江別創造舎

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縄文から続縄文へ

2017年04月26日 | 歴史・文化

 本州では、紀元前四世紀頃から、大陸文化の影響を受けて水稲耕作や金属器の使用が始まりました。ここに、約1万年間続いた縄文時代が終わり、弥生時代を迎えました。

 稲作の定着により食料生産力は、飛躍的に向上し、縄文時代に比べ社会は安定し人口も著しく増加しました。そうした弥生社会の成熟は、貧富の格差や階層の分化をもたらし、クニが生まれ、クニとクニは覇権を争うようになりました。
 中国の史書、魏志倭人伝の「舊百餘國。漢の時朝見する者有り、今、使譯通ずる所三十國」の記事はこの時代の日本を記述したものです。3世紀末頃になると、統一国家成立への動きの中で、前方後円墳に代表されるような壮大な古墳が多く造られるようになり、7世紀頃迄続きます。この時代を古墳時代と呼んでいます。

 北九州に始まった稲作文化は、急速に北上し、紀元前2世紀頃には東北地方北部にまで到達しました。弘前市砂沢遺跡では弥生前期の水田跡が6枚、田舎館村垂柳遺跡では弥生中期後半の田舎館式土器文化期に相当する656枚にのぼる水田跡が発見されています。
 一方、北海道では寒冷な気候のため、稲作は行われず、縄文時代と同じような狩猟・漁撈・採集を中心とした社会が続きました。しかし、金属器は伝わって、石器とともに使われるようになり、縄文時代とは明らかに区別されることから、この本州の弥生時代から古墳時代に併行する北海道の時代を続縄文時代と呼んでいます。

 続縄文という言葉には、弥生以降の本州文化に対比して停滞的な北海道文化というイメージがあります。しかし、続縄文時代には、金属器の使用、新たな石器の組み合わせ、住居形態の変化など縄文時代にはない要素も新たに登場しており、「縄文文化の生産基盤を受け継ぎ、環境への新しい対応をしている文化」(藤本強『北辺の遺跡』)と意義づけることもできます。
そうした積極的な評価に立てば、続縄文時代とは、縄文時代まで日本列島の斉一的な文化の中にあった北海道が、本州とは異なる独自の歩み方をはじめた時代といえます。いずれにしても、続縄文文化の展開が次ぎの擦文文化、そしてアイヌ文化の成立過程の中で大きな意味を持つものであったことは間違いないといえます。

 


註:江別市総務部「新江別市史」30頁.
写真:江別カルタ<江別創造舎制作>「と」の句 詠み札と取り札


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