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苦しみで終らない希望

2017-05-21 19:19:21 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ8章18~30節 

この8章はローマの信徒への手紙の頂点となる重要な章と言われています。心して読んで力ある信仰に生きる者とされたいと願っております。

その8章の中の特に今日読みました箇所は、大きく2つのことが語られております。
一つは「信仰者がこの地上において受ける苦しみ」についてであります。
もう一つは、これとは逆に「信仰者が将来受ける栄光」についてであります。
これら二つのことは個別にあるのではなく、「神が栄光に満ちたご計画を神の子たちの未来のために完全に満たしてくださる」事と固く結びついているのです。

そういうことを踏まえて18節で、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と使徒パウロは述べます。
パウロはそれと同様のことを二コリント4章17節でも言っています。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。

主を信じる者にとっては、世にある苦しみと、将来への栄光は対立関係としてあるのではなく、かえって今の苦しみは、将来の受けるべき栄光の証しとなるものなのです。

さて、パウロは22節で、「被造物(自然界)がすべて、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしは知っている」と述べます。
まあ私たち人間もそういった被造物、生態系の一部とも言えるわけですが。こうして文明が発展したように思われる現代にあっても被造物のうめきがやわらいだかといえば、むしろ逆です。海も山も空までも自然破壊が繰り返され、生態系が乱れて、異常気象による災害が多発している現状があります。又、それは人と共存する動植物にも異変をもたらし、自然の山に食べ物がなくなった熊や猿などが民家や畑に入り人を襲うということも起こっております。大意汚染や放射能汚は人体や自然に異変を及ぼし、身体を蝕んでいる現状があります。
しかし、こういった「被造物が虚無に服すしかない」という実状は、自然界自体や被造物自体に何か問題があるからではありません。むしろ聖書には「服従させた方、つまり神のご意志による」と言っています。
創世記2章を読みますと、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と神が「すべて良し」と絶賛されたこの世界であります。人が自然の中に神を思うのは、そのような神のすばらしい御手の業を感じるからでしょう。
神は人に、「神がお造りなった被造物をすべて支配せよ」(創世記2章28節)とお命じになりました。その管理を人に託されたのです。
しかし人は、その神のお言葉に背を向け、反して自らの欲するままに生態系を壊してまでも、又あらゆる種の命を脅かしてまでも、むさぼるものとなっているのです。

ともあれ「被造物は虚無に服す」だけなら、それはもう絶望や闇で終る以外ないのですが。パウロは、すべてを治めておられる神のご意志のもとにおいて、「同時に、希望を持っています」と驚くべきことを述べます。

それは21節、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」との希望であります。
もし人が本来の神の子としての命、生き方、神に託された地上の良き管理者としての存在とされていくとき、むさぼりは止み、共生共存の生態系となり、環境は守られ、損なわれた自然も取り戻されていくのではないでしょうか。

ですから、被造物がすべて今日まで受けている苦しみは、単に失望に終るものではなく、「神の子たちの現れるのを待ち望む産みの苦しみとしてのうめき」だということですね。
男性である私は妊婦さんの痛みと苦痛を体験していないので、産みの苦しみといったことはあまり想像がつかないのですが。母親がとんでもない苦痛に耐えることができるのは、その苦痛が苦痛だけのためにあるのではなく、それだけで終るのではなく、新しい命を生み出すという目的と希望があるから苦痛にも耐えられるのですよね。まさに「全被造物、この世界の命あるものは皆、神の子たちの現れを産みの苦しみのようなうめきを耐え忍んで待ち望んでいる」ということであります。

そして、23節ではこのように述べられています。
「被造物だけでなく、霊の初穂(イエス・キリストの救いですね)をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです」。

主を信じて生きる私たち信仰者も、この地上にあっては様々な苦しみを免れることはできません。身体的弱さ、欠乏、人の悪意、信仰者自身の罪の性質による苦しみや試練が、その時々にあるでしょう。

しかし、信仰者は14節にあるように「神の霊によって導かれる者」であり、「皆、神の子なのです」。又、15節にあるように「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と語られているとおりです。
神が栄光に満ちたご計画を、キリストにより神の子とされた私たちのために完全に満たしてくださる。アーメン。ここに確かな希望があります。

イエスさまを信じていても、世にあって苦しみ、悲しみは尽きません。問題や難題も待ったなしで起こってきます。落ち込んだり、挫折したり、だれもわかってくれない、と人をうらめしく思い、挙げ句の果てには、神さまを見失うようなとき、苦しくて神さまから見捨てられたように思えるとき。この手紙を書いた使徒パウロでさえも困難に何度も遭い、苦悩や心の痛みの中でもはや祈る言葉さえ失ってしまうような経験をしたのです

しかしそのパウロは次のように語ります。
26節「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。

私たちは、ほんとうに苦しいときにどう言うでしょうか。「きつい」「しんどい」「もういやだ」。けど、その苦しさの度が過ぎたりしたとき、理解を超えるような事態が起こってきたときは、もうどう祈っていいのかさえわからなくなりますね。祈りが、もう「うーー」とか、言葉にならない「うめき」になるのではないでしょうか。

そういう私たちに対して、パウロは「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成し」「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」と語ります。

祈祷会である方が、「最近うめくような祈りをしていたら、どう祈っていいかさえわからない中にも、主が共におられることを感じることができて、ああ主が共におられるのならもういい、と底が抜けたというか、突き抜けたような平安と賛美が与えられた」ということをおっしゃっていたのですが。

この霊が「助ける」ということですが、原語では霊が「共に・代わって・重荷を負う」(シュン・アンテ・ラムバノゥ)という深い意味を持つ合成語・言葉なのです。
日本語の「助ける」という言葉では、そこまでの深い意味を味わい知ることができませんが。神の霊、御霊は「苦しみを共に代わって担う」ことによって、弱い私たちを助けてくださるのです。何と心強く、幸いなことでしょう。
そして、それはまさに主イエスの救いのお姿と重なって見えてまいります。
人となられた神の十字架の深い苦悩、叫び、身代わりとなって執り成す愛が、私たちと共にある。アーメンです。
祈りは労働であると言われるほどですけれど、私たちの祈りのうちに、こうした神の霊の深い深いうめき、苦しみを共に代わって担われる助けがあるということを今一度覚えましょう。そして私たちは苦難にあってもなお、主の深い御救いの恵みを、味わい知っていく者とされたいと願います。

そのことを受けて、この「霊による助け」「言葉に表せないうめき」ということについて思うことがあります。
以前、牧師研修会が京都にある日本バプテスト病院であり、ホスピスケア・ターミナルケア(これは、その人らしい余命を全うさせ安らかな死を看取るとの視点に立った緩和ケアのことですが)、について学ぶ機会がありました。
その時に当時チャプレンの方がおっしゃっていた事が今も心に残っています。
「患者さんは、その病状が重度なゆえに、「ノ―」ということが言えない状況にもある。しんどくても我慢して大丈夫と言っている。言いたいことも押し殺している。私たちはそのような患者さんの思いを聞き取り、サポートができたらと願っている」。
今日のところで言えば「言葉で言い表せないうめき」を聞き取っていくということでしょうか。
さらに、チャプレンは「このケアは一人の魂に医師や看護師といった専門職だけが関わるのではなく、「その人に愛情をもって接することのできる人なら誰でも可能です。それはその患者さんの話を聞いてくれるご家族や友人。又、お部屋を毎日来られる掃除婦の方などであったり、様々な人との関わりを通して、その一人の魂を多面的に看る」。「可能な限り患者さんの声を聞いていく」。そういうことがスピリチュアルケアにとって大事な面であるということを教えて戴いたのであります。

今日の8章ですが。その全体が「わたし」ではなく「わたしたち」と記されていることに注目していただきたいのです。特に28節には「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。

うめきをもって私たちを執り成してくださる神の霊。それは「私という個人」だけに留まることなく、「私たちの間」にあって共にお働きになられるということであります。
そこにキリストにある兄弟姉妹、キリストの共同体、さらに言えば神の御計画に従って召された教会の本質がございます。

霊の助けと執り成しを受けて、共に祈り合い、執り成し合い、仕え合う者たちには、万事が益となるように共に働く。パウロは礼拝や集会を大切にするように勧めをなしていますが。それが私、又私たちにとって大事なのは、万事を益となしたもう神御計画が私たちの間でとどこおることのなくお働きになるためなのですね。

最後に、その御計画の私たちに対する大きな意義を29節-30節から受け、共に祈りたいと思います。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」。

主イエスを信じて義とされた者は、この「御子の姿に似たもの、イエス・キリストに似た者とされていく」という神のご計画のもとにございます。
そのご計画に従って召されてあゆむクリスチャンにとっては、万事が益(神の良しの意味)となるように神が共に働いてくださるのです。
それはまさに、30節にありますように「主を信じて生きる者が神の子供となり、キリストと共なる栄光に与る者とされる」ためです。ここに「苦しみで終らない真の希望」がございます。
私たちはこの世にあっては、キリストと共に苦しむことをも賜っていることを知り、やがてキリストと共なる栄光を受けていくものとされる希望を、御霊の執り成しに支えられ、強められる中、歩み通してまいりましょう。今週もここから遣わされて!
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