先月に行った「発寒発見ツアー」で仲良くなった方々と、ツアー後に何人かでお茶を飲んだ時に私と同性のNさんから宿題が出されました(^^
建築家田上義也の設計した建物が発寒にあったと、井内佳津恵著「田上義也と札幌モダン」という本に書かれてあり、写真も掲載されていました。
見ての通り窓周りや柱に田上義也設計の雰囲気があり、旧小熊邸に良く似た所があります。
写真から推理すると立っている二人の服装と、前の作物から初夏もしくは秋?。トウモロコシだとすれば初夏か。
多分南向きに建物を建てているだろうし、それで陰を見ると午後に撮られた写真となる。
山が写っていればかなり場所の特定ができるのでしょうが、背景は真っ白なのでそこからも南東から北西に向けて写されたものかと思います。
この建物は品川義介という人が家族寮、今で言うと更生施設のようなものとして建築したのがこの『白雲山荘』。
しかし、本の中には昭和2年に琴似町字発寒に竣工という記述があるだけで、詳しい場所は「…他の人家など一軒もないような原野にあった。」としか書かれてありませんでした。
ただこの山荘に下宿し、品川氏を助けていた中川という人がいて、この人の娘さんが中川李枝子さん。絵本『ぐりとぐら』の作者、となりのトトロのテーマ曲『さんぽ』などを作詞した人だったのは驚きました。
その中川さんの『私の中の原風景』という本の中で父親の語る山荘の話が書かれているようですが、残念ながら図書館にもネットでも発見できませんでした。
それで、発寒に昔から住んでいる方、数人にこの建物を知っているか尋ねてみましたが、一人として知っている人はおらず、昭和10年代生まれの人では全くわかりませんでした。ただ煙突がレンガなので当時としてはかなり高級な建物だったろうということです。
そこで、田上建築といえばあの先生☆と、思い切って北大の教授で工学博士である、豊平館で2度ほど講演を聞いたことがある角先生にメールしてみました。
するとなんと先生から快く返事をいただき、白雲山荘の場所は分からないとのことでしたが、品川氏の書生だったという方が白雲山荘が昭和16年に閉じてから山荘を訪れた事を記している手記を教えていただきました。
それによると国道旧5号線から琴似駅まで行きそこから左折、小樽方面へ向かい農業試験場を越して白雲山荘を購入したSさんという家まで行きますが、そこにはもう山荘はもう残っていませんでした。
そのSさんというのが分かれば手掛かりが分かるかと、Nさんに報告すると多分それは昭和20年頃の地図にもあり、今も小学校の近くにある家では?とのこと。その近くを通ったところいかにも昔からあるという感じの邸宅があり、建物の雰囲気もなんとなく白雲山荘に似ている印象を受けました。
残念ながら昭和初期の地図がないので白雲山荘が建っていたはっきりした場所は分かりませんが、多分この辺か?というところまではきました。
今後Nさんからもっと核心に触れる話を聞けたらな~と思います。
この建物が今も発寒に残っていたら地域でも自慢の建物だったろうと思うとちょっと残念。
発寒中央駅前では只今ショッピングセンターが建設中。
その隣にはいつ建てられたか分からない石造りの倉庫が今もひっそりと建っています。
どんどん古いものが無くなっていくのは寂しいことです。
誰かこの建物を覚えている方がいれば連絡ください(^^)/
今あるものは常に変化していき、消えて行き、また新たなものが生まれている。それが年月の変遷で歴史と呼ばれるものになる。
忘れかけていた大切なものを思い出すこともあります。
北海道の歴史はまだまだ短いものですが、それでも貴重な月日がたくさん過ぎています。無関係と思っていたことが意外に身近であったり、新たな知己を得るきっかけにもなります。過去の日々を掘り起こすことの意味をもっと大切にするべきですね。
良い話、聞かせてもらいました。
そうかあ~今だけでなく、未来にもつながっているものなんですよね。
古きを尋ね新しきを知る。でしたか、古いものの中にも大切なものってあると思います。
本州から比べると北海道って本当に歴史は浅いのですが、それでもどんどん古い歴史がなくなっていく原状は寂しいものがあります。
昨日函館の古民家の維持に関するフォーラムがあったとニュースで見ましたが、保存するのもかなり金銭面で大変だとか。行政に頼らずにも再生、維持できるといいのですが、昨今の不況では企業もそういったことにお金を出さないし、厳しい世の中ですね。
この話はまだ続きがありますので、またのお越しを(^^
10月に広島県から約20年ぶりに里帰りで発寒へ引っ越してきました。
先日まで現場が石狩にあり、事務所(大通り)から石狩街道を通う際、篠路(太平?)辺りに「琴似発寒川」の表示を見つけました。「あれっ?発寒川って新川に合流してなかったっけ?」ちょうど地図で確認していたところだったんです。もしかしたら昔は新川貫いて茨戸川へ注いでいたのでは?って思っていたところでした。「そういえば住んでいる発寒のことも知らないな。」と思ったところでBEMさんにたどり着きました。広島には戦国や維新の歴史がありましたが、北海道にはアイヌと開拓の歴史がありますね。ますます身近なところから北海道について知りたくなりました。そうそう子供達が発寒小学校に通っているんです。どこかでBEMさんに会っているかもしれません。また訪ねます。
お子さんが発寒小ですか[E:happy01]
それはそれは嬉しいコメントです♪ご近所さんかもしれませんね。
20年ぶりとは凄いですね。…20年といえば私が発寒に入った頃です(笑)
太平の「琴似発寒川」ですか☆
発寒川じゃなくて?発寒川というのは私も屯田の方で見た事がありますが、今度探してみたいです。
広島を始め本州は昔話、歴史の宝庫ですよね。
特に広島~山口辺りは長州でしょうか、色々遺跡とかも多いのでしょうね~。
そんな所に行ったらもう帰ってこられないなあ(^^
今後ともよろしくお願いいたします♪
先日、コメントいただいた「新生と共生」を書いているものです。
まず、中川李枝子さんのお父様は、大村さまです。
母は、「大村兄さん」と言っていました。
また、今品川義介の娘が、一人健在です。
彼女なら、白雲山荘に住んでおりましたので、場所も分かっていると思います。
よろしかったら、お知らせします。
中川さんのお父さん、確かに「田上義也と札幌モダン」に書かれていたのは、「~中川の父が山荘に…」というような表記でしたので、当然お父様も中川さんとばかり思い込んでおりました。ご指摘どうもありがとうございます。
後ほど訂正しておきます。
品川さんの娘さんが健在との事、白雲山荘にお住みになっているとすれば、当時からはかなり風景も変わってしまったでしょうが、建っていた場所が分かれば是非ともお教えいただきたいものです。
今、当時から近くにいた住民の方のお話も聞けそうですが、山荘の事等もお聞かせいただければ、発寒の歴史にも残せると思います。
是非ともお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
半月でこれほど色んな情報が集まるなんて想像していませんでした。
叔母様におかれましては、突然知らない人に訪ねられても困ってしまうのはもっともだと思います。
会ってお話を聞かせて頂けるのが一番ですが、それまで何度かメールなどでもどんな主旨かお話ししてやりとりをさせていただければ、ご理解いただけるかな?なんて思います。
最初は手紙ではいかがでしょうかね。
私の連絡先は「新生と共生」の方に記載させていただこうと思います。
よろしくお願いしますm(^^)m
ありがとうございます。
私も調べていて知りましたが、品川義介様が亡くなってから30年も経つんですね。
昭和2年当時に田上義也氏が設計した建物でまだ残っているものも沢山あり、白雲山荘も残っていればと残念に感じます。
建物が残っていれば品川さんが山荘で行っていた事業の事も残されていたのでしょう。
白雲山荘と同時に発寒の歴史を現在数名で調べていたりしておりますが、昭和初期の事があまり残っておらず、かえって開拓期の明治時代の事の方が多く感じます。
まだ80歳代の方々のお話を聞けるうちにお話を残していければと思います。