江別創造舎

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王子航空機の会社設立と江別飛行場建設

2009年01月15日 | 歴史・文化
 昭和18(1943)年9月、陸軍航空本部は、王子製紙に対して、江別工場を木製航空機工場への転換を命じました。

 昭和19(1944)年2月、王子航空機株式会社が設立しました。
そして、早くも元江別地区を対象に滑走路や誘導路、関連施設建設のための用地買収が開始されました。
 用地買収計画は384町1反で、土地買収や立退き補償の該当者は113人でした。このうち、兵村区有財産地は、四番通りの薪炭備林と防風林を兼ねた山林、植樹地で32町9反1畝12歩、評価額は反当たり240円で総額7万9千5十円80銭でした。

 6月10日に開かれました兵村区会議では「土地売却」が提案されましたが、「兵村有地は郡関係飛行場用地として王子航空機株式会社に売却するものであり、刻下の戦況に鑑み急速な措置としたい」という要旨の提案説明が行われました。
議員からは、土地の評価額についての質疑が相次いだが、結局売却には全員が賛成し、兵村区有財産地の「売却」を可決しました。売却代金は、事務費995円を差し引いた全額77,956円を積立金にしました。

 用地買収は、兵村区会による四番通り裏の防風林売却で一挙弾みがつき、昭和19(1944)年10月、元江別の建物の移転や解体は全て終わり、二番通りを中心にして工場要員や男女学生、幼年工たちがはやばやと寄宿し始めました。

 兵村区有財産地の王子航空機への土地売却は、昭和20年2月にも行われました。王子航空機製作所構内から飛鳥山公園を横断して、元江別四番通りへ通ずる誘導路の敷地用で、1町3反1畝四歩、総額9千8百3十7円4十4銭でした。これも、積み立てられました。

 一方で、昭和20(1945)年5月には、防空壕築造費を、兵村区域内の町内会や部落会に対して、14,050円、兵村内の子弟が通う第三国民学校(第三小学校)に対しては、2,000円を補助しました。
 航空機製作所や飛行場をはじめ、関連施設が着々と整備されていくにつれ、米軍機の江別空襲に備えての防空壕築造でした。
兵村区会の補助を受けて築造された兵村連合部落会の共同防空壕は8箇所で、入り口が3尺(1m)、奥行9尺、幅6尺、横18尺、前方と横には暴風除けの土塁が築かれるという頑丈さでした。
 昭和20(1945)年、航空機製作所から飛行場までの一里(4km)の誘導路と幅27間半(50m)、長さ半里(2,000m)の滑走路が完成しました。

 王子航空機で制作したのは、陸軍航空機の最新鋭、四式戦「疾風」キ八四を木製化した試作戦闘機キ一〇六でした。
外観は、疾風と瓜二つで、搭載したエンジンや機器類は全て疾風のもので性能も重量オーバー以外は、疾風と殆ど変わりませんでした。
その木製戦闘機キ一〇六の第1号機が試験飛行を行い、無事成功したのは6月11日でした。
その後、8月15日までに、3号機までを制作して陸軍航空機本部へ納入しました。
終戦までに木製戦闘機キ一〇六に投入された金額は、7千万円に達したと謂われます。

 王子航空機株式会社設立と江別飛行場の建設は、戦局がそうさせたとはいえ、わずか一年余で江別屯田兵村の歴史を作り替えた、壮大なドラマでした。

(参考)当ブログ2008年11月13日(木)「電灯が灯された最初の日」
    当ブログ2008年11月 6日(木)「富士製紙株式会社江別工場建設」
    当ブログ2008年11月 5日(水)「富士製紙株式会社の江別進出」
    当ブログ2008年10月24日(金)「旅館と飲食店」
    当ブログ2008年 9月16日(火)「江別兵村の風土と文化」
    
註:江別屯田兵村遺族会「江別屯田兵村120年の歩み」92-93頁.
写真:戦後アメリカ本土に移送された「木製戦闘機キ一〇六」
   同上書93頁掲載写真複写し、掲載いたしております。

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