日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪の天王寺駅近くにある創立64年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂が完成しました。ぜひお立ち寄りください!

一人ひとりと向き合う主イエス

2017-01-23 10:00:19 | メッセージ
宣教 マタイ9章18~26節

この箇所は、主イエスを介して、ある指導者(他の福音書によれはユダヤ教の会堂司のヤイロ)のエピソードに、長い間出血の止まらない女性の話が挟まれるような形で記されています。先の指導者は主イエスのそばに来て、ひれ伏して、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と願い出ます。
彼はユダヤ教の会堂を管理する地位のある人でありましたから、当然このような姿を、ユダヤの人々はじめ、律法学者や祭司に見られようものなら、異端視されたり、蔑視され職も立場も失う危機さえあったでしょう。けれどもそれを十分承知のうえで、彼は主イエスに「ひれ伏し」、なりふり構わず懇願するのです。我が身を投げ打つ親の愛を感じますが。彼はかねてより主イエスの言葉とその行いや業に強く関心を持っていたのではないでしょうか。そして、神がお働きになるのでなければ出来る事ではないという思いを強くしていたところであったのかも知れません。そのような時に起ったかわいいさかりの娘の悲しい死の出来事。他に望みのないこの人はただちに主イエスのもとに向かいます。教会もそのような存在としてあらねばと思わされますが。神の言葉が真に語られ、先週の主イエスの教え、隣人愛を地道に実践していく中で、救いを必要としている人、命の問題に直面した人が駆け込んで来る、そのようなキリストの教会でありたいと願います。
 聖書に戻りますが、そうして懇願する指導者の思いを受け、19節「そこで、主イエスは立ち上がり、彼について行かれた」というんですね。
主イエスはこの指導者的立場にあった人の、その切なる求めと信仰に応えれるべく「立ち上がる」のです。ここのポイントは、主イエスが会堂を管理する指導者だからとか、律法を守り間違えのない人であったから「立ち上がって」彼と共に行かれたのではないということです。そうではなく主イエスは、彼の信仰のゆえに「立ち上がられた」それが重視されているんですね。
 すると、そこへ、「12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れる」ということが起るわけです。どうしてそのような行動をとったのか、それはこの女性が『この方の服に触れさえすれば治してもられる』と思ったからである、と記されています。「思った」。それは信じたということですね。
 異常な出血はユダヤ社会においては古くから不浄な病とされていました。それは当人が不浄であると見なされるだけでなく、その人が触れるもの、またその人に触れるものまでも汚れると見なされていたのです。そういうことですから、彼女は人と関わりをもつことをはばかっていたでしょう。又彼女に関わりをもとうとする人も殆どいなかったでありましょう。この12年間もの病の苦痛とともに、偏見やあらゆる制約の中で生きていくしかなかった彼女の孤独は計り難いものがあります。それは当事者でなければ分からない苦しみです。
それでもこの女性は自分の思いを神は知ってくださるというまさに信仰をもって、人に
とがめ立てされないように、後ろから主イエスの服の房に触れたのです。

私はこの記事を昔初めて読んだ頃、この女性が後ろからイエスさまの服の裾の房にしか触れられなかったことを「消極的な信仰」と捉えていました。主イエスはそんな消極的信仰でも受けとめ、治されると思い込んでいたのです。しかしそれから何度もこの箇所を読むごとに、彼女の信仰は決してそんな消極的なものではなかったことがわかってきました。
「けがれている」とされているわけですから、正面から願い出ることはできません。
人と接触すれば人をけがすことにもなるという複雑な思いもあったことでしょう。けれども彼女はこの方の服の房にでも触れたならきっと事態が変わるに違いないと、その信仰を強くもち、気持ちを奮い立たせて行動するのです。それは、私のようなものが願ってもとか、私の問題は難しいから煩わすには及ばないというような消極的なものでは決してなく、むしろ大胆な求め、信仰であったんですね。この彼女の信仰、ある種の気迫に、主イエスは気づかれ振り向いて、彼女を見ながら「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。すると、その時「彼女は治った」。どうでしょう。主イエス御自身が「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるように、先の指導者もそうですが、主は私たちの信仰、信頼して仰ぎ望むその信仰に対して立ち上がり、振り向いて応答してくださるお方であることがここに示されているのですね。

さて、そのことが起っている間、先の指導者はどんなにじりじりした思いで待っていたか、とも思いますし、このことでさらに信仰が強められたようにも想像しますが。
ところが、主イエスが指導者の家に到着なさると、そこには笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がいたのです。つまり少女の葬儀が始まっていたのです。当時のユダヤを含むパレスチナ地方では、どんなに貧しい家の葬儀でも、「笛吹きと泣き女」に頼んで来てもらう習わしがあったと言われています。世界各地で泣き女を招く風習があるようですが。主イエスはこの少女や家族への同情心のかけらもなく、ただ雇われて騒いでいるその人たちに対して「あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。
このお言葉は、父親の気持ちと願いを代弁しているように思えます。「ああ娘は死んでいるんじゃない。眠っているだけだ」。それは父親の願い、叫びであったのではないでしょうか。そんな切父親の思いを全く意に介さない群衆は、主イエスをあざ笑った、とあります。それは父親の信仰、必死に訴え懇願する思いを打ち砕くものでありました。
主イエスは、そのことに強い憤りをおぼえて、群衆を家から追い出されたのです。
そして、他の福音書によればイエスさまは少女の両親と三人の弟子だけを連れて少女のいる家の部屋に入っていかれたようです。主イエスは神に望みをおくもの、信じ求めるもののみを伴われます。厳粛なその祈りと願いの中で、主イエスが少女の手をお取りになると、まるで目を覚ましたように「少女は起き上がった」というのであります。
主イエスの御言葉に心から信頼しる人は、主の御業を見ることができる。しかし、それをあざ笑う者には、躓きでしかないのです。

今日の礼拝の招詞でマタイ9章35-36節が読まれました。それは「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という記述です。
このイエスさまが「深く憐れまれた」というのは、自分のはらわたが引き裂かれる、断腸の思いをもたれるほどに、という意味なんですね。それほどまでに惑い、弱り、打ちひしがれる一人ひとりのことを主イエスは思われるのです。

それは、あの長血で苦しみ続けていた女性の訴え、求めを主イエスは不特定多数の群衆の中にあって、見出された。又、悲しみに打ちひしがれていた父親の切なる願いを主イエスは断腸の思いで共鳴なさったから立ち上がり共に行かれた。
そのように主イエスは、その愛と慈しみのゆえに私たち一人ひとりの課題や魂の渇きを知って下さるお方なのです。

主に見出され、救いに与っている者として、主イエスに倣いつつ生きていきたいと願います。今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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愛に生かされ、愛に生きる

2017-01-15 17:03:25 | メッセージ
主日礼拝宣教 マタイ7:7~12

今週の火曜日は阪神淡路大震災から22年目を迎えます。関西地方教会連合では、この出来事が風化し忘れ去られことのないようにと、毎年この日に集会が守られています。昨年は日曜日でしたので集会がもたれず、教会の礼拝で祈りに覚えましたが。今年は17日午前10時半から宝塚バプテスト教会において「1・17祈念礼拝」が行なわれます。時間の許される方はご出席ください。震災に遭われた人、又震災の出来事を知らない人も、ともに祈りを合わせて、この震災から今も問われ、求められている課題を覚え合うことができたらとの願いを込めて「1・17の祈り」を連合役員協働で作成されたものを、先に礼拝で覚えて祈りを合わせました。
新聞等によれば震災から22年も経ちながら、被災地の兵庫において未だに震災の影響を受けた方々が昨年60人以上もおられた、という悲しい現実を知らされ、心が痛みます。その中にはいわゆる孤独死なさった方々も多くおられたようです。被災者が入居されている集合住宅から行政支援の期限が切れるということで、あてもないまま出て行かざるを得ない状況に追い込まれている、そういう何ともやるせない問題も出てきています。私たちの中にも御自身、あるいはご親族、知人が被災された方々がおられます。
東日本大震災、また熊本地震もそうでしょうが、こうして機会あるごと当事者の声に耳を傾け、たとえ細々とでも覚え続けるというのは、ほんとうに大切な事だと思います。
多くの人が自分を守ることで精一杯という大変厳しさの増す社会状況の中で、主は私たちに何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。

本日は「愛に生かされ、生きる」と題して、マタイ7章7~12節より御言葉に聞いていきたいと思います。
まず、主イエスは今日の個所を「山上の説教」の中でお語りになりました。主イエスは、当時、神のみ心から遠く離れてしまったファリサイ派の人々や律法の専門家たちを憂いておられました。「では、弟子であるあなたがたはどう生きるのか」と主イエスは彼らに問いかけお勧めになった。それがこの山上の説教であります。律法の規定を守り教えることに優越感をもち満足しきっていた宗教家たちとは逆に主イエスは、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と語られます。もっと原語のニュアンスに沿えば、「求め続けなさい。探し続けなさい。門をたたき続けなさい」と、主イエスは弟子たちに強く訴えておられるのですね。

この「求める」ということについては大きく2つあると思うのです。
その1つは、願い求めること。「祈り」ですね。もう1つは、求め続けるという、意思とそれに伴う行為、行動です。
その点について、同じ記事が書かれたルカ福音書11章では、「求めなさい、そうすれば与えられる云々・・・まして天の父は『求める』者に聖霊を与えてくださる」となっています。そこで強調されているのは、「神さまに向かって真剣に祈る者に、まさに神さまの力あるお働き、聖霊が臨まれる」というダイレクトな祈りについてのメッセージとなっています。

一方、今日のマタイ福音書では、主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる云々と語られた言葉の後に、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃっています。つまり祈りとはそのようにアクション、意思をもって自ら行い続けるように招かれているんですね。これこそ「律法と預言者である」。つまり神の御心、神の愛に応えて生きる。ここにマタイの福音書の主イエスの重要なメッセージがあります。

よく「求めよ、さらば与えられん」という聖書の御言葉は、キリスト教会の看板に掲げられていたりします。私もこの御言葉に実際、大変励ましを受けたり、又強められてきた一人であります。皆さまも、主に祈り求める中で、主が祈りに答えてくださったという体験はきっとおありでしょう。
同時に、祈ったら猫も杓子も何でも思い通りにかなうというものではありません。祈りは何でも願いをかなえる、というようなうさん臭い魔法の杖ではなく、私たちにとってもっとよいものを知っておられる、生きた神さまとの対話であります。お願いしっぱなしというのではなく、神さまの御心を知り、それを受け取って生きるのです。
それに近い祈りがあります。使徒パウロはフィリピの信徒へ書き送った手紙にその祈りがありますので、ご紹介します。フィリピ1章9節以降です。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
 祈りは、生きた神さまとの関係性の中でゆたかに育まれていくものなのであります。

今日主イエスは、「祈り」についてもう一つ大切なことを私たちに示しています。
それは、私は「何のために」主に祈り求めているのか。あるいは、私は「何を」主に祈り求めているのか、ということです。自分のために祈る。求める。人はそうしないではおれないし、主イエスは必要を父なる神に積極的に祈り求めるように勧めておられますけれども、主はさらなるゆたかさへと私たちを招かれます。
それは、私の求めが私ごとに終始するのではなく、「私たち」の事柄とされていく。
そういう求め、そういう祈りへの招きです。先ほど使徒パウロの祈りをお読みしましたように。

私たちの大阪教会は、今年度「祈りの教会」というテーマをもって一年を共にあみたい、と願っております。ある方から私に「祈り」についての問いかけのようなお尋ねがありました。
それは、「私たちが教会の方々のことを祈る場合、ただ名前を呼んで祈るのと、その相手の方について知り、課題についても具体的に覚えて祈るのとは、ずいぶん祈りが変わってくるのではないでしょうか」という趣旨のものです。
相手の必要を把握していれば祈りも具体的なものになっていきます。自分の求めに留まらず、隣人、他者の求めを知り、思いを寄せて祈り合う。主イエスの招きによってそういう「祈りの家」であり続けるなら、またさらにその祈り合いが広がっていくならば、生きたキリストの教会として愛の証しとなっていくことでしょう。

さて、今回、1・17の祈りを諸教会・伝道所の方々にも、ぜひ祈りに覚えていただければと願い、可能な限り全国に発信させて頂きました。すると、九州や北海道の教会の方々から、次のようなメールが返ってきました。「週報に載せて共に祈ります」「大変な事だったことを思い起こし、いろんな傷や痛みを今も背負っておられる方々を覚えて祈ります」「礼拝の中で、少しアレンジして祈りに覚えたい」などとうれしい応答メッセージが届きました。こうして私たち関西地方の教会伝道所が覚えて祈っている具体的な課題を、全国の諸教会に知っていただいたことで、関西の教会だけの祈りにとどまらず、全国の教会の方々が関心をもって頂く祈りに広がっていった。共有して頂くこととなったんですね。ちょうど先週ここの「求めよ、さらば与えられん」というお言葉を思い巡らしていたわけですが。それはまさにこの「求め」の終わりが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉で締め括られていることに改めて気づかされる出来事でした。

「律法と預言者の本質」。それは生きた神さまとの関係性であり、隣人を自分のことのように愛するという求め、祈り。意志と実践です。宗教家や学者たちは律法の規律や遵守していることのプライドに囚われ、逆に律法と預言者の本質を見失っていたといえます。これは教会でも、又クリスチャンであっても、あまりにクリスチャンはかくあるべきというのを自分ばかりか、人にも要求したり、教会に対しても組織や人の動向、能力への依存を優先させてしまうと、動揺に愛の本質を見失ってしまう。そういう危険性があることを知らなければなりません。
主イエスの弟子たちに向けての教え、それは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。これこそ律法と預言者だ、という愛の教えであります。私たちはその教えの実体が主イエスのご生涯であり、十字架と苦難、その死によって身をもって示されたことを知っています。私たちはその弟子として神の愛に倣うようにと、招かれているのですね。
同じ山上の説教のマタイ5章に、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださる」とございます。
 主イエスは、弟子たち、また私たちに、「天のお父様の子」として生きるように、その御心を思って、敵味方の垣根さえ越えて神の国を求めるようにお教えになっています。

しかし、その要求に対して、私たちは自分の力や業で応えうるものを持ち合わせていないことを知らされます。どうして許せないような人を許し、敵対してくるような人のために祈れますか。感情をもつ私たち、人間的には無理な話です。そんな時、愛は自分のうちに探しても見つからないことに気づくでしょう。それはもうイエスさまがこの自分を十字架から執り成されるお姿を日毎に見上げながら、「求め続け、探し続け、門をたたき続け」ないと出来ることではありません。しかし、そういう迫りの中で神の愛を求め続けていくとき、実はほかならぬ私自身が生きた神さまにつながり、その愛に生きる者として育まれていくのであります。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御教えに少しでも具体性をもって生きていきたい。そんな求めと祈り、願いこそが、他のどんな修養を積むことに優って私たちをキリストの弟子とし、キリストの教会とされることを信じます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、」「何でも」ですから、特別でなくてもいい。日常の生活の中で、身近なことから、具体的に祈り求め続けることです。
きっと、そこにゆたかな実りある証が立てられていくことでしょう。今日もここから、私たち一人ひとり、キリストの使者として遣わされてまいりましょう。
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2017年元旦礼拝

2017-01-01 13:47:30 | メッセージ
宣教 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」 マタイ3章13-17節

主の年2017年を迎え、主にあってお喜び申しあげます。
「一年の計は元旦にあり」と申しますように、今年は丁度1月1日が主の日となりました。一年最初の日を主に礼拝を捧げて始めることのできる恵みを感謝します。
先日「新聞配達に関するエッセイストコンテスト」で、最優秀賞となった熊本市の方のエッセイに目がとまりました。少し長いですがご紹介しますと。「新聞がくれた勇気」という題ですが。「平穏な夜に突然、熊本に地震が来た。避難先で夜を明かし、自宅に戻ったら、いつものように新聞があった。いつもと変わらず玄関ドアのポケットに新聞があった。ああ家に無事帰れたと、ほっとした。
ほっとしたその夜、また熊本に地震が来た。一瞬死を覚悟するほどの大きな地震だった。揺れやまない大地、漆黒の夜、サイレンとヘリコプターの音。バッテリー残量が心もとないスマホを握りしめて、車中で震えて過ごした。
一睡もできず、もうすぐ夜明けかという頃、一台のバイクが走り抜けた。わが目を疑った。前かご、後ろかごに載っているのは新聞である。こんな非日常の朝、定刻の新聞が配達されている。
熊本の人はみんな被災者だ。配達員の彼も被災者だ。なのにいつものように、当たり前に新聞が配達されている。ここに日常がある。いつもの朝がある。
 停電の日々、毎朝夜明けとともに避難先から帰宅すると、玄関ドアに新聞があった。日常はきっと取り戻されると確信した。」 
昨年を振り返りますと、私たちそれぞれにも大なり小なり非日常ともいえる出来事があったのではないでしょうか。そのような中でも様々なかたちで届けられ続けた神さまの愛のメッセージは、どんなに私たちを根底から支えるものであったでしょう。主の与えてくださる励ましと希望がその時々の日常を生き抜く勇気と力になったことを心から感謝します。この新しい年もまた、どのような状況の中でもどうか、週に一度の礼拝と祈祷会が守られ、主にある姉妹兄弟の祈りととりなしとともに、福音が届けられますように。
さて、今日はマタイ3章から、新年のメッセージを聞いていきます。ここの箇所はイエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになる、よく知られた記事ですが。
今日は13節から読んだんですが。前の11節12節のヨハネの言葉も読んでみますと、こうあります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネはエルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、ぞくぞくと自分のもとに集まって来る人々に、「罪の告白、悔い改め」に導くためのバプテスマを水で授けていました。この後にもバプテスマを受けるための水槽がありますが。人々が罪を悔い改めてバプテスマを受け、神に立ち返って生きる。ヨハネはすでにそのような働きをなしていたのです。
ところが、自分の後から来るお方、つまりイエスさまは「聖霊」と「火」でバプテスマをお授けになる。自分のなしていることとは到底それは及ばないというんですね。
さて、本日のイエスさまがヨハネのもとにバプテスマを受けるために来られたというところですが。ヨハネは「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのとことへ来られたのですか」と言って、イエスさまを思いとどまらせようといたします。
ヨハネは知っていました。イエスさまが罪の告白、悔い改めのバプテスマを受ける必要のないお方であることを。自分よりも遙かに優れたお方が私からバプテスマを受けることなどありましょうか、そうヨハネは思っていたのです。
それに対してイエスさまはこうお答えになります。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです。」
一般に、正しいことを行なうと聞くと、「間違えのないことをする」こととか。「道義的に行動する」こととか。「善を行なう」ことなどと思うわけですが。しかしこの「正しい」とされているギリシャ語原語は「ディカイオ-シュネィ」、「義」ということなのです。ですからこの新共同訳の「正しいことをすべて行う」という訳はあまりよくない訳で、本来は「すべての義を満たすのは、我々にふさわしい」と、イエスさまはおっしゃったということですね。
ヨハネも又、神の義を満たすために悔い改めを迫り、バプテスマを施す者でありました。しかしヨハネは知っていたのです。人がいくら一時的に悔い改めたとしても、また行いによって罪を取り繕うようにしてがんばったとしても、それでは神の義が満たされることにはならない、ということです。人が自ら神の義を守り行なっていくことの限界をヨハネはひしひしと感じていたのではないでしょうか。だからこそ神の側からその義を満たすためにおいで下さったイエスさまを知って、「わたしはその方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言ったのです。
バプテスマのヨハネ以前のイスラエルの民は、神さまの宝の民として、その与えられた律法によって神の義に生きるように導かれてきました。しかし律法はかえって人の罪を露わにし、従えない人は滅びに向かう外なかったのです。バプテスマのヨハネは人が自ら進んで罪を言い表し、悔い改めのしるしとしてバプテスマを受けることで、神の義を満たすよう用いられました。それは完全ではありませんでしたが、ヨハネがそのように道を備えたことによって遂に、イエス・キリストを通して神自らその義を満たされるという、霊によるバプテスマ、罪の贖いと救いの道が開かれたのです。
罪のないイエスさまはまさに私たちがどんなに水で洗いきよめても、ぬぐい去ることのできない罪、悔い改めても悔い改めても失敗を繰り返してしまうような私たち罪人が救われるため、イエスさま御自身が私たちの罪を身に負い、その刑罰を受けてくださった。Ⅱコリント5章21節にこうございます。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」とあるとおりです。神さまは全きお方です。罪を見過ごされるようなことはありえません。ほんとうに神の義が満たされるため、それは私たちが罪から解放され、救いを得るためにイエスさまは来られたのです。
聖書は、イエスさまがバプテスマを受けて、水から上がられたとき、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあります。霊は、イエスさまの誕生の折からイエスさまと共におられましたが。イエスさまは、バプテスマを受けて「神の義を満たす」ための働きを開始されるにあたり、霊が鳩のように降るのを御覧になるのです。そこでその働きにおける確信と力をお受けになるのですね。私たちも又、聖霊のお働きを求めるわけですが、それは何か超自然的な現象を求めるためではなく、「神さまの御心が成る」。そのことのために求めるのですね。
さて、そのような霊が鳩のように降って来られたそのとき、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。このお言葉を今日の宣教題とさせて頂きました。
この「わたしの心に適う者」というのも又、原語に忠実に訳せば「わたしは彼を喜んだ」というのが本来の意味なんですね。どうでしょう。「わたしは神さまを父なるお方として、又、その子として生きていきたい」「神さまに喜ばれる者として生きていきたい」。みなさまもそう願っておられるのではないでしょうか。
今日私たちは「正しいことをすべて行なうことは我々にふさわしいことです」とのイエスさまのお言葉を聞きました。そしてそれは「神の義を満たす」という本来の意味であることを知りました。
イエスさまは御自分を正しいとなさるのではなく、神さまの義が満たされるために御自分を従わせていく、その決意のバプテスマであった。それが神さまとの父と子の関係性であり、神さまの喜びであったことを覚えたいですね。
今年の新しい年の始まり、私たちも主イエスによって新しく創造された者として、今日から始まる一日一日、このイエスさまに従ってまいりましょう。「神さまに喜ばれる者」として。
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一年の感謝と年始等の集会ご案内

2016-12-30 14:01:42 | お知らせ

ブログを訪問くださった皆様へ


今年ものこすところ2日をきりました。

今年もみなさまの応援とお支えの中で、一年が守られました。

ありがとうございます。

新年も、ホットな情報や記事をコツコツ地道に書いていきたいと思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

よき新年をお迎えくださいますよう、お祈り申しあげます。



         2017年 年始等の集会ご案内


      元旦主日礼拝 1月1日(日) 午前10時30分~12時

     
      新年特別礼拝 1月8日(日) 午前10:30分~12時

       メッセージ 「新しく生きる~神との関係性を考える」
       
       聖  書  Ⅱコリントの信徒への手紙5章17節

       講  師  工藤信夫先生 元淀川キリスト教病院精神科医長
                    平安女学院大学名誉教授
                    精神科クリニック医師

       入場無料です。どなたでもご興味のある方はお気軽にお越し下さい。

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世界で最初のクリスマス

2016-12-25 15:54:38 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ2章1節~12節

クリスマスおめでとうございます。

本日は、マタイ2章のところから「世界で最初のクリスマス」と題し、御言葉を聞いていきたいと思いますが。
2000年前も今も、残念なことに世界中で悲しく無残な戦争やテロが後を絶ちません。
今日は特にそのようなお暗き世の地の果てにまで、平和の君である救い主イエス・キリストが世を照らす真の光としてお生まれ下さった、この福音が届くように切に祈り願います。

クリスマス礼拝では何度もこのマタイ福音書のところから宣教が語られていますので、また同じ内容のことを聴かれる方もおられるかも知れません。よくもまあ2000年近い永い歴史の中で毎年毎年繰り返し語られ続けてきたものだと、つくづく感心しますが。
それはこのエピソードが神さまの「不変の愛と救い」のまさにゴスペル、福音であるからです。今回も改めて気づかされたことについてお話したいと思います。

まず3節に、「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た。」という東方の学者らの言葉を聞いて、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった、祝われるような出来事ではなかった、という事を表しています。 

当時のユダヤはローマの支配下にあったとはいえ、エルサレムの住民は比較的裕福であり、ヘロデもその地位に満足していました。そこに神の民としての畏れや渇きはありません。
何よりも権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するなんぞという知らせは、自分の地位や権力を揺るがす以外の何ものでもなかったわけです。
まあエルサレムの住民も自分たちの生活の現状が維持されならよいということで、それを揺るがす存在のすべてが、彼らにとってみれば不安の材料であったのです。たとえそれが神からの救いの王であってもであります。
その一方で、ルカの福音書に記されているのは、この神からの救いの王を喜び迎えたのは、ユダヤの貧しい羊飼いたちであったことは皆さまご存じのとおりであります。
彼ら羊飼いにはヘロデ王のように地位や権力もありません。又、エルサレムの住民のように安定した暮らしでもないし、裕福でもありません。
羊飼いたちは自分の地位や名誉、富など自分を守るもの一切持っていない人々でした。その日暮らしの中でただ一生懸命に生きる、そういった存在です。にぎやかな街の喧騒から置き去りにされたような、王や富める人たちから疎外されたような彼らに、天使の御告げが聞こえてくるんですね。「民全体に与えられた喜びの知らせ」。しかしそれを聞き取ることができるのは、まさにそのような人たちであるのです。

こうして彼ら羊飼いらに天使のお告げが臨んだとき、彼らも又、恐れおののきます。
しかしその羊飼いたちの恐れとおののきは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」とは全く違っていたのです。彼らの恐れ、それは、「自分たちのように世にあって小さい者のもとに救い主の誕生の知らせが届けられるとは、一体どういうことか」という驚き、それは「神への畏れ」、畏敬の念であったのですね。

さて、本日のマタイ福音書は、救い主・キリストに初めてお会いできたのは、東方の占星術の学者たちであった、と伝えます。
それは神の選びのユダヤの民でなく、ユダヤと国境を隔てた遠い東の国に住む異邦人たちでした。エルサレムの住民からすれば、神の祝福の範疇から除外されている外国人でした。

彼らは東方のおそらくペルシャ方面、イランやイラクから来たとも言われており、その一人はアフリカのエチオピアの国の人であったとも言われています。贈り物が3つだったことから学者たちは3人だと言われていますが。その贈り物からみてかなりの地位をもった人たちであったことが推察できます。また、そこから多くの供を引き連れての旅であったことが想像できます。

いずれにしても、東方の占星術の学者一行はエルサレムのヘロデ王の王宮を訪れ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。
彼らがこうして王のもとにやって来たのは、ユダヤの王の後継者誕生を祝うことで、安全保障的な関係を期待するような政治的使節団だったとも考えられます。少なくとも彼らがヘロデ王の王宮を訪れるまでは、それをきっかけに政治的策略による繋がりを期待し行動していたと考えることができます。しかし、新しい王はそこにはいません。
ヘロデ王がその新しい王として誕生した男の子を抹殺するために、この東方の学者らを送り出した時。東方で見た星が彼らに先立って進み、ついに幼子のいる場所の上にとどまったのです。ここに、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とありますね。
天体物理学で世の中を計算し占うような彼らが、生ける神の働きと導きに遭遇して喜びに満ちるんですね。彼らがその家に入りますと、幼子は母マリアと共におられた、と記されています。
東方の学者たちがずっと会いたいと願っていたユダヤの王と、彼らはこの「神の導き」という確信によって初めて対面することになるのです。そこは立派な建物ではなく、粗末な家畜小屋でした。そこには王座も王冠もなく、幼子には世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。

またそこには、おそらく救い主の誕生の知らせを聞いて、同じく喜びに溢れ、かけつけて来た貧しい羊飼いたちの姿もあったことでしょう。まあ、薄暗い家畜小屋に、身分も立場も、国も肌の色も違う者同士が輪になってこの幼子イエスさまを囲んでいるという、何と平和な風景。何と暖かい光景でありましょう。東方の学者たちはそういう風景や出会いの中、この幼子こそ、真の救い主なる王(メシヤ)であるとの確信が与えられたのではないでしょうか。
彼らは乳飲み子イエスをひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げます。
イエスさまは、福音書の中で「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。この東方の学者たちもまた、乳飲み子が母親の乳を求めるように、神とその救いを求める人たちであったのですね。
天体物理学を通して真理を探し求めていた学者たちは、学問によってではなく、家畜小屋のそのような光景の中に、神の救いを見た。
どこか私共もそのような真理への渇きとしなやかな感性をもちたいものであります。

さて、そうして幼子のイエスさまを拝した「彼らはヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」とあります。

彼らが当初来た道は、政治がらみの使節団としてユダヤの王子の誕生を祝うためのものでありましたが。しかし救い主の幼子イエスに出会った彼らは、ヘロデの王宮にはもう向かわないで、神の言葉(御告げ)に従う道を通って自分たちの国へ帰っていくのですね。それは、彼らのこれからの人生が、世の力に頼み拝む道ではなく、生ける神さまを主として拝み、その御言葉に聞き従っていく道を選び取っていく者とされた。そのことが象徴的に示されているんですね。


そのように私たちの前にも2つの道があるのです。世の力により頼み神の力を知らずに過ごしていく道か。あるいは生ける主なる神を見出し、真理の御声に聞いて歩んでいく道か。どちらを選ぶかは私たち自身に委ねられています。
さて、喜びあふれる最高の献げものを幼子イエスさまにプレゼントした東方の学者たち。しかし、神さまは、それよりも遥かに優るプレゼントをお与え下さいました。それが神の独り子イエス・キリストです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネ3章16節。「一人も滅びないで永遠の命にあずかる」。ユダヤの民ばかりでなく、ユダヤから遠く隔てられていた異邦人、また羊飼いのように、世の力によって小さくされ、価値無き者とみなされているような者も。この神の救いのプレゼントを受け入れる時、その人は滅びる者ではなく、永遠の命を得る者とされるということであります。

「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味です。救い主であるキリストがわたしたのために人間の姿となっておいでくださった。この神さまのすばらしいプレゼント、主イエス・キリストを喜び祝う。これがクリスマスの原点であります。

さらに、「ミサ」は「派遣」という意味を持っています。つまり、キリストは世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださった。この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者は、「ミサ」「派遣され」ということですね。ここが大事です。

私たちが主の日のごとに、主の復活を記念する礼拝を捧げているのは、ここで主の御名を讃美し、感謝をささげ、主の祝福を頂くということもあるでしょう。しかしそればかりでなく、私たちも又、東方の学者たちのように、ここからキリストに従う者、生ける主を証ししていく者として、派遣されていくということなのです。

今年も私たちの教会の礼拝や祈祷会に、韓国、中国、台湾、ミャンマー、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、イタリア、オランダ等10カ国以上の国の方々が集われ、共に世界の主を礼拝する時が与えられました。ここ数年ほんとうに世界中からの主にある姉妹兄弟との交流が身近に起されていることは、私たちにとってもうれしく、主イエスの福音の拡がりとゆたかさを感じられる機会にもなっております。

今日は「世界で最初のクリスマス」というテーマでお話をしました。
今年一年の歩みを感謝しつつ、この聖書が告げる世界で最初のクリスマスの光景に、私たちも救いの喜びあふれる思いをもって、それぞれの場所へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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クリスマス・キャンドルサービス&聖夜のコンサート

2016-12-20 11:33:23 | イベント
日時 24日(土)午後7時-9時  開場:6時30分~

1部 キャンドルサービス 午後7:00-7:25

2部 小川幸子&荒玉哲郎 クリスマスイブ・コンサート 午後7:30-9:00

   Piano 小川 幸子さん

   文化庁海外公演などで、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、
   ルーマニア、中国、韓国、オーストラリア等、数多くの国での演奏経験をもつ。
   ルーマニア国際音楽祭では最高賞を受賞。
   国内においては迎賓館など数多くの舞台経験と受賞歴をもつ。
   ソロのほかバレエピアニスト、ジャズオーケストラ、オペラ等で演奏。
   10代からレコーディングに関わりビクター、ヤマハ、ユニバーサル、海外レーベル
   よりCD発売。日本音楽コンクール作曲部門1位入賞。音楽教本付CDを発売。
   日本の古典芸能をもとにした音楽劇の作曲などジャンルにとらわれないアンサンブル
   の作曲やアレンジ、また映像と共に作った作品の発表など活動は多方面に及ぶ。

   
   Base 荒玉 哲郎さん

   87年 竹下清志のグループに参加しミッキーロウカーやオテロ・モリノウらと共演。
   94年 単身渡米、帰国後は綾戸智絵をはじめ様々なレコーディングに参加。
   05年 アルゼンチン大統領官邸にて演奏会を行い好評を博す。
   08年 ドイツ総領事の招待によるデュッセルドルフ等4カ所で演奏会を行なう。
   09年 リーダーアルバム「REZA(ヘーザ)」を発表。
   11年 ウラジオストック ジャズフェスティバルに出演。
   13年 「なにわジャズ大賞」を受賞。
   現在はジャズのみならずブラジル音楽、アルゼンチン音楽などのグループで活動中。
   大阪芸術大学にて後進の育成にも力を注いでいる。

入場無料 ただし、社会福祉施設などへのチャリティー募金(自由)はあります。

会  場 日本バプテスト大阪教会 
     大阪市天王寺区茶臼山町1-17 電話 06-6771-3865

     駐車場のスペースがありません。公共の交通機関でお越しください。
     JR・地下鉄天王寺駅より谷町筋・四天王寺方面北へ徒歩5分。

     この度、不思議なお導きによりすばらしい演奏者をお迎えしてのコンサートが実現。
     この機会にぜひクリスマスを教会でお過ごしくださいますよう、ご案内申しあげます。
    




   
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神が私たちと共におられる

2016-12-18 12:38:59 | メッセージ
先週は同じところから先週は「ヨセフの正しさと神の義しさ」について御言葉に聞きましたが。今回は「神が私たちと共におられる」というすばらしい福音をここから受け取っていきたいと願っております。

主の天使は「その子をイエスと名付けなさい」と告げました。また「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言っています。
名は体を表すなどと申しますが。私たちもそれぞれ名付けた方がその将来を思い、願いながら名前を付けたと思います。余談ですが昔は男の子は一郎や太郎、女性は花子
や和子などという名前が多かったそうですが、その後はその時代その時代にはやりがあり、今のめまぐるしく移り変わる時代にあっては、キラキラネームとも言うそうですが。オリジナリティにとんだ名前も多いですね。礼拝の報告時に新来者の方々のお名前をご紹介させていただいていますが、特に中学生や高校生の方のお名前は現代風で、それをお考えになった方の愛情や思い入れというものを感じることがございます。
聖書に戻りますが、ここで主の天使は、ヨセフに生まれてくる男の子を「イエス」と名付けなさいと、告げます。
この「イエス」という名は、旧約の時代、イスラエルの民を出エジプトへ先導したモーセの後を引き継いで約束のカナンの地へと導いた「ヨシュア」のギリシャ語読みで、それは「主は救い」という意味であるということです。まあこの当時のユダヤではイエスという名前をもつ人はわりといたようですが。

主の天使はこのイエスについて、「この子(こそ)は自分の民を罪から救うからである」と告げます。「罪から救う」。ここが肝心なところです。
旧約時代のエゼキエル書やダニエル書をこの新約のマタイの福音書を読む前にしばらく読んできました。そこではイスラエルとユダ、さらに捕囚後のユダヤの人々は大国の脅威にさらされながら苦難の時代をずっと通ってきたのです。

そういう中でイザヤは救い主の到来の預言をします。さらにダニエルも厳しい迫害下におかれたユダヤの人々の行く末について黙示ともいえる預言を残しました。移りゆく厳しい状況の中でもユダヤの人々は、その約束を信じ、神に選ばれた民である我らを世の権力と支配から解放する政治的な王、メシアが必ず興される、とその到来を待ち望んでいたのです。

ところが、主の天使は「その子、イエスは自分の民を罪から救う」と告げます。それは
抑圧する権力者や為政者から救うというのではなく、「罪」から救う。単に世の権力や政治的支配からの解放ではないということです。
肝心なのは、イエスは自分の民を「罪から救うお方」としてお生まれになられるということなんですね。ここに人間の肉による救いではない、神の霊によるご計画が示されています。

イエスさまの御救いは世の権力者が武力や威嚇によって行うような支配と従属という仕方によるものではありません。それは世に生まれた一人一人が真のいのちの回復へと導き入れられていくことなのです。人は誰しも救われたいその魂の深いところで願いつつ生きている者なのではないでしょうか。

しかし、人は生きている限り例外なく、内に外に罪の力が働いているので、自分の力や業によって神さまとの関係を回復することはできないのです。
そこで、神さまは「ご自分の民を罪から救う」ために御独り子イエスさまを世にお送りくださったのです。

22節に「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と述べられています。

実にこのような形で、代々の主の預言者たちを通して言われたことすべてが十全にイエス・キリストによって実現した。時満ちたということですね。それは今を生きる私たちにも実現されていることであるということです。

さて、マリアから生まれる男の子はイエス、彼は「自分の民を罪から救う」ためにお生まれになられる、と告げられていますが。さらに主の天使は「その名はインマヌエルと呼ばれる」と告げ、それは「神が我々と共におられる」という意味であると述べられています。

先週の礼拝で、全世界に与えられた救いの福音は、聖霊により身ごもったマリアを、夫となるヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れる。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来た、ということをお話しました。

今日の24節には「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻マリアを迎え入れた」とあります。
「神は我々と共におられる」という主の天使の言葉がどれ程勇気づけたことかと思わされるわけですが。まあそのことによってヨセフも又、マリアを受け入れて、「共に生きる」者にされたということです。

この「共に生きる」ということと関連いたしますが。
先週の日曜日夜にご覧になられた方もいるかも知れません。NHKスペシャル「自閉症の君が教えてくれたこと」という番組を視聴しました。重度の自閉症を抱える東田直樹さんと丸山拓也さんという番組ディレクター、この方ご自身重度のガンを患っておられるのですが、お二人の対話を軸に作られたドキュメンタリーでしたが。
東田さんは日常会話のできない重度の自閉症ですが文字盤やパソコンを通して自分の意思を伝えておられる方です。彼が13歳の時に彼の本が出版されました。それが「自閉症の僕が跳びはねる理由」という本で、この本を通して多くの人が初めて自閉症の人の心の声を知ることができたと話題になったのです。同じ自閉症の息子を持つ、アイルランドの著名な作家デビット・ミッチェルさんは、その本によって息子に対するとらえ方が一変します。その本は後に世界30カ国に翻訳してされベストセラーになりました。、現在東田さんはプロの作家として活動されています。
私は番組の中で、東田さんが文字盤を打ちながら発したいくつかの言葉がたいへん衝撃的でした。
一つはディレクターの丸山さんが自身の死への不安と家族に対する思いの中で投げかけた質問に対して東田さんが文字盤をたたきながら発した言葉です。
「僕は命というものは大切だからこそ、すなぐものではなく、完結するものだと考える。
 命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人は、どうなるのだろう。バトンを握りしめて泣いているのか、途方にくれているのか。それを思うだけで、僕は悲しい気持ちになる。
 人生を生き切る。残された人は、その姿を見て、自分の人生を生き続ける。」
何か共に生きるということの概念が揺さぶられる気がしませんか?「何とかつなごう、つながろうとする。自分の握りしめたバトンをわたそう、押し付けようとする」それはほんとうに共に生きるという事なのか。考えさせられます。

また彼は、アイルランドの作家ミッチェルさんが、自閉症を抱えるご自分の息子に友人がいないことを憂い、彼にとっての幸せは今後友達をもつことでしょうね、と尋ねたときに東田さんが発した言葉です。
「僕は友達がいない人が不幸だとは思わない。僕は友達がいなくてもとても幸せです。」

この二つの言葉から気づかされたのは、「それが普通だ」「あたりまえだ」「常識だ」というものの見方が、かえって自分も人も生きづらくさせている、という事実です。
私はそこに「ハッ」とさせられました。
どんな愛情も、手厚い配慮も、お互いが対等に、その人がその人らしくあることが出来ないなら、「共に生きる」とはいえないんですね。

さて、罪とは何でしょうか。それは神と人を隔てる壁です。また人と人とを隔てる壁。それが罪です。罪は人がその人らしく生きる力を奪い、滅びへと向かわせます。
イエスさまはそんな人の罪から私たちを救うために、まさにそのために来られたのです。

東田さんの発した言葉からも知らされるように、私たちはそれぞれ世界に唯一人の全くオリジナルな存在であります。一人ひとりが創造者なる神さまの作品なのです。
だから神さまは私たち一人ひとりのことを誰よりもよくご存じです。

インマヌエル。神、共にいます。イエスさまは、まさに一人ひとりに出会い、見出し、神の御前に生きるかけがえのない人として取り戻されるために、自ら人となっておいでくださいました。アーメン。いよいよ今週土曜日はクリスマスイブ、25日はクリスマスを迎えますが。このすばらしい神さまからのプレゼントを受け取り、その恵みに与る方々が起されていきますように、祈りつつ、クリスマスに備えてまいりましょう。
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ヨセフの正しさと神の義(ただ)しさ

2016-12-11 16:56:09 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ1章18節~22節  待降節Ⅲ

アドヴェントは日本語では待降節:「救い主がお生まれになった」という喜びの知らせに与り、備える時であります。
全世界に与えられた救いの福音は、先ほど読まれましたように聖霊により身ごもったマリアを、夫なるヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れるのであります。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。私たち一人ひとりにとりましても、このアドヴェントの期間に求められていることは、神の救いの御言葉であられる主イエスを、「恐れずに迎え入れる。」そのことにあります。

今日は、マタイ1章18節~21節より「ヨセフの正しさと神の義しさ」と題し、御言葉に聞いていきます。この主イエスの誕生の予告についてのお話はルカ福音書にもマリアへの受胎告知として記されております。マタイとルカに共通していること、又違いについて読み取っていくことは意義あることです。
今日のマタイの福音書に特徴的なのは、22節で「主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と記されている点です。それはこれまでダニエル書を読んできたように、イスラエルの民、ユダヤの人々の苦難の歴史がシリアとの戦争によって頂点のなり、さらにユダヤの民にとっては最も厳しい迫害の時代を通ってくるのですけれども、そう言う苦難を通りつつ預言者たちはこの今日の箇所に記された「救い主(メシア)の到来を予告」していたのです。そのようにマタイ福音書には歴史の主がユダヤの人々と苦難を共に担い、導かれたという視点があります。さらに、今日の主イエスの誕生の記事は、ルカのマリアだけでなくマタイのヨセフにも「聖霊」の働きが重要な視点として記されているということを見落としてはなりません。これらの意味を考えながら、今日の御言葉に聞いていきたいと思います。

さて、ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていました。この当時のユダヤ社会では、たいてい12、13歳の少女と18歳~24歳くらいの青年が婚約していたそうです。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったともいわれています。
又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経れば、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったということです。ヨセフとマリアの二人はその婚約期間にあったのです。

ところが、ヨセフは婚約者のマリアが一緒に暮らす前に妊娠したことを知ります。
自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなに失望させたことでしょう。
又、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いたやも知れぬ女性を迎え入れることなど出来ないと考えたことでしょう。更には、このことが公になれば、彼女はさらしものとなり、裁かれ、最期は石打の刑で母子ともにその命が絶たれる悲劇ともなりかねない。そんな心配までもヨセフの頭をかけめぐっていたのではないでしょうか。それはもう恐れともいえるような感情に囚われたのではないかと思います。
裏切られたことの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとすること。そして、自分の良心として何とかマリアと生まれてくる子を守りたいという板挟みの中で、悩み考え抜いた末に、彼は良心に正しくあろうとマリアとひそかに縁を切る決心をします。

さて、ヨセフがそのように考えていると、主の天使が夢に現れてこう告げます。
『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」

ここで主の天使が告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」ということです。それは実に明快です。神のご計画はもうはっきりしていました。
ヨセフが考えたように律法に基づいてマリアを訴えるのか。あるいはマリアと縁を切り母子ともに助けるべきか。ヨセフは結果ひそかにマリアと縁を切ろうと考えるのです。しかし、どうでしょう。そうやってヨセフがマリアとひそかに縁を切ったとしても、世間の目は時に残酷です。マリアと生まれてくる子の先行きは過酷なものとなるに違いありません。ここに人間ヨセフの正しさの限界があります。

主の天使は迷えるヨセフ対して、きっぱり「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」と迫ります。これこそが、「神の義(ただ)しさ」に基づいた彼が本当に選ぶべき道なのです。
では、この天使の一声を、ヨセフははたしてどんな思いで受けとめたでしょう。

そんなことをすれば、自分も世間から疑惑や冷たい目で見られる。自分の側にもやっかいごとが降りかかってくる。そういう事を考えたでしょうか。けれどむしろ、それとは逆に、もうすでに悩むだけ悩み抜いたヨセフは、夢によって告げられたこの言葉をまさに天の啓示として「アーメン」と受け取った。そうじゃないでしょうか。本当に神の前で悩み抜いた人、祈り抜いた人は、神の言葉、聖書の言葉のたった一言を示されることによって前に進むことが出来るんですね。私たちもそうではないでしょうか。

さて、ここで注目したいのは、主の天使はヨセフに「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」と伝えているということです。マリアの受胎告知の折りに、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1章35節)と天使ガブリエルは伝えています。

このように、マリア、そしてヨセフの身に起こっている出来事は、すべて神のご計画とその御旨に基づき、聖霊によって起されたことなのです。
それは二人にとって、自分たちの思い描いていた歩みとは異なるものです。いろいろな困難や葛藤も起こってくる。けれども聖霊に導かれて歩み出すときに、彼らは「神の義しさ」によって、本物の人生を生きて行くことができるのです。
私たちも又、聖霊が私たち自身の願望とは異なるかたちで導かれることがあるかも知れません。時にそれは困難な道、茨の道かも知れません。けれどもそれが神の義の道であるなら、本物の人生を生きることができるのです。そして、その道を歩んでいく中でこそ、「インマヌエル」、神は我らと共におられるという体験と確信を頂くことができる、ということです。

ヨセフに話を戻しますが。
非常に厳しい現実を前にしたヨセフ。誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。どんなに彼は孤独だったことでしょう。
けれども、そのような孤独なヨセフに主は天使を遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、彼の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中でなされた出来事なのです。
ヨセフは「自分の人生が自分一人の孤独なものではない」「自分には神さまが共におられる」「これから自分が負うことになっていく労苦の中にも、神さまが共におられる」という確信に導かれていくのです。「インマヌエル」、神がわたしたちと共におられる。その確信によってヨセフは、マリアとその子を迎え入れていくのであります。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼は一切を受け入れ、その神の義に基づく新たな道をマリアと共に歩み出すのであります。

さて、今日の宣教題は「人の正しさと神の義(ただ)しさ」でありますが。
私たちはみなそれぞれに人としての弱さ、悩みや葛藤がつきません。
ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフの決心と同様、私たちもいろんな困難を覚える状況になった時、正しいと思える自分の考え方で解決の道を探ろうといたします。しかし結局ヨセフは神の御心に従う道を選び取っていきます。
むろん人間的な心遣いや配慮は大事ですが、それを優先するあまり、シンプルに主に従うことを難しくしていないか。ここを読むとき私たちはそう問われているように思います。お仕着せの考え方ではなく、世の習わしや模範的回答でもなく、すべての真理の源であられる生ける神の御心がどこにあるのか。それをどう聞いていくか。
ローマ12章2節には「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とあるとおりです。
神の御心に聞き従うとき、私たちの人生の道はまっすぐにされてくのです。まあそうは申しましても、私たちにはそれがなかなか分からない、だからこそヨセフのように苦悩するわけです。そういうもう人の側ではどうにも何が正しいことなのか、どう生きていけばいいのか分からないそういう時こそ、ヨセフを信仰に立たしめた聖霊の力、御霊の導きが与えられる時です。彼はその聖霊のお導きと励ましによって、恐れをすてて、すべてを受け入れて、マリアを迎え入れました。聖霊は神に従う人のうちに働いて御心を成し遂げられる神の力です。

主イエスは「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11章13節)とおっしゃっています。
又、こうもおっしゃっています。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びが満たされる」(ヨハネ16章24節)。それは薄っぺらな喜びではありません。神の義しさに導かれる魂の喜びに満ち溢れるようになるということです。
さらに、苦難のときは、ローマ8章26節にあるように「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどの祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と述べられています。
主によって私たちはこんなにも大きな励ましを頂いているんですね。
そのようにインマヌエルの主が共にいてくださる。聖霊のゆたかなお働きを願い、導かれつつ、人の義にまさる神の義をもって、はじめに申しましたように、私たち一人ひとりにこのアドヴェントの期間に求められていることは、神の救いの御言葉であられる主イエスを、「恐れずに迎え入れる」時として今週の一日一日を歩んでまいりましょ
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アドベント・チャペルコンサートのご案内

2016-12-08 12:14:42 | イベント
日 時  12月11日(日) 開場 13:30
               開演 14:00(90分を予定)


出 演  ベル・フィリア (ハンドベルクワイア)
     
     ハンドベルはハーモニーの音楽です。
     愛を基盤とすして皆で心を合わせて、神様を賛美し、人と人の和を作り出していく美し
     いハーモニーの音楽です。
     そんな愛のハーモニーの思いをこめ教会、老人ホーム、病院等で演奏活動をしていま
     す。

     
     ゆかり☆ゴスペル(萱原有香理さんゴスペルライブ)
     
     シンガーソングライター、ゴスペルディレクター
     2005年、CD「Everywnere]をリリース。その後、アメリカNYなど7箇所・20公演にてライブ
     ツアー。
     2006年、CD「うつわ」をリリース。各地のラジオ局にオンエアー。
     ソロ弾き語りや、ユニット、バンド構成で活躍する中、ゴスペルクワイアのディレクターを
     務め、帝塚山音楽祭、靫公園ローズフェスタなど地域のイベントにも出演。
     パワフルな歌声と世代を超えてわかりやすい歌詞で、愛や希望のメッセージを届けて
     いる。

     
     腹 話 術(カンちゃん&栗谷加代子さん)

     ロゴス腹話術協会・春風イチローに師事。
     かんちゃんを伴って福祉施設などでボランティア多数。
     ライリッシュオカリナ講師でもある。

     入場無料
    (震災支援のための自由献金はございます)

    どなたでもお気軽にお越し下さい。

   

主催・会場

     日本バプテスト大阪教会 大阪市天王寺区茶臼山町1番17号


     尚、駐車場のスペースはございませんので近隣の有料パーキングをご利用なさるか、
     公共交通機関でお越しください。JR天王寺駅中央口出口及び・地下鉄御堂筋線・谷町
     線各6番出口より北へ徒歩5分。

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救い主イエスの系図

2016-12-04 17:09:51 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ1章1~17節 世界祈祷週間

12月に入り、2016年も残すところ1カ月となりました。
一年の恵みを数えつつ、恵みのクリスマスにむけた備えを共々になしてまいりたいと願います。来週11日のチャペルコンサート、24日のキャンドルライトサービス&クリスマス・イブコンサート、そして25日はクリスマス礼拝と続きます。主に祈りつつ期待して備えていきましょう。

本日は、バプテスト世界祈祷週間を覚えての礼拝として、特に全世界に福音が伝えられる「世界伝道」とその福音のもつ「平和と和解の働き」を覚え、祈り、ささげる時となるよう願っております。

本日から4月のイースターまでの約5ヶ月間、マタイの福音書から御言葉を聞いていきます。
今日はその1章の前半に記されています「救い主イエスの系図」の箇所です。
その系図は、旧約のアブラハムの時代より、イスラエルの統一王であったダビデを経て、さらに捕囚と苦難の時代を貫いて、遂に救い主イエスに至ります。
それはおおよそアブラハムから2000年の時代に至る系図です。

「系図」と訳された原語は、ギリシャ語でビブロス ゲネセオースという言葉で、それは「創造の経緯」と直訳できます。ひらたく言えば「いのちの誕生の書」といった意味合いがあります。
それはいわば神さまがお造りになられた「いのち」が連綿とつながれてきた系図といえるでしょう。

さて、当時ユダヤの祭司たちは自分の誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。その系図への強い思い入れというものは、イスラエル、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになったからです。今日の主イエスの系図にも、アブラハムの子、ダビデの子からなっているように、その系図はイスラエル、ユダヤの「信仰の父祖アブラハム」から始まり、さらに歴史的にもイスラエルの初代の王、ダビデにつながっています。そこにユダヤの人々は自分が神から選ばれた「神の民」であるという存在意義を見いだすことができるからです。

しかし、今日の主イエスの系図はそんな彼らの誇り高き系図とは異なる一面が示されています。ユダヤの祭司たちが憶えた系図は、自分の誕生からさかのぼり250年前までの父系の系図であったのに、この主イエスの系図にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリアと何と5人の女性が登場します。通常の系図は父系の「誰は誰を」と記されますが、これら女性が登場しているところは、「誰は誰によって」又「誰は誰から」と記されています。

夫を亡くして寡婦となったタマルは、義父ユダの冷酷さの中で苦しみ、自分の存在意義をかけて遊女を装いユダの子孫を宿した女性です。又、ラハブは、エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でしたが、エリコの城壁を偵察に来たヨシュアの遣いの者たちが守られるようにヤコブ書によるなら、その信仰によって彼らを助け、後にサルモンとの間にボアズが生まれたいうことです。次のルツはイスラエル、ユダの家系でない異邦人でしたが、先のボアズとの間にオベドが生まれたということです。さらにウリヤの妻は、バテシュバのことですが。あえてウリヤの妻となっているのは、その子ソロモン王の父であるダビデ王が忠実な僕ウリヤを裏切り死に至らせたその恐ろしい罪が露わにされるためです。さらにイエスの母マリアもまた、主の御心とはいえ自分の預り知らぬうちに子を宿すという苦悩を抱えます。

そのように救い主イエスの系図は、父系中心の系図とは異なるんですね。ここには当時の男性優位の社会の中で、辛酸をなめなければならなかった女性たちの姿があります。イエスさまの母マリアだって姦淫で子を宿したと見なされれば石打ちで殺されかねませんでした。女性の側の言い訳など通用しない、そんなそんな世の中でした。

このようにイエスさまのこの系図は、連なった者の人生と彼らを取り巻く人の世の罪を赤裸々に示します。神はそのような人の世の罪と痛みが露わにされるため、その只中に肉をとっておいでくださいました。イエス・キリストの誕生はまさにそんな世の罪が取り除かれるため、又、世の力から解放がもたらされるために、この系図の中にお生まれになったということであります。
それはどこか高いところからではなく、この系図が示すように人の苦しみや痛みを共にしてくださるお方として私たちのもとにお生まれくださった。来週以降またお読みしますが、マタイはその救い主の名を、「インマヌエル」と呼びます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。

この救い主イエスの系図に記されたひとり一人。それは私たちひとり一人であるかも知れません。神の赦しなくしては到底神の祝福に与り得ない存在であるということにおいて同様であります。

むろん私たちはこのアブラハムからなる神の民の血筋とはいえませんが。しかし聖書は、そのアブラハムの祝福によって地上のすべての民族が祝福に入ること、さらにローマ書13章には「共におられる主、イエス・キリストみよって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木された」と記されています。私たちがどんなに小さくても、到底神の前に立ち得ない罪人であったとしても、救い主イエスによって神に立ち返る時、この神の民の系図に接ぎ木され、祝福を受け継ぐ者とされている。
どんなに尊く、感謝なことではないでしょうか。

本日は世界祈祷週間をおぼえての礼拝を捧げておりますが、先にも申しましたように聖書はアブラハムの祝福によって地上のすべての民族がその祝福に与るべきことを示しています。

主イエスの福音は今日のこの世界において最も暗く、闇のようなところにまでも、文字痔入り地の果てまでも届けられることが求められています。

私たちの教会が加盟する日本バプテスト連盟がアジアという場所を宣教の地としているのは、かつての戦争における私たちの罪の告白と和解がキリストによってもたらされるためです。またルワンダでの働きに参与しているのも、人と人を隔てる敵意の壁の開放、キリストにある平和と和解をルワンダの人たちと共に確認していくためであります。

救い主イエスさまの御降誕を待ち望むアドベントにおいて、まずこの驚くべき神の新しい救いのご計画が全世界にもたらされた、そのことを覚えたいと思います。又、私たちも神の救いのご計画のために用いていただけるよう祈り求めてまいりましょう。

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