Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

上原美術館:アルベール・マルケ

2020年01月28日 | 美術
 伊豆の下田は気候が温暖なので、冬になると時々行く。先日も行ってきた。例年は海岸沿いの道を歩くだけだが、今年はいつも気になっている上原美術館に寄ってみた。予備知識なしで行ったが、それがよかったのか、新鮮な出会いを楽しめた。

 上原美術館は、大正製薬の元社長だった上原正吉・小枝夫人の仏教美術のコレクションと、その子息で元社長の上原昭二の近代絵画(洋画・日本画)のコレクションを展示する美術館だ。仏教館と近代館の二つからなる。場所は下田駅から車で15分ほど(バスだと20分ほど)。

 まず仏教館へ。最初の展示室には近代・現代の仏師による夥しい数の仏像が展示されている。いずれも木彫なので、木のぬくもりが心地よい。奥の展示室には奈良時代、平安時代そして鎌倉時代の仏像や写経が展示されている。伊豆の松崎の吉田寺(きちでんじ)の仏像の崇高さにハッとした。

 近代館に移ると、新収蔵品のアルベール・マルケ(1875‐1947)の「ルーアンのセーヌ川」(1912年)のお披露目を兼ねたマルケの小特集をやっていた。わたしはマルケが好きなので、これは嬉しかった。「ルーアンのセーヌ川」はチラシ(↑)に使われている作品。灰色がかった色調、高所から見下ろす視点、対角線の構図、人物や建物の簡素な描写、そして水のテーマという具合に、マルケの特徴がよく出ている。サイズは縦59.0㎝×横80.0㎝。国立西洋美術館の「レ・サーブル・ドロンヌ」(1921年)(※1)とほぼ同じ。堂々たる作品だ。

 もう一つ、「冬のパリ、ポン・ヌフ」(1947年頃)(※2)にも惹かれた。マルケの終の棲家となったパリのアトリエ(セーヌ河岸のアパルトマンの6階にあった)から見下ろした風景画。眼下にポン・ヌフが見える。ポン・ヌフはノートルダム大聖堂のあるシテ島に架かる橋だ。雪が降った後らしく、道の両側に雪が積もっている。遠景は霞んでいる。前述の「ルーアンのセーヌ川」に比べると、本作はマルケが亡くなる前に描かれたためか、全体に弱々しく、それがかえってマルケの、なんの作為もない、見慣れた風景をいつくしむ心境を表す。

 マルケはアンリ・マティス(1869‐1954)と親しかった。展示室にはマティスのリトグラフ「舞踏用半ズボンを着けたオダリスク」(1925年)も展示されていた。さすがに強烈な力がある。それに比べるとマルケは穏やかなので、普通の展覧会なら埋もれがちだが、そんなマルケが好ましく思える年齢に、わたしはなったようだ。
(2020.1.21.上原美術館)

(※1)「レ・サーブル・ドロンヌ」の画像http://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0126.html
(※2)「冬のパリ、ポン・ヌフ」をふくむ上原美術館の主な所蔵品http://uehara-museum.or.jp/collection/western-painting/
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館山旅行

2020年01月25日 | 身辺雑記
 しばらく前に(正月明けの頃だった)房総半島の館山に行った。東京から館山までは、以前はJR内房線で行ったが、今ではバスが主流になっている。わたしもバスで行った。なんの変哲もない一泊旅行だったが、心に残っていることがあるので、簡単に旅行記を。

 バスが東京湾アクアラインを通って千葉県に入ると、のどかな山里風景の中を走るようになる。しばらくすると鋸南町に入った。屋根にブルーシートをかぶせた民家が目立つ。昨年の台風15号と19号の被害だろう。復旧が遅れていることは新聞等で報道されているが、それを目の当たりにすると、「あれから何か月もたつのに‥」と胸が痛む。気のせいか、ブルーシートをかぶせた民家は、ポツンポツンと点在するのではなく、ある場所に固まっているように見える。そんな場所が何か所もある。地形とか風向きとか、何か原因があるのだろうか。

 宿に着いてフロントの人に「去年は大変でしたね」と話しかけると、「そうなんです。うちもガラスが何枚か割れました。でも、それ以上に停電が続いたのが大変でした」と。わたしも当時その宿のホームページで休業が続いているのを見ていた。停電が原因だった。営業再開になったら早く行こうと思っていたが、体調を崩したので、今頃になった。今はお客さんも戻っているようでホッとした。

 その日は東京も暖かい天気だったが、館山は東京よりも2度くらい暖かく、海岸を歩くと気持ちがよかった。高校生くらいの男の子が3人堤防の上で話していた。見渡す限りの海の中で、時間を忘れて話す様子が好ましかった。その男の子たちは日没までいた。写真(↑)はわたしの部屋から夕暮れの海を撮ったもの。写真には写っていないが、男の子たちはまだ堤防にいた。

 夕食を終えて部屋に戻ると、東京湾をはさんで三浦半島の灯台がよく見えた。灯台は3基あり、観音崎の灯台、久里浜の灯台、剣崎の灯台だった。それらの灯台が等間隔に並び、暗い海に光を放っていた。船舶の航行を守るその光が力強く、また暖かかった。

 翌朝もよく晴れた。窓を開けて潮風を入れた。波の音に癒された。人間が波の音に癒されるのは、何かわけがあるのだろうか。わたしの義父は亡くなる前に「波の音が聞きたい」といった。わたしは波の音のCDを買ってきて聞かせた。義父はその数日後に亡くなった。自宅で亡くなったのでできたことかもしれない。病院だったらできただろうか。

 人間も自然界の一部なので、体の奥底に自然のリズムが宿っているのかもしれない。そう思うくらい波の音が体に響いた。
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高関健/東京シティ・フィル

2020年01月19日 | 音楽
 高関健による渡邉暁雄追悼プログラム。渡邉暁雄(1919‐1990)の生誕100年、没後30年を記念するものだ。曲目は渡邉暁雄が創設した「日本フィル・シリーズ」から生まれた2曲、柴田南雄の「シンフォニア」(日本フィル・シリーズ第5作、1960年)と矢代秋雄の「交響曲」(同第1作、1958年)、そして渡邉暁雄の十八番、シベリウスの交響曲第2番。渡邉暁雄を追悼するにふさわしいプログラムだ。

 それにしても、桐朋出身の高関健と芸大で教えた渡邉暁雄の接点はどこにあったのだろうと思っていたら、高関健がプレトークで語った。それによると、若き日の高関健が民音の指揮者コンクールを受けたが、予選で落ちた。しばらくして、あるオーケストラでヴァイオリンのエキストラをしていたら、指揮者が渡邉暁雄で、休憩中に声をかけられた。「君ね、この間は残念だったけど、君の振った『春の祭典』はなかなかよかったよ」と。その言葉に励まされて、高関健は指揮の勉強を続けた。

 その後、高関健はウィーンのハンス・スワロフスキー国際指揮者コンクールに優勝した。その直後に渡邉暁雄から電話があった。「君、来年1月(注:1985年1月)の日本フィル定期を振らないか。曲は『春の祭典』」と。その定期まで半年しかなかった。通常、定期の指揮者が半年前に決まっていないはずはないので、今考えると、渡邉暁雄は、自分が振る予定の定期を高関健に譲ったのではないか。

 高関健の話はざっとこんなふうだった。なんとも心温まる話だ。ちなみにわたしの手元には渡邉暁雄の写真集があるが(写真:木之下晃、音楽之友社刊、1996年)、その中に渡邉暁雄と高関健がともに写っている写真がある。渡邉暁雄を4人の若手指揮者が囲み、楽しそうに乾杯している。その若手指揮者の一人が高関健だ。1985年8月5日に渡邉暁雄の自宅で撮った写真。この写真の背景にはそんな話があったのか‥と思った。

 さて、当日の演奏だが、1曲目の「シンフォニア」は、たしかに(高関健の指摘の通り)シェーンベクルの12音作品を参照していると思われるが、それに止まらず、音に生気があった。演奏のお陰だと思う。2曲目の「交響曲」は、わたしはナクソスのCDで何度も聴いた曲だが、CDの演奏とは比べものにならないほどの密度の濃さがあった。とくに第3楽章レントから第4楽章の序奏アダージョにかけては、その濃密さに息をのんだ。終演後の拍手も盛大だった。

 3曲目のシベリウスの交響曲第2番では、弦の鳴りっぷりのよさが印象的だった。高関健が常任指揮者に就任して以来、東京シティ・フィルの弦は充実している。第4楽章のフィナーレでは金管が輝かしく鳴った。それは渡邉暁雄を讃えているようで感動的だった。
(2020.1.18.東京オペラシティ)
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エッシェンバッハ/N響

2020年01月18日 | 音楽
 エッシェンバッハ指揮N響のCプロはブラームス・プロだが、後述するように、一捻りしたブラームス・プロだった。素直じゃないというか、そこがエッシェンバッハのエッシェンバッハたる所以だろうが‥。先日のAプロのマーラー「復活」で、何かにこだわって素直になれないエッシェンバッハを聴いたばかりなので、聴くほうとしても、どこか身構えた。

 1曲目はピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はツィモン・バルト。エッシェンバッハの盟友らしい。この曲をエッシェンバッハ指揮ベルリン・ドイツ響とレコーディングしている(わたしは未聴だが)。ともかく、そのバルトのピアノ独奏が独特だった。独特という言葉が一般的すぎるほど、だれにも真似のできない、風変りなものだった。

 第1楽章冒頭のアルペッジョからして、テンポが遅く、しかも途中で(まるで歩みを止めるかのように)間合いを入れるので、この先どうなることやら、どのくらい時間がかかることやらと、途方に暮れた。

 実際どのくらい時間がかかったか、わたしは計っていないが、ともかくそのペースは最後まで変わらなかった。遅いテンポで一音一音を味わい尽くすような、また時には歩みを止めて、その一音を余韻が消えるまで聴いているような演奏。たとえていえば散歩の際に、歩きなれた道なので、いつものペースで歩いてしまうところを、故意にゆっくりと、時には立ち止まって、景色を見たり、風の音を聴いたりするような演奏だ。

 さらに驚いたことは、そんな独特なピアノ独奏に、エッシェンバッハが、まるで思想を同じくする者のように、同じスタイルで、ぴったりオーケストラをつけた点だ。他の指揮者だったらこうはいかない。グレン・グールドとバーンスタインのようになってしまう。

 そのようにして生まれた演奏を、わたしは興味深く聴いた。途中で飽きもせずに、ずっと音を追うことができた。美しいと思うときもあった。二人が音の余韻に耳を澄ましているとき、わたしもともにそれを聴いていると思えることがあった。いつもこういう演奏を聴くなら、それは疲れるが、たまにはいいと思った。CDはともかく、ライブならこれも一興だ。

 2曲目はブラームス(シェーンベルク編曲)のピアノ四重奏曲第1番。1曲目のピアノ協奏曲第2番とも先日のマーラーの「復活」とも違って、ストレートな表現だ。シェーンベルク編曲という一捻りはあるが、わたしはやっと素直なエッシェンバッハに出会えた気がした。今どきの各パートがピタッと合う演奏とは異なるが、音にこもるドイツ的な熱があった。これは快演だったかもしれない。
(2020.1.17.NHKホール)
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ブラビンズ/都響

2020年01月17日 | 音楽
 マーティン・ブラビンズは都響への客演が今回で5度目だ。わたしも何度か聴いているが、その都度興味深いプログラムを組んでいた。今回は「愛する人、親しい人に捧げた曲」を集めたもの。そのプログラムもさることながら、登場一番、でっぷり太って貫禄がついたのが印象的だった。今はイングリッシュ・ナショナル・オペラの音楽監督をしている。脂の乗り切った時期なのだろう。

 1曲目はラヴェルの「クープランの墓」。いうまでもないが、第一次世界大戦で戦死した友人たちのために書かれた曲。第1曲と第2曲ではリズムに弾みをつけようとしていることが聴き取れたが、今一つぎこちなさが残った。でも、全体としては心優しさが伝わる演奏だった。

 2曲目はジェイムズ・マクミラン(1959‐)の「トロンボーン協奏曲」(2016年)。5歳で亡くなった孫娘のために書かれた曲。独奏楽器がトロンボーンなので(わたしはトロンボーンの柔らかい音色が好きだが)、細かい動きには向かない。その点、あの手この手の工夫が凝らされ、こういっては何だが、作曲者の苦労の跡を感じた。

 トロンボーン独奏はアムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管の首席奏者ヨルゲン・ファン・ライエン。この曲の初演者だ。名手なのだろう。アンコールにアルヴォ・ペルトの「Vater unser(天にいます我らの父よ)」が演奏された(独奏トロンボーンとヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1、コントラバスⅠの弦楽五重奏版)。胸に迫り、切なくなるような曲だった。

 余談かもしれないが、「トロンボーン協奏曲」に付された小室敬幸氏のプログラム・ノートが、かゆい所に手が届くような的確な解説で、初めて聴くこの曲の水先案内役を務めてくれた。お蔭で、今どこを聴いているのか、迷子にならずに聴くことができた。

 なお「トロンボーン協奏曲」の最後のほうにカデンツァの部分があるが、そのカデンツァが、独奏トロンボーンとオーケストラの中の3本のトロンボーンとの掛け合いになった。わたしにはそれが、孫娘を亡くした作曲者(=独奏トロンボーン)が3人の天使と議論しているように見えた。

 3曲目はエルガーの「エニグマ変奏曲」。前述の通り貫禄のついたブラビンズの、どっしりした、豪快さと繊細さを併せ持つ名演だった。個別の変奏では、第13変奏「***」でクラリネットが弱音で演奏する、その緊張感と集中力に息をのんだ。クラリネットを吹いたのは首席奏者の一人、サトーミチヨさんだった。
(2020.1.16.サントリーホール)
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下野竜也/読響

2020年01月16日 | 音楽
 下野竜也が読響に帰ってきた。いかにもこの人らしいプログラムを携えて。定期会員の一人として「お帰り下野さん」と、今公開中の映画「お帰り寅さん」に倣っていってみたくなる。

 1曲目はショスタコーヴィチの「エレジー」。原曲はオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の第1幕第3場のカテリーナのアリアを作曲者自身が弦楽四重奏用に編曲したもので、それをシコルスキが弦楽合奏用に編曲したそうだ(柴辻純子氏のプログラム・ノーツより)。読響の弦がほの暗く、しっとりした音を鳴らした。前座のノリをこえた演奏だった。

 2曲目はジョン・アダムズ(1947‐)の「サクソフォン協奏曲」(2013年)。サクソフォン独奏は上野耕平。全2楽章、演奏時間約29分(プログラム表記)の曲だが、全編にわたって気の狂いそうな変拍子が続く。下野竜也の指揮から目が離せず、よくこんな曲を振れるものだと思った。

 上野耕平の、その変拍子の曲に同化したような演奏には、脱帽以上の、何か異次元のものを感じた。もうそれ以上の言葉が出てこないので、話を先に進めるが、アンコールにテュドールの「クォーター・トーン・ワルツ」という曲が演奏された。これもおもしろかったが、それよりも、ジョン・アダムズの、あの神経がすり減るような曲の後で、よくアンコールができるものだと感心するほうが先だった。

 3曲目はモートン・フェルドマン(1926‐87)の「On Time and the Instrumental Factor」(1969年)。演奏時間約8分(同)の短い曲。弦は16型、管は基本的に3管編成の大オーケストラだが、それが静謐な音に終始するのはこの作曲家だから当然として、むしろおもしろかったのは、弦と管のバランスが、管のほうが前面に立ち、弦はほとんど聴こえるか聴こえないかの音に終始することだ。ともかくモートン・フェルドマンのオーケストラ曲を聴く機会は稀なので、何かと興味深かった。

 4曲目はグバイドゥーリナ(1931‐)の「ペスト流行時の酒宴」(2005年)。物々しい題名だが、それはプーシキンの戯曲からとられている。プーシキン全集(河出書房新社)に収録されているので、事前に読んだ。疫病が蔓延する中、酒宴に明け暮れる人々を描いた風刺的な戯曲だ。グバイドゥーリナのこの曲は、プーシキンの戯曲を逐一追った作品ではなさそうだが、疫病を連想させる電子音のリズムがオーケストラに忍び込む点が、プーシキンの戯曲との関連を印象付ける。作曲者はこの曲について「そこに何かあるとしたらそれは希望」と記しているそうだが(プログラム・ノーツ)、それはたぶん反語だろうと思った。
(2020.1.15.サントリーホール)
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エッシェンバッハ/N響

2020年01月13日 | 音楽
 エッシェンバッハがN響を振ったマーラーの交響曲第2番「復活」を聴いたが、それがどんな演奏だったかをいうのは、ひどく難しい気がする。その難しさの中に、エッシェンバッハとはどんな指揮者なのか、その核心があるようにも思うが。

 第1楽章冒頭の低弦のテーマは、だれが振っても劇的に演奏するが(そしてエッシェンバッハもそうだったが)、ヴァイオリンで始まる第2主題になると、第1主題の余韻を引きずらずに、妙に吹っ切れた、軽く、あっさりした演奏になった。劇的な緊張が楽章全体を覆わずに、各部分への興味が優先する演奏だ。

 部分への興味ということでは、クラリネット2本の経過句がはっきり聴こえる箇所が印象に残った。激情が渦巻く第1楽章の中で埋もれがちな経過句だが(わたしは今までその経過句に気づかなかった)、そこにも大事な意味があると教えられた。そのレベルでいえば、枚挙にいとまがないほど多くの発見があった。

 第2楽章は平穏な音楽には違いないが、一般的にこの楽章でイメージする「生への憧れ」といったらよいか、第1楽章の葬送の音楽の後で夢見る生の想い出といったニュアンスは乏しく、ひたすら沈潜して、何かに耐えるような、気分の晴れない演奏だった。

 アタッカで入った第3楽章は、前2楽章ほどの特異性は見いだせず、第4楽章以下は声楽が入るので、演奏のニュアンスはおのずから異なるが、それにしても、第1楽章と第2楽章で敷かれたレールは、やはり最後まで続いた。それを何といったらよいのだろうか。

 端的にいうと、指揮者のヒロイズムとか、ナルシズムとか、多くの指揮者が多少なりとも備えていて、聴衆はそれに付き合わされる(一部の聴衆はそれに熱狂する)要素が、エッシェンバッハの場合は、わずかしかないということだ。いま「付き合わされる」といったが、最大の被害者はオーケストラの楽員だろう。エッシェンバッハの場合、楽員はそれに煩わされずに済むのではないか。

 だが、一方では、ストーリーテリングの雄弁さとか、音楽の流れとか、そんな要素は損なわれる可能性がある。楽員はともかく聴衆は、音楽に乗るのが難しい。そこに何か屈折したものを感じてしまうのだ。その窮屈さは何なのか。わたしにはまだつかめない。

 声楽陣は、ソプラノがマリソル・モンタルヴォ、メゾソプラノが藤村実穂子、合唱が新国立劇場合唱団で、いずれも文句なし。今まで時々その名を目にしていたモンタルヴォに初めて出会えたことが嬉しい。
(2020.1.12.NHKホール)
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『男はつらいよ』お帰り 寅さん

2020年01月09日 | 映画
 もうずいぶん前のことだが、テレビで渥美清の特集番組を見た。その中で渥美清はこう語っていた。「スーパーマンっていうテレビ番組があっただろう。あれをやっていた役者が、ある日子どもたちに囲まれて、『ねえ、空を飛んでよ』とねだられた。だけど飛べなかった。ね、役者は素顔を見せちゃいけないんだよ」と。わたしの家にはテレビがないので、その番組をどこで見たのか記憶にないが、ともかくその言葉が印象に残った。その言葉を語るときの渥美清の表情が、寂しそうに見えたからか。

 「寅さん」シリーズ第50作の「お帰り 寅さん」を見た。よく笑い、よく泣いた。スクリーンに映る寅さんは(過去の作品の抜粋なので当然だが)いつもの寅さんだった。明るく屈託のない寅さん。人は死んで星になる。そんなロマンチックな言い方が、今だけは許されるなら、寅さんは星になったと思った。

 寅さんの妹のさくらも、さくらの夫の博も、年を取ったが元気だ。おばちゃん(寅さんとさくらの叔母)とおいちゃん(おばちゃんの夫)は亡くなった。団子屋(今はカフェになっている)の奥の茶の間には、今はさくらと博が住んでいる。

 上掲のスチール写真(↑)がその茶の間。ちゃぶ台を囲んでいるのは、左から順に、満男、満男の初恋の人・泉ちゃん、さくら、博。どこか懐かしい茶の間の風景だ。今の日本からは失われた風景かもしれない。「寅さん」シリーズの魅力は多々あろうが、今となっては茶の間の風景もその一つだ。

 満男はサラリーマンを辞めて小説家になった。結婚したが、妻は6年前に亡くなった。今は中学3年生の娘と二人暮らし。ある日、満男の前に泉ちゃんが現れる。泉ちゃんはヨーロッパに渡り、家庭を持っているが、仕事で日本に帰ってきたところ。そこからドラマが動きだす。

 ドラマの中心は満男だが、考えてみれば、「寅さん」シリーズの最後の頃は、実質的には満男が中心になっていた。満男と泉ちゃんの不器用な恋。それを暖かく見守る寅さん。その頃の「寅さん」シリーズは、満男を演じる吉岡秀隆の繊細な演技に支えられていた。実感としては、寅さんのDNAが満男に受け継がれたようだった。

 本作には寅さんと一番馬が合った(と思われる)リリーさんも登場する。リリーさんは今ではジャズ喫茶を経営している。そのリリーさんや、さくらも、過去の名場面に登場する。リリーさんを演じる浅丘ルリ子や、さくらを演じる倍賞千恵子の、息をのむようなみずみずしさ!
(2020.1.6.ユーロスペース)
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青柳いずみこ「グレン・グールド―未来のピアニスト」

2020年01月07日 | 読書
 青柳いづみこの「高橋悠治という怪物」と「翼のはえた指―評伝 安川加壽子」を読み、自身ピアニストである著者のピアノ奏法への独自の洞察に惹かれたので、もう一冊、「グレン・グールド―未来のピアニスト」も読んでみた。

 青柳いづみこの師であった安川加壽子や、同時代を生きる高橋悠治と違って、グレン・グールド(1932‐1982)はすでに故人だ。著者は生前のグレン・グールドとは面識がなく、また実演を聴いたこともない。残された録音からあれこれ考えるだけ。そんな自分を「安楽椅子探偵」と称し、グレン・グールドとは何者であったかを考える。わたしたちも「安楽椅子探偵」に変わりはないので、著者はわたしたちの代弁者だ。

 いうまでもなくグレン・グールドは、キャリアの途中で(具体的には1964年に)コンサート活動から撤退し、録音活動に専念した。青柳いづみこが(そしてわたしたちもそうだが)グールドを聴くということは、それらの録音(正規録音)を聴くことだった。ところがグールドの没後、事情が変わった。以前のコンサートの放送用の録音がたくさん出てきた。青柳いづみこが注目したのは、それらの録音だ。

 幸いなことに、それらの録音の多くはナクソス・ミュージックライブラリーに収録されている。わたしは本書を読む前に、いくつか聴いてみた。それは驚くべき体験だった。グールドのデビュー盤の「ゴルトベルク変奏曲」(1955年)で決定的にできあがっていたグールドのイメージが、大きく揺らいだ。

 たとえばデビュー盤の「ゴルトベルク変奏曲」とその前年(1954年)の同曲の放送録音とは、まったく性格の異なる演奏だった。放送録音の滑らかで自然な流れの演奏と、デビュー盤の各変奏のコントラストが極端でエクセントリックな印象を与える(そのためインパクトの強い)演奏と、その違いがわずか一年の間に起きていることは、信じられないくらいだった。

 その点を追及することは、グールドとは何者だったのかという、より大きなパースペクティブにつながるのだが、その結論だけ紹介しても意味がないので(むしろ追及の過程におもしろさがある)、これ以上の言及は避けるが、追及の過程で現れるグールド像は、今でもヴィヴィッドな問題を孕んでいる。

 意外なことには、本書は随所でリパッティ(1917‐1950)に触れる。グールドとリパッティとは、わたしは関連付けて考えたことがなかったが、読み進むうちに、納得した。読後、わたしはグールドのブラームスの間奏曲集(1960年)を聴き直した。作品118‐2がリパッティの演奏のように聴こえた。
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青柳いずみこ「翼のはえた指―評伝安川加壽子」

2020年01月04日 | 読書
 青柳いづみこの「翼のはえた指―評伝 安川加壽子―」を読んだ。活きのいい文体、自身ピアニストである著者のピアノ奏法への洞察、そして安川加壽子に師事した著者の師への想い出という、それら3要素が混然一体となった名著だ。本書は1999年に白水社から刊行され、同年第9回吉田秀和賞を受賞した。吉田秀和はそれ以来、著者の著作を欠かさず読んだといわれる。

 安川加壽子は1922年(大正11年)生まれ。生後1年あまりでパリの国際連盟日本事務局に勤務する父のもとへ渡った。加壽子は日本語よりもフランス語で育った。1934年にパリ音楽院ピアノ科に入学(当時12歳の加壽子はクラスで最年少だった)。1937年に1等賞(第3位指名)を得て卒業した。

 ヨーロッパ情勢は緊迫していた。1939年8月、独ソ不可侵条約の締結。同年9月、ドイツ軍がポーランド国境に侵攻。その直後にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告をして、第二次世界大戦が始まった。同月、加壽子は母とともに帰国。父も翌年7月に帰国した。

 だが、日本も大変な状況だった。少し遡るが、1931年9月、満州事変の勃発。翌年3月、満州国建国を宣言。1937年7月、日中戦争に突入。加壽子が帰国した翌年の1940年9月には日独伊三国同盟が成立。そして1941年12月、真珠湾攻撃。日本は太平洋戦争に突入した。

 加壽子が生きた時代はそんな時代だった。だが、加壽子は、戦時下ではあっても、「天才少女」ともてはやされた。フランス仕込みのピアノ奏法は、当時の日本のレベルを超えていた。1943年にSPレコードに録音したサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番「エジプト風」は、同曲の世界初録音だった(オーケストラは尾高尚忠(尾高忠明の父)指揮の東京交響楽団(現在の東京フィル))。

 幸いなことに、その録音がCDに復刻されているので(ロームミュージックファンデーション「日本SP名盤復刻選集」第4巻に所収)、今でも聴くことができる。みずみずしい音色と清新な感性に驚かされる。今の耳で聴いても、少しも古びていない。音楽の形を崩さない加壽子の演奏が、新鮮な生命を保っている。

 戦後の加壽子は、著者が身近に接した加壽子だ。3人の子どもを育て、演奏活動を続け、東京藝大で後進を育成し、各種の役職にもついた。その一方で、批評家の酷評に悩んだり、持病のリウマチに苦しんだりした。著者は加壽子を理想化せず、その素顔を描く。本書を読了したとき、わたしは安川加壽子という稀有な人物を身近に感じた。
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