日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪の天王寺駅近くにある創立64年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂が完成しました。ぜひお立ち寄りください!

用意していますか?

2017-03-19 14:51:35 | メッセージ
宣教  マタイ25章1-13節 

この「十人のおとめ」のたとえ話は、通常、主イエスの来臨、又終末に如何に備えるかという事を示していると言われています。そしてそれは、花婿である主イエスが再びこの地上にお出でになるその時に、花嫁なる教会に呼び集められた私たちひとり一人が主イエスを如何にして迎えるか、という問いかけでもございます。
今日は「用意していますか?」という題で、この主イエスのたとえ話からメッセージを受け取っていきたいと思います。

さて、ここに「花婿が来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。この「花婿の来るのが遅れた」というのは、主イエスの到来、終末がいつ来るのか。私たちにはそれがいったいいつになるのか分からない、ということを示しています。カルト教団の中には「何年何月何日に主の再臨がある」とお告げがあったから、すべてを教団にささげなさいとか、教祖という指導者の言うとおりにしないと滅びるとか脅して、信じ込んでしまった当人や家族に悲劇をもたらした、というようなことが実際世界各地に起っております。けれど主イエスさえ「その日その時がいつくるかわからない。唯父なる神だけがそれをご存じなのだ」とおっしゃっていますね。ましてや私たちにその日その時が分かるはずありません。唯はっきりしているのは「必ずその時は来る」という御言葉の宣言と約束であります。

花嫁なる教会は、その御声に聞き呼び集められたキリスト者の群れであり、やがて来られる主の日に備えて、ともし火をかかげ続ける一人ひとりによって聖霊のお働きのもと形づくられているのです。

そうした上で、今日のところは花嫁なる教会にあって主を迎えるものみなが、眠気がさして眠り込んでしまったというんですね。私たち人間はいつも緊張感をもって過ごすというのは大変難しく、困難なことでしょう。

主イエスが受難の十字架を前にして最後の祈りを捧げるべく、ゲッセマネの園に弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われて行かれたとき、イエスさまはその弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われて、少し離れたところにおられたのですが。彼らのところに戻って来ると、彼らは眠っていたのです。そこでイエスさまはペトロに「わずか一時でもわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い(マタイ26:35以降)」と、おっしゃいました。
「心は燃えても、肉体は弱い」。弟子たちはイエスさまのただならぬご様相やこれから何が起ろうとしているのかという不安もあったのかも知れません。ルカ福音書には「彼らは悲しみのあまり寝てしまった」と書かれています。人間、体が疲れると眠くなるものですが、気疲れや悩み悲しみがつのる時も眠くなるんですね。「目を覚ましていなさい」。そう聖書を通して再三語られ頭では分かっていても体は正直です。そういう限界をもっている、それが私たち人間であります。

今日のたとえには、花婿をちゃんとお迎えすることができた賢いおとめたちと、お迎えすることができなかったおとめたちが出てまいりますが。興味深いのは、そのどちら側のおとめたちも、思ったより花婿の到着が遅いので、「みな居眠りをしてしまった」ということです。賢いと言われたおとめたちも緊張感や頑張りだけでは身がもたなくなって遂には眠り込んでしまったというのは、どこかほっといたしますけれども。
まあそうしてみな寝入ってしまったわけです。
ところが、花婿が突然真夜中、遂にやって来た。とうとうその日その時が現実のものとなった。その時に、「賢いおとめは皆起きて、それぞれのともし火を整え」、花婿を出迎えて一緒に婚宴の席に入り、祝宴にあずかります。
しかし、一方、慌てふためき右往左往してしまった愚かなおとめたちは、なんとも残念なことに、その喜びの祝宴にあずかることができないのです。

この違いは何でしょうか? 
その違いは唯一つ、ともし火を灯し続けるための「油」を十分に壺に入れて持っていたおとめたちは賢かった。遅れて花婿が来ても対応できるようにと備えを怠らなかった。一方のおとめたちは、十分に油を常備してなかった。すべての条件は同じで用意しようとすればできたのに、それをしなかったことにおいて、彼女らは愚かでであった、とイエスさまはおっしゃるのです。そこに両者のおとめたちの決定的な違いがあったのです。
絶やさずにともし火を灯し続け、いざという時にそれをかかげ周りを照らしたり、ほんとうの花婿の主イエスであるかを確認するためには、欠かすことのできない油を常に切らすことがないようにすることが必要なのですね。

では、この油とは何でしょうか? いろんなことが言われていますけれども。
それは聖霊の油とか、あるいは信仰の油だとか。いろんな解釈があるでしょう。
みなさんは何だと思われますか?イエスさまはその答えとなることは何もおっしゃっていません。しかし、ここに一つだけそのヒントとなることが語られています。
それは、この油がその人それぞれのものであり、それは人に分けてあげたりすることはできないものだということです。
8節のところで「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです』と言うと、賢いおとめたちは『分けてあげるほどありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』と答えた」とあります。ここを読みますと、賢い5人のおとめたちの答えは一見冷淡にさえ思えます。「クリスチャンであるならちょっと分けてあげたらいいのに、それが隣人愛じゃないか」という考え方もあるでしょう。
しかしここで語られていることは人の情や親切といった道徳ではなく、神との一対一の確かな関係性なのです。この油は、他の人には代用できない神との関係性のなかで保たれる油です。神と私という一対一の関係によって与えられる油ですから、ほかの人に分けてあげることはできません。分けようがないんです。
10人のおとめはみな同じように灯をもっていました。しかも同じ場所で、同じ時間にそこにいたのです。ただ、ともし火をともす油を絶やさなかったか、気づいた時には手遅れとなるほど油が欠乏していたか、この違いが決定的なものとなったのです。それは外から見ただけは分かりません。本人さえ分からないのかも知れません。遂に花婿が来たという声を聞き、「あっ、これでは油が足りない」と気づくまで。

さて、このたとえ話の中で、花婿が遅れて到着した。しかしそれは真夜中であったというのは考えさせられます。10人のおとめたちにとっては、今か今かという期待がやがて、もうおいで下さってもいいのではという焦りに変わり、夜の冷え込みとともに闇が深まっていく中で不安や疲れ増して、ついには寝入ってしまうのです。

ここで覚えたいのは、主を待ち望む教会も私たち信徒ひとり一人も、その時代その「時代に起って来るさまざまな苦難や闇とも思える状況、又困難な問題に直面し、揺さぶられ、試みられるということです。しかし、そういうような状況の中にあっても、なお賢いおとめたちは活きた信仰という壺に油を絶やさなかった。一方、ともし火は持っていたものの、壺に油を常備していなかったおとめたちは愚かな結末となってしまったということであります。

それにしても、油が足りないことに気づいたおとめたちは、分けてもらうわけにもいかず随分焦りながら、一応油を買いに行くのですが。戻ったときにはもう花婿が到着していて戸が閉められており、「ご主人様開けて下さい」と言ったけども、「わたしはおまえたちのことを知らない」と言われた。これはあまりに衝撃的で悲しい結末のようにも思えます。でも、これはあくまでも、主の日の約束に備えてのたとえ話であるということですから。そこで私たちはこのたとえから今を如何に生きるかということを具体的に読み取って活かしていきたいものです。

私は今回、この10人のおとめのたとえ話から、ともし火をともす「油」の備えというのは、今年度の大阪教会にとっては「祈り」であると思いました。年間標語に掲げています「祈りの教会」の私たちひとり一人の祈りだと、そう思ったのです。

私たちもまたしんどい時には眠気をおぼえるような弱い時もあるかも知れませんけれども。日々祈り続けることは出来るのではないでしょうか。主イエスの御もとに座してその救いと神への感謝の祈りを捧げる目覚めの時。主の愛を思い起こし、隣人のため執り成し祈る夕べの時。神の国と神の議を求めて祈る。それらの祈りは神との活きた対話の時であり、今日主が語っておられる「ともし火を灯し続けるための油の備えときっとなっていきます。
 先週の祈祷会でも、教会に来ることの出来ない方のところへご訪問くださっている方が、「信仰は個人的なもの(神さまとの一対一の関係)であって、人が代わりようのないものだけれど、教会はその私たちひとり一人の信仰のサポーターだと思います」とおっしゃったのですが。ほんとうにそうですね。祈られていること、又主にある兄弟姉妹としての関わりはどんなにか大きな支えであり励ましであるでしょう。
又、その日の夕方の祈祷会である方が、「自分はいろんな宗教といわれる施設にも行きましたが、キリスト教会とそこに集まっている人は、いわゆる家内安全というような祈り、自分のための祈りだけでなく、人のために祈るんですね」と、言われていましたが。その背後には聖書の救い主イエス・キリストの愛と祈りが今も活き活きと生き、信じる私たちのうちに働いておられるんですよね。
互いにおぼえ合い、祈り合っていくことで、油を携えていたおとめたちと同様、ここに集うだれもが花婿なる主イエスを迎えるためのともし火を、絶えずかかげ続けることができれば何と幸いなことでしょう。

「日々ともし火を灯す油の用意をする」ということで、最後に、以前にもいたしましたお話をして宣教を閉じます。
私どもの教会で3日のうちに2名の方が天に召され葬儀が続いたことがありました。
お一人は90歳の男性で求道者でしたが、病のため昏睡状態になりながらも不思議に意識を戻され、その与えられたチャンスの中で、主イエスを信じる信仰告白をされ病床受洗なさり、その後10日間ご自宅でご家族と過ごされて天に召されました。
その二人目の方は、まだ当時52歳でしたが。いくつかの病気を抱えておられ独り暮しでした。彼は悩みと病のために死ぬばかりでありましたが、教会を訪ねて来られ、主イエスの福音に触れ、バプテスマに与り、教会の奉仕とクリスチャンとの出会いや関わりを恵みとしておられました。随分と病も重くとうとう独り静かに息を引き取られたのです。その知らせを聞いたのが、先に天に召された方の葬儀が終わり火葬場から帰宅したばかりの時で、私は大変ショックを受け、頭の中が真っ白になりました。しかしこの方を通して神さまは幾つかの奇跡ともいえる出来事を見せてくださったのです。
一つは、訪問ヘルパーさんが彼のことを私に知らせに来てくれたことです。もし、それがなければ全く連絡がとれないまま一体彼の身に何が起こったか、もはや知るよしもなかったでしょう。話を聞いて分かったのは、実はこの訪問ヘルパーさんが、生前彼から「自分はクリスチャンで大阪教会に通っている」ということを常に聞かされていたそうなのです。彼は日頃から証しすることで、信じて救われたキリストの教会で兄弟姉妹に見送られ祈りとさんびの中、天国に帰ることが出来ました。
二つ目は、彼が天に召される数日前の水曜祈祷会に、2年近く大阪教会に来られていなかったある姉妹が突然いらっしゃったそのことです。姉妹はその兄弟と仲が良く、時々家族ぐるみでお食事をしたり交流があったのですが。その兄弟からいつも大阪教会に来るようにいわれていたようです。けれどそれがなかなか出来なかったんですね。ところが、その日の水曜日に何か不思議と教会に行こうという思いが起こったそうです。そしてそれが姉妹にとっては彼との最後の貴重な時間となりました。その祈祷会後バザーの残ったお弁当が丁度人数分あったのでみんなで頂き、それが彼との最後の晩餐となったのです。姉妹は、これはきっと神さまがお働きになってひきあわせてくださった事と、私にそう話されました。。姉妹はその故人の遺志を受け継ぐように教会の礼拝に再び出席されるようになりました。
三つ目は、彼のお母さんと連絡が不思議にもついて私と連れ合いがお母さんの家を訪問した時のことです。お母さんは重い病気を抱えていて、お友達がいつもお世話をしておられたのですが。「お話はありがたいですけど、福祉の方にお葬儀は全部お願いしていますので、お断りします」といわれたのです。福祉の葬儀は仏式で行うということです。意志は固く3度も「せっかくですがお断りします」といわれました。実は私たちが来る前に既にお二人で申し合わせて堅く決めておられたそうなのですが。それでも彼のことを思うとあきらめきれず、「お母さん。息子さんはクリスチャンとなって教会の礼拝や祈祷会に毎週こられ奉仕されていました。そこでいつもお母さんのご病気がいやされるようにと祈っておられました。その信じるところに沿うかたちのキリスト教のお葬儀で送ってあげることを、ご本人もきっと望んでおられるのではないでしょうか」と、そういう言葉が私の口から自然に出たのです。
するとお母さんのお隣にいらしたお友達の方が、お母さんに向かって、「私の思いを言っていいかなあ。私だったら息子が一番願っていることをしてあげたいと思う。お話を聞いて初めて、息子さんが教会によく通い、奉仕をされているその様子が私には分かりました」といわれたのです。そうするとお母さんが、「そうやね、それならぜひ息子のお葬儀をお願いします」とおっしゃったんですね。私たち夫婦は兄弟が亡くなられてから、どうか神さまあなたの御手と導きがありますようにと祈ってたのですが。まさに、その時、私は神の手が動いたと感じました。教会の祈りは主に聞かれていたのです。

私は主に救われた喜びをもって日々証しする者として生きているだろうか。感謝と祈りの日々を生きているだろうか。
今日のたとえ話の「賢いおとめたちが、ともし火をともす『油』の備えを怠らず」主と共によろこびにあふれて婚宴の席に入っていくその姿を思い描きつつ、今週もここから主に遣わされてまいりましょう。
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SOUND CLOSER vol.8 ~陽ののあたるところに温かな音楽を~

2017-03-17 10:46:22 | イベント
2017.4.9(日)

1st:16:00-
  (open15:45-お子様連れ歓迎)

2st:18:00-
  (open17:45-)

ticet:前売り ¥1,800/当日¥2,000

会場:日本バプテスト大阪教会
   各線天王寺駅より徒歩5分(大阪市天王寺区茶臼山町1-17)

  
   出演

ゆかり☆ゴスペル
YOSHI BLESSED
野田常喜(piano)/住吉健太郎(uitar)/酒匂賛行(drum)/MC YUSHI(rap)

info)http://yoshiblessed.com





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ろばの子に乗った主イエス

2017-03-12 15:36:22 | メッセージ
宣教 マタイ21章1~11節 

「主イエスのエルサレム入場」
さて、受難節・レントの第二週を迎えましたが。今日のマタイ21章の箇所からイエスさまは救い主としていよいよここからエルサレムに入城されます。しかしそれは世に言う勝利者のようなエルサレム行進ではなく、十字架:受難へと向かわれるための道なのであります。
今日の箇所は他のマルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書にも共通して記されています。それほど聖書は「イエスさまのエルサレム入城」を、神の救いの重要なご計画として示しているということですね。
中でも、9節「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という讃美は、全ての福音書に同じ言葉で記されています。それはこのイエスさまこそ、すべてを統めたもう神さまによって「救いのご計画」を成し遂げるために来られた救い主、キリスト(メシヤ)であるということを表しています。その主の名によって来られるお方、イエス・キリストは、今も世界の一人ひとりの魂を救い続けておられ、私のところにもおいでくださり、生きてお働きになられる救い主なのです。まさにアーメンです。

「ろばに乗った柔和な王」
さて、イエスさまはエルサレムに入城されるためにろばを用いられたということであります。王としていかにも勇ましく格好のよい軍馬ではなく、ろばに乗られるのです。
私も幼少の頃、親に到津動物園・遊園地に連れられてろばによく乗せてもらった思い出がありますが。ろばは、通常旅行者がその旅の便宜のために乗ったり、荷を運ぶのに用いられていました。又、労働力として家畜用にも飼われていたのです。ろばは労働や奉仕をするための動物だったのです。一方の馬は、軍事的な戦力、又王の行進のために用いられるなど、権力を象徴するものでした。
イエスさまはエルサレム入城というここ一番の時に、自らを英雄としてアピールしようなどとはなさいません。自らの勇ましさや力を誇示するために馬をお用いになるのではなく、軍事力や権力とは関わりのない、人々の日常の生活ときってもきれないろば、地道に奉仕し、労働するろば、しかもまだ一人前とはいえないような未熟で小さく弱々しい子ろばをお用いになられるのです。

そのことについて、4節以降に「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とございます。そしてその預言者ゼカリヤの「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」という言葉から引用されています。ちょっとそこを開いてみましょう。旧約1489頁。ゼカリヤ9章9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。」まあ少し違いますが。
いずれにしましても、ここで大事なことは、旧約時代において「娘シオン、娘エルサレム」は、つまり、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、そしてローマなどの大国の支配のもとで打ちひしがれ、翻弄され、神に見捨てられてしまったかのようなユダヤの人々のために「救いの王である主が来られる」という神のご計画と約束が記されているんですね。その預言が、イエス・キリストによって今や実現されるに至ったということであります。
そのように救世主である王は、「高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って来る」という預言が今まさに目の前に実現されているのです。
人々の熱狂的な歓迎ぶりには、そのような重く暗い時代背景と祈りとがあったのです。「ダビデの子にホサナ」。このホサナは「主よ、救ってください」「主の救いバンザイ」というような意味合いがありますが。まさにイエスさまの到来にユダヤの民はかつてのダビデ王の統治と栄光の時代が取り戻されることを大いに期待していたんですね。
とりわけこの群衆の多くをしめていたのはガリラヤやエリコといった都エルサレム周辺の地からイエスさまを追って来た人たちでした。エルサレムの都の傀儡政権のもとで比較的安定した生活を送る人たちより、貧しく置き去りにされたような郊外の人たちの方が切実さもあって救い主の到来を歓迎したのです。この5節の「柔和なろば」の「柔和」というのは、国語辞典等見ますと「性質や態度がやわらかであること」とありますが。その言葉の原意は詩編37:11の「貧しい人々は地を継ぎ」の「貧しく打ちひしがれているさま」。あるいは又、イエスさまが「貧しい人々は幸いである」とおっしゃった、その貧しさと区別できないほど同じ意味だということですね。

救い主を待ち望むほかない打ちひしがれた貧しいシオンの娘、取るに足りないもののようにされたエルサレムの住民たち。その痛み苦しみ、悲しみ悩みを神は知っておられる。柔和というよりどこか貧弱ともいえるようなそのろばの子に乗って来られたイエスさまのお姿にイ彼らも、そして今も、私たちも神の救い、ご慈愛を見るのであります。

「主がおいり用なのです」
今日の箇所はこれまで何度も読んでいたんですが、今回改めて気づかされたことがありました。それは「主がお入り用なのです」というお言葉についてであります。

これまで私はこのくだりを読むとき、今日はイエスさまのエルサレム入城について聖書から聞いてまいりましたが。私は個人的に、自分をこの2人の弟子に置き換えて、主の御言葉に聞き、お言葉に従っていくことによって主は栄光を顕わされると、そこに焦点をおいて読んでいたのです。まあ牧師という仕事がら、自分はイエスさまの弟子であるから罪や悩みに縛られている人の縄目を解いて主のもとに連れてくるようにと主イエスが言っておられると、そこを気にかけて読んでいたんですね。気負いがあったのです。
けれど、今回この「主がお入り用なのです」と言いなさいという主のお言葉を聞くとき、この引いてこられた「ろばの子」こそ、まさに私、自分なんだと思ったんですね。私はこの子ろばのように、神の前には何も誇れるものが一つもなく、未熟なものであるということにハッとさせられたのです。ろばが「つないであり」というのは、罪につながれ、その縄目に縛られている自分であります。主イエスの救い、「あなたの罪は赦された」という宣言によってしか自由になることのできない私自身であります。そんな私を主は罪の縄目から解き放ち、ご用のために用いてくださる。主は私のような罪深き者、取るに足りない者を、救い、解放の喜びのうちに用いてくださる。そのもったいなさといいますか。アーメン、唯感謝です。主が勇ましく戦いに優れている軍馬ではなく、小さく未熟な子ろばを神の救いのご計画のためにお用いになられる。それは人の業がたたえられるのではなく、だれも誇ることがないように。唯主のみ救いであることが明らかにされるために敢えて、ろばの子のような者をお用いくださるのですね。

私たちは自分の能力や賜物を用いて神さまの栄光を表したいと願います。もちろんそれは良いことに違いありません。けれども、すべてに優って大事なことは、罪や囚われから解き放ってくださる主、それも自ら貧しく小さき者、柔和な者となられる主の、その愛と救いに生かされている証しと感謝です。それを主は、何が出来るかということにも優っていることなんですよね。

レントの只中、この「柔和なろばの子に乗って来られた私たちの救い主イエスさま」に、「ホサナ」と、感謝と喜びを賛美しながら今日もここからそれぞれの生活の場へ遣わされてまいりましょう。

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3・11を忘れない

2017-03-11 09:54:42 | 巻頭言

東日本大震災から6年目を迎えました。
日本政府は「節目を越えた」ということで、3・11東日本大震災のこれまで例年この日に続けてきた政府会見をしないということですが、
未曾有の大地震・大津波・原発事故は終わっていません。日本政府としての説明責任をきちんと果たす必要があります。
未だに12万人以上の方々が避難生活を余儀なくされておられることを忘れてはなりません。
先行きが見えず悲しみ苦しみの中におかれている被災者とそのご家族の方々がたくさんおられます。
「3・11を忘れない」を合言葉に、被災者の方々の心に負っている精神的ケアと回復のため、又財政的支援がなされていくために覚え祈り続けてまいります。

今日は「大阪人権博物館:リバティ大阪」にて「今日の難民問題、日本ができること」と題して、国際連合難民高等弁務官事務所・UNHCR副代表の小尾尚子さんのご講演が行なわれます。
現在特別企画のブースで、世界の各地にも難民として悲しみ苦しみの中におかれている方々の現状とさまざまなかたちで難民支援の活動なさっている団体の働きについて知ることもできます。
日本は今から36年前の1981年に「難民条約」を批准し、難民を受け入れる責務を持った難民受入国となりました。2015年の時点で紛争や迫害によって難民として移動を強いられた方々が世界で6,530万人にものぼるということです。一方、2015年のデータとして日本に難民認定を申請した方が7,000人を初めて超えたそうですが。そのうち難民として認定されたのがたわずか27人で、不認定率が99.62%という現状でここ数年不認定率99%が続いているそうで、日本の難民の方々に対する非情な受け入れの現状について心痛みながら知ることができましたが。その背後には「治安が悪化する」などといった「外国人」に対する誤った理解、偏見があるからだと思わされました。これからの難民と私たちというパネルの言葉にこう記されていました。
「難民の人々は平和な祖国と家族との安全な生活を望んでいる人たちです。あなたがこの問題に関心をもってくれることを必要としています。一人でも多くの市民が日本の難民の受け入れの問題に関心を寄せ、できることから『やってみようと』と思ってほしいのです。」
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ゆるし

2017-03-05 16:14:27 | メッセージ
礼拝宣教 「ゆるし」 マタイ18章21―35節  

遠藤周作さん原作の映画「沈黙・サイレンス」の上映は終わったのでしょうか。御覧になられた方の感想も様々おありですが。Kさんが私に「”沈黙”を見て感動しました。踏み絵の際のイエスの言葉も感動しましたが、散々裏切ったキチジロウに一緒に居てくれてありがとう!と言う場面は正にキリスト教だ!と感動しました」という熱い感想を語ってくださいました。そうですね。実はここにキリスト教の神髄が「ゆるし」であることが示されていると思います。それは、どんなに私たちが迷い疑い多き者、小さく弱い者、負い目のある者、罪深い者であったとしても、主は決して見捨てる事なく、ゆるしと愛をもって招いておられる。そのメッセージが「沈黙」という作品をして物語られていると私も思いました。

今日の箇所ですが。はじめにペテロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問いかけています。「兄弟が」と言うのですから、イエスさまの弟子たちの間でもなにがしかのいざこざがあったということでしょうね。まあそういう問いかけに対してイエスさまは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになるのです。
 この七の七十倍というのは単なる数字を示すものではありません。七というのは旧約時代からの完全数を示します。その七十倍ということですから、もう制限無くというような意味なのです。一応計算上は490回という上限があるわけですが。もうそれ以上ゆるしたらあとは神の審きの領域だから神に委ねなさいというとり方もできるかも知れませんが。いずれにしてもとことんゆるしなさいということですね。

さて、ペトロがどうして「罪の赦し」についてイエスさまに尋ねたのか。
それは恐らく前の段落で「罪を犯した兄弟に対するイエスさまのみ教え」を受けてのことなのでありましょう。まあ12弟子以外にも多くの弟子がいたのですから、何らかのトラブルがあったとしても不思議ではありません。イエスさまはそういう時「あなたがたが黙って我慢するように」とはおっしゃいません。ともすれば、我慢が美徳のように思われたりするものですが。しかしイエスさまは相手と直に対話することの意義を説かれます。それは審くためではなく、本質的には兄弟を得るためであることがこの文脈から伝わってきます。まあそれを聞いたペトロが、何度忠告しても同じように罪と思えることをなしてくる弟子仲間に対して、「何度まで赦すべきでしょうか」、完全数の7回までですか、と尋ねたわけです。そこで、イエスさまは今日の「仲間を赦さない家来」のたとえをなさるのでありますが。

ここで興味深いのはこのたとえを読む限り、イエスさまは何一つ道徳的な理由付けをなさっていない、ということです。言ってあげた方が相手のためになるとか。相手をゆるすことはあなたの功徳、徳になるからとか。そういう解説をなさらないんですね。
イエスさまはそうではなく、ただ「天の国は次のようにたとえられる」と、実は「天の国」について語られている。そこが大きな特徴です。「天の国」とは兄弟姉妹という神の共同体、それは教会ともいえるでしょう。さらに広く地上のいたる所に実現されるべき「天の国」というようにも考えられるでしょう。いずれにしても、イエスさまはこの「天の国」のたとえを通してペトロに「ゆるし」ということをお示しになるのです。

ではその内容について見ていきたいと思います。
まずこの家来が王から借りていた1万タラント。その1万分の1の1タラントが当時の労働者の6,000日分の賃金ですから。その6,000日分の賃金の1万倍に当たるというとてつもない莫大な金額です。王の家来はその莫大な借金を返済できなくなった。損害を被った主君は、はじめこの家来に自分も妻も子も身売りして持ち物全部を売り払って返済するよう命じるのですが。彼がひれ伏してしきりに懇願する様子を見て、憐れに思って、赦し、何とその国家レベルで扱うような莫大なその借金を帳消しにしてやった。
つまり、主君は自らその損害を与えた家来の莫大な借金の肩代わりを「ただ憐れみ」のゆえに無条件ですべて負ったのです。
 この「憐れみ」というのは、ただかわいそうというのではなく、腸がちぎれるような心情を表す意味の言葉なのです。主君はそれくらい憐れに思ったからこそ家来をゆるし、自らそれを負ったのです。家来はどんなにか喜びながら帰っていったに違いありません。

ところが、この家来が外に出て自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、つかまえて首を絞め「借金を返せー」。私はこのくだりを読むとなにか吉本新喜劇の世界みたいだと、このたとえ話にイエスさまのユーモアを感じたのですが。
とにかく、自分はそれだけ赦して頂いて喜び感謝もつかの間、自分に借金している者の首根っことっ捕まえて「返せ-」と。その仲間も自分が主君の前でしたようにひれ伏して「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼むわけですが、承知せず、引っ張っていき、借金を返すまでと牢に放り込む、ということをやるわけです。
100デナリオンとは、100日働けば稼げる金額です。6,000万日分の1万タラントに比べれば実に取るに足りない金額ですよね。
この家来は主君から無限ともいえる憐れみ、腸がちぎれるほどの痛みを伴う憐れみによってゆるしを頂いたにも拘わらず、自分の仲間は赦しませんでした。
この家来は、主君が自分に施した愛と赦しがどんなに莫大で尊いものか、又自分がいかに借り多き者かを自覚できず、自分に対して些細な借りがある仲間を赦せないのです。

ペトロは「わたしに対してなされた罪を何回ゆるすべきでしょうか」とイエスさまに尋ねました。このペトロは主イエスの弟子たちすべてを象徴する存在として描かれています。それは又、現代の私たちにも様々な人間関係の中で、時に起ってくる問いかけなのではないでしょうか。そして、このたとえに出てくる主君の憐れみとゆるしによって莫大な1万タラントンという借金を無条件に赦された者。それも又、主なる神さまの前にとても償いきれない罪や咎を憐れみのゆえに赦されている私であり、主イエスの十字架の愛によって肩代わりして頂いている私であるのです。
そのようにこの家来同様ただ主の憐れみに与る外ない存在であるということを自覚した者、それがクリスチャンでありましょう。唯、主君の憐れみと恵みに与って赦しを得ている。ここに「天の国」が示されています。私たちはいまここにおいてこの天の国に与っているのですね。

しかしこのたとえは、そこで終わらず、この家来は借金のある仲間を憐れまず、ゆるすことなく、借金を返すまでと牢に入れた。その非情な姿を示します。それも又、些細なことに腹を立て、何度も思い出しては苦々しい思いが頭をもたげてくるような私自身の姿かも知れません。このたとえの王、主君はそんな家来に「『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきでなかったか』
そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」とあります。
主は言われます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。

この最後のイエスさまのお言葉は、単に私たちが自分の感情や思いを押し殺して、見逃してやりなさい「ゆるしてあげなさい」とおっしゃっているのではありません。「クリスチャンは何でもゆるさなければいけない」と言うのは思い違いです。神の前に違うことは違う、いけないことはいけない、と言ってよいのです。傷つけられ痛んでいる人に、相手を「ゆるしなさい」ということは憐れみに欠くことです。人の心に受けた傷はいえにくいものですし、その痛みや感情は第三者がゆるせと言っても赦せるものではないでしょう。
私たちはここから何が何でも赦せということを聞くのではなく、ここでイエスさまがおっしゃっている「ゆるし」とは、天の父こそが「ゆるし」の主であるということです。その深い憐れみの中にわたし自身がまずゆるされている。100%の愛とゆるしの中に、すなわち「天の国」に迎え入れられているということにまず気づき直すこと。それが、同時に主にある兄弟へのゆるしへとつながってゆくであろうという期待がここに語られているのですね。それは又、天の国に与る私たちに対する実はユーモアーとあたたかなまなざしに満ちた主の招きと励ましなんですよね。

現在私たちが礼拝の中で共に祈っている「主の祈り」は、マタイ6章とルカ11章でイエスさまが弟子たちにお教えになられた「祈り」がベースになっています。
その祈りの中で「ゆるし」についての祈りがあります。それは「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」(文語訳)となっていますが。もともとイエスさまのお教えは、まず「わたしたちの罪(負い目を)をゆるしてください」という祈りが先なんですね。そこには「如何に自分は主にゆるされるのでなければ救い難い者であるか、どうかこの私の負い目(罪)をおゆるしください」という信仰の告白があります。そうしてから「わたしたちも自分に負い目のある人をみなゆるしましたように、と言うんですね。ルカではさらに「わたしたちが赦しておりますように」という現在時制で語られていますが。
いずれにしろ、主の祈りの「ゆるし」は人間の側から出る感情ではなく、神さまから頂くゆるしに与るという神の国の訪れによって、自ら意志をもってゆるしと和解の御国を造り出していく者とされていく、そこにございます。


最後なりますが。バプテスト連盟医療団の機関誌「シャローム」の聖書の小道というコラムにチャプレンが書かれたエッセイにたまたま目が留まりました。少しご紹介します。
「トルストイ原作の『火は早めに消さないと』という絵本は、隣家といがみ合う息子に父親が繰り返し伝えた言葉がタイトルになっています。たった一個の卵から始まった二軒の農家の争いが、最後は村の半分近くを焼いてしまう火事に発展しました。物事が大事になり、その時始めて息子は自分とその心に目を向け、悔いるのでした。
人の魂の痛みは「ゆるし」に関するものがあり、これはスピリチュアルケアにおいて、人生で、特に最後を迎えるにあたって取り組む大切な仕事の一つに数えられています。
マザーテレサは言いました。「誰かをゆるしていない痛みはないか。誰かからゆるしてもらっていない悲しみはないか。」

受難節を迎えた私たちそれぞれもまた、主の十字架の深い愛とゆるしの恵みをおぼえながら、今日の主イエスの真理と、ユーモアーに満ちたたとえ話に背中を押されつつ、兄弟姉妹、隣人との和解に「天の御国」を求めてまいりましょう。


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安心しなさい

2017-02-26 21:38:46 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ14・22-33

今日の箇所の冒頭に、「それからすぐ」とあります。
これは、前の記事の5千人に食べ物をイエスさまが与えられた奇跡の出来事をさしています。群衆たちはその奇跡に酔いしれ興奮冷めやらぬ状況でした。同じ記事が記されたヨハネ福音書6章には、その給食の奇跡の後「イエスは、人々(群衆)が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とあります。群衆はイエスさまを政治的な王として奉りあげようとしたのです。しかしイエスさまはそれを拒み、祈るためにひとり山に登られるのであります。

イエスさまはご自分がどのようにあるべきかをよくご存じでした。それは、この地上の権力を手にして民衆を支配したり、又国家を再建していくような為政者となることではありません。ただ父の神さまの御旨を行なう。唯そのことのみ、心を向けられたのであります。イエスさまにある神さまの御心、それは神さまの愛と救いを示し顕わし、成し遂げることでした。もし「権力をもって王となった方が効率がいい」とイエスさまが地上の王になられていたなら、一時的にはユダヤの民の国がよくなったとしても、私たちの救いは永遠に絶たれていたでしょう。神さまの御心に従う十字架の道をあゆみ通してくださったからこそ、今日私たちは主の福音、御救いに与ることがゆるされているのですね。
私も牧師として立てられていますが。それは神さまの御心とゆるしの中で役割が与えられているに過ぎません。教会のみなさんと何ら身分的違いはなく牧会という一つの働きを託されているにすぎないのです。プロテスタント(新教)の中でも私たちバプテストは、万民祭司。つまりすべての信徒が祭司であるという新約聖書のメッセージを大切にしてきました。礼拝での牧師の宣教も大事ですが、今日まで牧師だけでなく信徒も協働で教会形成を担ってきたという歴史があります。

イエスさまが周りの期待や目先の効率的手段として上に立つのでは無く、どこまでも父なる神の御心に従われた。王に奉りあげられることを避けて、群衆から退き祈られことを思う時、キリストの教会の中心、頭、リーダーは唯主なる神であられることを知らされます。このお方にこそ共に従ってまいりましょう。
さて、本日のマタイの14章に話はもどりますが。
ここでイエスさまは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。祈るためにひとり山にお登りになられた」というのです。

どうしてイエスさまは強いて彼らを舟に乗せ先に向こう岸へ行かせたのでしょうか?なぜ、一緒に舟に載って行かれなかったのでしょうか?
それは、イエスさまが、やがて弟子たちと別れなければならない事、又弟子たちの将来において遭遇するであろう、ありとあらゆる困窮や苦難の折にも、「主は共におられるる」という確信と平安に与る者となるように、切に願われたということであります。

そのためにイエスさまがなしたことは、第一に弟子たちのことを父の神に執り成し祈られたということですね。イエスさまはひとりで父の神と相まみえて弟子たちのことを執り成し祈られると共に、おそらく御自分の使命についても再確認される時を持たれたのではないかと思うのです。
このイエスさまの祈りは、私たちの祈りの手本であります。執り成しの祈りと自分の立ちどころを再確認していく。それは私たちもまたひとりで主なる神さまと相まみえて一対一で祈るときを持つことが如何に大切か。そういうことがここに示されているのであります。

又、一昼夜ひとり山で祈られた後にイエスさまが起された第二のアクションは、弟子たちが悩まされていたまさにその現場に行かれたということであります。

舟は教会を表すとも言われますが。教会も又、時代の波風に、あるいは時々の状況の中で、時に大きく揺さぶられ、にっちもさっちも行かないような状況に陥ることがあります。この弟子たちのみならず、時に嵐に沈みかける舟のように厳しい状況の中で揺れ動く教会、信徒に向けても、主は実に共においでになるのだということをこのエピソードは示しているわけですけれども。
さておき、弟子たちはイエスさまのお姿を海の上に見た時、それが幽霊だと言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげます。彼らはひどい逆風に一晩中悩まされ、怯え、不安を抱えていました。疲労し追い込まれていた。そういう心身状態で、薄暗い夜明けに湖上を歩いてこちらに向かって来る何ものかの姿を見れば、そりゃあ長年漁師をしていた弟子たちであっても怖かったと思うんですよね。

まあそうして彼らのところに行かれたイエスさまは、すぐに彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけられます。
この「わたしだ」というのは、幻想などではない。幽霊なんかじゃない。正真正銘「わたしだ」ということです。
この「わたしだ」と訳されたエゴー エイミーは旧約聖書の出エジプト記3章で神さまがご自分を言い表わされる時にお使いになった「わたしはある」と同じ意味の言葉なんですね。それを確か口語訳では「わたしは有って有る者」と確か訳されていたかと思いますが。
つまり、イエスさまが「安心しなさい。わたしだ」とおっしゃるとき、それは不確かな幻想などではなく、エゴ- エイミー。確かに「私がここに存在している。安心しなさい」。そういうことなんですよね。それは私たちの側がどんなに深い闇、不安と恐れの中で、唯主に叫びながら右往左往していようとも、主は確かに共におられる。世にはまたとなき平安。安心がここにあります。

さて、湖の上を歩くイエスさまの記事は、マルコとヨハネの福音書にも共通に記されているのですが。このマタイにしか記されていないのが、12弟子の一人ペトロの行動であります。

28節、「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』。イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」。

ここを読みますと、注目すべきは、イエスさまのお言葉に目を向けていった時、ペトロも水の上を歩くことができたのですね。ところが強い風に気がついた瞬間。どっと恐怖が押し寄せて来て、あわや沈みかけてしまうのです。慌てたペトロは「主よ、助けてください」と叫び求めると、すぐにイエスさまはペトロに手を伸ばしてお助けになったということであります。

先週の事でありましたが。私事、母の回復のためにお祈り頂きまして、ありがとうございました。感謝なことに、無事意識が回復し、現在は自宅で普段通りの生活ができております。18日の土曜日の午後6時に行方不明になったとの連絡が入り、その後見つかったとの連絡が入ったのが日をまたいだ翌日の深夜1時頃でしたが。とにかく礼拝の為の準備をしながらも正直心配でなりません。ペトロが強風に気がついて怖くなったように最悪の状況がふと頭をよぎりますと、もう「主よ、助けてください」と心の中で叫ぶような思いでした。実は発見されたときの体温が25度しかなくて、「あと少しでも遅れていたなら凍死していた」と、妹が医師から言われたと聞いてゾッといたしましたが。暗い中路上に倒れていた母を発見して救急に連絡してくださった方には唯々感謝であります。そして何よりその背後で神さまの御守りがあったことをひしひしと感じ、心から主を賛美します。

聖書にもどりますが。まあ吹きつける強風に気がついて怖くなり沈みかけたペトロに、
イエスさまは「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と言われます。
ここでイエスさまはペトロに対して「信仰の無い者よ」とはおっしゃっていないのです。「信仰の薄い者よ」とおっしゃった。それは「信仰が小さい」と同じことですが。まあ、そう聞きますとどういうのが薄く小さい信仰で、どういうのがぶ厚い信仰なのかなど考えてしまうわけですけれども。ここを見ますと、イエスさまはペトロに「なぜ疑ったのか」とおっしゃいます。
この疑うの原語は「二つの方向に歩んで行く」という意味です。ドイツ語で「Zwei-fel」二重の状態を表します。つまり人が二つの心を胸に抱いているという状態のことですね。
日本でも「二心」などと申します。ドイツ語と同様心の状態が二通りという意味と、さらにそれは「不忠実な心」「謀反の心」「疑いの心」ということです。

ここでペトロは主イエスの言葉、ご意志に従ってまっすぐにあゆみ通せば無事イエスのもとに辿りつけたんでしょうが。けれど強い風に気づき気持ちがそちらに囚われたことで心が二つの状態にわれて、疑いと恐れの念が生じたという事なんでしょうか。

でも、ここでイエスさまはその「信仰の薄く、疑った」ペトロが必死に「主よ、助けてください」と叫ぶその声に、すぐに手を伸ばして救い出されたのですね。実はここでペトロは自らのそんな挫折によって、真の信仰を見出すのであります。それは自分の思い描くような強い信心によってではなく、「主よ、助けてください」というほかない自分を、主が救ってくださるという信仰です。この確かなお方、この主イエスに唯まっすぐに従い行く。それが自分のなすべき道なのだ、とこの出来事をとおしてペトロは確認したのではないでしょうか。
ここを読みますとき、私たちもともすれば人間はまっすぐに主への信仰を堅持していたいと望みながらも、実際の生活の中では、自分の力を頼みとしていたり、又別のものを祭り上げて頼みとしていくような、「疑い多き」「信仰のちっぽけな」者ではないでしょうか。みなそれぞれに信仰と疑いの中を揺れ動いている日常がある。けれども、幸いなことは、今日の聖書にありますように、大きな問題や困難の中で怖じ惑い、「主よ、助けてください」と叫ぶほかない私たちを決して忘れことも、見捨てることもなく、イエスさまは「わたしが共にいる」「わたしは在ってある者」「安心しなさい」と御手を伸ばしていてくださっているということですね。そこに真の平安がございます。このイエスさまのみ声を聞いて、人生の荒波を主と共にあゆみ通してまいりましょう。祈ります
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宝を見出した人

2017-02-19 18:22:57 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ13・44-50

先週は3日間全国牧師研修会が3.11東日本大震災の被災地であります宮城県松島で開かれ参加させて頂きました。「教会形成と災害」~東北・松島で考える~とのテーマのもと、お二人の講師のお話。そして8つの分科会。又、津波の被害がひどかった被災地東松島や石巻まで足をはこぶことができました。
一日目少し仙台空港に早く着きましたので、私は仙台市で津波の被害が最も大きかった若林地区をローカルバスに乗り、海の防波堤近くに行き着く中野という停留所まで参りました。バスの車窓からは震災から6年経っても、未だに空き地となっているところ、まだぼこぼこの土地が一面に広がっているところがあり、ここに6年前の震災の折、10メートル以上の津波が押し寄せて来た地なのだと知り、信じられなかったです。又、そのバスの路線上には震災前にはいくつもの小中学校があり賑わいでいたのですが。大津波の折は避難所となりその後は壊滅的な状態となり、後に建て替えられていた仙台私立東六郷小学校を見ると何ともいえない寂しさをおぼえました。
また2日目には石巻の被災地に参りました折も、津波の時に町の方々が避難した高台に上りそこに立ったのですが。石巻市の町中が大津波に襲われ、次々にありとあらゆるものが流されていく映像と、それが重なって見えてきました。わたしはただその高台に立ちつくし、何ともいえない思いがこみ上げてきました。その思いは研修会の期間中ずっと続きました。東日本大震災で未だに行方不明者が2556名おられるということです。
そのお一人おひとりにはそれぞれの人生があり、歴史があった。又日常とその生活があったということに思いを馳せました。研修会の前日には震災と津波で一人の女性の方の遺体の一部が見つかったということを伺いました。
大地震と津波、さらに原発事故によって、そこにあった尊いいのちや人々の生活や日常が奪われていったということを、被災地に実際に足を運ぶことによって、強く感じることができました。今回の研修会では、そこで声なき声、声に出すこともできない声に心を向け、聞いていくことの大事さをほんとうに知らされました。
これは被災地の教会のある教派のお話を聞いたのですが。それは震災時現存した教会が震災後減少したのではなく、さらに増加したというのです。その一つの教会のあかしが次のように紹介されています。「私たちの教会では5つの家族が家を失いました。身内を亡くした人もいます。そのような痛みの中を通りましたが、神様は私たちの教会を被災者に寄り添うボランティア活動に導いてくださいました。そしてその中から聖書の話に耳を傾け、イエス様を信じて人生が変えられる方が起されました。」
今回の研修会からほんとうに様々なことを学び、又、被災地に足を運ぶことによって気づきが与えられることもありました。

本日は先ほど読まれ、こどもメッセージもございましたマタイ13章44~50節より「宝ものを見出した人」と題し、御言葉に聞いていきます。

ここには3つの「天の国」のたとえが語られています。それはユダヤの日常を支える仕事と関わりのある「農夫」「商人」「漁師」といった人たちをたとえとしてイエスさまは用いて、「天の国」をお示しになるのです。人は「天の国」を別の世界のことのように夢見たり、あるいは社会的規範を守り行なうことで到達のしうるように考えたりします。「私もあの人も悪いことはしていないのだから死後は天国に行く」という考える方もおられます。けれども、本日のたとえ話は、つまるところ「天の国」は実は私たちの日常と直結しているのだというお話であります。

まず最初の「天の国」のたとえは、「宝ものを見出した人」について語られています。当時ユダヤでは、人々は財宝を壺に入れ土の中に隠したそうです。これはまあ強盗や武装した兵隊の略奪から守るための最も安全な方法だったのでしょう。
ところがその持ち主が死亡したり、何かのアクシデントに遭い行方が分からなくなった場合、その埋められた宝ものは土の中に放置されたままになってしまいます。

このたとえでは、その隠されていた宝ものを、おそらく畑仕事に雇われていた農夫が偶然にも見つけるのですね。彼は「それをそのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑ごと買う」。つまり畑ごと自分のものにするのです。

この宝の大発見は全く予想もしていなかった思いがけないものでした。自分がどんなに苦労して働いてもらえることのできないような、すばらしい宝。その人は唯驚き、喜び、その宝を自分のものとするために、これまで自分が大切にしていた物すべてを売り払って、畑の土地ごと買いあげ、宝を手に入れようとするのです。

ここを読んで、何で畑まで買う必要があるのだろう。宝ものだけ持って帰ればいいのにと思われる方もおられるかも知れません。それは、当時の合法的手段で罪を問われないようにということもあったのかも知れませんが。しかしここで強調されているのは、すばらしい本物の宝を前に、この人がそれまでの自分の生活を形づくってきたすべてのものと比較にならないほどの価値をその宝に見出したということです。
もう一つは、まあちょっとこの箇所を読んで思い浮かんだのは、高額宝くじが当たった人たちのことです。このような人たちがその後どのような生活を送っているのか興味がわいて調べてみました。すると、わりとそれまで通り勤勉に働き、ふつうに暮らしている人たちが多いようです。その一方で、「当たれば天国」のはずが、金銭トラブルに巻き込まれたり、人から嫉まれ、やっかみで人間関係が崩壊する人。浪費癖がついたり、また当選するのではというヘンな自信からギャンブル的なものにはまってしまう人などもいるそうです。その調査報告の末尾には、ご丁寧なことに「高額当選しても不幸にならない方法」というのが書かれてありました。
私も又、銀行に預けても今は利子がほんと低いですが、それでも6億円あれば定期預金にすればそりゃあまだ利子分で生活も楽になるだろうとか。そういうことかと思ったんですが。
違っていました。そこにはこうあったんです。「お金持ちに相応しい実力を身につけよう」。まあそれだけを聞くと何かいやらしい気がしますが。具体的には、「一番確実な方法として本や人との出会い、実践を通してビジネスを学ぶ」とありました。
否、今私たちは「天の国」について学んでいるのですが。ある面似ていると思うんです。いくら「神の国」を見つけた。「宝」を得たといっても、その宝に相応しい生き方がなければ何になるでしょうか。み言葉に聞き、人と出会い、主の教えを実践して生きていく。それが「畑ごと宝を買う」ということなのかと思いました。

この宝を見出した人は驚きと喜びから自分で畑を買い、この人は、ここが肝心なのですが、これからも農夫であり続けるのです。日毎汗水流して畑を耕す、そのような日常の生活をとおして本物の宝の真の価値を確認して生きる。そこに天の国の恵みが地上に開かれいくのであります。

この商人は真珠の買い付けを始めてから、「これぞ」というものをこの人はずっと探し続けてきた。
さて、天の国の二つ目のたとえ、「高価な真珠を見出した商人」について見ていきましょう。先の農夫のたとえでは、「思いがけない」こと、「予想もしていなかった」こと、「突然」ということが強調されていましたが。この高価な真珠を見つけた商人は、逆に「これまでずっと良い真珠を探し続けていた」ということが強調されています。

真珠の買い付けを始めてこのかた、「これぞ」というものをその人はずっと探し続けてきた。そして遂に見つけたのは、「高価な真珠」であった。「やっぱりいいもんは高いんやなあ」と。しかしそれは値段が高価だというのではなく、「価高い、価値がある」ということです。
私はこどもの頃、牛乳のフタを集めるのが趣味でした。それを友達とメンコ遊びするんですが。中でも1枚の生クリームのフタがピカイチで、これで勝負すると必ず勝つのです。おとなにとってみれば、それはゴミみたいものでしょうけど、私にとって最高に価値ある1枚でした。
この商人にとってこの真珠は、何ものにも代えがたい世界中でたった一つの、唯一の尊い真珠なのであります。この商人も、前の宝を見つけた農夫と同様、自分の「持ち物をすっかり売り払い、それを買い」求めるのであります。

今日の3番目の「天の国」のたとえでありますが。これは最初の「宝を見つけた農夫」や次の「高価な真珠を見つけた商人」のものとは異なります。何が違うかといえば、よい魚を手に入れようとするのは実は神であり、その網にかかった魚というのは、主イエスの福音に捕えられた一人ひとりであるということです。ここが大きな違いですよね。そしてこれがこの3番目のたとえのポイントなのですが。その獲れた魚は選り分けられる、というのであります。漁師の網が湖に投げ降ろされ、いろんな魚を集める。網がいっぱいになると人々は、漁師がいっぱいになった網を岸に引き上げ、良いものは器に、悪い者は投げ捨てる」。

このたとえは、実は前の24節からの「天の国」に関する「麦と毒麦」のたとえを受けたものです。良い種を畑に蒔いたけれど、敵が来て毒麦を蒔き両方育ってくる中で、気づいた僕たちが「その毒麦を抜き集めましょうか」というのですが。主人は29節にあるように、「いや、毒麦を集めるとき麦まで一緒に抜き取ってしまうことにもなりかねない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言うのです。そして遂に、
刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさいと、刈り入れる者に言いつけよう」と、いったというたとえであります。

主イエスはたとえの説明を求める弟子たちに「刈り入れは世の終わり」のことで、天使たちが遣わされ「正しい人々の中にいる悪い者どもを選り分け、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのです。それがこの箇所の地曳網の中に入った良いものと悪いものを選り分けるといったたとえに繰り返されているんですね。ここで非常に気になりましたのが、正しい人々の中にいる悪い者どもという言葉です。それは世の人々という世界より、前の文脈から考えても、福音を聞いて救いに与っているはずの人たちということでしょう。本物の宝ものを見出したはずなのに、一つの高価な真珠を手に入れたはずなのに。いつの間にか喜びと感謝は色あせ、生活と言動が天の国と相容れないものとなっている、そんな姿が浮かんできます。しかしそれらは人には分からないし、人が人を裁くことは出来ません。むしろ私たちは忍耐強く互いの救いのために主に執り成し合うことに、希望を見出す事こそ大事です。選り分けるのは天使とされている通り、審きは神の領域なのです。

最後に、今日このところから思いましたことは、確かに私たちが「宝」や「高価な真珠」を見出しているわけですが。それは又、主なる神さまが私たち一人ひとりを御自身の「宝」「価高き真珠」として見出してくださっているということです。それは尊い御子イエスさまを代価としてまでも、私を、あなたを、この世界でたった一つの高価な真珠のような存在として愛してくださる。その福音メッセージであります。

冒頭宮城での研修会でのことをお話しました。私はその大津波にさらわれ、何もなくなったその静まりかえった地に一人立った時、海はほんとに穏やかなんですけれども、心が重くなりました。そこで暮らすお一人おひとりの日常があった。その声なき声が聞こえて来る思いがして。福島の原発事故から6年目にもうすぐなりますが、「アンダーコントロールできている」とか。避難解除までなされて帰宅される方もおられるそうですが。未だ原発事故非常事態宣言は解除されていないという驚くべきこの事実を知らされたのですが。そこにもそのような中で日常を生きる人たちがおられるのです。

今日の主イエスのたとえ話を思いめぐらしながら、あの私の心に訴えかけた声なき声は「いのちこそ宝」「いのちこそ唯一の値高き真珠なのだ」という声であったような気がしてなりません。
見出した者、見出されたいのちの存在として、それぞれの日常がこの福音の恵みを基にしてあゆむものとされてまいりましょう。ここから。

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神の業に対する冒涜

2017-02-12 14:38:38 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ12・22-32

昨日はこの教会を会場に「2・11信教の自由を守る日」を覚えての関西地方連合社会委員会主催の集会がもたれました。こうして自由に集い主の福音に触れ、賛美ができるということがどんなに幸いなことか。映画の「沈黙(サイレンス)」も観に行きましたが。神の救いの業はどこまでも人を生かす力として働かれる。世には体制や勢力、イデオロギーによって個々人のいのちが軽んじられていく力が働き、時に神の救いの業を冒涜するようなことが起るのです。今日は2000年前の、そのような今に通じるお話であります。

まず、この出来事の前の箇所には、イエスさまの弟子たちが安息日に働いてはならないのに麦の穂を摘んでそれを食べ、ファリサイ派の人たちと問答になったエピソード。
さらに安息日にイエスさまが「手の萎えた人をいやす」エピソードが記されております。ファリサイ派の人々はその出来事を機に、「どのようにイエスを殺そうかと相談した」とあります。その一方、「大勢の群衆がイエスに従った」ともあります。ここに神の救いを切に求め、体験し、喜び迎える動きと、それを拒み、イエスさまを抹殺しようとする動きが起っていったことがわかります。

そういう中で今日のところでは、一人の悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエスさまのもとへ連れられてきて、イエスさまがいやされると、その人は、ものが言え、目が見えるようになります。
すると、群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったとあります。ダビデの子とは、来たるべきメシヤ、救世主、油注がれた王ということで、群衆はイエスさまこそ自分たちをローマの圧政から解放し、イスラエルを回復してくださる方ではないか、と期待したんですね。まあイエスさま御自身はそういう群衆に対して16節にあるように「自分のことはいいふらさないように」と、御自分がまつりあげられることをこばまれたのです。
それは18節以降の預言者イザヤの言葉を引用され、「神の霊の働きこそ心に留めるように」と促されるのであります。そしてイエスさまのうちに働いておられた「神の霊の業」は、20節にあるように「神の義であり、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」そのような神の救いの業であり、異邦人、つまり全世界すべての人にもたらされる主の救いの福音であります。
まあそのようなイエスさまを群衆は皆歓迎したのでありますが。この出来事を聞いたファリサイ派の人々の態度は、そんな群衆とはまったく対照的でした。
彼らは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。すなわちイエスのなしたその行為は、「悪霊の力」によるものだ、と難癖をつけたというんですね。

彼らファリサイ派の人々にとっては、安息日に弟子たちが空腹のあまり麦の穂を摘んで食べたことに関するイエスさまの対応、また安息日に手の萎えた人をいやしたイエスさまの行為は、律法の安息日規定に違反するものであり断じて許されるものではなく、神に従う者が戒めをないがしろにするなどあり得ないと考えたのです。
ファリサイというのは「分離された者」という意味です。彼らは世俗から自分たちを分離し、律法を厳格に守り行なうことで神の前に聖別された者になろうと決心した人たちです。その志は熱心で立派であるかもしれません。しかし自らの義、正しさを「律法厳守」という自分の行いによって達成しようとしたとき、彼らは高慢になっていきました。神の側からの救いが訪れたのに、それを拒絶するという高慢です。
麦の穂を摘んで食べた弟子たちに軽蔑の視線を向ける彼らに、イエスさまは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかたであろう」とおっしゃいました。又、手に障がいを負っている人の痛みも思わないで、イエスさまを訴える口実に利用しようとする彼らに、イエスさまは「穴に落ちた羊より遙かに大切なその人の救いを示さた」のです。
それでもう逆恨みといいましょうか、逆ギレというんでしょうか、彼らはその高慢によってイエスさまのことが目の上のこぶのようのように邪魔な存在となり、「どうやって殺そうかと相談した」というのです。

さて、話を本日の箇所に戻しますが。
この当時ユダヤでは、異邦人を中心に、怪しげな呪術が横行していたという背景もあったようです。ユダヤのファリサイ派の人たちから見れば、イエスもうさんくさい呪術魔術で群衆を惑わすやからのように映ったのでしょうか。とにかく群衆がイエスさまを「ダビデの子、メシヤではないだろうか」といったことが、もう彼らには許されないんですよね。イエスをベルゼベル「悪霊の頭の力によらなければ、この者は悪霊を追い出せない」と非難したのであります。

それに対してイエスさまは、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くのだろうか」と、独特なたとえでもって反論いたします。そして「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と、反対に問い質されます。
実は当時、ユダヤ教の中でも悪霊追い出しによる病人のいやしが行なわれていたということです。それでイエスさまは、「あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出しているのか。もし言うように悪霊の頭によって癒しが起こるのなら、あなたたちの仲間もそうなのか。それでは内輪もめだなあ」と皮肉を込めておっしゃったのですね。イエスさまもやるなあと思いますが。
まあそう釘を刺された後でイエスさまは威厳をもってこうおっしゃるのです。
28節「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

それはですね。イエスさまが宣教を開始して「悔い改めよ。天の国は近づいた」。それが接近しているとおっしゃった時よりも、さらに、もう天の国、神の国はあなたたちのところに近づいた。いやすでに今ここに来ている、とおっしゃっているのです。神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、この悪霊にとりつかれているとされている人が解放され、言葉をもたなかった人が自分で話せるようになり、見えなかったことが見えるようになった。それは一人の人間が神の前に取り戻されたという事を現しているのです。

イエスさまはこのようなかたちで現に「神の国があなたたちのところに来ているのだ」
とおっしゃっているんですね。別の箇所で、イエスさまは神の国というのは、あそこにあるとか、どこにあるというようなものではなくて、「実にあなたたちの間にある」とおっしゃっています。
今私たちもそうですが。神の前に尊い一人ひとり、かけがえのない命として取り戻されたことを知った時、又認められた時。それが救いであり、神の国と実感できる時。信じ得る時ではないでしょうか。聖書はそれこそが、神の霊の業であり、神の国の到来であるというのですね。

最後に今日の箇所からもう一つ大事なメッセージをお伝えして宣教を閉じたいと思います。それはイエスさまがおっしゃった末尾の「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが。霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」というお言葉です。

イエスさまはファリサイ派の人たちのように自分を正当化したり、自己絶対化されません。それどころか、自分に対しての悪口や非難の言葉、あるいは言い逆らう言動があったとしても、それは赦されるとおっしゃるのです。そこがすごいなあと思うのですが。イエスさまは自分を正当化するのではなく、ただ神の霊の業である、先ほど申しあげた「救いと神の国」が現されるそのことを何よりも最優先になさっているんですよね。
イエスさまはその後、遂に十字架にかけられ、すべての人の犯す罪や冒瀆の言葉の一切を身に引き受け、神の霊による完全な救いの業を成し遂げてくださいました。
その赦しの福音は、まさに悪魔の縄目にある私たち人間を完全に解放へと導くものです。
この神の霊の壮絶な愛によって、私たちは今日も主の御救いに与ることを許され、神の国の訪れを体験しているのです。
イエスさまは「人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるが、この神の霊の業に対する冒涜は決して赦されない。聖霊に言い逆らう者は、赦されることはない」とおっしゃっています。
ファリサイ派の人々がそうであったように、自分の主義主張を絶対化し、正当化し、「神の霊の救いの業によって一人の人が神の前に取り戻されていくその救いの御業を否定し、冒涜する者はその救いを受けることなく、それがすでに滅びであり裁きとなっているということでありましょう。

今日のメッセージから、神の霊のお働きの何たるかを心に留めて、ここから遣わされてまいりましょう。

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来たるべき方は、あなたですか

2017-02-06 09:28:37 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ11・2-19

洗礼者ヨハネは3章に記されているように、ユダヤの荒れ野において「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しました。そして彼のもとにぞくぞくと集まって来て、罪を告白する人々に「悔い改めに導くバプテスマ」を施していました。
ヨハネは「自分の後に来られるお方こそ、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語っていました。
ヨハネはその後、領主ヘロデの兄弟と妻の結婚が律法で許されていないことや、ヘロデ自身に行なったあらゆる悪事について、率直に神の前によろしくないと、苦言を呈したため、捕えられ投獄されてしまいます。
そういう中、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」とあります。ここにわざわざイエスでなく「キリスト」(救世主)と記されています。それはヨハネがイエスさまこそ来たるべき救い主として大きな期待をもっていたことを表しています。ヨハネは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えるまで火で焼き払われる」とかつて言っているように、この世の義人と悪人とを選り分け、正しい裁きを行なって世を正される。そういった政治力をもった王であると、考えていたのです。
ところが自分が牢の中でその「キリスト」のなさったことを聞くと、そのようなイメージとは何ともほど遠いのですね。正面切って政治批判するわけでもないし、民衆を奮い立たせて革命を起す気配もない。伝わってくるのは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え続けておられることや、罪人と呼ばれる人と飲み食いしているらしいとの噂。ヨハネにとっては、病人のいやしなどの多くのしるしを行ったところで、政治権力のもとから神の民を解放することができないなら何になるか。現代的にいえば社会が変えられないなら一人ひとりも救われないじゃないか、というような焦りやじれったさがあったのではないでしょうか。
そこで、ヨハネは自分の弟子たちを(イエスさまのもとに)送って、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。
 さて、そうしますとイエスさまは、ヨハネのお弟子さんたちに「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とお答えになります。ここで肝心なのは「あなたたちが実際見聞きしていること」をヨハネに告げなさいと、言われていることです。人の噂ではなくて、あなたがたが実際に目で見て、耳で聞いて体験したことをヨハネに伝えなさい。「自分の体験をあかししなさい」いうことです。

主イエスは言われます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
聖書はその後、ヨハネの弟子達がどうなったかについては何も記されていないのでわかりません。しかし、イエスさまはここで、人や噂ではなく、「あなた」が見聞きした体験を伝えること、あかしすることが大事だとお語りになっていることを心に留めたいと思うのです。

先ほど招きの言葉でイザヤ書29章18節19節の「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉すら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い。貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」という主の到来によってもたらされる回復の預言が読まれました。
そはまさに主イエスによって事実となるのです。イエスさまはヨハネの弟子達に対して、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られますが。この回復の預言をして主イエスによってもたらされた恵みの事実に与って生きるようにと、招かれるのです。

話は変わりますが、先週、大阪キリスト教連合と大阪南YMCA共催のキリスト教オープンセミナー、テーマ「共に生きる」~熊本地震の体験を通して~と題し、大阪南YMCAを会場に講演会が開催されましたので、聴講させて頂きました。講師の神田牧師は、22年前の阪神淡路大震災に中学2年の時に遭われ、その後28歳の時にお母様の死という大変辛い経験をされた後、牧師となる献身に導かれ関西学院大学神学部を卒業されて、2014年から熊本の日本基督教団武蔵ヶ丘教会の牧師として赴任されて、昨年4月の熊本地震に遭われたという方です。
4月16日未明の震度7の本震が起った時のことについて、神田牧師は「2階の牧師館で寝ていましたが、20分ほどの猛烈な揺れが続き、あまりの恐怖で死を覚悟し、父親に連絡したほどです。幸い、身近では人的被害が少なくて済みましたが、被災者としての苦労は阪神・淡路と変わりません。精神的ダメージは熊本地震の方が大きいと思います」と述べておられます。
そうして御教会が日本基督教団九州教区の震災対策本部となって様々なお働きをされ、その体験談を伺うことができましたが。その本震の後も豪雨、雨漏りとたたみかけるように起っていく中で、「心が折れる」とおっしゃっていました。地震から9ヶ月たっても未だに「闘っている」と、その思いを吐露されましたが。
そのご講演の後で質疑応答が行なわれたのですが、その一コマが私は心に焼きつきました。それはある方が「被災者の支援はもっと政治家の活動が必要じゃないでしょうか」という質問をされたんですけれど。それに対して神田牧師は丁寧にお答えになって、「私たちの活動は政治力ではなく、政治の力さえ及ばない、そういうところからも漏れている人たちに寄り添う、そこに教会にしかできないことがあるのではないでしょうか」とおっしゃったんですね。
この日は、水曜祈祷会が午前中あり、この聖書の箇所を共に読み分かち合った後、このご講演に臨んだのですが。まさに今日のこの箇所が語りかけている、主イエスさまのお働きと大切にされている思い、神の慈愛というものが心に迫ってまいりました。

聖書に戻りますが。
イエスさまは、ヨハネの弟子達が帰った後、群衆にヨハネについて話し始められます。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。・・・(そして強調して)はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れなかった」。
イエスさまはここで、時代や風潮に移り変わるヒーロー的なスター、権力をもった指導者、宗教的指導者を崇め、仰ぐために荒れ野に行ったのかと群衆に問いかけておられるんですね。いや、そうではないだろう。権力者や指導者に対してもまっすぐに「悔い改めよ。天の国は近づいた」と勧告するバプテスマのヨハネのもとに行ったのではないか。彼は正に預言者以上の者で、人間の世に於いて彼より偉大な者は現れなかった、とイエスさまは絶賛します。ヨハネこそ律法による義に生きる者として最高の人であったということです。
イエスさまは「しかし、天の国で最も小さい者でも、彼より偉大である」と語られます。この「天の国で最も小さい者」とは一体どういう存在でしょうか。それは天使のような存在を指しているのではなく、天の国が到来したという恵みのうちに生きる者を指しているんですね。私たち主を信じ救いに与る者もそうであります。しかしそれは何も、私たちが偉大だという事ではなく、繰り返しますが、主イエスによってもたらされた神の義と救いの恵みこそが偉大なのであり、私たちはその尊い恵みに与る存在であるという事であります。実はそこに主イエスさまが救い主として来られた真理があるのです。
イエスさまは世にあって小さくされた者、弱くされた者、病いをもつ者、罪人とされた者と交流され、食事をなさいました。それは何か上から目線、してあげるということではなく、それこそ共に生きる者、寄り添う者としておいでになられたのです。それら一人ひとりが心から救いを願ってやまないことをご存じであられるお方です。本当に救われた喜びをもつ人は、その喜びと感謝をもって生きるでしょう。天の国は近づいたとの恵みの中に歩み出すでしょう。イエスさまはその救いをして「信仰によって生きる人は、ヨハネに優る義に生きている」とおっしゃっているのです。

最後に、イエスさまは「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいます。
そして、当時のユダヤの社会や時代の人々を、市場(広場ではない)に集まっているこどもたちの結婚式ごっこや葬儀ごっこといった遊びのたとえをなさいます。ところ変われば、ユダヤではそういうごっこ遊びをしていたようですが。いわばこれは、わらべ唄ですよね。
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」。自分たちが一緒にごっこ遊びをやろうと呼びかけたのに、誰ものってこない。他のこどもたちは無関心で、ただ傍観者のようにしている態度に、ちょっと悔しがりながら、又残念な気持ちを歌ったのかも知れません。
そんなふうに「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子(主イエス)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。そうです。律法の義にまっすぐに生きた「ヨハネ」にも、又、福音をもたらし実現された「主イエス」にも、人々は冷淡で無関心であると、たとえを通し嘆かれているのです。

人々の無関心や冷淡さは確かに存在します。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」と主イエスは語られます。
 
ヨハネは、主イエスに「来たるべきお方は、あなたですか」と尋ねましたが。それはキリスト、救世主(メシア)である王はあなたですか、との問いでありました。世を正し、権威をもって統治されるお方には変わりありません。けれどもゼカリヤ書4章6節に「武力によらず、権力によらず、能力によらず、ただわが霊によって」ともあるとおり、主はそのように神の国を到来を成し遂げるお方なのです。
このマタイ福音書は、イエスさまがお生まれになるに際し、「その名はインマヌエル」:「神が我々と共におられる」という意味であると、伝えます。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
主イエスは私たちの日常の中に、そのひきこもごも、喜びも悲しみのときも共にいてくださるお方として今日もおいでになる。ここに私たちの救いがあります。祈ります。
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主を畏れて生きる

2017-01-29 13:29:16 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ10章16節~31節

今日は「主を畏れて生きる」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
イエスさまは、12人弟子達を選ばれます。それは「天の国は近づいた」ことを宣べ伝え、救いの業を証しし、行なわせるためでした。イエスさまは弟子達を派遣するにあたり、行くべきところ、なすべきことなどを幾つかお示しになります。それを聞いていた彼らは、弟子として選ばれた高揚感とともに、「よし、主の弟子としてここはひとつがんばろう」とこぶしを握りしめていたのではないでしょうか。
ところが主イエスは思いがけず、あなたがたは迫害と苦難を受けることになる、そのように予告なさるのです。

イエスさまは、まず「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られます。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言って具体的にどのようにあるべきかをお教えになります。
福音宣教の為に遣わされる弟子達が人々から憎まれ中傷されるだけでなく、「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王の前に引き渡されることになる」というのです。
弟子達はそれをどんな思いで聞いたでしょう。「この方こそ神の救い」と信じ、従う決心をした。唯それだけなのに、迫害されるとか苦難を受けると言われても」。弟子達の中には戸惑う者もいたのではないでしょうか。
 みなさまはどうでしょう。主とその救いが自分にとってなくてはならないものになったとき。思いがけず身近な人から迫害を受けた。憎まれ、中傷された。そういう方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ、神の救いから引き離そうとする力が働きます。「何も悪いことをしていないのに、そんな理不尽な」と思うわけですが。それが試みる者、サタンの働きです。
 しかし、主イエスはそれに抵抗して戦えとはおっしゃいません。18節。「総督や王、さらに異邦人に証しをすることになる」。つまり証しの機会となるとおっしゃるんですね。
そして、「引き渡されたときは、何をどう言おうか心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と言っておられます。

捕えられ権力者の前に引き渡された時、ただ怯え怖れるしかないときに、イエスさまは「心配してはならない。あなたたちのうちに住んでおられる御父の霊、聖霊が語るべきことをお語りくださるので、ただ聖霊に委ねるがいい。そして26節以降でも、イエスさまは迫害と苦難に際して、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とお語りになります。

それは、人間の内面に秘められている事柄は、なにがしかその人となりに現されてくるものだし、いざという時にはその本質が現されるものだ、とそういう風にも読めます。あるいは又、神の真理は、どんなに抑圧され封じ込められようとも、必ずいつかは明らかにされる時が来る。真理は決して滅びない。
 余談ですが、黙示録はギリシャ語の原語で「アポカリュフォィス」。それは「覆いを取り除く」という意味です。イエス・キリストが救いを成し遂げられたことで、秘められていた神の真理とご計画の覆いが取り除かれ、明らかにされたということです。黙示録も厳しい迫害の最中に記された書物ですが。そのような時代の中で信徒達は、すでに覆いが取り除かれた神のご計画と成就、さらにキリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望みつつ、苦難の中でなお証が立てられていったということであります。

本日の28節には「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」との主イエスのお言葉がありますが。
むろん体が傷つけられたり、殺されたりなんて考えたくもないことです。けれど主イエスは、そのように危害を加える者に魂まで殺す力はない、むしろ「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃるのです。
この地獄と訳された「ゲヘナ」。それは架空のものではなく、実はエルサレム東方郊外にそういう名の谷があり、そこにはいわゆる廃棄物焼却場のような場であったんですね。まあそんな塵芥のように体も魂も焼き尽くされるなど想像するのもおぞましいことですが。

しかし、興味深いのは、その体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方のことを、イエスさまは次のようにおっしゃるのです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがた父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

1アサリオンとは当時のユダヤの最小貨幣です。日本では1円です。その二羽の雀の一羽といえばもうその半分なわけですから貨幣としては成り立たないいくらい値打ちがないようなもの。しかし、みなさんここが肝心なんです。「あなたがたの父」はそのように価値無きものに思えるような小さく弱い存在をも決して見逃されないと言われるのですね。その命は御手のうちにあるのです。そのように主イエスは、あなたがた一人ひとりはおぼえられているんだよ、とおっしゃるのです。しかも「あなたがたの父」、天の父である方が子であるあなたがたを知らないわけがない。あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。(私はここを読むときちょっと複雑な思いがするのですが)。それほどまで知っていてくださる。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」ではないか、とそう主イエスはおっしゃるのであります。

今日私たちはこうして自由に礼拝を捧げ、どんなに大声でも讃美できます。信仰の自由が認められているのです。2月11日を私たちは「信教の自由を守る日」とし、集会を守っていますけれども。この幸い。どれほどありがたいことでしょうか。一方海を隔ててそれがままならない状況にある国々の主にある兄弟姉妹を思うわけですが。しかしこの日本でもかつて激しい弾圧や迫害の時代があったのですね。

本日の聖書の箇所を黙想していた折、これもお導きなんでしょうか。今「沈黙~サイレンス」が上映されています。みなさんの中で、すでに御覧になった方もおられるようですが。私も先週鑑賞しました。
この映画は遠藤周作さんの「沈黙」の原作をマーティン・スコセッシュ監督が見事に映像化した作品です。その構成のすごさに圧倒されましたが。江戸時代1638年以降の長崎の島原や五島で起った悲惨なキリシタンへの弾圧と迫害の場面が続き、何度も目を伏せては、ため息と涙がこぼれました。わたしの座席近くに十字を切りながら御覧になられている方も数人みかけました

本日の聖書の26節の御言葉が、わたしの胸に強く迫ってきました。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。
映画では、ある司祭が先に長崎に布教のために来日にして消息が絶たれてた大先輩の司祭のあとを追って長崎に辿りつくのです。そこで村の隠れていたクリスチャンたちから聖礼典などを求められてそれに応えていくことになるのです。ところがこの司祭はその自分の信仰を貫くことによって同胞のクリスチャンたちが過酷な弾圧と処刑に遭うことに、これ以上耐え難くなり、遂には自ら踏み絵の前に近づいていったその時。踏み絵の銅板の主イエスがこうお語りになる声を彼は聞くのです。
「踏むがいい。わたしはお前とともに苦しんだ。わたしはこのおまえの痛さを一番よく知っている。踏むがいい。わたしはおまえたちの痛みを分かち合うためにこの世に生まれた」。

そうして痛みをもって踏み絵をふむのです。その後棄教したとされるこの司祭は日本名を名乗り、キリシタンご禁令の調査員として奉行所で御用され、最期は仏教の読経のもと葬られるのですが。最後に映し出されたその棺に納められた彼の手に「十字架(クロス)」が握られていたのですね。外見や目に見える形は棄教していてもその魂までは変わることなく、主の御手のうちにあることが、そこに証されていたんです。わたしはそこに希望を見た思いがいたしました。

人には神が沈黙しておられたように思われるその時代から380年、いやもっと古くの、豊臣秀吉がキリスト教を迫害するようになり、長崎で26人の司祭と信徒達が焚刑(ふんけい)にされた1587年以来から数えますと430年余、十字架の主と共にある殉教者の尊い証しと祈りのもと、この地にキリストの真理と福音は確かに息づいています。その時と比べることはできませんが、今に生きる私たちにも現代社会の抱える特有な困難があります。一人ひとりのうちにも課題があるでしょう。主はそのすべてをご存じです。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。

今週もここから主のいのちの言葉に信頼し、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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