デビュー35周年、51歳。レーサーをやっていて何度かクラッシュしていて、首を痛めた。歳なのでそれが若さでカバーできなくなった。
3年B組金八先生で芸能界デビュー。“すにかーぶるーす“でデビュー。”ぎんぎらぎんでさりげなく“でレコード大賞新人賞受賞。紅白にも出た。”愚か者”でレコード大賞。全日本F3選手権に参加。レースに逃げた思いもあった。下山するのを見たくなくて。
35年、芸能界で持たないと思った。調子に乗っていた。スケジュールは嫌だよと言ったりしていた。ジャニーズの社長から、「持たない」と言われていた。入った時、川崎まよが先輩でいた。他にはほとんどいなかった。ザ・ベストテンに出ていた思い出は、自分が5位、誰が1位だ?沢田研二さん。それは仕方がないな。
思い出の曲。音楽好きの友達の影響。ベイシティーローラーの「二人だけのデート」
君と二人だけでいたい・・・、まさかこんなに夢中になるなんて
付き合ったりの人は? 中学2~3年、手をつなぐくらい。
地元で野球をやっていた。突然ジャニーズ事務所に入った。野球をやっていた監督のお嬢さんがジャニーズ事務所が募集していたのを知り、野球している写真をジャニーズ事務所に送った。その時たまたまお嬢さんが自分の写真を送った。その写真を社長が見て声がかかった。
事務所に入って抵抗はなかった。今ほど事務所は有名でなかった。学園ドラマのオーディションがあるからでないか言われオーディションを受けたら選ばれた。当時学園ドラマが流行っていた。15歳「金八先生」にでた。武田鉄矢さんが長いセリフを言っていて、最後の方でカメラが来るとカメラを見つめていた。「馬鹿、カメラ見るんじゃない!」と叱られた。もう一度撮り直しになった。
たのきんトリオ結成は、人気が出たので、名前を募集したら、タ ノ キンは3人の名前の頭文字(田原、野村、近藤)をとった。田原俊彦とは同じ寮にいた。実の弟と長く一緒に生活していた。ライバルとの気持ちもなかった。
ずーと歌っていて突然23歳の時にレーサーになった。日産自動車のCMをやっていて富士サーキットで撮影があり、当時のトップレーサーの星さんの車に同席して走らせてもらった。この感覚は何なんだと思った。ぎんぎらぎんにさりげなく の頃が山のトップだった。そこから下山している自分が見たくなくて、逃げていた。ヒットさせなければならないとの思いに疲れていた。芸能界には戻れるとの確信はなかった。事務所を辞める気持ちはなかった。後輩の人気が出ていたのをTVでは見られなかった。見たくなかった。スマップの前ぐらいで、複雑な気持ちだった。30歳過ぎたころで、「ぎんぎらぎらぎんのマッチだ」と言われるのが嫌だった。今は「ニヤッと」する。後何年それが言われるかと。ようやく乗り越えられたのかもしれない。
「愚か者」を歌うとやっと歌えるようになったかと思う。ヒット曲より“いい曲”を思う。「ヒット曲がいっぱいあるんだ」とコンサートで言ったら、お客さんから「私たちがヒットさせたんだよ」と言われた。その通りだった。伊集院静さんの作詞だった。ずっと付き合っていた。時々食事を一緒して結婚相談などもした。「相手の親に反対されている」と。相手の親にしてみればやんちゃなイメージがあった。「そういうもんだよ。門をたたき続けることだよ」と言われた。
年に2回トライアスロンをやっている。その時聞きながらやっている曲、「ロッキーのテーマ」。44歳からトライアスロンを始めた。今年日本代表として世界選手権に出場する。ロッキーの曲はよくできている。これを聞きながら走っている。ツアーの時は自転車で移動したこともある。200kmくらい7時間くらいかけて。後輩は皆仲がよい。後輩も歳をとったなと思うし、頼もしくなったと思う。
3年B組金八先生で芸能界デビュー。“すにかーぶるーす“でデビュー。”ぎんぎらぎんでさりげなく“でレコード大賞新人賞受賞。紅白にも出た。”愚か者”でレコード大賞。全日本F3選手権に参加。レースに逃げた思いもあった。下山するのを見たくなくて。
35年、芸能界で持たないと思った。調子に乗っていた。スケジュールは嫌だよと言ったりしていた。ジャニーズの社長から、「持たない」と言われていた。入った時、川崎まよが先輩でいた。他にはほとんどいなかった。ザ・ベストテンに出ていた思い出は、自分が5位、誰が1位だ?沢田研二さん。それは仕方がないな。
思い出の曲。音楽好きの友達の影響。ベイシティーローラーの「二人だけのデート」
君と二人だけでいたい・・・、まさかこんなに夢中になるなんて
付き合ったりの人は? 中学2~3年、手をつなぐくらい。
地元で野球をやっていた。突然ジャニーズ事務所に入った。野球をやっていた監督のお嬢さんがジャニーズ事務所が募集していたのを知り、野球している写真をジャニーズ事務所に送った。その時たまたまお嬢さんが自分の写真を送った。その写真を社長が見て声がかかった。
事務所に入って抵抗はなかった。今ほど事務所は有名でなかった。学園ドラマのオーディションがあるからでないか言われオーディションを受けたら選ばれた。当時学園ドラマが流行っていた。15歳「金八先生」にでた。武田鉄矢さんが長いセリフを言っていて、最後の方でカメラが来るとカメラを見つめていた。「馬鹿、カメラ見るんじゃない!」と叱られた。もう一度撮り直しになった。
たのきんトリオ結成は、人気が出たので、名前を募集したら、タ ノ キンは3人の名前の頭文字(田原、野村、近藤)をとった。田原俊彦とは同じ寮にいた。実の弟と長く一緒に生活していた。ライバルとの気持ちもなかった。
ずーと歌っていて突然23歳の時にレーサーになった。日産自動車のCMをやっていて富士サーキットで撮影があり、当時のトップレーサーの星さんの車に同席して走らせてもらった。この感覚は何なんだと思った。ぎんぎらぎんにさりげなく の頃が山のトップだった。そこから下山している自分が見たくなくて、逃げていた。ヒットさせなければならないとの思いに疲れていた。芸能界には戻れるとの確信はなかった。事務所を辞める気持ちはなかった。後輩の人気が出ていたのをTVでは見られなかった。見たくなかった。スマップの前ぐらいで、複雑な気持ちだった。30歳過ぎたころで、「ぎんぎらぎらぎんのマッチだ」と言われるのが嫌だった。今は「ニヤッと」する。後何年それが言われるかと。ようやく乗り越えられたのかもしれない。
「愚か者」を歌うとやっと歌えるようになったかと思う。ヒット曲より“いい曲”を思う。「ヒット曲がいっぱいあるんだ」とコンサートで言ったら、お客さんから「私たちがヒットさせたんだよ」と言われた。その通りだった。伊集院静さんの作詞だった。ずっと付き合っていた。時々食事を一緒して結婚相談などもした。「相手の親に反対されている」と。相手の親にしてみればやんちゃなイメージがあった。「そういうもんだよ。門をたたき続けることだよ」と言われた。
年に2回トライアスロンをやっている。その時聞きながらやっている曲、「ロッキーのテーマ」。44歳からトライアスロンを始めた。今年日本代表として世界選手権に出場する。ロッキーの曲はよくできている。これを聞きながら走っている。ツアーの時は自転車で移動したこともある。200kmくらい7時間くらいかけて。後輩は皆仲がよい。後輩も歳をとったなと思うし、頼もしくなったと思う。
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