日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪の天王寺駅近くにある創立64年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂が完成しました。ぜひお立ち寄りください!

主は生きておられる

2016-09-18 22:17:15 | メッセージ
主日礼拝宣教 列王記下5章1-19節a   

先週の礼拝で「戸を閉めて神と一対一に向き合って祈る」というお話をいたしました。どうですか、実践してごらんになりましたか。実践された方は如何でしたでしょうか。イエスさまは聞くだけでなく行う者になりなさい、とお勧めになりましたが。実践する人だけが受け取ることのできる祝福があります。本当に大切な事なら時間を割いてでも作らないともったいないですね。いろんな問題や悩み、多くの仕事を抱えている時こそ、「神と一対一になって向き合う」時を確保する。そうすることによって、守り導いてくださる神の御業を見せていただくことができます。先週礼拝で読みました列王記下4章33節にあるとおり、「主に祈る」という恵みの特権が与えられていることは、まことに大きな支えでありますよね。

「主の先立ちと導き」
さて、本日は列王記下5章より「主は生きておられる」と題し、聖書の言葉に聞いていきたいと思います。ここにはイスラエルの預言者エリシャとアラムの軍司令官ナアマンの物語が記されています。アラムとは現在のシリアのことです。今日もイスラエルとシリアとの関係はよいものではありませんが、この当時も争いの中、一時的に停戦状態であったようです。
アラム(シリア)の王の軍司令官ナアマンは重い皮膚病を患っていました。彼は戦闘
の勇士であったのですが、患ってからは自宅で療養していたのでありましょう。そんなある日、彼の妻がイスラエルの召使いの少女から思いもよらぬ言葉を聞くことになります。その少女曰く、「北イスラエルのサマリアの預言者のところに行けば、ご主人様のその重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と、そのように言うのですね。妻はすぐいさまそのことをナアマンに伝え、ナアマンはその話をアラムの王に伝えるのであります。
驚いたことに5章の冒頭1節には、王がナアマンを重んじ気に入っていたのは「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである」とあります。アラムの王は異教の神々を信奉していたのですが、ここから読み取れますのは、彼も又知らざる神を畏れる者であったということではないでしょうか。そういうことでアラムの王はイスラエルの王宛に手紙を書き、ナアマンはその手紙と贈り物の金や銀、さらに晴れ着をもってイスラエルの王を訪ねたのであります。
 ところが、その手紙を見たイスラエルの王は、アラム王の政治的な策略と見て取り、衣を裂くほどに憤慨しました。                                                     
そのことを知った預言者エリシャはイスラエルの王のもとに人を遣わして、「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と伝えます。結局イスラエルの王は申し出に許可を与え、ナアマンはエリシャのもとに向かいました。
ここまでが本日のお話の前段であるわけですが。
一つ気づかされたのはナアマンの妻に仕えていた少女の存在です。この少女の働きかけがなかったなら、今日のエピソード自体起こりえなかったでしょう。そこに主なる神さまが国や民族を越えて御自身の栄光を顕わそうとご計画されていたのだということが示されています。このイスラエルの少女は捕虜として異教のアラムの地に連れてこられながらも、生ける主への信頼を持ち続けていました。彼女はきっと主人ナアマンのことを主にとりなし祈ったのではないでしょうか。そこで少女はイスラエルの預言者エリシャの存在とその働きについて思い起こし、女主人に話したのでしょう。
少女にはイスラエル対アラムという国や民族の確執などよりも、主人であるナアマンの
病気がいやされることの方が重要だったのです。
そして預言者エリシャもまた、懐疑心に捕らわれ憤慨するイスラエルの王の思いとは裏腹に、神の栄光がこの異邦人の上にも顕わされることを望みました。エリシャは「主が生きておられ、全世界をすべ治めたもうお方であることを証しする」その機会と捉えていたということですね。

「信仰へ至る道」
さて、ナアマンは数頭の馬と共に戦車にのってエリシャの家に来ました。停戦状態とは
いえ警戒心が働いていたこともあるでしょう。けれどもそれにも増して、療養中の身であるとはいえ、主君に重んじられ、気に入られていた王の軍の司令官としてのプライドといいますか、勇ましさを誇っているかのように見うけられます。
ナアマンはエリシャの家に着くと、その入り口に立ってエリシャが家の中から出迎え
るのを待つのですが、エリシャ本人は中から出てまいりません。ただ使いの者が出てきて、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と、その言葉が伝えられたというのです。
 この対応に対してナアマンはこう言います。
「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上に手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流の水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」。彼は身をひるがえして、憤慨しながら去っていった、とあります。
プライドがくじかれたナアマンの気持ちもわかる気がします。出迎えることもなくただ使いの者を送って言葉だけを伝えたエリシャの態度は非礼のようにも思えます。しかし先ほども申しましたが、エリシャは自ら衣を裂いたイスラエルの王のもとにわざわざ
人を遣わして、「その男・ナアマンをわたしのところによこしてください」とそう言いました。エリシャには考えがあってのことだったのです。そのことはまた後でお話する
として。
さて、ナアマンが腹を立て帰っていくその途中で、彼の家来たちが近づいて来ていさめたとございます。これもまた不思議な感じがいたしますが。その家来たちの判断と
賢明な態度も先の少女と同じように、やはりこれも主の導き、お取り扱いと言わざるを得ません。
家来たちはナアマン司令官にこう言います。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」。これはもう
本当に信仰者の言葉ですよね。
家来たちにいさめられたナアマンは、「神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸します」。するとどうでしょう。「彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった」というのです。
ヨルダン川に身を浸す。それはバプテスマを受ける者の姿のようであります。そしてまた、小さい子供の体のように柔らかな皮膚にされたナアマン。それは生まれたての赤ちゃんのように、彼は新しい人として生まれ変わったことを象徴しているかのようです。事実ナアマンは川から上がった後に、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と、その神を大胆に告白します。

古き人であったナアマンは、エリシャを通して示された神の言葉をまともに受け入れることができませんでした。司令官として王の命令に従うことは出来ても、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」といういとも単純な指示には、それがあまりにも簡単なことであるがゆえに受け入れることができませんでした。そんなことで治るものか、人を馬鹿にしている。
神さまはエリシャをして、ただ御言葉のみを与えることで実はそのナアマンの信仰を試されたのではないでしょうか。ナアマンの体を元に戻し、清くするのはエリシャではなく、生ける神、主御自身であります。ただその主の言葉を信じ、単純に受け入れて、その通りに行なう信仰が求められていました。そうですよね。神さまの救いの御業は教会に通えば与えられるのでしょうか。牧師が祈ったら受けるんでしょうか。たくさん努め
よく奉仕したら与るのでしょうか。そうではありません。救いの力は神の御言葉、ただこの聖書の言葉にあるのです。

一旦は憤慨しつつその場を立ち去り帰ろうとしたナアマンでしたが。家来たちの言葉に耳を傾け、聞き入れる事ができたのは幸いでした。イエスさまは、「だれでも子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)とおっしゃいましたが。人が神に救われるために必要なものは一体なんでしょう。特別な知識や教養、学問が必要でしょうか。むろん誤った解釈を避けるためにそれもあった方がよいでしょうが。それはおいおい学んでゆけばよいことです。何より大切なこと、それは主の言葉、福音の言葉を「聞いて受け入れ、信じて行なう」。その事に尽きるのであります。

「主は生きておられる」
さて、そうしていやされ生ける神の栄光を体験したナアマンですが。彼は神の人エリシャに対して、「今この僕からの贈り物をお受け取りください」と申し出たところ、エリシャは「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退したとあります。
 この「主は生きておられる」ということと「わたしは受け取らない」ということとはどういう関係があるのかと思われるかも知れませんが。エリシャは「ナアマンを清くしたのはわたしではなく、生ける神さまなのだから」と言っているのですね。
エリシャは自分が神のようになって、称讃され神格化されることに対して生ける主を畏れていましたから、そのような誘惑から離れるように努めていたのではないでしょうか。今日は読みませんでしたが、このエピソードの終盤、従者ゲバジがエリシャと同じように「主は生きておられる」と言うのですが。ところが彼は自分が働いたからこのことが起こったのだ、として当然のように報酬を要求するのですね。怖いですね。これは神さまの栄光を横取りしているんですね。先日のリオのオリンピックのサッカーで最終的にゴールを決めたネイマール選手が表彰台で「100%ジーザス」のはちまきをしていましたが。あれはまさに100%主イエスが働かれたことであるとして、主にすべての栄光をお返しする姿だったんですが。その姿に非常に感激したわけですが。
私どもも又、何らかの働きをした時、神の御業が現わされた時、それを主がなして下さったこととして100%主にお返しするものでありたいものです。
 さて、信仰告白をして信仰生活のスタートを切ったナアマンは、エリシャにいいます。「らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。」
それはイスラエルの地、ヨルダン川で自分の身に起こったことをいつも思い起こして、忘れないためであり、自分の家で主なる神を礼拝するためにその土が役に立つと考えたからでしょう。新しい人として生まれ変わったばかりのナアマンには不安や心配の思いが強くありました。この記念の地の土を持っていけば、きっと信仰の力になると考えたのでしょう。
またナアマンは続けてこう言っています。「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません・・・ただし・・わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき・・わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません・・・主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」。
ナアマンは異教のアラムの王に仕える軍司令官でした。一国の王がリモンの神殿(アッシリアの雷を祀った偶像神)にひれ伏すとき、彼は王の介添えをしなければならない立場でした。その際、彼も王と一緒に神ならざるものにひれ伏さなければならなかったのです。そういう信仰的な戦いが今後待ち受けていることを、神の人エリシャに打ち明け、神の赦しを乞うたのです。
 異教の地、神ならざるものを神とあがめ信奉するような世界に帰ってゆかねばならなかったナアマン。これは決して人ごとではありません。この国で仕事をしようとする
時、なにがしかのこういった問題に直面した方も少なくないでしょう。そういう不安を抱えていたナアマンに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と彼を送り出します。エリシャはナアマンの願いに対して、その信仰をあるがまま受けとめます。そうです、ナアマンはまだ生まれたばかりの神の子、神の民でした。エリシャはアラムの地でナアマンが神の子、神の民として救いの業と信仰をしっかりともって生きることを願い、祈りつつ、主にお委ねしたのでした。「安心して行きなさい」。
 かの地にいても主は生きておられ、信じて従う者を知っていてくださる。そう確信して送り出したに違いありません。

最後に、選びの民イスラエルの歴史とそのあゆみについて描く旧約聖書の時代に、
一人の外国人がいやされることで、生ける神が讃美されるというこのことから、私たちは何を聞くことができるでしょうか。私たちの主イエス・キリストはガリラヤで伝道をお始めになるにあたりイザヤ書を引用してこう言われました。マタイ4章15節「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダンの川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
異邦人のナアマンは救いを記念するため土を持って帰りましたが。今や私たちは、主イエスの十字架を仰ぎ見るとき、この世界のどこにおりましても、国や民族の違いに関わらず、愛とゆるしを与えんとしてくださる神さまの救いを知ることができます。主は
人を分け隔てなさることなく、一人一人大切な存在として今日この日を招いておら
れます。エリシャが申しましたように、「わたしの仕えている主は生きておられる」。
この生ける主の招きに応えてまいりましょう。祈ります。
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大阪教会バザーのご案内

2016-09-15 21:24:49 | お知らせ


日時 9月22日(木・秋分の日)午前10時30分-午後2時30分

会場 日本バプテスト大阪教会(日本バプテスト連盟)
  
   JR/大阪市営地下鉄・天王寺駅より谷町筋を北(一心寺・四天王寺方向)へ徒歩5分。


   掘り出し物もあるかも。
   みなさまのご来場を心よりお待ちしております。
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祈り・真剣に向き合う

2016-09-11 20:09:58 | メッセージ
礼拝宣教 列王記下4章8節-37節 

列王記下4章には預言者エリシャの4つの奇跡が記載されておりますが。そのどれもが日常的な問題、病や飢えや欠乏、生と死に対してなされたものであることがわかります。
神の奇跡の御業は実は私たちの身近な問題の中に現わされるということです。
その中の一つは、預言者の夫を亡くした貧しい女性の助けを求める叫びに応え、与えられたものでした。債権者が来て肩代わりに2人の子供を連れ去ろうとしているという、まあ大変な状況でしたが。
エリシャはその女性に、近所から沢山の器を借りてくるように伝えます。彼女の家にはたった1つ、油の入った壺があるだけでした。彼女がエリシャの言ったとおりその1つの壺から油を注ぐと借りてきた器すべてに油がいっぱいになります。それを聞いたエリシャは、その油を売り、負債を払うように伝え、残りの油で生活していくことができる、と保証します。こうして2人の子どもたちは奴隷に取られることなく救われたという奇跡でした。
そして本日読みました箇所は、シュネムの地に裕福な婦人がおりまして、エリシャを神の人として待遇していたのですが。彼女に子供が与えられるもある日突然頭が痛いといって母親の膝の上で死んでしまった。その子供がエリシャの取りなしの祈りによって生き返ったという2つ目の奇跡であります。ちなみにこのエピソードの後には、死に至らす毒ウリの毒を消し、食することがでたという3番目の奇跡、更にわずか20個の大麦のパンで100人もの人たちが食べ、おなかを満たすことができた奇跡と続きます。
忘れてはならないのは、これらの奇跡が44節に「主の言葉どおり」とありますように、それらのすべてが主によってなされたということであります。
エリシャは取りなし、祈り、御言葉を伝えますが、奇跡の御業は神ご自身によって起こされるということです。主なる神こそが命の源であり、すべてを司るお方なのです。

さて、本日は祈りがテーマであります。今日の箇所の奇跡は、最初の預言者の妻に起こった奇跡と共通していることがあります。
それは、どちらも「戸を閉じ」(戸を閉め)て、という言葉が出てくることです。戸を閉めるとは外との関係を遮断するということです。4節でエリシャは預言者の妻に言います。
「戸を閉じて子供たちと一緒に閉じこもり、器に油を注ぎなさい。」
彼女はエリシャのもとから出て行くと、戸を閉め子供たちと一緒に閉じこもり油を器に注いだ。一方シュネムの婦人の話では、21節にあるように「死んだ子供の体をエリシャの部屋に横たえ、戸を閉めて出て行きます。そして彼女は夫にさえその事は言わず、まっしぐらに神の人エリシャの元に来て足にすがりついたとあります。そしてさらに33節には、エリシャが「死んで寝台に横たわっていた子どもと二人だけになって主に祈った」とあります。その時彼は外との関係を遮断して死んだ子供を見ると、中に入って戸を閉じ、2人だけになって主に祈った」とあります。このようにいずれも、外との関係を一時遮断し、真っ直ぐに、一心に主に向かったのです。

新約聖書のマタイ6章6節で、主イエスさまはこうおっしゃっています。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
イエスさまは大変多忙な中、しばしば山に退かれて祈られたのです。それは人の思惑が渦巻く雑然とした世界、その外界を遮断して一時山に身を隠して、集中して一対一で「父の神に祈る」ためであったのですね。神の人と呼ばれたエリシもそうでした。彼も神の助けなくして何事もなしえないことを知っていたがゆえに、神との深い交わりをもつため戸を閉め、主に祈ったのです。
 私たちも又、様々な問題の前に右往左往するしかない時があります。けれども、そこですべてを司っておられる主なる神の前にまず出て、主と向き合うことが大切なのではないでしょうか。奥まった自分の部屋で、差し向かいで主に一心に祈り、対話する時間を持つことの意義を今日のこの箇所から受け取っていきたいと思います。

さて、エリシャは真剣勝負で主に祈り、「死んで寝台の上に横たわっていた子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込んだ」とあります。すると「子供の体は暖かくなった」と。そしてさらに、エリシャが家の中をあちこちと歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子供は7回くしゃみをして目を開いた」というのです。

なんとも不思議なお話のよう思えますが。そこに流れているメッセージとは何でしょうか。
戸を閉じて、真剣に神と向き合って祈ったエリシャは、今度はその子供に相対して口と口、
目と目、手と手を重ね合わせて真正面に向き合っているということです。そのとき子供の体は暖かくなりました。これはある意味人のぬくもりが伝わったというふうにも読めます。本気で真剣に向き合うと、人の息づかいとかぬくもりとかが伝わるものです。けれどもそれだけでは命は取り戻されません。
エリシャはあちこちと家の中を歩き回ったとありますが。この落ち着かない様子はエリシャのこの時の心境を表しているようにも思えます。命を司るのは神であり、人がどれだけ努力したとか、長時間祈ったとかではどうにもできないんですね。何だ、先ほどの話と違うじゃないかとお思いになるかも知れませんが。神は、イエスさまがおっしゃったように祈りを確かに聞いておられるのです。それは間違いないのですが、最終的決定権は人がどんなに祈ろうとも人にではなく神にあるということです。エリシャはこの時、その事実に直面せざるを得なかったのではないでしょうか。そうして神にゆだね、謙遜な心で今一度その子に身を重ねた時、人の思いを遙かに超えてお働きになる神の力によってその子の命は取り戻され、7回くしゃみをして目が開いたというのであります。
なぜくしゃみなのかと思いますが。くしゃみは息を吸わない限りでません。
その息とはギリシャ語でプネウマ。それは神が人を創造された時に神ご自身の息を吹きかけることによって人は生きるものとなった、と創世記に記されています。7は完全数、つまり神の息がこの子供のうちに完全に吹き入れられたということですね。くしゃみは生きているという証です。

今日のお話の中で、エリシャから杖を預かった従者のゲハジが、「杖をその子供の顔の上に置いたが、声も出さず、何の反応もなかった」とありますが。一体エリシャとの違いは何であったのでしょうか。彼はおそらくエリシャの杖に力があると、思い違いをしていたのではないでしょうか。真の力は杖にあるのではなく、命の基なる神にあります。
私たちも世にあって、このような魔法の杖を拝む誘惑や罠が満ちています。神の人エリシャ様の杖なら万能で何でも思い通りに叶う。そういうものに私たちも心引かれやすい者です。もしここで、その杖によって子供が息を吹き返したなら、神の人エリシャの霊験あらたかな杖として崇められたでしょう。しかし神はそうされませんでした。しかしそのことによってエリシャは神の御言葉を伝える預言者として祈り、ゆたかに働くことができたのです。

今日私はこの4章から「祈り・真剣に向き合う」という宣教題をつけましたが。この箇所から、私たちもまたエリシャのように、まず主の前に謙虚にされ、主の栄光が現わされることを求め、祈る者とされたいものです。主は私たちが真剣に祈る祈りを聞いていてくださり、何が最善であるかをご存じで、万事が益として働くご計画をお立てになることが出来るお方です。また主は、私たちに必要なことを示して、それを受けとめたり、行うために必要な愛と力とを備えてくださるでしょう。

最後に今日の箇所から、戸を閉じて神の前に祈る。神と一対一で向き合い祈る大切さについて聞いてきました。それは社会と断絶することや、世の中から逃避することではありません。それとはまったく逆に、世にある私たちが主にあって生きるためであり、又、様々な関係性の中で共に生きるものとなるためであります。そのためにこそ、戸を閉じて一人になってまず主と向き合い、主に祈って主の御言葉に聞く必要があるということなのです。そうして人の間に遣わされていく者となるのです。でないと、真の神の愛と力を受けたり分かち合ったりすることはできません。

D.ボンフェッファーは「共に生きる生活」という名著の中で、「交わりと孤独」についてこういう言葉を残しておられます。
「多くの者は、ひとりでいることを恐れて、交わりを求める。彼らはひとりでいることに耐えられず、その焦燥感ゆえに人々の中へ入っていくのである。・・・中略・・ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。神があなたを呼んだ時、あなたはひとりで神の前に立ったのではなかったか。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかったのではなかったか。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らなければならなかったのではなかったか。・・・中略・・・・
 しかしこれとは逆の命題もまた真実である。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。あなたは教会の中へと召されたのである。その召しはあなたひとりに向けられたものではない。あなたは、召された者の共同体の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのである。あなたはひとりではないのだ。われわれは、交わりの中にいる時のみ、ひとりでいることができる。そして、ひとりでいることのできる者だけが、交わりの中にいることもできるのである。」

何とも含蓄のある言葉ですが。私たちもまた、主の前に一人で、主と向き合い祈るときがほんとうに必要なのです。忙しく慌ただしさの中にあればあるだけ、ひとりになって心を主に向けて祈る時が必要なのです。そこからまた主に召しだされた者として、問題や課題と向き合い、さらに隣人と向き合う愛と、主に取りなし祈る力を頂くのであります。

新会堂が建って11月で3年になろうとしていますが、ほんとうに新しい会堂が与えられたことによって、主のすばらしい御業を日ごと見せていただき感謝なことです。けれども本当に幸いなのは、主イエスの救いと神の愛をここで共に確認できる幸いがある。又、主に祈りとりなし合う神の人に取り囲まれているという幸いがあるということです。
私たち大阪教会が今後さらに「主に祈る」教会、又、祈りとりなすひとりひとりとなって主の栄光を表すことができますように。その祈りをもって、今週もここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。祈ります。

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朽ちない種による新生

2016-09-04 17:54:47 | メッセージ
礼拝宣教 ペトロ一1章13-25節

本日は召天者記念礼拝として先に主の御もとに召された会員会友を偲びつつ、御遺族又、教会の兄弟姉妹と共に、復活の主に礼拝を捧げることができます幸いを感謝します。
先程召天会員会友のお名前が読み上げられました。
昨年の9月以降3名の方々が主の御もとに旅立って行かれ、大阪教会の召天会員会友者の名簿に加えられました。ご遺族、そして教会にとりましては寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じ、復活の主の御名を心から賛美いたします。

昨年も申し上げましたが、本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は会員でクリスチャンであられても、ご自身はクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおいででしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。

昨年10月に丘の家が改装され大阪教会の記念室、通称「希望の家」が完成いたしました。それはYさんが天に召されるその日、きれいに改装され覆いが取り除かれたその「希望の家」を、いそいでスマホの写真とビデオに収めてYさんの病床で、「今日記念室ができましたよ」と、お見せして主にお祈りをしたその後、安らかなお顔で天国に帰っていかれたのです。

さて、本日は召天者記念礼拝ですので、従来の列王記下から一旦離れて、ペトロ一1章から「朽ちない種による新生」と題し、聖書のメッセージに耳を傾けていきたいと思います。
まず、わたしがこの箇所を選ばせて頂きましたのは、ここには主イエス・キリストの十字架による救いと復活の希望がはっきりと語られているからです。またここには、福音の知らせによって「新たに生まれた者」、クリスチャンの新しい生き方が語られており、故人を偲びつつ私共もまた、その歩みを確かにされるべく招かれていることをここから聞いていきたいと、願っております。

今日の礼拝の冒頭で読まれた招きの言葉は、ペトロ一1章3節~4節でした。
「主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」。礼拝がまさにそうですが、クリスチャンの生活はまず神への賛美からすべてがはじまります。人はみな創造主、すべての造り主であり、命の基である神を知り、ほめたたえるために造られ、生かされています。
しかし、そうは言っても神への賛美は、私たち人間の内側からなかなか出来るものではありません。かえって不平や不満が口をついて出てきてします。それが罪のため神を見失った私たち人間でありましょう。それでは如何にして私たちは人間本来の神をほめたたえる存在へ立ち返ることができるのでしょう。
それは3節後半から4節にございますような、神の愛と救い、そして計り知れない恵みを得ることによってであります。「神の豊かな憐れみにより」。この憐れみという言葉は元のギリシャ語では最も大きな憐れみと、最上級のことばが用いられています。そのような神の最上級の憐れみによって、「わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え下さった」。もっとわかりやすく言いますなら、イエス・キリストの死者たちのうちからのよみがえりを通して、私たちを生ける希望へと移してくださった、その恵みであります。そしてそれは又、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださるためであるという恵みであります。さらには5節にあるとおり、新しい人として生かされている今、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力、すなわち聖霊と信仰によって守られている、そのようなくすしき恵みと希望のゆえに、神への感謝と喜びが満ち溢れ、神をほめたたえずにいられないのであります。
神をほめたたえる賛美の歌は、まさにそのような神の御救いによるものです。その喜びは、地上における試練の日々に練りきよめられ、キリストが再び現れる来臨の時には、称讃と栄光とほまれをもたらす、という希望のゆえにクリスチャンは言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれるのですね。それは9節にありますように、信仰の実りとしての魂の救いを受けているからであります。
さて、本日の13節で、ペトロは「だから」と言葉を続けて、神への賛美から、次は神の恵みへの応答を説きます。それはまず神を賛美する者とされたことによって、勧めのことばに聞く者とされるのです。この順序が大事です。まずのです。この順序は逆ではありません。まず心に溢れる喜びと希望があって、勧めの言葉に従い得るのです。

その勧めの第一は、13節「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み(救い)を、ひたすら待ち望みなさい」ということです。それは、すべての希望をそこにおきなさいという勧めであります。
 ここの「心を引き締め」とは、括るという意味で、ある事柄に備えて、着物の帯をしっかりと締め直すことを表します。日本では「かぶとの緒」を締めるとか、「ふんどし」を締めてかかるとか、受験生など「はちまき」を締め直すなどといいますよね。そのように、やがて訪れるキリストの再臨、神の国の到来に備え、霊的に目をさましておくように、という勧めです。
私たちの信仰の先達もそれぞれにその神の約束を信じ、来たるべき時に備えて、あたかも着物の帯をしっかり括り直すように祈り、御言葉に聞き備えていかれた事でしょう。
私はそのように闘病生活が続く中で、それでもイエス・キリストが現れるときに与えられる恵み(救い)を、切望しつつ天に召された信仰の先達のお姿を今でも思い起こすことができます。

勧めの第二は、17節「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」ということです。

クリスチャンはこの地上での営みは仮住まいであり、永住すべき故郷があることを知っています。神を知らず生きる人は、この地上がすべてで、そこに安住することに執着します。人はあらゆるものをそろえ、倉に納め、保証を得ようとしますが。問題はそれらのものによって本当に平安を得ることができず、社会の状況や取り巻く環境、不測の
事態にそれらを失う不安や心配ばかりが膨らんでいくとしたら、それはどんなに残念な人生であるでしょう。私たちの人生はほんの先のことでさえ何が起こるかわかりません。ましてやいつその終わりの日が訪れるのかもわかりません。すべては天地万物をお造りになり、治めたもう神の御手のうちにそのご計画によって時が定められています。命の源である神の存在を知っているか、知らないかでは天と地の違いがあります。
すべてをご存じで、正しくお裁きになられる方がおられることを知るのはある意味厳しいことかもしれません。しかしその神の義と共に神の最上級の憐れみ、すなわちイエス・キリストにある赦しと救い、復活と希望を見いだすとき、この地上はもはや仮住まいであり、神を畏れて生活することが如何に「平安と安らぎ」をもたらすものであるかを自ら体験する者となるのであります。神を畏れて生きる。そこに人間にとって幸いな最高の道がございます。

勧めの第三は、22節「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」ということです。
新改訳聖書でそこを読みますと、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」と訳されています。「真理を受け入れて、魂を清め云々」という新共同訳ですが。原語は「真理への従順」ですから、新改訳の「真理に従うことによって、たましいを清め云々」の方がしっくりとくるように思います。真理であるキリストに従うことによって魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった、それがクリスチャンですけれども、しかし現実に、私たちはそのように「偽りのない兄弟愛を不断に抱く者となるのはそうそう簡単なことではありません。
また、「清い心で深く愛し合いなさい」というのは、もともとは「清い心を尽くし、全力で愛し合いなさい」という原意なのです。そう考えますと、この勧めに重荷さえ感じてしまうと思われる方もおられるでしょう。誰も気の合わないような人、自分にとって不快な思いを与えられた相手とはあまり関わりたくないと思うものです。
ただここで、「清い心で深く愛し合いなさい」と勧められるこの「愛」はアガペー、神の愛なのですね。「神の愛によって愛する」という意味なのですね。まさに神を認めず敵対し、裁かれ滅びる以外になかった罪人の私たち人間のために十字架の苦難と死を通して、滅びから贖い救いとってくださった神の愛なのです。その神の愛によって「深く愛し合いなさい」と勧めているのですね。
先週の水曜日の朝の祈祷会のときに、研修神学生が「どうしても祈れない人がいるときには、その相手が喜んでいる笑顔を思い浮かべて祈ってみられるといいかも知れません」とお勧めくださったのですが。それはとてもよい方法だと思います。相手が喜ぶ顔を思い浮かべる。それはその人が神の祝福に生きる姿であり、そこから神の愛における赦しや和らぎが祈るその人の心にまず起こされてくるでしょう。何よりも聖書はそのように深く愛し合うことの根拠を、救いの福音によって新しくされたその恵みにおいています。

23節「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。

こうして新たに生まれ者に、神さまはアガペーの愛をもって深く全力で愛し合うことを期待しておられるということです。
ここの「朽ちる種」とは、一時地上に花を咲かせても虚しく散っていく人生です。それはどんなに美しさを誇ったとしても、やがては枯れて、散っていく虚しい人生です。

ペトロは神の言葉の永遠性について、イザヤ40章6-8節を引用しながら、「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」と言いました。

この手紙を受け取ったのは、小アジアの各地に離散して仮住まいをしていたクリスチャンたちでした。彼らはそれぞれローマ帝国の迫害と苦難に遭っていたのですが、その同心の友らに対してペトロは、預言者イザヤの言葉をして、「厳しい迫害はいつまでも続くものではなく、一時的なものである」と知らせたのです。そして、神の言葉が永遠に変わることがないように、神に希望をおいて信じ続ける人たちの救いとそれに伴う栄光は、とこしえに変わることがない、と伝えたのです。

今日の宣教題を「朽ちない種による新生」といたしました。朽ちない種とは、神の変わることのない生きたみ言葉、いのちの言葉のことです。朽ちない神の言葉、主イエス・キリストの救いと希望によって私たちは生かされています。私たちの本国は天にございます。仮住まいであるこの地上における限られたときを、「清い心で深く愛し合いなさい」という勧めを受け入れ、さらなる福音の恵みの種まきを内に外になし、育んでまいりましょう。

信仰の先達のお一人おひとりを偲びつつ、私たちも心引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをアガペーの愛のうちに、ひたすら待ち望んでいきたいと思います。
祈ります。

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神の前に如何に生きるか

2016-08-28 22:57:34 | メッセージ
礼拝宣教 列王記上21章1~24節 

先週は北九州での全国壮年大会に参加でき感謝でした。教会の消滅という辛く悲しい体験をされた北九州地方連合では、地域共働プロジェクトを立ち上げ、教会間交流や祈りと連帯をして、互いに近隣教会のことに関心を寄せて関わりあうことをとても大切にされているお話を伺い、元気を頂きました。

本日は列王記上21章の「ナボトのぶどう畑」をめぐるエピーソードから「神の御前に如何に生きるか」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
ここには4人の登場人物が出て参ります。まず農夫のナボト。彼はイズレエルの地におけるぶどう畑の所有者であります。それから北イスラエルの王アハブとその妻のイゼベル。そして預言者エリヤであります。
アハブ王はイスラエル人でしたが、先々週お話しましたように妻イゼベルはシドンの国王の娘でありました。彼女は異教のバアル宗教を持ち込み、アシュラ像を北イスラエルの都サマリヤに建てさせ、偶像崇拝を持ち込みます。それはイスラエルの人々にとって罠となりました。人々はいつの間にやら自分たちの救いの神と、バアルのご利益宗教とを混同してしまうようになったのです。それは私たちと関係がないとはいえないでしょう。この世の中にはあらゆる偶像、神なぬもの、それは人、もの、地位や名誉もそうです、自己もそうです、それを神のように奉る偶像崇拝があふれています。神の愛から引き離すそのような力や働きかけにNO!と、否といえる信仰を今日のナボトとそのエピソードから聞き取っていきたいと思います。

「ナボトのぶどう畑を巡る問題」
さて、アハブ王はサマリヤを夏の都にしていましたが、冬の宮廷をイズレエルに持っていたと言われています。そこで王は宮殿のそばにあったナボトのぶどう畑に目をけるのであります。
 王はナボトに、「お前のぶどう畑を譲ってくれ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」と話を持ちかけます。まあこういう要求の仕方は一般的に考えれば、王としては丁寧であるようにも思えるのですが。それに対してナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と返答します。
「嗣業の土地」とは「神の約束として与えられた地」であり、神から「代々に亘って守り治めるように託された土地」のことであります。
神の律法には、「嗣業の土地を売り渡すことはできない」と定められていました。神に託されているわけですから人の思いつきや判断でそれを売買するものではありません。それゆえナボトは、「たとえ王さまであろうと嗣業の土地を引き渡すことはできません」と、はっきりと断るのです。
それを聞いたアハブ王は、「ナボトの言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった」と記されています。まあ駄々子のようですが、ここには王ですら神の戒めに従わなければならない、ということが示されています。

「神の律法を知らなかったイゼベル」 
まあこうしてアハブ王は引き下がり事は終わったかに見えたのでありますが。ところが事態は王女イゼベルの介入によって一変いたします。
 王から事情を聴いたイゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と王に言い放つのです。
イゼベルの郷里シドンでは王の権威は絶対的でしたので、おそらく彼女はこの事態に大変憤慨したのでしょう。彼女にしてみれば、イスラエルの律法などは固苦しい決まりに過ぎず、自分には関係のないことでした。ですから、「ナボトからぶどう畑を取り上げること」に対して何の抵抗もなかったのです。神ならざるいくつもの偶像を拝し、物質的繁栄を追い求めていくような国で育ったイゼベルには、すべてを治めたもう生ける神への畏れの念などありません。彼女は王の権力を笠に着て、無実のナボトを罪に陥れ、抹殺し、そのぶどう畑を奪い取るという恐ろしい策略を立て、実行したのです。
 アハブ王は全面には出てきませんが、彼はイゼベルの策略を後方から支持したという点において、同罪でありその罪を免れ得るものではありません。そうしてアハブ王はイゼベルによって、自らは直接関与することなくナボトのぶどう畑を手にします。イゼベルもまたアハブに借りを作り、彼の心を手中にしてコントロールしていくのです。生ける神を畏れないイゼベルの欲望は留まることを知りません。

「罪の裁き」
さて、「ナボトが死んだとの知らせを聞いたアハブ王は直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下っていきます。その時、主の言葉がエリヤに臨みます。「アハズ王に裁きを告げよ」と主はお命じになります。
エリヤは主の言葉どおりアハブ王に、「あなたは人を殺したうえに、その所有物を自分のものにしようとするのか」「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」と宣告するのであります。

主はすべてをご存じでした。アハズは「主の前に如何に生きたか」が問われたのです。
アハブ王はイスラエルの主を知り、律法の何たるかを知らされていながら、20節にあるように、「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」のです。そのことが厳しく裁かれます。「イゼベルにそそのかされたのだ」といえばそうかも知れませんが、彼は主の目に悪とされるその恐ろしい策略が実行されることを知っていながら、そのれに身をゆだねて罪に手を染めたのは事実であります。それはまさに、十戒にある「殺してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人のものを欲してはならない」との4つもの戒めをアハズ王は破ったということです。これに主は非常に厳しい裁きをもって臨まれます。それは又、アハブ王のみならず、その指示に従ったイスラエルの長老と貴族たちも同様です。主の目に悪とされることを知りながら身をゆだね、指示されるままに偽証を工作してナボトを死に至らせたのですから。神の律法は、偽りの証言をして冤罪を作り出すことに対して、厳格に戒め、それを禁じています。それを知っていながら主の目に悪とされることに長老たちや貴族らも身をゆだねたのです。それはたとえ一国の王であろうとも、神さまから託された嗣業の地を売り渡すことを拒んだこばナボトとは何と対照的であり、その罪は大変重いという事であります。

「神を畏れて生きる」
次にそのナボトについて見ていきましょう。
彼のぶどう畑の土地は、先祖から引き継がれたものでありました。そこには彼の先祖たちの眠るお墓があったかも知れません。けれどもそれ以前に、神から与えられた約束の地として代々に亘って守り続け、治めるよう託された土地であることを、彼は主の御前に果たすべき責任として認識してしました。彼はアハズ王に対して、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」ときっぱりと断りました。たとえ相手が王であろうとも売り渡すことはできない。ダメなものはダメ。ナボトの主への信仰はほんとうにまっすぐで骨太なものでした。

しかし、「主にかけてわたしにはできません」と断ったために、彼は嗣業の地だけでなく、自分の命までも失ってしまうことになりました。このナボトの最期は、この世的に人の目から見れば実に悲惨極まりないものであったといえましょう。彼は神に対して忠実に生きようとしたのに、「イスラエルの神と王を呪った」という根も葉もない濡れ衣を着せられ、石で打ち殺されたうえ、嗣業の地まで奪われたのですから。
 彼は明らかに無実であり、冤罪でした。ナボトがもし、主なる神でなくアハズ王を恐れて、「わたしの土地を譲りましょう」と言っていたのなら、彼は平穏無事であったでしょうし、その生活も補償されていたことでしょう。けれどもナボトはそのような生き方になびかず、唯、主なる神をこそ生けるお方であると信じ、従ったのです。
 王の権力に屈することなく、主の掟に忠実に生きたナボト。神に従い、生きようとするとき、世の力との戦いが生じます。それは時に孤独な戦いであります。ナボトはならず者らから不当に訴えられた時、誰からも擁護や弁護もされず、ひとり孤独に石で打ち殺されたのであります。 
それは、無実の主イエス・キリストが十字架につけられて殺された、そのお姿と重なります。イエス・キリストはユダヤの社会にあって、弱い立場におかれていた人々、差別や偏見を受け苦しんでいた人々、罪人とよばれていた人々、外国人や病の人々と、日夜出会われ、いやしと解放をもって神の国を宣べ伝えられました。   
しかしそのことが、いわゆる自分たちこそ正当派だと主張するユダヤ人たちから恨みと妬みを買い、イエスは神を冒涜したという偽りの証言によって不当に裁きの座に引き出されました。そしてユダヤ民衆までもがこぞって、「イエスを十字架につけろ」と叫び出し、遂にイエスさまは十字架につけられました。あのナボトがそうであったように、主イエスは父なる神さまの御心に従っていかれた、その結果、無残な最期を遂げられたのです。
しかしそれは、まさにそのことで人の罪が露わになり、その罪のため罪無き神の子が死なねばならなかったという、その神の義と愛によって、私たちがほんとうの悔い改めと救いとに導かれるためであったのですね。主の十字架を見上げるとき、私たちはナボトのように神に従う人の死がどれほど価高く尊いものであるかを知らされるものであります。

「久山ワークキャンプに参加して」
最後になりますが、今年も福岡県糟屋郡久山町にある重症心身障害児者施設・久山療育園のワークキャンプに参加してきました。このワークキャンプも今年で27回目となるそうですが、今年も小学生から80代の方々の老若男女100名を超える参加者がありました。
毎年ほんとうこういう素敵な出会いとゆたかな学びの場が提供されているのです。
プログラムは、実際に入所されている方々のことを知る体験学習やふれあいのとき。職員の方や保護者の方のお話を伺うことができます。又、福岡市内街頭に立って「街頭募金」のお手伝いもするのですが、これも多くの方々の善意と出会えてうれしい時間です。今回は久山療育園のためではなく熊本地震で被害に遭われた障害者施設への寄付を呼びかけ、小中学生たちに混ざって街頭に立ちました。そしてメインは療育園周辺の草刈ワークでありますが。これがかなり厳しい暑さとの戦いでもあるのですが、後にもたれるバーべキューを楽しみに汗を流します。
 今回それらのプログラムの中で特に印象に残ったのは、久山療育園に今年16歳になるお子さんを通所されているお母さんが次のようにお話しなさったことでした。「相模原市の障がい者施設で殺傷事件が起こりました。その加害者は、『役に立たない人は排除したほうがいい』という思いで犯行に及んだということですが。わたしの子どもも重い障がいを抱えて生まれました。子どもに手はかかる。思いを汲み、常に見るから手はかかる。けれど手がかかる、ただそれだけでしょうか?この子は生きるのに一生懸命。その子の存在によって私は支えられ、生かされています。私はこの子に「生まれてきてありがとう」って心からそう思い、感謝しています。人は一人じゃない。だれも支えられて生きている。犯行に及んだ加害者にはその気づきがないのではないか」と、実際の日常のご経験からこのような言葉をわたしたちにも発してくださったんですね。
 この事件は、何でも目に見える効率や成果、又経済原理によって、人の価値や評価までも決めてしまうような私たちの社会の病巣を映し出しているように思えます。役に立つかどうか。お金になるかどうか。そんな判断基準ばかりが横行するならこの世界は何と殺伐としたものでしょうか。
 久山療育園はミット レーベン「ともに生きる」という標語を掲げて今年で40年となりますが、わたしたちはだれひとり、一人じゃあ生きることはできない存在であるということを、この久山療育園の働きをとおしていつも教えられます。
 天地創造の記事の終わりにこうあります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」神さまは人が「役に立たないから排除する」なんておっしゃっていません。人が神さまに成り代わっていのちに優劣をつけることは大きな罪です。私たちは神さまに愛されるために生まれ、ともに生きるために存在しています。
 今日はナボトのぶどう畑のエピソードから「神の前に如何に生きるか」を聞いてまいりました。神さまが私たちに託されている嗣業の地を私たちも又、受け継ぐものとして立てられています。
それはまさにイエス・キリストとその救いの福音を基とした神の国であります。父なる神の御心に聴き従い、隣人を自分のように愛する。主イエスはそこに「律法全体と預言者とがかかっている」おっしゃいました。ナボトの骨太の信仰に倣い、「神の前に如何に生きるか」そのことを、神が与えてくださる出会いや体験、関わりの中に見出す者とされてまいりましょう。祈ります。
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どっちつかずの民に

2016-08-14 15:27:56 | メッセージ
主日礼拝宣教  列王記上18章20~40節 (平和をおぼえて) 

本日は平和を覚えての礼拝として主に捧げています。
先ほどSさんから戦争体験を通しての貴重な証言・あかしを伺いました。
戦争を知らない世代が増えていくなかにあって、過去の過ちを繰り返さないために
も、実際に戦争をご体験された方からの貴重な証言をお聞きすることができ感謝します。

本日の聖書箇所は、バアルの預言者450人と主の預言者エリヤとの真の神を巡る対決の場面でありますが。アハブ王はエリヤの要請どおりバアルの預言者450人をカルメル山に集めました。
 そこでエリヤはすべての民に近づいて問いかけます。
「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」
 ところが「民はひと言も答えなかった」というのです。
 それはまさに、民がどっちつかずの状態であったということを表していました。

先週申しましたように、アハブ王は異国の王女イゼベルと政略結婚しました。それにより北イスラエルの地にイゼベルが持ち込んだバアルの神殿を建てて拝んだり、アシュラ像を建立したりとしていくうちにその民たちも惑わされて、主なる神から心が離れていったのです。人々は護国豊穣をもたらすとされるバアルの偶像礼拝をなし、主の目に悪とされることを行っていました。
 エリヤは王や民の心が神ならざるものに向かっていることが嘆かわしくてなりません。人々は、主なる神さまを忘れてはいないけれども、バアルも大切だと、まさにどっちつかずの宙ぶらりんの状態にあったのです。

明日8月15日この国の71回目の終戦記念日を迎えますが。
戦時中の教会は、クリスチャンであることと日本国民であることとの間で自らを問われました。そのような中で、天皇を現人神として拝することと、教会で主なる神を礼拝することとが混在していった近代の歴史があります。
それは、エリヤが民に問うた「どっちちかず」という問題性を今日のわたしたちの課題として示してします。
 戦時下という異常な状況の中でなされたことに、今のまがりなりにも平和のうちにいるわたしたちが安易に批判することはできませんが。そのような時代と過ちが二度と繰り返されることがないように平和の祈りと決意を新たにもつときとして覚えたいと願います。
8・15の平和祈祷集会(関西連合社会委員会主催)が大阪教会で行われます。こちらにもどうぞ足をお運びくださり、ともに祈りを合わせたいと願っております。

さて、エリヤは「どっちつかずに迷っている民」に対してある提案をします。
それは犠牲の裂かれた雄牛を、エリヤとバアルの預言者450人の双方の薪の上に火をつけず載せておいて、自たちの神の御名を呼んで火をもって答える神こそ神であるはずだ、というものでした。
 バアルの預言者たち450名は朝から真昼まで、祭壇の周りを廻りながらバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈るのですが、何の答えもありません。彼らが祭壇のまわりを飛び回って叫ぶ様子を見たエリヤが嘲笑って、「神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう」と挑発すると、バアルの預言者たちはさらに大声を張り上げ、剣や槍で体を傷つけ、血を流してまで必死にバアルの神に叫ぶのであります。それでも薪に火はつきません。
 一方主の預言者エリヤは、イスラエルのすべての民に向かって「わたしの近くに来なさい」と呼びかけます。民が彼の近くに来ると、エリヤはそこでまず何をなしたでしょうか。
 それは、バアルの神々を祀るために「壊された主の祭壇を、彼はすべての民の前で修復した」のです。このエリヤの行為は、神に罪を犯し荒廃していた民が自分たちに与えられた本来の祝福の源、「生ける救いの神の祭壇を築き直す」そのことを象徴的に表していました。
 
エリヤは31節以降にこのように行ったとあります。
「先祖ヤコブの子孫の部族の数に従って12の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築いた。そこに献げものの雄牛を薪の上において、4つの瓶の水を3回、合計これも12回という数ですが水を注いだ」のです。
 かつては同じ一つの民であった12の部族。それが北と南に分裂してしまったのですが。そのイスラエルの12部族の大本、その根源は、かつて囚われの奴隷状態から導き出された救いの神にある。その事がここに示されているように思えます。この光景はその場に集まった民のひとり一人に先祖より伝えられてきた「生ける主なる神」のみ恵みと慈しみ、又戒めをもしみじみと思い起こさせたのではないでしょうか。そういった彼らの魂といいますか、アイデンティティーの修復作業がここで丹念になされているということであります。

わたしたちクリスチャンも時に世の中の動きや力、誘惑や弱さの中でこの民のように主の救いの恵みを忘れ、どっちつかずのような状態になることはないでしょうか。
 そんな時、エリヤが主の祭壇を築き直したように、心の祭壇を築き直さなければならないでしょう。如何にわたしは主の憐れみと犠牲によって救い出され、どのように滅びから導き出されたかを思い起こす。わたしの救いの原点に立ち返ることの大切さを、ここのところは表しているんですね。
さらに、エリヤは主にこう祈ります。
 「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」
 ここでエリヤははっきりと民の先祖の名を連ね、「あなたがわたしたちの神であることをお示しください」と民の前で祈ります。
 主の預言者エリヤは、騒々しく自虐的なバアルの預言者たちとは対照的に、神によって与えられる知恵と霊性をもって、又、生ける主への確信をもって呼びかけ、祈るのであります。

そうしたところ、祭壇の上に主の火が降って、牛と薪は焼き尽くされたというのであります。
この主の火については、創世記19章で、主が偶像の町ソドムとゴモラの上に天から、硫黄の火を降らせ滅ぼされたとされる、その硫黄の火を示しているともいわれていますので、まあバアルの偶像礼拝における審きともとれますけれども。一方で、新約時代に生きるわたしたちは、あのペンテコステの炎、火を彷彿とさせます。贖いの犠牲の上に主の火が臨み、主がその栄光をあらわされた。それはわたしたちのための贖い捧げものとなられた主イエス・キリストによって聖霊の火が下り、今も注がれ続ける御霊の火です。焼き尽くされた犠牲の捧げものは、神の民に対する愛とご自身が情熱の神のであるということを物語っています。
それほどまでにご自身の民を、又、救いに与るわたしたちを愛しておられるということであります。
 さて、これを見たすべての民はひれ伏したとあります。このことをして人々のうちに聖なる主への畏れが生じたのです。彼らは「主こそ神です。主こそ神です」と繰り返し口にしました。イスラエルの民はそれぞれ、もはや世の権力や偶像によらず、又周りの人がしているからというのでもなく、自ら進んで「主こそ神、主こそ神です」と主体的にいのちの基となる神を告白して主を賛美します。
彼らは自分たちの依って立つ処、存在の源がアブラハム、イサク、ヤコブの神にあり、囚われの地より導き出した生ける主であることを再び見出し、主に立ち返る者となったのですね。
 エリヤが、「主よ、あなたが答えてくだされば、この民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」と祈ったそのとおりになったのです。主が民の「心を元に返した」という出来事は、まさにエリヤがまず民たちとともに壊れた主の祭壇を入念に修復して、救いと恵みの原点を思い起こさせ、備えていったからではないでしょうか。
 これはわたしたちにとって日常的にいえば、一緒に奉仕したり、作業したり、集会を持ったりすることもそうですね。もちろん礼拝や祈りの場はその最たるものでありますが。そうやって主の前に祭壇を築き直す作業が、主体的な信仰をゆたかに育んでくれるのですね。

今回のエピソードを宗教間の対立という構図で読みますと、本来のメッセージは見えてきません。この対決は、どっちつかずの民が、本来の救いの神に立ち返って生きるための戦いです。エリヤは民に命じ、バアルの預言者を粛清しますが。それは、救いを妨げる自分の中に潜む敵、罪と徹底的に戦うことの必要性を示していると読むべきでしょう。

先週は、やもめとエリヤのお話でした。
そこでの大きなテーマは、「何を第一とするか」です。
エリヤは一握りの粉でパンを焼き、息子と死を待つばかりというやもめに、「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と伝えます。
 エリヤを通して語られた主の御言葉の真意は、「まず、すべてを造り、すべてを治めておられる主なる神さまに、それを捧げなさい」ということです。エリヤは異教のやもめに生ける主なる神さまを指し示し、その「神に信頼をし、従って命を得なさい、きっとあなたがたを顧みてくださる」と、そう伝えたのです。
 エリヤはほんとうの神さまを知らないやもめに、生けるいのちの源なる神さまを示して、その神によって、いのちを得るよう促しました。やもめは神の言葉に全存在をかけて、「行ってエリヤの言葉どおりにした」のです。すると、「彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」のであります。まさに「何を第一としていくか。」「何によていのちを得るか」というメッセージが、実は今日の「戦い」のエピソードの中にも込められているのです。
 
今日わたしは生ける主を第一としているでしょうか。ヨハネ黙示録3章15節をとおして主はこのように警告しておられます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
 「神との交わり、人との関わり、生の全領域において、まず「神の国と神の義」を求めていくことが期待されています。わたしたちが心を定めてそのように生きていくところに、主の答えと祝福が用意されています。「主の祭壇を建て直す」ことが、どっちつかずのわたしたちが抱えるあらゆる問題の解決につながっていくのです。

祈りましょう。
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いのちの御言葉

2016-08-07 16:17:24 | メッセージ
主日礼拝式 宣教箇所 列王記上17章1~24節 

先週は青年の方々が礼拝のご奉仕を担ってくださり、主にお捧げすることができて感謝でした。又、目には見えませんがお花や受付、台所、お掃除と、世代を越えて共に教会を担い建てあげてゆくゆたかさと広がりを見せられたことも感謝でした。

さて、この8月は原爆投下と敗戦記念の月で、私たちは特に平和を覚えて祈る月間としています。10日ほど前になりますが、又、沖縄高江の米軍北部訓練所周辺で座り込み、軍事ヘリコプターの着陸帯で集落が取り囲まれることに反対の意思を示していた住民らが突如無理やりに排除され、運び出されるということがなされました。中には体調が悪くなり救急搬送された方もいらっしゃるようですが。辺野古でもキャンプシュアブでも、報道されていないのでその現状が見えません。このようなことが現実に起こっているのです。大阪に住む私たちは、原発事故の福島のこと、あの4月の大地震が起こった熊本のことさえも、いまやなかなか報道で伝えられてされていないので、どのような状況であるのかがわりません。痛みや苦しまれている方々の痛みと苦しみが除去されることこそ、私たちの平和につながっていくことになると信じます。イエスさまは「平和を実現する人たちは、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とおっしゃいました。それは自分が何事もなければよいというのではなく、共に平和を実現する人たちの連帯が示されています。
来週の8月15日の終戦記念日には関西地方連合のおとなとこどもの平和祈祷集会がもたれます。祈り心をもってぜひご参加ください。今年もそれぞれの教会や連合の平和礼拝や集会を経て、また8月を迎えて、与えられた平和への思いを、祈りをひとことにして送ってください、というバプテスト連盟平和宣言委員会より「平和の祈り」の依頼がきております。どうぞ、それぞれのお祈りをお寄せくださると幸いです。よろしくお願いいたします。

「御言葉の飢饉」
さて、本日は列王記上17章から「いのちの御言葉」と題し、聖書から聞いていきます。ここに登場するエリヤという人物は、紀元前9世紀前半、今から約3000年前の北イスラエル王国の預言者でした。彼は決して平和とは言いがたい時代の中で、神のいのちの言葉を語りました。
 その当時の北王国を統治していたのはアハブ王でした。このアハブ王は政略結婚によりめとった異邦人王家妻の影響で神ならざる偶像、バアルの神殿と祭壇を築きそれに仕えました。彼は北イスラエルのこれまでの王の中のだれよりも主の目に悪とされることを行い、主の怒りを招くことを行った、と16章の末尾に記されているとおりです。
預言者エリヤはその王に対して、主の言葉を語ったのです。エリヤの人となりについてはギレアドの住民でテシュベル人であったということ以外、何も記されていません。
彼が誰の子で、どういう家系かということについて何も触れられていません。それはこのエリヤという人が、何か身分や地位のある人から、あるいは権力のある人から遣わされたのではなく、直接「神から遣わされた預言者」であるということを表しています。
そのアハブ王にとってどこの馬の骨か知れないようなエリヤですが、アハブ王の前にただ一人で出て行き、臆することなく主の言葉をまっすぐにこう伝えます。
 「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで(主の御言葉が臨むまで)数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
 それは、アハブが主に罪を犯し、その民にも背信を犯させていることから起こるのだから、それらの罪を悔い改めるように、との警告であったのです。
 それにしても、まあ一国の王様の前でよくぞ言ったものだ、すごい度胸、勇気がある人かと思いますけれども。きっとエリヤだって不安や恐れがなかったわけではないでしょう。唯そこには確固たる神の言葉を示すべき悔い改めの機会があったということです。エリヤは地上の王ではなく、すべてを司る生ける神こそ真に畏れるべきお方であるということを知っていたからこそ、そのように振舞うことができたのではないでしょうか。

ところがアハブ王は「いのちの言葉」を受けても、神に立ち返ろうとはしません。彼は神の言葉を軽んじたのです。
ところで、神が天を閉じ、雨も降らず、露も降りない、となりますと、これは一大事であります。飲み水だけでなく、野菜も作物も採れなくなり、飢餓が来ます。けれども、それが単なる干ばつとして起こるというふうに読むと、ほんとうに大切なことが理解できません。この預言者エリヤが語った言葉に注目してみましょう。彼は「わたしが告げるまで(神の御言葉が再び臨むまで)数年の間、霜も雨も降らない」と言っています。
 つまり大地に露も雨も降らないこの危機的状況は、単なる自然現象ではなく、「神の御言葉の飢饉」であるということです。
 神ならぬ偶像を拝み、目に見えることだけを優先して利をむさぼってきたアハブ王は、神の御言葉がないということの危機的状況が全く理解できません。
 私たちを取り巻くこの今の時代の現象や諸問題の背景にも、このように神の御言葉がないという飢饉とその危機的状況があるのではないでしょうか。いのちの御言葉に生かされる私たちはそのことを見抜き、主の御言葉を乞い求めて祈り続け、御言葉が途絶えることがないように努めべく招かれています。

「神のお計らいと養い」
さて、アハブ王に神の御言葉を告げたエリヤに危険が及んだのでしょうか。
主はエリヤに、「ここを(北イスラエル・サマリア)を去り、東に向かい、ヨルダンの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」というお告げがありました。
 このケリトの川というのは、「断ち切られた小川」という意味があるそうです。その川のほとりはまさにその名のとおり、人里離れ、分断されたような、寂しい地でありました。当然食べ物も無いようなところで、誰だってそんな処に行きたいとは思わない場所であったのです。
 しかしエリヤは直ちにその御言葉に聞き従い、行動に移します。
するとまさに、お告げどおり、「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ」というのであります。それは御言葉に聞き従う者に約束された神の養いの祝福であります。

私どもも時に、ほんとうに神のみ心だと確信し歩み出したものの、まるでケリトの川のほとりのように、寄る辺なく孤独で、想像した以上に厳しい状況に留まる他ない時もあるかも知れません。けれどもほんとうに神の言葉に養われるのは、実にこういった時なんですね。送られて来た1枚の葉書に書かれた御言葉に力を得たり、何気なくかかってきたような信仰の友の電話に、希望を見出せた、というご経験があるのではないでしょうか。そんな時「ああ、主は私のことを覚えていてくださるんだなあ」と深い慰めと励ましを感じることでしょう。

ところで、烏が人間にパンや肉を運んでくるなんて何ともユニークです。天王寺周辺の烏といえば生ごみや残飯の入ったごみ袋を突いて物色し、辺りかまわず散らかしまくって去っていくという迷惑もの、嫌われものという印象があります。旧約聖書の中でも、烏は汚れた鳥として食べることが禁じられていたり、人の目を突き、荒れ果てたような地に住みつくことから嫌われ、不気味な鳥として見られていたのです。

そのような烏ですけども、実はイエスさまのお話にも登場します。
イエスさまは烏を引き合いに出しこうおっしゃいました。
「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」(ルカ12章24節)
神は烏にも深いご配慮といつくしみをもっておられるのです。烏も神がお造りになられた神の作品であり、愛されるべき美しいもの、神の目からご覧になれば、つまらないものでも、存在価値のないものでもないとうことです。イエスさまは敢えて空を飛ぶ鳥の中から烏を選び、神ご自身の私たちに対する愛と配慮を教えてくださいました。今日の箇所では、神はその烏をお用いになってエリヤを養われたというのですね。
身も心も疲れ果て、不安の中にいたエリヤ。神の御言葉を伝えても理解されない虚しさと孤立無縁のやるせない状況にあったエリヤに、、嫌われもののカラスが寄り添うように日々食物をもって養った。何という神のお計いでしょうか。「神のなさることは、その時に適って美しい」という伝道の書の御言葉が思い起こされますが。
 私たちも行き詰まったように思える時、万策尽きたと思いあぐねるその時、ある意味もう失うものは何も無いとの思いに至った時、私たちはそこで下を向き続けるのか、主を仰いで一日一日を主に養われて生きるのか。そこで人生の質は大きく違ってまいります。私自身今日、明日の食べるもの、生活の必要がどうなるか、という時に、不思議と必要が満たされた、という経験を幾度となくいたしました。そのような時ほんとうに主は私のことを覚えていてくださるのだと大いに励まされたものです。
 主は今も生きておられます。烏を用いてエリヤを養われたように、時に適った御言葉と共に生きる必要を満たしてくださるお方なのです。

聖書には、「神のお計らいと養い」についてもう一つのエピソードが続きます。
ケリトの川のほとりでカラスに養われたエリヤでありましたしたが、やがてこの地方に雨が降らなくなり、川は枯れてしまい飲み水もなくなってしまいます。

そのとき主の言葉が再びエリヤに臨みます。
8節「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。
今度もエリヤは主の言葉どおりに、立ってサレプタの町に行きます。この町は異教徒の地でありましたから、エリヤはそこに入ることに躊躇や戸惑いがあったと思われます。ある意味エリヤは御言葉に聴き従う信仰が試されたのではないでしょうか。しかし彼は主が言われたようにそこに入り、一人のやもめが薪を拾っているのを見つけると、「器に少々の水を持って来て、わたしに飲ませてください」と声をかけます。この時代薪を拾って生活していた人たちは非常に貧しかったということです。それをエリヤは知っていました。その服装から彼女がやもめであることもわかっていたのでしょう。エリヤは、この女性に「パンを一切れ、手に持って来てください」と願ったというのです。まあ、水を分けてくださいというのは許せるかも知れませんが、薪を拾っている貧しいやもめにパンを一切ください、というのはあまりに非常識といいますか、ずうずうしく思えます。

案の定このやもめは、「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしとわたしの息子の食べ物を作ってそれを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と答えたというのです。
そこまで言われると、普通人間的に考えればそりゃあ最もで無理も無いことと、相手を思いやることを優先するのではないでしょうか。
ところが、エリヤはそこで引き下がらないのですね。エリヤは彼女に「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」 そして、「主が雨を降らせるその日まで、ずっと壷の粉はつきることなく、瓶の油はなくならない」との主の御約束を伝えるのです。
すると、やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした、というのです。それは驚きではないでしょうか。今その粉でパンを作り、食べれば死を待つばかりの人が、このどこの誰とも分からない人の言葉どおりに、たとえ小さなパン菓子といってもそのような状況の中で作って持ってきたのです。主はエリヤを養われるのに、何も持たない、何も頼るものがないやもめをお用いになるのです。 それは、かえって神にすがる他ないような貧しい彼女だったがゆえに用いられた、といえるのかも知れません。逆に、これがゆたかで何不自由なく満たされて人であったなら、わずかな粉であっても祈りながら、神の言葉にかけて他人のためにパン菓子を作って持っていくことなど果たしてできたでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
彼女が主の御言葉に聞き従った時、「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壷の粉はつきることなく、瓶の油もなくならなかった」と聖書は伝えます。
いのちの御言葉に聞き従っていく人のうえに、神さまのすばらしい御計らいと養いがあること、そこに証しがゆたかに立てられていくのですね。

「主に祈れる特権」
烏とエリヤ、やもめとエリヤのエピソードから、御言葉に生きる人に臨む主の御計らいと養いについてのメッセージを聞いてきましたが。この17章の最後には、やもめの息子が病気で亡くなるという悲しい出来事が起こります。これには思わず「なぜ、どうして」と言いたくなりますが。悲嘆にくれるやもめの思いはいかばかりであったでしょう。夫を亡くし女手1つで子を養い、その成長だけが彼女の希望と慰めであったのではないでしょうか。
彼女がエリヤに「神の人よ、あなたはわたしとどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と痛烈な言葉で訴えます。クリスチャンであっても、予期せぬことは起こります。
「聖書の言葉、あるいはイエス・キリストとわたしがどんなかかわりがあるのか」と思ったり、「あの罪のせいだろう」と後悔に責めさいなまれたり、「なぜ神はそのような仕打ちをなさるのか」と感情的になることがあるかも知れません。そしてそんな自分を情けなく思ってしまうものです。
 けれどもエリヤはそんな彼女を一言も責めたりしませんでした。エリヤは彼女の悲しみとその息子の遺体をその身に重ね、主に必死に訴え、「命を元に返してください」と取り成し祈るのです。すると、主はエリヤの声に耳を傾けて、その子の命を元にお返しになった、というのであります。
ここでのエリヤは預言者というよりも神と人との間を取り持ち、つないでゆく祭司のような働きをなしているようにも思えますが。私がここで何より心を動かされますのは、エリヤがやもめと同じように感情をあらわにして「あなたは私が身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらされるのですか」と、激しく主に訴えているということです。又死んだ子どもの身を自分の身に重ねて3度祈ったとあるように、その子の哀れな姿の中に自分を重ねて彼は主に必死に訴え祈るのですね。生と死を司っておられる主なる神さまを一心に信じていたがゆえに、激しいほどに主に強く訴えているその姿であります。
 主は、その信じるがゆえに激しく訴えるエリヤ祈りの声に耳を傾けてくださるのです。
祈りは心の中で祈っていれば主がすべてをご存知なのだから聞いてくださっている、と思われる方もおられるかも知れません。しかし主は何よりも私たちの心のうちにあるほんとうの思いを心開いて表すのを待っておられるのではないでしょうか。ストレートな飾りのないほんとうの思い。心のうちにあるうめきや叫びをまっすぐに神のまえにさらけ出し訴えることを待っておられる。そのことがここに伝えられています。
 私たち主を信じる者にとってのすばらしい特権は「祈り」です。
先週の信徒研修会の中で、今給黎先生が「教会も社会の一部であり、からだ性をもつがゆえに様々な問題や課題があるということを認識する必要がある」ということをおっしゃったんですが。同時に何より幸いなことに、人と人との関係修復が人間の力によってはできないものがあるとき、私たち主に生かされた者は、主に祈り、取り成され、又、祈り合う中で、主のいのち御言葉と聖霊の導きが人知を超えて働かれる。その生ける恵みを私たちは体験することができるということですね。主が生きてお働きになられていることを共に知り、励ましを受けていく。そのようなキリストにある証しと平安を私たちは体験していく機会を教会をはじめとする、あらゆる関係性のの中で与えられているということであります。

 故郷を追われ孤立無縁の中にあったエリヤは、烏に、そして異邦人のやもめに養われ、こうして命が取り戻されるという出来事を目の当たりにすることで、エリヤはさらに神のいのちの言葉を語る預言者としての復活を果たしていきます。
 一方、やもめはエリヤの激しい取り成しの祈りによって、息子の命が元に返ったことによって、主の言葉は真実です、といのち言葉なる神への信仰告白を表明します。眞の主との出会いを経験した彼女の人生も新たなものとされたことでしょう。

 私たちも、世の日々の生活の中で様々な出来事が起こっていきますけれども、私たちの信じる主は、生も死もすべてを治め、私たち一人ひとりの存在を喜び、その一人ひとりの必要をご存知です。私たちのうめきも、痛みも、嘆きもその身に引き受け、知っていてくださる主をどこまでも信頼し、そのいのちの言葉と祈りの武具を身につけて、歩みゆくものでありたいと願います。
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「悲しみ」を本当に知る

2016-07-24 16:09:34 | メッセージ
礼拝宣教 サムエル記下21章1節-14節   

今日はサムエル記下21章から御言葉を聴いていきたいと思います。
ダビデ王の時代に3年間、ひどい飢饉が続きます。もともとイスラエルは雨が降らない時期が多いのですが、3年ともなれば井戸も干上がるほどで、穀物の収穫も厳しく、備蓄も底を尽きはじめた頃でしょう。
 そこでダビデが主に託宣を求めた。つまりお伺いを立てたところ、主はこうおっしゃいます。
「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある」。
 サウルはダビデ王の前王ですが、その前任の王がギブオン人に対して行った罪が清算されないまま放置されている。未だ罪が解決されていないということでした。
 
今日のこの箇所から神さまはどういうメッセージをお語りになっているのか?一週間祈り求めながら、聖書を繰り返し読み、黙想しました。

その中で一つ見えてきたことは、「悲しみ」を本当に知る、ということです。

ギブオン人は、イスラエル、カナンの先住民を代表するアモリ人の生き残りでした。ヨシュアの時代に、イスラエルの民はギブオン人と平和的な条約を主にあって結んでいました。イスラエルの民は決して彼らを殺さないと主に誓ったのです。ヨシュア記9:3-27に詳しいことが記されていますが。
しかし、サウル王は「イスラエルとユダの人々への熱情の余り、彼らを虐殺」しようとしました。
そのため多くのギブオン人が犠牲になったようです。
 これは確かにダビデの時代の事ではないのですが、ダビデはギブオン人を招いて話を聞くことにいたします。ダビデは彼らに会うと、真っ先に「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろう」と尋ねます。するとギブオン人は答えます。「問題なのは金銀ではありません・・・・わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、あの男の子孫の中から7人をわたしたちに渡してください・・主の御前で彼らをさらし者にします」。
 するとダビデ王は、「引き渡そう」と言ってそのとおりにするのです。
しかし、要求されるままにサウルの子孫7人を引き渡すことが果たして神の御心であったかどうかは、聖書には何も書かれていません。

ここを読んで思いますのは、ダビデは彼らのその壮絶な思いについて聞きながら、神に伺うこともせず、その場で彼らの要求どおりにする、と即答しているんですね。ダビデにはその問題の本質よりも、すぐにでも問題を解決したい、そんな一種の焦りのようなものがあったのではないでしょうか。
ギブオン人たちの心のうちにあった言い尽くしがたい悲しみを知ろうとすることより、とにかく彼らの要求を聞きだして問題を除去することをいの一番に考え、彼らの言うとおりにしたのかも知れません。ダビデは彼らの心の傷として残っている悲しみや痛みに向き合うことなく、ただ形だけの解決策をとったように思えます。イスラエルの国が、平和の誓いを破り彼らに負わせた悲しみや痛み。彼らの訴えの重さ。それはどれほどのものであったでしょうか。
 そのようなことを思います時、かつて私たちの日本が侵略戦争をしたことの罪責を思い起こさずにいられません。戦争の時代だったのだからということではとても済まされない、特に近隣諸国にへの残虐な行為は決して拭い去ることのできない歴史の事実です。にも拘らずそれが、だんだんと教科書から消されているようです。戦争の愚かさを伝えるそこ「ピース大阪」も、最近は日本がかつて犯した過ちについての資料がのきなみ展示から撤去されています。それが自虐的な歴史観で、国を誇ることを妨げているとする人たちとの中立性が保たれるためだそうですが。
「戦後補償」の問題はすでに国と国の間で解決されていると聞かされていますが、被害に遭われた人の悲しみと痛みは消えてはいません。被害者と家族は単に補償金だけの問題ではなく、国としての心からの謝罪の言葉を求めているのです。
 若い世代の人たちの中には、日本のした過去のこと、昔のことが今の自分たちのこととなぜ関係あるのか、と思う人もいるでしょう。私も戦争の悲惨さを知らない世代です。直接的加害者ではありません。けれども、いまだに被害に遭われた方とその家族の深い悲しみと痛みがいやされていないということを知らされる時、それは「神の前に罪責が清算されず、問われ続けている」ように思うのです。真実な和解が与えられていない。それは子や孫に続く次世代、将来に係わってくるでしょう。歴史は繰り返されるといいますように、過去の過ちが忘れ去られないようにおぼえ、また繰り返されることのないように罪を認める和解の道が必要とされています。二度と悲惨な殺し合いによる犠牲者、家族や友を失って悲しみ苦しむ人たちを作らないための責任が、この国の今を生きる者としてございます。

さて、ダビデは彼らの要求のとおり、早期解決を図りサウルの子孫7人を捕らえて引渡しました。
その7人の中に、リッパという女性とサウルとの間に生まれた二人の息子が含まれていました。
7人が処刑された後、彼女は荒布を取って岩の上に敷いて座り、空の鳥や野の獣が死者を襲うことがないようによう自分の息子2人だけでなく7人全員の死体を昼も夜も見守り続けるのです。
それは大麦の刈り入れの始まりの初夏から雨の降る10月頃迄の少なくとも6ヶ月間も続いたようです。暑い夏の突き刺すような日照りの中でも、7人の遺体が野獣や鳥などから食われ、ついばまれないように、リッパは大事に守り続けたのですね。彼女がどれ程その死を悲しんだかを知らされるわけですが。同時にそれは、サウル王の側女であった彼女のサウル王に対する忠義であったのではないでしょうか。

まあそうしておりますと、その6ヶ月もの間さらしものにされたサウルの子孫の遺体をずっと見守り続けた側女リッパの行いが、ダビデ王のもとに伝わります。

ダビデはそのリッパの行動に心動かされて、サウルの骨とその息子ヨナタンの骨を運び入れ、さらされた者たちの骨と一緒に、丁重にサウルの父キシュの墓に埋葬するように命じます。人々はそのとおりに行いました。ダビデはこうしてサウルとその子孫を丁重に埋葬したんですね。
 すると、「この後、神はこの国の祈りにこたえられた」。それはつまり、待望の恵みの雨が降り出し、飢饉はやみ、主の嗣業の地に再び祝福が取り戻されたということです。

ここで改めて気づきますことは、飢饉は単に7人が処刑されることによってやんだのではないということであります。
 サウルの側女リッパがさらしものにされた7人のからだを愛情と忠義を尽くして見守り続ける。その姿は、ダビデ王に真に心に留めるべきものを思い起こさせたのではないでしょうか。神の前でなされた誓いより人の誇りや情熱を優先された結果、なされた過去の罪責。そこに思いをいたす事よりも、早期の解決を図ることを優先したダビデに、神はリッパの姿を通して本当に大切にされるべきことをお示しになったのではないでしょうか。

ダビデのサウルとその子孫に対する弔いはリッパにとって大きな慰めになったことでしょう。
そうしてそこから起こる確執や争いはもはやなかったでありましょう。これらのことを通して、神さまはこの国の祈りに答えられ、この国の人々を苦しめていたひどい飢饉はやんだのであります。

最後になりますが。
今日の引き渡された7人の人々は、サウルの子孫とはいえ直接的なギブオン人の殺害とは関係がない人たちでありました。そういう人たちの命がギデオン人たちの命を償うものになったかどうかは甚だ疑問が残ります。ギブオン人たちの心はそのことで本当に晴れたのだろうかとも思います。いずれにしても、それはダビデとイスラエルの人々にとって過去の罪責からの解放にはなりませんでした。
なぜなら、その根本の問題がなおざりにされていたからです。
その根本の問題とは何でしょう。それはカナンの地にイスラエルの民が入植した、移り住んだヨシュアの時代に、神の御前で誓われた、「ギブオン人を殺さない」とする契約を、サウルが破り、彼らの惨殺に及んだ罪にあったということです。
 しかし、神さまは、リッパのさらされた7人の尊厳を守る姿とサウルへの忠義をご覧になられたのです。又、ダビデ王は彼女の姿から、神の御前に真に知るべき命の尊厳と神の義に気づかされました。そうしてダビデが心を込めて埋葬した行為の中に、神ご自身への真の悔い改めが表されたのです。こうして神との平和が築かれていく時、人と人との平和が、地のうえに祝福が与えられていくのであります。

私たちは今日の箇所を読む時、罪のない7人が捕らえられさらしものにされたその姿に、すべての人間の罪のために十字架にはりつけにされ、さらされたイエス・キリストのお姿を見るのであります。 

このお方を見上げる時、私たちは神の義と愛、そして人の尊厳の回復を知り、祈る者とされます。
「悲しみを本当に知り」、真の慰めをお与えくださるお方は、私たちの罪の身代わりとなり、罪の裁きと贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストである、ということをおぼえ感謝します。主イエスの十字架によって、私たちは神さまとの真の和解を頂いていることをいつも再確認して、この地にあって主の御救いの喜びと平和を告げ知らせ、証しするものとされてまいりましょう。
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「良い知らせ」のはずが

2016-07-17 15:13:09 | メッセージ
主日礼拝宣教  サムエル記下18章1節-19章1節 

先日、家の冷蔵庫の調子が悪くなり中が冷えなくなりまして、これも暑さのため遂に故障かと覚悟しておったのですが。その時ちょっとひらめいて、これまで氷を作る機能を全く使っていなかったので、この際氷ができるかを試してみたらどうか、とやってみたところ、氷が見事に出来たんですね。壊れていなかったんです。そればかりでなく、冷蔵機能をはじめ全体の機能がよく働くようになったんですね。これは一つの発見でした。
一つの機能の通りが滞っていたのを通してあげることによって、冷蔵庫全体の機能がうまく動き働きだした。これってまさに使徒パウロさんがコリントの手紙12章で、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」と、キリストの体なる教会について書かれた事と同じだなあと思わされました。
キリストの体なる教会において、「わたしも、あなたも、主に大切な存在として愛された人」、一人ひとりの存在が大切にされてこそ福音は実体となって教会も祝福され、証しが生まれてくるということですよね。今月末31日の信徒研修会には、このようなことについて共に学び合える機会が与えられておりますので、どうぞ祈りの備えをもってご参加くださるよう、お願いします。

さて、本日の箇所については先ほど読まれ、子どもメッセージもなされました。このストーリの粗筋についてはお分かりのとおりだと思いますが。しかしここから何を神さまからのメッツセージとして聞き取っていくかは難しいようにも思います。
そういう中で、特に目が留まりましたのは、「良い知らせ」という言葉が5回も記載されているということです。この良い知らせとは、ダビデ王に反旗を翻してイスラエルを分裂させ、王位を狙うダビデ王の息子アブサロムとその軍勢にダビデの側が勝利し、ダビデの王位は守られたということです。(昨日トルコで軍事部の一部によるクーデターが起こり鎮圧されたということでしたが。)今日の箇所で確かにイスラエルは分裂することなく、謀反を企てる者たちはいなくなったのですから、それはダビデ王とその家臣たちをはじめイスラエルにとって大いなる「良い知らせ」のはずでした。
ところが、勝利にわきかえる家臣・兵士らの思いとは裏腹に、ダビデ王はただ息子の死を悼んで嘆きます。
19章1節「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上りながら、『わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。』」と王としての立場もそっちのけになりふり構わず大声で嘆くのですね。ここに私は今日神さまが語りかけているメッセージが秘められていると思えたのです。

先週ダビデの犯した過ちについて記された箇所を読みました。自分の王位と権力を欲望のままに乱用したその罪の結果、ダビデはバテシェバとの間に生まれた子を亡くすことになるのです。さらに、ダビデの家に悲劇が続きます。長男アムノンが異母兄弟アブサロムの妹を辱めたことで、アブサロムはその憎悪と復讐からアムノンを殺害するのです。父ダビデの心痛は収まりません。そして、今度はそのアブサロムがこともあろうに父ダビデに反逆し、その王位を狙う者となるのです。
 ダビデは王宮から逃れ息子アブサロムから命をも狙われるようなことになりながらも、家臣らには、「若者アブサロムを手荒に扱わないでくれ」(18章5節)と命じていました。何ともダビデの境地は複雑であったことでしょう。しかし、ダビデは反旗を翻すアブサロムを敵とは見ていなかった。いや敵として見ることができなかったんですね。彼の死を知ったダビデはここで、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」とまで言っています。親バカといえばこんな親バカいるでしょうか。しかしこれがダビデという人なんですね。
 ダビデはこれまで家臣らの手前アブサロムのことを若者と呼んでいました。しかし彼を亡くした時、その本心から、「わたしの息子アブサロムよ」と5回もその名を呼び、深く嘆きます。ダビデにとって「アブサロムは一人のかけがえのない息子」であったのです。
けれどこの「わたしがお前に代わって死ねばよかった」という言葉には、その死をいたむばかりでなく、ダビデ自身の深い自責の念がこめられていたのです。
 このあまりに辛い出来事は、ダビデにかつての罪、先週のバテシェバの夫ウリヤの殺害の件ですね。それを思い起こさせたに違いありません。あの時に遣わされた預言者ナタンはこう告げました。「主は言われる。見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」 ダビデは自分の過ちや不甲斐なさのためにアブサロムが犠牲になった、自分こそその責めを負い、死ぬべき存在であったと、泣き崩れるように自分の罪を告白しているんですね。

19節で、ダビデの兵士アヒマアツは、王に伝える良い知らせについて「主が王を敵の手から救ってくださった」と述べています。家臣ヨアブやアヒマアツの敵はアブサロムでした。しかし、ダビデの敵はアブサロムではありません。ダビデにとっての敵は自分の罪でした。神の御心に従って生きることができない自分の不甲斐なさがダビデの真の敵であったのですね。
 どうでしょう。人は誰でも多かれ少なかれ戦うべきものがあります。そこで人を憎んだり、サタン呼ばわりしたり、ただ起こって来る事柄に勝った、負けたというのがクリスチャンの戦い方ではありません。大切なのは「私の戦いの本質は何か」「私は何と戦っているか」を知り、見きわめてることです。御言葉に聞き、祈る。それがクリスチャンの戦い方です。

先週、たまたま部屋を整理していて1枚の映画チケットが手元に残っていたのを知り、その足で「祈りのちから」、本題は「WAR ROOM」:戦いの部屋ですね、それを鑑賞してきました。今上映中ですので内容の詳細は控えますが。そこで改めて、わたし達クリスチャンには祈りという最強の武器が与えられている幸い。そして祈りは確かに神さまが聞かれ、応えられるという確信を強く頂きました。映画の中で特に考えさせられたのは、祈るとき、どこか見当違いの祈り方をしていないかどうかです。先ほど申しましたように、それは「私の問題の本質は何か」を知る必要があるということです。
 たとえば、これは一つの例ですが。自分のことをよく思わない人がいたとします。いくら自分の方から心開こうとしても、うまく意思疎通ができず悩み苦しんでいるとします。時にそんな相手のことがうとましくなり、逆に憎悪のような思いにかられ、敵の様に思えるようなこともある。そういう事が続くと、まあ人間的な思いでは相手のために祈る気持ちはもはそがれ、祈ることもできなくなっていきます。けれども、実はそういうときこそ、神さまの出番なのです。
 どういうことかと申しますと、こういった状況になりますと大概「神さま、どうかあの人を何とかしてください」とか「何かのきっかけが与えられ和解することができますように」など祈ると思うのですが。先に申しましたように、相手に対して祈る気さえそがれてきますと、仕舞いには「神さま、私にはどうすることもできませんが、私とあの人の間にあなたがご介入ください」としか祈りようがなくなります。実はそこから本当の祈りは始まります。
祈りとは私の願いを神に押し付けることではありません。否、私の人生、私の対人関係、私の病や問題、課題や願望までも、「神よ、あなたが介入してください、あなたがお働きください」と祈ることなのです。今年の大阪教会の標語はまさに、婚礼の席でぶどう酒が切れてしまった問題が起こったとき、主は、水をぶどう酒に変えて、その問題を解決され、栄光を顕されたように、「その主ご自身が御手を動かし、事態を変えてください」と願い、主の御言葉のとおり、水がめの中に水をいっぱいいれる、ということです。そこに、主のお働きを切に願い求める者のうえに、主はその栄光と解決の道を与えてくださる、ということであります。敵はあの人、この人ではありません。病そのものでも、問題そのものでもありません。神のお働きを妨げ、損なおうとしている力や働きこそが、真の敵なのです。
その戦いに主が勝利してくださることを確信して祈ることです。

新約聖書エフェソ6章10節以降にこうあります。
「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つこと ができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」

ダビデがここで、アブサロム自身を敵としていなかった、ということが今日のとっても大切なメッセージであると思います。真の敵は人ではありません。人を争わせ、不和や憎しみをもたらし、罪へ誘う悪の諸霊とその勢力です。神の愛から引き離し、人間らしく生きることを損なわせる世の力が今も働いています。けれども主はその世の勢力、悪の力に対してすでに勝利されたのです。そこで私たちに求められているのは、この主なる神さまに全幅の信頼をもって、あなたの勝利と栄光をあらわしてください、と祈ることなんですね。祈りとはそういった意味からいえば、霊の戦いであります。主なる神さまは、様々な問題がうずまく世にあって、私たちにその霊の戦いにおける最も大きな武器である祈りと信仰を与えていて下さいます。主イエスは言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
 すでに完全な勝利を成し遂げられた主にご介入頂いて、私たちも祈りを通してその主の勝利に与っていきたいと願います。

さて、今日の箇所からもう一つ思わされたことがあります。
それは、私たちの置かれている立場によって、その受け取る思いや気持ちは必ずしも同じものではなく、異なる場合があるということですね。「良い知らせ」を王に伝えたいと勇んで向かったアヒマアツ。けれど、それはダビデにとって良い知らせとはなりませんでした。ダビデはイスラエルの王という立場でしたから、わが陣営が敵に勝利したという良い知らせに対して、全面的に喜び、家臣たちの労をねぎらってやるというのが、まあ指導者としては求められているように思えますが。でも、ダビデはそれができず、息子アブサロムの死を嘆き続けたんですね。
 19章あとで家臣のヨアブは、勝利したのに悲嘆に暮れ、嘆き続けるダビデ王に、「あなたは、あなたの命を救ったあなたの家臣たち全員の顔に恥をさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか」とダビデ王を諌め、ダビデはイスラエルの人々と自ら心は一つであることを呼びかけ再び立ち上がるのです。

立場立場によって人の思いや気持ちが異なることは確かにございます。人の悲しみに対しても、それを自分が経験したことがなければ、その気持ちを察したり、自分のこととして感受することはなかなかできません。又、自分の気持ちに余裕がなく、しんどいときには、喜んでいる人の喜び、又幸せな人の幸せを共にすることがなかなか難しかったりするものです。かえって幸せそうな相手をねたんだり、やっかんでみたりする思いがわいたりすることさえあるでしょう。
 何故分かってくれないのか?どうしてそんな態度をとるのか?そういう言い方をするのか?と相手を責めたくなったとき、その相手の態度の中に、その人だけが知ること、感じること、その立場でなければ分からない何かがあるのかも知れません。主は一人ひとりのその心と思い、又祝福や平安を妨げている力をも知っておられます。そこに主のご介入を祈る、まさに祈りの必要性があります。

今日のお話から、「良い知らせ」のはずが、という題をつけました。血肉による戦いによっては解決するどころか、新たないさかいが生じるだけです。私たちとって最も価値あること、それは「主にあって霊の戦いに勝利する」ことであり、「私のうちに働こうとする罪や悪の力から、解放され、主イエスの救いにある平和と和解の喜びを頂くことです。それが得られるまで忍耐強く主のご介入を期待し、祈り続ける。そのようなクリスチャンとしての戦いを希望をもって日々続ける者とされてまいりましょう。
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権力のもつ罪の罠

2016-07-10 17:04:17 | メッセージ
礼拝宣教  サムエル記下11章  
                                                       
             
本日のサムエル記下11章にはダビデの生涯で最大の汚点ともいえる過ちが包み隠さず赤裸々に記されています。
先週、神の箱がエルサレムに運び上げられるということで、神の箱の回りを喜び踊ったダビデの純粋な信仰の姿を見たのですが。今回のダビデはまるで別人のようにも思えます。しかしそれは同じダビデであります。
              
神に油注がれて王に立てられたダビデともあろう人が、このような大きな取り返しのつかない過ちを犯した。いかに信仰心が厚く、正しい人であったとしても、いつ誘惑に陥って罪を犯すか分かりません。私たちは聖書の中に人の弱さと神の戒めとを見ます。           
新約聖書のペトロ一5章8節以降で、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがらのがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」とありますように、どんな時も主の御前に身を慎んで目を覚まし、誘惑の罠から逃れ得るよう信仰に踏みとどまる者となることを願います。

ダビデの場合、この時期、アンモン軍やアラム軍に勝利し、まさに王としてその権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。神の祝福はまさにダビデ王と共にあるそのような時にダビデは姦淫を犯し、それを隠すため画策し、それが失敗すると、その忠実な部下を騙して最前線に送り戦死させるのです。 
             
それはまことに皮肉なことに、先週のダビデ王がエルサレムの自分の町へ喜び踊りながら運び入れた、神の箱の中の十戒に刻まれた「殺してはならない」「姦淫してはならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」という4つの重罪をダビデ王は犯してしまったのです。
             
さて今日の箇所でダビデは、王たちが出陣する時期が来ても、戦いは部下のヨアブに任せ、自分はエルサレムに残って昼寝をし、夕方目が覚めるとひまつぶしに王宮の屋上を散歩したとあります。戦いを案じる必要がないほど彼に余裕の思いがあったのか知れませんが。家臣らが命がけで戦っている時に王は昼寝をし、高い所から町を見下ろしていたのです。そういう時に、彼は屋上から水を浴びている美しい女性の姿に目が留まるのです。彼女はウリヤの妻バト・シェバでした。
 たまたま大層美しい女性が水を浴びていたということで目がいってしまった。まあそれはそれとして、問題はダビデが人をやってその女が誰か調べさせ、兵士ウリヤの妻であると分かっていながら彼女を召しいれ、床を共にしたことです。これは、いかにダビデ王であっても許されない「姦淫」の大罪です。

ダビデは王でしたから、バト・シェバとの力関係は明らかでした。バト・シェバはその行為が神に罪を犯すことは知っていても、王に逆らうことはできませんでした。王に命じられるまま否応なく従う外なかったのかも知れません。

私たちの世の中においても、学校、スポーツ芸能界、警察、自衛隊組織、政界と、様々な組織や職場における上司や指導的立場にある者によるパワーハラスメントが問題になっています。それが表ざたになっているのはごく一部でしょう。大半は隠蔽され、被害者は泣き寝入りする他ない事が多いのではないでしょうか。宗教者も又、例外ではないでしょう。私も教会の牧師という立場を過つことがないよう、やはりこの「力」ということに対して絶えず自戒しておかねばと肝に銘じております。牧師の言うことは何でも正しいなんて、みなさんは思っていないとは思いますが、牧師も人間でありますから間違いや誤りはあり得ます。そういう時に牧師も信徒も日ごろから互いに対話できる関係づくり、祈りあえる土壌を培っていけるかどうかがとっても大切かと思います。聖霊の風通しのよい教会でありたいものです。

話を戻しますが。バト・シェバからの使いで、彼女が「子を宿した」ことを知ったダビデはそれを隠すためにその夫ウリヤを戦場から呼び戻し、家に帰って妻と共に過ごすように勧めます。そうすることで、彼女が宿した子が夫の子であるという理由づけになるからです。
しかしウリヤは、「神の箱もイスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と共にしたりできるでしょうか、わたしはそんなことはできない」と断るのです。ウリヤはそのように大変律儀で、忠実な人物であったようです。まあそのように断られたダビデは、今度はウリヤを招き食事を共にし、酒に酔わせた後、彼を妻の家に送るように企てます。しかしウリヤは王宮を退室し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかったのです。
王と同士たちに忠実であった勇士ウリヤと、自分の犯した大罪を力でもみ消そうとするダビデの姿とは、何とも対照的です。 
              
ダビデの工作は忠実なウリヤの態度によって2度も失敗に終わります。
そこで彼は過ちを隠すため遂に権力を最大限使ってウリヤを最前線に送り出して、他の兵士たちを退却させ、置き去りにして戦士させるという恐ろしい計画を企てるのです。しかもその書状をウリヤ自身に持たせ、彼が信頼を寄せる上司ヨアブに王の命令として送りつけるのですね。
あの羊飼いをしていた少年時代のダビデは、正義感が強く、神さまに信頼する少年でした。しかし王になり、権力を持つことによって、ダビデは神さまへの畏れや信頼を忘れ、大切なものが見えなくなってしまったのかも知れません。
              
イエスさまが荒野で試みに遭われた時、悪魔がやってきて、高い所にイエスさまを立たせ、世界の国々を見せて、「わたしには一切の権力と繁栄を与えることができる。もしわたしを拝めば、みんなあなたのものになる」と誘惑します。それに対してイエスさまは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕よ」と書いてある、とそのサタンの誘惑を退け、神の御心のうちに歩まれるのであります。
地位や権力、お金もそうでしょうが。ともすればそれらによって人間は囚われ、大切なものを見失ってしまうような力が働くということですね。

王となったダビデは、自分の犯した過ちまでも地位や権力によってもみ消したり、覆い隠すことができると、思い違いをしてしまったのかも知れません。待ち受けていたのは恐ろしい罪へのいざないでした。
   
結局、ウリヤは王に忠実に従って最も危険な場所に赴き、アンモン人によって殺されてしまいます。いや正確にいえば、ウリヤはダビデによって殺されたのです。ウリヤの死を知った妻のバト・シェバは、「夫のために嘆いた」とあります。その一言にこめられた彼の心の傷の深さ、心の複雑さ。
ダビデが犯した重罪は、バト・シェバ、そしてウリヤ、さらには共犯者にしてしまったヨアブに対してもそうであったように、権力をもつものがそうでないもを相手に、その力関係によって隣人の尊厳と生命を奪ったことにあります。

さて、ウリヤが死んだあと、喪が明けるとダビデはバト・シェバを妻にしました。そしてバト・シェバは子を産みます。世間の見た目には、当時のことですから、やもめとなった家来の妻を引き取ったダビデは、情け深い王として善を行ったように見えたでしょう。ダビデの工作はうまくいったように思えました。
 ダビデは力ですべてをもみ消すことができたと考えたかも知れません。しかし主の御目をごまかすことはできません。11章の最後には、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記されています。主はダビデの行った悪を見逃されません。

「主の十字架」
12章において、神さまは預言者ナタンをダビデの下にお遣わしになります。
 ダビデは主の僕ナタンに自分の犯した大罪を指摘され、ダビデはその責めを負うことになるのです。それはバト・シェバとの間に生まれた子の死でした。
ダビデは自分の犯した罪のために、わが子を失うこととなりました。その代価はあまりに大きなものでした。けれども、このことをとおして彼は人ではなく、自分の罪深さを本当に知り、心のそこから神さまに立ち返って悔い改めたのです。

実はここに、「主の十字架」の真理が啓示されているのです。御子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架にはりつけにされ、苦しみ痛みながら、私たちの罪の裁きを自ら引き受け、死んで罪のあがないを成し遂げてくださった。わたしたちが主の十字架を仰ぐとき、己の罪深さを知らされます。神の御心を痛めていたことに気づかされます。同時に主イエスにある救いの恵み、御神の慈愛、聖霊のご臨在を知るものとされます。
 
神は愛であり、義なる裁き主でもあられます。主はすべてをご存じであり、すべてを明るみにされるお方であります。
ガラテヤ6章7節-10節にこうあります。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来 て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族となった人々に対して、善を行いましょう。」

ここから、主イエスの御救いに応えて生きる私たちとされてまいりましょう。
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