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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2025/8/24 主日礼拝式

2025-08-22 17:46:30 | 教会案内

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演劇・番紅花色の扉(サフランいろのとびら)9.13主催・桜人企画

2025-08-20 07:49:26 | イベント

*第一章:演劇「番紅花色の扉」 作・演出 馬場さくら・桜人企画代表
 
 台湾人のツアイ・クンリンさんの史実を描いたエンターテイメントコメディ
 出演  今井敦 小坂慶 十朱美羽 西山祥弘 はつえ 山内美果(Zero project)

*第二章:トークライブゲスト
    
    曹鉄榮さん(台湾)  
   
   音楽ゲスト・ギター演奏&歌   矢谷トモヨシさん

    乞ご期待
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あなたの神、主を畏れて歩め

2025-08-17 17:18:00 | メッセージ
主日礼拝宣教    申命記10章12-22節  

先週の8月15日は80年目となる終戦記念日を迎えました。先の大戦のような惨禍が二度と繰り返されませんように願い祈ります。報道で、先の戦争の体験者が日本の総人口の僅か6%となったということを知りまして、驚きました。又、先の戦争について若い世代や子どもたちに語り伝えられる機会も大変少なくなっているということでした。知るべきは、戦争というものが如何に悲惨で人の尊厳を奪い、人間性を損なう愚かな行為である事実です。日本が近隣アジア諸国への侵略の歴史も忘れてはならない事実です。神の前に悔い改め、和解に与り、平和を築いて責任があります。戦争の悲惨さ、愚かさについて語り継ぎ、風化させないことがほんとうに重要です。過去の出来事を教訓として活かすことが大切であります。今世界の各地で戦争や紛争によって尊い命が奪われ、又命の危機に瀕しています。殊に小さな子どもたちが飢えと渇き、飢餓の中で命の危機にさらされ、とても同じ人間の仕業とは思えないことが起こっています。しかしそれが戦争なのです。一刻も早く平和的解決へと世界が舵をきることができますよう願います。先ほどは、フランチェスコの「平和の祈り」を共にささげました。このような祈りが世界中に広がっていきますよう切に願います。

さて本日は先ほど読まれた申命記10章の箇所から、「あなたの神、主を畏れて歩め」と題し、御言に聞いていきたいと思います。
主はかつてエジプトの奴隷の状態から救い出したイスラエルの民に、ホレブの山でモーセをとおして主の戒めを授け、その民を教え導こうとされました。ところがモーセが山から降りてくると、民は金で造った子牛の偶像を拝み、みだらな祭りに興じていたのです。主は、神ならざるものを崇拝する民を嘆き、怒りを発せられたのです。しかし、モーセの必死のとりなしによって、主は民に石の板に記された「十戒」を授けられたのです。こうしてかの民は「主の約束の地」に向かって旅立ちます。
しかし、その荒れ野の険しい旅路において飢え渇きを経験するなかで、人々は自分たちを奴隷の状態から解放し救い出してくださった主に対して、エジプトにいたほうがまだましであったと、様々な不平不満をぶつけますが。それでも主は天からマンナを降らせ人々を養われます。そして、約束の地を得させようとその地を偵察させようとしますが、多くの人々は主に信頼することなく、目の前にある事態にひるみ、主の御心に逆らうのです。その結果民は荒れ野をさまようように40年間神の民とされる訓練の日々を送り、出エジプトを経験した民の第一世代は主の約束の地に到達することができず荒れ野で死ぬのです。

今日の申命記10章は、今まさに主の約束の地に入ろうとする第二世代の人たちに主が再び戒めを授け、それを木の板に書き記させて、今一度「神が命じられること」を語り継ぐという個所であります。
この申命記の「命」は主の戒め、十戒のことであり、「申」は、重ねてとか、再び申し述べられるという意味で、申命記と呼ばれているのですが。」そこには、イスラエルの民のかつての出来事を教訓とし、過ちを繰り返すことなく、主の戒めに聞き従うことこそ、主が与えようとしておられる「幸い」に与ることができると、語られているのです。それは主に望みをおいて生きる私たちにも語りかけられているメッセージでありますので、共に耳を傾けていきたいと願います。

ではその本日の御言に聞いていきましょう。
10章12節において、モーセは、「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。」と問いかけます。
出エジプトを経験し、奴隷の状態と死の状態から主の解放の御業に与った第一世代の人たちに求められていたのは、主への感謝と信頼であったでしょう。しかし不満と不信に陥った時、荒れ野をさまよい、主の約束の地に入ることができなくなったのです。ただ、主を信頼し従ったヨシュアとカレブだけが主の約束の地に入ることができました。
第二世代に主が求めておられることは何でしょう。彼らは第一世代の親たちのように解放された、救われたという思いは持ち辛かったかも知れません。しかし、主の救いと解放、その選びを継承しつつ、「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」ることを主はあなたに求めておられると、モーセは語ります。
17節にも「畏るべき神」、20節でも、「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。」とありますように。かの民にとって重要なのは、「主を畏れる」ことだと語られています。
具体的にそれは12節後半-13節にありますように、「主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、主の戒めと掟を守る。」そのことが「主を畏れて歩む」ことに直結して語られるのです。
前の8章11節以降には次のように記されています。
「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊がふえ、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることがないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それはあなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(8:11-18)
主はかの民を、「遂には幸福にするために」教え導き、幸いを与えるのです。しかし、これらはかの民が自分たちの力で得たなどと考え、おごり、高ぶって主を畏れ敬うことがなくなるなら、やがて主の民の祝福は損なわれてしまうのです。
先週は「神の宝の民」としての選びについて7章のところを読みましたが。それは民が何か他の民より優れて力があったからではなく、神に救いを求め祈るしかない小さく弱い民に、主が心惹かれて選ばれた。唯、その主の深い憐れみにこそ、主が選んだ理由でありました。優秀であったとか、立派だったということではなく、唯、小さく弱い者に主が心惹かれた情熱的な愛ゆえの選びであったということを申しました。
ヤコブ(イスラエル)の一族たちが飢饉のためにエジプトの総理の地位にあったヨセフのもとに難を逃れてエジプトに移り住んだ来た時は、まあ70人ぐらいであったとも言われていますが。エジプトにおいて彼らは寄留者であり奴隷でした。しかし主はあの過越しの出来事を通して、民をエジプトから導き出し、解放し、救い出されるのです。その民は益々数を増していきます。それは第一世代から第二世代へと移行しさらに強大になり、遂に主の約束の地の豊かさに与るほどのもになるのです。それらはすべて、主ご自身がアブラハムとその子孫に約束なさったことを主が信実に果たしてくださった主の愛と恵みによるのです。
先の8章には、主を忘れることに対する厳しい警告がなされていますが。それは、かのイスラエルの民がその豊かさにかまけ、それを自分たちで築いたものとおごり高ぶり、主を忘れ、自ら滅びを招くことがないようにと警告しているのです。

17節以降のところでモーセは、主なる神について次のように語ります。
「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神」。
この主なる神は唯一無二なるお方であられますが。特徴的なのは「人を偏り見ない」(17)、つまり人を外がわで判断されるのではなく、心を見られて判断される方であられるのです。旧約聖書の箴言5章21節に「人の歩む道は主の御目にある。その道を主はすべて計っておられる」とあります。
又16章2節には「人の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる。」とあります。
主は私たちの心のうちにあることすべてを偏り見ることなく、計られておられるのです。

さらに、主は18節「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」とあります。この地上のあらゆる不正に対して公正をもって正し、無慈悲に対して慈愛をもって臨まれるのです。実に主はその民がエジプトの地で寄留者、そして奴隷として不正に扱われ、無慈悲な扱いをされた時、公正と慈愛をもって解放し、救い出し、食物と衣服を与えてくださったのです。この主を畏れ敬い、19節「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」ことを忘れるな、とモーセは告げます。

本日の10章は「神が求められていること」について、読み進めてまいりましたが。その一つの重要なメッセージは、神の民とされた第二世代の人たちが主を畏れ敬って歩むことの奨めでした。
それは、「心を尽くし救いの主に仕え、戒めと掟を守る」ことと直結しています。2つの戒めと掟の集約としての「心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神を愛する」「自分を愛するように隣人を愛する」そのことを心に留め、守り行うようにと、主は私たち主によって救いを見出された者に対しても招かれるのです。
今週も救いの主を畏れ敬いつつ、世に遣わされてまいりましょう。
コへレート12章12-13節の御言を読んで、祈ります。
「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けた結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。
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2025/8/17 主日礼拝式

2025-08-13 16:24:48 | 教会案内

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はこぶねかふぇ たこ焼きランチ 8.10

2025-08-11 09:05:18 | イベント

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小さく弱い宝の民

2025-08-10 15:31:58 | メッセージ
主日礼拝宣教    申命記7章6-11節 

本日も平和月間として、「平和のための祈り」が献げられました。その祈りの中で、「地には争い、戦いが満ちています。そして、争いの地で最も苦しんでいるのは、弱い立場に置かれた人々です。強い立場に立つ者、権力を持つ者たちは守られ、弱い立場の者たちは奪われ、傷つけられています。人間の尊厳が奪われ、命の危機にさらされています。主よ、国々の争いを裁き、多くの民を戒めてください。」と祈りの言葉がありました。
軍事力に依り頼んで行われている戦争や紛争が世界各地に起こっています。先週は今から80年前にアメリカ軍の核爆弾を積んだ戦闘機が広島と長崎の中心街に原爆を投下し、これによって一瞬にして多くの尊い市民の命が失われ、またその後遺症で苦しむこととなった日、このような過ちが二度と繰り返されないために核兵器廃絶を訴えつつ、祈りに覚える平和祈念式典が被爆地の広島と長崎で行われました。祈りをともにされた方もおられるでしょう。
現在、世界の核兵器保有数は12,241。その中には原爆の数百から数千倍の威力をもつ水爆も多く含まれているとのことです。はじめは自衛のため、抑止力のため、さらに威嚇のためだとしていたことが戦争となり、しまいには核兵器が使われる戦争になり得るのです。今はコンピュータとかAIの誤認や誤作動、サイバーテロも起こり得ます。核兵器を保有すること事態が人類の滅びに直結しかねないのです。核兵器廃絶は創造主なるお方が造られたこの世界の存続に関わる事の一つであることに間違いありません。
主イエスは、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と仰せになりました。私たち一人ひとりがピースメーカー(平和の使者)となって生きることができますように。また、平和を造っていく世代が育っていきますようにと願います。
今週の15日には80年目となる終戦記念日を迎えます。世界各地で起こっている戦争と紛争が一刻も早く停戦するよう主に祈り続けてまいりましょう。

本日は申命記7章6-11節より「小さく弱い宝の民」と題し、御言を聞いてまいります。
この箇所から礼拝で何度か宣教いたしましたが。主なる神が「ご自分の宝の民とされた」というはじめの6節に、「あなたは、あなたの神、主の、聖なる民である。」とありますが。この「聖なる民」とは、主なる神が「あなたを特別に選び、取り分けた」という意味であります。それはご自身の「宝の民」とするためでありました。
では、どうして主なる神がこの民を選び、取り分けたのでしょうか。
そのことについては、7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちは他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」からだと言うのです。
この「貧弱」という言葉は一般的に身体的な虚弱さを指す言葉ですが。しかし原文からすれば「最も数が少なかった」という訳が適切だということで、他の聖書ではそのように訳さていることが多いです。
あなたがたはあらゆる民族野中で、最も数が少なかった。最も弱く小さい存在であったから、主が深く憐れまれ、いつくしんで、愛せずにはいられなかったからです。
それは、8節にあるように主が「彼らの先祖に誓われた誓いを守っておられる」からです。その主の選びはアブラハムとの約束から始まり、その子イサクが継承し、継いでヤコブから生まれたイスラエルの12部族に受け継がれました。そしてその民がエジプトに寄留し、奴隷のように虐げられ、父祖の神、主に叫び求めると、主が力ある御手をもって、かの民をエジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのです。
だから、主は「私があなたがたを生んだ」というように、かの民を愛していつくしまれるのです。
親は赤ちゃんを、その子が何か優れているとか、才能があるとかという理由で愛するでしょうか。たいていの親は、ただ無条件に愛するのではないでしょうか。本能的に小さく弱いその存在がただ愛おしいという事以上の理由はないでしょう。主は親が子を憐れまれるように、いや、それにまさるいつくしみのゆえに、ご自身が生み出されたその小さく弱い存在を、値なしに愛されるのです。引き受け、包みこんでいく愛であります。囚われの奴隷の状態からの解放。その救いを通して、主はその愛のゆえに、かの民に契約の約束を果たされるのです。主は真に信実なるお方であります。
私たちも、主イエス・キリストのあがないによって罪とその囚われの状態から救い出されました。主は新たなるその救いの契約によって、今日私たちも親にまさる愛といつくしみをもって「宝の民」とし、私たちを導いておられます。
一般に「宝」といえば、何ものにも替えることのできないようなものでありましょう。それは大概、すばらしい高価なものではないでしょうか。一般社会では何か利益をもたらすとか、貢献できるというような能力や才能のある人が、そのように呼ばれることが多いでしょう。
しかし、主は、あなたがたが何か秀でた能力や才能、又立派であったから宝の民したのではなく、又何か数が多くかったから選んだのではなく、「他のどの民の中で最も数が少なかった。」小さく弱い存在であった。そこに主が心引かれて「宝の民として選ばれた。」理由があるのです。
9節に「あなたは知らなければならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」と述べられていますが。実は、これが、主ご自身の「宝の民として選ばれた。」大いなる目的なのです。富んでいる者、満ち足りている者。強靱で、自分の利益を得るために力で支配するものは、神を呼び求めたりするでしょうか。

主イエスは山上の説教(マタイ5章)で、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人のものである。」「悲しむ人々、は幸いである。その人たちは慰められる。」「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」などと、主イエスはこの地上にあって弱く小さくされた人々に向けて渾身の思いをこめて語られました。
ここでは、世にあって小さくされた者、正義と平和を主に切に求める弱い立場の人が「神の民」とされる祝福に招かれています。
神はご自身を呼び求める者、小さく弱い者を通して、解放と救いをあらわされます。

もう一度繰り返しますが、9節に「あなたは知らなければならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」とあります、このことが重要なのです。
神が選んだ宝の民に祝福が語られていますが。主の憐みといつくしみによて神に選ばれた宝の民は、唯、主なる神に信頼して生きるところに、神の祝福、幸いがあるのです。
そして、まさに、この弱く小さい宝の民を通して、主なる神の恵みと力とがゆたかに顕わされていくということであります。

使徒パウロは、自身が抱えていた病気がいやされるために徹底的に主に祈ったとき、主のこのような御声を聞きました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。神の恵みと力とが彼の弱さの中でこそ十分に顕わされるというのです。キリストの福音を世界に伝えたそのパウロはコリントの信徒に対して次のように言いました。新共同訳改訂版でお読みします。「きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです」。
弱く小さい宝の民を通して、主なる神の恵みと力とがゆたかに顕わされていく、ということです。
この日本においてクリスチャンはわずか1%に満たず。そのうち礼拝を捧げ、教会につながっている人はごく少人数であります。しかしその中で、主に向かって義と平和、慰めと憐み、いつくしみを祈り、とりなし続ける私たちでありたいと願います。

11節「あなたは、今日わたしが、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない」。
これは先週も読みました「十戒」の契約についてであり、それは又キリストの新しい契約に生きる私たちにとりましても解放と救いの主、神への愛、隣人への愛の戒めであります。
それは12節以降にありますように、この神への愛、隣人愛をもって主の御言に聞き従い、誠実に御心に生きていく者を、主御自身が顧みて、いつくしみを注ぎ、愛し、祝福してくださるという約束です。今週もこの主の愛に応え、主の御心を求め、生きる者とされてまいりましょう。



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賛美で綴るイエスの生涯 伝道コンサート 9.6 IN OSAKA

2025-08-07 19:27:57 | イベント
 

ご興味のあるかたは、どうぞお越しください。





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2025/8/10 主日礼拝式

2025-08-06 21:54:24 | 教会案内

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主の御救いを想起する

2025-08-03 17:06:24 | メッセージ
主日礼拝宣教    申命記5章1-15節 

先週は本当に暑かったですね。大阪府枚方市で観測史上最高の39.8℃が記録されたとのことですが。さらに兵庫県丹波市では国内観測史上最高の41.2℃を記録したそうです。教会のアルミ製ゲートに日中手が触れるとまるでフライパンのように熱くて火傷しそうです。日中はお風呂の中にいるような状態です。このまま温暖化が進めば一体どうなるのでしょう。環境保全に努めまければ、聖書にあるとおり「地は燃える炉のようになって」誰も生き残れないでしょう。そうした中今日も暑いですが、私たちが礼拝を捧げるため集うことができたのは本当に幸いなことですし、オンラインでつながっている方も共に礼拝を捧げることができて感謝です。お仕事や諸事情で祈りつつ過ごしておられる方もいらっしゃいます。どうか今週も主の守りと祝福がともにありますよう、お祈りします。
先週は又、ロシアのカムチャッカ半島で大きな地震が起こり、その影響で日本列島にも津波警報が出されました。大きな災害に至ることはありませんでしたが。津波警報を聞いて東日本大震災や能登半島地震を思い出し、脅威を感じた方も多くおられたのではないでしょうか。一方で、そうした過去の出来事を心に留め、それを教訓として、迅速な避難行動を取られた方が多くおられた、と報道で伝えていました。そこには「忘れない」「学び」「備える」という3つの事が活かされていることがわかります。それは、今を生きる私たちにとって重要なことでありましょう。

本日から5回に亘り、礼拝では旧約聖書の申命記を読んでいきますが、今日は先ほど読まれました5章1-15節の箇所より「主の御救いを想起する」と題し、共に御言に聞いていきます。
主なる神はエジプトの奴隷の状態からイスラエルの民を解放した後、ホレブの山、シナイ山でモーセを通して、その民に「十戒」を授けられます。それは神の掟と法、神と民との初めの契約でした。それは又、愛する民に祝福を与えるためであったのです。                                  
ところが民の第1世代は神の御心に背き、約束の地に入ることができず、荒れ野で死にました。
しかし、神はその第2世代の民を見守り、遂に約束の地との境、ヨルダン川東部のモアブ迄導かれるのです。
そこでモーセは、この民を呼び集めて言います。
1節「イスラエルと、聞け、今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。」
ここでかの民に神が求められたことは、単に神の御教えを聞くことだけではありません。ここでの聞くとは、学ぶことや実践することも含まれています。5章27節で、民の部族の長たちはモーセに、「あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることすべて我々に語ってください。我々はそれを聞いて実行します。」と応えるのです。
神の御教えを如何に聞き、自分の状況に照らし合わせて、神と対話しながら祈り考察して実践する。それが信仰の生活です。そうした信仰の生活には、主なる神のお働きを知る体験とともに、生きた証が生まれます。それは単なる形式的宗教ではなく、キリスト者として生きる日々の恵み、幸い、喜びです。さらに5章29節に「どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。」とありますように、主なる神はそのことを私たちに対しても願っておられるのです。

さて、さらにモーセは言います。3節「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべて(荒れ野に生き残っている民)と結ばれた。主なる神は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。」とあります。
主は、かつて39年前にホレブの山(シナイ山)で先の世代の民と契約を結ばれましたが、それを破棄せず、「今ここに生きている者すべてと結ばれたものである。」と言われるのです。かつてシナイ山で主が火の中から顔と顔を合わせて語ろうとしましたが、民は火を恐れたのでモーセが主と民の間に立って主の言葉を告げたのです。モーセが神と民の仲介者としての役割を果たすかたちで、神と民との「十戒の契約」が結ばれたのです。
けれども「今」まさに、約束の地に入ろうとする若い第二世代の民に対して、主は再び一人ひとりに語りかけるように、契約の更新をなさるのです。
この契約の基盤は、6節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの奴隷の家から導き出した神である。」という契約の前文にあります。これが動かない事実であるから、神は契約を更新してくださったということです。
私たちもそうです。「主イエス・キリストが私の罪のために十字架を背負い、あがないの死をもって、滅びの中から救い出してくださった。」という事実があるから、どんな時もそのところに立ち返って再出発することが赦されているのです。

さて、その十戒の本日は5戒までをお読みしましたが。ご覧になられると、そのすべてが「神とわたし」「神とあなた」という「汝と我」の密接な関係の中で語られています。今日の箇所の中で「あなたの神」という言葉が9回も繰り返し述べられていることからもそれが伝わってきます。
解放を与え、自由を得させてくださった「神」。その神の御救いに与って生きる「わたし」「あなた」という関係ですね。次の6章のところでは「我らの神、主は唯一の主である。」(6:4)と述べられています。主なる神は「わたし」「あなた」にとっての唯一無二なるお方なのです。
その祝福された関係を前提にして、第一戒「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」。第二戒め「あなたはいかなる像(神や礼拝の対象とした)も造ってはならない。」第三戒「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」第四戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」第五戒「安息日を守ってこれを聖別せよ。」さらに6戒から10戒まで主の御言が語られているのです。
ここでは「・・・してはならない」と、命じられることではありますが。本来は「あなたは・・・しないであろう」というのが原語のもつニュアンスであるとのことです。それは生ける神の解放と自由に与かっているあなたは・・・しないであろう」という神の願い期待が強く込められているように思います。私たちの信仰の生活はそうした神への応答によって育まれ、ゆたかにされていくのであります。

さて、先に本日の申命記に記された十戒は出エジプト記の十戒とは、正確に読みますと1つだけ違いがあります。それは「安息日を守ってこれを聖別しなさい。」についての目的が異なっている点であります。
出エジプト記では「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたからで、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」とありますが。この申命記では「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息を守るように命じられたのである。」と記されています。
先に申しましたように、このあらゆる囚われからの解放と自由、御救いに与っているという感謝をもって「安息日を守るであろう。」と期待されているのです。
この「聖別」とは「取り分ける」という意味です。それは何のために、誰のために、わたしが取り分けて唯一無二なる神さまを主とし、礼拝するためです。それは又、せわしない日常生活の中でも、苦闘する日々の中でも、主なる神を覚えて御前に出る時を「取り分ける」、聖別するということです。

今日は第一週の主日ですので、この後主の晩餐が執り行われますが。それは、主イエス・キリストがわたしの罪の身代わりなって十字架にかかって血を流し、体を裂いてまで、わたしの、あなたの罪の代価を支払って死んでくださった。そのことによって罪がゆるされ、滅びの死から解放され、真の自由に与る者とされたことを、主の御前に「思い起こす」「想起する」のです。
わたしたちは主の御救いを主日礼拝毎に、又主の晩餐を通して、私たちはまさに思い起こす、主イエス・キリストの苦難と死を想起していくのです。
主イエスは「わたしこそが、安息日の主である。」と宣言なさいました。この主が共におられるところはどこでも、いつでも安息であります。
主の贖いによる御救いを共に確認し、与かっていく恵みの時を保ち続けてまいりましょう。そして又ここから、それぞれに遣わされた場へと出かけてまいりましょう。お祈りします。
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2025/8/3 主日礼拝式

2025-07-31 06:13:18 | 教会案内

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