文化活動の中でも、大衆的なものとして菊づくりや板カルタが盛んでした。
まず菊づくりに触れると、大正12年11月、第1回江別菊花大会が開かれました。これは、江別市街の野村医院長が主宰する十六花会の主催で、小菊が中心でした。
『例年、優秀な菊花を一般観覧に供し好評を受けつつあった江別十六花会では9日、10日、11日、3日間午前9時から午後8時迄、千歳館で第4回菊花大会を開催し、当日は即売を行ふ』(大正15.11.7付北海タイムス)
その後、昭和期に入り、全国的に大菊万能時代となりました。そして、富士製紙の菊友会を中心に活動の輪がひろがりました。
しかし、これもやがて不況、そして15年戦争への突入に歩を揃え、徐々に停滞の節に入っていったのではやむをえないことでした。
また、北海道独特の下の句カルタも町民生活の中に溶け込んでいました。
大正15年、昭和7年の両年、江別市街の料亭・胡月を会場に、それぞれ全道下の句カルタ大会が開催されました。
『江別町木ノ芽倶楽部主催高間新聞店後援の全道下の句加留多大会は、27日午後7時より旗亭胡月に於いて開催すべく会費は3人1組金3円(弁当付)賞金の他副賞も沢山にて幌内、当別、野幌、札幌、岩見沢等よりの参加あり盛会を予想されている。』(昭和7.2.26付北海タイムス)
当時の江別の中心選手であった水野清明は、次の逸話を残しました。
彼は、いつもカルタ取りのシートを担いで町内を歩き回っていました。
そして、どこやらか「いづくもおなじ秋のゆうぐれ~」などの読み上げ声が漏れてくると、「頼もう」とばかりその家に上がり込みとりまくった、といいます。
まるで、道場破りのようですが、こうしてカルタは大きな大会はもとより、町内やのあちこちで楽しまれました。
当時、早苗別青年団にいた竹内信男は、「冬になると、はい、あそこの家でカルタするべ。こっち行ってカルタとり。毎日、各家まわって・・・・・」と往時を偲びましたが、それが雪に閉じ込められた北国の冬の、社交を兼ねた細やかな楽しみでもありました。
その他、富士製紙株式会社江別工場を中心とした民謡も盛んでした。
大正14年に江別に移住した今井篁山によると、昭和の初期、江別も追分研究の同好会が富士製紙に三つ、町内に三つほどあり、鈴木晴月、関根はる子らの、かなりの名手がいたといいます。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」112-113頁.
写真:江別創造舎制作「江別カルタ図案化ポスター」
上記文面とは関係ございません。