日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪の天王寺駅近くにある創立64年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂が完成しました。ぜひお立ち寄りください!

宝を見出した人

2017-02-19 18:22:57 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ13・44-50

先週は3日間全国牧師研修会が3.11東日本大震災の被災地であります宮城県松島で開かれ参加させて頂きました。「教会形成と災害」~東北・松島で考える~とのテーマのもと、お二人の講師のお話。そして8つの分科会。又、津波の被害がひどかった被災地東松島や石巻まで足をはこぶことができました。
一日目少し仙台空港に早く着きましたので、私は仙台市で津波の被害が最も大きかった若林地区をローカルバスに乗り、海の防波堤近くに行き着く中野という停留所まで参りました。バスの車窓からは震災から6年経っても、未だに空き地となっているところ、まだぼこぼこの土地が一面に広がっているところがあり、ここに6年前の震災の折、10メートル以上の津波が押し寄せて来た地なのだと知り、信じられなかったです。又、そのバスの路線上には震災前にはいくつもの小中学校があり賑わいでいたのですが。大津波の折は避難所となりその後は壊滅的な状態となり、後に建て替えられていた仙台私立東六郷小学校を見ると何ともいえない寂しさをおぼえました。
また2日目には石巻の被災地に参りました折も、津波の時に町の方々が避難した高台に上りそこに立ったのですが。石巻市の町中が大津波に襲われ、次々にありとあらゆるものが流されていく映像と、それが重なって見えてきました。わたしはただその高台に立ちつくし、何ともいえない思いがこみ上げてきました。その思いは研修会の期間中ずっと続きました。東日本大震災で未だに行方不明者が2556名おられるということです。
そのお一人おひとりにはそれぞれの人生があり、歴史があった。又日常とその生活があったということに思いを馳せました。研修会の前日には震災と津波で一人の女性の方の遺体の一部が見つかったということを伺いました。
大地震と津波、さらに原発事故によって、そこにあった尊いいのちや人々の生活や日常が奪われていったということを、被災地に実際に足を運ぶことによって、強く感じることができました。今回の研修会では、そこで声なき声、声に出すこともできない声に心を向け、聞いていくことの大事さをほんとうに知らされました。
これは被災地の教会のある教派のお話を聞いたのですが。それは震災時現存した教会が震災後減少したのではなく、さらに増加したというのです。その一つの教会のあかしが次のように紹介されています。「私たちの教会では5つの家族が家を失いました。身内を亡くした人もいます。そのような痛みの中を通りましたが、神様は私たちの教会を被災者に寄り添うボランティア活動に導いてくださいました。そしてその中から聖書の話に耳を傾け、イエス様を信じて人生が変えられる方が起されました。」
今回の研修会からほんとうに様々なことを学び、又、被災地に足を運ぶことによって気づきが与えられることもありました。

本日は先ほど読まれ、こどもメッセージもございましたマタイ13章44~50節より「宝ものを見出した人」と題し、御言葉に聞いていきます。

ここには3つの「天の国」のたとえが語られています。それはユダヤの日常を支える仕事と関わりのある「農夫」「商人」「漁師」といった人たちをたとえとしてイエスさまは用いて、「天の国」をお示しになるのです。人は「天の国」を別の世界のことのように夢見たり、あるいは社会的規範を守り行なうことで到達のしうるように考えたりします。「私もあの人も悪いことはしていないのだから死後は天国に行く」という考える方もおられます。けれども、本日のたとえ話は、つまるところ「天の国」は実は私たちの日常と直結しているのだというお話であります。

まず最初の「天の国」のたとえは、「宝ものを見出した人」について語られています。当時ユダヤでは、人々は財宝を壺に入れ土の中に隠したそうです。これはまあ強盗や武装した兵隊の略奪から守るための最も安全な方法だったのでしょう。
ところがその持ち主が死亡したり、何かのアクシデントに遭い行方が分からなくなった場合、その埋められた宝ものは土の中に放置されたままになってしまいます。

このたとえでは、その隠されていた宝ものを、おそらく畑仕事に雇われていた農夫が偶然にも見つけるのですね。彼は「それをそのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑ごと買う」。つまり畑ごと自分のものにするのです。

この宝の大発見は全く予想もしていなかった思いがけないものでした。自分がどんなに苦労して働いてもらえることのできないような、すばらしい宝。その人は唯驚き、喜び、その宝を自分のものとするために、これまで自分が大切にしていた物すべてを売り払って、畑の土地ごと買いあげ、宝を手に入れようとするのです。

ここを読んで、何で畑まで買う必要があるのだろう。宝ものだけ持って帰ればいいのにと思われる方もおられるかも知れません。それは、当時の合法的手段で罪を問われないようにということもあったのかも知れませんが。しかしここで強調されているのは、すばらしい本物の宝を前に、この人がそれまでの自分の生活を形づくってきたすべてのものと比較にならないほどの価値をその宝に見出したということです。
もう一つは、まあちょっとこの箇所を読んで思い浮かんだのは、高額宝くじが当たった人たちのことです。このような人たちがその後どのような生活を送っているのか興味がわいて調べてみました。すると、わりとそれまで通り勤勉に働き、ふつうに暮らしている人たちが多いようです。その一方で、「当たれば天国」のはずが、金銭トラブルに巻き込まれたり、人から嫉まれ、やっかみで人間関係が崩壊する人。浪費癖がついたり、また当選するのではというヘンな自信からギャンブル的なものにはまってしまう人などもいるそうです。その調査報告の末尾には、ご丁寧なことに「高額当選しても不幸にならない方法」というのが書かれてありました。
私も又、銀行に預けても今は利子がほんと低いですが、それでも6億円あれば定期預金にすればそりゃあまだ利子分で生活も楽になるだろうとか。そういうことかと思ったんですが。
違っていました。そこにはこうあったんです。「お金持ちに相応しい実力を身につけよう」。まあそれだけを聞くと何かいやらしい気がしますが。具体的には、「一番確実な方法として本や人との出会い、実践を通してビジネスを学ぶ」とありました。
否、今私たちは「天の国」について学んでいるのですが。ある面似ていると思うんです。いくら「神の国」を見つけた。「宝」を得たといっても、その宝に相応しい生き方がなければ何になるでしょうか。み言葉に聞き、人と出会い、主の教えを実践して生きていく。それが「畑ごと宝を買う」ということなのかと思いました。

この宝を見出した人は驚きと喜びから自分で畑を買い、この人は、ここが肝心なのですが、これからも農夫であり続けるのです。日毎汗水流して畑を耕す、そのような日常の生活をとおして本物の宝の真の価値を確認して生きる。そこに天の国の恵みが地上に開かれいくのであります。

この商人は真珠の買い付けを始めてから、「これぞ」というものをこの人はずっと探し続けてきた。
さて、天の国の二つ目のたとえ、「高価な真珠を見出した商人」について見ていきましょう。先の農夫のたとえでは、「思いがけない」こと、「予想もしていなかった」こと、「突然」ということが強調されていましたが。この高価な真珠を見つけた商人は、逆に「これまでずっと良い真珠を探し続けていた」ということが強調されています。

真珠の買い付けを始めてこのかた、「これぞ」というものをその人はずっと探し続けてきた。そして遂に見つけたのは、「高価な真珠」であった。「やっぱりいいもんは高いんやなあ」と。しかしそれは値段が高価だというのではなく、「価高い、価値がある」ということです。
私はこどもの頃、牛乳のフタを集めるのが趣味でした。それを友達とメンコ遊びするんですが。中でも1枚の生クリームのフタがピカイチで、これで勝負すると必ず勝つのです。おとなにとってみれば、それはゴミみたいものでしょうけど、私にとって最高に価値ある1枚でした。
この商人にとってこの真珠は、何ものにも代えがたい世界中でたった一つの、唯一の尊い真珠なのであります。この商人も、前の宝を見つけた農夫と同様、自分の「持ち物をすっかり売り払い、それを買い」求めるのであります。

今日の3番目の「天の国」のたとえでありますが。これは最初の「宝を見つけた農夫」や次の「高価な真珠を見つけた商人」のものとは異なります。何が違うかといえば、よい魚を手に入れようとするのは実は神であり、その網にかかった魚というのは、主イエスの福音に捕えられた一人ひとりであるということです。ここが大きな違いですよね。そしてこれがこの3番目のたとえのポイントなのですが。その獲れた魚は選り分けられる、というのであります。漁師の網が湖に投げ降ろされ、いろんな魚を集める。網がいっぱいになると人々は、漁師がいっぱいになった網を岸に引き上げ、良いものは器に、悪い者は投げ捨てる」。

このたとえは、実は前の24節からの「天の国」に関する「麦と毒麦」のたとえを受けたものです。良い種を畑に蒔いたけれど、敵が来て毒麦を蒔き両方育ってくる中で、気づいた僕たちが「その毒麦を抜き集めましょうか」というのですが。主人は29節にあるように、「いや、毒麦を集めるとき麦まで一緒に抜き取ってしまうことにもなりかねない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言うのです。そして遂に、
刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさいと、刈り入れる者に言いつけよう」と、いったというたとえであります。

主イエスはたとえの説明を求める弟子たちに「刈り入れは世の終わり」のことで、天使たちが遣わされ「正しい人々の中にいる悪い者どもを選り分け、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのです。それがこの箇所の地曳網の中に入った良いものと悪いものを選り分けるといったたとえに繰り返されているんですね。ここで非常に気になりましたのが、正しい人々の中にいる悪い者どもという言葉です。それは世の人々という世界より、前の文脈から考えても、福音を聞いて救いに与っているはずの人たちということでしょう。本物の宝ものを見出したはずなのに、一つの高価な真珠を手に入れたはずなのに。いつの間にか喜びと感謝は色あせ、生活と言動が天の国と相容れないものとなっている、そんな姿が浮かんできます。しかしそれらは人には分からないし、人が人を裁くことは出来ません。むしろ私たちは忍耐強く互いの救いのために主に執り成し合うことに、希望を見出す事こそ大事です。選り分けるのは天使とされている通り、審きは神の領域なのです。

最後に、今日このところから思いましたことは、確かに私たちが「宝」や「高価な真珠」を見出しているわけですが。それは又、主なる神さまが私たち一人ひとりを御自身の「宝」「価高き真珠」として見出してくださっているということです。それは尊い御子イエスさまを代価としてまでも、私を、あなたを、この世界でたった一つの高価な真珠のような存在として愛してくださる。その福音メッセージであります。

冒頭宮城での研修会でのことをお話しました。私はその大津波にさらわれ、何もなくなったその静まりかえった地に一人立った時、海はほんとに穏やかなんですけれども、心が重くなりました。そこで暮らすお一人おひとりの日常があった。その声なき声が聞こえて来る思いがして。福島の原発事故から6年目にもうすぐなりますが、「アンダーコントロールできている」とか。避難解除までなされて帰宅される方もおられるそうですが。未だ原発事故非常事態宣言は解除されていないという驚くべきこの事実を知らされたのですが。そこにもそのような中で日常を生きる人たちがおられるのです。

今日の主イエスのたとえ話を思いめぐらしながら、あの私の心に訴えかけた声なき声は「いのちこそ宝」「いのちこそ唯一の値高き真珠なのだ」という声であったような気がしてなりません。
見出した者、見出されたいのちの存在として、それぞれの日常がこの福音の恵みを基にしてあゆむものとされてまいりましょう。ここから。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神の業に対する冒涜

2017-02-12 14:38:38 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ12・22-32

昨日はこの教会を会場に「2・11信教の自由を守る日」を覚えての関西地方連合社会委員会主催の集会がもたれました。こうして自由に集い主の福音に触れ、賛美ができるということがどんなに幸いなことか。映画の「沈黙(サイレンス)」も観に行きましたが。神の救いの業はどこまでも人を生かす力として働かれる。世には体制や勢力、イデオロギーによって個々人のいのちが軽んじられていく力が働き、時に神の救いの業を冒涜するようなことが起るのです。今日は2000年前の、そのような今に通じるお話であります。

まず、この出来事の前の箇所には、イエスさまの弟子たちが安息日に働いてはならないのに麦の穂を摘んでそれを食べ、ファリサイ派の人たちと問答になったエピソード。
さらに安息日にイエスさまが「手の萎えた人をいやす」エピソードが記されております。ファリサイ派の人々はその出来事を機に、「どのようにイエスを殺そうかと相談した」とあります。その一方、「大勢の群衆がイエスに従った」ともあります。ここに神の救いを切に求め、体験し、喜び迎える動きと、それを拒み、イエスさまを抹殺しようとする動きが起っていったことがわかります。

そういう中で今日のところでは、一人の悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエスさまのもとへ連れられてきて、イエスさまがいやされると、その人は、ものが言え、目が見えるようになります。
すると、群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったとあります。ダビデの子とは、来たるべきメシヤ、救世主、油注がれた王ということで、群衆はイエスさまこそ自分たちをローマの圧政から解放し、イスラエルを回復してくださる方ではないか、と期待したんですね。まあイエスさま御自身はそういう群衆に対して16節にあるように「自分のことはいいふらさないように」と、御自分がまつりあげられることをこばまれたのです。
それは18節以降の預言者イザヤの言葉を引用され、「神の霊の働きこそ心に留めるように」と促されるのであります。そしてイエスさまのうちに働いておられた「神の霊の業」は、20節にあるように「神の義であり、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」そのような神の救いの業であり、異邦人、つまり全世界すべての人にもたらされる主の救いの福音であります。
まあそのようなイエスさまを群衆は皆歓迎したのでありますが。この出来事を聞いたファリサイ派の人々の態度は、そんな群衆とはまったく対照的でした。
彼らは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。すなわちイエスのなしたその行為は、「悪霊の力」によるものだ、と難癖をつけたというんですね。

彼らファリサイ派の人々にとっては、安息日に弟子たちが空腹のあまり麦の穂を摘んで食べたことに関するイエスさまの対応、また安息日に手の萎えた人をいやしたイエスさまの行為は、律法の安息日規定に違反するものであり断じて許されるものではなく、神に従う者が戒めをないがしろにするなどあり得ないと考えたのです。
ファリサイというのは「分離された者」という意味です。彼らは世俗から自分たちを分離し、律法を厳格に守り行なうことで神の前に聖別された者になろうと決心した人たちです。その志は熱心で立派であるかもしれません。しかし自らの義、正しさを「律法厳守」という自分の行いによって達成しようとしたとき、彼らは高慢になっていきました。神の側からの救いが訪れたのに、それを拒絶するという高慢です。
麦の穂を摘んで食べた弟子たちに軽蔑の視線を向ける彼らに、イエスさまは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかたであろう」とおっしゃいました。又、手に障がいを負っている人の痛みも思わないで、イエスさまを訴える口実に利用しようとする彼らに、イエスさまは「穴に落ちた羊より遙かに大切なその人の救いを示さた」のです。
それでもう逆恨みといいましょうか、逆ギレというんでしょうか、彼らはその高慢によってイエスさまのことが目の上のこぶのようのように邪魔な存在となり、「どうやって殺そうかと相談した」というのです。

さて、話を本日の箇所に戻しますが。
この当時ユダヤでは、異邦人を中心に、怪しげな呪術が横行していたという背景もあったようです。ユダヤのファリサイ派の人たちから見れば、イエスもうさんくさい呪術魔術で群衆を惑わすやからのように映ったのでしょうか。とにかく群衆がイエスさまを「ダビデの子、メシヤではないだろうか」といったことが、もう彼らには許されないんですよね。イエスをベルゼベル「悪霊の頭の力によらなければ、この者は悪霊を追い出せない」と非難したのであります。

それに対してイエスさまは、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くのだろうか」と、独特なたとえでもって反論いたします。そして「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と、反対に問い質されます。
実は当時、ユダヤ教の中でも悪霊追い出しによる病人のいやしが行なわれていたということです。それでイエスさまは、「あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出しているのか。もし言うように悪霊の頭によって癒しが起こるのなら、あなたたちの仲間もそうなのか。それでは内輪もめだなあ」と皮肉を込めておっしゃったのですね。イエスさまもやるなあと思いますが。
まあそう釘を刺された後でイエスさまは威厳をもってこうおっしゃるのです。
28節「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

それはですね。イエスさまが宣教を開始して「悔い改めよ。天の国は近づいた」。それが接近しているとおっしゃった時よりも、さらに、もう天の国、神の国はあなたたちのところに近づいた。いやすでに今ここに来ている、とおっしゃっているのです。神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、この悪霊にとりつかれているとされている人が解放され、言葉をもたなかった人が自分で話せるようになり、見えなかったことが見えるようになった。それは一人の人間が神の前に取り戻されたという事を現しているのです。

イエスさまはこのようなかたちで現に「神の国があなたたちのところに来ているのだ」
とおっしゃっているんですね。別の箇所で、イエスさまは神の国というのは、あそこにあるとか、どこにあるというようなものではなくて、「実にあなたたちの間にある」とおっしゃっています。
今私たちもそうですが。神の前に尊い一人ひとり、かけがえのない命として取り戻されたことを知った時、又認められた時。それが救いであり、神の国と実感できる時。信じ得る時ではないでしょうか。聖書はそれこそが、神の霊の業であり、神の国の到来であるというのですね。

最後に今日の箇所からもう一つ大事なメッセージをお伝えして宣教を閉じたいと思います。それはイエスさまがおっしゃった末尾の「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが。霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」というお言葉です。

イエスさまはファリサイ派の人たちのように自分を正当化したり、自己絶対化されません。それどころか、自分に対しての悪口や非難の言葉、あるいは言い逆らう言動があったとしても、それは赦されるとおっしゃるのです。そこがすごいなあと思うのですが。イエスさまは自分を正当化するのではなく、ただ神の霊の業である、先ほど申しあげた「救いと神の国」が現されるそのことを何よりも最優先になさっているんですよね。
イエスさまはその後、遂に十字架にかけられ、すべての人の犯す罪や冒瀆の言葉の一切を身に引き受け、神の霊による完全な救いの業を成し遂げてくださいました。
その赦しの福音は、まさに悪魔の縄目にある私たち人間を完全に解放へと導くものです。
この神の霊の壮絶な愛によって、私たちは今日も主の御救いに与ることを許され、神の国の訪れを体験しているのです。
イエスさまは「人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるが、この神の霊の業に対する冒涜は決して赦されない。聖霊に言い逆らう者は、赦されることはない」とおっしゃっています。
ファリサイ派の人々がそうであったように、自分の主義主張を絶対化し、正当化し、「神の霊の救いの業によって一人の人が神の前に取り戻されていくその救いの御業を否定し、冒涜する者はその救いを受けることなく、それがすでに滅びであり裁きとなっているということでありましょう。

今日のメッセージから、神の霊のお働きの何たるかを心に留めて、ここから遣わされてまいりましょう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

来たるべき方は、あなたですか

2017-02-06 09:28:37 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ11・2-19

洗礼者ヨハネは3章に記されているように、ユダヤの荒れ野において「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しました。そして彼のもとにぞくぞくと集まって来て、罪を告白する人々に「悔い改めに導くバプテスマ」を施していました。
ヨハネは「自分の後に来られるお方こそ、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語っていました。
ヨハネはその後、領主ヘロデの兄弟と妻の結婚が律法で許されていないことや、ヘロデ自身に行なったあらゆる悪事について、率直に神の前によろしくないと、苦言を呈したため、捕えられ投獄されてしまいます。
そういう中、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」とあります。ここにわざわざイエスでなく「キリスト」(救世主)と記されています。それはヨハネがイエスさまこそ来たるべき救い主として大きな期待をもっていたことを表しています。ヨハネは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えるまで火で焼き払われる」とかつて言っているように、この世の義人と悪人とを選り分け、正しい裁きを行なって世を正される。そういった政治力をもった王であると、考えていたのです。
ところが自分が牢の中でその「キリスト」のなさったことを聞くと、そのようなイメージとは何ともほど遠いのですね。正面切って政治批判するわけでもないし、民衆を奮い立たせて革命を起す気配もない。伝わってくるのは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え続けておられることや、罪人と呼ばれる人と飲み食いしているらしいとの噂。ヨハネにとっては、病人のいやしなどの多くのしるしを行ったところで、政治権力のもとから神の民を解放することができないなら何になるか。現代的にいえば社会が変えられないなら一人ひとりも救われないじゃないか、というような焦りやじれったさがあったのではないでしょうか。
そこで、ヨハネは自分の弟子たちを(イエスさまのもとに)送って、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。
 さて、そうしますとイエスさまは、ヨハネのお弟子さんたちに「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とお答えになります。ここで肝心なのは「あなたたちが実際見聞きしていること」をヨハネに告げなさいと、言われていることです。人の噂ではなくて、あなたがたが実際に目で見て、耳で聞いて体験したことをヨハネに伝えなさい。「自分の体験をあかししなさい」いうことです。

主イエスは言われます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
聖書はその後、ヨハネの弟子達がどうなったかについては何も記されていないのでわかりません。しかし、イエスさまはここで、人や噂ではなく、「あなた」が見聞きした体験を伝えること、あかしすることが大事だとお語りになっていることを心に留めたいと思うのです。

先ほど招きの言葉でイザヤ書29章18節19節の「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉すら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い。貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」という主の到来によってもたらされる回復の預言が読まれました。
そはまさに主イエスによって事実となるのです。イエスさまはヨハネの弟子達に対して、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られますが。この回復の預言をして主イエスによってもたらされた恵みの事実に与って生きるようにと、招かれるのです。

話は変わりますが、先週、大阪キリスト教連合と大阪南YMCA共催のキリスト教オープンセミナー、テーマ「共に生きる」~熊本地震の体験を通して~と題し、大阪南YMCAを会場に講演会が開催されましたので、聴講させて頂きました。講師の神田牧師は、22年前の阪神淡路大震災に中学2年の時に遭われ、その後28歳の時にお母様の死という大変辛い経験をされた後、牧師となる献身に導かれ関西学院大学神学部を卒業されて、2014年から熊本の日本基督教団武蔵ヶ丘教会の牧師として赴任されて、昨年4月の熊本地震に遭われたという方です。
4月16日未明の震度7の本震が起った時のことについて、神田牧師は「2階の牧師館で寝ていましたが、20分ほどの猛烈な揺れが続き、あまりの恐怖で死を覚悟し、父親に連絡したほどです。幸い、身近では人的被害が少なくて済みましたが、被災者としての苦労は阪神・淡路と変わりません。精神的ダメージは熊本地震の方が大きいと思います」と述べておられます。
そうして御教会が日本基督教団九州教区の震災対策本部となって様々なお働きをされ、その体験談を伺うことができましたが。その本震の後も豪雨、雨漏りとたたみかけるように起っていく中で、「心が折れる」とおっしゃっていました。地震から9ヶ月たっても未だに「闘っている」と、その思いを吐露されましたが。
そのご講演の後で質疑応答が行なわれたのですが、その一コマが私は心に焼きつきました。それはある方が「被災者の支援はもっと政治家の活動が必要じゃないでしょうか」という質問をされたんですけれど。それに対して神田牧師は丁寧にお答えになって、「私たちの活動は政治力ではなく、政治の力さえ及ばない、そういうところからも漏れている人たちに寄り添う、そこに教会にしかできないことがあるのではないでしょうか」とおっしゃったんですね。
この日は、水曜祈祷会が午前中あり、この聖書の箇所を共に読み分かち合った後、このご講演に臨んだのですが。まさに今日のこの箇所が語りかけている、主イエスさまのお働きと大切にされている思い、神の慈愛というものが心に迫ってまいりました。

聖書に戻りますが。
イエスさまは、ヨハネの弟子達が帰った後、群衆にヨハネについて話し始められます。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。・・・(そして強調して)はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れなかった」。
イエスさまはここで、時代や風潮に移り変わるヒーロー的なスター、権力をもった指導者、宗教的指導者を崇め、仰ぐために荒れ野に行ったのかと群衆に問いかけておられるんですね。いや、そうではないだろう。権力者や指導者に対してもまっすぐに「悔い改めよ。天の国は近づいた」と勧告するバプテスマのヨハネのもとに行ったのではないか。彼は正に預言者以上の者で、人間の世に於いて彼より偉大な者は現れなかった、とイエスさまは絶賛します。ヨハネこそ律法による義に生きる者として最高の人であったということです。
イエスさまは「しかし、天の国で最も小さい者でも、彼より偉大である」と語られます。この「天の国で最も小さい者」とは一体どういう存在でしょうか。それは天使のような存在を指しているのではなく、天の国が到来したという恵みのうちに生きる者を指しているんですね。私たち主を信じ救いに与る者もそうであります。しかしそれは何も、私たちが偉大だという事ではなく、繰り返しますが、主イエスによってもたらされた神の義と救いの恵みこそが偉大なのであり、私たちはその尊い恵みに与る存在であるという事であります。実はそこに主イエスさまが救い主として来られた真理があるのです。
イエスさまは世にあって小さくされた者、弱くされた者、病いをもつ者、罪人とされた者と交流され、食事をなさいました。それは何か上から目線、してあげるということではなく、それこそ共に生きる者、寄り添う者としておいでになられたのです。それら一人ひとりが心から救いを願ってやまないことをご存じであられるお方です。本当に救われた喜びをもつ人は、その喜びと感謝をもって生きるでしょう。天の国は近づいたとの恵みの中に歩み出すでしょう。イエスさまはその救いをして「信仰によって生きる人は、ヨハネに優る義に生きている」とおっしゃっているのです。

最後に、イエスさまは「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいます。
そして、当時のユダヤの社会や時代の人々を、市場(広場ではない)に集まっているこどもたちの結婚式ごっこや葬儀ごっこといった遊びのたとえをなさいます。ところ変われば、ユダヤではそういうごっこ遊びをしていたようですが。いわばこれは、わらべ唄ですよね。
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」。自分たちが一緒にごっこ遊びをやろうと呼びかけたのに、誰ものってこない。他のこどもたちは無関心で、ただ傍観者のようにしている態度に、ちょっと悔しがりながら、又残念な気持ちを歌ったのかも知れません。
そんなふうに「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子(主イエス)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。そうです。律法の義にまっすぐに生きた「ヨハネ」にも、又、福音をもたらし実現された「主イエス」にも、人々は冷淡で無関心であると、たとえを通し嘆かれているのです。

人々の無関心や冷淡さは確かに存在します。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」と主イエスは語られます。
 
ヨハネは、主イエスに「来たるべきお方は、あなたですか」と尋ねましたが。それはキリスト、救世主(メシア)である王はあなたですか、との問いでありました。世を正し、権威をもって統治されるお方には変わりありません。けれどもゼカリヤ書4章6節に「武力によらず、権力によらず、能力によらず、ただわが霊によって」ともあるとおり、主はそのように神の国を到来を成し遂げるお方なのです。
このマタイ福音書は、イエスさまがお生まれになるに際し、「その名はインマヌエル」:「神が我々と共におられる」という意味であると、伝えます。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
主イエスは私たちの日常の中に、そのひきこもごも、喜びも悲しみのときも共にいてくださるお方として今日もおいでになる。ここに私たちの救いがあります。祈ります。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

主を畏れて生きる

2017-01-29 13:29:16 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ10章16節~31節

今日は「主を畏れて生きる」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
イエスさまは、12人弟子達を選ばれます。それは「天の国は近づいた」ことを宣べ伝え、救いの業を証しし、行なわせるためでした。イエスさまは弟子達を派遣するにあたり、行くべきところ、なすべきことなどを幾つかお示しになります。それを聞いていた彼らは、弟子として選ばれた高揚感とともに、「よし、主の弟子としてここはひとつがんばろう」とこぶしを握りしめていたのではないでしょうか。
ところが主イエスは思いがけず、あなたがたは迫害と苦難を受けることになる、そのように予告なさるのです。

イエスさまは、まず「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られます。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言って具体的にどのようにあるべきかをお教えになります。
福音宣教の為に遣わされる弟子達が人々から憎まれ中傷されるだけでなく、「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王の前に引き渡されることになる」というのです。
弟子達はそれをどんな思いで聞いたでしょう。「この方こそ神の救い」と信じ、従う決心をした。唯それだけなのに、迫害されるとか苦難を受けると言われても」。弟子達の中には戸惑う者もいたのではないでしょうか。
 みなさまはどうでしょう。主とその救いが自分にとってなくてはならないものになったとき。思いがけず身近な人から迫害を受けた。憎まれ、中傷された。そういう方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ、神の救いから引き離そうとする力が働きます。「何も悪いことをしていないのに、そんな理不尽な」と思うわけですが。それが試みる者、サタンの働きです。
 しかし、主イエスはそれに抵抗して戦えとはおっしゃいません。18節。「総督や王、さらに異邦人に証しをすることになる」。つまり証しの機会となるとおっしゃるんですね。
そして、「引き渡されたときは、何をどう言おうか心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と言っておられます。

捕えられ権力者の前に引き渡された時、ただ怯え怖れるしかないときに、イエスさまは「心配してはならない。あなたたちのうちに住んでおられる御父の霊、聖霊が語るべきことをお語りくださるので、ただ聖霊に委ねるがいい。そして26節以降でも、イエスさまは迫害と苦難に際して、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とお語りになります。

それは、人間の内面に秘められている事柄は、なにがしかその人となりに現されてくるものだし、いざという時にはその本質が現されるものだ、とそういう風にも読めます。あるいは又、神の真理は、どんなに抑圧され封じ込められようとも、必ずいつかは明らかにされる時が来る。真理は決して滅びない。
 余談ですが、黙示録はギリシャ語の原語で「アポカリュフォィス」。それは「覆いを取り除く」という意味です。イエス・キリストが救いを成し遂げられたことで、秘められていた神の真理とご計画の覆いが取り除かれ、明らかにされたということです。黙示録も厳しい迫害の最中に記された書物ですが。そのような時代の中で信徒達は、すでに覆いが取り除かれた神のご計画と成就、さらにキリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望みつつ、苦難の中でなお証が立てられていったということであります。

本日の28節には「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」との主イエスのお言葉がありますが。
むろん体が傷つけられたり、殺されたりなんて考えたくもないことです。けれど主イエスは、そのように危害を加える者に魂まで殺す力はない、むしろ「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃるのです。
この地獄と訳された「ゲヘナ」。それは架空のものではなく、実はエルサレム東方郊外にそういう名の谷があり、そこにはいわゆる廃棄物焼却場のような場であったんですね。まあそんな塵芥のように体も魂も焼き尽くされるなど想像するのもおぞましいことですが。

しかし、興味深いのは、その体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方のことを、イエスさまは次のようにおっしゃるのです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがた父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

1アサリオンとは当時のユダヤの最小貨幣です。日本では1円です。その二羽の雀の一羽といえばもうその半分なわけですから貨幣としては成り立たないいくらい値打ちがないようなもの。しかし、みなさんここが肝心なんです。「あなたがたの父」はそのように価値無きものに思えるような小さく弱い存在をも決して見逃されないと言われるのですね。その命は御手のうちにあるのです。そのように主イエスは、あなたがた一人ひとりはおぼえられているんだよ、とおっしゃるのです。しかも「あなたがたの父」、天の父である方が子であるあなたがたを知らないわけがない。あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。(私はここを読むときちょっと複雑な思いがするのですが)。それほどまで知っていてくださる。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」ではないか、とそう主イエスはおっしゃるのであります。

今日私たちはこうして自由に礼拝を捧げ、どんなに大声でも讃美できます。信仰の自由が認められているのです。2月11日を私たちは「信教の自由を守る日」とし、集会を守っていますけれども。この幸い。どれほどありがたいことでしょうか。一方海を隔ててそれがままならない状況にある国々の主にある兄弟姉妹を思うわけですが。しかしこの日本でもかつて激しい弾圧や迫害の時代があったのですね。

本日の聖書の箇所を黙想していた折、これもお導きなんでしょうか。今「沈黙~サイレンス」が上映されています。みなさんの中で、すでに御覧になった方もおられるようですが。私も先週鑑賞しました。
この映画は遠藤周作さんの「沈黙」の原作をマーティン・スコセッシュ監督が見事に映像化した作品です。その構成のすごさに圧倒されましたが。江戸時代1638年以降の長崎の島原や五島で起った悲惨なキリシタンへの弾圧と迫害の場面が続き、何度も目を伏せては、ため息と涙がこぼれました。わたしの座席近くに十字を切りながら御覧になられている方も数人みかけました

本日の聖書の26節の御言葉が、わたしの胸に強く迫ってきました。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。
映画では、ある司祭が先に長崎に布教のために来日にして消息が絶たれてた大先輩の司祭のあとを追って長崎に辿りつくのです。そこで村の隠れていたクリスチャンたちから聖礼典などを求められてそれに応えていくことになるのです。ところがこの司祭はその自分の信仰を貫くことによって同胞のクリスチャンたちが過酷な弾圧と処刑に遭うことに、これ以上耐え難くなり、遂には自ら踏み絵の前に近づいていったその時。踏み絵の銅板の主イエスがこうお語りになる声を彼は聞くのです。
「踏むがいい。わたしはお前とともに苦しんだ。わたしはこのおまえの痛さを一番よく知っている。踏むがいい。わたしはおまえたちの痛みを分かち合うためにこの世に生まれた」。

そうして痛みをもって踏み絵をふむのです。その後棄教したとされるこの司祭は日本名を名乗り、キリシタンご禁令の調査員として奉行所で御用され、最期は仏教の読経のもと葬られるのですが。最後に映し出されたその棺に納められた彼の手に「十字架(クロス)」が握られていたのですね。外見や目に見える形は棄教していてもその魂までは変わることなく、主の御手のうちにあることが、そこに証されていたんです。わたしはそこに希望を見た思いがいたしました。

人には神が沈黙しておられたように思われるその時代から380年、いやもっと古くの、豊臣秀吉がキリスト教を迫害するようになり、長崎で26人の司祭と信徒達が焚刑(ふんけい)にされた1587年以来から数えますと430年余、十字架の主と共にある殉教者の尊い証しと祈りのもと、この地にキリストの真理と福音は確かに息づいています。その時と比べることはできませんが、今に生きる私たちにも現代社会の抱える特有な困難があります。一人ひとりのうちにも課題があるでしょう。主はそのすべてをご存じです。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。

今週もここから主のいのちの言葉に信頼し、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一人ひとりと向き合う主イエス

2017-01-23 10:00:19 | メッセージ
宣教 マタイ9章18~26節

この箇所は、主イエスを介して、ある指導者(他の福音書によれはユダヤ教の会堂司のヤイロ)のエピソードに、長い間出血の止まらない女性の話が挟まれるような形で記されています。先の指導者は主イエスのそばに来て、ひれ伏して、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と願い出ます。
彼はユダヤ教の会堂を管理する地位のある人でありましたから、当然このような姿を、ユダヤの人々はじめ、律法学者や祭司に見られようものなら、異端視されたり、蔑視され職も立場も失う危機さえあったでしょう。けれどもそれを十分承知のうえで、彼は主イエスに「ひれ伏し」、なりふり構わず懇願するのです。我が身を投げ打つ親の愛を感じますが。彼はかねてより主イエスの言葉とその行いや業に強く関心を持っていたのではないでしょうか。そして、神がお働きになるのでなければ出来る事ではないという思いを強くしていたところであったのかも知れません。そのような時に起ったかわいいさかりの娘の悲しい死の出来事。他に望みのないこの人はただちに主イエスのもとに向かいます。教会もそのような存在としてあらねばと思わされますが。神の言葉が真に語られ、先週の主イエスの教え、隣人愛を地道に実践していく中で、救いを必要としている人、命の問題に直面した人が駆け込んで来る、そのようなキリストの教会でありたいと願います。
 聖書に戻りますが、そうして懇願する指導者の思いを受け、19節「そこで、主イエスは立ち上がり、彼について行かれた」というんですね。
主イエスはこの指導者的立場にあった人の、その切なる求めと信仰に応えれるべく「立ち上がる」のです。ここのポイントは、主イエスが会堂を管理する指導者だからとか、律法を守り間違えのない人であったから「立ち上がって」彼と共に行かれたのではないということです。そうではなく主イエスは、彼の信仰のゆえに「立ち上がられた」それが重視されているんですね。
 すると、そこへ、「12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れる」ということが起るわけです。どうしてそのような行動をとったのか、それはこの女性が『この方の服に触れさえすれば治してもられる』と思ったからである、と記されています。「思った」。それは信じたということですね。
 異常な出血はユダヤ社会においては古くから不浄な病とされていました。それは当人が不浄であると見なされるだけでなく、その人が触れるもの、またその人に触れるものまでも汚れると見なされていたのです。そういうことですから、彼女は人と関わりをもつことをはばかっていたでしょう。又彼女に関わりをもとうとする人も殆どいなかったでありましょう。この12年間もの病の苦痛とともに、偏見やあらゆる制約の中で生きていくしかなかった彼女の孤独は計り難いものがあります。それは当事者でなければ分からない苦しみです。
それでもこの女性は自分の思いを神は知ってくださるというまさに信仰をもって、人に
とがめ立てされないように、後ろから主イエスの服の房に触れたのです。

私はこの記事を昔初めて読んだ頃、この女性が後ろからイエスさまの服の裾の房にしか触れられなかったことを「消極的な信仰」と捉えていました。主イエスはそんな消極的信仰でも受けとめ、治されると思い込んでいたのです。しかしそれから何度もこの箇所を読むごとに、彼女の信仰は決してそんな消極的なものではなかったことがわかってきました。
「けがれている」とされているわけですから、正面から願い出ることはできません。
人と接触すれば人をけがすことにもなるという複雑な思いもあったことでしょう。けれども彼女はこの方の服の房にでも触れたならきっと事態が変わるに違いないと、その信仰を強くもち、気持ちを奮い立たせて行動するのです。それは、私のようなものが願ってもとか、私の問題は難しいから煩わすには及ばないというような消極的なものでは決してなく、むしろ大胆な求め、信仰であったんですね。この彼女の信仰、ある種の気迫に、主イエスは気づかれ振り向いて、彼女を見ながら「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。すると、その時「彼女は治った」。どうでしょう。主イエス御自身が「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるように、先の指導者もそうですが、主は私たちの信仰、信頼して仰ぎ望むその信仰に対して立ち上がり、振り向いて応答してくださるお方であることがここに示されているのですね。

さて、そのことが起っている間、先の指導者はどんなにじりじりした思いで待っていたか、とも思いますし、このことでさらに信仰が強められたようにも想像しますが。
ところが、主イエスが指導者の家に到着なさると、そこには笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がいたのです。つまり少女の葬儀が始まっていたのです。当時のユダヤを含むパレスチナ地方では、どんなに貧しい家の葬儀でも、「笛吹きと泣き女」に頼んで来てもらう習わしがあったと言われています。世界各地で泣き女を招く風習があるようですが。主イエスはこの少女や家族への同情心のかけらもなく、ただ雇われて騒いでいるその人たちに対して「あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。
このお言葉は、父親の気持ちと願いを代弁しているように思えます。「ああ娘は死んでいるんじゃない。眠っているだけだ」。それは父親の願い、叫びであったのではないでしょうか。そんな切父親の思いを全く意に介さない群衆は、主イエスをあざ笑った、とあります。それは父親の信仰、必死に訴え懇願する思いを打ち砕くものでありました。
主イエスは、そのことに強い憤りをおぼえて、群衆を家から追い出されたのです。
そして、他の福音書によればイエスさまは少女の両親と三人の弟子だけを連れて少女のいる家の部屋に入っていかれたようです。主イエスは神に望みをおくもの、信じ求めるもののみを伴われます。厳粛なその祈りと願いの中で、主イエスが少女の手をお取りになると、まるで目を覚ましたように「少女は起き上がった」というのであります。
主イエスの御言葉に心から信頼しる人は、主の御業を見ることができる。しかし、それをあざ笑う者には、躓きでしかないのです。

今日の礼拝の招詞でマタイ9章35-36節が読まれました。それは「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という記述です。
このイエスさまが「深く憐れまれた」というのは、自分のはらわたが引き裂かれる、断腸の思いをもたれるほどに、という意味なんですね。それほどまでに惑い、弱り、打ちひしがれる一人ひとりのことを主イエスは思われるのです。

それは、あの長血で苦しみ続けていた女性の訴え、求めを主イエスは不特定多数の群衆の中にあって、見出された。又、悲しみに打ちひしがれていた父親の切なる願いを主イエスは断腸の思いで共鳴なさったから立ち上がり共に行かれた。
そのように主イエスは、その愛と慈しみのゆえに私たち一人ひとりの課題や魂の渇きを知って下さるお方なのです。

主に見出され、救いに与っている者として、主イエスに倣いつつ生きていきたいと願います。今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

愛に生かされ、愛に生きる

2017-01-15 17:03:25 | メッセージ
主日礼拝宣教 マタイ7:7~12

今週の火曜日は阪神淡路大震災から22年目を迎えます。関西地方教会連合では、この出来事が風化し忘れ去られことのないようにと、毎年この日に集会が守られています。昨年は日曜日でしたので集会がもたれず、教会の礼拝で祈りに覚えましたが。今年は17日午前10時半から宝塚バプテスト教会において「1・17祈念礼拝」が行なわれます。時間の許される方はご出席ください。震災に遭われた人、又震災の出来事を知らない人も、ともに祈りを合わせて、この震災から今も問われ、求められている課題を覚え合うことができたらとの願いを込めて「1・17の祈り」を連合役員協働で作成されたものを、先に礼拝で覚えて祈りを合わせました。
新聞等によれば震災から22年も経ちながら、被災地の兵庫において未だに震災の影響を受けた方々が昨年60人以上もおられた、という悲しい現実を知らされ、心が痛みます。その中にはいわゆる孤独死なさった方々も多くおられたようです。被災者が入居されている集合住宅から行政支援の期限が切れるということで、あてもないまま出て行かざるを得ない状況に追い込まれている、そういう何ともやるせない問題も出てきています。私たちの中にも御自身、あるいはご親族、知人が被災された方々がおられます。
東日本大震災、また熊本地震もそうでしょうが、こうして機会あるごと当事者の声に耳を傾け、たとえ細々とでも覚え続けるというのは、ほんとうに大切な事だと思います。
多くの人が自分を守ることで精一杯という大変厳しさの増す社会状況の中で、主は私たちに何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。

本日は「愛に生かされ、生きる」と題して、マタイ7章7~12節より御言葉に聞いていきたいと思います。
まず、主イエスは今日の個所を「山上の説教」の中でお語りになりました。主イエスは、当時、神のみ心から遠く離れてしまったファリサイ派の人々や律法の専門家たちを憂いておられました。「では、弟子であるあなたがたはどう生きるのか」と主イエスは彼らに問いかけお勧めになった。それがこの山上の説教であります。律法の規定を守り教えることに優越感をもち満足しきっていた宗教家たちとは逆に主イエスは、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と語られます。もっと原語のニュアンスに沿えば、「求め続けなさい。探し続けなさい。門をたたき続けなさい」と、主イエスは弟子たちに強く訴えておられるのですね。

この「求める」ということについては大きく2つあると思うのです。
その1つは、願い求めること。「祈り」ですね。もう1つは、求め続けるという、意思とそれに伴う行為、行動です。
その点について、同じ記事が書かれたルカ福音書11章では、「求めなさい、そうすれば与えられる云々・・・まして天の父は『求める』者に聖霊を与えてくださる」となっています。そこで強調されているのは、「神さまに向かって真剣に祈る者に、まさに神さまの力あるお働き、聖霊が臨まれる」というダイレクトな祈りについてのメッセージとなっています。

一方、今日のマタイ福音書では、主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる云々と語られた言葉の後に、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃっています。つまり祈りとはそのようにアクション、意思をもって自ら行い続けるように招かれているんですね。これこそ「律法と預言者である」。つまり神の御心、神の愛に応えて生きる。ここにマタイの福音書の主イエスの重要なメッセージがあります。

よく「求めよ、さらば与えられん」という聖書の御言葉は、キリスト教会の看板に掲げられていたりします。私もこの御言葉に実際、大変励ましを受けたり、又強められてきた一人であります。皆さまも、主に祈り求める中で、主が祈りに答えてくださったという体験はきっとおありでしょう。
同時に、祈ったら猫も杓子も何でも思い通りにかなうというものではありません。祈りは何でも願いをかなえる、というようなうさん臭い魔法の杖ではなく、私たちにとってもっとよいものを知っておられる、生きた神さまとの対話であります。お願いしっぱなしというのではなく、神さまの御心を知り、それを受け取って生きるのです。
それに近い祈りがあります。使徒パウロはフィリピの信徒へ書き送った手紙にその祈りがありますので、ご紹介します。フィリピ1章9節以降です。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
 祈りは、生きた神さまとの関係性の中でゆたかに育まれていくものなのであります。

今日主イエスは、「祈り」についてもう一つ大切なことを私たちに示しています。
それは、私は「何のために」主に祈り求めているのか。あるいは、私は「何を」主に祈り求めているのか、ということです。自分のために祈る。求める。人はそうしないではおれないし、主イエスは必要を父なる神に積極的に祈り求めるように勧めておられますけれども、主はさらなるゆたかさへと私たちを招かれます。
それは、私の求めが私ごとに終始するのではなく、「私たち」の事柄とされていく。
そういう求め、そういう祈りへの招きです。先ほど使徒パウロの祈りをお読みしましたように。

私たちの大阪教会は、今年度「祈りの教会」というテーマをもって一年を共にあみたい、と願っております。ある方から私に「祈り」についての問いかけのようなお尋ねがありました。
それは、「私たちが教会の方々のことを祈る場合、ただ名前を呼んで祈るのと、その相手の方について知り、課題についても具体的に覚えて祈るのとは、ずいぶん祈りが変わってくるのではないでしょうか」という趣旨のものです。
相手の必要を把握していれば祈りも具体的なものになっていきます。自分の求めに留まらず、隣人、他者の求めを知り、思いを寄せて祈り合う。主イエスの招きによってそういう「祈りの家」であり続けるなら、またさらにその祈り合いが広がっていくならば、生きたキリストの教会として愛の証しとなっていくことでしょう。

さて、今回、1・17の祈りを諸教会・伝道所の方々にも、ぜひ祈りに覚えていただければと願い、可能な限り全国に発信させて頂きました。すると、九州や北海道の教会の方々から、次のようなメールが返ってきました。「週報に載せて共に祈ります」「大変な事だったことを思い起こし、いろんな傷や痛みを今も背負っておられる方々を覚えて祈ります」「礼拝の中で、少しアレンジして祈りに覚えたい」などとうれしい応答メッセージが届きました。こうして私たち関西地方の教会伝道所が覚えて祈っている具体的な課題を、全国の諸教会に知っていただいたことで、関西の教会だけの祈りにとどまらず、全国の教会の方々が関心をもって頂く祈りに広がっていった。共有して頂くこととなったんですね。ちょうど先週ここの「求めよ、さらば与えられん」というお言葉を思い巡らしていたわけですが。それはまさにこの「求め」の終わりが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉で締め括られていることに改めて気づかされる出来事でした。

「律法と預言者の本質」。それは生きた神さまとの関係性であり、隣人を自分のことのように愛するという求め、祈り。意志と実践です。宗教家や学者たちは律法の規律や遵守していることのプライドに囚われ、逆に律法と預言者の本質を見失っていたといえます。これは教会でも、又クリスチャンであっても、あまりにクリスチャンはかくあるべきというのを自分ばかりか、人にも要求したり、教会に対しても組織や人の動向、能力への依存を優先させてしまうと、動揺に愛の本質を見失ってしまう。そういう危険性があることを知らなければなりません。
主イエスの弟子たちに向けての教え、それは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。これこそ律法と預言者だ、という愛の教えであります。私たちはその教えの実体が主イエスのご生涯であり、十字架と苦難、その死によって身をもって示されたことを知っています。私たちはその弟子として神の愛に倣うようにと、招かれているのですね。
同じ山上の説教のマタイ5章に、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださる」とございます。
 主イエスは、弟子たち、また私たちに、「天のお父様の子」として生きるように、その御心を思って、敵味方の垣根さえ越えて神の国を求めるようにお教えになっています。

しかし、その要求に対して、私たちは自分の力や業で応えうるものを持ち合わせていないことを知らされます。どうして許せないような人を許し、敵対してくるような人のために祈れますか。感情をもつ私たち、人間的には無理な話です。そんな時、愛は自分のうちに探しても見つからないことに気づくでしょう。それはもうイエスさまがこの自分を十字架から執り成されるお姿を日毎に見上げながら、「求め続け、探し続け、門をたたき続け」ないと出来ることではありません。しかし、そういう迫りの中で神の愛を求め続けていくとき、実はほかならぬ私自身が生きた神さまにつながり、その愛に生きる者として育まれていくのであります。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御教えに少しでも具体性をもって生きていきたい。そんな求めと祈り、願いこそが、他のどんな修養を積むことに優って私たちをキリストの弟子とし、キリストの教会とされることを信じます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、」「何でも」ですから、特別でなくてもいい。日常の生活の中で、身近なことから、具体的に祈り求め続けることです。
きっと、そこにゆたかな実りある証が立てられていくことでしょう。今日もここから、私たち一人ひとり、キリストの使者として遣わされてまいりましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2017年元旦礼拝

2017-01-01 13:47:30 | メッセージ
宣教 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」 マタイ3章13-17節

主の年2017年を迎え、主にあってお喜び申しあげます。
「一年の計は元旦にあり」と申しますように、今年は丁度1月1日が主の日となりました。一年最初の日を主に礼拝を捧げて始めることのできる恵みを感謝します。
先日「新聞配達に関するエッセイストコンテスト」で、最優秀賞となった熊本市の方のエッセイに目がとまりました。少し長いですがご紹介しますと。「新聞がくれた勇気」という題ですが。「平穏な夜に突然、熊本に地震が来た。避難先で夜を明かし、自宅に戻ったら、いつものように新聞があった。いつもと変わらず玄関ドアのポケットに新聞があった。ああ家に無事帰れたと、ほっとした。
ほっとしたその夜、また熊本に地震が来た。一瞬死を覚悟するほどの大きな地震だった。揺れやまない大地、漆黒の夜、サイレンとヘリコプターの音。バッテリー残量が心もとないスマホを握りしめて、車中で震えて過ごした。
一睡もできず、もうすぐ夜明けかという頃、一台のバイクが走り抜けた。わが目を疑った。前かご、後ろかごに載っているのは新聞である。こんな非日常の朝、定刻の新聞が配達されている。
熊本の人はみんな被災者だ。配達員の彼も被災者だ。なのにいつものように、当たり前に新聞が配達されている。ここに日常がある。いつもの朝がある。
 停電の日々、毎朝夜明けとともに避難先から帰宅すると、玄関ドアに新聞があった。日常はきっと取り戻されると確信した。」 
昨年を振り返りますと、私たちそれぞれにも大なり小なり非日常ともいえる出来事があったのではないでしょうか。そのような中でも様々なかたちで届けられ続けた神さまの愛のメッセージは、どんなに私たちを根底から支えるものであったでしょう。主の与えてくださる励ましと希望がその時々の日常を生き抜く勇気と力になったことを心から感謝します。この新しい年もまた、どのような状況の中でもどうか、週に一度の礼拝と祈祷会が守られ、主にある姉妹兄弟の祈りととりなしとともに、福音が届けられますように。
さて、今日はマタイ3章から、新年のメッセージを聞いていきます。ここの箇所はイエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになる、よく知られた記事ですが。
今日は13節から読んだんですが。前の11節12節のヨハネの言葉も読んでみますと、こうあります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネはエルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、ぞくぞくと自分のもとに集まって来る人々に、「罪の告白、悔い改め」に導くためのバプテスマを水で授けていました。この後にもバプテスマを受けるための水槽がありますが。人々が罪を悔い改めてバプテスマを受け、神に立ち返って生きる。ヨハネはすでにそのような働きをなしていたのです。
ところが、自分の後から来るお方、つまりイエスさまは「聖霊」と「火」でバプテスマをお授けになる。自分のなしていることとは到底それは及ばないというんですね。
さて、本日のイエスさまがヨハネのもとにバプテスマを受けるために来られたというところですが。ヨハネは「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのとことへ来られたのですか」と言って、イエスさまを思いとどまらせようといたします。
ヨハネは知っていました。イエスさまが罪の告白、悔い改めのバプテスマを受ける必要のないお方であることを。自分よりも遙かに優れたお方が私からバプテスマを受けることなどありましょうか、そうヨハネは思っていたのです。
それに対してイエスさまはこうお答えになります。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです。」
一般に、正しいことを行なうと聞くと、「間違えのないことをする」こととか。「道義的に行動する」こととか。「善を行なう」ことなどと思うわけですが。しかしこの「正しい」とされているギリシャ語原語は「ディカイオ-シュネィ」、「義」ということなのです。ですからこの新共同訳の「正しいことをすべて行う」という訳はあまりよくない訳で、本来は「すべての義を満たすのは、我々にふさわしい」と、イエスさまはおっしゃったということですね。
ヨハネも又、神の義を満たすために悔い改めを迫り、バプテスマを施す者でありました。しかしヨハネは知っていたのです。人がいくら一時的に悔い改めたとしても、また行いによって罪を取り繕うようにしてがんばったとしても、それでは神の義が満たされることにはならない、ということです。人が自ら神の義を守り行なっていくことの限界をヨハネはひしひしと感じていたのではないでしょうか。だからこそ神の側からその義を満たすためにおいで下さったイエスさまを知って、「わたしはその方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言ったのです。
バプテスマのヨハネ以前のイスラエルの民は、神さまの宝の民として、その与えられた律法によって神の義に生きるように導かれてきました。しかし律法はかえって人の罪を露わにし、従えない人は滅びに向かう外なかったのです。バプテスマのヨハネは人が自ら進んで罪を言い表し、悔い改めのしるしとしてバプテスマを受けることで、神の義を満たすよう用いられました。それは完全ではありませんでしたが、ヨハネがそのように道を備えたことによって遂に、イエス・キリストを通して神自らその義を満たされるという、霊によるバプテスマ、罪の贖いと救いの道が開かれたのです。
罪のないイエスさまはまさに私たちがどんなに水で洗いきよめても、ぬぐい去ることのできない罪、悔い改めても悔い改めても失敗を繰り返してしまうような私たち罪人が救われるため、イエスさま御自身が私たちの罪を身に負い、その刑罰を受けてくださった。Ⅱコリント5章21節にこうございます。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」とあるとおりです。神さまは全きお方です。罪を見過ごされるようなことはありえません。ほんとうに神の義が満たされるため、それは私たちが罪から解放され、救いを得るためにイエスさまは来られたのです。
聖書は、イエスさまがバプテスマを受けて、水から上がられたとき、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあります。霊は、イエスさまの誕生の折からイエスさまと共におられましたが。イエスさまは、バプテスマを受けて「神の義を満たす」ための働きを開始されるにあたり、霊が鳩のように降るのを御覧になるのです。そこでその働きにおける確信と力をお受けになるのですね。私たちも又、聖霊のお働きを求めるわけですが、それは何か超自然的な現象を求めるためではなく、「神さまの御心が成る」。そのことのために求めるのですね。
さて、そのような霊が鳩のように降って来られたそのとき、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。このお言葉を今日の宣教題とさせて頂きました。
この「わたしの心に適う者」というのも又、原語に忠実に訳せば「わたしは彼を喜んだ」というのが本来の意味なんですね。どうでしょう。「わたしは神さまを父なるお方として、又、その子として生きていきたい」「神さまに喜ばれる者として生きていきたい」。みなさまもそう願っておられるのではないでしょうか。
今日私たちは「正しいことをすべて行なうことは我々にふさわしいことです」とのイエスさまのお言葉を聞きました。そしてそれは「神の義を満たす」という本来の意味であることを知りました。
イエスさまは御自分を正しいとなさるのではなく、神さまの義が満たされるために御自分を従わせていく、その決意のバプテスマであった。それが神さまとの父と子の関係性であり、神さまの喜びであったことを覚えたいですね。
今年の新しい年の始まり、私たちも主イエスによって新しく創造された者として、今日から始まる一日一日、このイエスさまに従ってまいりましょう。「神さまに喜ばれる者」として。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一年の感謝と年始等の集会ご案内

2016-12-30 14:01:42 | お知らせ

ブログを訪問くださった皆様へ


今年ものこすところ2日をきりました。

今年もみなさまの応援とお支えの中で、一年が守られました。

ありがとうございます。

新年も、ホットな情報や記事をコツコツ地道に書いていきたいと思います。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

よき新年をお迎えくださいますよう、お祈り申しあげます。



         2017年 年始等の集会ご案内


      元旦主日礼拝 1月1日(日) 午前10時30分~12時

     
      新年特別礼拝 1月8日(日) 午前10:30分~12時

       メッセージ 「新しく生きる~神との関係性を考える」
       
       聖  書  Ⅱコリントの信徒への手紙5章17節

       講  師  工藤信夫先生 元淀川キリスト教病院精神科医長
                    平安女学院大学名誉教授
                    精神科クリニック医師

       入場無料です。どなたでもご興味のある方はお気軽にお越し下さい。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

世界で最初のクリスマス

2016-12-25 15:54:38 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ2章1節~12節

クリスマスおめでとうございます。

本日は、マタイ2章のところから「世界で最初のクリスマス」と題し、御言葉を聞いていきたいと思いますが。
2000年前も今も、残念なことに世界中で悲しく無残な戦争やテロが後を絶ちません。
今日は特にそのようなお暗き世の地の果てにまで、平和の君である救い主イエス・キリストが世を照らす真の光としてお生まれ下さった、この福音が届くように切に祈り願います。

クリスマス礼拝では何度もこのマタイ福音書のところから宣教が語られていますので、また同じ内容のことを聴かれる方もおられるかも知れません。よくもまあ2000年近い永い歴史の中で毎年毎年繰り返し語られ続けてきたものだと、つくづく感心しますが。
それはこのエピソードが神さまの「不変の愛と救い」のまさにゴスペル、福音であるからです。今回も改めて気づかされたことについてお話したいと思います。

まず3節に、「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た。」という東方の学者らの言葉を聞いて、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった、祝われるような出来事ではなかった、という事を表しています。 

当時のユダヤはローマの支配下にあったとはいえ、エルサレムの住民は比較的裕福であり、ヘロデもその地位に満足していました。そこに神の民としての畏れや渇きはありません。
何よりも権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するなんぞという知らせは、自分の地位や権力を揺るがす以外の何ものでもなかったわけです。
まあエルサレムの住民も自分たちの生活の現状が維持されならよいということで、それを揺るがす存在のすべてが、彼らにとってみれば不安の材料であったのです。たとえそれが神からの救いの王であってもであります。
その一方で、ルカの福音書に記されているのは、この神からの救いの王を喜び迎えたのは、ユダヤの貧しい羊飼いたちであったことは皆さまご存じのとおりであります。
彼ら羊飼いにはヘロデ王のように地位や権力もありません。又、エルサレムの住民のように安定した暮らしでもないし、裕福でもありません。
羊飼いたちは自分の地位や名誉、富など自分を守るもの一切持っていない人々でした。その日暮らしの中でただ一生懸命に生きる、そういった存在です。にぎやかな街の喧騒から置き去りにされたような、王や富める人たちから疎外されたような彼らに、天使の御告げが聞こえてくるんですね。「民全体に与えられた喜びの知らせ」。しかしそれを聞き取ることができるのは、まさにそのような人たちであるのです。

こうして彼ら羊飼いらに天使のお告げが臨んだとき、彼らも又、恐れおののきます。
しかしその羊飼いたちの恐れとおののきは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」とは全く違っていたのです。彼らの恐れ、それは、「自分たちのように世にあって小さい者のもとに救い主の誕生の知らせが届けられるとは、一体どういうことか」という驚き、それは「神への畏れ」、畏敬の念であったのですね。

さて、本日のマタイ福音書は、救い主・キリストに初めてお会いできたのは、東方の占星術の学者たちであった、と伝えます。
それは神の選びのユダヤの民でなく、ユダヤと国境を隔てた遠い東の国に住む異邦人たちでした。エルサレムの住民からすれば、神の祝福の範疇から除外されている外国人でした。

彼らは東方のおそらくペルシャ方面、イランやイラクから来たとも言われており、その一人はアフリカのエチオピアの国の人であったとも言われています。贈り物が3つだったことから学者たちは3人だと言われていますが。その贈り物からみてかなりの地位をもった人たちであったことが推察できます。また、そこから多くの供を引き連れての旅であったことが想像できます。

いずれにしても、東方の占星術の学者一行はエルサレムのヘロデ王の王宮を訪れ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。
彼らがこうして王のもとにやって来たのは、ユダヤの王の後継者誕生を祝うことで、安全保障的な関係を期待するような政治的使節団だったとも考えられます。少なくとも彼らがヘロデ王の王宮を訪れるまでは、それをきっかけに政治的策略による繋がりを期待し行動していたと考えることができます。しかし、新しい王はそこにはいません。
ヘロデ王がその新しい王として誕生した男の子を抹殺するために、この東方の学者らを送り出した時。東方で見た星が彼らに先立って進み、ついに幼子のいる場所の上にとどまったのです。ここに、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とありますね。
天体物理学で世の中を計算し占うような彼らが、生ける神の働きと導きに遭遇して喜びに満ちるんですね。彼らがその家に入りますと、幼子は母マリアと共におられた、と記されています。
東方の学者たちがずっと会いたいと願っていたユダヤの王と、彼らはこの「神の導き」という確信によって初めて対面することになるのです。そこは立派な建物ではなく、粗末な家畜小屋でした。そこには王座も王冠もなく、幼子には世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。

またそこには、おそらく救い主の誕生の知らせを聞いて、同じく喜びに溢れ、かけつけて来た貧しい羊飼いたちの姿もあったことでしょう。まあ、薄暗い家畜小屋に、身分も立場も、国も肌の色も違う者同士が輪になってこの幼子イエスさまを囲んでいるという、何と平和な風景。何と暖かい光景でありましょう。東方の学者たちはそういう風景や出会いの中、この幼子こそ、真の救い主なる王(メシヤ)であるとの確信が与えられたのではないでしょうか。
彼らは乳飲み子イエスをひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げます。
イエスさまは、福音書の中で「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。この東方の学者たちもまた、乳飲み子が母親の乳を求めるように、神とその救いを求める人たちであったのですね。
天体物理学を通して真理を探し求めていた学者たちは、学問によってではなく、家畜小屋のそのような光景の中に、神の救いを見た。
どこか私共もそのような真理への渇きとしなやかな感性をもちたいものであります。

さて、そうして幼子のイエスさまを拝した「彼らはヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」とあります。

彼らが当初来た道は、政治がらみの使節団としてユダヤの王子の誕生を祝うためのものでありましたが。しかし救い主の幼子イエスに出会った彼らは、ヘロデの王宮にはもう向かわないで、神の言葉(御告げ)に従う道を通って自分たちの国へ帰っていくのですね。それは、彼らのこれからの人生が、世の力に頼み拝む道ではなく、生ける神さまを主として拝み、その御言葉に聞き従っていく道を選び取っていく者とされた。そのことが象徴的に示されているんですね。


そのように私たちの前にも2つの道があるのです。世の力により頼み神の力を知らずに過ごしていく道か。あるいは生ける主なる神を見出し、真理の御声に聞いて歩んでいく道か。どちらを選ぶかは私たち自身に委ねられています。
さて、喜びあふれる最高の献げものを幼子イエスさまにプレゼントした東方の学者たち。しかし、神さまは、それよりも遥かに優るプレゼントをお与え下さいました。それが神の独り子イエス・キリストです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネ3章16節。「一人も滅びないで永遠の命にあずかる」。ユダヤの民ばかりでなく、ユダヤから遠く隔てられていた異邦人、また羊飼いのように、世の力によって小さくされ、価値無き者とみなされているような者も。この神の救いのプレゼントを受け入れる時、その人は滅びる者ではなく、永遠の命を得る者とされるということであります。

「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味です。救い主であるキリストがわたしたのために人間の姿となっておいでくださった。この神さまのすばらしいプレゼント、主イエス・キリストを喜び祝う。これがクリスマスの原点であります。

さらに、「ミサ」は「派遣」という意味を持っています。つまり、キリストは世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださった。この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者は、「ミサ」「派遣され」ということですね。ここが大事です。

私たちが主の日のごとに、主の復活を記念する礼拝を捧げているのは、ここで主の御名を讃美し、感謝をささげ、主の祝福を頂くということもあるでしょう。しかしそればかりでなく、私たちも又、東方の学者たちのように、ここからキリストに従う者、生ける主を証ししていく者として、派遣されていくということなのです。

今年も私たちの教会の礼拝や祈祷会に、韓国、中国、台湾、ミャンマー、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、イタリア、オランダ等10カ国以上の国の方々が集われ、共に世界の主を礼拝する時が与えられました。ここ数年ほんとうに世界中からの主にある姉妹兄弟との交流が身近に起されていることは、私たちにとってもうれしく、主イエスの福音の拡がりとゆたかさを感じられる機会にもなっております。

今日は「世界で最初のクリスマス」というテーマでお話をしました。
今年一年の歩みを感謝しつつ、この聖書が告げる世界で最初のクリスマスの光景に、私たちも救いの喜びあふれる思いをもって、それぞれの場所へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

クリスマス・キャンドルサービス&聖夜のコンサート

2016-12-20 11:33:23 | イベント
日時 24日(土)午後7時-9時  開場:6時30分~

1部 キャンドルサービス 午後7:00-7:25

2部 小川幸子&荒玉哲郎 クリスマスイブ・コンサート 午後7:30-9:00

   Piano 小川 幸子さん

   文化庁海外公演などで、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、
   ルーマニア、中国、韓国、オーストラリア等、数多くの国での演奏経験をもつ。
   ルーマニア国際音楽祭では最高賞を受賞。
   国内においては迎賓館など数多くの舞台経験と受賞歴をもつ。
   ソロのほかバレエピアニスト、ジャズオーケストラ、オペラ等で演奏。
   10代からレコーディングに関わりビクター、ヤマハ、ユニバーサル、海外レーベル
   よりCD発売。日本音楽コンクール作曲部門1位入賞。音楽教本付CDを発売。
   日本の古典芸能をもとにした音楽劇の作曲などジャンルにとらわれないアンサンブル
   の作曲やアレンジ、また映像と共に作った作品の発表など活動は多方面に及ぶ。

   
   Base 荒玉 哲郎さん

   87年 竹下清志のグループに参加しミッキーロウカーやオテロ・モリノウらと共演。
   94年 単身渡米、帰国後は綾戸智絵をはじめ様々なレコーディングに参加。
   05年 アルゼンチン大統領官邸にて演奏会を行い好評を博す。
   08年 ドイツ総領事の招待によるデュッセルドルフ等4カ所で演奏会を行なう。
   09年 リーダーアルバム「REZA(ヘーザ)」を発表。
   11年 ウラジオストック ジャズフェスティバルに出演。
   13年 「なにわジャズ大賞」を受賞。
   現在はジャズのみならずブラジル音楽、アルゼンチン音楽などのグループで活動中。
   大阪芸術大学にて後進の育成にも力を注いでいる。

入場無料 ただし、社会福祉施設などへのチャリティー募金(自由)はあります。

会  場 日本バプテスト大阪教会 
     大阪市天王寺区茶臼山町1-17 電話 06-6771-3865

     駐車場のスペースがありません。公共の交通機関でお越しください。
     JR・地下鉄天王寺駅より谷町筋・四天王寺方面北へ徒歩5分。

     この度、不思議なお導きによりすばらしい演奏者をお迎えしてのコンサートが実現。
     この機会にぜひクリスマスを教会でお過ごしくださいますよう、ご案内申しあげます。
    




   
コメント
この記事をはてなブックマークに追加