不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

モルロー/読響

2018年07月31日 | 音楽
 7月の読響の定期は諸事情により振り替えた。振替先は、日程の都合で、同月の日曜マチネーにした。ルドヴィク・モルローLudovic Morlotという未知の指揮者のサマーコンサートのようなプログラム。モルローは1973年フランス生まれ。2011年からシアトル響の音楽監督を務めている。

 プログラム前半はガーシュイン2曲。まず「キューバ序曲」。ラテン系のノリのよい曲だが、演奏は今一つだった。どこがどうと指摘できるものではなかったが、全体的に弾けたところがなく、もったりしていた。

 次は「ラプソディー・イン・ブルー」。ピアノ独奏が小曽根真なので、これに期待していたが、どういうわけか、小曽根のソロが大人しく聴こえた。小曽根が乗ったときのノリのよさはこんなものではないと、わたしは心中で呟いた。

 アンコールが演奏された。それが驚きだった。コントラバスの石川滋が前に出てきて、小曽根とジャズ・セッションを始めた。ソフィスティケートされた品のよいジャズ。読響のソロ・コントラバス奏者がジャズもできるとは‥と仰天した。曲はミルト・ジャクソンの「バグズ・グルーヴ」という曲。

 話は脱線するが、もう10年以上も前に、年末年始をベルリンで過ごしたことがある。大晦日にコーミッシェ・オーパーのオペレッタを観にいった。途中休憩に入ったら、ホワイエでパーティーが始まった。だれでも参加できる。食べ物と飲み物もふんだんにある。そのうちジャズ演奏が始まった。オーケストラのメンバーによるジャズ。会場は大いに盛り上がった。それを想い出した。

 プログラム後半は、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、エネスコの「ルーマニア狂詩曲第1番」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲。ドビュッシーとラヴェルの両曲ではフルート・ソロが入るが、フルート独奏は首席のドブリノヴ。何といったらよいか、ノーブルな音と演奏で、わたしは初めてこの奏者の個性がつかめた。

 ただ、全体的には、やはり、もったりした感が否めなかった。きちんと仕事はしているのだが、そこを超える鮮烈さが出てこなかった。

 モルローってこういう指揮者なのだろうかと思い、翌日NMLを検索したら、何枚ものCDが入っていた。その中からデュティユーの「メタボール」を聴いてみた(オーケストラはシアトル響)。精彩に富んだ演奏で、イメージがまったく違った。
(2018.7.29.東京芸術劇場)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高関健/東京シティ・フィル

2018年07月29日 | 音楽
 わたしは東京シティ・フィルの定期会員なので、そのためだろう、同フィルから暑中お見舞いの葉書が来た。そこに楽員から「今度マルタンの珍しい曲をやります」と書き添えられていた。他愛ないもので、行ってみる気になった。

 プログラムはマルタンの「7つの管楽器とティンパニ、打楽器と弦楽のための協奏曲」とマーラーの交響曲第4番。指揮は高関健。シティ・フィルは、高関体制になってから、プログラムが多彩になった。これもその一環。

 マルタンの「7つの管楽器と‥」の管楽器は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン。それにティンパニが独奏楽器として加わる。木管、金管、打楽器の各セクションが独奏楽器として扱われるわけで、複数の独奏楽器を持つ協奏曲と、オーケストラのための協奏曲との中間を行くような曲だ。

 独奏者はシティ・フィルの首席奏者たち。皆さん闊達でうまい。同フィルはこの数年間で世代交代が進み、優秀な若手奏者が入ってきた。その人たちの妙技を楽しめた。曲も各独奏楽器にそれぞれソロを用意している(サービス精神満点の曲だ)。それを聴きながら、今シティ・フィルは、黄金期とまではいわないが、充実期に入っていると感じた。

 同フィルのツィッターを読んでみたら、2004年6月の定期でも演奏したことがあり、今回はそれ以来、と書いてあった。えっと思って日記をひっくり返したら、たしかに聴いていた。矢崎彦太郎の指揮で、前半がマルタン2曲、後半が新実徳英2曲。新実作品は鮮明に覚えているが、マルタンのほうは忘れていた。

 今回は当時とは独奏者が一新しているはずだ。今回は忘れないだろうと、自分にいってみるが、さて、どうだろう。

 マーラーの交響曲第4番も名演だった。意外なくらいにテンポを動かして、あっさりした演奏とは対照的な、部分々々を噛みしめるような、要所々々に情熱を込めるような演奏だった。高関健はプレトークで、メンゲルベルクが「マーラーはこういった」と書き込みをしたスコアを読んだといっていたが、その余韻があったのかと、素人考えながら思った。その演奏が新鮮だった。

 管は基本的に3管編成だが、弦は12-10-8-8-6の編成だった。このバランスが絶妙だった。管は2番奏者、3番奏者の音まで聴こえ、また弦もよく鳴って、物足りなさがなかった。
(2018.7.28.ティアラこうとう)

(追記)ソプラノ独唱は幸田浩子。昔のような声の伸びがなかった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消えていくなら朝

2018年07月25日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門の新作「消えていくなら朝」。作者は蓬莱竜太、演出は宮田慶子。本作は宮田慶子の芸術監督としての8年間を締めくくる作品。8年前の芸術監督交代に当たってはゴタゴタがあったようだが、宮田体制がスタートすると、安定した8年間だったように見える。わたしもほとんどの上演を観た。バランスのとれた作品構成だった。

 本作はある家族の話。作家として成功している次男は、何年ぶりかで実家に帰る。そして家族に切り出す、「……今度の新作は、この家族をありのままに描いてみようと思うんだ」。そのとき波紋が起きる。各人が抱えているわだかまりが、堰を切ったように吹き出し、本音をぶつけ合う。

 と、そう説明すると、ホームドラマのように思われるかもしれないが(実はわたしも観る前はそれを危惧していた)、実際はそうではなかった。ある家族の話を通して、人間の普遍的なものに触れていた。わたしは壮麗な物語を感じた。先に結論めいたことをいうようだが、これは傑作かもしれないと思った。

 本作は作者の家族をモデルにしている。なので、作者自身も登場する。作者が次男で、兄と妹がいて、父と母がいる。5人家族。加えて作者が連れてきた若い女性(恋人なのかどうかは分からない)が登場する。登場人物は計6名。軋轢は家族5人の間で起きる。若い女性は一歩離れたところから関わる。

 ホームドラマにならなかったのは、作者が自分自身を痛めつけているから。けっして容赦しない。だが、同時に、家族の一人ひとりに対しても容赦しない。それぞれの内面に潜り込んで、その言い分を描き切る。たとえそれが客観的に見て少しへんでも。

 5人それぞれの本音がぶつかり合えば、家族は崩壊せざるを得ないだろう。そして実際に崩壊する。断片となった本音が瓦礫のように転がる。荒涼とした心象風景。けっして予定調和的なハッピーエンドにはならない。そこがよいと思った。

 作家とは因果な商売だ。自分自身に対して手加減したら、とたんに読者(観客)に見破られる。自分をかばってはいけない。わたしがそれを感じたのは、唐突なようだが、森鴎外の「舞姫」だった。露悪的な素質がなければ、作家にはなれないと思った。本作には作家の素質が感じられる。

 次男を演じた鈴木浩介をはじめ、見事に決まったキャスティングで、水際立った演技が繰り広げられた。
(2018.7.23.新国立劇場小劇場)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アラン・ギルバート/都響

2018年07月23日 | 音楽
 アラン・ギルバート指揮都響のもう一つのプログラムは、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンスそしてガーシュウィンの「パリのアメリカ人」というもの。一見して名曲路線のサマーコンサートのようなプログラムだが、演奏は本格的で、けっして軽い、くつろいだものではなかった。

 「新世界より」では、ギルバート持ち前の大柄でダイナミックな演奏に加えて、ニュアンスの豊かさが全編にわたって印象に残った。細かなフレージング、微妙な抑揚、主旋律の陰に隠れた音型の抽出など、芸の細かさを併せ持った指揮者であることがよく出ていた。

 一例をあげるなら、第3楽章スケルツォのトリオの旋律「タ・タンタタ タンタタ ターン/タ・タンタタ タンタタ ターン」の、前半部分は普通に演奏されたが、後半部分はレガートをかけて、優しく慰撫するように演奏された。そのため、後半部分が前半部分の応答のように聴こえた。

 全体的にはスケールの大きな名演、しかも普段の都響よりパワーアップした名演になった。

 「ウェストサイド・ストーリー」のシンフォニック・ダンスでも、ダイナミックでスリリングな演奏が展開したが、同時にけっしてアメリカ的なノリだけではなく、丁寧なアンサンブルに配慮された演奏でもあった。なお、例のマンボ!は、アメリカでは聴衆もマンボ!と叫ぶのが恒例になっていると、あるコンサートのプレトークで聞いたことがあるが、ギルバートも聴衆を促すように振り返ったような気がする。残念ながらわたしは声が出なかったが。

 昔話で申し訳ないが、わたしは高校生か大学生の頃(今から40~50年前のこと)、若き日の小澤征爾がこの曲を振るのを聴きに行った(オーケストラは日本フィル)。そのときのドラム奏者はジャズ・ドラマーの石川晶だった。わたしはそのドラム演奏に痺れた。わたしも吹奏楽でパーカッションをやっていたので、その凄さがよく分かった。

 一方、「パリのアメリカ人」は「ウェストサイド・ストーリー」に比べると、ずいぶん長閑に聴こえた。「ウェストサイド・ストーリー」を聴いた後なので、余計にそう思ったのだろう。

 カーテンコールの最後に、楽員が聴衆のほうを向くかどうかで、戸惑っている様子なのが可笑しかった。7月15日・16日のカーテンコールの余韻だろうか。
(2018.7.21.東京芸術劇場)

(追記)
 本文に書けばよかったが、以上の3曲はいずれもニューヨーク・フィルが初演した曲。同フィルの音楽監督を8シーズン務めたギルバートの名刺代わりのプログラムだった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼玉県立近代美術館

2018年07月21日 | 美術
 さいたま新都心に行く用事があったので、ついでに(JRで2駅離れているが)埼玉県立近代美術館に寄った。外の猛暑が嘘のように館内は涼しく、静かだった。滞在時間は1時間ほどしか取れなかったが、すっかり汗も引き、気持ちが落ち着いた。

 滞在時間が限られていたので、企画展は見送って、常設展だけを見た。「MOMASコレクション第2期」と題された常設展は、今まで見たことのない作品もあり、十分な手応えがあった。

 同館の目玉はクロード・モネの「ジヴェルニーの積みわら、夕日」で、今回も展示されていたが、何度か見たことのある同作よりも、今回はポール・デルヴォー(1897‐1994)の「森」(1948)に惹かれた。これはなんという絵だろう。夜の森の中に、全裸の女性が横たわって、上半身を起こしている。天蓋の下にいるので、ベッドの上のようでもあるが、女性がいるのは草の上。満月が木立を透かして覗いている。

 奇妙な点は、森の向こうから、汽車が走ってくること。女性は線路の脇にいるので、間もなく女性の横を汽車が通り過ぎる。運転手や乗客は女性に気付くだろう。女性は海で船乗りを誘惑する人魚の、森のバージョンだろうか。それとも夜の森に固有の幻想的な存在だろうか。

 もう一つ、ピカソ(1881‐1973)の「静物」(1944)にも惹かれた。この作品は以前にも見たことがあるが、今回あらためて惹かれた。夜のテーブルの上に、ろうそく、ポット、コーヒーカップ、鏡などが置かれている。赤、緑、黄、紫、白などの原色の対比が、見る者を落ち着かない気分にさせる。

 本作は、夜の室内に一人目覚めている画家の、孤独な心象風景か。1944年の作品なので、当時ピカソのいたパリは、ナチス・ドイツの占領下にあり、連合軍の爆撃が始まる緊迫した時期だった(解説カードより)。そのときの画家の緊張感が伝わる。

 日本人の作品では、難波田龍起(なんばた・たつおき)(1905‐1997)の「水のある街」(1969)に惹かれた。青が基調の淡くて透明な色彩の上に、黒いエナメルを繊細に滴らせた作品。抒情的な抽象画だ。難波田龍起の作品は、以前、別の美術館で見たときにも惹かれた記憶があり、今回また同じ経験をした。

 他にも語りたい絵画、彫刻そして写真があるが、このへんで止めておこう。ともかく、限られた時間ではあったが、いろいろ発見があった。
(2018.7.17.埼玉県立近代美術館)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アラン・ギルバート/都響

2018年07月18日 | 音楽
 アラン・ギルバートと都響とは2011年7月の初共演以来、2016年1月、同年7月、2017年4月と共演を重ねてきたと、プログラムに書いてあったので、念のために日記を見たら、わたしはそれらすべてを聴いていた。そしてこの度の首席客演指揮者への就任。大歓迎だ。

 就任披露演奏会の1曲目はシューベルトの交響曲第2番。わたしの偏愛する曲だが、好事魔多しというべきか、大柄でダイナミックな演奏が、わたしのイメージには合わず、最後までチグハグな印象を拭えなかった。音の瑞々しさとチャーミングな表情に欠けるというのが、わたしの感想だが、それはわたしの尺度に照らした感想にすぎないことは承知していて、そこから脱け出せないもどかしさを感じた。

 一方、2曲目のマーラーの交響曲第1番「巨人」は、かつての第5番の演奏を彷彿させるような、ダイナミックレンジが人一倍広く、緩急の落差が極端に大きい、日常のレベルをはるかに超える演奏になった。

 もう一つ、この演奏では使用楽譜の「クービク新校訂全集版/2014年」というのが興味を惹いた。端的にいって、「花の章」を含む全5楽章版だが、細部はともかく、全体的には決定稿にかなり近づきつつ、しかし決定稿とは異なる点が無数にある版のようだ。その驚きたるや並大抵ではなかった。

 そのような版で聴いても、「花の章」はやはりすわりが悪いことが、かえっておもしろかった。簡素な三部形式で書かれ、発展性に乏しい楽想だからだろうか。でも、マーラーはこの楽章にこだわった。最終的に削除されたとき、この交響曲は別の曲に生まれ変わった。そのときマーラーは脱皮した。その過程が目に浮かぶ。

 終演後は大喝采。そしてそこからがおもしろかった。都響はいつもは(拍手の間中)楽員全員が指揮者のほうを向いたままだが、今回はギルバートが聴衆のほうへ向かせた。これにはびっくり。聴衆は沸きに沸いた。しかも正面だけではなく、後方にも、左右両サイドにも向かせた。

 最後はギルバートのソロ・カーテンコールになったが、そのときギルバートはコンサートマスターの矢部達哉を伴って現れた。聴衆からはどよめきの声。そしてギルバートはお開きを告げるため、最初は(他の指揮者もやるように)「お休み」のジェスチャーをしたが、すぐに思い直したように、ビールを飲むジェスチャーに変えた。大笑いが起きた。新時代の到来か。
(2018.7.16.サントリーホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノット/東響「ゲロンティアスの夢」

2018年07月16日 | 音楽
 エルガーのオラトリオ「ゲロンティアスの夢」は、大友直人指揮の東響が演奏したときに(2005年だったらしい)、聴きたいと思いながら、聴けなかったことが、心のどこかに引っかかっていた。いつか聴いてみたいと思っていたら、同じく東響の演奏で聴く機会が訪れた。指揮がジョナサン・ノットとは申し分ない。

 プログラムに掲載されたインタビューで、ノットはこの作品を「ワーグナーの作品、特に『パルジファル』に近い精神や半音階を巧妙に使った音楽、さらにはR.シュトラウスの『4つの最後の歌』に比肩するような歌詞と音楽の見事な融合」と語っている(インタビュアーはオヤマダアツシ氏)。

 そのことは(「パルジファル」の幕開きの場面を彷彿とさせる)前奏曲から始まって、全編を通じて感じられた。そして(その上で)付け加えるなら、第2部に登場する天使の歌が、部分的に深い詠嘆のトーンに染まるときがあり、それは「パルジファル」よりも、プフィッツナーの「パレストリーナ」を想い出させた。

 作曲順は「ゲロンティアスの夢」のほうが先なので、「パルジファル」から「ゲロンティアスの夢」へ、そして「パレストリーナ」へと(おそらく無意識に)受け継がれた音楽的な要素があったのではないか。そしてその断片がヒンデミットの「画家マティス」に残り、そこで終わりを告げる、という図式が目に浮かんだ。

 それはわたしの勝手な想像に過ぎないけれど、それはともかく、19世紀の後半から20世紀の前半にかけて続いた憂愁の気分が、それらの作品に刻印されていることは、考えてみる価値があるかもしれない。

 天使を歌ったのはサーシャ・クックだが、その深い感情を湛えた歌い方が、わたしの想像を刺激したことは確かだ。わたしは事前に本作のCDを聴いていたが、そのときには感じなかったことを、クックの歌唱で感じた。

 独唱陣は、ゲロンティアスを歌ったマクシミリアン・シュミットも、司祭と苦悩の天使を歌ったクリストファー・モルトマンも、ともに素晴らしかった。クックを含めて、高水準の独唱陣と、アマチュアとは思えない(プロのように厳しい)東響コーラスの合唱と、ノット指揮東響の、ニュアンス豊かな、しっとりしたアンサンブルとが相俟って、見事なまでに高度な演奏を達成した。

 最後の浄化された音楽が虚空に消えていったとき、わたしは深い充足感に包まれた。
(2018.7.15.ミューザ川崎)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲッベルスと私

2018年07月13日 | 映画
 ナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルス。ヒトラー体制を作り上げ、支えた一人。ヒトラーが自殺した翌日(1945年5月1日)に、ヒトラーの後を追うように自殺した。

 ゲッベルスの秘書は5人いたそうだ。その一人がブルンヒルデ・ポムゼル(1911‐2017)。そのポムゼルが103歳の時にインタビューに答えた。それが本作。自身の生い立ちからゲッベルスの秘書になるまでの経緯、ゲッベルスの印象、ナチス体制下で何を考え、また考えなかったか、その他ナチスの時代を生きた想い出が語られる。

 写真(↑)で見るポムゼルは、弱々しい老人に見えるかもしれないが、映画で見るポムゼルは、言葉が明瞭で淀みなく、とても103歳とは思えない。嘘やごまかしは、たぶん言っていないだろうと感じられる。

 プログラムに1枚だけ若いころの写真が載っている。黒っぽいスーツを着て、眼鏡をかけ、微笑を浮かべている。知的で、聡明で、有能そうに見える。仕事で一目置かれるタイプかもしれない。だからこそゲッベルスの秘書に抜擢されたのだろう。

 ついでに言うと、戦後はドイツ公共放送連盟で働き、編成局長の秘書を務めたそうだ。根っからの秘書タイプ、それも有能な秘書だったのだろう。そのような人物がナチス時代をどう生きたか。自ら「政治には無関心」と言い、「物事を深く考えない」性格だという彼女が、有能さゆえにナチス体制を支えた。当時そういう人々が無数にいただろう、その一人だったと、今では見える。

 最近わたしは「集団としての悪」ということを考えるようになった。一人ひとりは凡庸だが(断るまでもないが、「凡庸」という言葉はハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」の引用だ)、それらの人々が職務に忠実で、それなりの能力を発揮するとき、集団として悪を出現させてしまう事象だ。

 一人ひとりは「悪」に無自覚なので、悪が崩壊したときでも、自分に罪があるとは思わない。自分に罪があるなら、みんなもそうだ、と。アイヒマンがそうだったように、ポムゼルも然り。日本の場合も同様の人々は沢山いただろう。無自覚ゆえに、繰り返される可能性がある。今の日本はかなり危ない。

 本作はオーストリアの映画プロダクションの制作だが、自国では「負の歴史をあえて映画で振り返る必要はない」という批判的な評価が目立ったそうだ。もし同種の映画が日本で制作されたら、やはり「反日」と攻撃されるだろう。
(2018.7.10.岩波ホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白井聡「国体論 菊と星条旗」

2018年07月10日 | 身辺雑記
 森友・加計問題を巡って国会、中央省庁その他で起きていることと、その一方で底堅い動きを続ける内閣支持率とをどう考えたらよいのか、その解明の糸口がつかめればと思って、白井聡(しらい さとし)の「国体論 菊と星条旗」(集英社新書)を読んでみた。

 本書の骨子は、明治維新(1868年)から現在までの日本の近現代史を、明治維新から太平洋戦争の敗戦(1945年)までの前半部分と、敗戦から現在までの後半部分とに分け、前半部分を、天皇を頂点とする「国体」の形成期、安定期、崩壊期の3段階で把握し、後半部分も、再編された「国体」の同様の3段階で把握することにある。

 わたしなどは、日本の近現代史というと、明治、大正、昭和、平成という元号で捉えがちだが、それよりも、日本の敗戦という大きな区切りで分け、その前と後とで捉えることは、新鮮で、また説得力がある。

 かつ本書で特徴的な点は、前半部分で辿った「国体」の形成、安定そして崩壊の過程が、後半部分でも、「国体」が再編された上で、繰り返されているという指摘だ。

 では、「国体」の再編とは何か。いうまでもなく、天皇制は戦後も維持されたが、戦後は天皇を上回る位置にアメリカがいる、という形での再編だった、というのが本書の見方だ。具体的には日本国憲法と合わせて日米安保条約が存在し、実質的には日米安保条約のほうに実効性があるという状況を生んだ。

 そして今、わたしたちは再編された「国体」の形成期と安定期を過ぎ、崩壊期に入っている、と著者はいう。明治維新から敗戦までの前半部分は77年続いたが、敗戦から現在までの後半部分もすでに73年たち、崩壊がどのような形で訪れるか、それは予測できないにしても、崩壊は近づいている、と。

 以上が本書のフレームワークだ。それ自体ひじょうに興味深いが、そのフレームワークに沿って解釈されるディテールが、また興味深い。たとえば、今上天皇の退位の「お言葉」の意味は何だったか。それに対する安倍首相の対応はどうだったか。その一方で、トランプ大統領とのゴルフ外交や、その近親者の歓待は何を意味するか、等々。

 で、冒頭の「内閣支持率の底堅い動きはなぜか」だが、それが崩壊期の現象の一つだと考えると、分からないでもない。しかもそれが戦前~戦中期の「最も内省の稀薄な意志と衆愚の盲動」(坂口安吾の代表作「白痴」より)の繰り返しだとしたら、これほど恐ろしいものはない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広上淳一/日本フィル

2018年07月07日 | 音楽
 尾高惇忠(1944‐)は広上淳一の師でもあるそうだ。広上淳一が高校生の頃、音楽をやりたくて、尾高惇忠に作曲とピアノを師事した。「作曲はまったく才能がなかった」とは本人の弁。尾高が「ピアノはユニークだったよ」といえば、広上は「でも、二度は聴きたくなかったでしょう」とまぜっかえす。以上はプレトークでのやり取り。

 その尾高の「交響曲《時の彼方へ》」を真ん中に据えて、前後をバッハの名曲で挟んだプログラム。2016年3月にも広上は尾高の「ピアノ協奏曲」(日本フィル・シリーズ第41作としての委嘱作品)を真ん中に据えて、前後を「未完成」と「運命」で挟んだプログラムを組んだ。

 今回の「交響曲《時の彼方へ》」は仙台フィルの委嘱作品。2011年9月に実弟の尾高忠明の指揮で初演された。時期が時期だけに、東日本大震災の追悼の曲かと思われがちだが、本人執筆のプログラム・ノートによれば、「2月にはスケッチも終わっており、あの3月11日はオーケストレーションを進めていた時期」とのこと。

 だが、どうしても、東日本大震災と関連付けて聴いてしまうのも事実。そんな運命を担わされた曲かもしれない。もちろん聴き手の側の勝手な思い入れだが。

 3楽章構成の堂々たる交響曲。起伏に富み、しかも自然な流れがある。仕上げのよさは尾高惇忠ならではのもの。じつはわたしはこの曲を2012年6月にジェームズ・マクミラン指揮のN響で聴いているのだが、そのときの印象は薄い。今回の演奏のほうがこの曲を的確に捉えていたのではないか。

 1曲目はバッハの「管弦楽組曲第3番」。なんと、16型の大編成での演奏。プレトークで広上が「フルトヴェングラーもメンゲルベルクもカラヤンもこうやっていた」といっていた。だが、おもしろいもので、演奏はやはり時代を反映するもののようだ。とくにリズム感でそれを感じた。

 以上がプログラム前半で、ここまでは皇后陛下が鑑賞された。皇后陛下のご入場とご退場の際には大きな拍手が起った。わたしも立ち上がって拍手を送った。

 プログラム後半はバッハの「マニフィカト」。合唱は東京音楽大学。オーケストラと合唱はよかったのだが、問題は独唱にあった。ベテランの吉田浩之を除いて、あとの人たちは力不足。とくに2人のソプラノはコチコチになり(1人は声がきれいだったが)、学内コンサートのような雰囲気だった。
(2018.7.6.サントリーホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「紫苑物語」のオペラ化

2018年07月03日 | 読書
 石川淳の「紫苑物語」を読んだのは、2019年2月に新国立劇場で初演される西村朗の新作オペラの原作だからだが、さて、それを読んでどうだったか。

 興味の的は、西村朗は新作オペラの原作に、なぜ本作を選んだか、という点にあったが、その点についてはよくわからなかった、というのが正直なところだ。本作は石川淳の代表作の一つで、石川淳は大作家の一人だが、だからといって、それだけでは新作オペラの原作に選ぶ決め手にはならないだろう。

 では、西村朗はかねがね本作が好きだったのか。それもわからない。もしそうだとしたら、本作のどこが好きなのか。そういった点は、これから多くの情報が発信されるかもしれないが。

 本作はオペラ向きの作品だろうか。本作を読んで、まず感じることは、ワーグナーの「パルジファル」との類似点だ。「紫苑物語」に出てくる岩山の向こうの桃源郷は、「パルジファル」のモンサルバートを連想させる。かつては桃源郷の住民だったが、今は訳あって俗界にいる藤内は、クリングゾルそのもの。岩山の麓から頂上に至る道は「パルジファル」第1幕の場面転換の音楽。忠頼が放った矢を弓麻呂が手でつかむ場面は「パルジファル」第2幕とそっくり。

 だが、プロットは違う。一番の違いは、パルジファル=善に対して、忠頼=悪である点だ。忠頼は魔神となって仏に矢を射る。そのとき忠頼は谷底に落ちるが、忠頼の霊だろうか、悪鬼はその後も崖の上に残る。

 結末を引用すると、「月あきらかな夜、空には光がみち、谷は闇にとざされるころ」、崖には声が聞こえる。その「声は大きく、はてしなくひろがって行き、」ついには「岩山を越えてかなたの里にまでとどろきわたった」。「ひとは鬼の歌がきこえるといった」。

 では、西村朗は「鬼の歌」を書きたかったのだろうか。わたしは、そうだと思いたい。西村朗特有のヘテロフォニーの音楽が、そこでごうごうと鳴ってほしい。新国立劇場の空間を揺るがしてほしい。それは特別な音楽体験になるだろう。

 一方、悪役が主人公という点でも、新作オペラはユニークなものになりそうだ。具体的には佐々木幹郎の台本を俟たなければならないが、それがどんな切り口であれ、悪を描くオペラになるのは必定だろう。悪のオペラというと、「ポッペアの戴冠」、「ドン・ジョバンニ」、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などが思い浮かぶが、悪の描き方は三者三様だ。さて、新作オペラはどうなるか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石川淳「紫苑物語」

2018年07月01日 | 読書
 石川淳の「紫苑物語」を読んだ。一読してまず気が付くことは、多数の二項対立が絡み合って物語が進む点だ。表題に取られた紫苑(わすれな草)と萱草(わすれ草)、歌と弓、此の世と桃源郷、忠頼(鬼神)と平太(仏)、うつろ姫(淫蕩)と千草(清純)、子狐の化身と老いた狼の憑き物、という具合に。

 以上の例示は、思いつくままに、端的なものを挙げたが、他にも類例があるのはもちろんのこと、描写のディテールにも二項対立をなす例が散見され、それらの二項対立の連鎖が物語を進めるエネルギーとなっている。

 さらに、それだけではなく、二項対立の連鎖によって、次第に主題が研ぎ澄まされ、鮮明になり、先鋭化する。二項対立の連鎖は、その目的のもとで、意識的に選択された手法だろう。

 では、本作の主題とは何か。それは、一言でいえば、鬼だ。いつとは知れぬ古代の、都から遠く離れた僻地で、主人公の忠頼は、さまざまな有為転変の末、自ら鬼神になろうとする。鬼神になる道をつかみ取ろうとする。歌を捨て(文芸を捨て)、弓を捨て(武術を捨て)、仏と対峙する鬼神となることが、自らの道だ、と。

 生のエネルギーが急進化して、自分でも、それがどこに向かっているか、わからないまま、闇の中を突き進み、その究極のところで鬼神という概念に突き当たり、そして、そこに自らの道を見出すという、善悪を超えたドラマが本作だといっていい。そのような生のエネルギーの運動を、忠頼という人物で造形する試みが本作であり、その意味では本作は実験作だろう。

 わたしは本作を講談社文芸文庫で読んだが、そこには他に「八幡縁起」と「修羅」が収められている。「紫苑物語」との関連でいうと、応仁の乱を時代背景とする「修羅」の登場人物の一人で、被差別を率いる胡摩は、忠頼で造形された生のエネルギーの応用例といえる。

 加えて、胡摩がジャンヌ・ダルクを想わせることから、ジャンヌ・ダルクに触れようとしながら、ついに触れ得なかった「普賢」と本作はつながり、さらには「焼跡のイエス」に登場する戦争孤児にも、その不分明の萌芽が見られるのではないかと思う。

 なお、補足すると、「紫苑物語」で見られる二項対立の手法は、深沢七郎の「楢山節考」を思い出させる。主題はまったく異なるが、二項対立による主題の鮮明化という点では似ている。偶然だろうが、両作はともに1956年(昭和31年)に「中央公論」誌に発表された。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする