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神の愛のまなざし

2017-05-28 20:45:29 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ11章1節~32節 

今日はローマの信徒への手紙11章1~32節より「神の救いのまなざし」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
この11章には3つの小見出しがつけられています。
1-10節は「イスラエルの残りの者」。今日のテキストである11―24節は「異邦人の救い」。さらに、25-36節は「イスラエルの再興」です。

そしてその全体は「神の秘められた御計画」として、すべての人が救いに与るという
神の壮大な御計画がここに示されているのです。その完成の日に至るまで「神は、憐れみを絶やそうとなさらない」というメッセージが語られています。

先ほど礼拝の招詞としてガラテヤ3章28節以降の言葉が読まれました。もう一度27節からお読みします。
「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたはキリストにあって一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。

「イスラエルの残りの者」
イスラエル、ユダヤ人について旧約聖書では、神の愛によって選ばれた民であるとされています。しかし、それは何かこの世的にイスラエルに優れたものがあったからとか、力があったから選ばれたということではなく、申命記7・7-8にこう記されています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」と、ただ神の恵みの選びによるものであったのです。

そもそもそのような神の愛が選びの根拠であったのです。この「神の愛」とは「憐れみ」とも訳せます。それは「腸がちぎれるほどの思いをする」という意味です。
神は、ちっぽけで貧弱で神に呼ばわる外ない民を、まさに断腸の思いで憐れまれた。
それがイスラエルを宝の民として選ばれた理由なのです。それは又、キリストにある割私たち一人ひとりも同様ではないでしょうか。

ですから、イスラエルの民は何一つ誇り得るものをもっていなかった。誇るべきはただ恵みの神のみであり、その神に依り頼んで生きるほか無い。それがイスラエルの存在なのであります。
その神の恵みの信仰は、アブラハム、イサク、ヤコブという父祖たちの信仰を土台にイスラエルの民の中にあって継承されてきたものです。
しかし、旧約の歴史においてイスラエルの民はその神の恵みの選びに与ったにもかかわらず、神に背き、異教の神々にひれ伏し、罪を繰り返しその神の恵みを台なしにすることが繰り返されたのです。聖書のお言葉によるなら、神はねたむほどに、その民を愛しておられるがゆえに、彼らが立返るために下された審きは時にすさまじいものでした。

そのことを受けてパウロは、11章1節で「神は御自分の民(ユダヤの民)を退けられたのであろうか」と問います。又11節でも「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか」と疑問を投げかけるのですが。すぐに「決してそうではない」と断言します。悔い改め神に立返って生きる道を選んだ「イスラエルの残りの者」。
この残りの者とは旧約時代に神に忠実に生きたイスラエルの人々、ユダヤ人たちのことを指しますが。同時にパウロは自分自身のようにイエス・キリストと出会い、救われたユダヤ人たちのことであったのです。いずれにしろ、神の恵みの選びは旧約聖書以来絶たれることがなかったし、今もそうだと言うのです。

イスラエルの民の歴史は不思議です。幾度も国を奪われ民も散らされ、もはや民族として存続し得ないような状況にありながら国を再建し、どこに住んでも何千年という歴史を神の民として生きてきた人たちを見るにつけ、イスラエルの民、ユダヤの人びとへの神の選びは、未だ変わっていないというパウロの言葉は非常に説得力があるなと思います。
いつの時代も、神を愛し、信仰をもって主の恵みに留まり続ける人たちがいます。それはたとえ木が切り倒されるような状況に遭遇しようとも、新たな若枝を芽吹かせる切り株のような人びとです。それこそパウロの言う「恵みによって選ばれた者」です。

私たちキリストの救いに生きる一人ひとりも、新約聖書にあるとおり、だれでも聖霊によらなければイエスを救い主だということは出来ないのです。それこそ一方的神の恵みであると言えましょう。

「異邦人の救い」
さて、パウロがイスラエルの民、ユダヤの人々について述べている事について読んでまいりましたが。次に本日の11~24節の個所であります「異邦人の救い」について読んでいきたいと思います。
はじめに申しましたように、この救いは神の恵みによってイスラエルの民にまず与えられたものであることに変わりございません。
 しかしながら、11節「彼ら(ユダヤ人たち)の罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になった」。まあ独特な言い方ですが。決定的神の救いであるイエス・キリストを不信仰であったユダヤ人が十字架につけ、そのことによって全世界の人々に救いがもたらされるようになった、ということを言っているのでしょう。

使徒言行録13章44-46節にはこういう記述があります。
次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうと集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群集を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこでパウロとバルナバは勇敢に語った「神の言葉は、まずあなたたちに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに価しない者にしている。見なさい、わたしは異邦人の方へ行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。これはイザヤ書42章6節、49章6節を箇所からの引用として『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために』」
この「あなた」とは勿論主イエス・キリストのことです。
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められた人たちは皆、信仰に入った、と記録されています。
まさに異邦人への伝道の皮切りのところですが。このようにして、ユダヤ人たちが拒んだ主のみ救いが全世界に広げられていくようになったということです。こうしてパウロ自身がまずその異邦人伝道のパイオニアとなっていくわけです。

しかし、だからといってパウロのユダヤ人同胞への愛というのは決して無くなったというのではありません。10章1節に「彼ら(ユダヤ同胞)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と述べられているとおりです。

本日の11章25節以降読みますと、パウロはこの全世界に福音が告げ知らされ、主のみ救いが伝えられていくという異邦人への伝道は、究極的にユダヤ人・イスラエルの人々が主の救いに与っていくことにつながるという祈りと確信のうちになされていったのですね。

ところで、この手紙が書き送られた当時のローマの教会の構成は、大半が異邦人クリスチャンで一部がユダヤ人クリスチャンであったようです。ローマの教会の開拓時は少数のユダヤ人クリスチャンたちが中心的働きを担っていましたが。次第に異邦人のクリスチャンたちが多くを占め、その中心メンバーとなっていく中で、異邦人クリスチャンたちの声や力が教会において強くなり、逆にユダヤ人クリスチャンたちの立場は狭くなり、居場所がなくなるということが実際起こったようであります。それだけではありません。ローマの教会で異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンを、先に申しあげたようなことから見下し、自分たちこそ神に選ばれた者であると、おごり高ぶる者たちがいたようですね。まあ、そんなことがあるだろうかとお思いになるかも知れませんが。
この世界の歴史においてキリスト教でありながらユダヤ人を迫害するという蛮行が実際行なわれてきた事実を思う時、人間は罪深い者だなあと思います。

そこでパウロは、異邦人のクリスチャンを戒めて、18節「折り取られた枝に対して誇ってはならない」ということです。
つまり、ユダヤ人に対して誇ったり、見下してはならないという警告であります。
そもそも異邦人クリスチャンは、本来根であり幹であるイスラエルに与えられた恵みに接ぎ木されるかたちで福音に与っているということであります。
何も根が無いところから生えてきたわけじゃない。接ぎ木というのは、強く、水や養分を吸い上げる力が備わった木の枝を切って、そこに別の弱い品種をくっつけることで、それにゆたかに花や実を結ばせる方法です。そのようにして、異邦人クリスチャンは神の祝福に与る者とされた。ですから、ユダヤの人々に対して何も誇ることはできないのです。
異邦人クリスチャンの救いの根幹は、イスラエルに与えられた神の恵み。アブラハム、イサク、ヤコブの父祖たちから継承されてきた信仰であり、ただ神のあわれみによって神の民とされたことにおいて同様なのです。
ただ神のヘセド・憐れみの愛。キリストの十字架による救いの業により神の民とされたことを感謝します。パウロの言葉を借りますなら、「誇る者は主を誇れ」「十字架のキリストを誇れ」ですね。
私たちは神に対して何ができたか、何をしたから救われたのではありません。逆に罪からの解放と救いを必要とする者だからこそ、恵みをいただいている。何よりもそのことを感謝し、喜ぶ者でありたいですね。

20節「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています」。この不信仰とは、神の恵みに背を向け、究極のみ救いであるメシア、主イエス・キリストを受け入れなかったことであります。一方、信仰によって立っているとは、異邦人でありながらも、ただ救い主イエス・キリストにより頼んでいるあなた方、ということです。
そのうえで、信仰によって立っている異邦人クリスチャンのあなたがたに対して、パウロは20節「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と進言します。

私たちは「救いのみ恵み」を台なしにすることがないようにしなければなりません。
21節「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたがたも容赦されないでしょう」。

折り取られた枝に表されるユダヤの民の二の舞を私たち異邦人キリスト者が踏むことのないために、この教訓をしっかり心に留めていなければなりません。
同時に、一度折り取られたれ枝であっても、神の恵みといつくしみに真に立ち返るなら、神は再びその枝を接ぎ木してくださる。そういう御業を自由になさることがおできになるということであります。神にできないことは何もありません。

「神の救いのまなざし」
最後に、本日の箇所は「異邦人の救い」が語られていましたが、25節以降で今度は「
イスラエルの再興」という見出しで、全世界に向けられた神の救いの御計画について述べられています。
キリストの救いを信じることで救われる。それは行いによる義を厳守するユダヤの民にとってはあり得ないことであり、ねたみを起こさせるものです。

あのルカ15章の放蕩息子のたとえ話が思い起こされますね。
父の財産を使い果たして放蕩三昧をして帰って来た弟息子を父は叱りつけるどころか、喜び、受入れ、最上のもてなしをして迎えます。
兄息子はこんな待遇を私には一度もしてくれなかったと弟を非難し、そんな父親を強く
責めるのです。けれど、父は兄にこう諭すんですね。「子よ、お前はいつも一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」。父は弟と兄に憐れみを絶やすことはなかった。

このたとえは、父の神と息子の和解だけでなく、父の神の憐れみのもとにある兄と弟の和解への招きがとして語られているのですね。罪のゆえにゆるしと和解に与った弟。又そのはじめから父の神のもとにあるがゆえに、神の寛大な救いの計画を受入れることができない兄。

本日のローマ11章は始めに申しましたように「神はユダヤ人も異邦人も、すなわち全世界とご自身とが和解して、すべての人が救いに与る完成」のために、憐れみと恵みの御業を成し遂げようとしておられます。
この神の御計画に思いを馳せ、ただ主の憐れみによって御救に与っている者にふさわしく、感謝と畏れつつ、主の和解の福音を携えて、今週もこの礼拝からそれぞれの証の場へと遣わされてまいりましょう。

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苦しみで終らない希望

2017-05-21 19:19:21 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ8章18~30節 

この8章はローマの信徒への手紙の頂点となる重要な章と言われています。心して読んで力ある信仰に生きる者とされたいと願っております。

その8章の中の特に今日読みました箇所は、大きく2つのことが語られております。
一つは「信仰者がこの地上において受ける苦しみ」についてであります。
もう一つは、これとは逆に「信仰者が将来受ける栄光」についてであります。
これら二つのことは個別にあるのではなく、「神が栄光に満ちたご計画を神の子たちの未来のために完全に満たしてくださる」事と固く結びついているのです。

そういうことを踏まえて18節で、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と使徒パウロは述べます。
パウロはそれと同様のことを二コリント4章17節でも言っています。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。

主を信じる者にとっては、世にある苦しみと、将来への栄光は対立関係としてあるのではなく、かえって今の苦しみは、将来の受けるべき栄光の証しとなるものなのです。

さて、パウロは22節で、「被造物(自然界)がすべて、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしは知っている」と述べます。
まあ私たち人間もそういった被造物、生態系の一部とも言えるわけですが。こうして文明が発展したように思われる現代にあっても被造物のうめきがやわらいだかといえば、むしろ逆です。海も山も空までも自然破壊が繰り返され、生態系が乱れて、異常気象による災害が多発している現状があります。又、それは人と共存する動植物にも異変をもたらし、自然の山に食べ物がなくなった熊や猿などが民家や畑に入り人を襲うということも起こっております。大意汚染や放射能汚は人体や自然に異変を及ぼし、身体を蝕んでいる現状があります。
しかし、こういった「被造物が虚無に服すしかない」という実状は、自然界自体や被造物自体に何か問題があるからではありません。むしろ聖書には「服従させた方、つまり神のご意志による」と言っています。
創世記2章を読みますと、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と神が「すべて良し」と絶賛されたこの世界であります。人が自然の中に神を思うのは、そのような神のすばらしい御手の業を感じるからでしょう。
神は人に、「神がお造りなった被造物をすべて支配せよ」(創世記2章28節)とお命じになりました。その管理を人に託されたのです。
しかし人は、その神のお言葉に背を向け、反して自らの欲するままに生態系を壊してまでも、又あらゆる種の命を脅かしてまでも、むさぼるものとなっているのです。

ともあれ「被造物は虚無に服す」だけなら、それはもう絶望や闇で終る以外ないのですが。パウロは、すべてを治めておられる神のご意志のもとにおいて、「同時に、希望を持っています」と驚くべきことを述べます。

それは21節、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」との希望であります。
もし人が本来の神の子としての命、生き方、神に託された地上の良き管理者としての存在とされていくとき、むさぼりは止み、共生共存の生態系となり、環境は守られ、損なわれた自然も取り戻されていくのではないでしょうか。

ですから、被造物がすべて今日まで受けている苦しみは、単に失望に終るものではなく、「神の子たちの現れるのを待ち望む産みの苦しみとしてのうめき」だということですね。
男性である私は妊婦さんの痛みと苦痛を体験していないので、産みの苦しみといったことはあまり想像がつかないのですが。母親がとんでもない苦痛に耐えることができるのは、その苦痛が苦痛だけのためにあるのではなく、それだけで終るのではなく、新しい命を生み出すという目的と希望があるから苦痛にも耐えられるのですよね。まさに「全被造物、この世界の命あるものは皆、神の子たちの現れを産みの苦しみのようなうめきを耐え忍んで待ち望んでいる」ということであります。

そして、23節ではこのように述べられています。
「被造物だけでなく、霊の初穂(イエス・キリストの救いですね)をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです」。

主を信じて生きる私たち信仰者も、この地上にあっては様々な苦しみを免れることはできません。身体的弱さ、欠乏、人の悪意、信仰者自身の罪の性質による苦しみや試練が、その時々にあるでしょう。

しかし、信仰者は14節にあるように「神の霊によって導かれる者」であり、「皆、神の子なのです」。又、15節にあるように「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と語られているとおりです。
神が栄光に満ちたご計画を、キリストにより神の子とされた私たちのために完全に満たしてくださる。アーメン。ここに確かな希望があります。

イエスさまを信じていても、世にあって苦しみ、悲しみは尽きません。問題や難題も待ったなしで起こってきます。落ち込んだり、挫折したり、だれもわかってくれない、と人をうらめしく思い、挙げ句の果てには、神さまを見失うようなとき、苦しくて神さまから見捨てられたように思えるとき。この手紙を書いた使徒パウロでさえも困難に何度も遭い、苦悩や心の痛みの中でもはや祈る言葉さえ失ってしまうような経験をしたのです

しかしそのパウロは次のように語ります。
26節「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。

私たちは、ほんとうに苦しいときにどう言うでしょうか。「きつい」「しんどい」「もういやだ」。けど、その苦しさの度が過ぎたりしたとき、理解を超えるような事態が起こってきたときは、もうどう祈っていいのかさえわからなくなりますね。祈りが、もう「うーー」とか、言葉にならない「うめき」になるのではないでしょうか。

そういう私たちに対して、パウロは「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成し」「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」と語ります。

祈祷会である方が、「最近うめくような祈りをしていたら、どう祈っていいかさえわからない中にも、主が共におられることを感じることができて、ああ主が共におられるのならもういい、と底が抜けたというか、突き抜けたような平安と賛美が与えられた」ということをおっしゃっていたのですが。

この霊が「助ける」ということですが、原語では霊が「共に・代わって・重荷を負う」(シュン・アンテ・ラムバノゥ)という深い意味を持つ合成語・言葉なのです。
日本語の「助ける」という言葉では、そこまでの深い意味を味わい知ることができませんが。神の霊、御霊は「苦しみを共に代わって担う」ことによって、弱い私たちを助けてくださるのです。何と心強く、幸いなことでしょう。
そして、それはまさに主イエスの救いのお姿と重なって見えてまいります。
人となられた神の十字架の深い苦悩、叫び、身代わりとなって執り成す愛が、私たちと共にある。アーメンです。
祈りは労働であると言われるほどですけれど、私たちの祈りのうちに、こうした神の霊の深い深いうめき、苦しみを共に代わって担われる助けがあるということを今一度覚えましょう。そして私たちは苦難にあってもなお、主の深い御救いの恵みを、味わい知っていく者とされたいと願います。

そのことを受けて、この「霊による助け」「言葉に表せないうめき」ということについて思うことがあります。
以前、牧師研修会が京都にある日本バプテスト病院であり、ホスピスケア・ターミナルケア(これは、その人らしい余命を全うさせ安らかな死を看取るとの視点に立った緩和ケアのことですが)、について学ぶ機会がありました。
その時に当時チャプレンの方がおっしゃっていた事が今も心に残っています。
「患者さんは、その病状が重度なゆえに、「ノ―」ということが言えない状況にもある。しんどくても我慢して大丈夫と言っている。言いたいことも押し殺している。私たちはそのような患者さんの思いを聞き取り、サポートができたらと願っている」。
今日のところで言えば「言葉で言い表せないうめき」を聞き取っていくということでしょうか。
さらに、チャプレンは「このケアは一人の魂に医師や看護師といった専門職だけが関わるのではなく、「その人に愛情をもって接することのできる人なら誰でも可能です。それはその患者さんの話を聞いてくれるご家族や友人。又、お部屋を毎日来られる掃除婦の方などであったり、様々な人との関わりを通して、その一人の魂を多面的に看る」。「可能な限り患者さんの声を聞いていく」。そういうことがスピリチュアルケアにとって大事な面であるということを教えて戴いたのであります。

今日の8章ですが。その全体が「わたし」ではなく「わたしたち」と記されていることに注目していただきたいのです。特に28節には「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります。

うめきをもって私たちを執り成してくださる神の霊。それは「私という個人」だけに留まることなく、「私たちの間」にあって共にお働きになられるということであります。
そこにキリストにある兄弟姉妹、キリストの共同体、さらに言えば神の御計画に従って召された教会の本質がございます。

霊の助けと執り成しを受けて、共に祈り合い、執り成し合い、仕え合う者たちには、万事が益となるように共に働く。パウロは礼拝や集会を大切にするように勧めをなしていますが。それが私、又私たちにとって大事なのは、万事を益となしたもう神御計画が私たちの間でとどこおることのなくお働きになるためなのですね。

最後に、その御計画の私たちに対する大きな意義を29節-30節から受け、共に祈りたいと思います。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」。

主イエスを信じて義とされた者は、この「御子の姿に似たもの、イエス・キリストに似た者とされていく」という神のご計画のもとにございます。
そのご計画に従って召されてあゆむクリスチャンにとっては、万事が益(神の良しの意味)となるように神が共に働いてくださるのです。
それはまさに、30節にありますように「主を信じて生きる者が神の子供となり、キリストと共なる栄光に与る者とされる」ためです。ここに「苦しみで終らない真の希望」がございます。
私たちはこの世にあっては、キリストと共に苦しむことをも賜っていることを知り、やがてキリストと共なる栄光を受けていくものとされる希望を、御霊の執り成しに支えられ、強められる中、歩み通してまいりましょう。今週もここから遣わされて!
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キリストと共なる死といのち

2017-05-14 14:54:00 | メッセージ
礼拝宣教 ローマ6章1~14節 


はじめに、このローマの教会には、バプテスマに与った異邦人と共に、クリスチャンとなったユダヤ人たちがいましたが。異邦人のクリスチャンの中には「もはや、すべての罪が赦され救われているのだから、何をしてもよい、ゆるされるのだ」という誤った教えを主張、そんなローマ人やギリシャ人がいたのです。その一方で、ユダヤ教から改宗しクリスチャンとなった人の中で、バプテスマを受けた後も、ユダヤの律法にまだ縛られ、自分の義を立てることを重んじるばかりか、異邦人のクリスチャンに律法を強要するという人たちもいたようであります。

先週の5章で使徒パウロは、律法を守って救いを得ようとすればするだけ自分の罪を思い知る経験をするなかで、主イエスがその自分の身代わりとなって、罪を贖ってくださった事実を知り、主イエスを信じて救われたのです。パウロはその体験によって、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と言っています。

クリスチャンとなりバプテスマを受けるとき、みなさまも又、それぞれに神から罪を赦され、新生の恵みに与った喜びを体験なさったのではないでしょうか。

今日の6章の冒頭で使徒パウロは、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちがどうして、なお罪の中に生きることができるでしょう」と述べます。

異邦人のクリスチャンのある人たちのように、「何をしてもキリストの十字架の業でゆるされる」と主張する人々、逆にユダヤ人クリスチャンの中の「これをしなければ救われない」と主張し強要する人々に対して、使徒パウロはこの6章で、「キリストと共に罪に死に、キリストと共に生きる」ことの内実について説いた、それが今日の箇所であります。

さて、ここには主イエスを信じる信仰告白をされ、バプテスマを受けられた方がおられると思いますが。ご自分の信仰告白やバプテスマの時の事を覚えておられますか?
何度も礼拝宣教でお話しましたが、私は高校1年のイースター礼拝の時に、主イエスを告白し、バプテスマを受けました。今、その時に言い表した信仰告白の内容についてはほとんど覚えてはいませんが。それはある意味未熟な私の信仰告白であったと思います。
けれども私はそのことを後悔していません。その内容はともかく、あのときの決心とバプテスマの事実があるからこそ、今日があるのだと信じています。もしあのとき、バプテスマを受けていなかったなら、恐らく教会から離れていたかも知れませんし、ましてやこうしてキリスト者として生きることはなかったかも知れません。たとえつたなくとも、そのとき主を信じたありのままでバプテスマを受けたときは、いわば生まれたての赤ちゃんのような状態で、実にそこからがクリスチャンとしてのスタートなのです。
人はある出会いや体験によって人生が大きく変わっていくという事がありますが。バプテスマを受けたという体験のある人は、その後の人生で様々な出来事が起こったとしても、神さまと共に生きているという確信と支えを戴くことで、人生の質が全く違ってまいります。私は最終的に神のみ手のうちにあり、その神の御もとにこそ私の帰る場所がある。その信頼と平安はどんなものにも代えがたいものですね。バプテスマはその原点とも言えるものです。

まあ、そのようにクリスチャンの人生における決定的瞬間、それがバプテスマでありますが。使徒パウロはそのことを6節のところで、「わたしたちの古い自分(先週お話したアダム以来の罪の性質)がキリストと共に十字架につけられた」と、こう述べています。さっと素通りして読んでしまうかも知れませんが、これは実は大変なことを言っているのですね。

私にとってはあの高校一年生のイースターの礼拝で、主イエスを救い主と信じる告白をし、バプテスマを受けたそのとき、この罪ある私は4節にあるとおり、「キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなった」のです。それは単にキリストだけが十字架にかかって私のために死なれた葬られた」ということではなく、そのとき私が十字架のキリストと共に葬られ、その死にあずかるものなった」。「罪に対して死んだ」者となったということであります。
この事実を私が改めて知ったのはバプテスマを受けて4年後の20歳のときでした。
そしてそのときこのローマ6章の中でも5節、6節の言葉が私の胸の深いところに響いてきたのです。
「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死にあやかるならば、その復活の姿にあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。

ここに「わたしたちがキリストと一体となって」とある、一体というのは「結ばれる」とか、「継ぎ合わされる」という意味です。キリストのうちに私がいる。又わたしのうちにキリストがおられる。ちょっとわかりにくいなあとお感じになる方もおられるでしょう。神学者であり伝道者であった中国のウオッチマン・ニーという方が、その著書の中で次のような体験を話しておられます。
彼が一人の兄弟のバプテスマに際して、今日のこの「キリストに結ばれて」ということを強調したいと思った時、ちょうど彼の前におかれていた紅茶に角砂糖をおとし、それをかきまぜて、2~3分経ってから「紅茶と砂糖の区別ができますか?」と尋ねたそうです。バプテスマを控えていた兄弟は「いいえ、あなたが一緒になさったので、溶け合ってしまいました。ですから区別がつきません」と答え、そうして「私たちがキリストに結ばれて、その死の様に等しくなる」「キリストと決定的に、しかも密接に結合されている」ということを理解した、ということです。
「キリストと一体」というのはそういうことで、わたしたちはキリストと共なる死にバプテスマされ、そのキリストと共に新しい生命にあやかるものとされているのですね。

それはまあ、あのゴルゴダの丘で、キリストが十字架につけられた時から2000年の時を経、地理的、文化的隔たりがあるわけですから、その方と自分が一体とされたというのは、世の常識からすれば考え難いことでしょう。しかし確かに、キリストは歴史において唯一度の決定的なとき、神の救いのご計画によって全人類の罪に対して死なれたのであります。
それは、その神の救い業を信じ受入れるすべての者に与えられている恵みです。
神は永久に全世界を統べおさめたもうお方です。2000年経っていようが、国は違おうが、文化や風習が異なっていようが、この神が全世界の救いを成し遂げてくださったのですから、この私も、みなさま方お一人おひとりもそれぞれに、バプテスマを通してこの十字架のキリストに結ばれた者、ウオッチマン・ニーの言葉によれば「キリストと密接に結合さえて、罪に死んだのです」。私は高校一年生のときでありましたが。罪ある一人ひとりが主イエスの御救いに与ったそのときについては、みな同じではないということなのです。そしてその、私がキリストと共に十字架につけられ、罪に死んだという決定的な出来事を知ることが如何に大事であるかということですね。

そのバプテスマですが。ある方から聖書事典でバプテスマの項を引くと、「ユダヤ教徒となるために割礼があったように、クリスチャンになるためにバプテスマがある」というような解説がなされていたと伺いました。確かにそのようにもいえるのかも知れません。しかし、割礼はユダヤ教徒となるための儀式であり、どこまでも人間の業によるものです。
けれども、イエス・キリストのみ名によるバプテスマは単なる儀礼、又教会員になるために行なわれるものではありません。それはまさに、人の力や業によってではなく、神の先立つ「愛による恵みの御業」なのです。
バプテスマ(バプティゾー)はもともと「沈める」「浸す」という意味があります。
私どもの日本バプテスト大阪教会は、その名のとおり「沈め」「浸す」のバプテスマを大事にしてきた群といえます。
何度かお話しましたが。釜ケ﨑の三角公園の前に建つふるさとの家という施設で日雇い労働者や野宿生活者の支援をしておられるカトリックの本田哲郎神父とある集会でお会いした時、神父は私に「バプテストは上流から下流に流れるヨルダン川の一番底に全身を沈めるバプテスマを大事にしてきた。いわば最も低くみに全身を沈めて見直していくことを実践してきた教派ですね」とおっしゃたんですね。
私はその言葉に、こそばゆいような気持ちになった事を思い起こします。こそばゆいというのは、私どもバプテストの教派を「ほめられたのか」「皮肉におっしゃられたのか」は定かではありませんが。私自身、果たしてそんなに立派だろうかと思えたからです。名実ともに全身全霊「キリストと共に」罪に死に、「キリストと共に」新しい生命に生きる、そういう実践を伴う人生を歩んでいきたいと願うものです。

聖書に戻りますが、はじめに当時のローマの教会の問題について触れましたが。
バプテスマを受けながら、まだ自我への執着、神の生命の木ではなく、自我を選び、押し通してゆく罪の性質に引きずられ続けたり、反対に、こうあるべきという自分の決めつけで、自分ばかりか人を裁き、神の恵みを損なっているそんな状態から抜け切れずに、真に救いの喜びと感謝をおぼえる事がないなら、それは誠に残念なことです。
キリストと共に罪に死んでいない。キリストと共に自我の罪が死んでいない。主と共に生きる新しい生命に生きていない。そこには真の解放はありません。それは信仰の年月や知識とは関係ありません。奉仕の数や出席率で計れるものでもありません。何人救いに導かれたかということさえ、救いに与る基準とは言えないのです。

唯11節にあるように、「罪に死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていく」。その感謝と喜びの実体こそが、日常の生活に反映されることを主は期待しておられるのではないでしょうか。

この最後の「考えなさい」は命令形です。それは単に考えたる思ったりという意味ではありません。立ち止まって自分がキリストに結ばれている者としての「自己吟味して生きなさい」「キリストと共なるバプテスマに与った原点に立返って生きなさい」。そのような強い促しを伴う恵みの言葉として受け取っていきたいと思います。今日がその新たな日となりますよう共に祈りましょう。



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夕べの礼拝へのご案内

2017-05-13 10:35:58 | お知らせ

5月28日(日)夕方午後6時ー7時半


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-67771-3865
メール obcs@nifty.com


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恵みの賜物によって生きる

2017-05-07 22:31:25 | メッセージ
宣 教 ローマ5・12-21 

今日の箇所には「アダムとキリスト」という小見出しがついているので、まずアダムの罪性について創世記2章の箇所から開いてみます。

2章7節~9節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」。
2章16節~17節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。

このように様々な木々とともに、園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」の二つの木が生えていたということです。ここで注目すべきは、神は園の中央のもう一つの「命の木」については何もおっしゃらず、ただ、「善悪の知識の木」から取って食べてはならない、と命じておられるということです。アダムは当初罪を知らぬ者として創造されました。彼には善悪の知識がありませんでした。それは罪についても無知であったということです。アダムの前には二本の木が植えられていました。それは特別な園の中央にある聖なる木です。どちらを選ぶかが彼自身に委ねられていました。それは「神に信頼していく命の木」の実か。あるいは「神への信頼関係を蔑ろにしていく木」の実か。アダムは別の道を選び、自我を増幅させていく「善悪の知識の木」から実を食べた。その結果、人アダムは、神なしに生きれるかのような者になり、神のまなざしを避ける者となり、すべての判断の基準を神にではなく、自我におく者となります。

アダムはその結果、エデンの園を出て行かざるを得なくなり、神の生命に接近することができなくなり、死ぬべき存在として地にあってさまよう者となるのです。これは人アダムの自ら選んだ道、それは何かその実に毒のようなものが入っていてそうなったのではなく、彼自身が何を選択したかということによって自ら招いた結果なのです。
した。それは現代人にも同様の人類の原罪であります

どうでしょう。神は本来人に永遠の生命、神の生命に与る神のこどもとなることを願われたのです。しかし、アダムはサタンの誘惑にのって、神の愛に逆らい、その神のご計画を無にした。それが罪なのです。

聖書でまた礼拝の説教の中で、よく罪、罪ということが言われるのが、好かん、嫌やという方もおられると思います。それはある意味自然な反応ともいえるでしょう。それはたとえば刑法や民法に触れるような犯罪を犯してもいないのに。道徳的な意味で何も悪いことをしていないのに、そんなに罪罪罪といわれても。。。という思いからだと思います。

このローマの信徒への手紙には罪ということが多く記されているわけですが。聖書でいう罪というのは「ハマルティア」と申します。
それは刑法民法に反する行為、犯罪の数々だけでなく、刑法民法に反していなくても、内面に抱く憎しみや恨みの数々も罪なんです。ということは罪なき人となるためにはそれら内面の数知れぬ複数の罪をも治めなければなりません。誰がいったいそのような罪を治めることができるでしょうか。しかしそれらの複数の罪は、実はアダム以来の単数形の罪は、すべての複数形の罪の根本にある人アダムの罪性から来ているのです。ですから聖書の罪ハマルティアの原意は、神に対して的外れの状態を意味するのです。
このローマの信徒への手紙を通して、パウロはその罪の問題が解決される必要があることを指摘しているのです。
パウロは「義人は一人もいない」「律法を実行することによってはだれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです」とそのように言っています。
パウロ自身何とか義人として生きていこうと律法を忠実に守り行なう人でしたが。復活の主イエスと出会うことによって、自分の原罪、根本的な罪。単数の罪を思い知るのですね。
パウロは熱心なユダヤ教の信奉者として神のために正しくあること、律法の教えを忠実に守ることが神のため自分の救いになると確信して、律法を守り行なうことができない異邦人を見下し、キリストの信徒を取り押さえ、迫害しました。
ところが復活の主イエスと出会ったとき、「神の前に正しく生きている」と誇っていた自分が、実は神さまの敵となっていた。彼ははじめの人アダム以来自我の内にあるぬぐってもぬぐってもぬぐいきれない罪の性質、根本的な罪を自覚するのです。そうして、主イエスの十字架こそ、このような人の罪の贖いのためであることをさとるのですね。

使徒パウロは今日の15節以降「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって(アダムのことです)多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人にゆたかに注がれるのです」と述べています。」
自分の底知れぬ罪深さを思い知れば知るだけ、主イエスの十字架の贖いによるキリストの死と救い、その大きな大きな計り知れない恵みであることを思い知る。
私たちもそうではないでしょうか。ああ自分は罪深い者、正しく立派にあろうと度量しても、熱心に生きようと思えば思うほど空回りし、罪に気づかされ意気消沈するような者ではないでしょうか。
 しかし、主イエスは6節「わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。8節「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。さらに10節「わたしたちが敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」。
まさにそのような神の救い、神に背き、自我に迷い出て神に敵対して生きてきたような私を、救いに招き入れてくださった。その計り知れない恵み、それらの恵みを総じて、パウロは9節に「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」と述べているんです。これぞパウロのいう「神の恵みの賜物」なんですね。

今日は、創世記2章の箇所を始めに読みましたが、私たちの創造主は元々人間が神の生命に与り、神のこどもとされて永遠に生きることを願ってやまないお方であるのです。
私たち一人ひとりがどんなに不従順で、不信心で、神に敵対するような罪深い者であったとしてもです。再び園の中央に植えられた二本の木の前に立ち、もはや滅びに至る木ではなく、神の生命の木、それは私たちの罪を贖う神の小羊として血を流してくださった十字架の御子イエス・キリストの前に立ち帰って生きるようにと、主は今日もそんな私たちを招いておられます。そこに神との和解による平安、神の命に与る幸いがございます。

20節「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。
この御言葉の恵みに与って、またここからこの5月の一日一日の歩みへとそれぞれ遣わされてまいりましょう。
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無償で義とされる

2017-04-30 19:54:19 | メッセージ
宣教  ローマ3・21-31

今日は青年主催のさんび&あかしの礼拝を捧げています。バプテスト教会は神の前に上下の身分はなく、先週のローマ書にもありましたように、「互いの持っている信仰によって励まし合う」関係性を大切にしてきました。
今日は青年の方々を通して福音の恵みを分かち合えますことを心より感謝しています。

先月のあかしでもお話しましたが。私は高校1年生の時に、主イエスを信じてバプテスマを受けてクリスチャンとなったんですが。社会人になってからは学生の頃とは違いいろんな社会の厳しさ、人間関係の難しさ、又信仰生活を守ることの困難などを経験し、悩み苦しむことが多々ありました。

そうして20歳の時だったかと思いますが、京都にある同じ系列の会社の研修のために半年間ほど長岡京市にあった会社の寮に入って仕事の研修をしながら生活する機会がありました。当時は一番近かった日本基督教団の長岡京教会の礼拝と祈祷会に出席していました。そこの村上牧師、京都洛西教会の杉野牧師のお友達で、しかもお二人とも北九州の戸畑バプテスト教会出身ということで近しい思いをいただきました。又、たまに京都の北山教会の青年たちと交流したり、や南千里教会の当時福島牧師にもかわいがっていただいたりして、個人的に信仰や教会についてのお話を伺ったり、良書をいろいろと紹介していただき、読んだりしていたのですが。
そういう折に、改めて新鮮に響いてきたのが今日のこのローマ3章の特に21節-24節の御言葉だったのです。この箇所はそれまで何度も読んでいたはずでしたが、その時まるで初めて福音と出会ったような衝撃を受けました。そして、未熟な独りよがりのキリスト教信仰の概念から解放され、心踊るような経験をしたのです。それがきっかけになって、もっと聖書を学びたいとの思いを与えられ、神学校、そして牧師としての働きの道が開かれていったんですが。

それまでの私は、クリスチャンかくあるべしというような、どこか道徳的、律法主義的な捉え方をしたように思います。けれど、どうしたってそう成りきれない自分との狭間で何か悶々としていたんですね。
クリスチャンになったにも拘わらず、いろいろな悩みが尽きず、罪を犯し続ける自分に対して嫌悪感さえ持ち続けていたのです。
今日のローマ書のところの一つ前の3章20節に「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」とあるとおり、自分の頑張りと熱心ですればするほど自分の内面には不義しか思い出せなかったのです。
けれど21節「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」

改めてこのお言葉を聞いたとき、神の愛と救いに気づかされた。初めて福音と出会ったんですね。本当の悔い改めって、ああ自分は悪い者だ、どうしようもない者だと自分を責めたり、良い行いで補う、償おうと内向きになることじゃないんですね。
聖書で悔い改めは、メタノイア。それは全身を神の方へ向きを変える。方向転換するということです。罪とは神に対して的外れな状態を現しますが。まさに的外れな生き方から神の方へ方向転換する。向き直る。キリストに望みをおいているのがクリスチャンです。そこに十字架の贖いのゆるしが与えられているのですから、そのゆるしを日々頂きつつ、主の恵みに喜びと感謝をもって生きていくことに意義があるんですね。

聖書に戻りますが。
21節「ところが今や。」
その「今や」、という原語の時制は、ただ一回限りのときを指すものです。イエスさまが十字架で私の罪を贖うために死なれた、そのとき、それはただ一度です。しかし、その今やというのは、それが単なる過去の出来事で終わるものではなく、今もその救いの業は変わることなく、続いているという意味であります。その主イエスのゴルゴダの十字架の出来事、救いは2000年以上を経た、このユダヤからすれば異邦人ともいえるこの私にも、「今や」与えられているのです。まさに恵みだということを改めて知るとき、何ともいえない感謝がわきあがってきたんですね。

22節「そこには何の差別もありません」とありますように、主の救いを求めておられるお一人おひとりにもれなく与えられている、文字通りそれは福音なのであります。

さて、今日の箇所には、「義」(ディカイオスシュネイ)という原語が9回、そして「信じる」(ピィステェオウ)「信仰」ピィスティスという原語がやはり9回記されていますように、この「義」と「信」がこの部分の鍵語;キーワードなのです。

ここを読み解くには、まず、聖書の「義」とは何かを知らなければなりません。
聖書の示す「義」は普通の倫理的な意味における「正義」や「善」、人の良い行いといった人間の属性にあるものとは違います。それは唯一の主である神に属するものであります。
旧約聖書では神の義は神の行為として現れ,ユダヤ民族は示された神の意志に従い,律法を尊んでそれを守り行なう時に救われると考えています。
そのため律法を守ることができなくて罪を犯したなら、その罪の身代わりとして牛や羊などの動物をほふって贖いのささげものとしたのです。しかしそれでは、福音を知る以前の私がそうであったように、何度悔いても、たとえ犠牲をささげても、自分の義に生きようとすると、益々罪の自覚が生じるばかりです。

しかし、神は十字架の主イエスを通して、罪を犯すすべての者に救いと解放をもたらしてくださったのです。その神の独り子、主イエスの十字架の死にあらわされた神の義
を心から信じ受入れる者を、神は義とされるのです。これが新約聖書の福音、救い、神の義なのですね。

一方、「神は愛である。」それが聖書のメッセージでありますが。それなら何も神の子イエスさまが十字架にかかったりなさらないで、罪を犯した人をそのご権威によってゆるし、帳消しすることもできたのでは、と思う人もいるかも知れません。
しかし、神さまは全き聖なるお方であります。ご自分を偽ることなどあり得ません。すべての人は偽りなき神の前ではすべてが明らかであり、その犯した罪もまた必ず清算され、審かれなければならないのです。けれどもそれでは、罪を犯した人間すべては罪の審きを受けて滅びるしかありません。

しかし、神は義であられるとともに、すべての創造主、愛なるお方であります。人が心から立ち返って生きることを願ってやまない義であり愛なる神がお選びになった唯一つの救いの道、それがご自身の独り子イエス・キリストの十字架による罪の贖いであったのです。神さまはこのことをしてご自身が義であり、愛であることをお示しになられたのです。神の義と愛とが交差する、それがまさに主イエスの十字架であり、それだからこそ、信じる私たち罪ある人間を根底から救う力がここにございます。
だから、24節「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」救いの確かさがここにあります。

ところが、罪を犯した人間が義と認められる。それも「無償で」。関西弁でしたら、「タダやでえタダ」ということでしょうか。そんなまたとない恵みを、自分のこととしていただくという人は、日本ではごくわずかです。「タダほどあやしいものはない。」疑いと勘ぐり、あるいは遠慮して、「ありがとう」と感謝し、ただ受けることが難しいんですね。そんな虫のいい話とばかりに、せっかくの神さまの尊い愛をもって支払われたプレゼントを受け取れない。そんなもったいないことはありません。
私たちに求められていることは、何か功徳を積まねばとか、修行を積まねばとか、知識を得なければということではなく、ただ神さまが私の罪のゆるしと和解のために御独り子イエスさまを与えてくださった。その義と愛の十字架を仰いで救いを得る、ということであります。そうしていくときに、私たちは自ずと湧き上がる感謝とともに、主の恵みに応えていきたいという願いが自ずと起こってくるでしょう。神の義と愛。主イエス・キリストの救いの業を信じ仰ぎ救いに入れられて、新たないのちに生かされていく。これこそが、27節の「信仰の法則」ですね。主の御名を心から賛美します。
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青年主催さんび&あかしの礼拝

2017-04-24 19:49:50 | お知らせ
4月30日(日)午前10:30-12:00

さんび、あかし、聖書メッセージなど、青年たちが中心にプログラムを構成しています。

教会が初めてという方、大歓迎です。

入場は無料です。自由献金はございます。

                   どなたでもお越し下さい。

新しい礼拝が始まります!


4月30日(日)夕方午後6時ー7時半

5月から隔週(第2、第4日曜日夕方)に行なわれます。

4月30日はそのプレ夕べの礼拝として行なわれます。


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。

*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居た短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。

※無料ですが、自由献金はあります。




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神の福音

2017-04-23 17:10:55 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ1章1~17節  

神の御子イエス・キリストが私たちすべての人間の救いのために罪の贖いとして十字架に死なれ、3日後に復活なさった。先週はそのイースターの喜びを共に分かち合いました。イエスさまは、又その復活のお姿を度々弟子に現され、「全世界に出て行ってこの救いのよき知らせである福音をすべての造られた者に宣べ伝えなさい」と、その働きを弟子たちに託されの後、天にあげられた、と伝えられています。そして弟子たちはその主イエスのお言葉を握りながら、祈りのうちに聖霊に満たされ、福音を伝え続けることで多くの人が主を信じ、教会が誕生していったのです。しかし同時に迫害も激しく起こり、今日のこの「ローマの信徒への手紙」を記したパウロも、初めはキリスト教会とその信徒たちを激しく迫害する人でありました。しかしそのパウロは復活されたイエスさまと出会うことで、主イエスの御救いを信じクリスチャンとなり、主に小アジア、ヨーロッパの異邦人に福音を伝える働き人とされるのです。

さて、本日の礼拝からそのパウロがローマの信徒に宛てた手紙を読んでいきますが。
ちょっと理屈ぽく、とっつきにくいと感じるところもあるかも知れませんが。この書を読んでいけば、私たちに開かれた神の救い、福音のゆたかさと深さをさらに知ることができますので、そこは少し腰を据えてその言葉に耳を傾けてまいりましょう。

先ほど読まれました1章は、はじめの1-7節が「使徒パウロのあいさつ・自己紹介」。そして8-15節が、「この手紙を書いた目的」。さらに16-17節は、「この手紙の全体的な主題、テーマ」が述べられています。

まずこのローマの信徒への手紙が書かれた目的についてですが。
8節以降に小見出しとしてあるとおり、パウロはまだ訪ねたことがない、ローマの教会への訪問を強く願っていたのです。
新約聖書の中で使徒パウロが書いた手紙は、このローマの信徒への手紙の他にもコリントの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、テサロ二ケの信徒への手紙等があります。
これらコリント、フィリピ、テサロニケの3つの教会はパウロが伝道旅行で実際にその地に赴いて福音を伝え、教会の基礎を築いたのですが。
しかしこのローマの教会はそれらの3つの教会の事情とは異なり、パウロの伝道する前からすでに福音が伝えられ、クリスチャンとなった信徒たちを通して、家の教会が複数形成されていたようですね。
ちなみにローマでキリストの福音を伝えたのはバルナバとかペトロとか、あるいは聖霊降臨の日にエルサレムに旅に来て、ペトロの説教を聞いて信じてクリスチャンになり、ローマに戻っていった人たちとかいわれていますが、はっきりとしたことは分かっていません。

そのローマの信徒とパウロをつないだのは、コリントの町で出会ったアクラとプリスキラの夫妻でした。彼らはローマにおいてクリスチャンであるために、激しい迫害に遭い、コリントに逃れてきたのです。そこで彼らからローマの信徒たちや教会の事情や情勢についてパウロは詳しく話を聞く機会があったようです。

当時ローマはすべての世界に通じる中心地でした。パウロはそのローマの地を訪れることによってそこが伝道の拠点とされ、さらにイスパニア(スペイン)まで福音が伝えられていくという幻・ビジョンが与えられていたのです。
ユダヤ以外の人たちにもキリストの救いを伝える。それはまさに冒頭の1節でパウロ自身が「神の福音」のために選び出され、召されて使徒とされた、神さまのご計画がここにあるということですね。
先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、ギリシャ人、ローマ人、あらゆる人々に、それこそ神さまがお造りになった全世界に、この「神の福音」が伝えられていく。その目的のためにこのローマの信徒への手紙は書かれたといえます。

パウロは、ローマの信徒たちと互いに協力し合うことで、そのビジョンが成し遂げられていくことを強く願っていたのですね。
ここでパウロは、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャン、信徒の人たちに向けて、「あなたがたの信仰が全世界(この当時のユダヤ人の世界観ははパレスチナ周辺の小アジア(トルコ)、そしてコリント(ギリシャ)まで射程にあったようですが。)に言い伝えられていることを神に感謝している」と述べます。そして「わたしは、祈るときはいつでもあなたがたのことを思い起こし、何とかいつかは神の御心によってあなたがたのところに行ける機会があるように、願っています」。「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」。と彼らに対する熱い思いを語ります。
それは、パウロが一方的に何か与える側に立つというのではなく12節にあるように、ローマの信徒たちと対等の立場で「互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」、と願っていたということですね。これはパウロの単なるリップサービス、方便ではありません。
パウロは様々な知識もあり弁のたつ人で、又いろいろなしるしを伴う伝道活動もなしていました。しかし同時に、彼ほどの人でも、自分の力ではどうしようもないという無力さも経験している人であったのです。そういう時に犠牲を払ってまでも祈り、働きを共にしてくれる教会の信徒のつながりというものは、どんなにか彼の支えと励ましになっただろうかと思います。

信仰は神と私という一対一の関係ではありますけれども、独りだけで信仰を保つことは困難であります。それほど人は強くはありません。どんなに強い信仰の確信を与えられても、主にある兄弟姉妹、神の家族として祈り合い、共に御言に望みをおいて支え合う共なる礼拝の場やつながりがなくなってしまえば、個人の霊性はなえてしまうのです。

反対に互いに持っている信仰によって励まし合い、共に霊の賜物によって神の国を求め務めるなら、そこにはさらにゆたかな恵みの体験が起こされていきます。福音のゆたかな拡がりがもたらされていくんですね。それは2000年を経た今も同様であります。

パウロは「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵ある人もない人にも、果たすべき責任があります」とビジョンを語っていますが。その働きはパウロ一人では到底出来うることではなかったのです。

ローマの信徒たちのうちには、ユダヤ人もいたでしょうし、ギリシャ人、ローマ人など様々な地域の人たちがいたようですが。ユダヤ人ばかりのエルサレム教会よりもアンテオケアの教会のように、実に様々な国、民族、立場を越えた方々が招かれている主の共同体に、福音を世界に伝えるための可能性をパウロは見い出していたんでしょうね。
私たちのこの大阪教会も、このところ世界の様々な地域から主イエスにある兄弟姉妹がおいでになり、地域や国を超えてゆたかな福音の分かち合いがなされているその中に、神の国を見せられる思いで感謝であります。それぞれの国にお帰りになった折には、あかしとして伝えられていると思いますと、うれしい限りです。

さて、今日はこの冒頭の使徒パウロの挨拶、自己紹介のところから「神の福音」という題をつけました。これが今日の箇所のテーマだと思ったからです。
パウロは、自らをキリスト・イエスの僕、「神の福音」のために選び出され、召されて使徒となったと述べます。
イエス・キリストの僕、この僕とはギリシャ語でデューロス、奴隷という意味です。
フィリピの信徒への手紙3章のところに彼はかつての自分についてこう述べています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

彼はいわゆるユダヤ社会とその教義においてエリートであった。彼は神のために熱心に働き仕えてきて、神を冒涜していると考えていたキリスト教会とその信徒たちを迫害し、弾圧を繰り返していたんですね。
そのある日、パウロは神の声を聞くのです、それは「なぜ、わたしを迫害するのか」という衝撃的な復活されたイエス・キリストの御声だったんですね。パウロが熱心に神のため神のためと迫害し、弾圧したのはまさに愛してやまなかった神さまご自身であったのです。
パウロはあまりに強いショックと後悔から目が見えなくなってしまうのですが。主がパウロのもとに信仰の人アナニアを送り、聖霊に満たされると、目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになり、その場でバプテスマを受け、すぐに、あちこちのユダヤ会堂で、イエスのことを「この人こそ神の子である」とあかしして回ったということです(使徒言行録9章・サウロの回心の記事)。
彼はイエス・キリストこそあの旧約聖書で預言された救い主であり、苦難の僕となって人の、それもこの自分のこの罪を担い、審かれて死なれたお方であることを知るのです。パウロは自分こそが救い主イエス・キリストを十字架につけて殺したのだと思い至り、深い回心へと導かれるのです。主イエスはどこまでも神と人に仕え愛し、デューロス:僕となられた。
そのパウロが書いたフィリピの信徒への手紙2章6節以降には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と述べています。
パウロはそのイエス・キリストにならい、自らを「キリスト・イエスの僕」とされた者、「神の福音」に捕えられ奴隷となったパウロ、と言っているんですね。主の救いに与っておられるみなさまも又、大なり小なりそのようにキリストに捕えられた者、そのお一人おひとりではないでしょうか。捕えられて生きるというのは何か不自由なマイナスイメージがあるかも知れませんが。世の巷の「何とかの奴隷」ではなく、本物、神さまから捕えられて生きるのなら、こんな光栄はありません。そのように尊い「神の福音」、それをパウロは9節「御子の福音」と述べているように、御子イエス・キリストの十字架を通して現された福音なのでありますが。

今日の16節―17節は、ローマの信徒への手紙の全体の主題・テーマといっても過言ではないでしょう。
パウロは述べます。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

パウロはコリント信徒への第一の手紙にも次のように述べております。
1章18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
1章22節-24節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられた(いる)キリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であるが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

先ほども触れましたが、使徒パウロも熱心なユダヤ教徒であった時は、十字架のキリストに敵対し、それを福音として伝えていたキリスト教会とその信徒を徹底的に迫害しました。
しかし彼は復活の主イエスと出会い、これまで誇りとしてきた血統、学歴、知識、業績などのあらゆる能力やステータスが、イエス・キリストを知ることの価値の偉大さに比べれば、如何に塵あくたのようなものであるかを思い知らされたのでした。まさに、人の目には愚かと見える主イエスの十字架こそが、信じる者すべてに救いを得させる「神の力」であるということを実体験したのです。

自らの正しさと行いによって自分を正当化して人を裁いて生きていたパウロは、十字架と復活の主イエスとの出会いによって、自らの罪を知り、打ち砕かれました。そんな自分を滅びから救う「御子の福音」。そんなパウロだから「福音を恥としない」と宣言するんですね。
私たちの日本の社会や文化の中で、自分はクリスチャンだと言うことは多少言いづらい、あえて言うことはないという方も多いでしょう。けれど私を生かす神の力、神の愛に生きる時に、溢れてくる思いや言葉、行動は大切にしていきたいですね。

十字架のキリストを信じ受け入れるということは、自分の弱さをさらけだし、無力であることを告白するということでもあります。それはある意味確かに勇気がいることです。
自分を主にすべて明け渡していくということだからです。けれど「そこに」神の力がゆたかに働くのです。まさパウロがここで述べていますように、福音の力、神の力によって神の栄光が現わされていくのです。
すべて信じる者に救いを得させる神の愛と神の力、御子イエスの十字架の福音に心から神に感謝します。さあここから、また御子の福音に生かされて、それぞれの馳せ場へ、遣わされてまいりましょう。
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主イエスの復活の知らせ

2017-04-16 13:57:23 | メッセージ
イースター宣教 マタイ28:1-10

イースターおめでとうございます。
受難節の約一ヶ月を経て、先週は特に主イエスの十字架の死を偲ぶ受難週を過ごしました。金曜日、十字架で死なれ墓に葬られた主イエスは、3日目のこの日曜日の朝、死よりよみがえり、封印された墓を打ち破られた。その朝に主イエスの復活を記念するイースターを心からお祝いし、その御恵みに私たちも共に与りたいと願っております。

キリスト教の信仰は、神の御独り子であるお方が人としてお生まれになった事。そして、そのお方が救い主として苦難と死による贖いの業を成し遂げられた事。さらに、死と滅びから復活された事。この受肉、十字架の苦難と死、復活の三本柱にございます。

イエスさまがもしこの地上においでくださらなかったなら、そして私たちの罪のために死なれなかったなら、人間は自らの責めを負い、滅びるほかありませんでした。
主イエスがすべての人の罪の裁きを自ら受け、罪の清算を完全になして下さった。ここに救いの道が開かれたのです。神さまは罪に滅ぶ人間、私たちを惜しまれました。そのいつくしみの愛のゆえに御独り子イエスさまをこの地上に救い主としてお遣し下さったのです。私たちがその主イエスの愛のうちにあるなら、十字架で流された御子の血によって罪を赦されています。
けれどもどうでしょうか。もしイエスさまが十字架で処刑されて死んでしまった、ということで終わっていたら、どうなっていたでしょうか?もしイエスさまの復活がなかったなら。どうでしょうか?

私たちがたとえこの一度限りの人生を罪赦されて生きたとしても、死という破壊的力を前にしては、なすすべもなく、唯絶望するほかありません。諦め、観念し、悟ったように死んだとしても、その先がうつろであるなら、旧約聖書のコヘレト(伝道の書)が「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」と言っているように、人は草のように枯れ、花のようにしぼんでいく存在でしかありません。
しかし、イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)とおっしゃいました。
神の言葉と約束は変わることがございません。主イエスが死の滅びを打ち破って、よみがえってくださったことによって、今まさに私たちに永遠のいのちの希望が開かれているのです。

使徒パウロはコリント第一の手紙15章17節以降で次のように述べています。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中あることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

こうしてイエス・キリストが死から復活されたという出来事が起こったからこそ、現に聖霊があらゆる世界や時代を超えて働かれ、実に2000年以上もの間生きた信仰の体験が証しとなって語り伝えられ、分かち合われてきたんですね。

本日はマタイ28章1~10節より「主イエスの復活の知らせ」と題し、御言葉に聞いていますが。こどもメッセージにもありましたが「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と記されています。

安息日が金曜夕方から始まり土曜夕方に終わりますので、その安息日の規定のため動くことができなかったこの二人の女性たちは、日曜日の夜明け頃、墓に置かれたイエスさまを見にいきます。
それまでずっとイエスさまに同行して来た二人のマリア。彼女たちはイエスさまが十字架で処刑される折も、ずっとその最期まで見守っていた人たちでした。
弟子たちは逃げ去ってエルサレム周辺の場所に身を隠していたようでありますが。彼女たちは心からイエスさまを慕っていたのです。それは女性であるために低くされ、神への礼拝までも規制されてきた彼女らに、イエスさまは一人のかけがえのない人として分け隔てなく、神の愛と救いの招きをもって接していらしたからではないでしょうか。それだけに彼女たちのイエスさまを失った悲しみや嘆きはいかばかりであったでしょう。
そうして彼女たちがやって来たお墓ですが。これは横穴式の洞窟のような岩をくりぬいた造りになっていて、その入り口には大きな丸くひらぺったい石がずっしりと置かれて封印されていたのです。ところが彼女たちがお墓に着くや「大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」というのです。

先週の箇所で、イエスさまが十字架上で息を引き取られた後に、「地震が起こった」という記事がありました。神の子によって完全な贖いの御業が成し遂げられたという全世界における重大な出来事の折に「地震」が起こります。そして、今日のイエスさまが死より復活される折にも、「大きな地震」が起こっているのです。
さて、そこに現れた主の天使は、「その姿が稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります。他の福音書などによりますと、長い衣を着た若者とか、二人の天使とか、それぞれの表現がありますけれども。共通しているのは、それは、神のご意志を伝えるために遣わされた存在であるということです。

番兵たちはこの光景をみると、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまいます。大事なことは、神の言葉は、それが実現した時、信じる人、受入れる人には喜びと希望であり、それを拒む人、信じない人にとっては恐れ、絶望なのです。

この番兵たちは、前の62節以降に記されているように、イエスが生前「三日後に復活する」と言っているのを聞いたユダヤの祭司長や律法学者たちが、弟子たちによって遺体が盗み出され、復活したなどと言いふらされるなら、人びとが惑わされることになりかねないとピラトに願い出て、そこに配置された番兵たちでした。墓にはさらに封印をしていたのですが。神の御業とご計画に対する不信や反逆は、必ず打ち砕かれるのです。

一方、女性たちは主の天使から「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げられます。

そうして、空っぽの墓を見ることになるのです。
この女性たちも、大きな地震とともに起こっている目の前の出来事にやはり恐れを抱くのであります。しかし、番兵たちと違っていたのは、彼女たちがイエスが前もって告げていた死の後「三日目に復活する」という言葉を聴いていた。そして主の天使があの方は「復活なさったのだ」との言葉を受取った、ということです。同じ出来事に遭遇して片や不信の中で死人のようになった番兵たち。片や天から希望を受け取った女性たち。

私たちの生活においても、どうでしょうか。同じようなことが起こっていないでしょうか。不信が起これば不安や恐れに取りつかれ、自分を見失ってしまいかねない。けれども主イエスの言葉を聞き、心に留め、それを拠所としていく者は、恐れや不安の中にあってもなお光を見出し得るんですね。

先週も多くの方々と祈りを共にしました。様々な問題、状況の中で、希望を見出すのは本当に困難なことです。けれども、それは私自身も経験することですが。ともに祈る人がいる時、その祈りのうちに主が共におられることを覚えて、大変勇気づけられたり、不思議に平安が与えられます。もしクリスチャンでなかったら、どうしていただろうか。おそらくあの番兵たちのように震えあがって死人のように身動きがとれなくなることが度々あったんじゃないかと思います。ほんとうに主の救いに唯感謝であります。

話を聖書の方に戻しますけれど。
主の天使は彼女たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と語りかけます。

すると、それを聞いた女性たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とありますね。
「恐れながらも大いに喜んだ。」一見相反するようなその様子。それは主イエスの無残な死に直面し、大きな地震、主の天使の思いがけない言葉、想像もつかなかった非日常が次々に起こったのですから、恐れが生じるのも当然と言えば当然です。
けれども、天使から「ガリラヤ」という言葉を聞いた時、また「そこで、主にお目にかかれる」と聞いた時、言葉では言い表せない大きな喜びが湧き起こってきたんですね。 
「ガリラヤ。」それはかつてイエスさまに仕え、ともに従って歩んだ日常があった場所です。そこで復活なさったイエスさまにまたお会いできるという希望の知らせ。
彼女たちはまだ復活の主イエスをその目で見たわけじゃない。その復活の主イエスと顔と顔とを合わせたわけじゃない。けれどもガリラヤという主と共にあった場所、日常の場に復活の主イエスが待っておられる。

私たちも時に非日常的な出来事に遭遇する時があります。不安になったり恐れをもったりする時。教会の兄弟姉妹の声を聞いてホッとしたり、先ほども言いましたように祈りを共にする中で、主が共におられるというクリスチャンとしての日常の平安を取り戻したりといった経験はないでしょうか。

Ⅰペトロの手紙1章8節に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」
とございます。
それは何事もない中で語られたのではなく、むしろいろいろな試練に悩み苦闘する人たちの間で語られた言葉なのです。主イエスを慕い、拠所とする者は、墓という場所に象徴される絶望や悲しみの中に封印されるのではなく、たとえそのような状況の中でさえ、主にある希望と喜びを見出し得る。これが聖書の福音のメッセージであります。

さて、こうして恐れながらも大いに喜びつつ、彼女たちは急いで墓を立ち去り、このよき知らせを一刻も早く弟子たちにもたらしたい、伝えなければならないという思いで走り出します。
このマタイ福音書は他の福音書には見られない場面を記しています。
9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」というのですね。この「おはよう」はギリシャ語の原語では、日常で交わす挨拶のようなものだということであります。
何と復活の主イエスさまが直接この二人の行く手に立っておられ、本当に常日頃おっしゃたように「おはよう」とお声をかけられるのです。
「女たちはイエスに近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とありますが。彼女たちの喜びがいかばかりであったか伝わってくるようですよね

私もいつの日かこうしてイエスさまにお会いできる日が来る、と想像しますと何ともいえない喜びというかうれしさ、安心感が湧いてきますが。

さあこうして、今日の最後のところで大きなポイントとなることを、復活の主イエスはこの女性たちに伝えます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

復活のイエスさまは、ここで弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼んでおられます。大事な時に、イエスさまを見捨てて逃げ去っていった弟子たちを、イエスさまは「わたしの兄弟」とお呼びになるんです。

そこに私はイエスさまのゆるしと愛を見る思いがいたします。あの人たちでも、彼らでも、弟子たちでもなく、「わたしの兄弟。」なんとあたたかなまねきの言葉でしょうか。
人の弱さのゆえにつまずき、大きな取り返しのつかないような失態をさらした彼らを、復活の主イエスは「わたしの兄弟」と呼び、彼らの日常のフィールドで「わたしに会うことになる」と約束されるのですね。

今日は「主イエスの復活の知らせ」と題し御言葉に聞いてきましたが。私たちの死と滅びの墓穴を打ち破る新しいいのちの始まり。それは主エスの日常におけるいつもの「おはよう」の挨拶。又「わたしの兄弟」というゆるしと愛の呼びかけによってもたらされました。復活の主イエスにお会いする私たちのガリラヤ。私たちの日常へと、今日の御言葉をもって今週もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。
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本当に、この人は神の子だった

2017-04-09 14:29:14 | メッセージ
宣教 マタイ27章45-56節 受難週

今日から受難週に入りました。全世界に主の御救いがもたらされるため、神の御子であるイエスさまが捕えられて十字架へ引き渡される、苦難の7日間。それはエルサレムへの入城に始まり、弟子たちの足を洗われる洗足、そして最後の晩餐。先週はゲッセマネの園における祈り共に与りました。そうして弟子の一人ユダの裏切りによって捕えられたイエスさまは、ユダヤの法廷、次いでローマ総督の前に引き出され、鞭打たれ、嘲りを受け、自ら十字架を負われて、遂に十字架に釘打たれるのであります。

聖書は、イエスさまが十字架にかけられてから「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」と記しています。日が高い真っ昼間というのに全地が暗闇に覆われた。このマタイ福音書の全地という「ゲー」という言葉は、単にユダヤの地だけを指すのではでなく、全世界を意味しています。そのとき暗闇が全世界を包んだという意味なのです。
旧約聖書で預言者アモスは「その日が来ると、と主は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする」(8章9節)と預言しました。それは、終末に際してやがて来たるべき、救い主の到来を前に、人類が経験するであろう闇でありますが。今日のところでは、終末の預言を彷彿とさせるような闇が全世界を覆うのです。

そして3時頃、イエスさまは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と大声で叫ばれました。

絶望的といえるこの叫びは、今日に至るまで多くの人の信仰の躓きともなってきたのは事実です。イエスは十字架で敗北者の叫びをあげ無残に死んだ。救いの業は失敗に終わったのだという人たちも多いのです。
ユダヤ教でもそうですが。イスラム教もイエスを預言者の一人とは認めても、メシアだとは認めていません。ではどうして私たちはそのようなボロボロになぶり殺しにされた十字架のイエスに救いを見出すのでしょうか?それはまさに神の子であるこのお方が、人間の救いがたいような闇の奥底にまでくだられた。人の深い苦しみ悩みを知られ、耐え難い痛みをその身に負われた。そこに「共におられる」インマヌエルを見るからです。

先日、シリアのアサド政権が反体政派への空爆に毒ガス、枯れ葉剤などの極めて残虐な化学兵器を使用し、その多くの被害者は一般の市民であり子供たちであることがとても直視することのできないような映像とともに報道されました。それから間をおかずして、アメリカ軍がこのシリアのアサド政権の軍事基地に向けて大量の空爆攻撃をしました。人道に反する化学兵器を使用したことへの制裁処置と、その正当性を主張し、日本の安部首相もそのトランプ大統領を支持するとコメントしておられますが。ほんとうにそれでいいのでしょうか。アメリカの空爆によってもシリア市民や幼い子供たちが巻き込まれ貴い命が奪われたことがすでに伝わっています。さらに憎しみが憎しみを生む連鎖が生じ、この機にISの温床となり、テロが増幅していく脅威となっていくことを、ほんとうに恐れ、何とかその闇の方向へ向かわないための道筋が立てられていくようにと祈るばかりですが。遠い国の小さな出来事などではなく、権力や体制の下で、ものの数にしか数えられない、すべて私たちの叫びにつながっています。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫するほどに苦しみ痛まれたイエスさまの叫び。それは、蔑ろにされ、踏みにじられ、排斥されるすべての人々。置き去りにされ、小さくされるすべての人々。そして罪深く肉体的限界を生きざるを得ない人間。それは私たち一人ひとりへの神の共鳴です。ここに私たちは救いを見出すのです。

次いで、前の32節以降のイエスさまが十字架につけられる場面では、そのイエスさまに向けて、人々が代わる代わる「神の子なら、自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない。そうすれば、信じてやろう」などと罵倒する者たちがいたことが書かれていますが。
それは厳しい現実世界を見るにつけ、人が「神の救いはどこにあるのか」「神なんかいないじゃないか」という憤りであり、神に反駁するような人の罪でありますけえども。そのような不信の中で、イエスさまは「エリ、エリ」(わが神、わが神)という叫びを聞いた人々は、エリヤを呼んでいると言う者もおり、その一人が「海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒をつけて、イエスに飲ませようとし」、他の人々は「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったとあります。それはイエスの痛みを和らげるという同情からではなく、イエスが自分から延命を望んでエリヤの助けを求め、エリヤが助けに来るかどうかを試すためにそうしたのです。

物見高に何がおこるか伺う、そうして神を試みるような人もいたわけです。けれどもイエスさまはエリヤを呼ばれたのではなく、酸いぶどう酒も一切受け取られませんでした。その痛みと苦悩をどこまでもご自身に負われ、そして遂に「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです。
「神よ、なぜですか」、という問いかけに対して神の答がないまま、最期までその痛みと苦悩を身に負って死なれたのです。
イエスさまはとことん人間のもっとも深い苦悩と痛みを身に負われたということであります。実はここに私たち主イエスを信じている者にとっての救いと平安の根拠がございます。預言者イザヤの書53章5節「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。
「神の子であられるイエスさまがわたしの最も深い苦悩と痛みをその身に共に負われ、死なれた」。「わたしの痛み、わたしの傷が神の子イエス・キリストの痛み、苦しみとつながっている」。この共におられる神だからこそ、わたしたちキリスト者は救いの希望を見出し得るのであります。

さて、イエスさまがそのように息を引き取られた後、聖書は、63節「そのとき(原語では「そして見よ」と感嘆詞)、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と記されています。

「神殿の垂れ幕」は、聖所と至聖所、つまり神殿の聖なる所と神が臨在なさる最も神聖な所とを仕切るもので、年に一度大祭司だけがこの垂れ幕の奥にある至聖所に入ることが許され、民のために罪のための犠牲をささげました。ところが、イエスさまの壮絶な十字架の死によって、この仕切りの垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたというのです。ご存じのように聖書はイエスさま以前の旧約とイエスさま以後の新約に分かれているのですが。旧約の時代には人は罪を犯す毎に牛や羊といったいけにえを捧げ、その罪が贖われることを願っていました。これが古い契約です。しかしそれでは罪深い私たち人間の根本的救いにはなりませんでした。しかしそういった旧約の時代が終わり、イエス・キリストの贖いの血による犠牲によって赦しと救いがもたらされた。すなわち新しい契約の時代が到来した。神殿の垂れ幕が真っ二つに避けた出来事はそのことを象徴的に表しているのです。

そのことについてヘブライ人への手紙9章11節にこう語られています。
「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
さらに10章19節に「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」
「新しい生きた道」。それはキリストによる新しい命の道です。今日のところに地震が起こり、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返り、主イエスの復活の後には、都に入って多くの人々に現れた、とございます。
イエス・キリストの贖いの業によって新しい時代、救いの恵みによって新しい命に生きるときが始まったのです。私たちはその新しい契約の救いの時代に生かされているということですね。それは何と幸いなことでしょうか。

さて、イエスの十字架刑を実際に執行した責任者であったローマの百人隊長と兵士たちがここに登場していますが。彼らはこれらの出来事を見て、非情に恐れ、「本当に、この人は神の子であった」と言うのであります。無残にも神に見捨てられたように死なれたイエスさまを、罵り嘲っていた者たちが、「本当に、この人は神のであった」と告白するのです。
それまではユダヤ人、それも大祭司といった人しか神のおられる至聖所に入ることができなかったわけですが。それが十字架の主イエスの血と死を通して、ユダヤ人以外の
異邦人、すべての人が、主の深い御憐れみによって神のおられる至聖所にキリストを通して入れるようになったという大いなる恵みを、このマタイ福音書は私たちに示しているんですね。十字架の受難と死をもって主イエスが私たちに代わりその罪の裁きを受けて死なれた。そのことによって私にも新しい生きた道が、新しい命の道が開かれていることを唯々感謝するばかりであります。

最後になりますが。55節には「また、そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」と記されています。
十字架の主イエスのその最期まで見守り続けていた大勢の女性たち。「彼女たちはガリラヤからずっとイエスさまに従って来て世話をしていた人々である」とあります。
主イエスと弟子たちとともに神の国の到来を待ち望んで仕えてきたこの女性たちは、主イエスと共に、十字架にかかるほど心を痛め、苦しい思いをしたでありましょう。
次週の話になりますが、復活された主イエスは打ち砕かれた彼女らに、その復活の栄光、神の御救いを顕わされるのです。
旧約の時代には決して聖所に入ることの許されなかった女性もまた、この主イエスによって隔ての幕が取り除かれ、神の至聖所に招き入れられる幸いな人とされたことがここに表明されているんですね。

今日、主イエスの十字架上での御言葉を私たちは頂きました。
使徒パウロは次のように述べています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
この主イエスのお姿に神の義(ただ)しさと、血を流されるまでの慈愛を仰ぎ見つつ、私たちもまた、来たるべき主が来臨なさる日まで、新しい命の道を歩み続けたいと切に願います。今週もここからそれぞれの馳せ場へ遣わされてまいりましょう。

祈ります。
主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにならえたのですか」と絶叫されるまでに苦悩し、痛んで、血を流して死なれたことによって、私たちが神さまと和解し、新しい命に生きる道をあゆむことができます。神さま感謝します。
一方で、未だに私たち人間の現実の世界では、暴虐、殺意、憎悪、略奪、搾取、蹂躙が繰り返され、イエスさまを十字架にはりつけにした事と同様の罪が絶えません。わたし
たちも決して無関係とは言えません。主よ、私たちの罪をおゆるしください。
あなたが、一番のお望みなっておられることは、すべての人たちが神さまあなたと和解し、新しいに命に与って、主の救いと平和の福音がこの地に満たされていくことと信じます。
どうか、主よ、私たち一人ひとりがあなたの御心を知り、祈り、御心を行なう者となるとができますように、導きお守りください。
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