Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

フランス音楽回顧展Ⅰ

2018年08月28日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバル「ザ・プロデューサー・シリーズ」の今年のプロデューサー、野平一郎の企画する《フランス音楽回顧展Ⅰ》。副題に「昇華/飽和/逸脱~IRCAMとその後~」とある。「IRCAMとその後」という言葉がこのコンサートの性格を言い表している。

 まず曲目を列挙しよう。トリスタン・ミュライユ(1847‐)の2台のピアノと2群の打楽器のための「トラヴェル・ノーツ」(2015)、ラファエル・センド(1975‐)のチェロとピアノのための「フュリア」(2009/10)、フィリップ・マヌリ(1952‐)の2台のピアノと電子音響のための「時間、使用法」(2013‐14)。

 わたしはミュライユとマヌリの名前は知っていたが、当日の曲目は未聴。センドは名前すら知らなかった。

 全体を通して、2013年の東京春祭のコンサート「IRCAM×東京春祭」を想い出した。そのコンサートでわたしはブーレーズの「二重の影の対話」(クロード・ドラングルが吹くサクソフォン版で演奏された)に魅了された。

 わたしはそのとき、IRCAM(フランス国立音響音楽研究所)ではこのような作曲・演奏活動が行われているのかと、その一端に触れる思いがした。今回の《フランス音楽回顧展Ⅰ》はその続きのように感じた。思えば、東京春祭のコンサートでも野平一郎が関与していたのかもしれない(野平作品も演奏された)。そうであれば、一貫したコンセプトが感じられてもおかしくない。

 1曲目のミュライユの「トラヴェル・ノーツ」は、「ロンドのような構造で」(ミュライユ自身のプログラム・ノート)書かれ、そのルフランは「同じ速さで進むところはほとんどなく、加速したり減速したりが大体である。」(同)。その滑らかな演奏の難しさを感じた。

 2曲目のセンドの「フュリア」は、NMLに音源があったので、事前に聴いた。ところが当日はPAが使われていたので(その記憶はなかった)驚いた。帰宅後、チェロの山澤慧のツイッターを見たら、前日急遽PAを入れることになったらしい。PAの使用をためらわないこともIRCAMらしい気がする。

 3曲目のマヌリの「時間、使用法」は、NMLで聴いたヴィオラと電子音響のための「パルティータⅠ」の繊細な美しさに惹かれたので、じつは大変期待していたのだが、なぜか感銘を受けなかった。
(2018.8.27.サントリーホール小ホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴィトマンの室内楽

2018年08月26日 | 音楽
 サントリーホール国際作曲委嘱シリーズの今年のテーマ作曲家、イェルク・ヴィトマン(1973‐)の室内楽コンサート。曲目は6曲。その寸描を。

 1曲目はクラリネットとピアノのための「ミューズの涙」。オリエンタルな音調が漂う曲。コンサート終了後のヴィトマンと細川俊夫のアフタートークによれば、本作を書いていた頃(ヴィトマン19歳の頃)、ヴィトマンはボスニア紛争に心を痛めていたという。表題にはそれが反映されている。

 クラリネット独奏はヴィトマン。それが見事なのはいうまでもないが、ピアノ伴奏のキハラ良尚(よしなお)の感性にも注目した。東京藝大付属高校のピアノ科を卒業後、グラーツ音大と同大学院で指揮を学び、さらにベルリン芸術大学大学院でも指揮を学んだ。今後どういう活動をする人か。

 2曲目はホルン独奏のための「エア」。ホルンの朝顔をピアノ内部に向けて吹き、その息でピアノ線を震わせる。遥か遠くの微かな谺のような音響が生まれる。その玄妙な美しさは生演奏でないと味わえないかもしれない。今振り返ると、本作は当夜の中の白眉だった。

 演奏は福川伸陽。わたしはかれの演奏を日本フィル入団当時から聴いているが、当時からその才能は頭抜けていた。今ではほんとうに成長したと思う。アフタートークで細川が「(本作はミュンヘン国際コンクールの課題曲として作曲されたが)もし福川さんが出場していたら、優勝したのではないか」と絶賛していた。

 3曲目はクラリネット独奏のための「3つの影の踊り」。クラリネット独奏はいうまでもなくヴィトマン。エンターテイメント性も備えた超絶技巧の曲。

 4曲目は弦楽四重奏のための「狩の四重奏曲」。あれはいつだったか、初めてこの曲をCDで聴いたとき、絶叫が混じる荒々しさに、腰が抜けるほどびっくりした。でも、生で聴くと(演奏を見ると)、これはエンターテイメントだと分かる。最後に仕留められたチェロは、狩で追われた動物か、それとも仲間に裏切られた人か、と。

 最初に寸描と書いたが、長くなってしまった。5曲目は独奏ヴァイオリンのための「エチュード」第1~3曲。6曲目はオーボエ、A管クラリネット、F管ホルン、ファゴットとピアノのための「五重奏曲」。演奏者名は省略しよう。一言、「五重奏曲」を聴いて、ヴィトマンは演奏者を(そして聴衆も)活気づかせる作曲家だと思った。
(2018.8.25.サントリーホール小ホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野平一郎の新作オペラ「亡命」

2018年08月24日 | 音楽
 サントリーホールのサマーフェスティバルは、数年前にプロデューサー・シリーズを導入してから、一段とおもしろくなった。企画者の「顔が見える」といったらよいか。同シリーズと細川俊夫監修の国際作曲委嘱シリーズと、その2本立てがサマーフェスティバルを充実させている。

 今年のプロデューサーは野平一郎。ブーレーズの「プリ・スロン・プリ」を中心とするフランス音楽の演奏会をプロデュースするとともに、自身の新作オペラ「亡命」を発表した。台本は野平多美、英訳はロナルド・カヴァイエ。5人の声楽家と6人の器楽奏者のための室内オペラで、演奏時間は2時間余り。

 時は1950年代、所はハンガリー。西側に亡命する作曲家ベルケシュ・ベーラとその妻ソーニャ、一方、亡命に失敗してハンガリーに止まる作曲家カトナ・ゾルタンとその妻エスターの物語。人物名からはバルトークとコダーイを連想するが、状況設定からはリゲティとクルタークを彷彿させる。

 おもしろそうな題材なのだが、台本が素人っぽいので、期待外れに終わった、といわなければならない。台本の問題は3点あると思う。1点目はテーマが不発だったこと。オペラの幕切れでソーニャとエスターが電話で「私たちのどちらが「亡命」しているのかしら」と会話する場面があり、それがテーマだろうが、そこに至るまでの各々のドラマが描けていないので、その会話が浮いてしまった。

 2点目は、ベーラが西側で成功する過程が、リゲティの成功譚をなぞっているが、その「なぞり方」が表面的で芸がないこと。そして3点目は、筋の進行を「語り」が説明するが、その「説明」が文字通り説明的なこと。

 一方、音楽は成功していた。野平一郎の音楽は器楽的に発想されていると思っていたが、意外にオペラにも親和性がある。ただ、欲をいえば、現在(2017年)の精神科医の診察室のシーンが何度か挿入されるが、その音楽の「色」が、亡命のドラマと異なれば、鮮烈なコントラストがついたと思う。

 演奏は、歌手も器楽奏者も、ひじょうによかった。松平敬、幸田浩子、鈴木准、山下浩司の実力派4人に加え、わたしには初めてだった小野美咲(メゾ・ソプラノ)もよく、とくに英語の「語り」はこの人が一番自然だった。

 器楽奏者6人は(名前は省略するが)ため息が出るほどスリリングな演奏を展開した。
(2018.8.22&23.サントリーホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木田金次郎展

2018年08月21日 | 美術
 有島武郎(1878‐1923)の小説「生れ出づる悩み」は、今年で出版100年を迎える。作者自身である「私」が、漁師で画家志望の青年と出会い、その内面の葛藤を想う小説。青年は「私」の分身であり、内面の葛藤には「私」の悩みが重ねられていることは明らか。その悩みの純粋さが今でも読者を惹きつける。

 青年との出会いは実際の出来事だった。青年の名前は木田金次郎(1893‐1962)。その回顧展が「生れ出づる悩み」出版100年を記念して開催されている。

 チラシ(↑)の説明をすると、左のワイシャツ姿の男が有島武郎、右の和服姿の男が木田金次郎。1922年に有島が岩内(いわない)に住む木田を訪ねたときの写真。有島は翌年、ある女性と心中する。その前年だと思うと胸が詰まる。

 有島の心中は木田を驚愕させた。その事件がきっかけとなって、木田は漁師をやめ、画業に専念する。

 1954年に大事件が起きた。「洞爺丸台風」が岩内を襲い、そのさなかに出火した「岩内大火」で町内の家の8割が焼けた。木田の家も例外ではなかった。木田が描いた1500~1600点の油彩・デッサンも焼失した。そのとき朝日新聞社の論説主幹・笠信太郎(1900‐1967)から「スグセイサクニトリカカレ」と電報が来た。気を取り直した木田は「大火直後の岩内港」(1954)を描いた。

 それ以降の作風は、ガラッと変わった。それまでの、どっしりとして、穏やかで、試行錯誤も見られる作品から、激しい無数の線(木田は「色線」と呼んでいる)が縦横に飛び交い、奔放な、迷いのない作品になった。その作風が究められ、一気に1962年の逝去まで駆け込んだように見える。

 木田の生涯を辿ると、ざっと以上のようになる。冗長な記述になったかもしれないが、わたしの非力な筆で(キーボードで)書きたかったのは、「岩内大火」によって作品のすべてを失った木田が、文字通り過去を捨てて、自分の作風を見出し、それを究める迫力に、わたしは圧倒されたということだ。

 本展の最後のコーナー(「岩内大火」以降の作品群)には、凄まじいエネルギーが渦巻いている。嵐の中に巻き込まれたようだ。その中の一つ「岩内山」(1958)は、山のマッスとしての量感と、清新な気韻とを捉えた作品で、有島武郎が「生れ出づる悩み」の終盤で描写したスケッチの、40年後の結実のように感じられた。
(2018.8.15.府中市美術館)

(※)本展のHP
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巨匠たちのクレパス画展

2018年08月18日 | 美術
 今年の夏は「モネ」とか「ルーヴル美術館」とかのビッグネームを冠した展覧会が開かれている一方で、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」といった趣のユニークな展覧会もいくつか開かれている。「巨匠たちのクレパス画展」もその一つ。

 クレパスという言葉は、クレヨンとパステルを組み合わせた造語。クレパスは、両者の長所を兼ね備えた画材として、1925年(大正14年)に日本で開発された。開発は株式会社サクラクレパス(現社名)。同社によって商品登録されている。

 本展はクレパスで描かれた作品を集めたもの。大家の作品から現代の画家の作品まで150点。まさに百花繚乱の様相を呈する。

 チラシ(↑)に掲載された作品を紹介すると、上段の右は小磯良平(1903‐1988)の「婦人像」。本展の中でも一際目を引く作品だ。左方向から差し込む強い光を捉えている。その表現の方法が(たとえばハイライトの付け方とかアイシャドウの付け方など)、間近で見るとよくわかる。油彩と違って、クレパスだとその痕跡がはっきり残るからだ。

 その下は山下清(1922‐1971)の「花火」。素朴な絵だが、よく見ると手前の男の子と女の子が(花火を見ずに)顔を見合わせているのが微笑ましい。その左は岡本太郎(1911‐1996)の「虫」。虫の爆発(!)だ。間近で見ると、太郎の手の激しい動きが目に見えるようだ。

 その左は猪熊弦一郎(1902‐1993)の「顔」。パステルの上に水彩をかけたり(パステルが水彩をはじいて独特の効果を生む)、またパステルを引っ掻いて白い地色を出したりして、多様な技巧を試みている。その上は熊谷守一(1880‐1977)の「裸婦」。簡素な作品だが、赤い輪郭線が守一そのもの。

 その右は山本鼎(1882‐1946)の「江の浦風景」。山本はクレパスの開発に深くかかわった画家だそうだ。チラシの上段中央に掲載したのは、山本へのオマージュだろう。

 チラシに掲載された作品だけでも、ざっと以上のようになるが、それ以外の作品にもおもしろいものが多い。もっとも印象的だったのは、日本画家の加山又造(1927‐2004)の「薫風」。いかにも加山らしく神経質に折れ曲がった細い線で真鯉と緋鯉を描いている。バックが灰色なのがシックだ。もう一人、名前だけ記すと、瀧本周造(1951‐)という未知の画家に注目した。
(2018.8.14.損保ジャパン日本興亜美術館)

(※)上記の作品の画像(本展のHP)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迷子になった想い出

2018年08月17日 | 身辺雑記
 8月12日に行方不明になった藤本理稀(よしき)ちゃん(2歳)が15日に無事に発見されたニュースに安堵して、わたしも多くの方々と同じように、あれこれ思った。

 まず理稀ちゃんを発見した尾畠春夫さん(78歳)が、「子どもだから上に行くと思った」と語っていることに瞠目した。大人が山中で迷ったら、大概の人は下に行く。わたし自身、山で遭難した経験があるので、よくわかるが、道に迷ったら上に行くのが鉄則だとわかっていても、下に行こうとする。だが、子どもは違うのだろうか。それとも遊びだったからだろうか。

 また場所が周防大島だったことに、一種の感慨があった。当地は、わたしが今読んでいる民俗学者の宮本常一の「忘れられた日本人」の中の「子供をさがす」の場所だからだ。昭和20年代だと思うが、やはり周防大島の集落で、子どもが行方不明になった。そのとき村人たちは、だれが采配を振るうわけでもなく、みんなで手分けして地域の隅々まで合理的に探したという。

 興味深いのは、その集落にはよそから来て住みついた人々もいたが、そういう人々は、子どもの捜索には加わらず、道にたむろして「子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。」ことだ。

 共同体として機能している人々とそうでない人々と、その明暗がくっきり分かれることに、今の社会にも通じる、なんというか、普遍性がないだろうか。人間とは昔も今もなにも変わらず、むしろ今はネット社会なので、あらゆる面が露わになっているという気がする。

 もう一つの感想は、わたし自身の想い出だ。わたしも子どもの頃に迷子になったことがある。わたしの家には風呂がなかったので、近くの銭湯に行っていたが、その日は修理かなにかで休業中だったので、遠くの銭湯に行った。一人で行ったから、たぶん小学生のときだったと思う。ともかく銭湯に入って、外に出たら、道に迷った。

 わたしは自信をもって歩いていたのだが、あたりの家並みに見覚えがなかった。夜だったので、不安になってきた。とうとう広い車道に出た。それがどこだかわからなかった。通りすがりの人に聞くと、家とは反対方向に来ていたようだ。その人は「一人で帰れるか」と聞いてくれたが、「帰れる」と答えた。家に帰る道のりの遠かったこと。やっと着いたら、両親が心配していた。「なにをしていたんだ!」と怒られたかもしれない。でも、道に迷ったとはいわなかった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「いわさきちひろ、絵描きです。」展

2018年08月15日 | 美術
 いわさきちひろ(1918‐1974)の絵は身近にあるので、あまり意識しなくなっている。そのためだろうか、今回の生誕100年回顧展は、逆に惹かれるものがあった。これを機会にその全貌を見てみたい、と。

 わたしは、ちひろの生涯も、松本善明との結婚以外、ほとんど知らなかった。今回の展示で、戦時中に満州に渡ったことや、東京に戻って空襲に遭ったこと、長野県に疎開したこと、戦後に日本共産党に入党したのは戦時中の戦争協力への贖罪でもあったこと等々を知った。

 作品に関しては、1950年代前半の油彩画4点が興味深かった。チラシ(↑)に使われている「ハマヒルガオと少女」もその一つ。可愛らしいだけでなく、画面構成が確かで、しかも後の水彩画を予感させる抒情がある。

 油彩画について付言すると、ちひろはマリー・ローランサンが好きで、その影響を受けているといわれるが、その一方で、ちひろの個性もまた明らかだ。まず褐色が基調であること。褐色はローランサンの色ではない。また顔が丸顔であること。ローランサンの作品は細長い顔が多い。さらに、ローランサンが描く女性は物憂げな表情をしているが、ちひろが描く子どもは意志的な表情をしている。

 その後、ちひろは水彩画に移行する。お馴染みの絵本の世界。その世界の、なんと繊細で、やさしく、抒情的なことか。多くの原画とその習作に囲まれて、わたしはやさしさを取り戻した。そこにいつまでも浸っていたい気持ちになった。

 たとえば「引越しのトラックを見つめる少女」の習作2点と完成した原画を見ると、鉛筆と墨で描かれた習作には、落書きでいっぱいの壁の左側から少女が引越しトラックを見つめ、その反対の右側から(引越してきた)少年が覗いている。パステルで描かれた習作では、少年が消える一方、少女の足元に子犬(少女の飼い犬)がいる。そしてパステルで描かれた原画では、少年も子犬も消え、壁の落書きが強調される。

 同様の習作と原画は他の作品でも展示され、ちひろの創造過程を追体験するような感覚になる。その過程は、ちひろには生みの苦しみだったかもしれないが、気楽な鑑賞者のわたしには、やさしさに満ちた時間になった。

 今年4月に亡くなった高畑勲のインスタレーションも興味深かった。高細密に拡大したちひろの作品2点。小さな原画では気付かなかった点に気付くことができた。
(2018.8.9.東京ステーションギャラリー)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤田嗣治「秋田の行事」

2018年08月12日 | 美術
 藤田嗣治(1886‐1968)は今年没後50年なので、それを記念して東京都美術館で大規模な回顧展が開かれている。というより、むしろ、今年にかぎらず数年おきに、東京をはじめとして全国各地で藤田展が開かれているのが実情だ。藤田の集客力の高さのゆえだろう。

 だが、どんなに大規模な企画展でも、めったにお目にかかれない超大作がある。秋田県立美術館が所蔵する「秋田の行事」という壁画(※)。縦3メートル65センチ、横20メートル50センチという大きさ。藤田の作品には大画面のものが他にもあるが、これほどのものはないと思う。

 本作は1937年(昭和12年)の制作。画面いっぱいに秋田の風俗が描かれている。その前年(1936年)に藤田がパリから連れてきたマドレーヌ・ルクーが急逝し、それを知った秋田の資産家・平野政吉が、マドレーヌ鎮魂のための美術館の建設を申し出る。藤田は多数の自作を譲渡することに加えて、壁画の制作を表明する。

 こうして制作されたのが本作だが、美術館は(着工されたものの)完成しなかった。本作は平野家の米蔵に保管され、1967年(昭和42年)の公開まで30年間の眠りにつく。

 わたしは今回初めて本作を見た。たしかに巨大な作品だが、あまり「大きさ」を感じなかった。画面構成が、堅牢というか、分かりやすいからだろう。大つかみにいうと、中央と左右との3ブロックに分かれている。

 中央には秋田名物の竿燈など、右には祭りやぐらと屋台、左には雪に埋もれた庶民の生活が描かれている。はっきりブロック分けされているので、ディテールを見るとき、なんといったらよいか、現在地を見失わない。また、そのディテールも面白い。たとえば竿燈が倒れて提灯が燃えていたりする。

 中央と左のブロックとの境目に犬が一匹いる。かなり目立つ。秋田犬ではなさそうだが(※※)、なんの犬か。もしかすると平野家の飼い犬かと想像を逞しくする。また右のブロックの屋台の奥に、顔がはっきり描かれている男性と女性がいる。男性は平野政吉か、と。

 だが、気になる点があった。秋田の風俗に対する共感が伝わってこないのだ。物珍しい風俗に対する好奇の目しか感じられない。本作の向かいに北京の相撲取りを描いた「北平の力士」(1935年)が展示されているが、その異国の力士を見る目と同じ目で、本作を描いているように感じられた。
(2018.8.3.秋田県立美術館)

(※)「秋田の行事」の画像(平野政吉美術財団のHP)

(※※)秋田犬のように見えなかった理由は、尾が丸まってなくて、長く伸びているからだが、でも、どうなのだろう。ギャラリートークに参加できたら質問したのだが、その時間がなかった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋田駒ケ岳と乳頭山

2018年08月09日 | 身辺雑記
 今年の夏山は秋田駒ヶ岳(1637m)に行った。去年は月山(1984m)に行ったので、2年続けて東北の山になった。秋田駒ヶ岳も月山も、今まで登ったことがないので選んだが、もう一つの理由は(そしてそれが本音だが)、北アルプスや南アルプスの山小屋の混雑が嫌になったからでもある。そんなことをいうのは、年を取った証しだが。

 7月31日(火)、猛暑の東京を後にして、秋田新幹線で田沢湖へ。そこからバスで乳頭温泉へ。乳頭温泉は今年2月にも訪れたので、これで2度目だ。2月のときは雪に埋もれた温泉地だったが、今回は見違えるような緑の濃さ。宿にザックを置いてブナ林を散歩した。ブヨや蚊の一斉攻撃を受けた。

 8月1日(水)、バスを乗り継いで秋田駒ヶ岳八合目へ。バスで八合目まで上がってしまうので、歩くのは二合分だけ。しかも遊歩道のように整備された道なので、楽なことこの上ない。あいにくガスが濃かったので、展望はまったくきかなかったが、その分涼しくて、天然クーラーの中にいるようだった。途中、風の強い場所があり、地図を開いていたら、風で破れた。

 8月2日(木)、宿から乳頭山(1478m)へ直登。風が通らない登山道なので、じっとり汗をかき、ブヨに悩まされながら登ったが、高層湿原の田代平に出ると、さわやかな風が吹き、高山植物が咲いて、まさに山上の楽園。

 山頂への道から秋田駒ヶ岳が見えた(写真↑)。山頂に着くと、目の前に岩手山(2038m)がそびえ、その横には八幡平(1614m)が広がっていた。乳頭山の標高は丹沢の山々程度なのに、森林限界を超え、展望が雄大だった。

 汗びっしょりになって宿に戻り、温泉で汗を流して、冷たいビールを飲んだ。そのビールの美味しかったこと!

 8月3日(金)、バスで田沢湖に戻り、秋田新幹線で秋田へ。羽越本線に乗り換えて象潟(きさかた)に向かう前に、乗り継ぎ時間を使って、秋田県立美術館に寄った。藤田嗣治の超大作「秋田の行事」を見るため。それについては、もし書けたら、別途書いてみたい。

 象潟には友人夫婦がいる。駅まで出迎えてくれた。ご主人は、元は大工だったが、今は専業農家で、主にイチジクを栽培している。北限のイチジクとして、地元自治体が力を入れているそうだ。そのイチジク畑を案内してもらった。よい匂いがした。その晩は泊めてもらった。自分の田舎に帰ったようだった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンコフスキ/都響

2018年08月06日 | 音楽
 フェスタサマーミューザでミンコフスキ指揮都響の「くるみ割り人形」全曲。第1幕の演奏は緩めだったが、第2幕になると締まって、ミンコフスキの個性全開だった。

 「コーヒー(アラビアの踊り)」が、終始弱音で、抑えた表現だったのが印象的。官能性というよりも、仄暗い演奏だった。また「花のワルツ」が、レガートをかけずに、音を短く切って、しかも相当なスピードで演奏されたことは、わたしを含めて、多くの方々の注目を集めたようだ。従来の甘く華やかな演奏スタイルではなく、音の動きのおもしろさを感じさせる演奏だった。

 だが、独自の解釈というと、上記の2曲くらいではなかったろうか。全般的にはあまり変わった点はなかったと思う。それでも演奏全体からは、ミンコフスキらしさが滲み出ていた。それはなんだろう。生きいきとしたリズムか。それもあるが、もっと根本的には、ミンコフスキのドラマトゥルギーではないだろうか。

 ミンコフスキが見出すドラマ、より具体的にいえば、ミンコフスキが音楽にどのような作劇術を見出すか、その個性的な視点と演奏への反映、そういう側面がミンコフスキの演奏には感じられる。今回の「くるみ割り人形」と過去にミンコフスキが都響で演奏した2曲のブルックナーの交響曲には、同質のドラマトゥルギーが感じられる、というのがわたしの実感だ。

 「くるみ割り人形」という選曲には意外な感もあったが、ミンコフスキは「2016年には手兵「ルーヴル」とこの「くるみ割り」でヨーロッパをツアーし、センセーションを巻き起こしている。」(宮本明氏のプログラムノーツ)。

 思えば、わたしの初めてのミンコフスキ体験は、パリで観たオッフェンバックのオペレッタ「美しきエレーヌ」だった(抱腹絶倒の公演で、観客に大うけだった)。バロックはいうに及ばず、オッフェンバックも「くるみ割り人形」もブルックナーも、ミンコフスキはいつも自分の好きな曲を演奏してきたのだろう。その時々の作品への「愛」が演奏の真正さを裏打ちしている。

 余談ながら、「くるみ割り人形」とオペラ「イオランタ」は同時期の作品だが、わたしはそれらの作品にチャイコフスキーの感性のもっとも繊細な部分を感じる。またメルヘンという意味でモーツァルトの「魔笛」を連想する。それらの3作にはどことなく生命の衰えが感じられるが、ミンコフスキの演奏では、それを感じなかった。
(2018.8.5.ミューザ川崎)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栃木県立美術館「ウェザーリポート展」

2018年08月04日 | 美術
 東京新聞の7月13日夕刊に椹木野衣(さわらぎ・のい)氏の美術批評が掲載された。栃木県立美術館で開催中の「ウェザーリポート」展の紹介。その批評に惹かれたので、那須の山に登った折に、宇都宮に寄って見てきた。

 本展の開催趣旨は、風景画に見られるような水平方向の眼差しから、地面や湖などの自然環境に直接刻まれたアースワーク、そして風景画の成立に先立って存在したコスモグラフィア(地球画・宇宙画)の垂直方向の眼差しへと、わたしたちを導き、新たな世界画=ネオ・コスモグラフィアを探るという壮大なもの。

 同時にそれは、人間が住むに適した穏やかな自然環境を描いた風景画から、人間の都合とは無関係な自然の摂理(巨大地震、津波、スーパー台風、連続豪雨、竜巻の突発、大洪水など)へと立ち返ることを意味する。

 今世界中では“異常気象”が頻発し、犠牲者も出ているが、でも、それは地球という尺度で見れば、むしろ常態かもしれず、人間は本来、そのような過酷な自然環境の中で生きている。でも、生きている間はそれを忘れて、奇跡的にバランスのとれた自然環境を享受しているにすぎない、という視点。

 では、地球という惑星の本来の自然環境と向き合った芸術とは何か。それがネオ・コスモグラフィアなのか。それとも、それとは意味が違うのか。そもそも風景画の成立に先立って存在したというコスモグラフィアとは何か、と考えながら本展を見た。

 コスモグラフィアの例としては、プトレマイオスの著書「コスモグラフィア」(1482年)の中の図版とコペルニクスの著書「天球回転論」(1543年)の中の図版が展示されていた。前者は世界地図、後者は宇宙図のように見えた。

 一方、ネオ・コスモグラフィアの作例は、よくいえば多種多様、実感からいうと、とりとめがなく散漫な印象を受けた。たしかに垂直方向の眼差しは多くの作品に共通するが、上記のコンセプト(それ自体はひじょうに興味深い)の作品への結実という点では、手探りの段階にあるように感じた。

 そんな中で興味を持った作品は、小山穂太郎(1955‐)の「空間・-・空より No.1」(1989)という写真作品だった。縦232×横444という巨大な作品。夜空から引っ掻き傷のような線が無数に降ってくる。底辺には山並みが横たわっている。これは地球に降り注ぐ宇宙線の表現かと、わたしは解釈した。
(2018.7.20.栃木県立美術館)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする