弁理士の日々

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原英史「官僚のレトリック」(3)

2010-09-16 21:35:14 | 歴史・社会
原英史著「官僚のレトリック―霞が関改革はなぜ迷走するのか
第1回第2回に続いて第3回です。

安倍政権下で2007年6月に成立した改正国家公務員法では、「各省斡旋の禁止」と、曖昧な部分を残しつつも「新・人材バンク」を実現しました。

2007年9月、安倍内閣が倒れて福田康夫内閣が誕生しました。
安倍総理と違って、福田康夫総理は、公務員制度改革にはさほど熱心ではないようにも見受けられました。しかし、福田内閣は、安倍内閣で仕掛かりになった公務員制度改革のアジェンダをそのまま引き継いだのみならず、旗振り役の渡辺行革大臣まで留任させました。

福田政権に持ち越された案件が、「公務員への労働基本権の付与」でした。
公務員には労働基本権に制約が設けられているのですが、実はこの「労働基本権の制約」の最大の受益者は公務員自身、それも次官から係員までの公務員全体だというのです。代償措置として設けられたのが人事院の勧告制度で、公務員は自分で労使交渉することなく、民間企業の成果にただ乗りできる仕組みになっています。
安倍内閣は、「労働基本権」を公務員制度の第二の急所と見定め、「07年秋までに最終結論」との期限を設定しました。これが福田内閣への置き土産となりました。

安倍内閣のもう一つの置き土産は「官民人材交流センターの制度設計に関する懇談会」です。田中一昭拓殖大名誉教授が座長です。そして委員の長谷川幸洋氏が「会議はインターネットで中継すべき」と主張し、渡辺氏も同調して2回目以降はインターネット中継されました。公開であることが幸いして、国民目線での議論が進められました。そして報告書では、センターの基本的な性格付けとして「天下りを続ける機関」ではなく「天下りを、本人の能力・実績に応じた再就職に転換するための機関」と定まりました。
しかし最終段階では、福田政権の町村官房長官が守旧派を代表する態度を取ったのですが、なんとか法案は閣議決定に至りました。しかし国会では全く審議されず、最終的には廃案となりました。

さらに安倍政権の置き土産で07年7月に「公務員制度の総合的な改革に関する懇談会」が発足しました。メンバーに堺屋太一氏や屋山太郎氏などが入っています。そして報告書は堺屋氏を中心とする起草委員会に一任することになりました。
しかし福田総理が後ろ向きで、報告書を受けとらないと言ったそうです。最終的には受けとりますが、その段階で福田総理は「日本は政治家が弱いんですよ。こういう国では官僚が強くないといけなんです」と言いはなったと言います。報告書の最大の眼目は「官僚内閣制の打破」でした。
福田総理の発言は本音だとは思いますが、「何とか政治家が強くなって議院内閣制を実現しよう」という意識だけは持ってほしかったです。
次には報告書に沿った「国家公務員制度改革基本法」の法案化です。渡辺氏が法案化を目指した内容は報告書とほぼ同じ内容でした。
1「官僚内閣制から真の議院内閣制へ」(政官接触の集中管理、「国家戦略スタッフ」「政務スタッフ」)
2.「キャリア制度の廃止」
3.「各省割拠主義から日の丸官僚へ」(「内閣人事庁」の設立)
この改革に反対する勢力が作った通称「素朴な疑問」といわれる怪文書も出回りました。
そのような強い反対を受けた改革プランですが、08年4月、ほぼ当初案通りの「基本法」として閣議決定されました。自民党内で中川秀直議員率いる「国家戦略本部」が強力に改革をバックアップしたこと、その国家戦略本部が会合をマスコミフルオープンの戦術をとったことが奏功したそうです。当初は積極的でなかった福田総理が前向きな姿勢に変わったことも転機となりました。
国会は衆参ねじれでしたが、むしろ民主党の側から早期審議を要求するようになり、自民・公明・民主の三党修正合意を経て08年6月に「基本法」は成立したのでした。
『小さな「骨抜き」に見える修正はあったにせよ、内閣人事庁(局)という根幹の部分を残して、法律として成立に至ったこと自体、大戦果と言ってよかった。』
『渡辺氏は、法案がまだもめている頃に中曽根康弘元総理に相談に行き、「これ(内閣人事庁構想)は革命だよ。実は私もこういうことをやろとうしていたんだ。だけど、当時はまだ機が熟さなかった。いまこういう壮大な革命を仕掛けるのであれば、枝葉のところは妥協しなさい」とのアドバイスを受けたと明らかにしている。』

2008年9月、福田総理が突然に退陣して麻生内閣が発足します。
安倍内閣時代に成立した国家公務員法の改正により、「官民人材交流センター」に一元化することが決まっていました。天下り規制を施行する期限は08年12月。そこから3年以内の経過期間中は「監視委員会」の承認を受けて各省が斡旋を行うことが認められるとなっていました。
その08年12月が到来しました。
法律では、監視委員会委員の人事を国会同意人事としていました。ところが民主党が多数を占める参議院で、民主党の反対で委員の人事がことごとく否決されました。民主党の反対の理由は「委員会を設けること自体に賛成できない」ということでした。当面、各省斡旋の承認を行うことに反対だというのです。民主党が政権を取った後の「天下り垂れ流し」状況を見るにつけ、民主党は本当にいい加減だと思います。
改正法では、監視委員会が承認しなかったら、08年12月以降は各省斡旋による天下りが不可能になります。
麻生政権は奇想天外な解決策を発動しました。12月19日に閣議決定された「退職管理政令」です。この政令の中で、何と、「監視委員会」に代わって「総理が承認を行う」という「読み替え規定」が置かれたのです。“政令が法律を読み替える”というあり得ない事態になったのです。さらにこの政令では「渡り」を容認する規定が置かれていました。

こうして、安倍・福田両内閣で築き上げてきた改革は、麻生内閣になった途端、一気に逆行していきます。これに強い危機感をいだいたのが渡辺喜美氏でした。09年1月13日に自民党離党に至りました。

上記「読み替え」規定については、民主党政権になっても変更されず、(10年4月現在では)生きているそうです。

「内閣人事局」には、総務省、人事院、財務省から、それぞれにある人事関係の機能を移して一元化することが当然必要と考えられていました。
これに対して、当時の人事院総裁である谷公士氏が真っ向から異論を唱えました。しかし人事院総裁は閣議メンバーではないので、谷総裁の異論は無視しておけば良かったのです。しかし麻生総理は閣僚会合の場で「人事院については、残る論点について調整されたい」と発言しました。これは“霞が関修辞学”では、担当の甘利大臣に人事院との「調整」を求めたもので、谷氏の了解を取り付けよと指示したことになるようです。この発言は財務相出身の総理秘書官が総理の発言要領に潜り込ませ、麻生氏が深く考えもせずにそのまましゃべったのだそうです。

閣議決定前、内閣人事局長を誰にするかでもめました。官僚側は官房副長官の兼務を推進、自民党内で中川秀直元幹事長らは「人事局長は新設ポストにすべき」と主張しました。そして当時の官房副長官であった漆間巌氏(元警察庁長官)が「事務の副長官が就くべき」と発言します。結局「官房副長官の兼務」で決着し、その直後に漆間氏が「私が(人事局長を)やること」とテレビカメラの前で語り、官僚が勝利したことは明らかでした。
そしてその閣議決定した法案そのものが、国会ではまともに審議されないまま総選挙に突入し、法案は廃案となってしまったのです。

総選挙の結果、政権交代で民主党連立政権が誕生しました。
野党時代の民主党は、「新・人材バンクは『天下りバンク』だ」、「官僚もハローワークに行けばよい」といった強烈な批判を繰り返していました。「人材交流センターでも生ぬるい。もっと徹底した天下り規制をすべきだ」という論旨だと当然に国民は理解していたでしょう。
ところが政権を握ってみると、天下り禁止を推進するどころか、天下りを放任する事態となってしまいました。こちらで紹介したとおりです。
『結局、「財務省は敵に回せない」などと言って自民党守旧派同様の“官僚への配慮”を続け、加えて“公務員労組への配慮”まで行い始めた結果、自民党政権時代よりも、状況ははるかに悪化してしまったように見える。
「脱官僚」は、残念ながら、もはや、風化しつつある。』
何とも情けないことになりました。
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