弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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2048-07-08 00:00:00 | Weblog
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杉並世田谷散歩徒然

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ポケモンGOやってます

2016-09-25 13:19:28 | 趣味・読書
8月の末に、自分のスマホにポケモンGOをインストールしました。それ以来、ポケモンGOにハマっています。

私は通勤の往復で朝晩、ウォーキングをしています。往復で4.5km程度でしょうか。
また私は、地図を見ながら歩き回るのが好きです。例えば、杉並区と世田谷区について、現在の地図と明治20年の地図を重ね合わせ、明治20年から現在まで存在し続けている道(私は「明治20年道路」と名付けています。)を踏破する、といったことに興味を持ってきました。
このような趣味をもつ人間にとって、ポケモンGOはぴったりです。

スマホ画面には、現在歩いている地域の地図が(俯瞰図で)表示され、付近に建っているポケストップの位置とジムの位置が表示されています。ポケストップに到着するたびに、ポケストップの表示板を回転させて道具やたまごをゲットしていきます。ポケモンが出現すればスマホの振動で知らせてくれるので、持っている道具のうちのボールを投げつけ、ポケモンをゲットしていきます。
私の場合、明治20年地図がポケモン地図に置き換わったということで、歩く楽しみを与えてくれるという点では同じです。

ポケストップで得られる道具の中に、ときどきたまごが混じっています。一人あたり9個までたまごを持つことができます。たまごをふかそうち(孵化装置)に入れて所定の距離を歩くと、たまごからポケモンが生まれます。所定の距離とは、2km、5km、10kmで、距離が長いやつほどレアなポケモンが生まれやすく、一方で距離が長いやつほどポケストップでのゲット率が低くなります。「所定の距離歩かないと孵化しない」ということは、定常的に歩く人でないと恩恵にあずかれません。一日に4.5km歩く私にぴったりのゲームであることがわかります。
孵化装置には2種類あり、全員が1個ずつ∞孵化装置を持っています。それだけでは、複数のたまごを同時に孵化することができません。1個150円で有料孵化装置を購入することができますが、たまごを3個孵化すると壊れてしまいます。従って、有料孵化装置を用いる場合、たまごを1個孵化するのに50円かかります。
最初のうちは、孵化の頻度を高めるため、有料孵化装置を頻繁に購入していました。しかし、あまりゲームにお金をかけるのもなんなので、最近はルールを決めました。2キロたまごは∞孵化装置だけを使って孵化し、5kmと10kmたまごだけは、有料孵化装置を使うことにしています。
ゲームを始めてから一月弱で、約3000円ちょっとの課金を用い、たまごを104個孵化しました。経過期間の途中で上記のようにルールを変えているので、これからは課金も少なくなる代わり、孵化する個体数も減少することでしょう。

そして現在の私の状況です。
トレーナーレベルは21です。
歩いた距離は107kmと表示されています。
入手したポケモンの種類は92種類、捕まえたポケモンの数は825匹と表示されています。数が多くなるとどんどん博士に送っているので、現時点で所有しているのは208匹ですが。

野生のポケモンに遭遇して捕まえるのに対して、たまごを孵化して得られるポケモンは、レアなものが多いと言われているようです。実際その通りで、私は今まで、ピカチューを4匹孵化しました。さらには、ストライク、エレブー、ブーバー、カブトが生まれたのに加え、ポリゴン、カピコン、テスラも入手しています(左下写真)。
そして極めつけ。先日、お台場が大騒ぎになっているというニュースがありました。レアポケモンであるラプラスが出現したとの噂で、大勢が集まっているそうです。そのニュースを聞いた直後、先週の金曜ですが、私のスマホでたまごから孵化したポケモンがまさにラプラスだったのです。今は、ラプラスを私の相棒に選びました(右下写真)。今週からはラプラスと一緒に歩き回ります。
 

現在のところ、ジムは一度も訪問していません。いまだに、ジムに行ってどのように行動するのかが理解できていないこともあります。
また、いわゆるポケモンの巣を訪問することもしていません。もっぱら、歩くと予定していた目的地に向かって、せいぜいルートをちょっと変更してポケストップに立ち寄る程度の範囲内です。

私は家族の中で、パソコンゲームやスマホゲームをしない人だったのですが、ポケモンGOにははまってしまいました。家族がリビングでスマホゲームに興じている横で、私はせいぜいその日にゲットしたポケモンを整理するぐらいで、それが終わったら(ゲームに関しては)やることがありません。屋外で歩いているときにのみ遊べるゲームということで、私の日頃の行動にこれだけフィットしたゲームが出現したのには驚きです。
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四面道と四面燈

2016-09-04 14:10:28 | 杉並世田谷散歩
荻窪駅の北西に青梅街道と環八の交差点があります。「四面道」と呼ばれています(下の写真)。
  

この「四面道」の由来について、どうも3つの説があるようです。例えばこちらこちら

(1)江戸時代、ここは青梅街道と地元農道の交差点でした。そして、天沼・下井草・上荻窪・下荻窪の4ケ村が接する地点でもあり、それが「四面道」の語源である、という説です。
(2)この場所には、秋葉神社という神社が祀られていました。そして周囲の4ケ村に向けて、四方を照らす高さ1間あまりの常夜燈があり、これが「四面燈(しめんとう)」と呼ばれていた、とされます。
(3)荻寺光明院のお堂が四方に面していたから四面堂になったという説です。

上記(2)説の常夜燈と秋葉神社は、昭和44年の道路拡張のため荻窪八幡神社境内に移された、ということです。そこで、荻窪八幡神社に「四面燈」を探しに行くことにしました。
荻窪八幡神社は、青梅街道沿い、荻窪警察署の対面に位置しています。私の職場は荻窪駅の近くにあり、職場の昼休みに荻窪八幡神社を訪問しようとしたら、徒歩では無理です。まずは、往復タクシーで訪問することにしました。過日、参拝したのですが、残念ながら「四面燈」らしきものを見つけることができませんでした。帰ってからネットを確認したところ、その四面燈は小さなもので、私が見落としていたことがわかりました。さらに、帰るために空車のタクシーを待っていたところ、路線バスがけっこう頻繁に走っていることがわかりました。
そこで次の機会、昼休みに路線バスを利用して再度訪問することにしました。
《荻窪八幡神社》
 
青梅街道沿いの鳥居(上写真)から入り、突き当たりを右に曲がると本堂(下写真)です。立派な神社でした。
《本堂》
 
さて、目的の四面塔です。上の写真の鳥居から入り、突き当たりを左に曲がったすぐ左側に、小さな神社が祀ってあり、そのさらに左にもっと小さな神社が祀ってあります。それが秋葉神社です。そして、秋葉神社のすぐ左に、その四面燈はありました。
《秋葉神社と四面燈》
 
《四面燈》
 
秋葉神社の由来                      四面塔の裏側
  
秋葉神社のすぐ右に小さな石碑があります(左上写真)。
「当秋葉神社は数百年の永きに沍って四面道に鎮座していたが今般の環状八号線拡張の為已むなく当八幡神社境内に遷座奉安したものである」昭和四十四年三月吉日
四面燈の裏面には、
「嘉永七年甲寅吉祥」とあります。1857年、明治維新の直前ですね。

「四面燈」、交差点で四方を照らしていたということから、さぞや立派な常夜灯かと想像していました。荻窪八幡宮の境内にある下写真の灯籠(四面塔ではない)のようなものを想像していたのですが、想像との落差にびっくりしてしまった次第です。
  

ところで、「四面道」由来説(3)についてです。
荻寺光明院は荻窪駅のすぐ西にあり、私も訪問し、この3月に記事にしています
その荻寺に掲示された説明書には、
『今も寺の周辺に残る「四面道」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。』
とあります。即ち、当の荻寺は、当然ながら(3)説を支持していると言うことですね。
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角川まんが「日本の歴史」

2016-08-14 15:42:30 | 歴史・社会
新聞広告で、以下のような「まんが 日本の歴史」が出版されていることを知りました。
角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 全15巻定番セット
クリエーター情報なし
KADOKAWA/角川書店
新聞広告では、本の帯にも書かれているように『東大の入試問題や近年の歴史教育の現場で重視されている「歴史の流れをつかむ」という考え方にもとづいた「東大流」にて構成。』とうたっていました。
当方の孫はまだ6歳と4歳で、このような歴史シリーズを読みこなせるのはまだ先でしょうが、このうたい文句に引かれ、面白そうだったので購入してみました。

(左から)武田信玄、徳川家康、足利尊氏、厩戸皇子(後の聖徳太子)、平清盛、伊藤博文、江戸火消し


(左から)坂本龍馬、平塚明(らいてう)、源義経、卑弥呼、織田信長、紫式部、大久保利通

平安時代について読むと、その内容が細部にわたっていることには驚かされます。
3巻 平安時代前期(表紙は紫式部と清少納言)    4巻 平安時代後期(表紙は若い頃の平清盛)

下は、3巻の巻頭に書かれたこの巻の全体像です。絵の外周に描かれた人たちは知っていますが、中央に「藤原氏」として描かれた10人のうち、私が知っているのは藤原道長ただ一人です。

2巻(明日香~奈良時代)と3巻から、藤原氏だけを取り出し、どのように記述しているかを列挙してみます。
-----------------------------
○ 藤原不比等(藤原(中臣)鎌足の長男)による大宝律令の完成
○ 藤原不比等の娘である光明子が、聖武天皇の妃となる。後、皇族出身以外ではじめて皇后となる。
○ 藤原不比等の息子4人(武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家))が朝廷で大きな力を持つ。
○ 藤原種継が長岡京建設中に暗殺される。
○ 藤原薬子の乱(式家没落)
○ 藤原冬嗣(北家)の娘と親王との間の男子が文徳天皇となる。冬嗣の息子が良房。
○ 藤原良房の娘と文徳天皇との間の男子が清和天皇となる。
○ 良房の養子の藤原基経は出世し、摂政・関白を務める。
○ 藤原氏の全盛に不満の宇多天皇(上皇)が、菅原道真を重用する。しかし菅原道真に謀反の疑いがかかり、太宰府に流罪となる。2年後に死去。
○ 藤原基経の子孫である藤原兼家の嫡男が藤原道隆。道隆の娘、定子は一条天皇の中宮。清少納言は中宮定子の女房。
○ 関白道隆が急死し、後を継いだ弟の道兼も病死。さらに弟の藤原道長は、道隆の嫡男である藤原伊周と跡を争う。
○ 権力闘争に勝利した道長。道長の娘の彰子が一条天皇の元に入内する。道長は画策し、一条天皇の中宮だった定子を皇后、自分の娘の彰子を中宮の位に就け、どちらも正室とした。
○ 定子の死後、紫式部が彰子のもとに女房として入る。
○ 彰子に男子(後の後一条天皇)が生まれる。
○ 一条天皇のいとこである三条天皇には藤原道長の次女・妍子を、孫である後一条天皇には三女の威子を入内させた。
○ 道長は「わが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と歌った。
○ 道長の息子の頼通。みかどに嫁がせた娘に皇子が産まれず。後三条天皇は、藤原氏を祖父に持たない天皇であった。後三条天皇とそのあとの白河天皇は、藤原氏に依らない政治を行い、藤原氏全盛の時代は終わりを告げた。
-----以上-------------
これだけの内容が、2巻の途中から3巻の終わりまで、まんが物語として延々と語られます。歴史に興味を持つ私でさえ、この内容のほとんどは今回のまんがで身につけた知識でした。最近の日本の学生は、平安時代についてこんなに詳しく教わっているのでしょうか。

14巻 大正~昭和時代初期(表紙は平塚らいてう)       15巻 昭和時代~平成
                                      (表紙作者は近藤勝也(スタジオジブリ))

さて、対比すべきは日本の近現代史です。張作霖爆死事件から終戦に至るまで、まんがとして描いて欲しい事象を以下に記します。そのうちで、今回のまんが「日本の歴史」の14巻、15巻に登場した事象には「○」、登場しなかった事象には「×」、ちょっとだけ登場するが不十分な事象には「△」を冒頭に記します。
-----------------------------
△ 張作霖爆死事件(真相究明不十分と昭和天皇の怒り)・田中義一内閣
× ロンドン軍縮会議と統帥権干犯問題(軍部の独走を許す
△ 満州事変勃発と満州国建国(国民の喝采)・若槻礼次郎内閣
× 第一次上海事変
○ 五・一五事件・犬養毅内閣
○ リットン報告書
△ 国際連盟脱退(その真の理由)・斎藤実内閣
○ 二・二六事件・岡田啓介内閣
× 軍部大臣現役武官制復活(軍部が気に入らない内閣は崩壊)・広田弘毅内閣と、宇垣流産内閣
× 日独防共協定
○ 盧溝橋事件・近衛文麿内閣
× 第二次上海事変(蒋介石による日本追い落とし計画
△ 南京侵攻(参謀本部が現地指揮官に引きずられて決断)と南京大虐殺
○ 国民政府(蒋介石)を対手とせず
× ノモンハン事件・平沼騏一郎内閣
△ 日独伊三国軍事同盟・近衛文麿内閣
○ 南部仏印進駐
△ 日米交渉とハルノート(日本政府は最後通牒と受け取った)
× 対米英開戦(宣戦布告遅延の実態と米国による日本外交暗号の解読)
-----以上-------------
14巻、15巻における上記期間の記述は、1巻分のページ数の半分にも満たない量です。
一応、主立った事件について触れてはいますが、日本政府はなぜ軍部に引きずられたか、なぜ勝ち目のない戦争に突入していったか、といった疑問に少しでも迫るような詳細な記述には至っていません。平安時代における藤原氏の記述が詳細を極めている状況と対比すると、そのアンバランスが目立ちます。

ところで、15巻の表紙イラストは、近藤勝也(スタジオジブリ)とあります。この表紙イラストが本文に登場するかというと・・・、残念ながら登場しません。戦時中の空襲で焼け出された直後なのか、それとも戦後なのか。また、描かれている少女と背負った赤ん坊が孤児なのか否か、いずれも不明のままです。炎が見えることからすると、空襲でまだくすぶっている時期を描いているのでしょうね。

さて、このまんが「日本の歴史」に対する孫たち(6歳、4歳)の食いつき状況ですが・・・。
背表紙や表紙のイラストが興味をそそるので、まずは開いて見ます。中身もまんがですから、どんな面白いことが描かれているのかと「おじいちゃん、読んで」とせがまれます。もちろん、歴史の記述についてはわかりません。その中で、1巻の縄文時代は、ある集落の竪穴式住居で生まれた二人の子どもたちの成長を描いていることから、一番興味が持てたようです。
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シャーロットタウンとオーウェルコーナー歴史村

2016-08-05 22:08:00 | 趣味・読書
プリンスエドワード島滞在2日目、昨日の赤毛のアンの家に続き、シャーロットタウン近郊(東方向)のオーウェルコーナー歴史村を訪問します。

まずは歴史村の説明です。日本語の説明を受け取ったので、その中からかいつまんで説明します。
オーウェル村は、19世紀の初めよりアイルランド人、アメリカからのロイヤリスト(アメリカ独立戦争時の英国支持者)、高地スコットランド人たちが移住してきました。19世紀の終わりには開拓の苦難から比べればより近代的な生活ができるようになりましたが、生活の基盤はまだその土地と伝統に根ざしていたそうです。

最初にある建物が、下の写真のプリンスエドワード島農業歴博物館です。受付を兼ねています。
 
建物の中には、昔使っていたのだろう農機具が所狭しと並べられています。
  
下のトラクター、McCormik-Deeringと書かれています。50年ぐらい昔、大学生の頃、北海道の牧場に短期滞在したことがありました。そのときその牧場で使っていた大型トラクターに、"International","McCormik"との表記がありました。世界最大の農機具メーカーであるアメリカのインターナショナルハーベスターのトラクターであることを後から知りました。
こちらによると、
『インターナショナル・ハーベスター
アメリカのトラック,農業機械,建設機械の大手メーカー。農業機械,建設機械では世界最大級。本社シカゴ。略称IH。1902年,当時アメリカ最大の農機具メーカー,マコーミック・ハーベスティング・マシーン社,第2位のディアーリング社など大手5社が合併し,インターナショナル・ハーベスター社の名でニュージャージー州に設立されたことに始まる。』とある。博物館に展示されていた下のトラクターは、1902年の合併前の製品でしょうか。
 

その先に進むと、右側に学校(壁が茶色)が見え、その向こうに公会堂(壁が白)が見えててます(下写真)。
 
説明によると、オーウェル学校は、1895年に開校し、小学1年から高校1年の過程までを教える学校でした。
学校に入ってみます。
 
建物全体で一つの教室となっています(上写真)。
教卓には石盤が置かれ(左下写真)、生徒の机には無数の彫り物が残っています(右下写真)。生徒の机中央の円い穴は、インク壺を入れる穴のようです。
  

続いて公会堂です。最初の公会堂は1950年代に焼失し、現在の建物は1970年代に建て替えられたものだといいます。この公会堂では伝統的な催しが現在でも行われているといいます。
公会堂 外から                               内部
  
公会堂の正面壇上にはアップライトピアノが置いてあり、蓋が開いて弾ける状態でした。ピアノの前に張り紙がしてあり、「このピアノはおもちゃではないのでめちゃくちゃに弾いてはいけない。ただし、うまく弾けるのなら弾いても良い。」といった趣旨のことが書いてあったと思います。「私は弾いて良い人に該当する」と勝手に解釈しました。そして、徐にトロイメライの冒頭を弾いたのでした。聞いていた人は一人もいませんでしたが・・・。

クラークストア(雑貨屋)
  
説明書きによると、クラークストアは、1856年にアイルランドから移住してきたクラーク京大が、オーウェルに移って開いたジェネラルストア(雑貨屋)ということです。左上の写真はその外観、右上は1階の奥にある部屋(クラーク家の家屋)です。
入口から入ったところは雑貨屋の売り場でしょうか(下の2枚の写真)。
  

鍛冶屋
  
クラークストアの近くには、鍛冶屋の建物があります(左上写真)。建物の中に入ると、おじさんが一人、鍛冶のために炉で火をおこし、鉄製品の加工を見せてくれました(右上写真)。

ここオーウェルコーナーは、20世紀の初めまでは活気ある村でしたが、島の活動の中心が田舎から徐々に大きな町、島の中心へ移るにしたがって、このような小さな共同体の重要さ、役割が減少していきました。オーウェルコーナーは、1973年にセンテニアル委員会からの出資にて、同年7月に公開されたそうです。

ガイドブック(地球の歩き方2014~15)を見ると、プリンスエドワード島の地図上にこのオーウェルコーナー歴史村の所在が描かれているものの、歴史村を紹介する記事はどこにも記載されていません。しかし、こうして訪れてみると、はるばる日本からここプリンスエドワード島を観光で訪問するのなら、見落としてはいけない場所と思います。
最大の目的地であったキャベンディッシュ(赤毛のアンの家)は、人工的な施設であって観光地化が進んでいました。それに対してこの歴史村は、実在した村が現存した建物とともにそのまま保存・公開されているのであって、この島の昔(赤毛のアンの舞台だった頃)を最も良好に再現していると思った次第です。

シャーロットタウンに戻り、ちょっとだけシャーロットタウンの街中を巡ってきました。
ここシャーロットタウンについて、ガイドブックでは以下のように紹介されています。
『シャーロットタウンは、島内観光の拠点となる町。赤毛のアンやモンゴメリに関連したスポットをめぐるツアーもここから出発する。町の名前は、イギリスがフランスに変わって覇権を握った1763年に、時のイギリス国王ジョージ3世の妃シャーロットにちなんでつけられた。1864年にイギリス系の植民地から代表者が集まり、カナダ連邦に向けた会議が初めて行われた「カナダ連邦発祥の地」としても知られている。』

セントダンスタンズ大聖堂
 

祭壇(最後の晩餐)                           パイプオルガン
  

大聖堂前の銅像
 
二人の男性が樽をはさんでなにやら議論しています。二人とも名前はジョン・ハミルトン・グレイJohn Hamilton Grayというようです。同姓同名です。
右のグレイは、プリンスエドワード島の政治家、左のグレイは、ニューブランズウィックの政治家らしいです。
二人は、1864年9月、シャーロットタウン・コンフェレンスで顔を合わせたのでしょうか。

プロビンス・ハウス
 
1847年に建築家アイザック・スミスによって建てられた州議事堂です。1864年にカナダ連邦を結成するため、初の各植民地代表者会議が行われました。
手前の兵士像の台座には、
1914-1918 1939-1945 KOREA1950-1953
と刻まれています。第1次、第2次大戦に加え、朝鮮戦争も、カナダの人たちにとっては大きな犠牲を強いられた戦争なのでしょう。

さらに、ガイドブックに記載されている教会を訪問しました。時間がなかったので前を素通りしただけですが。

セントポール教会
 

プロビンスハウスから、ビクトリア・ロウ(通り)を歩きました。南には、先ほど訪問したセントダンスタンズ大聖堂が、優美な姿を見せていました。
 
セントダンスタンズ大聖堂を見る

ビクトリア・ロウから、クイーンズ通りに抜けるあたりまで含め、赤れんがの趣のある建物が建ち並んでいます。

ビクトリア・ロウ
 

ビクトリアロウとクイーンズ通りの角にある「赤毛のアンの店」の店の前には、椅子に座った男性の像が置かれています。

赤毛のアンの店                 赤毛のアンの店前の塑像 Sir John A. Macdonald
  
ウィキによると、ジョン・アレグザンダー・マクドナルド(John Alexander Macdonald、1815年 - 1891年)は、カナダの初代および第3代首相とあります。
『マクドナルドは北米のイギリス植民地を「カナダ」に連合する働きかけを続け、1864年9月にプリンスエドワードアイランドのシャーロットタウンで東部のみで連立しようとしていた東部大西洋地域の植民地代表に提案(シャーロットタウン会議)。1864年10月にはケベック・シティにてカナダ連合への計画を採択(「ケベック会議」)。1866年までにはブランズウィック、ノバスコシアが連合に合意。ニューファンドランドとプリンスエドワードアイランドは反対したが、最終的に合意。これに基づきイギリス議会は英領北アメリカ法を制定し、連邦制をとるひとつの植民地「カナダ自治領(Dominion of Canada)」を形成することを決定した。この法律は「1867年カナダ憲法」として現在でも効力を持つ。ヴィクトリア女王は連邦形成の貢献者として、自治領成立の1867年7月1日に「聖マイケル・聖ジョージ勲章」をマクドナルドに授与した。また同年8月の選挙でマクドナルド率いる保守党が政権を取り、カナダの初代首相となった。』

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赤毛のアンの家

2016-07-30 11:06:08 | 趣味・読書
先日、ナイアガラの滝でご紹介したように、この6月にカナダを旅行してきました。
今回のカナダ東海岸旅行の一つの目的が、プリンスエドワード島の赤毛のアンの家を訪れることでした。
旅程としては、まずトロントに滞在してナイアガラの滝を観光し、トロントからモントリオールは特急(鉄道)、そしてモントリオールからハリファックスまで夜行寝台(オーシャン号)を利用します。ハリファックスで一泊し、翌朝、飛行機でプリンスエドワード島のシャーロットタウンに至るものです。

まず、ハリファックスからシャーロットタウンへの飛行機について記します。
飛行機を見てびっくりしました。下の写真にあるような、小さな双発のプロペラ機だったのです。
 

私の席は前から2番目でした。操縦席と客席の間は開放でよく見えます(左下写真)。後ろを振り返ると、左右に1列ずつで、合計20人程度の定員でしょうか(右下写真)。
  
客席から操縦席                         座席から後方を見る

上の地図で解るように、ハリファックスのあるノヴァ・スコシア州は、カナダの大陸から張り出した半島にあります。その北にプリンスエドワード島があります。ハリファックス空港を離陸したときは雨が降っていましたが、半島と島を隔てる海まで出ると、雲が切れて島が見えてきました。飛行機は真っ直ぐに空港へ向かっているようです。
操縦席前の窓から、空港の滑走路が見えてきました(左下写真)。そして滑走路へ無事に着陸です。扉を開けて前へ倒すと、扉がそのままタラップの階段となります(右下写真)。
  
着陸態勢~滑走路が見える                    スチュワードが扉兼タラップを開ける

今回、プリンスエドワード島ではシャーロットタウンのホテルに宿泊し、レンタカーを借りて、島内をレンタカーで移動します。
まず、プリンスエドワード島について説明しましょう。
ガイドブックには以下のように紹介されています。
『ルーシー・モード・モンゴメリ(1874~1942年)の小説「赤毛のアン Anne of Green Gables」の舞台であるプリンス・エドワード島は、セント・ローレンス湾に浮かぶ面積約5660m2(四国の3分の1)ほどの小さな島。アンが暮らすアヴォンリー村のモデルとなったキャベンディッシュ周辺には物語で描写された場所がいくつも存在する。』
島の南にあるシャーロットタウンについては、『島内観光の拠点となる町。赤毛のアンやモンゴメリに関連したスポットをめぐるツアーもここから出発する。』と紹介されています。

島の北にあるキャベンディッシュに、グリーンゲイブルス(赤毛のアンの家)を中心とした観光施設があります。
説明板
 
①案内所 ②ギフトショップ ③納屋 ④穀物倉 ⑤まき小屋 ⑥グリーンゲイブルス ⑦お化けの森 ⑧Balsam Hollow trail

グリーンゲイブルス(アンの家)です(下写真)。
この家は、ガイドブックによると、赤毛のアンの『物語の中で、孤児院から引き取られたアンが、少女時代を過ごした「グリーンゲイブルス(緑の切妻屋根)のモデルとなった家。白と緑の木造家屋は、物語そのままの姿だ。実際はモンゴメリの祖父のいとこに当たるマクルーニ兄妹が、モンゴメリと同い年の養女マートルと暮らしていた。ここからほど近い祖父母の家に住んでいたモンゴメリは、この家を取り囲む森や林など自然環境に強い親しみを抱き、たびたび訪れてはマートルと遊んでいたという。』とあります。
 

ダイニングルーム(多分)
 

マシューの部屋
 

2階のアンの部屋(左下写真)には、マシューが買ってくれたパフスリーブのドレスがかかっています。壊れた石盤も置かれているということでしたが、わかりませんでした。
アンの部屋                         裁縫室
  

マリラの部屋
 
マリラの部屋には、めがね、黒いショール、紫水晶のブローチが飾られているといいます。全体写真に加え、部分写真を2枚アップしました。左下写真の机の上に見えるのが紫水晶のブローチでしょうか。
  

グリーンゲイブルス
 

グリーンゲイブルスの正面(お化けの小径へ)
 

グリーンゲイブルスから東方向の森に入り、お化けの小径を進み、さらに道路を横断するとその先は草原です。草原から本屋へ行く途中に、モンゴメリの住居跡があります(下写真)。祖父母の家で育ったモンゴメリは、祖母が亡くなる36歳まではこの家で暮らしていました。現在は医師の土台と当時の井戸だけが残っています。
 

グリーンゲイブルス郵便局 モンゴメリが暮らした祖父母の家の郵便局を再現した建物だといいます(下写真)。内部は博物館になっているとのことですが、このときはオープンしていなかったようです。
 

6号線に沿って戻ると、十字路に共同墓地があります(左下写真)。この共同墓地にモンゴメリの墓があるのです(右下写真)。モンゴメリは1942年にトロントで死去しました。生前より「グリーンゲイブルス」の見えるこの場所で永眠することを望んでいたといいます。
  
                                 モンゴメリの墓
こうしてキャベンディッシュ付近の観光地を巡りました。次はクルマで海岸沿いを走り、グリーンゲイブルス博物館へ向かいました。この家は、モンゴメリの叔母さんの家で、現在もキャンベル家の人たちが暮らしているということです。

グリーンゲイブルス博物館
  
                                 輝く湖水 Lake of Shining Waters

ここからまた車を走らせて、ケンジントン駅舎跡へ向かいました。

ケンジントン駅舎跡(下写真)は、1905年に建てられた旧駅舎で、モンゴメリも利用していたといいます。1989年に鉄道が廃線になり、現在は一部がバーとなっています。
 
 

こうして、プリンスエドワード島における赤毛のアンゆかりの地巡りが終わりました。

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米と英の特別な関係

2016-07-21 20:23:05 | 歴史・社会
イラク戦争について、イギリスが行った検証が話題になっています。例えば、・・・
イラク戦争を検証し続けるイギリスと、一顧だにしない日本?その「外交力」の致命的な差
2016年07月21日(木) 笠原敏彦
『7年の歳月をかけ、参戦を決めたブレア首相ら当時の政府高官ら約150人を聴取、政府文書への完全なアクセス権を与えられ15万件の証拠を調べ上げた。そして、「軍事行動は最後の手段ではなかった」「法的根拠を十分に満たしたというにはほど遠い」などとブレア氏を厳しく批判している。』
『世界はイラク戦争の「落とし子」と言える過激派組織「イスラム国(IS)」のテロの脅威にさらされている。多大な犠牲を払ったイラク戦争とは「一体何のための戦争だったのか」。国民の多くが自問し続けてきたのである。』

『報告書は、ブレア首相が開戦8ヵ月前の2002年7月、「何があっても行動を共にする」とブッシュ大統領に伝えていた書簡を機密解除させ、公表した。すでに参戦を決意しているかのような物言いだ。
ブレア首相はなぜ、そこまでしてアメリカを支えようとしたのか。』

『英米関係を特徴づけるものに「2つのアングロサクソン国家」と「特別な関係」という2つの言葉がある。
「特別な関係」という言葉は、ウィンストン・チャーチルが1946年に行った「鉄のカーテン」演説で初めて使われた。東西冷戦が幕を開け、イギリス単独では共産主義の脅威から欧州を守れなくなった時代だ。この言葉には、アメリカを欧州防衛に関与させ、英米の「特別な関係」で欧州と自由主義世界の平和と繁栄を支えようという思惑が込められている。』
『筆者が気になるのは、検証報告書が「利益と判断が異なるとき、無条件の(対米)支援は必要ない」と提言している点だ。』(以上)

私は、「米と英の特別な関係」というと、思い出すことがあります。
第二次大戦前から直後にかけての日本の外交官・外務大臣であった幣原喜重郎氏が、「外交五十年」という自伝を出しています。私は2008年にこのブログで、『幣原喜重郎「外交五十年」』として記事にしました。その中に記述したことです。
『幣原氏が1919年に駐米大使としてワシントンに着いた頃、カリフォルニア州で排日土地法が問題になり、とうとう州議会で可決してしまいます。この頃のアメリカにおける日本からの移民に対する差別待遇が、日本人のアメリカ嫌いを形成する大きな要因となりました。その意味では後に日米戦争の起因のひとつです。

幣原氏が大使館参事官としてワシントンにいた頃、1912年にパナマ運河が開通し、アメリカはイギリス船を含め外国船に通行税をかけることにしました。イギリスは米英間の条約違反であると抗議します。しかし米国議会はこの法案を可決してしまいます。
当時の在米イギリス大使はブライス氏です。ある日、幣原氏はブライス氏を訪ねます。幣原氏はパナマ運河問題についてブライス氏に「抗議を続けられるでしょう」と訊くと、「いいえ、もう抗議は一切しません」との答えです。幣原氏が突っ込むと、ブライス氏は昂然として、「どんな場合でも、イギリスはアメリカと戦争をしないという国是になっている。抗議を続ければそれは結局戦争にまで発展するほかない。戦争をする腹がなくて、抗議を続けても意味がない。」と答えます。
逆にブライス氏がカリフォルニアの排日問題に転じます。幣原氏が「抗議を続けます」と答えるとブライス氏は、「一体あなたはアメリカと戦争する覚悟があるのですか。もし覚悟があるなら、それは大変な間違いです。これだけの問題でアメリカと戦争をして、日本の存亡興廃をかけるような問題じゃないでしょう。」とし、こう付け加えます。「アメリカ人の歴史を見ると、外国に対して相当不正と思われるような行為をおかした例はあります。しかしその不正は、外国からの抗議とか請求とかによらず、アメリカ人自身の発意でそれを矯正しております。これはアメリカの歴史が証明するところです。われわれは黙ってその時期の来るのを待つべきです。加州の問題についても、あなた方が私と同じような立場をとられることを、私はあなたに忠告します。」

アメリカの排日問題が、日本人のアメリカ嫌いを助長し、対米開戦にまで到達してしまったのですが、日本にイギリスの智恵があったらと惜しまれるところです。
またブライス氏が予測したとおり、1931年頃、アメリカは排日法を撤廃する気運になりました。ところがその後まもなく満州事変が勃発して日本の評判が再び険悪となったので、排日立法撤廃の発案は立ち消えになってしまいました。
この点からも、「満州事変がなければ、太平洋戦争には至らなかったのでは」という繋がりを感じます。』(以上)

1910年代にはすでに存在していた「米と英の特別な関係」ですが、イラク戦争を契機として、この関係は解消してしまうのでしょうか。
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南シナ海ハーグ裁定と満州事変のリットン報告書

2016-07-17 10:03:07 | 歴史・社会
前報で、南シナ海ハーグ裁定と日本の安全保障について記事にしました。
習近平中国は、南シナ海全域を中国の「核心的利益」であるとして、一歩も引きません。

ところで、中国の「核心的利益」と聞くと、満州事変時における日本の「特殊権益」を思い起こします。
さらに、ハーグ裁定を中国が「紙くず」と称した点については、満州事変に対するリットン報告書を日本が否認したことに似ています。このあと日本は、結局国際連盟を脱退し、第二次大戦に転がり落ちていったわけですが、中国はどうなるでしょうか。

2009年1月、私は加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」について紹介しました。
『満州事変前後の国際情勢を語る際に、「日本が有していた満蒙における特殊権益」という言い方がよくされます。
加藤氏の著書では、「特殊権益(日本の特殊な権利、日本の特殊な利益)」というものが、決して二国間あるいは国際的に認知されたものではなく、日本単独の独りよがりであったことを本の中で明かしていきます。
しかし当時の国民は、陸軍による宣伝活動が功を奏し、「日本は満蒙に特殊権益を有しているのだ」と信じて疑わなくなります。そのような日本の権益を侵害する張作霖、張学良、中国人民はけしからん連中である、ということになります。

《満州事変後のリットン調査団から国際連盟脱退まで》
満州事変後、国際連盟はいわゆる「リットン調査団」を派遣します。
団長であるイギリスのリットン伯爵自身は、紛れもなく中国に同情的でありましたが、リットン報告書は日本に好意的に書かれたものでした。アメリカ代表は「日本側は報告書の調子に満足するだろう」と述べていますし、日本の専門家のメンバーも「内容は全体的には日本に対して非常に好意的である」と評価します。
しかし日本はこの報告書に満足しません。主に、日本の特殊権益が認められなかったところが大きかったようです。
当時の外相である内田康哉は、満鉄総裁時代から関東軍の行動に協力的であり、はやくから満州国独立・満州国承認論を論じていました。32年6月14日、衆議院本会議で、政友・民政共同提案の満州国承認決議は全会一致で可決されます。
国際連盟で、日本代表の松岡洋右は妥結に向け努力しますが、それを内田外相が葬ってしまいます。内田は国際連盟を脱退せずに済ます自信があったようです。
しかし国際連盟は、リットン報告書をベースとした和協案よりも厳しい内容の勧告案を採択します。

国際連盟脱退は、意外な展開に基づきます。
連盟規約16条では制裁について規定していますが、それは、15条の和解や勧告を無視して新しい戦争に訴えたときにだけ適用されると解釈されます。
関東軍は、「熱河作戦」を計画し、斉藤内閣はこれを諒承します。天皇も参謀総長の上奏に許可を与えます。この時点でまだ国連の勧告は決まっていません。しかし2月8日、連名の手続が勧告案へ移行したことが伝えられます。斉藤首相と天皇は、熱河作戦が「新しい戦争」と解釈される恐れがあると気付き、うろたえます。
熱河作戦は撤回できない。16条適用もあるうるかも知れない。ならば速やかに(連盟を)脱退すべきだとの方針を内閣は取りました。
こうして、日本は国際連盟から脱退しました。決して、松岡洋右の単独プレーではなかったのです。』

習近平中国のいう「核心的利益」も、日本の「特殊権益」と同様、言っている方の独りよがりである点が似ています。しかし中国は、絶対に後に引くことはないでしょう。
中国には、国際海洋法条約から脱退する手があります。日本が国際連盟から脱退したように。

ところで、国際海洋法条約と国際連盟、どちらも米国が加入していなかったという点でも、共通点があるのですね。恐ろしく符合点が多いです。

中国と世界平和との関係、今よりもっと悪い方向に進むのではないかと懸念されます。
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南シナ海ハーグ裁定と日本の安全保障

2016-07-16 11:27:34 | 歴史・社会
南シナ海領有権、「中国に歴史的権利なし」 国際仲裁裁判所
AFPBB News 7月13日(水)10時10分配信
『南シナ海の領有権をめぐってフィリピンが中国を提訴した裁判で、オランダ・ハーグにある常設仲裁裁判所は12日、中国には同海域の島々に対する「歴史的権利」を主張する法的根拠はないとする裁定を下した。
 同裁判所は、中国が南シナ海での領有権を主張するために独自に設定している境界である「九段線」の内側の海域について「中国が歴史的権利を主張する法的根拠はないと結論付けた」と述べ、「中国はフィリピンの主権を犯している」とした。
 13年に中国を提訴したフィリピンは仲裁裁判所の裁定を歓迎した。一方で中国外務省は同日「裁定は無効で何の拘束力もない。中国はこれを受け入れないし、認めない」と真っ向から拒絶した。さらに「第三者によるいかなる手段の紛争解決も受け入れない」とし、領有権問題に関する長年の姿勢を繰り返した。』

習近平中国は、南シナ海全体の実効支配を手放そうとしません。
私は以前から、中国にとっての南シナ海の重要性は、南シナ海を中国のミサイル潜水艦の活動場所にするためではないか、と推定していました。南シナ海の岩や暗礁を埋め立てて軍事基地にし、ミサイル潜水艦の基地を設ければ、基地から南シナ海の深い部分まで敵に知られずに潜水艦を派遣することができるからです。
その場合、安全保障上のリスクが生じるのは、決して南シナ海に面する国や米国のみではなく、日本にも重大な安全保障上のリスクが生じるのです。

昨2015年7月18日、安全保障関連法案において、以下のように記事にしました。
《普通の国であれば当然に行使できる集団的自衛権》
『現代世界において、それぞれの国は集団的自衛権を保持し、健全な普通の国家であれば、国と地域の平和と安全を確保するために必要であれば当然に集団的自衛権を行使し得るものと考えます。
日本を取り巻く情勢を見ると、同盟国であるアメリカは、オバマ大統領が「世界の警察官であることをやめた!」と宣言し、実際に軍事費は大幅に削減されつつあります。
一方で中国は、周辺地域で覇権を握ろうとする思惑が露わであり、南シナ海でも東シナ海でも膨張の機会を虎視眈々と狙っている状況です。南シナ海が中国の制海権下におかれ、中国のミサイル潜水艦が南シナ海の底を遊弋するようになれば、横須賀に司令部を置く米国第7艦隊はハワイまで撤退することになるでしょう(飯柴智亮著「2020年日本から米軍はいなくなる」)。
このような状況下で、日本と周辺地域の平和を守るために必要なのは「抑止力」と「対話」であると考えられます。米国による抑止力が減退している状況下で、日本は何をなすべきなのか、その点を考えると、集団的自衛権をどのように取り扱うのか、真剣に討議すべき時期だと思われます。普通の国であれば集団的自衛権を保持して平和を守ることは当然に認められているのですから。』

飯柴智亮著「2020年日本から米軍はいなくなる」には、横須賀を母港とする米国の第7艦隊について以下のように描かれています。
横須賀の米第7艦隊は絶対に必要。
現在、中国は800~900のミサイル発射台を持ち、そのうちの100~150が在日米軍向けと予測される。第7艦隊の攻撃型原潜にはトマホークが200発搭載されている。ターゲットリストには中国の司令部とミサイル発射台100~150の情報すべてが入っている。中国が横須賀に向けてミサイルを発射する前に、アメリカの原潜からのミサイルですべて潰される。だから、横須賀の第7艦隊はまだ大丈夫。
中国海軍が潜水艦発射型弾道ミサイルJL-2のような長距離高性能ミサイルを200発、実戦配備するまでだが。
横須賀を攻撃できるようになるのは2035年頃だろう。そのときは、フィリピンのスービック基地に横須賀と同様の施設を造って、フィリピンと横須賀に第7艦隊を分散させる。さらに危険だと判断すればその後方にあるハワイを使う。』

陸上に設けられた現在の中国のミサイルは、少なくとも横須賀の第7艦隊母港をターゲットとするものについては、それが発射される前に、米国原潜から発射されるミサイルによって無力化されるというのです。しかし、中国がミサイル潜水艦を十分に配備したら話は別です。アメリカは中国のミサイル潜水艦を無力化できないので、中国がその気になれば横須賀は破壊されるでしょう。フィリピンもだめですね。そうなると、米第7艦隊はハワイまで撤退します。

こう考えると、南シナ海を中国が支配して暗礁を埋め立てて軍事基地にするということは、日本の安全保障に重大な影響を及ぼします。
また中国にとっても、南シナ海を中国潜水艦の安全な内海にできれば、まずは第7艦隊を横須賀から追い出すことができますし、さらにハワイや米本土をミサイル潜水艦の射程に入れることも可能になります。
従って、中国は、ハーグの仲裁裁判所の裁定程度では、「はいわかりました」と南シナ海から撤退することはないはずです。中国がいう「核心的利益」の中には、ミサイル潜水艦を南シナ海で自由に運用する利益が大きな部分を占めると思われます。

以上のような考え方、以前はあまり報道で接することがありませんでしたが、ハーグ裁定以降はだいぶ言われるようになったようです。
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南スーダン内戦と自衛隊PKO

2016-07-10 10:43:06 | 歴史・社会
南スーダンの首都ジュバで、大統領派と副大統領派それぞれの兵士間に戦闘が発生し、150人が死亡する内戦状態となりました。
南スーダンのジュバには自衛隊が派遣されているはずです。しかし、テレビニュースでは自衛隊について一言もしゃべりません。そこでネットニュースを確認しました。

衝突で兵士150人死亡=独立5周年、内戦再燃の恐れ―南スーダン
時事通信 7月10日(日)5時52分配信
『南スーダンは9日、独立から5年を迎えた。
前日には首都ジュバでキール大統領派とマシャール副大統領派の兵士が衝突し、副大統領報道官によると少なくとも150人が死亡。ジュバの緊張は高まっており、内戦再燃の恐れも出ている。
同報道官は、キール大統領とかつて反政府勢力指導者だった副大統領の「双方の警護部隊全てが交戦した。死者は増える見通しだ」と語った。戦闘は大統領と副大統領が大統領府で会談している際に発生。小火器から重火器にエスカレートし、複数の場所で迫撃砲の音が響いた。
両派による戦闘は4月の暫定政府発足後初めて。大統領と副大統領は「不運な出来事」と述べた。ジュバは9日は厳戒態勢が敷かれ、外出する市民はまばら。各国政府は南スーダンからの退避勧告を出した。』

自衛隊の件は記事になっていません。別の記事を調べました。

<南スーダン>建国5年、経済疲弊…急務の和平定着
毎日新聞 7月10日(日)8時30分配信
『・・・南スーダンの内戦で、陸上自衛隊の施設部隊が参加する国連の平和維持活動(PKO)は大幅な軌道修正を余儀なくされてきた。日本の安全保障関連法で可能となった「駆け付け警護」が自衛隊員に適用される初の現場となる可能性もあるが和平の行方は未知数だ。
・・・派遣されているのは陸自第7師団(北海道千歳市)など10次隊約350人。正面ゲート前の道路整備や避難民キャンプの外壁造りなどを行う。
日本政府は国造りの支援で12年1月から陸自施設部隊を派遣したが、南スーダンは独立から2年半で内戦に突入。・・・国連は市民保護をPKOの最重要任務に変更。・・・』

日本は、自衛隊を海外にPKO派遣するに際し、「安全な場所だから」ということで派遣にOKを出しています。南スーダンの場合もそうです。その場所が安全ではなく危険になりました。もし、現時点で初めて南スーダンPKO派遣の話が持ち上がったとしたら、日本政府は絶対に派遣にOKを出さないはずです。であれば、すでに派遣されている場所が安全から危険に変化した場合、どうしたらいいのでしょうか。

自衛隊という軍隊を派遣する以上、国連も世界も、「危険な場所でも活動できるからこそ軍隊を派遣する」と理解します。ですから、その場所が今の南スーダン程度に危険になったからといって、軍隊がその場所から逃げ出すことなど考えられません。日本にとってのジレンマです。また派遣当初、日本は「土木工事のために自衛隊を派遣」したはずです。しかし、南スーダンの情勢変化で、国連はPKOの目的を「市民保護」に変えました。市民保護のためなら、派遣された自衛隊は市民に襲いかかる軍隊と戦闘しなければなりません。
日本は独自の判断で、「そのような戦闘には参加しない」と行動できるのでしょうか。PKO派遣自衛隊の指揮権は誰が持っているか。日本の総理大臣ではありません。PKOの指揮官です。日本が独自でできることは、撤退判断のみといいます。いやだったら逃げ出すことだけはできる、ということです。多分派遣された自衛隊は逃げ出さないでしょうから、PKO司令官の命令があれば市民保護のために戦わざるを得ません。

私は、南スーダンに自衛隊を派遣するという当初の計画が間違っていたと思います。
「ジュバ付近は安全だから」ということで土木建設部隊を派遣するのであれば、民間人を派遣した方がよろしいでしょう。民間人であれば、その場所が危険になったと思えば即座に撤退させることが可能です。実際、自衛隊が派遣された当時の南スーダンには、民間人が援助目的で多数派遣されていました。2011年当時、J-Wave瀬谷ルミ子さんにおいて、南スーダンPKOに対する瀬谷ルミ子さんの意見を紹介しました。瀬谷さんが事務局長を務める日本紛争予防センター(JCCP)は南スーダンに現地事務所を開設し日本人代表(日野愛子さん)が活動していました。JCCPのみならず、JICAが大々的に活動を行っていました。テレビ東京の番組(「地球VOCE」10月7日14日放送分)で見ることができました。職業訓練所を開設し、日本人指導員が大勢で活動していました。活動内容はJICA 南スーダンで見ることができます。
もちろん、今回のバングラデシュのような悲惨な事件は起こりえますが、だからといってPKOの対象となっていないバングラデシュに自衛隊を派遣する話にはならないでしょう。自衛隊であっても、武器を携行していないときにあのような事件に巻き込まれたら、今回の犠牲者と同じ運命をたどると思われます。

2012年2月23日の朝日新聞朝刊に基づく私のブログ記事を紹介します。
『「昨年(2011)7月に独立した南スーダンの国造りは始まったばかりだ。インフラが貧弱で、生活を支えるのは家畜だけといったちほうも少なくない。国連平和維持活動(PKO)にあたる陸上自衛隊の主力部隊が首都ジュバで活動を開始したが、地方にこそ支援が必要との声も聞こえる。」
「派遣隊員は拳銃や自動小銃、機関銃を携行するが、現行の基準では武器の使用は隊員の身を守るためなどに限られる。政府内ではジュバ以外での活動も検討されたが、武器使用基準が緩和されていない中、治安が不安定な地域で活動することは、不測の事態に対応できなくなる恐れがあるとして見送られた経緯がある。」(朝日記事)
このブログでは、自衛隊の南スーダン派遣について「J-Wave瀬谷ルミ子さん」、「自衛隊施設部隊が南スーダンPKO派遣」、「南スーダンでのJCCP活動」で話題にしてきました。
そもそも、去年(2011)の夏に国連から南スーダンへのPKO派遣を打診され、派遣することが決まりました。
瀬谷さんが防衛省の人たちと接した印象では、日本も防衛省も、日本がどういう目的・スタンスで陸自施設部隊をPKO派遣するか、はっきりしていなかったようです。
瀬谷さんの発言:
「派遣するしないの前に、日本が南スーダンにどういう目的で自衛隊を派遣するのかというところが大事なんじゃないかと思っています。今、国連のPKOで部隊を派遣している国って、ほとんど全部途上国なんです。先進国は派遣していない。途上国というのは、国連PKOに部隊を派遣することで国連から給与、謝金も入ってくるのと、国としての実績もできるからということなんですけど。じゃあ日本がその中に混じって今、自衛隊を派遣するというのは、日本として世界にどういうかかわり方をしていきたいと思っているからか、というのを、あまり議論されていないのと、おそらく防衛省の中でもはっきりしていないなあ、というのが、実際に話をしていて感じます。」
陸自PKO派遣でまず問題となるのが武器使用基準です。今回も武器使用基準は緩和しないとのことです。そうすると、安全な場所でしか活動できません。南スーダンの首都ジュバは治安が安定しているから、そこで活動するようです。そうとしたら、なぜ自衛隊でなければならないのか、わからなくなります。結局、武器使用基準があるから危険な場所には出て行けず、自衛隊でなくても活動可能な場所で活動することになります。』

伊勢崎賢治氏の発言についてネット検索し、以下の記事を見つけたので貼り付けておきます。
安保法制をめぐる国会論戦、ここがおかしい
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