日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪市の天王寺駅近くにある創立67年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂。ぜひお立ち寄りください!

夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)のご案内

2018-02-22 09:57:40 | 教会案内

2月25日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

神の国に入るのは・・・

2018-02-18 18:58:40 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ10・17-31 レント(受難節)

 

キリスト教会暦では先週の14日水曜日からイエス・キリストの十字架のご受難をしのびつつ歩むレント・受難節に入りました。3月末に受難週となり、今年のイースター・復活祭主日礼拝は4月1日となります。礼拝ではそれまで引き続きマルコ福音書より、いのちの御言葉を聞いていきます。

 

今日の個所は、17節「主イエスがこれから旅に出ようとされると」いう言葉で始っていますが。口語訳では「道に出て行かれると」となっていまして、それはまさにこれから十字架の受難の道であるエルサレムへ向かい始めるという受難節のはじまりにふさわしい今日のところとなります。

そのイエスさまのもとに、たくさんの財産をもっていたある人が(マタイでは青年となっていますが)走り寄って、ひざまずいて「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」と尋ねます。

それに対してイエスさまは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とおっしゃいます。そしてさらに19節「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」といわれますが。それらはユダヤの律法である十戒であり、神の民として守るべき掟でありました。

さて、これを聞いたこの人は、待っていましたとばかりに、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えるのですね。

ユダヤの社会では13才になるとバル・ミツワーといって、旧約聖書にある律法を暗唱し、あなたもこれから宗教的、社会的な責任を持った成人ですよ、という、儀式を行います。彼も律法の掟を暗唱し、それらを誠実に守ってきたのでした。その自分の正しさを認められるだろうと期待し、そう誇らしげに答えるのです。

 

そんな彼をご覧になったイエスさまは、彼を見つめ、慈しんでこう言われます。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従ってきなさい」。ここを「小さくされた人々のための福音」本田哲郎訳は「あなたに欠けているものが一つある。行って、にぎっているものを貧しい人たちと交換しあい、提供しなさい」と訳されています。

イエスさまは彼の鼻をくじくつもりでそう言われたのではありません。彼なりに思いを尽くしてきたことをご存じのうえで、慈しんでおられるのです。その上で、彼に欠けているものをお示しになるのですね。

それは律法のうちに流れる本質、律法の実体であります。「神を愛し、隣人を自分のことのように愛する」。その精神がその人の生き様にあらわれてくることこそが、神に期待されている。

「あと何をすればよいか」と尋ねるこの人に、実践すべきその唯一つ大切なことを示すために、イエスさまはこのようにアドヴァイスをなさるのですね。

 

結局、たくさんの財産を持っていた彼は、イエスさまのおっしゃることに気づかされ

つつも、その財産を売り払い貧しい人々に施すことは至難の業であることを思い知り、

気を落として、悲しみながらイエスさまの前を立ち去っていきます。

 

この「財産を売り払って貧しい人々に施す行為」は、永遠の命を受け継ぐ条件ではありません。それは彼への信仰のチャレンジのことばであったのです。どこに自分の価値観を見出し、何に仕え、従っていくか。その判断をイエスさまはこの人自身にゆだねられます。

彼が本当に捨てなければならないのは財産や所有物ではなく、自分のうちにあるプライド、人々から自分がどう見られるかというようないわば、自己顕示欲。又、自分の力や能力によってすべて所有でき、永遠の命も手に入れることができると考えていたこの人に対して、イエスさまはそういうひとりよがりの自己完結型の信念ではなく、むしろあなたをそうさせているそれらを手放して自由になる。先に申しましたように、神を愛し、隣人を自分のことのように愛する生き方こそ、イエスさまに従って生きる道なんですが。これこそが、永遠の命を受け継ぐ道、神の国に入る道なのだ、ということをお示しになられたのだと思うのですね。

 

さて、今日の個所には続きがあります。

それは財産と神の国についてのイエスさまとその弟子たちとの会話です。

イエスさまが弟子たちを見回して「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたことに、弟子たちが非常に驚いたというところからこのやりとりがなされるわけですが。

弟子たちが驚いたのは、ユダヤの教えでは「財産」は神の恵み、祝福であり、賜物であったからです。

ところがイエスさまがここで「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」とおっしゃったので、弟子たちは戸惑い驚いたのです。

もちろんすべての食物も物質的な恵みも、すべては神のものであり、神が造られ与えたもう祝福、賜物に違いありません。それ自体が悪いわけではありません。しかし、いつの間にやらそれに囚われてしまい、自分の所有するものに、自分の存在価値や命の保証までも置いて生きていこうとするようになってしまう。これが「富、マモンのもつ力」なのであります。それは時に神との関係、人との関係も損なわせていき、天の国(神の国)はその人から遠のいていきます。

私は財産を所有していることがどうだと言っているのではありません。それを如何に用い、どのように生きているかが大切なことだと思います。それは単に財産だけの問題ではありません。私たちも又、周りにあるモノ・人・地位なども命の源である主なる神さまよりも重要になり、地上の富に心を奪われていないか。日々主に立ち返り、主が与えたもう恵みとは何かを尋ね求めていく事は、主への信仰を保うえで必要です。

 

聖書に戻りますが。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とのイエスさまのお言葉を聞いた弟子たちはさらに驚いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った、とあります。

それに対してイエスさまは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできる」とおっしゃるのです。これこそが、今日の聖書の救いのメッセージであります。

 

ローマ3章23-24節で使徒パウロはこのように述べています。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3章21-24節)

 

先のたくさんの財産を所有していた人は、イエスさまがおっしゃったお言葉に対して、

自分の足りなさを認め、その場を立ち去るほかありませんでした。

しかし、成し遂げられた神の救い、十字架の主イエスの贖いは、そのような欠けをもつ者を救うことができるのです。もはや欠けそのものが問題なのではなく、問われるのは主の救いの恵に如何に応えて生きるか否かです。救いの業は人間に出来ることではないが、神には出来る。

私たちは唯ありのままの自分を、欠けだらけのままひっさげて主の十字架の救いのもとに出たらよいのです。主のあふれる愛を身に受けて「いつも喜び・たえず祈り・すべてのことに感謝する」。この恵みに生涯生かされていきたいものです。

 

最後に、イエスさまの「財産を持つものは神の国に入るのは、何と難しいことか」との

言葉に驚いた弟子たち。彼らを代表するようにシモン・ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と答えます。

あの財産を所有していた男と自分たちとは違う。私たちはあなたに従ってすべてを捨てています、という誇らしげなペトロや弟子たち。

イエスさまは、「そのようにわたしのため、福音のためになしてきた者は、今世にあって厳しい迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世で永遠の命を受ける」と約束なさっています。

けれども、皆さん如何でしょうか。主に従って来たからこそ頂いている様々なゆたかな恵み。それはみな救いに与った者でなければ得られない祝福を私は本当に頂いているとつくづく思います。特にここで主に従いゆくものに与えられる天の国は、主にあって共につながっている主の家族のような祝福の世界なんだと、うれしく思います。

 

さて、イエスさまは言われます。

31節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。

実はこの出来事の前に、イエスさまは弟子たちが「自分たちの中で誰が一番偉いか」と議論し合っていて、イエスさまがその彼らに「一番先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい」とおっしゃる場面があるのですね。

先のたくさんの財産をもっていた彼、握りしめた自我や自己完結型の信念に囚われて主の救いの招きに応えることができなかったこの人と同じように、ここで弟子たちも又、

財産を捨てて来たといくことが何か自分たちは偉いんだとの誇りと自負となるなら、それはせっかくの主の招きと救いの恵みは台無しになってしまう。主を悲しませることになります。

私たち人間は常に上を目指そうとする者でありますし、執着心はそう簡単に手放せるものではありません。私たちも又、「それでは、だれが救われるのだろう」というほかない者ではないでしょうか。その問いかけに主は言われます。

「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。

その真の証こそが、十字架による死と復活によって成し遂げられる全人類の救いであります。今、その救いの完成に与る私たちにとっても大切なのは、救われた日の「初めの愛」に留まり続けることです。

 

最後に黙示録2章4-5節にエフェソの教会に宛てた手紙の一文をお読みして本日の宣教を閉じます。

「あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」。

主イエスの受難を覚えてあゆむレントを迎えました。私たちにとっても新しい道が始まりました。今日もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

エッファタ・開け!

2018-02-11 13:57:32 | 教会案内

礼拝宣教 マルコ7章31-37節 信教の自由を守る日

 

七日の旅路をそれぞれ神さまに守られ、導かれてこの神の家に帰ってくることが許され、ここから1週のあゆみを始めることのできる恵みを感謝します。

今週も主イエスのお姿と聖霊のお働きを通して平安と新たな力に与ってまいりたいと願っております。

さて、この日本では先々週は火山の噴火がありましたが、先週は極寒が続き、北陸地方、特に福井では大豪雪となり、交通はマヒ、車は大渋滞、と大変な状況となりました。

更に明日あたりから北日本・北陸地方に再び寒波による豪雪となるかもしれませんが。

また、台湾東部では大きな地震が起こり大きな被害と犠牲者も出ておるようで、心が痛みます。どうか主がこれらの状況の中、ただ祈るほかない人たちを助け起こしてくださいますように、祈るものです。

 

本日、2月11日は日本では紀元節に基づき「建国記念日」とされていますが。私たちは、この日を戦後生まれた日本国憲法20条にも規定されています「信教の自由を守る日」として覚えています。この自由が社会的にも保障されているから、こうして教会に集まって私たちは信じる神さまを礼拝し、その教えと奨めを分かち合うことが、公然とできているわけです。又、考え方は違っていても、それぞれの良心に基づいた思想や信条が尊重される。そういった社会はゆたかでありますし、逆にそれが弾圧され、排除されて、力で一つに統制されていく社会は、閉ざされた危険な状況に陥っていくでしょう。この信教の自由が守られ続けますように。

 

さて、本日はマルコ7章31-37節のところから「エッファタ・開け」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

この出来事の前の7章のはじですが、イエスさまの弟子たちの中に洗わない手で食事をする者がいるのを見たユダヤ教のファリサイ派の人たちと律法学者たちが、イエスさまに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねる場面があります。彼らは皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしなかったのです。現代ならそれは衛生上、健康上の話になるでしょうが、彼らにとってそれは「汚れを清める」というような宗教上の習わしと同義でした。それで宗教家とその学者らは、なんであなたの弟子たちは神の前に汚れた行為をするのか、指導が行き届いていないじゃないか、というような意味合いでこう言ったのです。

すると、イエスさまは預言者イザヤの言葉を引用して「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」とおっしゃいます。そしてモーセの「父と母を敬え」との神の掟を持ち出し、「父と母に対して、あなたに差し上げるべきものは、神への供え物です」と口で言うだけで、実際に父と母を敬うことをしていないと言われるのですね。ここをリビングバイブルでは、父や母に対して「すみませんが助けることはできません、差し上げるはずのものは神にささげてしまいました」と言いさえすれば、助けを求める両親をおろそかにしてもかまわないと教えている、と訳されていますが。そのように「神の本来の戒めや掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守って」いると、その彼らの偽善を指摘されます。そして、今日の招きの言にもありましたように、イエスさまは「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と、人々に言われるのですね。

7章22節以降で主イエスは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と言われています。

 

さて、そのようなことがあってイエスさまと弟子たちはユダヤのゲネサレトから北の異邦のティルス、すなわちシリア・フィニキア地方にまで足を運ばれます。するとそこに、ギリシャ人・異邦人の母親がイエスさまのもとに来て、娘から悪霊を追い出してくださいと頼むのです。

するとイエスさまは、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」と言われるのですね。子供たちとはユダヤの民のことであり、異邦人の彼女にすれば、なんとも素気のないお答えのようにも思えますが。しかしこの母親はあきらめません。引き下がりません。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」と言いますと、イエスさまはこうお答えになります。「それほど言うのなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。この母親が帰ると、その娘から悪霊は出てしまっていたということです。

ユダヤ人たちは異邦人に対して、彼らは神の戒めを守らず清くないので、神の救いから除外されている、と見下していました。しかし主イエスは、その異邦人の地において、切実に神のいやしと解放を乞い願う人たちがいることを体験なさいます。そうして、ティルス、シリア地方から先週のデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へ再びやって来られたというのが、前置きが長くなりましたけれども、今日の場面です。

 

聖書の後ろの付録の地図をご覧になると、ガリラヤ湖を中心に北のティルスから東南部のデカポリス地方までの距離はそうとう離れていることがお分かりになるかと思います。そのようにイエスさま自ら神の国の福音を、ユダヤの地方だけでなく、その周縁の異邦の地とそこに住む人々にまで拡げて行かれたのです。正に閉ざされた地が開かれてゆくという出来事がここから始められていくのです。

さて、そのデカポリス地方のガリラヤ湖岸から近いある町で、イエスさまのもとへ「人々が耳の聞こえず舌の回らない人を連れて来て、イエスさまに彼の上に手を置いてくださるように」と願います。

その異邦人の人々も又、イエスさまに大きな期待をもっていたということですね

この耳の聞こえず舌の回らなかった人は、自分では如何ともしがたい状態であったので、イエスさまの御業に期待するこの人たちに伴われるかたちで、連れてこられたのです。

この信仰をもって願いとりなす人々の存在があったから、イエスさまは彼をお受けくださることができたと言えるでしょう。

私たち人間には救う力はなくとも、主のもとには救いがある。そういう主への信頼にあって家族を、隣人を主につないでいくそのとりなしの祈りと行動に、主は御業を起こしてくださるのですね。礼拝で救いのお証をしていただいた、くずめさんの憲法9条のTシャツを世界の人々に配るというお働きも、主にあって起こされたいのちと平和への願いを世界の人と分かち合いたいと祈り、ささげる人たちの、とりなしを通して実現されているんですよね。

私たちはそれぞれ、その形や方法は違っても、期待をもって祈りとりなす、世の光、地の塩でありたいと願うものです。

 

聖書に戻りますが。

33節「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」と記されています。

 

イエスさまは、なぜか群衆の中からこの人だけを連れ出します。そうして、この一人の人と一対一で向き合われるのです。

ここで、イエスさまはご自分の指を、この人の不自由な両耳に差し入れたり、その指に唾をつけ、彼の舌に触られるのです。

実にイエスさまは福音書の中で3回、唾を用いて病人をいやしておられますが。唾の効果については医学的な効果は定かではありませんが。小さい頃よく転んだり、ちょっと擦りむけたりしたとき母親が唾を指につけて、ちょんちょんと触れて、「もう大丈夫」と、言われた経験があります。それだけなのに、安心感がありケガのことなどすぐ忘れてまた遊びに熱中するという。まあ同じような経験をされた方もおられるでしょう。けれどそういうのはこの時代の彼らの間にはまずないことでした。

イエスさまがこの人になさったように、直接患部に触れることは汚れを受けると考えられていたのです。

先に7章のはじめの汚れに関する言い伝えについて、ユダヤ教のファリサイ派の人たちや律法学者たちのもっていた偽善的な考えをイエスさまは見抜かれ、一蹴なさったと申しましたが。

この場面ではイエスさま自ら患部に触れられ、言い伝えのように汚れることなどないということを示す機会となったのです。

 

この時、イエスさまは「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ・開け!」と言われます。

ここでイエスさまが「深く息をついた」のは、汚れについての人々の言い伝えによって、この人がこれまで傷つき苦しんできた痛みを知った、感じ取られたからではないでしょうか。あるいは、神の愛と慈しみから与えられた律法や戒めの本来の姿から遠く離れ出た人や社会に、イエスさまは嘆き、ため息をつかれたのかもしれません。

そして「エッファタ・開け!」とおっしゃるのであります。それは、そのような単なる言い伝え、人を縛りつける力の呪縛から開放されよ!と宣言なさったということであります。

イエスさまは彼に、「いやされよ」とはおっしゃっていない。あなたを卑しめ縛りつけているものから解放されよ、解き放たれよ。そして「開かれよ!」と言われているのです。イエスさまはこの一人の人と全身全霊で向き合われ、その魂に触れられるのです。

そうすると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」と記されています。それはただ聞こえるようになった、話せるようになったというのではなく、開けて「はっきり」話すことができるようになったということであります。この「はっきり」という言葉の原語オルソースは「正しく」という意味があります。卑しめられ、抑圧された者は、思いを正しく語ることができなくなり、ゆがめられています。しかし解放され、自分を取り戻した人は、自分の思いを正しく発することができるようになるのです。

 

本日の聖書は、単に病気や障害が治ったという話ではありません。要は、主によってお一人おひとりが取り戻される。解放され、開かれ、正しく話すことができるという神の力のメッセージなのです。

 

最後に、イエスは人々に、だれもこのことを話してはいけない、と口止めされましたが、人々はかえってますます言い広めた、とあります。

イエスさまはこのことでご自分がヒーローやカリスマ的指導者に持ち上げられることを避けようとなさったのかもしれません。けれどもそのイエスさまのなさった業はたちまち人々に知れわたりました。人々はすっかり驚いて口々に、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口の利けない人たちを話せるようにしてくださる」と言ったとあります。

こうして旧約聖書で預言者イザヤが終末のメシア、救い主の到来に際して預言したとされるイザヤ書355節の「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」という福音の出来事が現実のものとなりました。

そして今や世界の隅々にまで主イエスの御救いの福音は伝えられ、2000年を経た今日を生きる私たちの間においても、主イエスによる解放の御業、エッファタ・開け、の出来事は脈々と起こり続けているのです。

 

私たちは日常の様々な状況によって揺れ動かされたり、プレッシャーを受け、人の言うことが聞こえず、口も利けなくなるようなこともあるかもしれません。又、そういう人が身近にいるかもしれません。

主はそのような私たちに共感をもって御手を触れてくださるお方、エッファタ・開け!と、私たちの魂が主よって解放され、開かれることを願っていてくださるお方なのです。今日の箇所は又、思いがありながらも自分の力ではどうにも動けない、この一人の人をイエスさまのもとへつないでいくために、一緒に伴った人々。自分一人ではどうもこうも動けないその人に関心を寄せ、主のなさることに期待をもってとりなしていった人たちの存在も覚えました。

この混沌とした社会にあっても、主イエスさまの豊かな福音、御救いの恵みに日々与り、生きる私たちとされてまいりましょう。祈ります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)ご案内

2018-02-08 09:55:40 | お知らせ

2月11日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

主イエスの解放を身に受けて

2018-02-04 14:47:15 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ5章1-20節

 

先週は、礼拝、愛さん昼食、総会、夕べの礼拝と続きましたが。それぞれに充実した時となり感謝でした。

礼拝では介護老人ホームの会社に就職されたばかりのミャンマーの方お二人を会社の方々が伴って出席されましたが。カリーとアウンラム、それからカントゥ共々良い交流の時がもて感謝でした。

又、その後年に一度の定期総会が開かれ、週報にも記載しておりますとおり、今年は「喜び・祈り・感謝して今を生きる」テサロニケ一5章16-18節の標語と聖句を掲げた歩みが始まりました。

総会には旭伝道所の中島牧師ご夫妻が御一緒に駆けつけて下さりこれも感謝でした。

総会後の夕べの礼拝には新しくお見えになられた方々を含め、こちらも主にある恵みの時を持つことができ感謝でした。

さて本日はマルコ5章1-20節のところから「主イエスの解放を身に受けて」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

この箇所の中心は、新共同訳聖書の小見出しにありますように、悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやし解放された「イエスさまの権威(権能)」にあります。

今日は、そのイエスさまが如何にこのゲラサの人と向き合われたのか。又、彼に取りついている汚れた霊どもと、どのように立ち向かわれたか。そして解放といやしに与った彼をイエスさまはどのようにお導きになられたのか。それらの事に着目しながら、主イエスがもたらされる解放の御業を私たちの事柄として読みとっていきたいと思います。


舞台はゲラサ。聖書の後ろのページに記載されている地図を参照しますと、このゲラサはガリラヤ湖岸から東方約55キロですので随分内陸の奥にある町です。マタイ福音書ではガダラとなっており、ここだとガリラヤ湖畔からすぐの町ということになりますが。いずれにしろここは10の町からなるデカポリス地方で、ローマの主権の下にあり、ユダヤ人が汚れた動物と忌み嫌う豚が飼われていたとあるように、いわゆる異邦人が多く住む商業の盛んな町であったようです。

さて、イエスさま一行はこのゲラサの地方に着き、イエスさまが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来たます。この人は墓場を住まいとして、これまでにも度々、足枷や鎖で縛られていたようですが。自ら鎖を引きちぎり足枷は砕いてしまい、もはやだれも鎖を用いてさえ彼をつなぎとめておくことができなくなっていたというのです。

そうして、彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりして、毎日を送っていたということであります。
この人にしてみれば、如何ともし難いその状態から何とか脱したい、解放されたいと切に願えど、自分ではどうすることもできない。

そういうジレンマの中でただもがき苦しみ身体を石で打ち叩いてその痛みによって耐え難い魂の苦痛から逃れようとしていたのかもしれません。この人の苦痛というものはいかばかりであろうかと思いますが。

 

さて、その人はイエスさまを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫びます。それはイエスさまがその人と出会った時に、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからだと記されています。

汚れた霊どもは、イエスさまが「いと高き神の子」であることを認めていたということですね。しかし、そのことを知っていながら「かまわないでくれ」と、訴え願うのです。

それはイエスさまが介入されることによって、人間を縛り、苦しめるという彼らの働きができなくなる、その存在意義が失われるからです。

現代にあってもそのような人間を縛り、抑圧し、苦しめる悪魔的な力が様々なかたちで、そこら中に存在するわけですが。

汚れた霊はその存在と働きそのものが否定されることを強く恐れ、「大声で、かまわないでくれ」と、神の力の介入を断固拒否するのです。

イエスさまはこの人に「名は何というのか」と、その名前を聞かれます。これは大事なことです。人を縛っている力の正体、本質とは何か。それを知ることから解放の業が始められるのです。

すると汚れた霊はこの人を通して、「私の名はレギオン。大勢だから」と答えます。

レギオンとはラテン語からなる言葉で、ローマの4000人から6000人の兵士で構成される一軍団を指していたと言われています。つまり、イエスさまは、この人にとりついている一つの汚れた霊ではなく、その人の尊厳を損なわせている軍団と相対するのであります。

 

まあ、この人はそれほどの複数の悪霊に捕らえられ苦しんでいたということでしょう。

ある説にはこの人がローマの兵士に属していてその残虐な行為を見たり、実際に自ら行なったことで恐怖症となり、長く苦しんでいたという説もあります。
近年でも無謀で残虐な行為を見せられたり、殺害やそれに等しい行為をなした事が脳裏に記録として残って離れず、永きに亘って苦しみ悩まされ、心病んでいる人たちがいる、そういう話を耳にすることもありますが。そういった組織や集団による破壊的な力が人間性を損なわせ、永きに亘って人を縛りつけ、苦しめ続けているというのは事実であります。

 

いずれにしろここで留意すべき事は、イエスさまはそのような人そのものを悪霊とか汚れた霊とは言っておられない、ということです。「あの人はサタンだ」なんてことはおっしゃらない。主は、その人を苦しめ縛り続ける汚れた霊と、この一人の人とを区別します。

汚れた霊に対しては出て行けと強く命じ、その霊に取りつかれている人の苦しみと痛みを感受され、一人の人間として向き合われるのです。

 

さて、汚れた霊どもは自分たちの存在意義がなくなるのを恐れ、イエスさまに、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願い、自分たちを「豚の大群の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願います。

すると、「イエスさまはそれをお許しになられ、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った・・・

2千匹の豚の群ががけを下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」と記されています。

イエスさまはこうして、この人を汚れたれた霊どもの呪縛から解放し、いやされた。

ここに主イエスの権威(権能)が示されています。
囚われたた人に解放をもたらす権威、権能をおびた主イエスはそのような存在であられるということであります。

 

それにしてもイエスさまはどうして汚れた霊どもが豚の中へと頼んだとき、それをお許しになったのでしょうか。それは直接的には分かりません。けれども想像しますに、汚れた霊どもがただこの一人の人から出て行ったとしても、また他のだれか別の人に取りつき、同じようにその人を縛って人生を損なわせるだろう。だったら、貪欲に餌をむさぼり食う豚の大軍に乗り移りたいというのだからそうしたらよい、とおっしゃったんではないでしょうか。まあ、そうすると汚れた霊どもが入った豚は、自ら崖を下って湖になだれ込んで次々とおぼれ死んだ。そのように汚れた霊どもの力は結局、貪欲にむさぼるところから自滅に至る、ということなのでありましょう。

 

さて、ところでゲラサの町や村の「人々は、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」とあります。彼らは豚の騒動を知って恐ろしくなったのではなく、汚れた霊に取りつかれていた人の変わりようを見て、驚き恐れたのであります。

まあ次は自分に取りつくのではないかという恐れたのでしょうか。あるいはイエスさまが神の国の権威によってなされた事がわからず、別の箇所にあるように「悪霊の頭」だ

とでも思ったのかもしれません。人々はそれが何の権威によるものかわからなかったのです。

そうして、一人の人の尊厳と存在がイエスさまによって回復されたにも拘わらず、その地方の人々はイエスさまに「ここから出て行ってほしい」と訴えるのです。

どっちにしましても、人々は自分に被害が及ぶことや、地域社会に波風が立つことを避けたかったのですね。

最初に、この一人の人が汚れた霊に取りつかれた折も、この地方の人々はその人に無関心であり、もはや手に負えなくなってからは墓場や寂しいところに彼を足枷や鎖で縛りつけて、地域の生活圏に出入りできないようにしていたのであろうと考えられます。

「この地方から出て行ってほしい」。それはよくよく思いますと、あの汚れた霊が「かまわないでくれ」と言ったのと同じことを、町の人々もイエスさまに言っていることになるのですね。

「イエスさまと関われば面倒なことが起ったり、やっかい事が増えるに違いない。巻き込まれたくない、そんなのは御免こうむりたい」。彼らはそう考えたのでしょう。

彼らもまた、イエスさまとの関わりを拒絶する汚れた霊に縛られたような状態であったということができないでしょうか。

 

私だったらどうだろうか。「主よ、主よ」と口では言いながら、この町や村の人と同じではない、と言い切れるだろうか。本当に問われます。そういう人間的な弱さの中でも私たちはなお「イエスさまがどうなさったのか」「今、イエスさまならどうなさるか」を考え、行動していく者でありたい。そう願うものです。

最後に、本日の箇所の終わりところで、解放といやしに与った人は、「イエスさまと一緒に行きたい」と願ったありますが。イエスさまはそれをお許しならないで、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」とおっしゃいます。

 

なぜ、どうして主イエスはその人の願いをお許しにならなかったのだろうか、と思いますが。実に主イエスがお示しなったこの事こそが、彼の使命、任務であり、彼と、救いの証とが最大限に用いられる最善の道であった、ということです。

彼は、その主イエスのお言葉、招きに聞き従っていきました。自分の思いにではなく、主のお言葉にその身をかけて言ったのです。

その彼の働きは具体的に、イエスさまに関わりたくないという人々の町、いわゆる異教の地において「主が自分を憐れみ、なしてくださったことをことごとく」身内の人に、それは又自分を知る町の人たちに知らせる、証していくことであります。

ある意味これは、見ず知らずの地に行って伝えることより難しいかもしれませんね。私たちもそうではないでしょうか。けれど真の救いに与った人の変わりようが一番分かるのは身近な人でもあります。

このイエスさまに従って行きたい。「献身」でありますが。それは漁師であったペトロやアンデレたちのように、舟や網、さらに親や雇い人をも置いて、フルタイムで従事するそういった献身もあれば、今日読んだこの人のように身近な、たとえば家族を含めた地域社会との関わりや仕事を通して務めていく道もあるでしょう。どちらにせよ大切なのは、主イエスの解放と救いの喜びと感謝を身に受けて、主イエスの証人となるという事であります。これこそが先に主の御救い・福音によって新しくされた私たちに委ねられた大切な使命なのです。

 

今日のこの主イエスの解放を身に受けて主の証人とされた人によって、はじめは身内、家族に主の解放といやしの福音が伝えられ、それがその町の人々、さらにゲラサの地域、遂にはデカポリス地方全体にまで言い広められていくことになるのです。それは彼に与えられた彼にしかできない役割であり、働きであったということであります。それは、その後遂に成し遂げられられた主イエスの十字架の救いの業と復活と共に、主イエスの「神の子としての権威」を全世界に証することとなっていったのですね。

 

異教の地といえるこの日本においても、又それぞれのお住まいの地域においても、私たち一人ひとりに、私にしかできない働き、私だからこそ与えられた役割が必ずあります。身近な家族や隣人、さまざまな出会いと関りの中にそれはあるのかも知れません。

今日から始まりました一週も又、それぞれに主のお導きと守りのもと、主の証人としてここから遣わされてまいりましょう

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

真に畏れるべきお方

2018-01-28 12:55:31 | 教会案内

礼拝宣教 マルコ4・35-41 

 

今日の箇所の「激しい突風」ではありませんが、先週は冷たい風雪が吹きすさびました。

東京都市圏では何と20センチ以上の積雪となり、交通がマヒして帰宅できなかった人たちが大勢いたようです。

又、群馬県の草津では火山が噴火しました。スキー場ではスキー客を乗せたゴンドラに噴石が当たり、窓ガラスが割れて複数のけが人が出たり、噴火のために停電となりスキー客の乗ったゴンドラが一時止まり、宙づりになってその中に閉じ込められたという事です。

こんなこと誰が予想しえたでしょう。気象庁もです。ゴンドラに乗っていた人たちはどんなに恐ろしかったかったでしょう。それはパニックになってもおかしくなかった状況であったと思います。こうした自然の猛威に対して人間は何て無力なんだろう、と思いますが。

 

本日は想像を絶する、まさに予想を超えた事が起こって恐れおののく弟子たちの姿から、「真に畏れるべきお方」と題してお話をさせて頂きます。

先週は安息日に手の萎えた人をおいやしになったイエスさまのお話でしたが、その後もイエスさまは多くの病気で悩む人をいやされたので、おびただしい群衆がイエスさまのもとに押し寄せるようになります。まあイエスさまお一人では対応することができないような状況になっていくのです。

そういう中ご自分のそばにいて仕えさせるため、又派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能をもたせるために、12人を任命なさるのです。

こうしてイエスさまはこの12人と共に神の国の教え、病気のいやし、悪霊の追い出しというお働きをなさっていくのであります。ところが、何しろあまりに多くの人々が押し寄せてくるので、イエスさまはガリラヤ湖に舟を出させて、その舟の上から人々に教えを説かれたのです。

連日、そういったことが続く中、今日の箇所は夕方になってイエスさまが弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃるのです。言われるままに弟子たちも群衆を後に残し、イエスさまを舟に乗せたまま沖へと漕ぎ出します。

 

ある注解書には、「向こう岸へ渡ろうとのイエスさまの決心は、彼とその弟子たちとが群衆から離れることのできる唯一の道であった」と書かれていたのに目が留まりました。これまで私はイエスさまが向こう岸へ渡ろうとおっしゃったのは、さらに広い世界に出て言って宣教活動をなさるためのものであったからだと、そういうふうに読み込んでいたのですが。そう考えますと、まあイエスさまを含め弟子たちも連日働いて群衆に追われ続け、疲れ果てておられたでしょうから、その場を離れられるということは必要であったでしょう。そうしたイエスさまと弟子たちだけになった舟の上で、ある意味、ここは弟子たちの信仰が試され、訓練される時としてのガリラヤ湖の出来事であったのですね。それは、こうしてここを読む私たちにとりましても、「主の弟子として生きていくとはどういうことか」を知るための記述であると考えることができるでしょう。

 

さてこうして、弟子たちが舟を沖へ漕ぎ出してから暫くすると激しい突風が吹きます。先週、ものすごい突風で何か飛んできやしないかと心配になるほどでしたが。そのような風に、いやもっと強烈な突風だったのかも知れませんが、ガリラヤ湖は大荒れになり、その波をかぶって舟が水浸しになり転覆しそうになるという一大事が起こります。

そのような中、イエスさまは舟の艫:後ろの方で枕をして眠っておられます。イエスさまご自身、そうとうお疲れになっておられたんだということも自然に読み取れますが。

成し遂げてゆくべき業が成就するまでは「命が損なわれることはない」と確信しておられたのでありましょう。

 

私たち日常の生活に追われる忙しい者にとっても、その忙しさに埋没してしまうと、気づかないうちに体も心も疲れ切っていることがあります。そういう時に、一時的にその状況から離れるということって大事なことだと思うんです。

この週に一度の主日礼拝は、まさに先週安息についてのお話でしたが。神の前に一人のかけがえのない命として愛され、救われ、生かされている。その事を確認する日、安息する日としてあるということでございます。ここで、私たちは神さまと自分との信仰、信頼関係がもう一度問われ、整えられることによって、真の安息を頂くのです。それだけではなく、御言葉によって主イエスの弟子として整えられて、ここからまた新たな週のあゆみへと送り出されていくのですね。このような安息の日を頂いていることに本当に感謝でいっぱいですが。

 

話を戻します。

今日の聖書のお話を読みながら、この激しい突風によって、舟が波をかぶってもういつ沈んでもおかしくない状況になったとしたら、やっぱり私たちだったらパニックになって慌てふためくんじゃないかと思ったりします。

舟に乗っていた弟子たちのうち、シモン・ペトロとその兄弟のアンデレ、さらにゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの4人はみんな元漁師でした。

彼らはこれまでの漁師としての経験もあり、ガリラヤ湖の地形のことを十分周知していたでしょう。

ガリラヤ湖は海抜が大変低く、ヘルモンの山々の尾根から六甲おろしならぬ、ヘルモンおろしの突風が吹き突く怖さが分かっていたのです。いや、しかし彼らはその予想や経験値をも遙かに超えるような猛烈な突風だったから、慌てふためき怖れたのですね。

しかもそのような非常事態、危機的状況の折にも拘わらず、イエスさまはというと、舟の背で枕して寝ておられる。

弟子たちはこのような一大事のときに、眠っておられるイエスさまが理解できませんでした。そして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのです。

 

ここで、「かまわないのですか」と言っているのは、「このような一大事に陥っている私たちのことが何も気にならないのですか」ということです。ストレートに「イエスさま起きて助けて下さい」と頼めばよいのに、、、こういう言い方をするのはどうかという気もしますが。しかし、こういう弟子たちの思いは私たちのうちにも起り得るのではないでしょうか。

私たちが日常の心揺さぶられる事どもや、突如起こる理解しがたい出来事を前にして、「神さまはこの私の問題を何とも思いにならないのか!!」と言ってしまう、思ってしまう。そんな事がないでしょうか。

注目すべきことには、ここで弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言っている言葉を、原語により近く訳した岩波訳聖書では、「先生、わたしたちが滅んでしまうというのに平気なのですか」と訳しているんですね。

ここには、この危機が単に「おぼれてしまう」ということにではなく、「滅んでしまう」こいう事だと言うのです。おぼれると滅んでしまうとでは随分そのニュアンスが違います。すべてを置いてまで主に従っていこうと決意しあゆみ出した彼らです。しかしそういう決意をも吹っ飛んでしまう命の危機を、「滅び」という言葉で表しているのです。

 

主イエスはそのような弟子たちのことに何も関心がなかったのでしょうか。

いいえ、39節「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と、言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」。

ちゃんと弟子たちの心境をご存じだったのです。いやもしかすると、最初から弟子たちの様子を伺っておられたのかも知れません。

ここでイエスさまは弟子たちに言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。

このなぜ怖がるのかは、何を怖がっているのか?ともとれます。

「何を怖がっているのか?」。予期せぬ出来事の中で私たちを襲う恐怖の正体とは何でしょうか。

激しい突風によって舟が波をかぶり、浸水してきた時、弟子たちの頭の中には、もうすぐ舟が転覆して荒れ狂う波に吞まれ苦しみもがきながらすべてが終ってしまう、滅んでしまうという恐れに支配されていました。いわゆるパニックですね。

そうなると人は正常な判断ができなくなって行動も混乱状態に陥ってしまいます。

まあそのように弟子たちも荒れ狂う波を見て恐れに取り憑かれるのです。しかし、イエスさまはその状況を引き起こしている風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われるのです。すると、「風はやみ、すっかり凪になった」ということであります。

人は目に見える現象にどうしても目が奪われ、慌てふためきます。

けれども、主イエスはそういった状況を作り出している力を見抜かれ、それを叱りつけて、平穏を回復されるのです。それは、どんな権力も凌駕する、如何なる世の力が猛威を奮っても滅ぼすことのできない神の権威、神の権能です。最終的権威は主のものなのです。

 

さて、この権威あるイエスさまを目の当たりにした弟子たちは、「非常に恐れた」とあります。この「非常」には、原語でメガンとなっており、それはとてつもないメガトン級の「恐れに包まれる」のです。

彼らは、最初は激しい突風から起こる目に見える現象に慌てふためき、恐れるのですが。ここで肝心なのは、その彼らの恐れが、風を叱りつけ、湖をも静めたまう主イエスとその権威に対する畏れに変わるのです。

天地万物をも従わせる権威。あらゆる恐れの根源をも制することがおできになる主イエスに弟子たちは、神の権能を見ます。もはや人を支配し滅ぼすものへの恐怖ではなく、滅びからの解放をもたらす神の権能。主イエスへの畏敬の念を彼らは抱くののですね。

ここが今日のメッセージであります。

それは私どもにとって耐え難いような出来事でさえ、主の権能のもとにすべてあり、私たちは決して滅びることはない。どのような世の力や企みによっても損なわれることはない、ということです。

 

聖書は「真に畏れるべきお方が誰であるのか」を弟子たちはじめ、初代教会の厳しい迫害のただ中にあった信徒たちに伝えます。そしてそれは今も、時として起こり得る激しい突風や荒波に翻弄される私たちにも同様であります。

「風も水をも従わせ、救いの御業によって死をも打ち破られたお方」、このお方が舟の中に共におられる。聖書はこの「真に畏れるべきお方」への信頼へと、今日も私たちを招いています。

 

ヨハネ1633節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っています」。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)ご案内

2018-01-28 08:30:18 | 教会案内

1月28日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

主イエスが大切にされる命

2018-01-21 15:38:17 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ3章1-6節

先週は教会の総会資料の作成の際に、去年の出来事をふり返りながら特に気付かされましたのは、特に新来者の方が続けて礼拝にご出席なさっておられるということでした。主イエスの救いと出会われますようどうぞお祈りください。また、国内はもとより近隣のアジア諸国から学びやお仕事のために大阪に住んでおられる青年の方々が一緒に礼拝に与れているのは本当にうれしく、ゆたかなことです。

先日2件のお電話があり、その内容が共通していたのが驚きでした。それは、ミャンマーから日本に来られている方に関するお電話だったのです。大阪教会のブログを御覧になって「ミャンマーの人も一緒に礼拝を捧げている」ということを知って電話をしたということでした。私たちがどこへ行っても主は私たちを独りぼっちにはさせない。孤立させない。そういう素晴らしい恵みを覚え、心が熱くなり、うれしくされました。

 

さて、本日は「主イエスが大切にされる命」と題してマルコ3章1-6節より、御言葉を聞いていきたいと思います。

ここは前の頁の「安息日に麦の穂を摘む」という箇所と同じく、安息日に起こった出来事であります。ユダヤの1日は日没から始まります。私たちは夜が明けてから1日が始ると考えますが、そこがユダヤ教の人たちとちょっと違うんですね。それは聖書の神さまが天地創造のお働きをなさって6日目の夕べに「すべて良い」とされ、安息なさったということで、週の6日目の金曜日、日が沈んでから土曜日のまた日没までの時間を、神の前に聖別し、安息の日として労働も家事も休むのです。

その安息日に土曜日の朝頃でしょうか?イエスの弟子たちが空腹のため、歩きながら麦の穂を摘んで食べているのを知ったファリサイ派の人たちは、「安息日に麦の穂を摘む行為は、律法が禁じている。それは労働じゃないか」と、イエスさまを問いただしたというのですね。

それに対してイエスさまは、ダビデ王さまと、その家臣らが空腹であった時のことを引き合いに出され、「祭司以外だれも食べてはならい供えのパンをダビデ王も食べ、ともの者にも与えたではないか」とおっしゃいます。

そうしてイエスさまは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と、ファリサイ派の人々をいさめられた。そういうことがあって今日のこの場面にもちこされるかたちで、この出来事が記されているのです。

 

まずイエスさまが会堂に入られると、片手の萎えた人が会堂の隅にいました。そこにいた人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた、と記されています。「訴えようと思って」とはただならぬ状況であります。

ルカの福音書にはそれが律法学者たちやファリサイ派の人々であったと記されています。おそらくこの律法学者たちは先週読みました「中風の人をいやされたイエスさまの言動」に対して不満をもっていたのでしょう。又その後の、イエスさまが徴税人のレビの家で、罪人といわれる人たちと一緒に食事をされた事に対する嫌悪感や、さらに先のイエスの弟子が安息日に麦の穂を摘んで食べたことに対するやりとりなどで、まあそういう強い不満が溜まっていたのではないかと思われます。そういう中で、彼らは自分たちの不満をはらすべく、この片手の萎えた病の人を、イエスを訴えるための手段としたのです。

 

その人々の罠に対してイエスさまは逃げることはなさいません。むしろ毅然として片手の萎えた人を人々の真ん中に立たせられます。

もしかしたら、この人は人々から邪魔扱いされ隅に追いやられてきたのかも知れません。彼は周囲の目を気にしながら会堂の片隅に小さくなっているほかなかったようにも読取れます。律法学者たちやファリサイ派の人たちは、彼を一人の人間というより、イエスさまを訴えるためのただの道具としか考えていませんでした。

しかしイエスさまは、その片手の萎えた人を人々の真ん中に立たせられて、彼も又、神の前にひとりの命ある人間であると、その人のいわば尊厳をお示しになられたのだと思うんですね。

 

そして、イエスさまは周囲にいた人々にこう言われます。

「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか」。

このようにイエスさまがおっしゃったのには、安息日の律法の精神を明らかにするためでした。安息日の律法の精神。

そもそも安息日とは、先にお話しましたように、天地創造のお働きを終えられた神さま

が安息なさった事から、その日を聖なる日として聖別し、安息の日として覚えるのです。

出エジプト記20章の十戒の中には「安息日を心に留め、これを聖別(特別なものとして取り分けるの意味)せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」とあります。

ですからこの安息日の本質は、すべての造り主なる神、救いと解放をお与え下さった神に感謝を捧げ、その真の安息にすべての人々、家畜までもが与っていくために定められたものなのです。それは神の御前に特別に取り分けられた日であるということです。

そこに聖書が語る安息日についての律法の精神があるのです。

 

ところが紀元1世紀頃になるとこの安息日に、してはならない仕事や労働についての規定が事細かに決められていきます。安息日に麦の穂を摘む行為も労働、仕事として禁じられ、さらには、安息日に生命の危機が及ばないような医療行為や治療をすることも労働、仕事にあたるということで禁じられてしまうのです。

それは神の前により正しく生きていこうする熱意であったり、どこまで、どんな形で守ればよいのかを議論やトラブルを防ぐため明確にする必要があったのでしょうが。しかしそういった安息日の禁止項目が文字として事細かに規定されていきますと、ただ安息日の規定を守れば正しいんだ、守りさえすればいいんだというおごった考えにだんだんと陥ってしまい、先程申しました安息日のそもそもの精神が見失われてしまう事も起こっていったのでしょう。そうしてその安息日に禁止された規定や規約を文字通り守れる人は正しく、逆に守らない、守れない人は悪人と見なし、選別化されていくのです。

 

イエスさまはこの後7章で、食事の前に手を洗わなかった弟子のことでファリサイ派と律法学者たちに指摘された時、預言者イザヤの言葉を引用して、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしを崇めている」と言われ、「あなたたちは神の掟を棄てて人間の言い伝えを固く守っている。神の言葉を無にしている」と、彼らにズバリと指摘なさるのであります。

 

今日のところで、ファリサイ派の人々はこの片手の萎えた人への関心など、実のところみじんもなく、ただイエスがこの人をどう扱うか。安息日規定をどうするか。そんなことばかりを考えていました。

確かにこの手の萎えた人の状況は、即命に関わるものではないと表面上見えます。しかし実際その彼の存在は物のように人々に見なされ、交わりから断たれ、見殺しにされていたような状態であった。実は命の危機に関わるものであったのです。その極めて冷酷な事態をイエスさまは敏感に見通しておられたのですね。

そういった事態が事もあろうに「安息日の聖なる日」に、しかも「神を礼拝する会堂」で行なわれていた。実はそこにイエスさまが「怒って人々を見回し、そのかたくなな心を悲しまれた」理由があったのです。

 

イエスさまはここで「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか」と人々に問われましたが。並行記事のマタイ12章では、「安息日に良いことをするのは許されている」と大変明瞭におっしゃっています。安息日は神の前で「善を行って生きる」。又「命の救いの原点を思い起こし、その命の救いの恵みを分かち合っていく」。そういう日であります。

規定や規則はそうした安息日の精神を活かすためにあるに過ぎないという事を、イエスさまはお示しになられたんですね。これこそが、前の27節でイエスさまが言われる「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」ということの意味なのです。

 

イエスさまはその人をおいやしになりました。それは人の決め事に反していたかも知れません。しかしそれは、安息日が大事にしている本物の安息と解放を与えるものでした。

私はそのことを思う時、使徒パウロがコリント第二3章6節で述べている「文字は殺しますが、霊は生かします」という言葉を思い起こしました。

 

主イエスはまず彼を会堂の片隅から真ん中に立たせるということからはじめられます。その人が神に忘れられていないことを思い起こさせるために。人々の間でその人の尊厳が回復されるために主イエスは彼を人々の真ん中に立たせるのです。

 

そしてイエスさまはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われます。

私も左の肩がこの頃年齢のせいか思うように動かせなくて、少し無理して伸ばしたり、ちょっとひねったりするとズキンと痛みが走るようになってきていて、それを少しは動かした方がいいと分かっていても、痛みもあってなかなか動かすにも勇気がいります。比べようもありまえんが、多分この人にとってこれまでずっと萎えていた手を伸ばすということは考えてもいなかったことでしょうし、大変恐く、不安もあったのではないでしょうか。ましてや人々の冷たい視線の中でどんなにか勇気のいることだったんではないかと思います。

それでも彼はイエスさまの、「手を伸ばしなさい」とのお声に、そのとおり応えて伸ばしたのです。すると、「手は元どおりになった」。

それは単なるいやしではありません。肉体のいやしにとどまらない。全人的な命の回復、それは「安息」です。

 

イエスさまは、本来人のためにある安息日の本質をこのように表されました。

それは、ファリサイ派の人々や律法学者たちのこだわる、世の言い伝えや知識、人の決め事による権威とは全く異なるものです。

イエスさまの権威には神の真理に基づく自由があり、あらゆる囚われからの解放といやしをもたらすものなのです。

 

今日の箇所で、イエスさまは会堂にいた、かたくなな人々にも、立ち返ってその自由と解放を受け取っていくようにと招いておられたのに違いありません。しかし非常に残念なことに彼らの心はさらにかたくなになって、ヘロデ派の人々(当時の政治的勢力の一団)と結託してまでイエスさまを殺そうと相談し始めます。イエスさまの「命を救うことか、殺すことか」との問いと招きに対して、この安息日に「命を殺すこと」を決意するのです。人の罪の深さがここに露呈されるわけでありますが。

 

今日は、神がお与え下さった安息日の真の意味を聖書から聞いてきました。

今や私たちは主イエスの尊い贖いの血が流された、その十字架の苦難と死によって、罪の赦しと、神の御前における命の回復というこのうえない「安息」に与っています。

私たちはこの礼拝において、主イエスがその命をもって回復してくださった安息を様々な人たちと分かち合っています。この素晴らしい安息によって私たちも又、すべての人の解放の日、真の平安のもたらされる日につながってゆけますように、心から願うものです。

今日もこの安息のもとからそれぞれの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

福音を共に生きる

2018-01-14 17:29:22 | メッセージ

礼拝宣教 マルコによる福音書2章1節ー12節 

 

新年を迎えてもう二週間が経ちますが一日一日がとても早く感じます。

私はなぜか今年はお正月気分がほとんどありませんでした。歳のせいかも知れませんが。次々と起こる災害や被災地のことがどこか心にあるからでしょうか。今年も1月17日、23年目となる阪神淡路大震災の日がめぐってまいります。今も言葉に言い表わすことができない思いを抱えておられる方々に、祈りを寄せつつ主の御前でしばし黙祷しましょう。

先週は寒い日が続き、体調を崩された方もおられるようで、快復をお祈りいたします。

水曜日の夕方の祈祷会に冷たい雨の中来られた方が、祈祷会の帰りに「今日はほんとうに来れて良かったです」と、来られた時は重たい表情でしたが、帰りにはとっても素敵な笑顔になられていたのが印象的だったのですが。

聖書をきちんと学ぼうと自分で努力をされていたようですが、それがしんどくなられたということで、礼拝に集うのも重たくなっていき、それでも何とかその日の夕べの祈祷会に足を運ばれたということでした。

そうして共に聖書を読み、祈り合っていく中で、聖霊がお働きくださったんですね。重たかった思いが解放されいかれたようです。

 

一つ思いましたのは、一人で聖書を読み黙想し祈りの時を持つことは大事ですけれども、

イエスさまがおっしゃった通り、23人が主イエスの御名によって集まるところに、主が共にいて下さるんですね。特に教会は常に祈りが捧げられている場でありますから、なおさらのことです。礼拝を捧げ、聖書を読み、祈り合っている場に、身をおいていくことをとおして、魂に霊の息吹が吹きかけられ、平安といやしに浸るということが確かに起こっていることを幾度も知らされるものであります。

「ああ今日は教会にいきたくない。体が重たい、しんどい」という時もあります。又、「天気が悪いので行きたくない」と思う時もあるかも知れません。しかし、そういうときにこそ、礼拝や祈祷会に足を運んでみると、教会を出るとき、「ああ今日は来てよかった!元気を頂いた」という体験をなさった方が、ここに多くおられるのではないでしょうか。私のために祈ってくださる姉妹兄弟がいる。祈ってください、祈っています、という関係の中に、主の御言葉によってとりなし合い、ゆるし合い、仕え合う私たちの間に天の国は開かれているんですね。それが、共に礼拝し、共に祈るところに主の霊、ご聖霊がゆたかにお働きになっておられる証でありましょう。

 

さて、今日の聖書はそういう事とも関係のある記事であります。

それは「あなたは誰と、どのように、具体的に主イエスの福音を共にしていますか」という問いかけであります。

そのことを示すために、聖書は2つのグループを対比させています。1つのグループは「中風の人を運んでイエスさまのところに連れて来る4人の人たち」。もう1つのグループは、当時のエリートである律法学者たちです。

 

当時ユダヤでは、体に障害をもつ人や心の病をもつ人は、何かその人に罪があるからそのようになったのだという社会通念がありました。まあいわゆる因果応報律が幅を利かせていたのです。

この中風の人は、そういった社会通念によって、自分や親、先祖に何か諸々の罪があったのか?それだからこうなったのか?という責めを人々からも、何より自分自身の中にもって苦しみ悩み続けてきたのではないでしょうか。そんな中イエスさまの噂を耳にしたのでしょう。

人を分け隔てせず、神の愛と人を活かす教えと共にいやしをなさるお方だと。その方に私も何とかお会いしたい。そういう願いをもったのだと思います。けれど、身体も一人で動かすこともできない。

諸々の罪のゆえに病んでいると言われる自分のような者に、イエスさまは会ってくださるのだろうか、というような引け目をこの人は感じていたのではないかと想像します。身も魂も解放されたいという切なる思いをイエスさまに寄せながら、自分一人では動けない、踏み出せない。そういう中、しかし幸いだったのは、彼には心強い信仰の友がいたのです。彼の周囲には彼のことを普段から気にかけ日々祈りに覚え、彼のために神にとりなしていた人たちがいたのです。この4人の人たちもそうでした。彼らはイエスさまのもとに彼を運んで連れてくるのです。

 

多くの人びともまたイエスに会うために押し寄せていました。家の中と外はいっぱいに埋められた人びとによって、身動きもとれない状況でした。

とても担架に乗せたまま入れそうにありません。この4人は考えに考え抜き、最終的にとった方法は、屋根をはがして、彼の寝ている担架をイエスさまのところに吊り降ろすことでした。

 

パレスチナ・ガリラヤ地方の家の屋根は、梁に小枝をかぶせその上に泥を塗って造られていたので、比較的簡単にはがすことができたようです。屋根にも登れる階段があったようですね。

この4人は何とか中風のこの人の思いを叶えてあげたいという一心で、それを実行するんですね。それは実に突拍子もなく、無鉄砲ともいえるような仕方であります。けれども、彼らは一人の魂が救われるために、そこまでやるんですね。それはやはり、イエスさまの御前にこの人を連れて行きさえすれば、何かしてくださるに違いないという強い期待、確信をもっていたからだと思うんですね。そのイエスさまへの信仰のゆえに、彼らは屋根をはがす労苦やその代償をもいとわず、批判も恐れず、そうしたのではないでしょうか。

そこには、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」との旧約聖書の神の教えを生きる、彼らの証が現れているように私は思います。それはとても具体的で、他者の痛みや苦しみを自分のことのように思いやる彼らであったということです。彼らは主なる神さまの愛と慈しみを知って生きていたから、そのようにできたのではないでしょうか。

さて、そうして4人の男が中風の人をイエスさまのもとに吊り降ろした時に、イエスさまは「その人たち(それはこの中風の人と4人)の信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたということであります。

 

その人たちの信仰を見て。それは中風の人を中心にとういうか、媒介として彼らの間に起こされた信仰です。病のいやしを共に祈り、こうして主イエスのもとに共にやって来た。その彼らの信仰を、主は御覧になって「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃったということであります。

しかしこの「赦される」という訳は不十分です。原語に正確に訳せばここは、「あなたの罪は赦されている」とイエスさまは言われているのです。

「罪が赦される」というのと「罪が赦されている」というのとは随分ニュアンスが違ってきます。赦されるは「今から赦されますよ」というふうに聞こえますが、「赦されている」というのなら、「もうすでに赦されていますよ」という宣言に聞こえます。それはたとえば、お医者さんにかかって「あなたは治りますよ」と言われているのと、「あなたはもぅ治っていますよ」と言われるのとは全く違います。

イエスさまは彼らの間に働く信仰、祈り、とりなしと共に、神に向かうその信仰を御覧になって、「あなたの罪は赦されている」と宣言なさっているのですね。

 

さて、イエスさまが中風の人にこの「罪の赦し」を宣言すると、そこに座っていた律法学者たちが動揺し始めました。

彼らの心には、イエスのこの言葉は神を冒涜するものと映ったのです。罪を赦すことが出来るのは「神」しかいないというのが、律法学者たちの考えです。それは確かにそうでしょう。けれどイエスさまはご自分が赦すと言われたのではなく、唯「神は赦されている」とおっしゃったのです。とにかく残念なことに、律法学者たちは本当に大切なことを見失っていたんですね。それは先程申しましたように、この中風の人が、これまでこのようになったのは罪のせいではないのか。神は赦しては下さらないのか、と苦しみ悩み続け、周りに対しても肩身の狭い思いをせざるを得なかった。その事が律法学者たちには見えていなかったということです。

又、彼を担いできた4人の、「何とか彼を救いたい」という切なる思いをも知ることができなかったということです。

この律法学者たちは律法について豊富な知識をもち、それをよく知っていました。

正論は語ります。でも神さまの愛と憐れみ。そして「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃる神の律法の本質に生きているかどうかが、問われることになるのです。

大切なのは、神の慈愛をどこで、だれと、共にあずかっていくのかということであります。それは裁きではなく恵みの共有であります。

 

4人の男が中風の人を担架に載せてイエスさまのもとへ何とかして連れていこうとする。それもその具体的な行動でした。

私たちは年齢や体力や、そのおかれている状況も様々ですから、だれもが担架に乗せて

運んで来れる体力をもっている訳ではありません。おそらく今日の箇所の場面には、4人の彼らの他に、イエスさまの居場所を調べたり知らせたりした人、家で担架を準備したり、ひたすら祈って帰りを待っていた人たちがいたでしょう。そのように私たちも、

福音に生かされている者として、福音を共に生きるゆたかさを、私にできる具体的な何かで分かち合えるとよいと思います。

たとえば、お誕生日のカードを書いて送られる方もいらっしゃいます。毎日教会のお一人おひとりの名前をあげて主に執り成し祈っておられる方も、礼拝の奉仕や教会の役員を担っておられる方も、食事を作ってくださっている方もおられます。病気の人を訪ねて下さる方もおられます。中には「私は何もできなくて申し訳ないです」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、礼拝に集われること、祈祷会や夕礼拝に集われることもまた、福音を共に生きる具体的な証であると思います。

又、それは教会の中だけに限ったことではなく、家族や友人、近隣の方、出会った方との関係の中で、福音を共に生きる幸いへと、主は私たちを日々招いておられます。

 

さて、最後にイエスさまは律法学者たちにこのような質問をなさいます。

「中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。」みなさんはどのように思われるでしょうか。

 

4人の男と中風の人がイエスさまの御前に来た理由は、身体のいやしのためでした。

つまり「起きて床を担いで歩く」という目に見えるいやしであったのです。

にも拘わらずイエスさまは、罪の赦しを宣言なさいます。なぜならイエスさまはその人にとって最も回復されるべきもの、それが何かを見抜いておられたからです。

 

人の存在にとって最も重要な問題。それは人としての尊厳です。その人の存在そのものが大事にされる、ということですね。それは神から造られ、神の霊の息吹を吹き込まれ生きるに価する者とされている。そうして自分自身も、又人からもかけがえのない大切な存在、一人の人として認められている。

イエスさまは、今日の箇所で「あなたの罪は赦されている」という事と「起きて床を担いで歩け」という事を両方、示されますが。この中風の人にとって先行するべき救いは、神との和解であり、その人の尊厳が取り戻される事でした。そこからしか真のいやしはあり得なかったからです。

 

私たちはこの地上を生きていますと、こうして週に一度でも共に神に立ち返る日を作らなければ、食べること、労働など生活に追われ、自分が神に造られ、生かされている霊的な存在であるという、その魂の生き死にについてはあまり考えることはありません。

生活も身体の病や心の病が癒やされることも大事ですが。何より大切なのは、命の根源である人が人であることの尊厳が取り戻されること。それは神さまとの関係の回復と、かけがえのない存在とされていることを喜べること。それこそが聖書が語る福音なのです。

イエスさまは、罪の赦しの宣言をお与え下さるために来られました。それは十字架の苦難と死をとおして成し遂げられた神の権威による福音です。

 

今日の箇所の終わりにこう記されています。

「『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」

 

この「福音を共に生きる」私たちとされて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2018年最初の夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)

2018-01-12 09:39:22 | 教会案内

1月14日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com

コメント
この記事をはてなブックマークに追加