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幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん「サワコの朝 野口五郎さん」 ”小さな時の夢を実現!”

2018-03-03 08:20:08 | 生き方/考え方
「私鉄沿線」。落合に住んでいて、銀座線、東西線を使っていた。落合にあるお蕎麦屋さんのかけそばが当時50円。おじさんが向こうを向いているときにネギをたくさん入れた。おじさんはわざと向こうを向いてくれていたことを今わかった。
ゴルフ番組でご一緒した。理屈っぽい。頭の指示が身体に届くには0.何秒かの時差がある。それを伝えたかと。
「カックラキン大放送」でコントにも。
15枚の「私鉄沿線」で初めて賞を取る。
歌っていると煙草が飛んできた。どけっ!と。
今も変わらぬ音楽への情熱をサワコさんに語る。

娘が阿川さんの番組に出ると知ったら、「阿川さんの本を受験の直前に読んで大学に合格したので、それを伝えてね」と言われた。「それは合格に関係ないと思うが?」 「関係したそうです」。「なんてよいお嬢さんでしょう!」。「新刊も読んでね」。

1曲目「リンゴ追分」の歌が記憶に残っている。
すごいな。ポウズ(お休み)がいくつかあるけど、すごい。4~5歳の時に、この歌を聞いて歌手になりたいと思った。
すぐにギターを弾くようになった。古賀メロディーなど弾くようになって、先生からリクエストされた。

のど自慢を受けるようになった。米山正夫先生が作曲家が出ている審査会に出るようにした。父には米山先生と親しくなってくれるように頼んだ。少しずつ先生と近づいて行った。小学校6年生に弟子入りした。中学2年生で岐阜から上京したが変声期でデビュー曲の声が出なくなった。未来と過去を失った挫折だった。岐阜に出るときに同級生から寄せ書きをくれた。なので帰れなかった。寄せ書きを燃やした。

親父が月に1回上京して様子を見に来てくれた。親父が帰る時、別れてから父を追いかけて話そうとしたが、父は振り返ってくれなかった。その当時のメモが最近出てきた。父は20年前に亡くなっているが。子どもの儚い夢をかなえさせるために振り返らなかったと。

15歳の時に演歌でデビューした。踊り子さんの前歌で歌っていた。歌っていたら煙草が飛んできた。どけっと。いつ煙草が飛んでくるか。見て避けていた。

ヒットしたらアイドルと呼ばれていた。当時は本物、美空ひばりさんや東海林太郎さん。アイドルグループが出てきた。スター世代の末っ子でアイドル世代のトップ。西城秀樹、郷ひろみと一緒に御三家。
兄の曲「私鉄沿線」で初の音楽賞だったでとても嬉しかった。兄はストレスで手術を受けた。来週私鉄沿線がトップになると聞いてそのまま手術室へ。

「カックラキン大放送」に出た。初めてコントにでたが、出たくないと言ったら、「この世界では生きていけないよ」と脅され、「出ます」と言った。
コントは“間”がすごい。間を休符で覚えた。八分休符か十六分休符か。音楽で考えるのがわかりやすい。

新御三家で何かと比較されるのは? 厄介だなと思った。今でも手を出す時に手の内側を西城秀樹君や郷ひろみ君は内側を見せた。しかし、自分はそれが出来なかった。

最近、電話で交流をしている。西城秀樹の還暦祝いコンサートにケーキを持って行き、ハグをした。その時、彼の体重の重さを感じた。

今珍しいものをやっている。QRコードを印刷したものをコンサート客に持って帰ってもらっている。そのQRコードを読み取るとコンサートの一部を聴くことができる。

2曲目、スパイダースのかまやつひろしの「ノーノーボーイ」
かまやつひろしの作曲術に驚く。耳が素晴らしく、その歌をヒントに作曲されていた。
亡くなってよけいにすごい人だとわかる。

ピアノ、ベース、ドラム、ギター、ミキサーも一人でやった。椅子がドラムチェアーに一番近かったので選んだ。

感想
小さい時の夢を叶えるためにいろいろとやられたようです。
変声期という挫折も大きかったそうです。
アイドルとして何の苦労もなさそうに見えても、人それぞれさまざまな苦労があることがわかりました。

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