Bravo! オペラ & クラシック音楽

オペラとクラシック音楽に関する肩の凝らない芸術的な鑑賞の記録

7/29(水)読響サントリー名曲/エーベルレ/ジェレミー・ローレル/特徴に乏しいメンデルスゾーン・プロ

2015年07月29日 23時00分00秒 | クラシックコンサート
読売日本交響楽団 第584回サントリーホール名曲シリーズ

2015年7月29日(水)19:00~ サントリーホール S席 1階 3列 20番 4,123円(会員割引)
指 揮: ジェレミー・ローレル
ヴァイオリン: ヴェロニカ・エーベルレ*
管弦楽: 読売日本交響楽団
【曲目】
メンデルスゾーン: 付随音楽「真夏の夜の夢」序曲
メンデルスゾーン: ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64*
《アンコール》
 J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番から「アダージョ」*
メンデルスゾーン: 交響曲 第4番 イ長調 作品90「イタリア」

 読売日本交響楽団の「サントリーホール名曲シリーズ」を聴く。このシリーズ、年間会員になっているにもかかわらず、実に1年ぶりになってしまった。読響は東京と横浜で7つの定期シリーズを行っているため同プログラムのコンサートが各シリーズにまたがって開催される。今期2015/2016シーズンは3つのシリーズで会員になっているので、余程のことがない限り、どこかで1回聴けばよい。そう思っていたら、「サントリー名曲シリーズ」は何と昨年2014年の7月以来になってしまったのである。

 今日のコンサートは、フランスの新鋭、ジェレミー・ローレルさんを招いてのオール・メンデルスゾーン・プログラム。ローレルさんは若手ながら古楽に通じた人ということらしく、今回が初来日。当然、読響とも初共演だ。古楽が得意のフランス人が、なぜメンデルスゾーンなのか・・・・。その懸念は、曲が始まったら現実のものになった。

 「真夏の夜の夢」序曲から、どこかしっくり来ない。音楽全体が平板で、ロマン派的な感情的な表現ではなく感じられる。オーケストラも小編成で、音量も出ていないし、発揮度のない演奏なのである。ローレルさんは、踊るように身体を動かし、大きくレガートを効かせるような振り方で一所懸命やっているのだが、どうもオーケストラ側の反応が鈍い。お互いの信頼関係がまだ出来上がっていないというか、手探り状態で演奏しているようなイメージである。従って、何を言いたいのかわからない演奏に聞こえた。

 ヴァイオリン協奏曲のソリストは、ヴェロニカ・エーベルレさん。こちらはドイツの若手。笑顔が素敵な小顔美人である。演奏の方は、ドイツ系の女性らしい、繊細で優美なもの。伝統的な佇まいで、しっとりとした美しい音色で歌うが、押し出しはあまり強くない。
 第1楽章は速めのテンポでスイスイと進んでいく感じで、ローレルさんの指揮する部分が単調で味わいが淡泊な印象になる。そこをエーベルレさんがソロに近いようなところはたっぷりと抒情的に歌わせるのだが、オーケストラとの協奏になるとインテンポでスイスイ行ってしまうので、深い表現をする間合いが持てない、というような印象である。
 第2楽章はいくぶんエーベルレさんの方に主導権が移ってきた感じがする。緩徐楽章だから主題をロマンティックに歌わせるエーベルレさんのヴァイオリンがしっとりとした味わいを増している。ローレルさんはエーベルレさんの方を見ながら合わせていくのだが、オーケストラが主旋律を受け持つと単調なインテンポが出てくる。これではソリストの魅力を活かすことができないのではないだろうか・・・・。
 第3楽章に入るとまた速いインテンポ設定になり、軽快に・・・・というよりは軽薄な印象。ソロ・ヴァイオリンとオーケストラも微妙に縦のラインが合わずに、ドタバタした演奏が続く。どうも居心地の悪い音楽が続いてそのまま終わってしまった。
 さんざん聴き慣れた名曲だけに、あまりにも単調でこれほどつまらない演奏も久しぶりのような気がする。エーベルレさんは、もちろん素晴らしいヴァイオリニストであることは間違いないが、今日のところはその魅力を、おそらく半分も発揮できていなかったのではないだろうか。どうにもこうにもローレルさんの指揮はいただけない。まるでメトロノームのようで、あくまで譜面通りに演奏しました、という感じなのである。古楽に通じた指揮者だというが、この曲は思いっきりロマン派なんだから・・・・。

 エーベルレさんのソロ・アンコールは、J.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番」から「アダージョ」。バロック音楽を逆に思い入れたっぷり、濃厚で自由度の高いロマン派音楽のような豊かな表現であった。こちらの方が彼女の本来の姿だと思う。素晴らしい演奏だ。ところで、このソロ・アンコールの間、2階のR側の方で、ずっと咳をし続けている人がいた。咳が出るのはやむを得ないとしても、あまりにも無遠慮に大きな咳をし続けているのは、不愉快の極みである。

 後半は、交響曲第4番「イタリア」。この曲の演奏については、もうあまりコメントしたくない気分だ。第1楽章から早めのテンポで、またまたメトロノームのごとき単調なインテンポ。ローレルさんは身振り手振りも大きく、いかにも一所懸命指揮しているみたいな姿なのだが、聞こえてくる音楽が単調そのものでは如何ともしがたい。テンポが一定だというだけでなく、オーケストラのダイナミックレンジも狭く、音量も小さい。読響がその辺のアマチュア・オーケストラみたいに、ただ演奏しているだけに聞こえる。もちろん演奏技術は高いのでアマチュア・レベルなどといったら失礼に当たるが、あまりノリの良い演奏でなかったことは確かだろう。4日前に横浜みなとみらいホールで聴いたデニス・ラッセル・デイヴィスさんが指揮したホルストの「惑星」の時とはまったく違うオーケストラになってしまっていた。改めて指揮者によってこれほど違うものかと思い知らされた。なんだか、ガッカリの一夜である。

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7/25(土)読響みなとみらい名曲/読響の魅力爆発/ラッセル・デイヴィスの王道を行く堂々たる「惑星」

2015年07月25日 23時00分00秒 | クラシックコンサート
読売日本交響楽団/第81回みなとみらいホリデー名曲シリーズ

2015年7月25日(土)14:00~ 横浜みなとみらいホール S席 1階 C2列 14番 4,312円
指 揮: デニス・ラッセル・デイヴィス
ヴァイオリン: ダニエル・ゲーデ*
チェロ: グスタフ・リヴィニウス*
児童合唱: 東京少年少女合唱隊**
管弦楽: 読売日本交響楽団
コンサートマスター: 長原幸太
【曲目】
ブラームス: ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102*
ホルスト: 組曲「惑星」作品32
     .火星:戦争の神
     .金星: 平和の神
     .水星: 翼のある使いの神
     .木星: 快楽の神
     .土星: 老年の神
     .天王星: 魔術の神
     .海王星: 神秘の神**

 読売日本交響楽団の「第81回みなとみらいホリデー名曲シリーズ」を聴く。最近2回ほど続けて他のコンサートと重なったりしてパスしてしまったため、今年の1月以来となってしまった。今日のマエストロは、アメリカ出身のデニス・ラッセル・デイヴィスさん。しかし活躍の場は主にヨーロッパで、読響には2013年12月に客演し、その年の「第九」を振った。私も同じみなとみらいホールで聴いている

 プログラムの前半は、ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」。ソリストは、ヴァイオリンが読響のコンサートマスターを務めているダニエル・ゲーデさん(本日のコンサートマスターは長原幸太さん)、チェロがグスタフ・リヴィニウスさんである。
 こちらの演奏は、正直に言うといささか冴えないものであった。まず第一に、二人のソリストが譜面を見ながらの演奏だったこと。最近では協奏曲のソリストが譜面台を立てることも決して珍しくはないが、それでも普通の場合は確認用といった程度で譜面に頼った演奏をする人はほとんどいない。ところが今日のお二人は、ずっと譜面を見ながらの演奏。とくにゲーデさんは立っているにもかかわらず、身体もほとんど動かさずに、ひたすら譜面を追って、視線を外さない。つまりオーケストラに乗っているとき、コンサートマスターとして演奏している時のように譜面と睨めっこである。そして音質も音量もコンサートマスターがソロを弾くときと同じようなレベルで、アンサンブルは良いが、音が立ち上がらずにオーケストラに溶け込んでしまう。これでは少々もの足りない。長年コンサートマスターを務めた人がソリストとして登場するときにいつも感じるパターンである。それにつられてか、リヴィニウスさんのチェロも押し出しが弱く、インパクトには欠けるようであった。2列目のソリスト正面の位置で聴いていてそう感じたので、3階席まで音が届いただろうかと心配になる。あるいは遠鳴りしていたのだろうか。

 後半は、ホルストの「惑星」。4管編成の大オーケストラがステージいっぱいにギッシリと並び、読響ならではの爆音が轟いた。ダイナミックレンジが広いのではなくて、全体的に音量が大きい。ステレオのボリュームをグイっと上げた感じである。それでも全合奏になってもバランスが崩れた感じはしなかったので、まだまだ余裕をもってアンサンブルがコントロールされていたのだとは思うが、とにかく音がデカイ。ある意味で、オーケストラというのは本当はこんなにスゴイんだぜ!! と言わんがばかり。読響の魅力爆発である。
 第1曲の「火星: 戦争の神」は5拍子の不思議な迫力の曲。この不規則な行進曲風の音楽こそまさに宇宙人襲来のイメージではないかと思う。ホルストは占星術などにも造詣があり、科学的な世界観、あるいはSF(空想科学)的世界観でこの曲を作ったのではないと語っているそうだが、「惑星」はどう聴いても標題音楽にしか聞こえない。その中で火星=戦争という概念が占星術にあるのかどうかは知らないが、むしろここはH.G.ウェルズの古典的SF小説『宇宙戦争』あたりの影響を受けたのではないだろうか。同じ英国人ということもあるし。
 ここでの読響の演奏は凄まじい迫力で、大音量で迫って来た。金管の不気味な和音と5拍子を刻む打楽器が強烈に押し出され、弦楽も負けない音量を出している。全合奏のエネルギーはいうことなし。
 第2曲の「金星: 平和の神」は移転して緩徐楽章のような位置付けになる。ホルンのソロが柔らかな質感を出し、ハープや木管の優しい音色が、色彩感豊かに天国的な主題を描いていく。弦楽のアンサンブルも美しい。ラッセル・デイヴィスさんの音楽作りは王道を行くタイプのもので、ストレートで解りやすく、楽曲の魅力をうまく引き出しているといえる。
 第3曲の「水星: 翼のある使いの神」はスケルツォ楽章に相当する。諧謔的で滑稽な曲想である。軽快で流れるようなリズム感がとても素直で、自然な風合いに満ちていた。この辺りは純音楽だと言われれば、確かにそう聞こえる。チェレスタが効果的に使われ、色彩の中に透明感を描き出していた。
 第4曲は有名な「木星: 快楽の神」。ここまでが交響曲の4つの楽章のように構成されていて、「木星」はフィナーレ楽章的な壮麗さを持っている。結果的に全7曲の中でもっとも有名になり、「惑星」のクライマックスということもできよう。中間部の有名な部分は、今日の演奏ではやや速めのテンポわ採り、むしろあまり劇的には作らずにいた。むしろ主部での金管の咆哮が活き活きとして生命力に満ちた演奏で、音色も明るく晴れやかで、素晴らしい。ここで終われば交響曲「惑星」という感じだ。
 第5曲の「土星: 老年の神」は神秘的な雰囲気の曲。緩徐楽章風でもあり、弱音から徐々にクレシェンドしていくあたりの演奏もかなり質感が高い。遠くから手前の方に何かが行進してくるような、漠とした雰囲気が漂っていて素敵な演奏だ。
 第6曲の「天王星: 魔術の神」は再びスケルツォだが、今度は諧謔性に力強いイメージが加わっている。クライマックスに向けて盛り上がっていくと、金管が低く地響きを立て、打楽器が炸裂する。トランペットや木管は陽性な音色で華やかだ。
 終曲の「海王星: 神秘の神」はまったく曲想が変わり、神秘的な音楽になる。近代音楽的な和声が独特の浮遊感をもたらす。そしてこの曲のみ女声合唱が加わる。今日の演奏では少年少女合唱を採用していた。合唱団は右側の奥の方にいて、私のところからはまったく見えなかったため、ヴォカリースの合唱が聞こえて来たときは方角が分からず、さらに神秘的なイメージを作るのに貢献していた。どこからともなく漂って来るような合唱とハープの音が印象に残る。消え入るようなエンディング(いわゆるフェードアウト)は、まさに宇宙の果てに永遠に落下していくようである。
 というわけで、今日の「惑星」はかなり素晴らしい演奏だったといえそうだ。ラッセル・デイヴィスさんのクセのない、それでいて堂々とした音楽作りが功を奏し、読響から揺るぎないサウンドを引き出していた。最強奏の爆音も凄まじいが、「金星」や「海王星」の弱音も、じつはある程度しっかり音を出していたので極めて安定していて音色も豊かであった。久しぶりに(といったら失礼かな?)読響の魅力が爆発したような、素晴らしい「惑星」であった。

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7/24(金)東京ニューシティ管定期/新校訂版「フィンランディア」とオリジナルコンセプツのブルックナー5番

2015年07月24日 23時00分00秒 | クラシックコンサート
東京ニューシティ管弦楽団/第100回定期演奏会
~世界初演シリーズ・再演~


2015年7月24日(金)19:00~ 東京芸術劇場コンサートホール A席 1階 A列 17番 5,000円
指 揮: 内藤 彰
ピアノ: フィリップ・コパチェフスキー*
管弦楽: 東京ニューシティ管弦楽団
【曲目】
シベリウス: 交響詩「フィンランディア」作品26
ショパン: ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11*
《アンコール》
 ショパン: マズルカ 第5番 変ロ長調 作品7-1*
 グリーグ: 夏の夕暮れ*
ブルックナー: 交響曲 第5番 変ロ長調(川凬高伸編集原初稿/自筆譜Mus.Hs.19.1477に基づく)

 東京ニューシティ管弦楽団の第100回定期演奏会を聴く。今シーズン(2015/2016)の2回目となる今回は、「世界初演シリーズ・再演」と銘打って、プログラム自体は珍しいものではないが、演奏に使用されるスコアが特殊なものになっていて、ゆえに「世界初演」というのは、使用されるスコアの版の初演という意味である。過去に東京ニューシティ管で行われた「初演」を、第100回(および次回第101回)を記念して「再演」するというものである。指揮するのは芸術監督の内藤 彰さんだが、この人がクセ者で、ブルックナーを初めとする楽曲の数々を細かく検証し、一般に流通しているスコアの誤りや慣習的に行われている演奏解釈の誤りを探し出し、世に発表している。今日演奏される曲の中では、「フィンランディア」が新校訂版による演奏、ブルックナーの交響曲第5番が川凬高伸氏の校訂による原初稿(オリジナル・コンセプツ)による演奏ということである。相当なこだわりを持った今日のプログラム。開演前のプレトークでは、内藤さんが40分間に及ぶ「説明」をされていたのだが・・・・。まあ、聴きに来る私たちは音楽好きではあるが音楽家ではないし、まして音楽学者でもないので・・・・果たしてどれだけの人がお話の内容について行けたかは・・・・不明である。

 1曲目は「フィンランディア」。誰でも知っている名曲だと思っていたら、この曲にも成立に至る紆余曲折があったのだという。元は劇付随音楽の中の1曲として書かれたのが1899年で、それが独立した交響詩へと発展していく課程で、演奏されるたびに様々な改訂が加えられた。オーケストラ譜としての初版が1901年に出版され、現在もこれが使用されている。1905年に再版が出版されたがこれは初版を踏襲したもの。一方、同じ1905年にシベリウス自身が編曲したピアノ譜が出版さていて、こちらの方がシベリウスの最終的な意志を反映した版ということになる。今回演奏される内藤さんによる新校訂版は、このピアノ譜の意志を尊重し、他にも譜面上の記譜ミスを細かく修正してまとめ上げたものだという。シベリウスの自筆譜には、アクセント記号(>)を長く書くクセがあり、従来からこれをディミヌエンドとして演奏されてきた。このような間違いも修正したという。会場では今回の新校訂版のスコアを販売していたので、「記念」に1冊購入した。どこをどのように校訂したかがビッシリ細かく載っているが、こちらとしては素人なので読んでもさっぱり解らない・・・・。
 実際の演奏を聴いてみても・・・・私などのレベルではどこがとう違っているのが気がつく箇所するないのが実状で・・・・それならばこちらも普通のレベルで演奏を聴くことにすれば、演奏自体はあまり面白味のあるものではなかったような気がする。おそらくは初めての新校訂版の演奏にとまどいつつ、スコア通りに正確に演奏することに意識が集中してしまったのであろう。全体の印象も、丁寧で律儀な演奏といった感じで、四角四面で音楽的な高揚感に乏しく感じられた。内藤さんの指揮もあくまでスコアに忠実なものであって(当たり前だ)、そこから一歩も踏み出してはいないようである。

 2曲目は、ソリストにフィリップ・コパチェフスキーさんを迎えてのショパンの「ピアノ協奏曲第1番」。コパチェフスキーさんはロシア出身の25歳。ショパン弾きとしても名高いそうである。聴くのは初めてだ。
 第1楽章のオーケストラだけの長い主題提示部が、これも内藤さんの個性だと思うが、しっかりとした造形を持っているが、音楽的には硬いというか、あまり歌うような演奏ではない。それにじれたようにピアノが入って来る部分では、コパチェフスキーさんは強めにガツンと押し出したものの、すぐにトーンを落としてオーケストラと調子を合わせるようになった。そういった意味では、コパチェフスキーさんも律儀でお堅い演奏になっていたように思う。少なくとも、第2主題や経過部でピアノが独奏に近いような部分でも、感情の起伏を全面に押し出すような、ロマン派的な抒情性があまり感じられず、淡々として練習しているよう・・・などといったら言い過ぎかもしれないが。
 この印象は第2楽章に入っても変わらなかった。ピアノはインテンポで抑揚も少なめで、平板な演奏が続く。
 第3楽章はロンド。ピアノによるロンド主題も、どこか弾まない。非常に客観的なイメージの演奏である。オーケストラの方もインテンポで理詰めで演奏しているような感じで(内藤さんは理科系だから?)、どうもショパンのノリではないような・・・・。といったわけで、最前列のソリストの正面で聴いているのに、感激に乏しく、退屈してしまった。そうなると、この曲は結構長く感じてしまう。
 コパチェフスキーさんのソロ・アンコールは2曲も。協奏曲の時のアンコールによくあることだが、ショパンの「マズルカ第5番」の方が自由度我高く、弾み、歌っていた。グリーグの「夏の夕暮れ」は今日のように暑い夏の夜には、涼しげな演奏で素敵であった。

 後半はブルックナーの交響曲第5番。今日演奏されるのは、川凬高伸氏の校訂による原初稿(オリジナル・コンセプツ)。これは、現在出版され通常演奏されている「原典版(ハース版)」の前に、ブルックナーの弟子のシャルクが多くの改ざんを加えた「初版(シャルク版)」とい版があり、それよりさらに前のブルックナーによるオリジナルのスコアを精査して制作された「1876年版」ということである。ブルックナーは、何しろ作った本人もどんどん改訂してしまうので、さまざまなスコアが存在してしまう。コレが「本家」でアレは「元祖」といっているようなものだろうか。現在多くの場合に演奏されているのは、1935年の「ハース版」か1951年の「ノヴァーク版」だが、それらのように後の研究者が校訂をした「原典版」よりも「オリジナル版」だというから恐れ入る。
 さて版による違いなどは専門家に任せるとして、今日の演奏では、内藤さんが力説していた第2楽章のテンポについて、少し触れておこう。ブルックナーは第2楽章の冒頭を2/2拍子でAlla breve(とても遅く)と指定しているのだが、改ざんされた「シャルク版」では6/4拍子(弦楽器)と4/4拍子(管楽器)の合成拍子にされてしまった。つまりそこでは四分音符に対する「とても遅く」という指定になり、以降、そのテンポでの演奏が慣例化してしまっているのだという。確かに、交響曲第5番の第2楽章は、普通かなり遅い低弦のピツィカートで始まる。それが、今日の演奏では、むしろかなり速い。これは2/2拍子なので、二分音符に対する「かなり遅く」のテンポ設定の解釈の違いによる。なるほど、こういった研究に基づく解釈の違いというのは、観念的な芸術解釈とは違って、解りやすいものである。
 さて肝心の演奏の方であるが、正直に言ってしまえば、この曲の演奏も退屈してしまったのである。まあ、もともとブルックナーは得意ではないし、楽曲そのものも執拗な繰り返しが多くて飽きやすくできている(と私は思う)。世のブルックナー・ファンの皆さんには申し訳ないが、似たようなフレーズが執拗に繰り返され、しかも無意味に思えるほど長い曲ばかり。これほど長くしなければ表現できない音楽って何だろう、と思ってしまうのだ。聴く側の集中力だってそう長くは続けられない。少なくとも、会場に訪れた2000名近い人たちがすべて目を爛々と輝かせて70分弱の演奏に聴き入っていた・・・・とは思えないのである。
 楽曲の特質もさることながら、演奏の方も、私には退屈を誘うものになってしまっていた。内藤さんの指揮は、確かに明確、明瞭であるが、あまりにも理詰めで、いささか潤いに欠ける。構造的には堅牢で、ディテールまでしっかりと構築しているが、一方で、インテンポのスコア通りでしなやかさがない。何だか巨大な建造物の長い廊下をずーっと同じ速さで歩いているような錯覚にとらわれるようである。角を曲がれば(楽章が進めば)景色は変わるものの、また長い廊下が続いている・・・・・。ブルックナーの音楽でも、緊張感が高く、ひとつひとつのフレーズに魅力が込められていて、瞬間瞬間を音の奔流の中に身をさらして、飽きるどころかビリビリとした痺れるような感動の続く演奏もあることはある(滅多に出会えないが)。今日のところは・・・・ひたすら長く感じて、この曲、いつになったら終わるんだ・・・・と堪え忍んでいた次第である。
 そもそもコンサート序曲のように「フィンランディア」で始まり、ピアノ協奏曲の中でも長大名ショパンの1番。アンコール2曲。そして後半は、第2楽章がかなり速かったとはいえブルックナーの交響曲第5番。・・・・19時に始まるコンサートが、終わったのは21時30分を過ぎていた。コンサートはいっぱい演奏すれば聴く方もお得だろう、というものではない。

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7/18(土)若きヴィルトゥオーゾたちの競演/毛利文香・城戸かれん・田原綾子/朝日カルチャーセンターで

2015年07月18日 23時00分00秒 | クラシックコンサート
朝日カルチャーセンター・新宿教室/レクチャー&コンサート
「若きヴィルトゥオーゾたちの競演」


2015年7月18日(土)13:00~ 朝日カルチャーセンター・新宿教室 最前列中央 受講料4,320円
講師: 中野 雄(音楽プロデューサー)
ヴァイオリン: 毛利文香
ヴァイオリン: 城戸かれん
ヴィオラ: 田原綾子
【曲目】
ドヴォルザーク: 弦楽三重奏曲 ハ長調 作品74(毛利・城戸・田原)
モーツァルト: 歌劇『魔笛』より(毛利・城戸)
       「誰でも恋の喜びを知っている」「私は鳥刺し」「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」
       「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが」「娘か可愛い女房が一人」
西村 朗: 無伴奏ヴィオラ・ソナタII「C線のマントラ」(田原)
イザイ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第6番 ホ長調 作品27-6(城戸)
ミルシテイン: パガニーニアーナ(毛利)
ヘンデル/ハルヴォルセン編:パッサカリア(毛利・田原)
コダーイ: セレナーデ 作品12(毛利・城戸・田原)

 朝日カルチャーセンター・新宿教室で開かれているレクチャー&コンサートの新設講座(1回きり)で、「若きヴィルトゥオーゾたちの競演」を聴く。朝日カルチャーセンターの音楽関連の講座はかなり充実していて、「教養としてのクラシック音楽」を学ぶには興味深い講座が沢山ある。講義だけのものもあれば、演奏付きのものもある。私たちもコンサートに通ってただ音楽を聴くだけではなく、たまには勉強もした方が良い。とはいうものの、私も過去に1回だけ聴講したことがあるだけ。カルチャー講座もけっこう費用がかかり、受講料と同じ金額ならコンサートに行った方が・・・・と、つい思ってしまうのである。
 今回の講座は、私はさる筋からの情報で知ったのだが、あまり宣伝されていなかったようで、完売になっていなかった。一般的な意味で、クラシック音楽の世界で、この3名の演奏を間近で聴けるのであれば、もっと売れて然るべきだろう。今回は、演奏曲目も一部しか発表されていなかったので、講義と演奏で90分の講座では、演奏を聴く上では割高感があったのかもしれないが、実際には上記のような充実したプログラムであって、事実上の演奏会。曲目の解説などもほとんどなく、予定時間を20分もオーバーして、演奏だけで正味90分くらい。普通のコンサートと同等の内容になった。

 講座のテーマは「若きヴィルトゥオーゾたちの競演」ということで、講師を務めた音楽プロデューサーの中野 雄さんによれば、音高生・音大生という世代に素晴らしい演奏家が続出しているが、世に出て一流の演奏家になるためには、持って生まれた才能と努力に加えて、運をいかにモノにするかだという。小澤征爾さんが如何にして行動して運をつかんだかという逸話を話してくれた。これが意外に面白かったが、その内容は本筋ではないので割愛させていただく。今日の3名の若手演奏家は実力はすでにかなり認められているが、競争の激しい音楽の世界では、やはり何かきっかけがなければ抜け出すことはできない。そのひとつはコンクールで勝つこと、後は「運」なのだろうか。

 ヴァイオリンの毛利文香さんは、私はほとんど聴いたことはなかったのだが、先日6月26日の「桐朋学園 作曲科 第37回 作品展」でちょっとだけ聴かせていただいた。今年の「エリザベート王妃国際音楽コンクール」に6位入賞を果たし、新聞でも大きく採り上げられたのは記憶に新しい。今年の「第54回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール」では2位に入賞している。現在、慶應義塾大学文学部3年に在学中。
 城戸かれんさんは、2010年の「第79回日本音楽コンクール」で第2位、翌年の第80回開催で第3位に入賞している。その時はまだ高校生だった。現在は東京藝術大学音楽学部3年に在学中。2014年度より第43回江副記念財団奨学生。
 ヴィオラの田原綾子さんは、2013年の「第11回東京音楽コンクール」の弦楽器部門で優勝。その時以来すっかりファンになってしまい、以後、できるだけ機会がある時には聴かせていただくようにしている。現在は桐朋学園大学音楽学部3年に在学中。
 というように、大学3年生という同い年の3人だが、国内外ですでに高い評価を得ている俊英である。またこの3人は2013年に結成された「ラ・ルーチェ弦楽八重奏団」のメンバーでもある。「ラ・ルーチェ」は過去2回のコンサートを行っているが、残念なことにタイミングが悪く聴いていない。


左から、城戸かれんさん(Vn)、毛利文香さん(Vn)、田原綾子さん(Va)。

 さて本日の演奏だが、まず会場がカルチャーセンターの教室(新宿住友ヒールの7階)だということで、防音設備はしてあるようだが、天井の低い普通の部屋なので、音響はデッドである。最前列で聴かせていただいたので、目の前2メートルくらいの距離感では、楽器の直接音を聞くには申し分ないが、響かない空間であることが恨めしかった。

 1曲目はドヴォルザークの「弦楽三重奏曲 ハ長調」で毛利さん(第1ヴァイオリン)・城戸さん(第2ヴァイオリン)・田原さん(ヴィオラ)によるトリオ。急-緩-舞-急の4つの楽章からなる。演奏が始まって感じたのは、おそらく特殊な構成の曲でもあるし、あまりリハーサルに時間を取ってはいないと思われるのに、息のあったアンサンブルを聴かせていること。その中でそれぞれが主張すべきところはしっかりと押し出して来る。気の合う仲間が創り出す音楽の楽しさと、他の人に負けまいとする気持ちが時折現れたりして、面白い。毛利さんのヴァイオリンは柔らかな丸い音色で大らかな演奏。城戸さんの方が尖った印象で音色にも緊張感と鋭さがある。田原さんのヴィオラは低音部を豊かな音色で支えるべきところを、時折ドキッとするような主張をしてくる。早くも3人の個性が明瞭に現れている。

 2曲目はモーツァルトの『魔笛』から、お馴染みの楽曲を毛利さんと城戸さんのヴァイオリン・デュオによる演奏。ヴァイオリンのデュオというのもありそうであまりない。2つの声部に音程差がないので、ちょっと不思議な感じがするが、二人の音色の違いが明瞭で、おもしろい効果になっていた。「誰でも恋の喜びを知っている」は軽快な曲想に二人の音色が明るく反応する。「私は鳥刺し」はおどけた感じと、笛の音を模した部分が楽しい。後半の変奏は技巧的である。「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」は例の夜の女王の超絶技巧アリアだが、コロラトゥーラの超絶技巧と歌唱としては超高音域も、ヴァイオリンだといとも簡単に弾いているようで・・・・ソプラノさんが聴いたら愕然とするだろうなァなどと余計なことを考えてしまった。「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが」は主旋律と分散和音の伴奏に分かれ、切々としたアリアをヴァイオリンが切なげに歌わせて行く。「娘か可愛い女房が一人」は古典的な美しい旋律を主題とする変奏曲になっている。二人の演奏は音色の違いのあるがアンサンブルをピタリと合わせているので、あたかもバロックの無伴奏曲のように聞こえた。とても素敵なアンサンブルであった。

 3曲目からは、3名の奏者がそれぞれソロの無伴奏曲を演奏した。まず最初は、西村 朗さんの「無伴奏ヴィオラ・ソナタII『C線のマントラ』」。もちろん田原さんである。ヴィオラはそもそも楽曲が少ないがとくに無伴奏ものとなると・・・・。というわけで唐突に現代音楽が登場した。C線はヴィオラの最低弦のことで、この曲はC線を中心に構成されていて、つまりヴァイオリンでは出せない音域・音質で、ヴィオラの特性を全面に出している。田原さんのヴィオラは音が水平に広がるイメージであると以前に書いたことがあるが、先日(2015年5月13日)の東京文化会館での「モーニングコンサート」で演奏された武満 徹の「鳥が道に降りてきた」といい、今日の「C線のマントラ」といい、現代作品における変幻自在な表現力にも奥行き感が深まり、音が立体的な広がりを感じさせるようになった。この曲に関しては低音域に集中するためゴリゴリした音になりがちだか、今日の演奏では音に潤いがあり艶やかさを保っている。高度な技巧についても冴え渡っていたと思う。惜しかったのは音が響かない会場のため、曲全体が乾いたイメージになってしまっていたことか。

 4曲目はイザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第6番」。城戸さんのソロである。ヴィオラのソロに続けてイザイを聴くと、改めてヴァイオリンの音域が日常から超越した異次元の感動を呼ぶ楽器だと感じる。実は完全にソロの城戸さんの演奏を聴くのは初めてだったのだが、室内楽のアンサンブルの時と比べれば、明らかに先鋭的な個性を持った演奏家だということが分かる。何よりも自由度が高く、表現の幅も広い。小鳥のさえずりのような弱音から一気に駆け上り迸るようなエネルギーを発し、立ち上がりが鋭く、緊張感の高い音色はあくまで前向きといったイメージ。安定した技巧とダイナミックな表現力で、とても素晴らしい演奏になっていたと思う。

 5曲目はミルシテインの「パガニーニアーナ」。毛利さんのソロである。20世紀の大ヴァイオリニスト、ミルシテイン(1903-1992)がパガニーニの「ラ・カンパネッラ」を主題に作曲したソロ・ヴァイオリンのための変奏曲である。毛利さんの演奏は、楽器を豊かに鳴らし、スケール感の大きな演奏スタイルである。音色は全体的にまろやかで優しい感じがする。この曲も呆れかえるほどの超絶技巧曲であるが、毛利さんはどちらかといえば技巧性を強調することなく、むしろ技巧の上に乗せる音楽的な表現に力点を置いていると感じられる。ひとつひとつの音符が丁寧に演奏されている上で、旋律を大きく歌わせる一方で、超絶技巧をクールにまとめあげ、結果として豊潤なイメージの演奏になっていたと思う。

 6曲目はヘンデル/ハルヴォルセン編の「パッサカリア」。毛利さんと田原さんのデュオである。この曲は、ヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲としては定番中の定番曲。田原さんの演奏で聴くのも2度目である(1回目は1年前の2014年7月、ヴァイオリンは長尾春花さんだった)。今日の演奏は、普段から一緒に演奏する機会の多いお二人だけに、かなり自由度の高い伸び伸びとした演奏に感じられた。互いの良さを十分に知った上での自由度の高さであり、疾走するようなリズム感であったり、タイミングが活き活きとしたヴァイオリンとヴィオラの掛け合いだったり、出るところや引くところのバランスの良さなど、演奏している側が音楽を楽しんでいるのが伝わって来るから聴いている方も共感できるのだろう。田原さんに関して言えば、1年前よりもスケール感が大きくなっていて、ヴィオラが主張する部分が強くなっていたような気がする。

 最後は、コダーイの「セレナーデ 作品12」で、城戸さんが第1ヴァイオリン、毛利さんが第2で、田原さんがヴィオラのトリオである。ご存じのようにコダーイはハンガリーの作曲家で、同地の民謡や民俗音楽の研究で知られている。この曲は1919-20年頃の作品で、急-緩-急の3楽章構成である。曲想はハンガリーの民俗音楽風の題材を近代的に仕上げたといった感じだ。珍しい曲の部類に入るだろう。第1ヴァイオリンとヴィオラが対抗するように展開し、第2ヴァイオリンは内声部を受け持つと、エッジの効いた城戸さんのヴァイオリンと田原さんの豊かに鳴るヴィオラが存在を主張し合うようになる。とくに第2楽章の緩徐楽章はやや現代風の曲想になり、前半がヴィオラ、後半がヴァイオリンとう風に分かれてカデンツァ風に技巧的な主張をする。目の前での演奏を聴いていると、けっこう迫力がある。第3楽章は民俗舞曲風で、ハンガリー音楽らしい強烈なリズム感に支配されている。目まぐるしく曲想が変わり、息つく暇もない。もちろん演奏自体も素晴らしかった。丁々発止とやり合うヴァイオリンとヴィオラのスリリングな演奏は、高度な技巧と豊かな表現力の賜物であって、そこに若い演奏家たちの溌剌としたエネルギーが加わっている。この珍しい曲を、これほどの高いレベルの演奏で、間近で聴くことができたのは非常に得難い体験であった。


 今日は、毛利さん、城戸さん、そして田原さんという3名の若手の演奏を堪能できた。もともと、講義半分、演奏半分くらいの講座だと思っていたので、正味90分に及ぶ演奏中心であったことは大変嬉しく、かなり得した気分である。勉強というよりは出演者につられてやって来たわけだが、プログラムにも演奏にも大満足だ。惜しむらくは・・・・言っても仕方のないことなのだけれども・・・・今日の演奏を音響の優れたホールで聴くことができたら、どれほど素晴らしかっただろう。
 終演後(?)、皆さんで記念撮影。時間を20分もオーバーしてしまったので、出演者の皆さんとゆっくり面会、というわけにはいかなかったのが、ちょっと残念だった。
 今年の年末、東京交響楽団の恒例の「第九と四季」では、毛利さんが「四季」のソリストを務める。先日、会員先行発売があったので、最前列の指揮者の真後ろの席を取ってしまった。毛利さんの演奏は、また目の前で聴くことができるので楽しみだが、第九の方は最前列ではどうなることやら・・・・。
 城戸さんと田原さんについては今のところ聴きに行く予定がないのだが・・・・いずれ、コンサートの機会があれば優先的に聴きに行くことになるとは思っている。それだけの価値のある演奏を聴かせてくれることは間違いない。

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7/16(木)東京フィル/オペラシティ定期/尾高忠明/外連味なくまとめたマーラー交響曲第9番

2015年07月16日 23時00分00秒 | クラシックコンサート
東京フィルハーモニー交響楽団/第95回東京オペラシティ定期シリーズ

2015年7月16日(木)19:00~ 東京オペラシティコンサートホール A席 1階 4列(2列目)14番 3,780円(会員割引)
指 揮: 尾高忠明
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団
【曲目】
マーラー: 交響曲 第9番 ニ長調

 東京フィルハーモニー交響楽団の第95回東京オペラシティ定期シリーズを聴く。このシリーズは、年間の定期会員になっているにもかかわらず、ずうっとご無沙汰が続いてしまい、何と昨年2014年10月の公演以来となってしまった。東京フィルはの定期シリーズは年間8回公演で、4月からが新シーズンになる。
 4月の公演は、新たに「特別客演指揮者」というポストに就任したミハイル・プレトニョフさんが体調不良で急遽来日できなくなり公演中止(延期)になってしまった。当然チケット代金は払い戻しになった。
 5月の公演はコチラのスケジュールの都合で行けなかった。6月は公演がなかったので、7月公演の本日が、2015/2016シーズンの第3回公演ということになる。

 というわけで、久しぶりの東京フィルの定期シリーズ。今日は尾高忠明さんによるマーラーの交響曲第1番。1曲だけのプログラムである。一説によればマーラーの最高傑作だというが、もともとマーラーは苦手な方なので、聴く側としては今ひとつ気分が乗らない。これは別に東京フィルが悪いわけではなくて、大体が4楽章の交響曲1曲だけで90分もかかるなんて信じられない。第1楽章だけで30分もある。しかも緩徐楽章でソナタ形式。これだけ長大になると形式の構造も非常に判りづらくなり、いくつかある主題やら動機やらが繰り返し執拗に現れては去っていく。いつまで続くんだ、この曲。そんな風に聞こえてしまうのである。マーラーを聴くコツは、楽曲全体を視野に入れずに、瞬間瞬間を刹那的に感じ取る方が良いのかもしれない。
 尾高さんの演奏は外連味がなく、スタンダードな音楽作りで、実に堂々たる佇まいを見せる。4管編成の大オーケストラを緻密にまとめ上げる手腕は見事なもので、これ以上ない安心感が漂っている。逆に言えば冒険心がなく、新しい発見は見られないということになるのだが・・・・。いずれにしても、尾高さんの指揮も東京フィルの演奏も、水準としてはかなり上の方の演奏をしていたことは確かで、緻密なアンサンブルで澄んだ音色で分厚いサウンドを聴かせる弦楽、濃厚に音色で質感の高い木管群、華やかな瞬発力と安定した弱音が出せる金管群、出しゃばらない打楽器群、と平均的に優れていて隙がない。従って、なかなか素晴らしい演奏だったと思う。思うのだが、どうしても曲自体を好きになれず聴いていて退屈してしまうので、とりあえず感動は薄かったと言っておこう。90分の交響曲は聴く方も長時間の緊張を強いられるため、非常に疲れる。当分マーラーは遠慮したい。

 さて、今シーズン初めて聴くことになったので、書いておかなければならないことがある。それは、今シーズンからチケット料金が大幅に値上げになったことについてである。
 東京フィルは、「サントリー定期シリーズ」「東京オペラシティ定期シリーズ」「オーチャード定期演奏会」の3つの定期シリーズがある。それぞれが年間8回公演で、年間会員になると、つまり8回分セットでチケットを購入すると、1回券の合計よりも3割引で買うことができる。無料で登録するだけの「東フィルフレンズ」になればさらに1割引。1回券のチケット料金は出演者によって若干異なる場合があるが、定期会員の券面価格は年間会員価格の1/8になっている。まあそれは良いとして・・・・。

 今期への更新時に料金を見て驚いた。これは本当に驚いた。私はA席の会員だが、1回券の定価が6,000円から8,500円に上がっている。何と40%以上も値上げしたのである。今期からの料金体系は、SS席=15,000円、S席=10,000円、S席=8,500円、B席=7,000円、C席=5,500円。定期会員の割引率は変わらない。しかしこの価格設定はちょっとあり得ないのでは?? 1回券で行こうとすると、ちょっと二の足を踏む金額である。これで間違いなく、東京フィルが日本で一番高額のオーケストラになった。ちなみに前期の通常公演は、S席=7,700円、S席=6,200円、B席=4,600円、C席=3,100円であった。

 値上げをするには、それなりの事情はあるのだろうが、会員に対しての説明も特になく、「より一層充実努力致します」という程度の理由で4割も値上げができるなんて、他の業界ではまずあり得ないことだろう。それでも年間に何回かはどうしても聴きたい公演があるし、長年持っている良席を手放したら二度と手に入らないのではないかという危機感から、会員を更新して継続している。何だか足元を見られているような、ちょっと不愉快な気分だ。とにかくこれで日本一のオーケストラになったのだから、日本一の演奏をしていただかなければ困る。演奏会でミスなんかしたら、もう許さないぞ・・・・。

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