江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
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ハウカセと石狩アイヌ

2017年10月17日 | 歴史・文化

  シャクシャインの戦いに際して、石狩アイヌの惣大将ハウカセは、中立を堅持していました。

 注目されるのは、このハウカセが松前藩に対し一貫して強硬姿勢を貫いている点です。
 シャクシャインが蜂起する直前の寛文9年2月、松前藩は藩の交易品の大幅値上げを承諾しなければ交易を途絶するとハウカセを脅迫しました。
 これに対して、ハウカセは、次ぎのように一蹴しました。

 松前殿は、松前の殿、我らは石狩の大将に候得は、松前殿に講可✓申様も無✓之候。又は、松前殿も此方え構申義も成間敷候。商船此方え御越可✓被✓成間敷にも別て構無(ニ)御座(一)候。
 惣て昔より蝦夷は米 酒不✓被✓下候。魚、鹿計被✓下、鹿の川を身に着、たすかり申ものに御座候。商船御越被✓成候義も御無用の由申、通路の者返し申候由。其上商船御越被✓成候はゝ、一人も通し申間銿候由と、物語仕候事。(『津軽一統志』)巻第十)

 我々は、昔から米も酒も食しないから、松前藩の商船は来なくても結構というのです。さらに、ハウカセは、翌10年6月、余市付近まで潜入した津軽藩隠密船に「我々先祖は高岡え参商仕候。松前殿御仕形は、唯今の様子に御座候はゝ、隠忍候ても高岡え参、能米と商仕たく由申候」(前掲書)と、津軽藩の城下高岡(現在の弘前市)での交易を申し入れています。
 ハウカセの希望が実現したかどうかは不明ですが、こうした動き自体が松前藩の存立基盤に関わることだったのです。

 シャクシャインの戦いを鎮圧した松前藩は、仕置(しおき)のために寛文12年までの間、余市・白老・国縫うに出兵し、各地のアイヌ勢力の大将層から、藩主に服従すること、金堀りや鷹侍の活動を妨害しないこと、松前藩以外の藩との交易をしないこと、米一俵=皮5枚または千鮭5束の比率で交換することなどを誓約する起請文を提出させました。
 余市まで侵攻した松前藩は、起請文を取っただけで引き返し、石狩までは進まなかったため、ハウカセ勢力との軍事衝突には至りませんでした。その後のハウカセの消息については、全く史料に残されていません。
 
 シャクシャインの戦いの後、松前藩は、蝦夷地への金属製利器流入と和人の往来を一層厳しく制限しました。
 こうして松前藩の蝦夷地隔離政策は、功を奏し、他藩との流通を断ち切られた惣大将勢力は解体され、商場知行制は蝦夷地に拡大していくことになりました。



註 :江別市総務部「新江別市史」63-64頁.
写真:江別発祥の地「対雁番屋・駅逓所」があった旧豊平川河口左岸付近撮影


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