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逃れの道

2016-06-19 14:52:20 | メッセージ
礼拝宣教  サムエル上21・1~16 命どぅ宝の日をおぼえて

先週はルワンダミッションボランティアの佐々木和之さんの帰国報告会が連盟主催・連合協力・企画により当教会で行われ80名近い方々が集われ、佐々木さんの平和と和解のミッションのお働きやご体験についてご講演をお聴きすることができました。私たちの教会としてもこの佐々木さんの尊いお働きを祈りに覚えていくことができたら、とそう思いました。

さて、今週23日は沖縄慰霊の日、バプテスト女性連合では「命どぅ宝の日」として、沖縄の平和を覚え祈る一週間となるように願っています。先程女性連合作成のDVDを通しての現状と課題、又沖縄で生まれ育ったIさんの証しと祈りが捧げられました。戦後71年目を迎えましたが、その間日本は戦争をすることなく平和が保たれてきましたけれども、沖縄だけは憲法9条が適用されていないともいえる現状があります。中東での戦争の折には、沖縄から米軍の戦闘機が出撃して戦闘行為を繰り広げ、沖縄は出撃基地として報復の脅威にもさらされました。日米安保体制のもと日米地位協定という不平等条約が未だに沖縄の方々の人権を蔑ろにし、生存権を脅かしているということを、私たちはなかなか自分のこととして感じとれません。それは沖縄の抱えている危機が自分たちのうちに迫ってきていないということでもあるでしょう。平和に対する思い一つとっても、沖縄と本土には温度差があるように思えます。沖縄の方々が日々負っておられる不安や恐れを少しでも自分たちのこととして感じ取り、思いを寄せ続けていくということがやはり大事だと思います。それが日本全体、ひいては地球規模の平和への願いと実現につながって行くと信じます。私たちはそのことをキリストの福音から聞き、祈り、行動するように招かれています。

さて、本日はサムエル記上21章より御言葉を聞いていきます。この箇所にはダビデの逃亡についてのエピソードが記されています。

「命を生かす憐れみ」
さて、先週は少年ダビデと巨人のゴリアトの対決から、ダビデの「お前は剣や槍や投げ槍にわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」「主は救いを賜わるのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう」という言葉を聞きました。ダビデがそうであったように、主なる神さまへの畏れと信頼をもって立ち向かったところに、本物の勝利は与えられるのだ、ということをそこから知ることができました。
その後、ダビデの名声はサウル王を凌ぐようになっていき、サウル王はダビデに対して激しい妬みを抱くようになります。それがダビデが命を狙われるまでエスカレートした時、ダビデのことを「自分自身のことのように愛していた」(20:17)サウル王の息子ヨナタンは、ダビデを父の激しい怒りと殺意から遠ざけるために命がけで逃亡させます。そうして、ダビデが一人向かったのはノブの地にいた祭司アヒレメクのもとでした。
このノブの地には神の幕屋、礼拝場があったのです。ダビデがそこに逃れたのは、神に望みをおき、御前に出で、祈り、自分の立ち位置を確認するためであったのでしょう。さらに彼は逃亡の中でお腹がすき食糧を求めていたのです。祭司アヒレメクなら何とかしてくれるに違いないと考えたのかも知れません。
そのダビデを祭司アヒレメクは不安げに迎えた、と記されています。彼が不安げにというのは、あの巨人ゴリアトを倒した勇者、千人隊長のダビデともあろう人がみすぼらしい姿で警備隊の供を一人も連れずに来ることなどありえなかったからです。「もしや、君主サウルに対してむほんを働いたのでないか。」そのような憶測が彼を不安にさせたのでしょうか。そこで祭司アヒメレクは、「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか」とダビデに尋ねます。

それに対してダビデは、「サウル王からだれにも気づかれるな」と命じられていることがあり、従者たちには、ある場所で落ち合うように言いつけている。だから一人だ」と、偽りを言うんですね。

ダビデはなぜこのような嘘をついたのでしょう。祭司のアヒメレクに自分がサウル王のもとから逃げて来たと言えば、彼が自分を受け入れてくれない、そいれどころかサウル王に自分の居場所を伝えるかも知れない。そういう恐れから、このような嘘をついたのでしょう。

ダビデは話題をそらすかのように、「それよりも、何か、パン5個で手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか」とアヒメレクに尋ねます。
けれど祭司アヒメレクの手元には普通のパンがなく、唯主のために供える聖別されたパンしかありませんでした。それは祭司以外食べることが律法で許されていなかったパンでありました。彼ら祭司にとって律法を守ることは信仰生命をかけるといっても過言ではない大切なことなのです。
それをこの祭司アヒメレクはダビデとその従者たちのために、聖別されたパンを与えた、というのであります。アヒメレクは空腹で打ちひしがれている状態にあったダビデを「自分自身のように」憐れんだのです。先程のヨナタンもダビデを「自分自身のように愛した」ということと共通しますが。
ところで祭司アヒメレクのとった行為は律法に反することのようにも考えられますけれども、彼は杓子定規に律法を守ることが大切ではなく、目の前に飢え、打ちひしがれているダビデに聖別されたパンを与えることは、「命を生かし憐れむ」律法の精神を行うことと判断して、最優先したのです。
イエスさまも、空腹で苦しんでいた弟子たちが安息日に麦畑で穂を摘んで食べたことを律法違反だと非難する律法学者たちに対して、このアヒメレクの行ったことを例に出して、「律法は人間のためのものであって、人間が律法のためにあるのではない」と教えられました。
又、祭司アヒレメクは、ダビデの「槍か剣がありますか」という要望に対して、「あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣ならある、それを持って行きたけば持って行ってください」と与えます。ダビデは「それをください」と言って持っていくのでありますが。

まあここまで読みますと、祭司アヒメレクはダビデがサウロ王から何らかの理由で逃亡してここに来たということを確信していたように思えますね。けれども彼は「主がダビデと共におられる」ということを悟ったのではないでしょうか。それはもしかしたらサムエルを通して何らかのかたちで伝えられていたのかも知れません。いずれにしろ、主が共におられるダビデだからこそ、祭司の以外食べることが許されていなかったパンを与えたと考えることもできます。イエスさまも単に弟子たちがお腹をすかせているから、律法よりそちらを優先させるべきとおっしゃったのではなく、「イエスさまご自身が、安息日の主である、その主が共にいるのだから」ということを実はおっしゃっているんですね。

話を戻しますが。
祭司アヒメレクがダビデに剣を与えたことも、普通なら王に追われているような人に剣を与えるということは、アヒメレク自身王に逆らうことになりかねませんでしたから、大変なリスクを負ったということでした。

後の22章を読みますと、実際これら一連の出来事を目撃していたサウル王の家臣ドエグによって、サウル王にことの次第が伝わり、祭司アヒメレクをはじめ、ノブの町の85人の祭司と人々は剣で命を奪われてしまうのです。祭司アヒメレクの息子アビアタルだけが生き残り、ダビデのもとに身を寄せることになるのです。そこでダビデは彼に、「あの日、わたしはあの場所に居合わせたエドム人ドエグが必ずサウルに報告するだろう、と気づいていた。わたしがあなたの父上の家の者のすべての命を奪わせてしまった」(22:22以降)と、ざんきに耐えない想いを告白しているんですね。
 とにかく祭司アヒメレクがそんな危険を承知の上で聖めのパンと権威を象徴する剣をダビデに渡したのは、彼が「主はダビデと共におられる。」そのことにこそ、畏れをもっていたからではないでしょうか。

「真の平安と救いの道」
さて、ダビデはサウル王の追手がどこまでも迫り来るのを知り、恐れます。
そこでサウル王と政治的に敵対関係にあったペリシテのガトの王アキシュのところに逃げたのは、生き残るための賢い選択だったのかも知れません。ところがアキシュ王の家臣がダビデについて知っており、王にそのことを知らせたので、ダビデは安全を得るどこか窮地に陥ることとなります。
何かに対する恐れから一見安全に見えるものを求め、頼っていく。それは私たちにもあるのではないでしょうか。

今日は沖縄の「命どぅ宝」の日を覚える礼拝として主に捧げていますが。私たちを取り巻く社会や経済の国際的状況がここ数年の間に大きく変化したことによって、多くの人が不安や恐れを抱いています。国家の生き残りをかけての安直な手段が返って人の命という宝を損なうようなことになってはなりません。

ガトの王アキシュを大変恐れたダビデは、狂気の人を装って、王から追放されることで命の危機から逃れました。あの巨人ゴリアトを倒した勇者ダビデの姿はそこに微塵も見ることはできません。力を誇示する者の目には、たとえ稚拙に見えたとしても、たとえ愚かに映ったとしても、本当に守るべきもの、それは「命の尊厳」ではないでしょうか。

最後にダビデがアキシュの前を追放された時に読んだ詩編34編をご一緒に見ましょう。(旧約聖書p,864)
冒頭に「ダビデがアビレメクの前で狂気の人を装い、追放されたとき」とありますが、アビメレクとはアキシュ王の称号です。その6節にダビデは「主を仰ぎ見る人は辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった」と歌っています。
その体験はダビデを打ち砕きました。9節「味わい、見よ、主の恵み深さを。如何に幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。次の10節「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」は宝のような言葉でありますが。この主を真に畏れ敬う人のうえにほんとうの命の平安と救いがあるのです。どのような危機に直面していようとも、主に信頼し15節のように「平和を尋ね求め、追い求める」人には、「逃れの道が与えられ」るのです。
19節以降を読んで宣教を閉じます。(読む)
「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが 主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように 彼を守ってくださる。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は 罪に定められることがない。」

「命どぅ宝」。今週も私たちの避けどころ主にあって、命と平和を追い求めてまいりましょう。


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