日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪の天王寺駅近くにある創立64年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂が完成しました。ぜひお立ち寄りください!

神の前に如何に生きるか

2016-08-28 22:57:34 | メッセージ
礼拝宣教 列王記上21章1~24節 

先週は北九州での全国壮年大会に参加でき感謝でした。教会の消滅という辛く悲しい体験をされた北九州地方連合では、地域共同プロジェクトを立ち上げ、教会間交流や祈りと連帯をして、互いに近隣教会のことに関心を寄せて関わりあうことをとても大切にされているお話を伺い、元気を頂きました。

本日は列王記上21章の「ナボトのぶどう畑」をめぐるエピーソードから「神の御前に如何に生きるか」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
ここには4人の登場人物が出て参ります。まず農夫のナボト。彼はイズレエルの地におけるぶどう畑の所有者であります。それから北イスラエルの王アハブとその妻のイゼベル。そして預言者エリヤであります。
アハブ王はイスラエル人でしたが、先々週お話しましたように妻イゼベルはシドンの国王の娘でありました。彼女は異教のバアル宗教を持ち込み、アシュラ像を北イスラエルの都サマリヤに建てさせ、偶像崇拝を持ち込みます。それはイスラエルの人々にとって罠となりました。人々はいつの間にやら自分たちの救いの神と、バアルのご利益宗教とを混同してしまうようになったのです。それは私たちと関係がないとはいえないでしょう。この世の中にはあらゆる偶像、神なぬもの、それは人、もの、地位や名誉もそうです、自己もそうです、それを神のように奉る偶像崇拝があふれています。神の愛から引き離すそのような力や働きかけにNO!と、否といえる信仰を今日のナボトとそのエピソードから聞き取っていきたいと思います。

「ナボトのぶどう畑を巡る問題」
さて、アハブ王はサマリヤを夏の都にしていましたが、冬の宮廷をイズレエルに持っていたと言われています。そこで王は宮殿のそばにあったナボトのぶどう畑に目をけるのであります。
 王はナボトに、「お前のぶどう畑を譲ってくれ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」と話を持ちかけます。まあこういう要求の仕方は一般的に考えれば、王としては丁寧であるようにも思えるのですが。それに対してナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と返答します。
「嗣業の土地」とは「神の約束として与えられた地」であり、神から「代々に亘って守り治めるように託された土地」のことであります。
神の律法には、「嗣業の土地を売り渡すことはできない」と定められていました。神に託されているわけですから人の思いつきや判断でそれを売買するものではありません。それゆえナボトは、「たとえ王さまであろうと嗣業の土地を引き渡すことはできません」と、はっきりと断るのです。
それを聞いたアハブ王は、「ナボトの言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった」と記されています。まあ駄々子のようですが、ここには王ですら神の戒めに従わなければならない、ということが示されています。

「神の律法を知らなかったイゼベル」 
まあこうしてアハブ王は引き下がり事は終わったかに見えたのでありますが。ところが事態は王女イゼベルの介入によって一変いたします。
 王から事情を聴いたイゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と王に言い放つのです。
イゼベルの郷里シドンでは王の権威は絶対的でしたので、おそらく彼女はこの事態に大変憤慨したのでしょう。彼女にしてみれば、イスラエルの律法などは固苦しい決まりに過ぎず、自分には関係のないことでした。ですから、「ナボトからぶどう畑を取り上げること」に対して何の抵抗もなかったのです。神ならざるいくつもの偶像を拝し、物質的繁栄を追い求めていくような国で育ったイゼベルには、すべてを治めたもう生ける神への畏れの念などありません。彼女は王の権力を笠に着て、無実のナボトを罪に陥れ、抹殺し、そのぶどう畑を奪い取るという恐ろしい策略を立て、実行したのです。
 アハブ王は全面には出てきませんが、彼はイゼベルの策略を後方から支持したという点において、同罪でありその罪を免れ得るものではありません。そうしてアハブ王はイゼベルによって、自らは直接関与することなくナボトのぶどう畑を手にします。イゼベルもまたアハブに借りを作り、彼の心を手中にしてコントロールしていくのです。生ける神を畏れないイゼベルの欲望は留まることを知りません。

「罪の裁き」
さて、「ナボトが死んだとの知らせを聞いたアハブ王は直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下っていきます。その時、主の言葉がエリヤに臨みます。「アハズ王に裁きを告げよ」と主はお命じになります。
エリヤは主の言葉どおりアハブ王に、「あなたは人を殺したうえに、その所有物を自分のものにしようとするのか」「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」と宣告するのであります。

主はすべてをご存じでした。アハズは「主の前に如何に生きたか」が問われたのです。
アハブ王はイスラエルの主を知り、律法の何たるかを知らされていながら、20節にあるように、「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」のです。そのことが厳しく裁かれます。「イゼベルにそそのかされたのだ」といえばそうかも知れませんが、彼は主の目に悪とされるその恐ろしい策略が実行されることを知っていながら、そのれに身をゆだねて罪に手を染めたのは事実であります。それはまさに、十戒にある「殺してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人のものを欲してはならない」との4つもの戒めをアハズ王は破ったということです。これに主は非常に厳しい裁きをもって臨まれます。それは又、アハブ王のみならず、その指示に従ったイスラエルの長老と貴族たちも同様です。主の目に悪とされることを知りながら身をゆだね、指示されるままに偽証を工作してナボトを死に至らせたのですから。神の律法は、偽りの証言をして冤罪を作り出すことに対して、厳格に戒め、それを禁じています。それを知っていながら主の目に悪とされることに長老たちや貴族らも身をゆだねたのです。それはたとえ一国の王であろうとも、神さまから託された嗣業の地を売り渡すことを拒んだこばナボトとは何と対照的であり、その罪は大変重いという事であります。

「神を畏れて生きる」
次にそのナボトについて見ていきましょう。
彼のぶどう畑の土地は、先祖から引き継がれたものでありました。そこには彼の先祖たちの眠るお墓があったかも知れません。けれどもそれ以前に、神から与えられた約束の地として代々に亘って守り続け、治めるよう託された土地であることを、彼は主の御前に果たすべき責任として認識してしました。彼はアハズ王に対して、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」ときっぱりと断りました。たとえ相手が王であろうとも売り渡すことはできない。ダメなものはダメ。ナボトの主への信仰はほんとうにまっすぐで骨太なものでした。

しかし、「主にかけてわたしにはできません」と断ったために、彼は嗣業の地だけでなく、自分の命までも失ってしまうことになりました。このナボトの最期は、この世的に人の目から見れば実に悲惨極まりないものであったといえましょう。彼は神に対して忠実に生きようとしたのに、「イスラエルの神と王を呪った」という根も葉もない濡れ衣を着せられ、石で打ち殺されたうえ、嗣業の地まで奪われたのですから。
 彼は明らかに無実であり、冤罪でした。ナボトがもし、主なる神でなくアハズ王を恐れて、「わたしの土地を譲りましょう」と言っていたのなら、彼は平穏無事であったでしょうし、その生活も補償されていたことでしょう。けれどもナボトはそのような生き方になびかず、唯、主なる神をこそ生けるお方であると信じ、従ったのです。
 王の権力に屈することなく、主の掟に忠実に生きたナボト。神に従い、生きようとするとき、世の力との戦いが生じます。それは時に孤独な戦いであります。ナボトはならず者らから不当に訴えられた時、誰からも擁護や弁護もされず、ひとり孤独に石で打ち殺されたのであります。 
それは、無実の主イエス・キリストが十字架につけられて殺された、そのお姿と重なります。イエス・キリストはユダヤの社会にあって、弱い立場におかれていた人々、差別や偏見を受け苦しんでいた人々、罪人とよばれていた人々、外国人や病の人々と、日夜出会われ、いやしと解放をもって神の国を宣べ伝えられました。   
しかしそのことが、いわゆる自分たちこそ正当派だと主張するユダヤ人たちから恨みと妬みを買い、イエスは神を冒涜したという偽りの証言によって不当に裁きの座に引き出されました。そしてユダヤ民衆までもがこぞって、「イエスを十字架につけろ」と叫び出し、遂にイエスさまは十字架につけられました。あのナボトがそうであったように、主イエスは父なる神さまの御心に従っていかれた、その結果、無残な最期を遂げられたのです。
しかしそれは、まさにそのことで人の罪が露わになり、その罪のため罪無き神の子が死なねばならなかったという、その神の義と愛によって、私たちがほんとうの悔い改めと救いとに導かれるためであったのですね。主の十字架を見上げるとき、私たちはナボトのように神に従う人の死がどれほど価高く尊いものであるかを知らされるものであります。

「久山ワークキャンプに参加して」
最後になりますが、今年も福岡県糟屋郡久山町にある重症心身障害児者施設・久山療育園のワークキャンプに参加してきました。このワークキャンプも今年で27回目となるそうですが、今年も小学生から80代の方々の老若男女100名を超える参加者がありました。
毎年ほんとうこういう素敵な出会いとゆたかな学びの場が提供されているのです。
プログラムは、実際に入所されている方々のことを知る体験学習やふれあいのとき。職員の方や保護者の方のお話を伺うことができます。又、福岡市内街頭に立って「街頭募金」のお手伝いもするのですが、これも多くの方々の善意と出会えてうれしい時間です。今回は久山療育園のためではなく熊本地震で被害に遭われた障害者施設への寄付を呼びかけ、小中学生たちに混ざって街頭に立ちました。そしてメインは療育園周辺の草刈ワークでありますが。これがかなり厳しい暑さとの戦いでもあるのですが、後にもたれるバーべキューを楽しみに汗を流します。
 今回それらのプログラムの中で特に印象に残ったのは、久山療育園に今年16歳になるお子さんを通所されているお母さんが次のようにお話しなさったことでした。「相模原市の障がい者施設で殺傷事件が起こりました。その加害者は、『役に立たない人は排除したほうがいい』という思いで犯行に及んだということですが。わたしの子どもも重い障がいを抱えて生まれました。子どもに手はかかる。思いを汲み、常に見るから手はかかる。けれど手がかかる、ただそれだけでしょうか?この子は生きるのに一生懸命。その子の存在によって私は支えられ、生かされています。私はこの子に「生まれてきてありがとう」って心からそう思い、感謝しています。人は一人じゃない。だれも支えられて生きている。犯行に及んだ加害者にはその気づきがないのではないか」と、実際の日常のご経験からこのような言葉をわたしたちにも発してくださったんですね。
 この事件は、何でも目に見える効率や成果、又経済原理によって、人の価値や評価までも決めてしまうような私たちの社会の病巣を映し出しているように思えます。役に立つかどうか。お金になるかどうか。そんな判断基準ばかりが横行するならこの世界は何と殺伐としたものでしょうか。
 久山療育園はミット レーベン「ともに生きる」という標語を掲げて今年で40年となりますが、わたしたちはだれひとり、一人じゃあ生きることはできない存在であるということを、この久山療育園の働きをとおしていつも教えられます。
 天地創造の記事の終わりにこうあります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」神さまは人が「役に立たないから排除する」なんておっしゃっていません。人が神さまに成り代わっていのちに優劣をつけることは大きな罪です。私たちは神さまに愛されるために生まれ、ともに生きるために存在しています。
 今日はナボトのぶどう畑のエピソードから「神の前に如何に生きるか」を聞いてまいりました。神さまが私たちに託されている嗣業の地を私たちも又、受け継ぐものとして立てられています。
それはまさにイエス・キリストとその救いの福音を基とした神の国であります。父なる神の御心に聴き従い、隣人を自分のように愛する。主イエスはそこに「律法全体と預言者とがかかっている」おっしゃいました。ナボトの骨太の信仰に倣い、「神の前に如何に生きるか」そのことを、神が与えてくださる出会いや体験、関わりの中に見出す者とされてまいりましょう。祈ります。
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どっちつかずの民に

2016-08-14 15:27:56 | メッセージ
主日礼拝宣教  列王記上18章20~40節 (平和をおぼえて) 

本日は平和を覚えての礼拝として主に捧げています。
先ほどSさんから戦争体験を通しての貴重な証言・あかしを伺いました。
戦争を知らない世代が増えていくなかにあって、過去の過ちを繰り返さないために
も、実際に戦争をご体験された方からの貴重な証言をお聞きすることができ感謝します。

本日の聖書箇所は、バアルの預言者450人と主の預言者エリヤとの真の神を巡る対決の場面でありますが。アハブ王はエリヤの要請どおりバアルの預言者450人をカルメル山に集めました。
 そこでエリヤはすべての民に近づいて問いかけます。
「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」
 ところが「民はひと言も答えなかった」というのです。
 それはまさに、民がどっちつかずの状態であったということを表していました。

先週申しましたように、アハブ王は異国の王女イゼベルと政略結婚しました。それにより北イスラエルの地にイゼベルが持ち込んだバアルの神殿を建てて拝んだり、アシュラ像を建立したりとしていくうちにその民たちも惑わされて、主なる神から心が離れていったのです。人々は護国豊穣をもたらすとされるバアルの偶像礼拝をなし、主の目に悪とされることを行っていました。
 エリヤは王や民の心が神ならざるものに向かっていることが嘆かわしくてなりません。人々は、主なる神さまを忘れてはいないけれども、バアルも大切だと、まさにどっちつかずの宙ぶらりんの状態にあったのです。

明日8月15日この国の71回目の終戦記念日を迎えますが。
戦時中の教会は、クリスチャンであることと日本国民であることとの間で自らを問われました。そのような中で、天皇を現人神として拝することと、教会で主なる神を礼拝することとが混在していった近代の歴史があります。
それは、エリヤが民に問うた「どっちちかず」という問題性を今日のわたしたちの課題として示してします。
 戦時下という異常な状況の中でなされたことに、今のまがりなりにも平和のうちにいるわたしたちが安易に批判することはできませんが。そのような時代と過ちが二度と繰り返されることがないように平和の祈りと決意を新たにもつときとして覚えたいと願います。
8・15の平和祈祷集会(関西連合社会委員会主催)が大阪教会で行われます。こちらにもどうぞ足をお運びくださり、ともに祈りを合わせたいと願っております。

さて、エリヤは「どっちつかずに迷っている民」に対してある提案をします。
それは犠牲の裂かれた雄牛を、エリヤとバアルの預言者450人の双方の薪の上に火をつけず載せておいて、自たちの神の御名を呼んで火をもって答える神こそ神であるはずだ、というものでした。
 バアルの預言者たち450名は朝から真昼まで、祭壇の周りを廻りながらバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈るのですが、何の答えもありません。彼らが祭壇のまわりを飛び回って叫ぶ様子を見たエリヤが嘲笑って、「神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう」と挑発すると、バアルの預言者たちはさらに大声を張り上げ、剣や槍で体を傷つけ、血を流してまで必死にバアルの神に叫ぶのであります。それでも薪に火はつきません。
 一方主の預言者エリヤは、イスラエルのすべての民に向かって「わたしの近くに来なさい」と呼びかけます。民が彼の近くに来ると、エリヤはそこでまず何をなしたでしょうか。
 それは、バアルの神々を祀るために「壊された主の祭壇を、彼はすべての民の前で修復した」のです。このエリヤの行為は、神に罪を犯し荒廃していた民が自分たちに与えられた本来の祝福の源、「生ける救いの神の祭壇を築き直す」そのことを象徴的に表していました。
 
エリヤは31節以降にこのように行ったとあります。
「先祖ヤコブの子孫の部族の数に従って12の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築いた。そこに献げものの雄牛を薪の上において、4つの瓶の水を3回、合計これも12回という数ですが水を注いだ」のです。
 かつては同じ一つの民であった12の部族。それが北と南に分裂してしまったのですが。そのイスラエルの12部族の大本、その根源は、かつて囚われの奴隷状態から導き出された救いの神にある。その事がここに示されているように思えます。この光景はその場に集まった民のひとり一人に先祖より伝えられてきた「生ける主なる神」のみ恵みと慈しみ、又戒めをもしみじみと思い起こさせたのではないでしょうか。そういった彼らの魂といいますか、アイデンティティーの修復作業がここで丹念になされているということであります。

わたしたちクリスチャンも時に世の中の動きや力、誘惑や弱さの中でこの民のように主の救いの恵みを忘れ、どっちつかずのような状態になることはないでしょうか。
 そんな時、エリヤが主の祭壇を築き直したように、心の祭壇を築き直さなければならないでしょう。如何にわたしは主の憐れみと犠牲によって救い出され、どのように滅びから導き出されたかを思い起こす。わたしの救いの原点に立ち返ることの大切さを、ここのところは表しているんですね。
さらに、エリヤは主にこう祈ります。
 「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」
 ここでエリヤははっきりと民の先祖の名を連ね、「あなたがわたしたちの神であることをお示しください」と民の前で祈ります。
 主の預言者エリヤは、騒々しく自虐的なバアルの預言者たちとは対照的に、神によって与えられる知恵と霊性をもって、又、生ける主への確信をもって呼びかけ、祈るのであります。

そうしたところ、祭壇の上に主の火が降って、牛と薪は焼き尽くされたというのであります。
この主の火については、創世記19章で、主が偶像の町ソドムとゴモラの上に天から、硫黄の火を降らせ滅ぼされたとされる、その硫黄の火を示しているともいわれていますので、まあバアルの偶像礼拝における審きともとれますけれども。一方で、新約時代に生きるわたしたちは、あのペンテコステの炎、火を彷彿とさせます。贖いの犠牲の上に主の火が臨み、主がその栄光をあらわされた。それはわたしたちのための贖い捧げものとなられた主イエス・キリストによって聖霊の火が下り、今も注がれ続ける御霊の火です。焼き尽くされた犠牲の捧げものは、神の民に対する愛とご自身が情熱の神のであるということを物語っています。
それほどまでにご自身の民を、又、救いに与るわたしたちを愛しておられるということであります。
 さて、これを見たすべての民はひれ伏したとあります。このことをして人々のうちに聖なる主への畏れが生じたのです。彼らは「主こそ神です。主こそ神です」と繰り返し口にしました。イスラエルの民はそれぞれ、もはや世の権力や偶像によらず、又周りの人がしているからというのでもなく、自ら進んで「主こそ神、主こそ神です」と主体的にいのちの基となる神を告白して主を賛美します。
彼らは自分たちの依って立つ処、存在の源がアブラハム、イサク、ヤコブの神にあり、囚われの地より導き出した生ける主であることを再び見出し、主に立ち返る者となったのですね。
 エリヤが、「主よ、あなたが答えてくだされば、この民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」と祈ったそのとおりになったのです。主が民の「心を元に返した」という出来事は、まさにエリヤがまず民たちとともに壊れた主の祭壇を入念に修復して、救いと恵みの原点を思い起こさせ、備えていったからではないでしょうか。
 これはわたしたちにとって日常的にいえば、一緒に奉仕したり、作業したり、集会を持ったりすることもそうですね。もちろん礼拝や祈りの場はその最たるものでありますが。そうやって主の前に祭壇を築き直す作業が、主体的な信仰をゆたかに育んでくれるのですね。

今回のエピソードを宗教間の対立という構図で読みますと、本来のメッセージは見えてきません。この対決は、どっちつかずの民が、本来の救いの神に立ち返って生きるための戦いです。エリヤは民に命じ、バアルの預言者を粛清しますが。それは、救いを妨げる自分の中に潜む敵、罪と徹底的に戦うことの必要性を示していると読むべきでしょう。

先週は、やもめとエリヤのお話でした。
そこでの大きなテーマは、「何を第一とするか」です。
エリヤは一握りの粉でパンを焼き、息子と死を待つばかりというやもめに、「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と伝えます。
 エリヤを通して語られた主の御言葉の真意は、「まず、すべてを造り、すべてを治めておられる主なる神さまに、それを捧げなさい」ということです。エリヤは異教のやもめに生ける主なる神さまを指し示し、その「神に信頼をし、従って命を得なさい、きっとあなたがたを顧みてくださる」と、そう伝えたのです。
 エリヤはほんとうの神さまを知らないやもめに、生けるいのちの源なる神さまを示して、その神によって、いのちを得るよう促しました。やもめは神の言葉に全存在をかけて、「行ってエリヤの言葉どおりにした」のです。すると、「彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」のであります。まさに「何を第一としていくか。」「何によていのちを得るか」というメッセージが、実は今日の「戦い」のエピソードの中にも込められているのです。
 
今日わたしは生ける主を第一としているでしょうか。ヨハネ黙示録3章15節をとおして主はこのように警告しておられます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
 「神との交わり、人との関わり、生の全領域において、まず「神の国と神の義」を求めていくことが期待されています。わたしたちが心を定めてそのように生きていくところに、主の答えと祝福が用意されています。「主の祭壇を建て直す」ことが、どっちつかずのわたしたちが抱えるあらゆる問題の解決につながっていくのです。

祈りましょう。
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いのちの御言葉

2016-08-07 16:17:24 | メッセージ
主日礼拝式 宣教箇所 列王記上17章1~24節 

先週は青年の方々が礼拝のご奉仕を担ってくださり、主にお捧げすることができて感謝でした。又、目には見えませんがお花や受付、台所、お掃除と、世代を越えて共に教会を担い建てあげてゆくゆたかさと広がりを見せられたことも感謝でした。

さて、この8月は原爆投下と敗戦記念の月で、私たちは特に平和を覚えて祈る月間としています。10日ほど前になりますが、又、沖縄高江の米軍北部訓練所周辺で座り込み、軍事ヘリコプターの着陸帯で集落が取り囲まれることに反対の意思を示していた住民らが突如無理やりに排除され、運び出されるということがなされました。中には体調が悪くなり救急搬送された方もいらっしゃるようですが。辺野古でもキャンプシュアブでも、報道されていないのでその現状が見えません。このようなことが現実に起こっているのです。大阪に住む私たちは、原発事故の福島のこと、あの4月の大地震が起こった熊本のことさえも、いまやなかなか報道で伝えられてされていないので、どのような状況であるのかがわりません。痛みや苦しまれている方々の痛みと苦しみが除去されることこそ、私たちの平和につながっていくことになると信じます。イエスさまは「平和を実現する人たちは、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とおっしゃいました。それは自分が何事もなければよいというのではなく、共に平和を実現する人たちの連帯が示されています。
来週の8月15日の終戦記念日には関西地方連合のおとなとこどもの平和祈祷集会がもたれます。祈り心をもってぜひご参加ください。今年もそれぞれの教会や連合の平和礼拝や集会を経て、また8月を迎えて、与えられた平和への思いを、祈りをひとことにして送ってください、というバプテスト連盟平和宣言委員会より「平和の祈り」の依頼がきております。どうぞ、それぞれのお祈りをお寄せくださると幸いです。よろしくお願いいたします。

「御言葉の飢饉」
さて、本日は列王記上17章から「いのちの御言葉」と題し、聖書から聞いていきます。ここに登場するエリヤという人物は、紀元前9世紀前半、今から約3000年前の北イスラエル王国の預言者でした。彼は決して平和とは言いがたい時代の中で、神のいのちの言葉を語りました。
 その当時の北王国を統治していたのはアハブ王でした。このアハブ王は政略結婚によりめとった異邦人王家妻の影響で神ならざる偶像、バアルの神殿と祭壇を築きそれに仕えました。彼は北イスラエルのこれまでの王の中のだれよりも主の目に悪とされることを行い、主の怒りを招くことを行った、と16章の末尾に記されているとおりです。
預言者エリヤはその王に対して、主の言葉を語ったのです。エリヤの人となりについてはギレアドの住民でテシュベル人であったということ以外、何も記されていません。
彼が誰の子で、どういう家系かということについて何も触れられていません。それはこのエリヤという人が、何か身分や地位のある人から、あるいは権力のある人から遣わされたのではなく、直接「神から遣わされた預言者」であるということを表しています。
そのアハブ王にとってどこの馬の骨か知れないようなエリヤですが、アハブ王の前にただ一人で出て行き、臆することなく主の言葉をまっすぐにこう伝えます。
 「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで(主の御言葉が臨むまで)数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
 それは、アハブが主に罪を犯し、その民にも背信を犯させていることから起こるのだから、それらの罪を悔い改めるように、との警告であったのです。
 それにしても、まあ一国の王様の前でよくぞ言ったものだ、すごい度胸、勇気がある人かと思いますけれども。きっとエリヤだって不安や恐れがなかったわけではないでしょう。唯そこには確固たる神の言葉を示すべき悔い改めの機会があったということです。エリヤは地上の王ではなく、すべてを司る生ける神こそ真に畏れるべきお方であるということを知っていたからこそ、そのように振舞うことができたのではないでしょうか。

ところがアハブ王は「いのちの言葉」を受けても、神に立ち返ろうとはしません。彼は神の言葉を軽んじたのです。
ところで、神が天を閉じ、雨も降らず、露も降りない、となりますと、これは一大事であります。飲み水だけでなく、野菜も作物も採れなくなり、飢餓が来ます。けれども、それが単なる干ばつとして起こるというふうに読むと、ほんとうに大切なことが理解できません。この預言者エリヤが語った言葉に注目してみましょう。彼は「わたしが告げるまで(神の御言葉が再び臨むまで)数年の間、霜も雨も降らない」と言っています。
 つまり大地に露も雨も降らないこの危機的状況は、単なる自然現象ではなく、「神の御言葉の飢饉」であるということです。
 神ならぬ偶像を拝み、目に見えることだけを優先して利をむさぼってきたアハブ王は、神の御言葉がないということの危機的状況が全く理解できません。
 私たちを取り巻くこの今の時代の現象や諸問題の背景にも、このように神の御言葉がないという飢饉とその危機的状況があるのではないでしょうか。いのちの御言葉に生かされる私たちはそのことを見抜き、主の御言葉を乞い求めて祈り続け、御言葉が途絶えることがないように努めべく招かれています。

「神のお計らいと養い」
さて、アハブ王に神の御言葉を告げたエリヤに危険が及んだのでしょうか。
主はエリヤに、「ここを(北イスラエル・サマリア)を去り、東に向かい、ヨルダンの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」というお告げがありました。
 このケリトの川というのは、「断ち切られた小川」という意味があるそうです。その川のほとりはまさにその名のとおり、人里離れ、分断されたような、寂しい地でありました。当然食べ物も無いようなところで、誰だってそんな処に行きたいとは思わない場所であったのです。
 しかしエリヤは直ちにその御言葉に聞き従い、行動に移します。
するとまさに、お告げどおり、「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ」というのであります。それは御言葉に聞き従う者に約束された神の養いの祝福であります。

私どもも時に、ほんとうに神のみ心だと確信し歩み出したものの、まるでケリトの川のほとりのように、寄る辺なく孤独で、想像した以上に厳しい状況に留まる他ない時もあるかも知れません。けれどもほんとうに神の言葉に養われるのは、実にこういった時なんですね。送られて来た1枚の葉書に書かれた御言葉に力を得たり、何気なくかかってきたような信仰の友の電話に、希望を見出せた、というご経験があるのではないでしょうか。そんな時「ああ、主は私のことを覚えていてくださるんだなあ」と深い慰めと励ましを感じることでしょう。

ところで、烏が人間にパンや肉を運んでくるなんて何ともユニークです。天王寺周辺の烏といえば生ごみや残飯の入ったごみ袋を突いて物色し、辺りかまわず散らかしまくって去っていくという迷惑もの、嫌われものという印象があります。旧約聖書の中でも、烏は汚れた鳥として食べることが禁じられていたり、人の目を突き、荒れ果てたような地に住みつくことから嫌われ、不気味な鳥として見られていたのです。

そのような烏ですけども、実はイエスさまのお話にも登場します。
イエスさまは烏を引き合いに出しこうおっしゃいました。
「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」(ルカ12章24節)
神は烏にも深いご配慮といつくしみをもっておられるのです。烏も神がお造りになられた神の作品であり、愛されるべき美しいもの、神の目からご覧になれば、つまらないものでも、存在価値のないものでもないとうことです。イエスさまは敢えて空を飛ぶ鳥の中から烏を選び、神ご自身の私たちに対する愛と配慮を教えてくださいました。今日の箇所では、神はその烏をお用いになってエリヤを養われたというのですね。
身も心も疲れ果て、不安の中にいたエリヤ。神の御言葉を伝えても理解されない虚しさと孤立無縁のやるせない状況にあったエリヤに、、嫌われもののカラスが寄り添うように日々食物をもって養った。何という神のお計いでしょうか。「神のなさることは、その時に適って美しい」という伝道の書の御言葉が思い起こされますが。
 私たちも行き詰まったように思える時、万策尽きたと思いあぐねるその時、ある意味もう失うものは何も無いとの思いに至った時、私たちはそこで下を向き続けるのか、主を仰いで一日一日を主に養われて生きるのか。そこで人生の質は大きく違ってまいります。私自身今日、明日の食べるもの、生活の必要がどうなるか、という時に、不思議と必要が満たされた、という経験を幾度となくいたしました。そのような時ほんとうに主は私のことを覚えていてくださるのだと大いに励まされたものです。
 主は今も生きておられます。烏を用いてエリヤを養われたように、時に適った御言葉と共に生きる必要を満たしてくださるお方なのです。

聖書には、「神のお計らいと養い」についてもう一つのエピソードが続きます。
ケリトの川のほとりでカラスに養われたエリヤでありましたしたが、やがてこの地方に雨が降らなくなり、川は枯れてしまい飲み水もなくなってしまいます。

そのとき主の言葉が再びエリヤに臨みます。
8節「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。
今度もエリヤは主の言葉どおりに、立ってサレプタの町に行きます。この町は異教徒の地でありましたから、エリヤはそこに入ることに躊躇や戸惑いがあったと思われます。ある意味エリヤは御言葉に聴き従う信仰が試されたのではないでしょうか。しかし彼は主が言われたようにそこに入り、一人のやもめが薪を拾っているのを見つけると、「器に少々の水を持って来て、わたしに飲ませてください」と声をかけます。この時代薪を拾って生活していた人たちは非常に貧しかったということです。それをエリヤは知っていました。その服装から彼女がやもめであることもわかっていたのでしょう。エリヤは、この女性に「パンを一切れ、手に持って来てください」と願ったというのです。まあ、水を分けてくださいというのは許せるかも知れませんが、薪を拾っている貧しいやもめにパンを一切ください、というのはあまりに非常識といいますか、ずうずうしく思えます。

案の定このやもめは、「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしとわたしの息子の食べ物を作ってそれを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と答えたというのです。
そこまで言われると、普通人間的に考えればそりゃあ最もで無理も無いことと、相手を思いやることを優先するのではないでしょうか。
ところが、エリヤはそこで引き下がらないのですね。エリヤは彼女に「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」 そして、「主が雨を降らせるその日まで、ずっと壷の粉はつきることなく、瓶の油はなくならない」との主の御約束を伝えるのです。
すると、やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした、というのです。それは驚きではないでしょうか。今その粉でパンを作り、食べれば死を待つばかりの人が、このどこの誰とも分からない人の言葉どおりに、たとえ小さなパン菓子といってもそのような状況の中で作って持ってきたのです。主はエリヤを養われるのに、何も持たない、何も頼るものがないやもめをお用いになるのです。 それは、かえって神にすがる他ないような貧しい彼女だったがゆえに用いられた、といえるのかも知れません。逆に、これがゆたかで何不自由なく満たされて人であったなら、わずかな粉であっても祈りながら、神の言葉にかけて他人のためにパン菓子を作って持っていくことなど果たしてできたでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
彼女が主の御言葉に聞き従った時、「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壷の粉はつきることなく、瓶の油もなくならなかった」と聖書は伝えます。
いのちの御言葉に聞き従っていく人のうえに、神さまのすばらしい御計らいと養いがあること、そこに証しがゆたかに立てられていくのですね。

「主に祈れる特権」
烏とエリヤ、やもめとエリヤのエピソードから、御言葉に生きる人に臨む主の御計らいと養いについてのメッセージを聞いてきましたが。この17章の最後には、やもめの息子が病気で亡くなるという悲しい出来事が起こります。これには思わず「なぜ、どうして」と言いたくなりますが。悲嘆にくれるやもめの思いはいかばかりであったでしょう。夫を亡くし女手1つで子を養い、その成長だけが彼女の希望と慰めであったのではないでしょうか。
彼女がエリヤに「神の人よ、あなたはわたしとどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と痛烈な言葉で訴えます。クリスチャンであっても、予期せぬことは起こります。
「聖書の言葉、あるいはイエス・キリストとわたしがどんなかかわりがあるのか」と思ったり、「あの罪のせいだろう」と後悔に責めさいなまれたり、「なぜ神はそのような仕打ちをなさるのか」と感情的になることがあるかも知れません。そしてそんな自分を情けなく思ってしまうものです。
 けれどもエリヤはそんな彼女を一言も責めたりしませんでした。エリヤは彼女の悲しみとその息子の遺体をその身に重ね、主に必死に訴え、「命を元に返してください」と取り成し祈るのです。すると、主はエリヤの声に耳を傾けて、その子の命を元にお返しになった、というのであります。
ここでのエリヤは預言者というよりも神と人との間を取り持ち、つないでゆく祭司のような働きをなしているようにも思えますが。私がここで何より心を動かされますのは、エリヤがやもめと同じように感情をあらわにして「あなたは私が身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらされるのですか」と、激しく主に訴えているということです。又死んだ子どもの身を自分の身に重ねて3度祈ったとあるように、その子の哀れな姿の中に自分を重ねて彼は主に必死に訴え祈るのですね。生と死を司っておられる主なる神さまを一心に信じていたがゆえに、激しいほどに主に強く訴えているその姿であります。
 主は、その信じるがゆえに激しく訴えるエリヤ祈りの声に耳を傾けてくださるのです。
祈りは心の中で祈っていれば主がすべてをご存知なのだから聞いてくださっている、と思われる方もおられるかも知れません。しかし主は何よりも私たちの心のうちにあるほんとうの思いを心開いて表すのを待っておられるのではないでしょうか。ストレートな飾りのないほんとうの思い。心のうちにあるうめきや叫びをまっすぐに神のまえにさらけ出し訴えることを待っておられる。そのことがここに伝えられています。
 私たち主を信じる者にとってのすばらしい特権は「祈り」です。
先週の信徒研修会の中で、今給黎先生が「教会も社会の一部であり、からだ性をもつがゆえに様々な問題や課題があるということを認識する必要がある」ということをおっしゃったんですが。同時に何より幸いなことに、人と人との関係修復が人間の力によってはできないものがあるとき、私たち主に生かされた者は、主に祈り、取り成され、又、祈り合う中で、主のいのち御言葉と聖霊の導きが人知を超えて働かれる。その生ける恵みを私たちは体験することができるということですね。主が生きてお働きになられていることを共に知り、励ましを受けていく。そのようなキリストにある証しと平安を私たちは体験していく機会を教会をはじめとする、あらゆる関係性のの中で与えられているということであります。

 故郷を追われ孤立無縁の中にあったエリヤは、烏に、そして異邦人のやもめに養われ、こうして命が取り戻されるという出来事を目の当たりにすることで、エリヤはさらに神のいのちの言葉を語る預言者としての復活を果たしていきます。
 一方、やもめはエリヤの激しい取り成しの祈りによって、息子の命が元に返ったことによって、主の言葉は真実です、といのち言葉なる神への信仰告白を表明します。眞の主との出会いを経験した彼女の人生も新たなものとされたことでしょう。

 私たちも、世の日々の生活の中で様々な出来事が起こっていきますけれども、私たちの信じる主は、生も死もすべてを治め、私たち一人ひとりの存在を喜び、その一人ひとりの必要をご存知です。私たちのうめきも、痛みも、嘆きもその身に引き受け、知っていてくださる主をどこまでも信頼し、そのいのちの言葉と祈りの武具を身につけて、歩みゆくものでありたいと願います。
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「悲しみ」を本当に知る

2016-07-24 16:09:34 | メッセージ
礼拝宣教 サムエル記下21章1節-14節   

今日はサムエル記下21章から御言葉を聴いていきたいと思います。
ダビデ王の時代に3年間、ひどい飢饉が続きます。もともとイスラエルは雨が降らない時期が多いのですが、3年ともなれば井戸も干上がるほどで、穀物の収穫も厳しく、備蓄も底を尽きはじめた頃でしょう。
 そこでダビデが主に託宣を求めた。つまりお伺いを立てたところ、主はこうおっしゃいます。
「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある」。
 サウルはダビデ王の前王ですが、その前任の王がギブオン人に対して行った罪が清算されないまま放置されている。未だ罪が解決されていないということでした。
 
今日のこの箇所から神さまはどういうメッセージをお語りになっているのか?一週間祈り求めながら、聖書を繰り返し読み、黙想しました。

その中で一つ見えてきたことは、「悲しみ」を本当に知る、ということです。

ギブオン人は、イスラエル、カナンの先住民を代表するアモリ人の生き残りでした。ヨシュアの時代に、イスラエルの民はギブオン人と平和的な条約を主にあって結んでいました。イスラエルの民は決して彼らを殺さないと主に誓ったのです。ヨシュア記9:3-27に詳しいことが記されていますが。
しかし、サウル王は「イスラエルとユダの人々への熱情の余り、彼らを虐殺」しようとしました。
そのため多くのギブオン人が犠牲になったようです。
 これは確かにダビデの時代の事ではないのですが、ダビデはギブオン人を招いて話を聞くことにいたします。ダビデは彼らに会うと、真っ先に「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろう」と尋ねます。するとギブオン人は答えます。「問題なのは金銀ではありません・・・・わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、あの男の子孫の中から7人をわたしたちに渡してください・・主の御前で彼らをさらし者にします」。
 するとダビデ王は、「引き渡そう」と言ってそのとおりにするのです。
しかし、要求されるままにサウルの子孫7人を引き渡すことが果たして神の御心であったかどうかは、聖書には何も書かれていません。

ここを読んで思いますのは、ダビデは彼らのその壮絶な思いについて聞きながら、神に伺うこともせず、その場で彼らの要求どおりにする、と即答しているんですね。ダビデにはその問題の本質よりも、すぐにでも問題を解決したい、そんな一種の焦りのようなものがあったのではないでしょうか。
ギブオン人たちの心のうちにあった言い尽くしがたい悲しみを知ろうとすることより、とにかく彼らの要求を聞きだして問題を除去することをいの一番に考え、彼らの言うとおりにしたのかも知れません。ダビデは彼らの心の傷として残っている悲しみや痛みに向き合うことなく、ただ形だけの解決策をとったように思えます。イスラエルの国が、平和の誓いを破り彼らに負わせた悲しみや痛み。彼らの訴えの重さ。それはどれほどのものであったでしょうか。
 そのようなことを思います時、かつて私たちの日本が侵略戦争をしたことの罪責を思い起こさずにいられません。戦争の時代だったのだからということではとても済まされない、特に近隣諸国にへの残虐な行為は決して拭い去ることのできない歴史の事実です。にも拘らずそれが、だんだんと教科書から消されているようです。戦争の愚かさを伝えるそこ「ピース大阪」も、最近は日本がかつて犯した過ちについての資料がのきなみ展示から撤去されています。それが自虐的な歴史観で、国を誇ることを妨げているとする人たちとの中立性が保たれるためだそうですが。
「戦後補償」の問題はすでに国と国の間で解決されていると聞かされていますが、被害に遭われた人の悲しみと痛みは消えてはいません。被害者と家族は単に補償金だけの問題ではなく、国としての心からの謝罪の言葉を求めているのです。
 若い世代の人たちの中には、日本のした過去のこと、昔のことが今の自分たちのこととなぜ関係あるのか、と思う人もいるでしょう。私も戦争の悲惨さを知らない世代です。直接的加害者ではありません。けれども、いまだに被害に遭われた方とその家族の深い悲しみと痛みがいやされていないということを知らされる時、それは「神の前に罪責が清算されず、問われ続けている」ように思うのです。真実な和解が与えられていない。それは子や孫に続く次世代、将来に係わってくるでしょう。歴史は繰り返されるといいますように、過去の過ちが忘れ去られないようにおぼえ、また繰り返されることのないように罪を認める和解の道が必要とされています。二度と悲惨な殺し合いによる犠牲者、家族や友を失って悲しみ苦しむ人たちを作らないための責任が、この国の今を生きる者としてございます。

さて、ダビデは彼らの要求のとおり、早期解決を図りサウルの子孫7人を捕らえて引渡しました。
その7人の中に、リッパという女性とサウルとの間に生まれた二人の息子が含まれていました。
7人が処刑された後、彼女は荒布を取って岩の上に敷いて座り、空の鳥や野の獣が死者を襲うことがないようによう自分の息子2人だけでなく7人全員の死体を昼も夜も見守り続けるのです。
それは大麦の刈り入れの始まりの初夏から雨の降る10月頃迄の少なくとも6ヶ月間も続いたようです。暑い夏の突き刺すような日照りの中でも、7人の遺体が野獣や鳥などから食われ、ついばまれないように、リッパは大事に守り続けたのですね。彼女がどれ程その死を悲しんだかを知らされるわけですが。同時にそれは、サウル王の側女であった彼女のサウル王に対する忠義であったのではないでしょうか。

まあそうしておりますと、その6ヶ月もの間さらしものにされたサウルの子孫の遺体をずっと見守り続けた側女リッパの行いが、ダビデ王のもとに伝わります。

ダビデはそのリッパの行動に心動かされて、サウルの骨とその息子ヨナタンの骨を運び入れ、さらされた者たちの骨と一緒に、丁重にサウルの父キシュの墓に埋葬するように命じます。人々はそのとおりに行いました。ダビデはこうしてサウルとその子孫を丁重に埋葬したんですね。
 すると、「この後、神はこの国の祈りにこたえられた」。それはつまり、待望の恵みの雨が降り出し、飢饉はやみ、主の嗣業の地に再び祝福が取り戻されたということです。

ここで改めて気づきますことは、飢饉は単に7人が処刑されることによってやんだのではないということであります。
 サウルの側女リッパがさらしものにされた7人のからだを愛情と忠義を尽くして見守り続ける。その姿は、ダビデ王に真に心に留めるべきものを思い起こさせたのではないでしょうか。神の前でなされた誓いより人の誇りや情熱を優先された結果、なされた過去の罪責。そこに思いをいたす事よりも、早期の解決を図ることを優先したダビデに、神はリッパの姿を通して本当に大切にされるべきことをお示しになったのではないでしょうか。

ダビデのサウルとその子孫に対する弔いはリッパにとって大きな慰めになったことでしょう。
そうしてそこから起こる確執や争いはもはやなかったでありましょう。これらのことを通して、神さまはこの国の祈りに答えられ、この国の人々を苦しめていたひどい飢饉はやんだのであります。

最後になりますが。
今日の引き渡された7人の人々は、サウルの子孫とはいえ直接的なギブオン人の殺害とは関係がない人たちでありました。そういう人たちの命がギデオン人たちの命を償うものになったかどうかは甚だ疑問が残ります。ギブオン人たちの心はそのことで本当に晴れたのだろうかとも思います。いずれにしても、それはダビデとイスラエルの人々にとって過去の罪責からの解放にはなりませんでした。
なぜなら、その根本の問題がなおざりにされていたからです。
その根本の問題とは何でしょう。それはカナンの地にイスラエルの民が入植した、移り住んだヨシュアの時代に、神の御前で誓われた、「ギブオン人を殺さない」とする契約を、サウルが破り、彼らの惨殺に及んだ罪にあったということです。
 しかし、神さまは、リッパのさらされた7人の尊厳を守る姿とサウルへの忠義をご覧になられたのです。又、ダビデ王は彼女の姿から、神の御前に真に知るべき命の尊厳と神の義に気づかされました。そうしてダビデが心を込めて埋葬した行為の中に、神ご自身への真の悔い改めが表されたのです。こうして神との平和が築かれていく時、人と人との平和が、地のうえに祝福が与えられていくのであります。

私たちは今日の箇所を読む時、罪のない7人が捕らえられさらしものにされたその姿に、すべての人間の罪のために十字架にはりつけにされ、さらされたイエス・キリストのお姿を見るのであります。 

このお方を見上げる時、私たちは神の義と愛、そして人の尊厳の回復を知り、祈る者とされます。
「悲しみを本当に知り」、真の慰めをお与えくださるお方は、私たちの罪の身代わりとなり、罪の裁きと贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストである、ということをおぼえ感謝します。主イエスの十字架によって、私たちは神さまとの真の和解を頂いていることをいつも再確認して、この地にあって主の御救いの喜びと平和を告げ知らせ、証しするものとされてまいりましょう。
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「良い知らせ」のはずが

2016-07-17 15:13:09 | メッセージ
主日礼拝宣教  サムエル記下18章1節-19章1節 

先日、家の冷蔵庫の調子が悪くなり中が冷えなくなりまして、これも暑さのため遂に故障かと覚悟しておったのですが。その時ちょっとひらめいて、これまで氷を作る機能を全く使っていなかったので、この際氷ができるかを試してみたらどうか、とやってみたところ、氷が見事に出来たんですね。壊れていなかったんです。そればかりでなく、冷蔵機能をはじめ全体の機能がよく働くようになったんですね。これは一つの発見でした。
一つの機能の通りが滞っていたのを通してあげることによって、冷蔵庫全体の機能がうまく動き働きだした。これってまさに使徒パウロさんがコリントの手紙12章で、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」と、キリストの体なる教会について書かれた事と同じだなあと思わされました。
キリストの体なる教会において、「わたしも、あなたも、主に大切な存在として愛された人」、一人ひとりの存在が大切にされてこそ福音は実体となって教会も祝福され、証しが生まれてくるということですよね。今月末31日の信徒研修会には、このようなことについて共に学び合える機会が与えられておりますので、どうぞ祈りの備えをもってご参加くださるよう、お願いします。

さて、本日の箇所については先ほど読まれ、子どもメッセージもなされました。このストーリの粗筋についてはお分かりのとおりだと思いますが。しかしここから何を神さまからのメッツセージとして聞き取っていくかは難しいようにも思います。
そういう中で、特に目が留まりましたのは、「良い知らせ」という言葉が5回も記載されているということです。この良い知らせとは、ダビデ王に反旗を翻してイスラエルを分裂させ、王位を狙うダビデ王の息子アブサロムとその軍勢にダビデの側が勝利し、ダビデの王位は守られたということです。(昨日トルコで軍事部の一部によるクーデターが起こり鎮圧されたということでしたが。)今日の箇所で確かにイスラエルは分裂することなく、謀反を企てる者たちはいなくなったのですから、それはダビデ王とその家臣たちをはじめイスラエルにとって大いなる「良い知らせ」のはずでした。
ところが、勝利にわきかえる家臣・兵士らの思いとは裏腹に、ダビデ王はただ息子の死を悼んで嘆きます。
19章1節「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上りながら、『わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。』」と王としての立場もそっちのけになりふり構わず大声で嘆くのですね。ここに私は今日神さまが語りかけているメッセージが秘められていると思えたのです。

先週ダビデの犯した過ちについて記された箇所を読みました。自分の王位と権力を欲望のままに乱用したその罪の結果、ダビデはバテシェバとの間に生まれた子を亡くすことになるのです。さらに、ダビデの家に悲劇が続きます。長男アムノンが異母兄弟アブサロムの妹を辱めたことで、アブサロムはその憎悪と復讐からアムノンを殺害するのです。父ダビデの心痛は収まりません。そして、今度はそのアブサロムがこともあろうに父ダビデに反逆し、その王位を狙う者となるのです。
 ダビデは王宮から逃れ息子アブサロムから命をも狙われるようなことになりながらも、家臣らには、「若者アブサロムを手荒に扱わないでくれ」(18章5節)と命じていました。何ともダビデの境地は複雑であったことでしょう。しかし、ダビデは反旗を翻すアブサロムを敵とは見ていなかった。いや敵として見ることができなかったんですね。彼の死を知ったダビデはここで、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」とまで言っています。親バカといえばこんな親バカいるでしょうか。しかしこれがダビデという人なんですね。
 ダビデはこれまで家臣らの手前アブサロムのことを若者と呼んでいました。しかし彼を亡くした時、その本心から、「わたしの息子アブサロムよ」と5回もその名を呼び、深く嘆きます。ダビデにとって「アブサロムは一人のかけがえのない息子」であったのです。
けれどこの「わたしがお前に代わって死ねばよかった」という言葉には、その死をいたむばかりでなく、ダビデ自身の深い自責の念がこめられていたのです。
 このあまりに辛い出来事は、ダビデにかつての罪、先週のバテシェバの夫ウリヤの殺害の件ですね。それを思い起こさせたに違いありません。あの時に遣わされた預言者ナタンはこう告げました。「主は言われる。見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」 ダビデは自分の過ちや不甲斐なさのためにアブサロムが犠牲になった、自分こそその責めを負い、死ぬべき存在であったと、泣き崩れるように自分の罪を告白しているんですね。

19節で、ダビデの兵士アヒマアツは、王に伝える良い知らせについて「主が王を敵の手から救ってくださった」と述べています。家臣ヨアブやアヒマアツの敵はアブサロムでした。しかし、ダビデの敵はアブサロムではありません。ダビデにとっての敵は自分の罪でした。神の御心に従って生きることができない自分の不甲斐なさがダビデの真の敵であったのですね。
 どうでしょう。人は誰でも多かれ少なかれ戦うべきものがあります。そこで人を憎んだり、サタン呼ばわりしたり、ただ起こって来る事柄に勝った、負けたというのがクリスチャンの戦い方ではありません。大切なのは「私の戦いの本質は何か」「私は何と戦っているか」を知り、見きわめてることです。御言葉に聞き、祈る。それがクリスチャンの戦い方です。

先週、たまたま部屋を整理していて1枚の映画チケットが手元に残っていたのを知り、その足で「祈りのちから」、本題は「WAR ROOM」:戦いの部屋ですね、それを鑑賞してきました。今上映中ですので内容の詳細は控えますが。そこで改めて、わたし達クリスチャンには祈りという最強の武器が与えられている幸い。そして祈りは確かに神さまが聞かれ、応えられるという確信を強く頂きました。映画の中で特に考えさせられたのは、祈るとき、どこか見当違いの祈り方をしていないかどうかです。先ほど申しましたように、それは「私の問題の本質は何か」を知る必要があるということです。
 たとえば、これは一つの例ですが。自分のことをよく思わない人がいたとします。いくら自分の方から心開こうとしても、うまく意思疎通ができず悩み苦しんでいるとします。時にそんな相手のことがうとましくなり、逆に憎悪のような思いにかられ、敵の様に思えるようなこともある。そういう事が続くと、まあ人間的な思いでは相手のために祈る気持ちはもはそがれ、祈ることもできなくなっていきます。けれども、実はそういうときこそ、神さまの出番なのです。
 どういうことかと申しますと、こういった状況になりますと大概「神さま、どうかあの人を何とかしてください」とか「何かのきっかけが与えられ和解することができますように」など祈ると思うのですが。先に申しましたように、相手に対して祈る気さえそがれてきますと、仕舞いには「神さま、私にはどうすることもできませんが、私とあの人の間にあなたがご介入ください」としか祈りようがなくなります。実はそこから本当の祈りは始まります。
祈りとは私の願いを神に押し付けることではありません。否、私の人生、私の対人関係、私の病や問題、課題や願望までも、「神よ、あなたが介入してください、あなたがお働きください」と祈ることなのです。今年の大阪教会の標語はまさに、婚礼の席でぶどう酒が切れてしまった問題が起こったとき、主は、水をぶどう酒に変えて、その問題を解決され、栄光を顕されたように、「その主ご自身が御手を動かし、事態を変えてください」と願い、主の御言葉のとおり、水がめの中に水をいっぱいいれる、ということです。そこに、主のお働きを切に願い求める者のうえに、主はその栄光と解決の道を与えてくださる、ということであります。敵はあの人、この人ではありません。病そのものでも、問題そのものでもありません。神のお働きを妨げ、損なおうとしている力や働きこそが、真の敵なのです。
その戦いに主が勝利してくださることを確信して祈ることです。

新約聖書エフェソ6章10節以降にこうあります。
「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つこと ができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」

ダビデがここで、アブサロム自身を敵としていなかった、ということが今日のとっても大切なメッセージであると思います。真の敵は人ではありません。人を争わせ、不和や憎しみをもたらし、罪へ誘う悪の諸霊とその勢力です。神の愛から引き離し、人間らしく生きることを損なわせる世の力が今も働いています。けれども主はその世の勢力、悪の力に対してすでに勝利されたのです。そこで私たちに求められているのは、この主なる神さまに全幅の信頼をもって、あなたの勝利と栄光をあらわしてください、と祈ることなんですね。祈りとはそういった意味からいえば、霊の戦いであります。主なる神さまは、様々な問題がうずまく世にあって、私たちにその霊の戦いにおける最も大きな武器である祈りと信仰を与えていて下さいます。主イエスは言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
 すでに完全な勝利を成し遂げられた主にご介入頂いて、私たちも祈りを通してその主の勝利に与っていきたいと願います。

さて、今日の箇所からもう一つ思わされたことがあります。
それは、私たちの置かれている立場によって、その受け取る思いや気持ちは必ずしも同じものではなく、異なる場合があるということですね。「良い知らせ」を王に伝えたいと勇んで向かったアヒマアツ。けれど、それはダビデにとって良い知らせとはなりませんでした。ダビデはイスラエルの王という立場でしたから、わが陣営が敵に勝利したという良い知らせに対して、全面的に喜び、家臣たちの労をねぎらってやるというのが、まあ指導者としては求められているように思えますが。でも、ダビデはそれができず、息子アブサロムの死を嘆き続けたんですね。
 19章あとで家臣のヨアブは、勝利したのに悲嘆に暮れ、嘆き続けるダビデ王に、「あなたは、あなたの命を救ったあなたの家臣たち全員の顔に恥をさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか」とダビデ王を諌め、ダビデはイスラエルの人々と自ら心は一つであることを呼びかけ再び立ち上がるのです。

立場立場によって人の思いや気持ちが異なることは確かにございます。人の悲しみに対しても、それを自分が経験したことがなければ、その気持ちを察したり、自分のこととして感受することはなかなかできません。又、自分の気持ちに余裕がなく、しんどいときには、喜んでいる人の喜び、又幸せな人の幸せを共にすることがなかなか難しかったりするものです。かえって幸せそうな相手をねたんだり、やっかんでみたりする思いがわいたりすることさえあるでしょう。
 何故分かってくれないのか?どうしてそんな態度をとるのか?そういう言い方をするのか?と相手を責めたくなったとき、その相手の態度の中に、その人だけが知ること、感じること、その立場でなければ分からない何かがあるのかも知れません。主は一人ひとりのその心と思い、又祝福や平安を妨げている力をも知っておられます。そこに主のご介入を祈る、まさに祈りの必要性があります。

今日のお話から、「良い知らせ」のはずが、という題をつけました。血肉による戦いによっては解決するどころか、新たないさかいが生じるだけです。私たちとって最も価値あること、それは「主にあって霊の戦いに勝利する」ことであり、「私のうちに働こうとする罪や悪の力から、解放され、主イエスの救いにある平和と和解の喜びを頂くことです。それが得られるまで忍耐強く主のご介入を期待し、祈り続ける。そのようなクリスチャンとしての戦いを希望をもって日々続ける者とされてまいりましょう。
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権力のもつ罪の罠

2016-07-10 17:04:17 | メッセージ
礼拝宣教  サムエル記下11章  
                                                       
             
本日のサムエル記下11章にはダビデの生涯で最大の汚点ともいえる過ちが包み隠さず赤裸々に記されています。
先週、神の箱がエルサレムに運び上げられるということで、神の箱の回りを喜び踊ったダビデの純粋な信仰の姿を見たのですが。今回のダビデはまるで別人のようにも思えます。しかしそれは同じダビデであります。
              
神に油注がれて王に立てられたダビデともあろう人が、このような大きな取り返しのつかない過ちを犯した。いかに信仰心が厚く、正しい人であったとしても、いつ誘惑に陥って罪を犯すか分かりません。私たちは聖書の中に人の弱さと神の戒めとを見ます。           
新約聖書のペトロ一5章8節以降で、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがらのがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」とありますように、どんな時も主の御前に身を慎んで目を覚まし、誘惑の罠から逃れ得るよう信仰に踏みとどまる者となることを願います。

ダビデの場合、この時期、アンモン軍やアラム軍に勝利し、まさに王としてその権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。神の祝福はまさにダビデ王と共にあるそのような時にダビデは姦淫を犯し、それを隠すため画策し、それが失敗すると、その忠実な部下を騙して最前線に送り戦死させるのです。 
             
それはまことに皮肉なことに、先週のダビデ王がエルサレムの自分の町へ喜び踊りながら運び入れた、神の箱の中の十戒に刻まれた「殺してはならない」「姦淫してはならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」という4つの重罪をダビデ王は犯してしまったのです。
             
さて今日の箇所でダビデは、王たちが出陣する時期が来ても、戦いは部下のヨアブに任せ、自分はエルサレムに残って昼寝をし、夕方目が覚めるとひまつぶしに王宮の屋上を散歩したとあります。戦いを案じる必要がないほど彼に余裕の思いがあったのか知れませんが。家臣らが命がけで戦っている時に王は昼寝をし、高い所から町を見下ろしていたのです。そういう時に、彼は屋上から水を浴びている美しい女性の姿に目が留まるのです。彼女はウリヤの妻バト・シェバでした。
 たまたま大層美しい女性が水を浴びていたということで目がいってしまった。まあそれはそれとして、問題はダビデが人をやってその女が誰か調べさせ、兵士ウリヤの妻であると分かっていながら彼女を召しいれ、床を共にしたことです。これは、いかにダビデ王であっても許されない「姦淫」の大罪です。

ダビデは王でしたから、バト・シェバとの力関係は明らかでした。バト・シェバはその行為が神に罪を犯すことは知っていても、王に逆らうことはできませんでした。王に命じられるまま否応なく従う外なかったのかも知れません。

私たちの世の中においても、学校、スポーツ芸能界、警察、自衛隊組織、政界と、様々な組織や職場における上司や指導的立場にある者によるパワーハラスメントが問題になっています。それが表ざたになっているのはごく一部でしょう。大半は隠蔽され、被害者は泣き寝入りする他ない事が多いのではないでしょうか。宗教者も又、例外ではないでしょう。私も教会の牧師という立場を過つことがないよう、やはりこの「力」ということに対して絶えず自戒しておかねばと肝に銘じております。牧師の言うことは何でも正しいなんて、みなさんは思っていないとは思いますが、牧師も人間でありますから間違いや誤りはあり得ます。そういう時に牧師も信徒も日ごろから互いに対話できる関係づくり、祈りあえる土壌を培っていけるかどうかがとっても大切かと思います。聖霊の風通しのよい教会でありたいものです。

話を戻しますが。バト・シェバからの使いで、彼女が「子を宿した」ことを知ったダビデはそれを隠すためにその夫ウリヤを戦場から呼び戻し、家に帰って妻と共に過ごすように勧めます。そうすることで、彼女が宿した子が夫の子であるという理由づけになるからです。
しかしウリヤは、「神の箱もイスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と共にしたりできるでしょうか、わたしはそんなことはできない」と断るのです。ウリヤはそのように大変律儀で、忠実な人物であったようです。まあそのように断られたダビデは、今度はウリヤを招き食事を共にし、酒に酔わせた後、彼を妻の家に送るように企てます。しかしウリヤは王宮を退室し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかったのです。
王と同士たちに忠実であった勇士ウリヤと、自分の犯した大罪を力でもみ消そうとするダビデの姿とは、何とも対照的です。 
              
ダビデの工作は忠実なウリヤの態度によって2度も失敗に終わります。
そこで彼は過ちを隠すため遂に権力を最大限使ってウリヤを最前線に送り出して、他の兵士たちを退却させ、置き去りにして戦士させるという恐ろしい計画を企てるのです。しかもその書状をウリヤ自身に持たせ、彼が信頼を寄せる上司ヨアブに王の命令として送りつけるのですね。
あの羊飼いをしていた少年時代のダビデは、正義感が強く、神さまに信頼する少年でした。しかし王になり、権力を持つことによって、ダビデは神さまへの畏れや信頼を忘れ、大切なものが見えなくなってしまったのかも知れません。
              
イエスさまが荒野で試みに遭われた時、悪魔がやってきて、高い所にイエスさまを立たせ、世界の国々を見せて、「わたしには一切の権力と繁栄を与えることができる。もしわたしを拝めば、みんなあなたのものになる」と誘惑します。それに対してイエスさまは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕よ」と書いてある、とそのサタンの誘惑を退け、神の御心のうちに歩まれるのであります。
地位や権力、お金もそうでしょうが。ともすればそれらによって人間は囚われ、大切なものを見失ってしまうような力が働くということですね。

王となったダビデは、自分の犯した過ちまでも地位や権力によってもみ消したり、覆い隠すことができると、思い違いをしてしまったのかも知れません。待ち受けていたのは恐ろしい罪へのいざないでした。
   
結局、ウリヤは王に忠実に従って最も危険な場所に赴き、アンモン人によって殺されてしまいます。いや正確にいえば、ウリヤはダビデによって殺されたのです。ウリヤの死を知った妻のバト・シェバは、「夫のために嘆いた」とあります。その一言にこめられた彼の心の傷の深さ、心の複雑さ。
ダビデが犯した重罪は、バト・シェバ、そしてウリヤ、さらには共犯者にしてしまったヨアブに対してもそうであったように、権力をもつものがそうでないもを相手に、その力関係によって隣人の尊厳と生命を奪ったことにあります。

さて、ウリヤが死んだあと、喪が明けるとダビデはバト・シェバを妻にしました。そしてバト・シェバは子を産みます。世間の見た目には、当時のことですから、やもめとなった家来の妻を引き取ったダビデは、情け深い王として善を行ったように見えたでしょう。ダビデの工作はうまくいったように思えました。
 ダビデは力ですべてをもみ消すことができたと考えたかも知れません。しかし主の御目をごまかすことはできません。11章の最後には、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記されています。主はダビデの行った悪を見逃されません。

「主の十字架」
12章において、神さまは預言者ナタンをダビデの下にお遣わしになります。
 ダビデは主の僕ナタンに自分の犯した大罪を指摘され、ダビデはその責めを負うことになるのです。それはバト・シェバとの間に生まれた子の死でした。
ダビデは自分の犯した罪のために、わが子を失うこととなりました。その代価はあまりに大きなものでした。けれども、このことをとおして彼は人ではなく、自分の罪深さを本当に知り、心のそこから神さまに立ち返って悔い改めたのです。

実はここに、「主の十字架」の真理が啓示されているのです。御子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架にはりつけにされ、苦しみ痛みながら、私たちの罪の裁きを自ら引き受け、死んで罪のあがないを成し遂げてくださった。わたしたちが主の十字架を仰ぐとき、己の罪深さを知らされます。神の御心を痛めていたことに気づかされます。同時に主イエスにある救いの恵み、御神の慈愛、聖霊のご臨在を知るものとされます。
 
神は愛であり、義なる裁き主でもあられます。主はすべてをご存じであり、すべてを明るみにされるお方であります。
ガラテヤ6章7節-10節にこうあります。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来 て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族となった人々に対して、善を行いましょう。」

ここから、主イエスの御救いに応えて生きる私たちとされてまいりましょう。
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神の御前で喜び踊る

2016-07-03 19:10:18 | メッセージ
礼拝宣教 サムエル記下6章1節-23節 
                               
「神への畏れ」
今日はサムエル記下6章の御言葉からそのメッセージを聞いていきます。
まず、その神の箱ですが。この箱の中身はモーセを通して神が授けられた十戒の刻まれた板が入っており、何よりそれは主が共におられるという印ともなる、イスラエルの民にとって大切な神の箱であったのです。その箱がぺリシテ人らに一旦奪われてしまうのですが、ぺリシテ人らは神の箱を運び込んだことで町に災いが下り、恐れをなした彼らはエルサレムに近いキリアト・エアリムに神の箱を移すのです。
 今日のところでは、その神の箱をイスラエルの王となったばかりのダビデがエルサレムの自分の町に移そうとするわけであります。
 その前半には「牛がよろめき、神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえたウザに、神が怒りを発し、この過失のゆえに彼を打たれた」ということが書かれています。神の箱が落ちてはならないと手で押さえたのになぜだろうと思うのでありますが。実は民数記4章のところを読みますと、かつて神はモーセとアロンに対して、聖所とそのすべての聖なる祭具を宿営から次の宿営へ運搬する時に、「聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない」と忠告されているんですね。ウザの場合まさに聖なる神の箱に手を伸ばし、聖なるものに触れ死を招いてしまったということでありましょう。2、3節には彼らが新しい車で神の箱を移そうとした、と重ねて記されています。神のために最新の車を用意したというのは何かすばらしいことのように思えますが、実はそこに大きな過ちがあったのです。
 本来神の箱はその両側に付けた環に、アカシア材の棒を差し込んで、それをレビ族ケハトの氏族だけが「担いで移す」ことがモーセの時以来定められていたのです。人の思いや考えは、「新しい車を用意した」ように、如何にも体裁よく、又効率的であるのがよいように思えるかも知れません。しかし神の知恵と御心は人の思いを遥かに超えておられます。神の定めに畏れをもって彼らがそのように神の箱を聖別された者に担がせ、用心深く運んでいったなら、車は傾かなかったであろうし、ウザも安易に手を伸ばして、聖なるものに触れて死を招くことはなかったでしょう。
 新しい車なら見栄えも効率よく神の箱を運ぶことができる、といった人の思い上がりが、神を怒らせた要因であったのではないでしょうか。私たちは転がり兼ねない神の箱に手を伸ばして、その箱を押さえてどうして悪いのか、と思いますが。問題は、ウザが神になり、神を守り助ける存在となり、神への畏れの念が欠如していた、ということではないでしょうか。
 
さて、そうして神がウザを撃たれたのを目の当りにしたダビデに恐怖心が起こります。「どうして主の箱を私のもとに迎えることができよう」と、それは神への畏れが希薄でまったく足りなかったことへの恐れであります。その恐れのあまり、もはや「ダビデの町、自分のもとに神の箱を移すことを望めなかった」ダビデは、神の箱をペリシテのガト人の家に向かわせます。そこはかつてダビデと戦ったあの巨人ゴリアトもガト人でした。なぜダビデはイスラエル人ではなく、異教のペリシテのガト人の町に神の箱を移したのでしょうか。それは多分、ウザの死の出来事以来、イスラエル人は恐れてだれも神の箱を自分の家に置こうと思わなかった、まあその苦肉の策としてガト人の家に移す外なかったのでありましょう。
 そうして3ヶ月間、神の箱はガト人の家に置かれるのでありますが。思いもよらぬことに神はその家の者一同とその財産のすべてを祝福されます。その報告を聞かされたダビデ王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をガトの家からダビデの町に運び上げるのですね。これはもはや何としてもダビデの町に神の箱を運び上げなければ、ということであります。ダビデは、神は聖なる厳格なお方であると共に、ガトという異教の人のうえにも栄光を表されるお方であることを知ります。
 歴代誌上15章によれば、このガトの人の家からダビデの家に神の箱を運んでいく時、ダビデは「特別に聖別されたレビ人たちによって運ばせた」とあります。そして今日の6章13節には、「主の箱を担ぐ者が」とありますように、今度は車ではなく、主がかつて定められたとおり、箱の環に棒を差しいれ、それをこのために特別に聖別された者に運ばせます。ここにはウザのあの出来事のように二度と主の怒りを招いてはならないという「神への畏れ」の思いが如実に表れているようです。それは、神の箱を担ぐ者が6歩進んだ時、ダビデは肥えた雄牛を神にささげるのですが。ここにも神を敬うダビデの心を読み取ることができます。
 神は聖なるお方です。罪ある人間が到底触れることの出来ないお方であります。にも拘わらず私たちが罪に、あのウザのように滅んでしまうことがないように、神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、十字架のみ業によって罪をきよめ、「天の父よ」と呼ぶ特権を私たちに与えてくださっています。どれほど尊い恵みであり、幸いでしょうか。

「神の御前で」
さて、そうして神の箱が運ばれる時、ダビデは麻のエファド・祭司がつける胸当てを身に着け、「神の御前で力のかぎり踊った」とあります。この「踊る」というのは原語で「ぐるぐる回る」という意味があります。彼は運ばれる神の箱の回りを何度も何度もぐるぐる回りながら、イスラエルの人たちと共に喜びの叫びをあげ、跳ねるように力の限り、つまり自分のもてる精一杯を尽くして踊ったのです。 もはや王として人からどう見られているかといった思いは微塵もなかったのでしょう。最新の車で王の威厳を示して運び入れるのではなく、彼は主の御前で、王としてではなく、一人の人間として、神が愛し生かしてくだっている恵み、又、神がともにおられるという確信に満たされながら、その喜びを力のかぎり、跳ね上がるほど踊ることによって表現したのですね。いやむしろ、そのように踊らずにはいられないほどの喜びが溢れていたのですね。
 今日の聖書の箇所には何度も「主の御前で」ということが記されていますが。新約聖書・コロサイの信徒への手紙3章33節には、「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい」とあります。そのように主への感謝、救いの喜びを、人にどう見られているか、どう思われるかではなく、神の御前にあって神さまのために喜びと感謝を表現し、言い表せる者でありたいですね。 

「喜び合えないミカル」
ところでこのダビデが主の御前で喜び踊る様子を高い所から見下ろしていた人物がいました。前の王サウルの娘ミカルです。彼女は「窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ」というのです。又、ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、ミカルはダビデを迎えて言います。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」 
かなり辛らつな一言ですが。
 このミカルは、かつて父であったサウル王の策略によってダビデの妻とされるのですが。サウル王がダビデに敵意をもったため、ミカルはダビデを守るために尽くします。その後サウル王が激しくダビデの命を狙うようになり、ミカルは父サウル王によって再婚させられてしまうのです。そしてダビデが王になると、ミカルと再婚した相手からミカルを取り戻す、というまあミカルは気の毒な人であったという気もいたしますが。
 いずれにしろここでミカルがダビデの喜ぶ姿に冷淡であったのは、彼の王としての威厳が損なわれたと思えた、そのことへ激しい憤りから来ているのだと思うのです。ミカルはサウル王の娘でしたから、幼少の頃から王の娘として育ち、父サウル王の姿を見ながら育ったのでしょう。そういう中で、王というのはこういう姿であるべきとの観念をもっていたんだと思うんですね。その物差しでダビデ王が踊った姿を見たとき、彼女はもう情けなくなり、それは王としてのプライドを傷つけることだ、とダビデを見下したのです。

そのことに対してダビデはミカルに言います。
21節「そうだ、お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。」
 先ほど申しましたように、ダビデは人ではなく、唯神の御前で、主のために力のかぎり踊ったのですね。そして、「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう」というのです。
 それは、自分を王として立てた家臣らは神を畏れ敬う者たちであるから、彼らから返って私は敬われる、とそう言っているのです。神を畏れ敬う家臣たちは、ダビデ王の行動が格好いいとか悪いとかいううわべではなく、その根底にある神への畏れ、感謝、愛を見て、共感するということです。
 
ミカルはかつて主の箱がダビデの町に着いた時、民の喜び、ダビデ歓喜、ダビデが子どものようにはしゃぎながら踊ったその喜びを自分の喜びとすること、共感することができなかったのです。なぜならミカルはダビデを王として立てた神さまをほんとうには知らなかったからです。それはダビデにとって大変残念なことでした。

これは連れ合いから聞いたことですが。
 彼女がかつてイスラエルを巡礼した時、チャプレンが話してくれたそうです。
そのチャプレンが引率する団体に、ある時、行く先々で何かやらかす壮年がいたそうです。これがいなご豆だといえば。湯がきもしていないそのままを口にしてみたり。これはザアカイのいちじく桑の木といえば、気づくと木によじ登っていたり、とそんなことばかりする人だったらしいです。一同この壮年が次に何をやらかすのかと心配しながら各所を回っていたそうですが。そして一行が泉のほとりまで来た時、遂にその壮年が泉の中に入って大声で、「主よ、私を生涯あなたに従う者であらせてください」と、まあ大きな声で祈った時、それまで冷ややかなに彼のことを見ていた人たちは感動して泣き出したそうです。聖霊が働いたんですね。変えられなければならなかたのは、実はその行く先々で「恥ずかしいからやめて」「面倒起こさないで」とやっかいに思われていたその人じゃなく、彼を冷ややかな目で見て、冷笑していた人たちだったんですね。
 個々人の神さまへの向き合い方は様々でしょう。感謝や喜びの表現も人それぞれあって良いのです。こうあらねばならないとか、こうすべきだ、という事はありません。むしろいろんな表現の仕方は拡がりとゆたかさを与えてくれます。
もちろん皆が好き勝手なことをすれば混乱してしまいますけれども。しかし何をするにしても尊いのは、ダビデが主の御前で力のかぎり踊ったように、救いの喜びや感謝が神さまに「私らしく」表されることですね。この私らしくというのが実に大切なのです。誰かのようにではなく、形にはめるのでもなく、私らしく恵みに応えて生きる。その自然体が証しになっていくんですよね。

「神の愛と祝福の糧」
最後に、神の箱がダビデの町に着いて、天幕に置かれたときに、ダビデはまず神の御前にさまざまな献げものをささげました。そしてその後、そこに集った民をダビデは祝福し、そのすべての人たちに、パン、なつめやし、干しぶどうの菓子を分け与え、民は皆、それぞれ自分の家に帰って行った、とあります。
 その配られたものは食べ物だったんでしょうが、その本質は「神の愛と祝福の糧」です。それがそれぞれの遣わされている場に持ち帰られて、さらに分かち合われる。私たちの使命がここに示されているように思えます。
 今日は神の箱を通してのお話でした。今私たちは神の箱に優る主イエスをここにお迎えしています。主イエスの御前で、共にその恵みを力の限り喜びを表し、共に分かち合っていく者とされてまいりましょう。
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敵意の壁を越えて

2016-06-26 15:36:01 | メッセージ
礼拝宣教  サムエル上24・1~23 

本日の聖書ですが。先週読みましたダビデを妬んだサウル王はダビデを殺すために、選りすぐりの兵士3千人を率いて「山羊の岩」と呼ばれる付近に着きます。サウルは用を足すためにそのそばにある洞窟に入っていくのですが。ところが、その同じ洞窟の奥にはダビデとその兵たちが身を潜めていたのです。何も知らないサウルが無防備にも上着を脱いで用を足しているのを目にしたダビデは、兵たちの「神さまがあなたにサウルを引き渡され、思いどおりにするがよい約束されたのは、この時のことです」という言葉を聞き、サウルに忍び寄ります。しかし王に手をかけることなく、その上着の端をひそかに切り取って戻るのです。ダビデはその時まさに千載一遇のチャンスが訪れたわけで、サウルさえ亡きものにすれば、いわれなき悪意からも、長期に亘る逃亡生活からも解放され、遂に王位につくこともできたのです。

ところが、彼はそうしませんでした。それどころかサウル王の上着のほんの端の方を切ったことさえを後悔したのです。どうしてでしょう。
ダビデは7節で、「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」と言って、意気まく兵士たちを説得し、サウルを襲うことを許しませんでした。ダビデは今日の箇所で3度も「主が油を注がれた方なのだから」と口にします。
それは、神さまが自分に油を注がれたように、サウロもまたその神さまに油を注がれた人である。そのサウルに直接手を「主は決して許されない」と、ダビデの主体は何時も神さまでした。主を畏れ敬うその思いが、「彼は主に油注がれた者なのだから」と言わしめているのです。

わたしたち主の御救いに与ったクリスチャン同士であっても、性格が合う合わないということはありましょう。感情のもつれや衝突によって人間関係が崩れそうになることが起こり得ます。イエスさまの弟子たちも例外はありませんでした。「主よ何度までゆるすべきでしょうか、7度まででしょうか」と主イエスに尋ね、「いや7の70倍までもゆるしなさい」と諭されたというエピソードがございます。まあ、そのような自分自身の愛の足りなさを突きつけられる時、そこでやはり思いだしたいのは、自分の前にいるこの人も、彼も、又彼女も、主が油を注がれた人なのだから、ということです。罪に滅びる外ないようなこの私が救われて聖霊の油に与かっているように、この人も又主が愛して救われ、同じ教会の油注ぎの中で、主の家族として共に生きるように立てられている人なのだと気づき直す。そういう主にあって関係性を受け取り直すことが必要なのです。
それはたとえ私にとって人間的にそりが合わなかったり、性格が合わないといった人にも同様に神さまは最高の愛を注ぎ込み、その存在を引き受け、生かしてくださっているという事を知る大切さを、今日のダビデの言葉から示されているように思います。
 
話は変わりますが、先日12日はここ大阪教会でルワンダミッションボランティアとして尊いお働きを継続的になさっておられる佐々木和之さんの帰国報告集会が持たれましたが。その折、佐々木さんが川崎桜本でヘイトデモを止めた市民たちのことを伝えるTV番組を紹介されたのですが。
それは心ない人たちの言葉に胸痛めていた母親を見る見かねて、息子の少年がデモの人たちに訴えるのでありますが。その際母親がその息子とともに、デモを強行しようとしたTさんにこういう手紙を書いて送ったというのです。
「Tさん、私たちの出会いは悲しい出会いでした。Tさん、私たち出会い直しませんか。加害、被害の関係から、今この時を共に生きる一人の人間同士として出会い直しませんか。加害、被害のステージから共に降りませんか。」
佐々木さんはルワンダでの被害者と加害者の平和と和解のプロジェクトのうちに生きているものとそれは非常に重なっているように思う、とわたしたちにお話くださったことが、大変心に残っています。

佐々木さんは、「命を奪い奪われた隣人同士が、再び共に命をはぐくみ、またそれが明日の自らの命をつなぐ糧となる。ルワンダで今、彼らが取り組んでいる養豚プロジェクトを引き合いにだしながら、「和解は命を紡ぎ、共に歩みなおすプロセスなのだ」とおっしゃいました。
今、世界は以前にはなかったような紛争やテロの脅威にさらされています。そこには政治的なものも働いているでしょうが、報復や憎しみの連鎖が人の命と尊厳を蔑ろにする悪循環に陥っているといえます。

ダビデが14節で、「古いことわざに、『悪は悪人から出る』。わたしは手を下しません」と言っていますが。ダビデがもしサウルに直接手をくだして殺していたら、悪は悪人から出るとのことわざのとおり、ダビデも悪人になっていたことでしょう。如何なる理由があるにせよ、「神に油注がれた方」に手をかけてしまった。そのような思いに責め苛まれ、返って恐れや不安が増大し、サウルと同じように心が病んでいったのではないでしょうか。
ダビデは、サウロ王が主に油注がれた存在であるということを重んじ、和解の道を主にあって求めることを選びます。12節では、ダビデが自分の命を狙うサウロに対して、「わが父よ」と呼びかけていますね。これはほんとうに驚きです。又、このダビデの呼びかけと言葉にサウル王も又、一度も口にしたことのない「わが子ダビデよ」という呼びかけで応答しているのです。それはサウルとダビデの凍りついていた思いや関係性がまさに氷がとけていくように和らぎ、心通うようになるのです。

サウル王はダビデの態度とその言葉に、声をあげて泣きながらこう言います。
17節、「わが子ダビデよ、お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしてくれたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。中略。今わたしは悟った」と。

サウロは、洞窟で起こったすべての出来事が、神のご計画の中で起こったことを認めます。サウルも又、真に畏れる対象はダビデではなく、すべてを治め、生きてお働きになられる主なる神さまの存在であったのです。

しかし、そのサウルとダビデはそれぞれ別の場所に帰っていった、とあるようにこの和解は一時的な事で、再びサウルはダビデの命を狙うようになるのです。
 人間の感情は複雑です。ひと時相手を受け入れ、許すということができたように思えても、また事あるごとに善からぬ思いと知りながら、ふつふつと湧きあがってくる怒りや憎しみ妬み。
かつて佐々木さんがルワンダの和解の出来事において、被害者は「もう相手を許した」という決意の後でも、加害者への抑え難い感情が湧きあがってくる。そういう葛藤を繰り返しているとおっしゃっていました。逆に加害者も罪を認めると本当に相手は許してくれるのか、復讐されるのではないかといった不安に揺れ動いている、とおっしゃていました。
私はそれでも平和と和解のプロジェクトが今日まで続いてきたのは、両者の間に主イエスが共に血を流す者の姿で、人と人、神と人とを執り成し続けていてくださるからだと信じます。同時に、主の御声、聖書の言葉の迫りに叱咤激励されながら、祈り応えようとする信仰の戦いが続けられているからだと信じます。

最後に、コリント二5章17節-18節を開いてみたいと思います。(新約聖書331頁)
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」

敵意の壁を越えていくところに神の国は実現していきます。その「神の国はあなたがたの間にある」と主イエスはおっしゃいました。祈りつつ、神の国、平和と和解の道を追い求めて生きる者とされてまいりましょう。

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沖縄「命どぅ宝」の日をおぼえて

2016-06-23 09:52:39 | メッセージ
あかし M・I

「命どぅ宝」とは日本語で「命こそ宝」という意味になります。
この命どぅ宝の日というのは、6月23日の、沖縄戦が終わった日にあたります。
沖縄では慰霊の日と呼ばれ、学校等はお休みになります。これは沖縄戦において日本軍が組織的な戦闘をやめた日のことで、毎年この時期に梅雨明けを迎える沖縄では、よく晴れた美しい日になる事が多いです。
でも県民にとっては、多くの命を失った71年前の沖縄に思いを馳せる、とても悲しい日でもあります。


この慰霊の日が近づくと、沖縄の学校では「平和記念週間」と題し、戦時中の沢山の写真や資料の展示、沖縄戦を題材にした絵本の読み聞かせ、平和記念資料館の見学など、様々な形での平和学習が企画されます。
沖縄戦を直接経験していない私が、自分のとても深いところで戦争の恐ろしさや、二度と繰り返されてはならないという思いを持っているのは、小中高を通してこの平和学習が徹底されていたからだと、大人になって強く感じています。
地上戦の記録ですので、小学生だった自分には平和学習の内容はとてもショッキングなものが多く、学校帰りに米軍の飛行機の音が聞こえると「今から戦争が始まるんじゃないか」と恐ろしかったのを覚えています。
しかし学習を通して、戦後50年経って生まれた子供たちが、「今の平和は戦争で亡くなった人たちの犠牲の上に成り立っているんだ」ということを感じる事ができたのです。

ですので、この日を「命どぅ宝」の日として覚えましょう、という女性連合の方達の呼びかけを知って大変嬉しく思いました。
この日のテーマは沖縄県民に限られたものではなく、平和を守るためには、「平和でなかったときのこと」を今の私達が知ろうとし続ける他にないと思うからです。

また、1県民としてこの日に覚えて頂きたいのは、戦後70年の今も米軍基地を始めとした戦争の負の遺産に悩まされる現在の沖縄のことです。
覚えて祈る、ということは、宗教を持たない人からすると一見何のアクションにもなっていないかもしれません。
しかし一朝一夕では変わらない、一人の力ではどうにもならない事だからこそ、一人でも多くのひとが、自分のこととして関心を寄せることで、何かが変わってゆくのではないかと思っています。

実際に沖縄は変わりつつあります。
辺野古を始めとする基地問題に対して無力感を感じていた県民ひとりひとりが、党の派閥を超えて翁長県知事を誕生させ、厳しい風当たりの中がんばる翁長さんの姿を見てまた勇気をもらい、様々な県民のバックアップのもと、沖縄県の声を国連に届けるなどして、「自分たちにも何か動かせる」という気持ちが県民に広がってきているのを感じます。

神様は、2人以上のものが祈る時、その祈りは聞き届けられるとおっしゃっています。

私も県外に出てからは、日々の忙しさにかまけて、沖縄にいたときと同じように情報を追いかけるのは難しくなってしまいましたが、23日には子供のころからやってきたように、正午に1分間の黙祷を捧げ、沖縄について祈る時間を持とうと思っています。

みなさん、どうか一年に一度のこの命どぅ宝の日に、一緒に心を合わせて祈り、71年前のすべての戦没者の方々の鎮魂を願うとともに、現在の沖縄にも思いを巡らせる時間を取って頂けたら嬉しく思います。




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逃れの道

2016-06-19 14:52:20 | メッセージ
礼拝宣教  サムエル上21・1~16 命どぅ宝の日をおぼえて

先週はルワンダミッションボランティアの佐々木和之さんの帰国報告会が連盟主催・連合協力・企画により当教会で行われ80名近い方々が集われ、佐々木さんの平和と和解のミッションのお働きやご体験についてご講演をお聴きすることができました。私たちの教会としてもこの佐々木さんの尊いお働きを祈りに覚えていくことができたら、とそう思いました。

さて、今週23日は沖縄慰霊の日、バプテスト女性連合では「命どぅ宝の日」として、沖縄の平和を覚え祈る一週間となるように願っています。先程女性連合作成のDVDを通しての現状と課題、又沖縄で生まれ育ったIさんの証しと祈りが捧げられました。戦後71年目を迎えましたが、その間日本は戦争をすることなく平和が保たれてきましたけれども、沖縄だけは憲法9条が適用されていないともいえる現状があります。中東での戦争の折には、沖縄から米軍の戦闘機が出撃して戦闘行為を繰り広げ、沖縄は出撃基地として報復の脅威にもさらされました。日米安保体制のもと日米地位協定という不平等条約が未だに沖縄の方々の人権を蔑ろにし、生存権を脅かしているということを、私たちはなかなか自分のこととして感じとれません。それは沖縄の抱えている危機が自分たちのうちに迫ってきていないということでもあるでしょう。平和に対する思い一つとっても、沖縄と本土には温度差があるように思えます。沖縄の方々が日々負っておられる不安や恐れを少しでも自分たちのこととして感じ取り、思いを寄せ続けていくということがやはり大事だと思います。それが日本全体、ひいては地球規模の平和への願いと実現につながって行くと信じます。私たちはそのことをキリストの福音から聞き、祈り、行動するように招かれています。

さて、本日はサムエル記上21章より御言葉を聞いていきます。この箇所にはダビデの逃亡についてのエピソードが記されています。

「命を生かす憐れみ」
さて、先週は少年ダビデと巨人のゴリアトの対決から、ダビデの「お前は剣や槍や投げ槍にわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」「主は救いを賜わるのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう」という言葉を聞きました。ダビデがそうであったように、主なる神さまへの畏れと信頼をもって立ち向かったところに、本物の勝利は与えられるのだ、ということをそこから知ることができました。
その後、ダビデの名声はサウル王を凌ぐようになっていき、サウル王はダビデに対して激しい妬みを抱くようになります。それがダビデが命を狙われるまでエスカレートした時、ダビデのことを「自分自身のことのように愛していた」(20:17)サウル王の息子ヨナタンは、ダビデを父の激しい怒りと殺意から遠ざけるために命がけで逃亡させます。そうして、ダビデが一人向かったのはノブの地にいた祭司アヒレメクのもとでした。
このノブの地には神の幕屋、礼拝場があったのです。ダビデがそこに逃れたのは、神に望みをおき、御前に出で、祈り、自分の立ち位置を確認するためであったのでしょう。さらに彼は逃亡の中でお腹がすき食糧を求めていたのです。祭司アヒレメクなら何とかしてくれるに違いないと考えたのかも知れません。
そのダビデを祭司アヒレメクは不安げに迎えた、と記されています。彼が不安げにというのは、あの巨人ゴリアトを倒した勇者、千人隊長のダビデともあろう人がみすぼらしい姿で警備隊の供を一人も連れずに来ることなどありえなかったからです。「もしや、君主サウルに対してむほんを働いたのでないか。」そのような憶測が彼を不安にさせたのでしょうか。そこで祭司アヒメレクは、「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか」とダビデに尋ねます。

それに対してダビデは、「サウル王からだれにも気づかれるな」と命じられていることがあり、従者たちには、ある場所で落ち合うように言いつけている。だから一人だ」と、偽りを言うんですね。

ダビデはなぜこのような嘘をついたのでしょう。祭司のアヒメレクに自分がサウル王のもとから逃げて来たと言えば、彼が自分を受け入れてくれない、そいれどころかサウル王に自分の居場所を伝えるかも知れない。そういう恐れから、このような嘘をついたのでしょう。

ダビデは話題をそらすかのように、「それよりも、何か、パン5個で手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか」とアヒメレクに尋ねます。
けれど祭司アヒメレクの手元には普通のパンがなく、唯主のために供える聖別されたパンしかありませんでした。それは祭司以外食べることが律法で許されていなかったパンでありました。彼ら祭司にとって律法を守ることは信仰生命をかけるといっても過言ではない大切なことなのです。
それをこの祭司アヒメレクはダビデとその従者たちのために、聖別されたパンを与えた、というのであります。アヒメレクは空腹で打ちひしがれている状態にあったダビデを「自分自身のように」憐れんだのです。先程のヨナタンもダビデを「自分自身のように愛した」ということと共通しますが。
ところで祭司アヒメレクのとった行為は律法に反することのようにも考えられますけれども、彼は杓子定規に律法を守ることが大切ではなく、目の前に飢え、打ちひしがれているダビデに聖別されたパンを与えることは、「命を生かし憐れむ」律法の精神を行うことと判断して、最優先したのです。
イエスさまも、空腹で苦しんでいた弟子たちが安息日に麦畑で穂を摘んで食べたことを律法違反だと非難する律法学者たちに対して、このアヒメレクの行ったことを例に出して、「律法は人間のためのものであって、人間が律法のためにあるのではない」と教えられました。
又、祭司アヒレメクは、ダビデの「槍か剣がありますか」という要望に対して、「あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣ならある、それを持って行きたけば持って行ってください」と与えます。ダビデは「それをください」と言って持っていくのでありますが。

まあここまで読みますと、祭司アヒメレクはダビデがサウロ王から何らかの理由で逃亡してここに来たということを確信していたように思えますね。けれども彼は「主がダビデと共におられる」ということを悟ったのではないでしょうか。それはもしかしたらサムエルを通して何らかのかたちで伝えられていたのかも知れません。いずれにしろ、主が共におられるダビデだからこそ、祭司の以外食べることが許されていなかったパンを与えたと考えることもできます。イエスさまも単に弟子たちがお腹をすかせているから、律法よりそちらを優先させるべきとおっしゃったのではなく、「イエスさまご自身が、安息日の主である、その主が共にいるのだから」ということを実はおっしゃっているんですね。

話を戻しますが。
祭司アヒメレクがダビデに剣を与えたことも、普通なら王に追われているような人に剣を与えるということは、アヒメレク自身王に逆らうことになりかねませんでしたから、大変なリスクを負ったということでした。

後の22章を読みますと、実際これら一連の出来事を目撃していたサウル王の家臣ドエグによって、サウル王にことの次第が伝わり、祭司アヒメレクをはじめ、ノブの町の85人の祭司と人々は剣で命を奪われてしまうのです。祭司アヒメレクの息子アビアタルだけが生き残り、ダビデのもとに身を寄せることになるのです。そこでダビデは彼に、「あの日、わたしはあの場所に居合わせたエドム人ドエグが必ずサウルに報告するだろう、と気づいていた。わたしがあなたの父上の家の者のすべての命を奪わせてしまった」(22:22以降)と、ざんきに耐えない想いを告白しているんですね。
 とにかく祭司アヒメレクがそんな危険を承知の上で聖めのパンと権威を象徴する剣をダビデに渡したのは、彼が「主はダビデと共におられる。」そのことにこそ、畏れをもっていたからではないでしょうか。

「真の平安と救いの道」
さて、ダビデはサウル王の追手がどこまでも迫り来るのを知り、恐れます。
そこでサウル王と政治的に敵対関係にあったペリシテのガトの王アキシュのところに逃げたのは、生き残るための賢い選択だったのかも知れません。ところがアキシュ王の家臣がダビデについて知っており、王にそのことを知らせたので、ダビデは安全を得るどこか窮地に陥ることとなります。
何かに対する恐れから一見安全に見えるものを求め、頼っていく。それは私たちにもあるのではないでしょうか。

今日は沖縄の「命どぅ宝」の日を覚える礼拝として主に捧げていますが。私たちを取り巻く社会や経済の国際的状況がここ数年の間に大きく変化したことによって、多くの人が不安や恐れを抱いています。国家の生き残りをかけての安直な手段が返って人の命という宝を損なうようなことになってはなりません。

ガトの王アキシュを大変恐れたダビデは、狂気の人を装って、王から追放されることで命の危機から逃れました。あの巨人ゴリアトを倒した勇者ダビデの姿はそこに微塵も見ることはできません。力を誇示する者の目には、たとえ稚拙に見えたとしても、たとえ愚かに映ったとしても、本当に守るべきもの、それは「命の尊厳」ではないでしょうか。

最後にダビデがアキシュの前を追放された時に読んだ詩編34編をご一緒に見ましょう。(旧約聖書p,864)
冒頭に「ダビデがアビレメクの前で狂気の人を装い、追放されたとき」とありますが、アビメレクとはアキシュ王の称号です。その6節にダビデは「主を仰ぎ見る人は辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった」と歌っています。
その体験はダビデを打ち砕きました。9節「味わい、見よ、主の恵み深さを。如何に幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。次の10節「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」は宝のような言葉でありますが。この主を真に畏れ敬う人のうえにほんとうの命の平安と救いがあるのです。どのような危機に直面していようとも、主に信頼し15節のように「平和を尋ね求め、追い求める」人には、「逃れの道が与えられ」るのです。
19節以降を読んで宣教を閉じます。(読む)
「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが 主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように 彼を守ってくださる。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は 罪に定められることがない。」

「命どぅ宝」。今週も私たちの避けどころ主にあって、命と平和を追い求めてまいりましょう。


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