日、隣の部屋で子ども食堂をやっていた。たいへんな賑わいだった。当日のメニューはカレーライスで、子どもは無料、大人は300円。廊下から覗いていたら、「いかがですか」と声を掛けられた。「いえ、結構です。恐縮です」と遠慮した。

 子ども食堂というと、親が夜遅くまで働いているので、一人で夕食をとる子とか、貧困のため満足な食事ができない子とか、そんなイメージがあるが、その子ども食堂は、親子連れの子が多く、楽しそうな声が飛び交っていた。貧困のイメージはなかった。

 でも、本当はどうなのだろう。廊下から覗いただけではわからない事情が、楽しそうな声の陰に隠れているのかもしれない。あるいは、貧困の只中にいる子は、そのような子ども食堂に来ることもできないかもしれない――などと考えた。

 そんな折に映画「こどもしょくどう」を知ったので、観に行った。ユウトは東京の下町に住む中学生。両親は小さな食堂を営んでいる。ミサという小学生の妹がいる。ユウトの友だちにタカシがいる。体は大きいが、いじめられている。タカシの家は母子家庭。母親からはネグレクトされている。

 ユウトとタカシは、ある日、河川敷で車中生活をするミチルとヒカルという姉妹に出会う。ミチルはユウトやタカシと同年齢くらい。ヒカルはミサよりも小さそうだ。父親がいるのだが、車に帰ってきたり、帰ってこなかったりで、育児放棄も同然だ。ミチルがヒカルの親代わりになって世話を焼いている。

 ミチルとヒカルは、両親揃って幸せな日々を送っていたこともあるが、何があったのか、事情はわからないが、母親は姿を消し、父親も二人を置いて逃げ出そうとしている中で、二人だけで車中生活をする羽目に陥っている。

 そんな5人の子どもたちの生活が、子どもたちの目線で描かれる。食堂を営むユウトの両親は、思いやりのある善意の人たちだが、そんな両親でさえ大人の目線が否めない。それが子どもたちの心に波紋を引き起こす。

 ミチルを演じる鈴木梨央(りお)の影のある繊細な演技に注目した。両親が揃っていた幸せな日々の回想シーンがあるのだが、そのときの明るい表情と、幼い妹と二人で車中生活を送る毎日の、その重みに必死に耐える暗い表情とは、別人のように見える。わたしは何度か胸をつかれた。2005年生まれだが、大人の演技だ。
(2019.4.1.岩波ホール)

(※)本作のHP
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ミュージアム・コンサート:伊東裕~黒田記念館

2019年04月02日 | 音楽
 昨年12月に葵トリオ(ミュンヘン国際音楽コンクールのピアノ三重奏部門で優勝したトリオ)の演奏会に行ったとき、チェロを弾いている伊東裕という若手奏者の音楽性に注目した。その伊東裕が東京・春・音楽祭(東京春祭)の「東博でバッハ」シリーズに出演するので、聴きにいった。

 プログラムは前半がバッハの無伴奏チェロ組曲第1番とガスパール・カサド(1897‐1966)の無伴奏チェロ組曲、後半がバッハの無伴奏チェロ組曲第2番と同第6番。第1番が始まると、チェロの音が会場の法隆寺宝物館エントランスロビー中に鳴り響いた。まるで残響の多い教会の中で聴いているようだ。「東博でバッハ」を聴くのは初めてではないが、以前とは会場が違うせいか、その鳴り方に驚いた。

 そのためかどうか、第1番はよくわからなかった。次のカサドになると、きわめてよく焦点の合った演奏になった。シャープで、明晰で、生気があり、会場の残響もしっかり計算しているようだった。

 休憩後のバッハの第2番はカサドと同様に名演だった。伊東裕の真摯な内面と繊細な感性が伝わってくるようだった。最後の第6番は構えの大きな曲だが(演奏もそれにふさわしかったが)、わたしにはよくわからないところがある。

 以前に「東博でバッハ」を聴いたときもそうだったが、終演後に東京国立博物館の「総合文化展招待券」をいただいた。総合文化展とは収蔵品展のこと。翌日上野に行く用事があったので、ついでに同館の一角の黒田記念館(↑)に寄ってみた。

 黒田記念館は、明治~大正期の画家・政治家の黒田清輝(1866‐1924)の遺志に基づく建物。黒田清輝の作品を多数収蔵しているが、公開期間が限られている。今はちょうど公開期間中なので、よい機会だった。上記の招待券で入るつもりだったが、入り口でチケットの提示を求められなかった。

 赤レンガの外観が古風だが、内部の黒光りする廊下やどっしりした扉なども風格がある。その一室に展示された黒田清輝の代表作「読書」、「舞妓」、「湖畔」、「智・感・情」の4作品をじっくり鑑賞した。静かで贅沢な時間だった。

 今回は「読書」に惹かれた。窓辺で読書するフランスの女性を逆光で捉えた作品(※)。外から差し込む陽光が女性の額とうなじを照らす。その照り返しが美しい。黒田清輝のフランス留学中の作品だが、画力の高まりが一つのピークを迎え、眩しく輝いている。
(2019.3.26.東京国立博物館法隆寺宝物館、3.27.黒田記念館)

(※)「読書」の画像(東京国立博物館のHP)
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