Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

財務省職員の遺書と手記を読んで(2)

2020年03月28日 | 身辺雑記
 自死した財務省職員・赤木俊夫氏の手記と遺書への6人の方々のコメントが、今週の週刊文春に載っている。それらのコメントから、人それぞれの温度差が窺える。取材に答えた各人の発言がどの程度記事になったのか、そしてそれは正確に切り取られたものか――そういったことはわからないが、ともかく記事になったコメントは、各人のスタンスをある程度浮き彫りにする。

 一番おもしろかったのは、衆院議員の石破茂氏のコメントだ。まず印象的なことは、筋が通っていること。どんなときにも筋が通ったことを言うのは(今の政界では)貴重な資質だと思う。改憲論者である石破氏は、わたしとは意見を異にするが、それでも石破氏は自分の意見を正々堂々と述べる点で信頼できる。

 石破氏は、3月23日の参院予算委員会で安倍首相と麻生財務大臣が「再調査はしない」と答弁したことについて、こう言っている。「(引用者注:赤木氏の手記には財務省の報告書にはなかった点が含まれているが)にもかかわらず「再調査はしない」としてしまえば、「手記には価値がない」と言っているように受け止められても仕方ない。こうした態度が、亡くなった職員の奥さまを始めとするご遺族にどう思われるのか。安倍首相や麻生大臣には、もう少し、部下の死に寄り添うお気持ちを示していただければと思います。」。このような心の機微にふれる部分が、安倍首相や麻生大臣の答弁には欠けていた。

 石破氏は、「総理から改ざんについて指示があったとは考えられません。では佐川氏はどんな理由で改ざんを指示したのか、その胸の裡は、亡くなった職員のかたも知り得なかったでしょうが、佐川氏は未だにその説明をしないままです。」と言っている。たしかに首相は、指示はしていないだろうが、だれがどう動くか(=財務省に圧力をかける)はわかっていたはずだ。石破氏も、だれがどう動いたか、わかっているのだろう。

 元東京地検特捜部検事で弁護士の郷原信郎氏はこう言っている。「おそらく佐川さんは、直接ここをこう改ざんしろと指示したり、自ら手を下したりはしていません。原則論を唱えただけ。(引用者注:財務省の)調査にもそう弁解したのでしょう。原則論を示して、実行行為は部下におしつける。」と。役人の世界を少しでも知っている者なら、想像に難くない事柄だ。

 ひと味違う観点からは、英「エコノミスト」誌の東京特派員、デイビッド・マクニール氏がこう言っている。「「忖度」という言葉に代表されるように、日本語には、言葉によらないコミュニケーションが存在します。同時に、社会の摩擦を和らげるため、事実を明らかにしないという手法を取るのも日本人の特徴です。」と。外から見た日本人の特性が鮮明に言い表されている。
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財務省職員の遺書と手記を読んで

2020年03月22日 | 身辺雑記
 自死した財務省職員・赤木俊夫氏の遺書と手記が載った週刊文春を買ってきた。ささやかながら、供養のつもりだった。一読して、言葉もなかった。人が死を前にして残した言葉は重い。新たな材料があったのかどうか、今までの国会説明と食い違う点があったのかどうか、それはわたしには判断がつかないが、これらの遺書と手記の重みを受け止めることは、それを読んだ一人ひとりに課せられた宿題だと思った。

 記事がよく書けているので、赤木氏の人となりがわかる。一言でいうと、きちんと仕事をする実直なノンキャリアの人だろう。いうまでもないが、官僚組織はこのような人が実務を支え、そこにキャリアの人が来ては去っていく。

 赤木氏は2018年3月7日に縊死した。享年54歳だった。定年まであと数年のベテラン職員だった。直属の上司は赤木氏より年下だったが、その上司を「尊敬していて本当に好きでした。」(未亡人の話)というから、赤木氏の人柄がしのばれる。

 なぜ自死したかといえば、それは文書の改ざんをやらされたからだが、もう一歩踏み込んでいうと、過労によるのではなく、「虚偽」(手記の中の言葉)を強いられたことにより、精神のバランスを崩したからのようだ。手記の一部を引用すると――

 「平成30年(引用者注:2018年)1月28日から始まった通常国会では、太田(現)理財局長が、前任の佐川理財局長の答弁を踏襲することに終始し、国民の誰もが納得できないような詭弁を通り越した虚偽答弁が続けられているのです。(引用者注:アンダーラインは原文のまま) 現在、近畿財務局内で本件事案に携わる職員の誰もが虚偽答弁を承知し、違和感を持ち続けています。」。

 その少し先にはこうある。「本省からの出向組の小西次長は、「元の調書が書き過ぎているんだよ。」と調書の修正を悪いこととも思わず、本省杉田補佐の指示に従い、あっけらかんと修正作業を行い、差し替えを行ったのです。」と。リアルな描写だ。

 2017年7月の人事異動では、同じ部署の他の職員は全員異動したのに、赤木氏は残された。ショックだったようだ。最後に責任を負わされるのは自分だと思った。それはたぶん当たっていただろう。

 走り書きの遺書が残されている。「佐川理財局長(パワハラ官僚)の強硬な国会対応がこれほど社会問題を招き、それにNО.を誰れもいわない理財局の体質はコンプライアンスなど全くない」「最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ、手がふるえる、(引用者注:アンダーラインは原文のまま) 恐い 命 大切な命 終止府(引用者注:「府」は原文のまま)」。この遺書は縊死の直前に書かれたようだ。
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ハンス・ツェンダー編曲のシューベルト「冬の旅」

2020年03月19日 | 音楽
 日経新聞の毎週日曜日のコラム「名作コンシェルジュ」は、数人の書き手が交代で執筆しているが、3月8日の同コラムは音楽評論家の鈴木淳史氏の担当で、ハンス・ツェンダー編曲のシューベルト「冬の旅」が取り上げられた。

 「冬の旅」は24曲からなる連作歌曲集だが、その第1曲「おやすみ」のツェンダー編曲について、鈴木淳史氏はこう書いている、「第1曲目「おやすみ」の冒頭からして、呆気にとられる。原曲のピアノの序奏部分が効果音的に繰り返され、なかなか歌が始まらない。最初は弦楽合奏を伴ってノーマルに歌われるが、途中でマーラー風行進曲に転じると、歌手も叫び、旋律から離れて演説風にもなる。大人しそうな青年のなかに、憤怒といった激情も潜んでいることをはっきりと示すのだ。それがあってこそ、その直後にもとの旋律に戻ってからの音楽の比類なき美しさに震える。」。

 これを読めば、そのCDを聴きたくなる! ナクソス・ミュージックライブラリーを覗くと、2種類のCDが入っていた。一つはクリストフ・プレガルディエンのテノール独唱、シルヴァン・カンブルラン指揮クラングフォルム・ウィーンの演奏。鈴木淳史氏のいう「マーラー風行進曲に転じる」部分では、ぎょっとして、あたりを憚った。なにか奇妙なものを聴いているのではないか。それを見とがめられるのではないかという禁断の味がした。

 やがてそれにも慣れると、この編曲は一曲一曲の性格を鮮やかに捉えているのではないかと思うようになった。最後の「辻音楽師」ではエコーをきかせたサクソフォン(現代の辻音楽師?)の哀愁をおびた音色が心にしみた。

 もう一つのCDはクリストフの息子のユリアン・プレガルディエンのテノール独唱、ロベルト・ライマー指揮ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルの演奏。若い声がこの曲にふさわしく、演劇的なセンスもある。オーケストラの演奏がカラフルだ。個々の曲のキャラが立ち、今を生きる若者の姿が生々しく浮き上がる。

 クリストフのCDにEine komponierte interpretationという語句がある(直訳すると「作曲された解釈」)。音楽用語として適当な訳語があるのかどうか、ともかく過去の作品の解釈=作曲(いったん解体して再構築する)といったことではないかと思う。ツェンダーには他にもシューマンのピアノ曲「幻想曲」のオーケストラへの編曲があり、カンブルラン指揮バーデン=バーデン・フライブルク南西ドイツ放送響のCDはわたしの愛聴盤だ。またベートーヴェンのピアノ曲「ディアベリ変奏曲」の室内アンサンブルへの編曲があり、レポレッロのアリアのところでは騎士長のテーマがかぶさって笑いを誘う。
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プリーモ・レーヴィ「休戦」

2020年03月15日 | 読書
 先日プリーモ・レーヴィの「溺れるものと救われるもの」を再読したとき、12年前に初めて読んだときよりも細部がよく頭に入ってくる感覚があったので、引き続き「休戦」をもう一度読みたくなった。「休戦」も12年前に読んだのだが、そのときは「これが人間か アウシュヴィッツは終わらない」(以下「アウシュヴィッツ‥」)を読んだ直後だったので、著者のアウシュヴィッツ体験に打ちのめされて、それとは異質の一種の明るさをもつ「休戦」の世界に入っていけなかった。

 「休戦」はアウシュヴィッツ強制収容所が1945年1月にソ連軍によって解放された後、著者が紆余曲折を経てイタリアのトリノに帰還するまでの経験を書いたものだ。その意味では「アウシュヴィッツ‥」の後日談になるが、死の恐怖がなくなった(=ナチス・ドイツがいなくなった)という決定的な要因があり、「アウシュヴィッツ‥」の緊迫した世界とは違って、どこか明るくのんびりした作品になった。

 その帰還は果てしなく漂流するような旅になるのだが、その中で著者が出会ったさまざまな人物、焦燥、倦怠、冒険、その他のさまざまな出来事が描かれる。著者はその帰還をギリシャ神話のオデュッセウスの帰還になぞらえている節があるが、読み手もその漂流の感覚をつかみ、それに身を委ねれば、本書は波のように心地よいリズムを打ちながら、波間に人間への洞察を垣間見せる。

 本書の基本的な性格はそのようなもので、わたしは今回再読して、それを楽しむことができた。以下ではわたしが今回とくに注目した点を二つあげたい。一つは著者をふくむ総勢1400人のイタリア人を祖国に送還したソ連軍のことだ。ソ連軍は著者たちに一日一キロのパンを支給し、毎日「カーシャ」(ラードと粟といんげん豆と肉と香料の固まり)を支給し、週に3~4回は魚も支給した。また「イデオロギー教育をしようというばかげた野望は持たなかった」。

 ソ連軍のその厚遇は、戦後シベリアに抑留された日本人への冷遇、酷使そして思想教育とはなんという違いだろう。その違いはいったいなぜなのか、という点。

 もう一つは帰還の途中で立ち寄ったミュンヘンのことだ。「彼ら(引用者注:ドイツ人たち)は廃墟の中にこもっていたが、それはあたかも責任回避の要塞に意図的に閉じこもっているかのようだった。」。著者はこの部分に次のような注を付けている。「ドイツ人が少し前に被った苦痛と服喪は、彼らの個人的、集団的過ちを意識するのを不可能にし、「責任回避的」にした。」と。

 ドイツ人のこの描写は、敗戦直後の日本人の姿と二重写しにならないだろうか。
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クララ・ハスキルのCD

2020年03月11日 | 音楽
 3月12日の読響の定期が中止になり、ヒンデミットの「主題と変奏『4つの気質』」が聴けなくなったので、CDで聴いてみようと思い、ナクソス・ミュージックライブラリーを覗くと、クララ・ハスキルのピアノ独奏、作曲者自身の指揮でバイエルン放送交響楽団とフランス国立管弦楽団の2種類のCDがあった――ということは3月7日のブログで書いた。

 それは2つの点で意外だった。一つはハスキルが同時代音楽のヒンデミットを演奏していることだ。ハスキルというとモーツァルトを中心にベートーヴェン、シューマンそしてスカルラッティ、バッハ、シューベルトなどが思い浮かび、同時代音楽のイメージはなかった。そのヒンデミットの演奏は、曲をしっかりつかんで揺らぎなく、ニュアンス豊かで、いつものハスキルがそこにいた。

 ハスキルは他にも同時代音楽を演奏していたのだろうか。HMVの「クララ・ハスキル・コレクション(23CD)」の商品説明を見ると、1945年11月にスイスのヴヴェイでニキタ・マガロフとバルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」を演奏したとあるので、それなりに演奏していたようだが、録音は残っていない。

 意外だったもう一つの点は、フランス国立管とのCDに併録されているモーツァルトのピアノ協奏曲第20番の演奏(オーケストラはヒンデミット指揮フランス国立管)が、耳に馴染んだマルケヴィチ指揮ラムルー管弦楽団との演奏とまるで違うことだ。

 マルケヴィチの指揮はアクセントが強く、緊張感がみなぎっているが、ヒンデミットの指揮は穏やかで古き良き時代のヨーロッパを思わせる。ハスキルの解釈は基本的には変わらないが、オーケストラの演奏が真逆なので、演奏全体の印象はかなり異なる。端的にいって、ヒンデミットとの演奏では、ハスキルは充足感に満ちている。ハスキルの本来の姿はヒンデミットとの演奏の方にあるのではないか――そんな疑問を持った。

 他のCDも聴いてみた。指揮者は、アンセルメ、クレンペラー、ミュンシュ、クリュイタンス、カラヤン等々、錚々たる顔ぶれだ。指揮者の聴き比べという意味でもおもしろかったが、ハスキルがもっとも安心して演奏しているのはアンセルメのようだった。

 アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団とのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の演奏(1960年8月31日、モントルーでのライブ録音)は、オーケストラとピアノがしっとりと噛み合い、聴いているこちらまで気持ちが落ち着く。同曲のマルケヴィチ指揮ラムルー管との演奏(1959年12月、スタジオ録音)とはだいぶ違う。
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幻の蘇演:ヒンデミット「主題と変奏『4つの気質』」

2020年03月07日 | 音楽
 演奏会が軒並み中止になったが、その一つに3月12日の読響の定期もあった。メインプロのリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」もさることながら、前プロのヒンデミットの「主題と変奏『4つの気質』」を楽しみにしていた。未知の曲だったので、どんな曲かと‥。

 定期が中止になったので、CDを聴いてみた。ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗くと、何種類ものCDが収録されていた。その中にクララ・ハスキルのピアノ独奏(この曲はピアノと弦楽合奏のための曲だ)とヒンデミットの指揮で、バイエルン放送交響楽団とフランス国立管弦楽団の2種類のCDがあった。

 ハスキルのピアノ独奏!と目をみはった。ハスキルはわたしのもっとも好きなピアニストなのだが、それは別として、モーツァルトを中心にベートーヴェンやシューマンなどをレパートリーにしていたハスキルが、同時代音楽のヒンデミットを演奏していたとは意外だった。

 さっそく聴いてみた。バイエルン放送響との演奏は1955年7月1日のミュンヘンでのライブ録音、フランス国立管との演奏は1957年9月22日のモントルーでのライブ録音。ハスキルの解釈は変わらないが、オーケストラの個性の違いによるのだろうか、前者の演奏には快い緊張感があり、後者の演奏にはリラックスした闊達さがあるように感じた。

 この曲は主題と4つの変奏からなるが、その変奏が各々、憂鬱質、多血質、粘液質、胆汁質と名付けられている。演奏時間約30分。堂々として変化に富む曲だ。作曲は1940年、初演は1943年(ルドルフ・アム・バッハのピアノ独奏、ヘルマン・シェルヘン指揮ヴィンタートゥール管)で、1946年にはジョージ・バランシンの振り付けでバレエとしても上演された(ニューヨーク・シティ・バレエ)。

 林光は「現代作曲家探訪記」(ヤマハミュージックメディア刊、2013年)でこの曲に言及している。戦後間もない頃、「アメリカ占領軍のラジオ局WVTR」(その後のFEN)から流れてきた音楽の中に、当時の現代音楽がかなり含まれており、その中にこの曲もあったそうだ。「たとえば『ウェーバーの主題による交響的変容』(1943)、そして『ピアノとオーケストラ(それとも弦楽合奏?)のための4つの気質Temperaments』。またかと思うくらい繰り返して演奏されるそれらの曲は、(以下略)」とある。

 「ウェーバーの主題による‥」は今でも人気作だが、「4つの気質」は忘れられている。そんな「4つの気質」が読響の定期で演奏されるはずだったが、残念ながら幻の蘇演に終わった。
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コルネリウス・マイスターのCD

2020年03月03日 | 音楽
 演奏会が軒並み中止になったので、家でCDを聴いている。今聴いているのは2月28日の読響の定期(定期の前日に中止が決まるという慌ただしさだった)を振る予定だったコルネリウス・マイスターのCDだ。ナクソス・ミュージック・ライブラリーで聴いた範囲で感想を。

 一番感銘を受けたのはツェムリンスキーの交響詩「人魚姫」だ。オーケストラはウィーン放送交響楽団、2010年5月28日のウィーン・コンツェルトハウスでのライブ録音。マイスターが同響の首席指揮者に就任する直前の演奏だ(首席指揮者就任は2010/11年のシーズンから)。その時期だからこそマイスターもオーケストラも気合が入っていたのかもしれない。と、多少後付けの気味はあるが、そういいたくなるほど緊張感に富んだ演奏だ。ことに冒頭の深々とした響きは印象的だ。マイスターは1980年2月23日生まれなので(ドイツのハノーファー生まれ)、この演奏の時点で30歳。30歳の「若者」という演奏ではなく、もっと堂々とした実力派の演奏だ。

 その後のキャリアを追うと、マイスターは同響の首席指揮者を2017/18年のシーズンまで続けた後、2018/19年のシーズンからシュツットガルト歌劇場の音楽監督に就任している。同歌劇場のホームページを見ると、マイスターの今シーズンの演目は「トリスタンとイゾルデ」など6プログラムで(そのうち一つはダブルビル)、その他にも同歌劇場のコンサート・シリーズを多数振っている。

 その「トリスタンとイゾルデ」の第1幕への前奏曲と愛の死がナクソスに入っている(オーケストラはウィーン放送響、2013年3月と10月のスタジオ録音)。第1幕への前奏曲での弦の切迫したテーマ(トリスタンを表す)と木管の虚ろな応答(イゾルデを表す)、その後両者が絡み合って燃え上がる展開――そのドラマトゥルギーは息をのむようだ。愛の死のほうは、残念ながらソプラノのアンネ・シュヴァネヴィルムスの歌唱が硬いのだが、オーケストラはしなるような演奏だ。

 マイスターは2017年4月から読響の首席客演指揮者に就任したが、その実力を発揮する機会には恵まれなかったように思う。わたしが聴いたかぎりでは、2018年6月19日の定期(リヒャルト・シュトラウス・プロ)でようやくマイスターと読響の息が合ってきたように感じた。そこで今回の定期に期待したが、残念ながら中止になり、マイスターは3月末日で任期終了になる。

 もう一つ、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」のCDをあげておこう(ウィーン放送交響楽団、2011年6月のスタジオ録音)。第2楽章「対の遊び」が、1番奏者だけではなく2番奏者の動きも克明に聴とれ、またハーモニーをつけるパートも鮮明に浮き上がる演奏だ。
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