ロシア・ナショナル管弦楽団 2012日本公演
2012年6月23日(土)14:00~ 横浜みなとみらいホール S席 1階 1列 14番 13,000円(会員割引)
指 揮: ミハイル・プレトニョフ
ピアノ: 河村尚子*
管弦楽: ロシア・ナショナル管弦楽団
【曲目】
グラズノフ:組曲「中世より」作品79より 前奏曲
グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 作品16*
《アンコール》
グリーグ: 抒情小曲集 作品68より「君の足下に」*
チャイコフスキー:交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
《アンコール》
グラズノフ: バレエ音楽「ライモンダ」より「スペインの踊り」
2009年以来3年ぶりの日本ツアーとなったロシア・ナショナル管弦楽団。今回は2012年6月13日から29日にかけて全国10都市で合計11回のコンサートを開く。今日はちょうど中日に当たり、横浜みなとみらいホールに河村尚子さんをゲストに迎えてのコンサートだ。ミハイル・プレトニョフさんの指揮するロシア・ナショナル管は、2009年の来日の時にも聴いている。その時は川久保賜紀さんをソリストにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とベートーヴェンの「英雄」などのプログラムだった。協奏曲の方は素晴らしい名演だったのだが、「英雄」の方がかなり個性的な解釈で、いささか驚かされた印象が強く残っていた。今回はメイン曲がチャイコフスキーだったし、協奏曲は河村さんがソリストで、しかもグリーグ。どちらかといえば安心して聴けるプログラムだろう。河村さんは1週間前の6月16日にリサイタルを聴いたばかりだが、実はグリーグのピアノ協奏曲も、2011年1月に読売日本交響楽団との協演で聴いているので、今日が2回目だ。その時の演奏も素晴らしかった。というわけで、今日は二つの個性がぶつかって、どのような新しい音楽を描き出してくれるのか、興味津々であった。
1曲目は、グラズノフの組曲「中世」より「前奏曲」。これは滅多に聴くことのできない曲だが、実はとても素敵な曲なのである。プログラム・ノートによると、「中世より」は中世のイメージに基づく4曲からなる標題組曲、とのこと。「前奏曲」は荒波の打ち寄せる城の中でその音も耳に入らない恋人たちが甘い濃いに浸る情景が描かれているのだという。8分くらいの曲だが、前半は確かに暗く重々しい悲劇的なイメージの曲想だが、後半は甘美で抒情的な美しい旋律が続き、劇的な盛り上がりを見せて終わる。後半はラフマニノフに近いイメージである。
演奏の方は、前半はロシアっぽい重厚な音で荒っぽく迫ってくるのは良いとしても、後半のロマンティックな部分では、弦楽、とくにヴァイオリンの音に濁りが感じられて、甘い気分にちょっと水を差していたかも…。ただ、2009年の時に感じた違和感はなく、お国もののグラズノフ、しかもロマンティックな作品に対して、プレトニョフさんの音楽作りは分かりやすく劇的な要素もあって、なかなか素晴らしい。
2曲目はグリーグ。何度聴いても、この曲自体が持っている「透き通った感性」が好きだ。北欧ものの中でも、この曲にとくに感じるのは、ピアノ協奏曲という純音楽なのに、標題音楽的な意味での具体的な情景ではなく、抽象的=観念的な情景のように感じるものが描き出されているということだ。聴く人によって感じ方は違うと思うが、私には抽象的な観念としての「透明感」や「清冽さ」を感じる。そこがシベリウスと違うところ。シベリウスの方が具体的な景色が見えるように思う。グリーグのピアノ協奏曲も北欧の曲らしい「美しい自然」を感じるのだが、それがもっと純粋な(観念的な)「自然」を感じさせてくれるのが、この曲ならではの素敵な演奏なのである、といいたいのだ。
河村さんは淡い紫(藤色というのだろうか)のドレスで(偶然にも、私も同じ色の服を着ていた)、いつものように自然体で登場すると、ステージの上に彼女の世界が拡がっていくようだ。今日は1列目、目の前に彼女がいる。
第1楽章、冒頭のカデンツァから、独特の和音の美しさが際立つ演奏だ。河村さんのピアノから生まれる音は、幼いときから聴いて育ったドイツの音がベースになっているのだと思う。それがレパートリーが拡がるにつれて全ヨーロッパ的な音に変化してきているような気がする。そしてそれはグリーグだからグリーグっぽい透明感で、というのではなく、河村尚子っぽい透明感=個性ということなのだろう。音楽が好きで、音楽を楽しみ、心に宿った感性が指先を通じて紡ぎ出されている。そんな気がしてならない。
かなり「観念的」な話になってしまったので、具体的なものに戻そう。いつものように、河村さんが演奏している時の表情がいい。千変万化する表情は、楽想のイメージを表していて、近くで聴いて(見て)いるので、耳と目で同じ音楽を感じ取ることができる。楽しそうであったり、ロマンティックであったり。表情の豊かさは、楽想の豊かさにつながっているのだ。
この曲は、もともとピアノとオーケストラがぶつかり合うような曲ではない。河村さんの「透明」な音色は、オーケストラの音が澄んでいればいるほど、自然に融け合わされるように混ざっていく。透明なもの同士はいくら混ぜ合わせても透明だからだ。今日の演奏では、オーケストラ側からロシア的な泥臭さが抜けきれず、その分だけ一体になるとまではいかなかったようだ。
第2楽章の抒情的・感傷的な旋律は誰が聴いても美しいと感じるはず。主部においては弦楽のアンサンブルが、ここへきて美しく透明になってきた。ホルンと木管も抑制が効いて弱音が上手い。ピアノのソロが入ってくれば、ピュアに響きにより、透明感が増していくよう。映像的な描写をすれば、緩やかに流れる雪解けの清流に、木の枝から朝靄を溜めた雫がこぼれ落ち、わずかな波紋を残して清らかに流れていく…。といったところだ。しかし私は、心の清らかさ(宗教的な意味ではなくて)のような「観念的」な美しさを感じた。
第3楽章の民族音楽的なモチーフは、河村さんのピアノに躍動感を与える。第1主題の弾むような楽想には、跳ねる洋之伸びやかに腕が踊り、しなやかな打鍵でリズミカルな演奏。和音の美しさは、曲もキレイだが和音を構成する音たちの微妙な力感の違いが、さらに澄んだ和音を生み出しているようだ。中間部にある第2主題に相当するフルートの主題をピアノが繰り返す部分に至っては、涙ものの美しさである。短いカデンツァを経て拍子が変わるとさらに軽快さを増し、テンポを落としてクライマックスへ。この辺の劇的な盛り上げ方はプレトニョフさんが職人芸的なところを聴かせてくれる。河村さんもプレトニョフさんもBraviであった。
河村さんの演奏は、自然体のピュア・サウンド。ヨーロッパのいろいろな音楽から栄養をもらって育まれてきた、他の人にはない質感のある澄んだ音色がとても素敵だ。演奏の技巧は超一流なのだけれども、まったくそれを感じさせない自然な感性に満ちた演奏であった。今ここで、この演奏を聴くことがてきて本当に幸せだと思う。
アンコールはグリーグの小品から「君の足下に」。こちらは協奏曲の強めの打鍵と違い、ppがとくにキレイな繊細でエレガントな演奏だった。
後半は、プレトニョフさんが自信をもって臨んだチャイコフスキーの交響曲第4番。さすがにお国ものの演奏となると、安定感が違う。かつて聴いたベートーヴェンに見られた独奏的な解釈のようなものはなく、オーソドックスな仕上げであった。だがそこに、ロシア人の指揮者で、ロシアのオーケストラで、チャイコフスキーなのだから、聴く人すべてが名演を期待するというバイアスがかかるはずである。年配の方なら、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル(現在のサンクトペテルブルグ・フィル)などの名演を思い出し、「あれに比べれば…」と、つい言いたくなってしまう。この辺りは、演奏家側も十分承知していることだろう。聴く方も素人ばかりではないが、興行的にはどうしても、ロシアのオーケストラにはチャイコフスキーを演奏させることになる。工夫が足らないと思えないこともないが…。
そのような中で聴いたにしても、今日の演奏は名演の方に十分に入るものだったのではないだろうか。
まずオーケストラの配置だが、ヴァイオリンの第1と第2が対向配置で、第1の奥がチェロとコントラバス、第2の奥がヴィオラだ。管楽器の配置は見えなかったが、通常通りであろう。この配置は第3楽章で面白い効果を出していた。また変わっていたのは雛壇を一切使わず、全員が平らな同じステージ面にいたこと。つまり客席側から見れば管楽器がやや低い位置にいて音が前に出にくいのではないか…。何か狙いがあるのだろうか。
冒頭の金管のファンファーレから、押し出しの強い演奏で、いかにもロシアっぽくて良い。とくにホルンは野太い強音から長く伸ばす弱音まで、場面に応じて多彩な音色を出していて素晴らしい(1回音を外したが…)。またトランペットも晴れやかな音で押し出してきているのに、突き抜け過ぎない、微妙なバランスを保っていた。この辺りは雛壇を使わない効果だろうか? また、トロンボーンとチューバは安定した重低音で、音楽の下側をどっしりと支えていた。
また木管では、オーボエが牧歌的な良い音色を出していたが、息の長い旋律ではやや一本調子になってしまったのが惜しまれる(第2楽章の冒頭など)。一方、クラリネットはあまり目立たなかったが、オーケストラの中ではバランス良く吹かれていたようだ。逆にフルートはやや飛び出し気味だった。ファゴットはとぼけた味わいが深く、表現力にも深みがあった。
総じて管楽器群の実力はなかなかのもので、もはや豪快で荒っぽいだけのロシアのオーケストラなどということはできない。
弦楽器は後半は濁りがなくなり、緻密なアンサンブルになってきた。チャイコフスキーならではの抒情的な旋律には、やはり甘い香りのするキレイな音が似合っている。それでいて全合奏になった時などの弦楽の力強さと重厚感は、大柄な男性の多いロシアのオーケストラならではの迫力も兼ね備えていた。
オーケストラ全体で見ても、ダイナミックレンジが広く、馬力が感じられるのはさすがにロシアだ。しかしプレトニョフさんの指揮を含めて、大音量で押しまくるという感じでもなく、迫力はありながらもかなり洗練されていたようにも感じられた。また、音に厚みのある濃厚なフレージングも見事なもので、ロシア風というよりは、国際級と言えるようにも思えたのだが…。
プレトニョフさんの指揮は、概ねスタンダードだったとは思うが、旋律を歌わせるフレージングが巧く、リズム感もかなり躍動的で良かったように思う。ご自身の手兵だけに、もう細かな指示などは出さずに、曲の大きな流れを作っていただけに見えたが、それでもオーケストラさすがに慣れているらしく、かなり細かいところまで緻密なアンサンブルを聴かせている。第3楽章の弦楽のピチカートなど、左右対向に配置されたヴァイオリンから絶妙のステレオ効果を出していた。指揮者のすぐ後ろの最前列で聴いていただけに、対向配置の面白さを堪能できた。
プレトニョフさんは曲全体をドラマティックに構成するのが上手い。曲の流れのスムーズさ、テンポを揺らしてタメを作り劇的効果を上げる。この辺りはさすがにお国もので名曲中の名曲だけあって、ドラマ性が身体に染み着いているのだろう。奇をてらったところもなく、スタンダードではあったが、聴く人にケチを付けさせないだけの説得力と存在感のある演奏であった。すなわち名演と言っていいだろうと思う。
アンコールはグラズノフの「ライモンダ」より「スペインの踊り」。カスタネットを鳴らし、フラメンコのようなスイング感のある楽しい曲で、陽気にコンサートをしめくくった。
終演後は恒例のサイン会…がなかった。ところが友人に伴って楽屋に入れていただき、河村さんと少しお話しさせていただくことができた。彼女はこういう時でも自然体のままで、オーラを感じさせるような雰囲気ではないが、音楽に対してはいつも誠実で理知的であることは伝わってくる。何処にでも居るような素敵なお嬢さんというイメージと、世界中の音楽ファンを惹き付ける素晴らしいピアニストというイメージが完全に重ならないところが彼女の魅力。だから追いかけたくなるのである。ということで記念写真を撮らせていただいたり、プログラムにサインをいただいたりと、短かったとはいえ、とても嬉しい時を過ごすことができた。
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2012年6月23日(土)14:00~ 横浜みなとみらいホール S席 1階 1列 14番 13,000円(会員割引)
指 揮: ミハイル・プレトニョフ
ピアノ: 河村尚子*
管弦楽: ロシア・ナショナル管弦楽団
【曲目】
グラズノフ:組曲「中世より」作品79より 前奏曲
グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 作品16*
《アンコール》
グリーグ: 抒情小曲集 作品68より「君の足下に」*
チャイコフスキー:交響曲 第4番 ヘ短調 作品36
《アンコール》
グラズノフ: バレエ音楽「ライモンダ」より「スペインの踊り」
2009年以来3年ぶりの日本ツアーとなったロシア・ナショナル管弦楽団。今回は2012年6月13日から29日にかけて全国10都市で合計11回のコンサートを開く。今日はちょうど中日に当たり、横浜みなとみらいホールに河村尚子さんをゲストに迎えてのコンサートだ。ミハイル・プレトニョフさんの指揮するロシア・ナショナル管は、2009年の来日の時にも聴いている。その時は川久保賜紀さんをソリストにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とベートーヴェンの「英雄」などのプログラムだった。協奏曲の方は素晴らしい名演だったのだが、「英雄」の方がかなり個性的な解釈で、いささか驚かされた印象が強く残っていた。今回はメイン曲がチャイコフスキーだったし、協奏曲は河村さんがソリストで、しかもグリーグ。どちらかといえば安心して聴けるプログラムだろう。河村さんは1週間前の6月16日にリサイタルを聴いたばかりだが、実はグリーグのピアノ協奏曲も、2011年1月に読売日本交響楽団との協演で聴いているので、今日が2回目だ。その時の演奏も素晴らしかった。というわけで、今日は二つの個性がぶつかって、どのような新しい音楽を描き出してくれるのか、興味津々であった。
1曲目は、グラズノフの組曲「中世」より「前奏曲」。これは滅多に聴くことのできない曲だが、実はとても素敵な曲なのである。プログラム・ノートによると、「中世より」は中世のイメージに基づく4曲からなる標題組曲、とのこと。「前奏曲」は荒波の打ち寄せる城の中でその音も耳に入らない恋人たちが甘い濃いに浸る情景が描かれているのだという。8分くらいの曲だが、前半は確かに暗く重々しい悲劇的なイメージの曲想だが、後半は甘美で抒情的な美しい旋律が続き、劇的な盛り上がりを見せて終わる。後半はラフマニノフに近いイメージである。
演奏の方は、前半はロシアっぽい重厚な音で荒っぽく迫ってくるのは良いとしても、後半のロマンティックな部分では、弦楽、とくにヴァイオリンの音に濁りが感じられて、甘い気分にちょっと水を差していたかも…。ただ、2009年の時に感じた違和感はなく、お国もののグラズノフ、しかもロマンティックな作品に対して、プレトニョフさんの音楽作りは分かりやすく劇的な要素もあって、なかなか素晴らしい。
2曲目はグリーグ。何度聴いても、この曲自体が持っている「透き通った感性」が好きだ。北欧ものの中でも、この曲にとくに感じるのは、ピアノ協奏曲という純音楽なのに、標題音楽的な意味での具体的な情景ではなく、抽象的=観念的な情景のように感じるものが描き出されているということだ。聴く人によって感じ方は違うと思うが、私には抽象的な観念としての「透明感」や「清冽さ」を感じる。そこがシベリウスと違うところ。シベリウスの方が具体的な景色が見えるように思う。グリーグのピアノ協奏曲も北欧の曲らしい「美しい自然」を感じるのだが、それがもっと純粋な(観念的な)「自然」を感じさせてくれるのが、この曲ならではの素敵な演奏なのである、といいたいのだ。
河村さんは淡い紫(藤色というのだろうか)のドレスで(偶然にも、私も同じ色の服を着ていた)、いつものように自然体で登場すると、ステージの上に彼女の世界が拡がっていくようだ。今日は1列目、目の前に彼女がいる。
第1楽章、冒頭のカデンツァから、独特の和音の美しさが際立つ演奏だ。河村さんのピアノから生まれる音は、幼いときから聴いて育ったドイツの音がベースになっているのだと思う。それがレパートリーが拡がるにつれて全ヨーロッパ的な音に変化してきているような気がする。そしてそれはグリーグだからグリーグっぽい透明感で、というのではなく、河村尚子っぽい透明感=個性ということなのだろう。音楽が好きで、音楽を楽しみ、心に宿った感性が指先を通じて紡ぎ出されている。そんな気がしてならない。
かなり「観念的」な話になってしまったので、具体的なものに戻そう。いつものように、河村さんが演奏している時の表情がいい。千変万化する表情は、楽想のイメージを表していて、近くで聴いて(見て)いるので、耳と目で同じ音楽を感じ取ることができる。楽しそうであったり、ロマンティックであったり。表情の豊かさは、楽想の豊かさにつながっているのだ。
この曲は、もともとピアノとオーケストラがぶつかり合うような曲ではない。河村さんの「透明」な音色は、オーケストラの音が澄んでいればいるほど、自然に融け合わされるように混ざっていく。透明なもの同士はいくら混ぜ合わせても透明だからだ。今日の演奏では、オーケストラ側からロシア的な泥臭さが抜けきれず、その分だけ一体になるとまではいかなかったようだ。
第2楽章の抒情的・感傷的な旋律は誰が聴いても美しいと感じるはず。主部においては弦楽のアンサンブルが、ここへきて美しく透明になってきた。ホルンと木管も抑制が効いて弱音が上手い。ピアノのソロが入ってくれば、ピュアに響きにより、透明感が増していくよう。映像的な描写をすれば、緩やかに流れる雪解けの清流に、木の枝から朝靄を溜めた雫がこぼれ落ち、わずかな波紋を残して清らかに流れていく…。といったところだ。しかし私は、心の清らかさ(宗教的な意味ではなくて)のような「観念的」な美しさを感じた。
第3楽章の民族音楽的なモチーフは、河村さんのピアノに躍動感を与える。第1主題の弾むような楽想には、跳ねる洋之伸びやかに腕が踊り、しなやかな打鍵でリズミカルな演奏。和音の美しさは、曲もキレイだが和音を構成する音たちの微妙な力感の違いが、さらに澄んだ和音を生み出しているようだ。中間部にある第2主題に相当するフルートの主題をピアノが繰り返す部分に至っては、涙ものの美しさである。短いカデンツァを経て拍子が変わるとさらに軽快さを増し、テンポを落としてクライマックスへ。この辺の劇的な盛り上げ方はプレトニョフさんが職人芸的なところを聴かせてくれる。河村さんもプレトニョフさんもBraviであった。
河村さんの演奏は、自然体のピュア・サウンド。ヨーロッパのいろいろな音楽から栄養をもらって育まれてきた、他の人にはない質感のある澄んだ音色がとても素敵だ。演奏の技巧は超一流なのだけれども、まったくそれを感じさせない自然な感性に満ちた演奏であった。今ここで、この演奏を聴くことがてきて本当に幸せだと思う。
アンコールはグリーグの小品から「君の足下に」。こちらは協奏曲の強めの打鍵と違い、ppがとくにキレイな繊細でエレガントな演奏だった。
後半は、プレトニョフさんが自信をもって臨んだチャイコフスキーの交響曲第4番。さすがにお国ものの演奏となると、安定感が違う。かつて聴いたベートーヴェンに見られた独奏的な解釈のようなものはなく、オーソドックスな仕上げであった。だがそこに、ロシア人の指揮者で、ロシアのオーケストラで、チャイコフスキーなのだから、聴く人すべてが名演を期待するというバイアスがかかるはずである。年配の方なら、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル(現在のサンクトペテルブルグ・フィル)などの名演を思い出し、「あれに比べれば…」と、つい言いたくなってしまう。この辺りは、演奏家側も十分承知していることだろう。聴く方も素人ばかりではないが、興行的にはどうしても、ロシアのオーケストラにはチャイコフスキーを演奏させることになる。工夫が足らないと思えないこともないが…。
そのような中で聴いたにしても、今日の演奏は名演の方に十分に入るものだったのではないだろうか。
まずオーケストラの配置だが、ヴァイオリンの第1と第2が対向配置で、第1の奥がチェロとコントラバス、第2の奥がヴィオラだ。管楽器の配置は見えなかったが、通常通りであろう。この配置は第3楽章で面白い効果を出していた。また変わっていたのは雛壇を一切使わず、全員が平らな同じステージ面にいたこと。つまり客席側から見れば管楽器がやや低い位置にいて音が前に出にくいのではないか…。何か狙いがあるのだろうか。
冒頭の金管のファンファーレから、押し出しの強い演奏で、いかにもロシアっぽくて良い。とくにホルンは野太い強音から長く伸ばす弱音まで、場面に応じて多彩な音色を出していて素晴らしい(1回音を外したが…)。またトランペットも晴れやかな音で押し出してきているのに、突き抜け過ぎない、微妙なバランスを保っていた。この辺りは雛壇を使わない効果だろうか? また、トロンボーンとチューバは安定した重低音で、音楽の下側をどっしりと支えていた。
また木管では、オーボエが牧歌的な良い音色を出していたが、息の長い旋律ではやや一本調子になってしまったのが惜しまれる(第2楽章の冒頭など)。一方、クラリネットはあまり目立たなかったが、オーケストラの中ではバランス良く吹かれていたようだ。逆にフルートはやや飛び出し気味だった。ファゴットはとぼけた味わいが深く、表現力にも深みがあった。
総じて管楽器群の実力はなかなかのもので、もはや豪快で荒っぽいだけのロシアのオーケストラなどということはできない。
弦楽器は後半は濁りがなくなり、緻密なアンサンブルになってきた。チャイコフスキーならではの抒情的な旋律には、やはり甘い香りのするキレイな音が似合っている。それでいて全合奏になった時などの弦楽の力強さと重厚感は、大柄な男性の多いロシアのオーケストラならではの迫力も兼ね備えていた。
オーケストラ全体で見ても、ダイナミックレンジが広く、馬力が感じられるのはさすがにロシアだ。しかしプレトニョフさんの指揮を含めて、大音量で押しまくるという感じでもなく、迫力はありながらもかなり洗練されていたようにも感じられた。また、音に厚みのある濃厚なフレージングも見事なもので、ロシア風というよりは、国際級と言えるようにも思えたのだが…。
プレトニョフさんの指揮は、概ねスタンダードだったとは思うが、旋律を歌わせるフレージングが巧く、リズム感もかなり躍動的で良かったように思う。ご自身の手兵だけに、もう細かな指示などは出さずに、曲の大きな流れを作っていただけに見えたが、それでもオーケストラさすがに慣れているらしく、かなり細かいところまで緻密なアンサンブルを聴かせている。第3楽章の弦楽のピチカートなど、左右対向に配置されたヴァイオリンから絶妙のステレオ効果を出していた。指揮者のすぐ後ろの最前列で聴いていただけに、対向配置の面白さを堪能できた。
プレトニョフさんは曲全体をドラマティックに構成するのが上手い。曲の流れのスムーズさ、テンポを揺らしてタメを作り劇的効果を上げる。この辺りはさすがにお国もので名曲中の名曲だけあって、ドラマ性が身体に染み着いているのだろう。奇をてらったところもなく、スタンダードではあったが、聴く人にケチを付けさせないだけの説得力と存在感のある演奏であった。すなわち名演と言っていいだろうと思う。
アンコールはグラズノフの「ライモンダ」より「スペインの踊り」。カスタネットを鳴らし、フラメンコのようなスイング感のある楽しい曲で、陽気にコンサートをしめくくった。
終演後は恒例のサイン会…がなかった。ところが友人に伴って楽屋に入れていただき、河村さんと少しお話しさせていただくことができた。彼女はこういう時でも自然体のままで、オーラを感じさせるような雰囲気ではないが、音楽に対してはいつも誠実で理知的であることは伝わってくる。何処にでも居るような素敵なお嬢さんというイメージと、世界中の音楽ファンを惹き付ける素晴らしいピアニストというイメージが完全に重ならないところが彼女の魅力。だから追いかけたくなるのである。ということで記念写真を撮らせていただいたり、プログラムにサインをいただいたりと、短かったとはいえ、とても嬉しい時を過ごすことができた。
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