レパートリーは300種類。
ものまね下人。1980年20歳の時素人のスター誕生でものまねデビュー。挫折の連続。ものまね王座決定戦。TV局スタッフと意見の対立があり降板した。五木ひろしさんのロボットまねなどで新境地を開拓。不屈のものまね人生。
デビュー35周年を迎えて。若い人のものまねをやっている。新たな敵を作っている。笑
大変申し訳ない。
郷ひろみ「よろしく哀愁」 初めてものまねをした曲。当時もてたくてものまねをした。中学の時好きな人が郷ひろみが好きだったので。学校でこそっとそのものまねをしたら誰だとなり、クラス仲間が**だと言った。そうしたら、好きな人が「ああそう」とがっかりした。
姉がものまねが上手かった。自分より上手かった。1歳上の姉が卒業してから学校でやりだした。
エアーものまねを。「顔まね専門」で歌をかけながらやっていた。
芸を進化させ続けてきた。10代ショーパブやスナックでやっていた。お金は貰っていなかったがチップは貰っていた。それで知り合いが東京にいたので、頼って初めて東京に出てきた。、ラジオ番組でタモリさんと所ジョージなどがやっていた。人づてで、おもしろいやつがいるとのことで、番組が終わってから会ってくれてものまねを披露した。所ジョージさんが、「似ているけど面白くないね」と一言でグサッと傷つき熊本に戻った。でもそれはありがたかった。熊本でアレンジしてちあきなおみのものまねをスナックなどでやった。そしてお笑いスター誕生に出た。 20歳の時だった。タモリさんは覚えてくれていて、「面白くなった。気持ち悪くなったけど」と言ってくれた。
振りまねだけだと仕事が激減した。そこで声帯まねを練習して覚えた。生き残るために声まね練習法。
声を上げて来て音程を合わせて行く。ジャイアント馬場と淡谷のり子さんは発生方法が同じ。
淡谷のり子さんのまねを音を上げて行くとある高さで似てくる。
ものまね王者決定戦。ものまね四天王と言われた。この頃コロッケという名前を覚えて貰った。これで食べて行けると思った。「ものまね王座」降板の真相は、エンターテインメントをやりたかったが局のスタッフと意見が合わなくて降板した。2年間はものまね番組には出なかった。その番組のスタッフに義理を通した。当時は結婚して子どももいた。スナックで稼いでいた。ものまねにダンスを取り入れたいと思っていた。ものまねにはダンスまで入れなくてもよいとの意見があったが、ロボコック見て、これは五木ひろしさんだと思った。五木ひろしさんでロボコックができないかと。現在は、ロボコックの動きも進化している。アニメーションのキャラの動きを取り入れている。進化形をいれていかないとお客さんを惹き付けられない。
右耳が聞こえにくくなっている。真珠腫性中耳炎。子どもの時中耳炎になったがお金がなくて放っておいたらひどくなった。ひどくなってから直ぐに手術したけど手遅れだった。
“目で聞く、耳で観る”。耳で聞いて音を想像する。目を閉じて耳だけで観る。その状況を受け入れた時から始まる。受け入れていないと何で?との思いのままでいる。前向きに生きる秘訣だと思う。母のおかげで何でもプラス思考で考えるようになった。
母が姉と自分を育てたが貧乏を感じさせなかった。せんべいを粉にしてご飯の上にかけて「ご馳走よ!」と母が言った。「これにお茶かけて食べたらお腹いっぱいになるよ」。実際食べたらお腹いっぱいになった。「飯食ってお風呂入って寝られたら幸せだよ」と、忘れない母の言葉。
お酒が好き。こうありたいと思う歌がある。吉幾三さんの「ありがとうの唄」人生の全てが詰まっている歌。
「愛されて夢を見てひとりで走ってた
降り返りゃ何もかも遠くに見えていた
・・・
都会(まち)の中ふと思う独りじゃないことを
ありがとう貧しさをあの時代(とき)ありがとう
・・・
ありがとう言えるような最後であればいい
お前にも子どもにもすべての人たちに」
聴いていてこみ上げてきた。
大きなことはできないが、生かされていることでできることがあるかなと思う。
今はものまね落語を考えている。登場人物がいろいろありその人のものまねでやる。それに音楽を付けてなど考えている。
感想;
コロッケさんはまさに常に研究と練習を積み重ねて来られたのだと思いました。
今なお、ものまねでの落語を追究されていました。
コロッケさんはそれをやって来られたから今があるのだということが伝わって来ました。
そしてなお新しい芸に挑戦されています。
素晴らしいです。
ものまね下人。1980年20歳の時素人のスター誕生でものまねデビュー。挫折の連続。ものまね王座決定戦。TV局スタッフと意見の対立があり降板した。五木ひろしさんのロボットまねなどで新境地を開拓。不屈のものまね人生。
デビュー35周年を迎えて。若い人のものまねをやっている。新たな敵を作っている。笑
大変申し訳ない。
郷ひろみ「よろしく哀愁」 初めてものまねをした曲。当時もてたくてものまねをした。中学の時好きな人が郷ひろみが好きだったので。学校でこそっとそのものまねをしたら誰だとなり、クラス仲間が**だと言った。そうしたら、好きな人が「ああそう」とがっかりした。
姉がものまねが上手かった。自分より上手かった。1歳上の姉が卒業してから学校でやりだした。
エアーものまねを。「顔まね専門」で歌をかけながらやっていた。
芸を進化させ続けてきた。10代ショーパブやスナックでやっていた。お金は貰っていなかったがチップは貰っていた。それで知り合いが東京にいたので、頼って初めて東京に出てきた。、ラジオ番組でタモリさんと所ジョージなどがやっていた。人づてで、おもしろいやつがいるとのことで、番組が終わってから会ってくれてものまねを披露した。所ジョージさんが、「似ているけど面白くないね」と一言でグサッと傷つき熊本に戻った。でもそれはありがたかった。熊本でアレンジしてちあきなおみのものまねをスナックなどでやった。そしてお笑いスター誕生に出た。 20歳の時だった。タモリさんは覚えてくれていて、「面白くなった。気持ち悪くなったけど」と言ってくれた。
振りまねだけだと仕事が激減した。そこで声帯まねを練習して覚えた。生き残るために声まね練習法。
声を上げて来て音程を合わせて行く。ジャイアント馬場と淡谷のり子さんは発生方法が同じ。
淡谷のり子さんのまねを音を上げて行くとある高さで似てくる。
ものまね王者決定戦。ものまね四天王と言われた。この頃コロッケという名前を覚えて貰った。これで食べて行けると思った。「ものまね王座」降板の真相は、エンターテインメントをやりたかったが局のスタッフと意見が合わなくて降板した。2年間はものまね番組には出なかった。その番組のスタッフに義理を通した。当時は結婚して子どももいた。スナックで稼いでいた。ものまねにダンスを取り入れたいと思っていた。ものまねにはダンスまで入れなくてもよいとの意見があったが、ロボコック見て、これは五木ひろしさんだと思った。五木ひろしさんでロボコックができないかと。現在は、ロボコックの動きも進化している。アニメーションのキャラの動きを取り入れている。進化形をいれていかないとお客さんを惹き付けられない。
右耳が聞こえにくくなっている。真珠腫性中耳炎。子どもの時中耳炎になったがお金がなくて放っておいたらひどくなった。ひどくなってから直ぐに手術したけど手遅れだった。
“目で聞く、耳で観る”。耳で聞いて音を想像する。目を閉じて耳だけで観る。その状況を受け入れた時から始まる。受け入れていないと何で?との思いのままでいる。前向きに生きる秘訣だと思う。母のおかげで何でもプラス思考で考えるようになった。
母が姉と自分を育てたが貧乏を感じさせなかった。せんべいを粉にしてご飯の上にかけて「ご馳走よ!」と母が言った。「これにお茶かけて食べたらお腹いっぱいになるよ」。実際食べたらお腹いっぱいになった。「飯食ってお風呂入って寝られたら幸せだよ」と、忘れない母の言葉。
お酒が好き。こうありたいと思う歌がある。吉幾三さんの「ありがとうの唄」人生の全てが詰まっている歌。
「愛されて夢を見てひとりで走ってた
降り返りゃ何もかも遠くに見えていた
・・・
都会(まち)の中ふと思う独りじゃないことを
ありがとう貧しさをあの時代(とき)ありがとう
・・・
ありがとう言えるような最後であればいい
お前にも子どもにもすべての人たちに」
聴いていてこみ上げてきた。
大きなことはできないが、生かされていることでできることがあるかなと思う。
今はものまね落語を考えている。登場人物がいろいろありその人のものまねでやる。それに音楽を付けてなど考えている。
感想;
コロッケさんはまさに常に研究と練習を積み重ねて来られたのだと思いました。
今なお、ものまねでの落語を追究されていました。
コロッケさんはそれをやって来られたから今があるのだということが伝わって来ました。
そしてなお新しい芸に挑戦されています。
素晴らしいです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます