江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

関谷孫左衛門の孫〜古田島市長

2017年02月28日 | 歴史・文化

 古田島薫平の器量の大きさ、鷹揚さはどこからきたのでしょうか?

 ある人は言います。
 毛並みの良さだ、と言います。
 15歳頃まで女中にかしづかれ、いわば乳母日傘で育ったと言うのです。

 古田島薫平は、明治34年7月22日、新潟の北魚沼郡川口村で父 要次郎、母 田鶴の未子として生まれました。
 川口村の古田島家は、大地主 豪農であったため、要次郎は彼の地を離れることができませんでした。
 しかし、明治19年(1886年)創立の北越殖民社の株主として名を連ねた実力者でした。
また、母 田鶴は北越殖民社の草創期を実質的に担った、また貴族院議員でもあった関矢孫左衛門の長女でした。つまり、古田島薫平は、孫左衛門の孫にあたるのです。

 やがて、兄たちは、草深き川口村から東京帝国大学に進むことになりましたが、一人、古田島薫平は、さらに草深きというより、未踏の原野、荒野が広がる北海道を目指しましました。
すなわち、北海道帝国大学に入り、農学を修め、昭和4年3月卒業と同時に、当時、父 要次郎が孫左衛門の跡を継いで社長を務める殖民社に入社、東野幌の筋違に農場を開きました。
当地一帯が海抜10mほどの低地であったため、以降毎年の冷水害に泣かされました。

 昭和9年、この冷水害対策の実現を国等に強く迫る地域の輿望を担って町会議員に当選しました。
ここから乳母日傘をかなぐり捨てた公人としての古田島薫平さんの活躍が始まりました。



註 :江別市総務部「えべつ昭和史」851-852頁.
写真:江別市初代市長 古田島薫平氏
 同上書151頁掲載写真を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。


 

コメント
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