日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪の天王寺駅近くにある創立64年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂が完成しました。ぜひお立ち寄りください!

救い主イエスの系図

2016-12-04 17:09:51 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ1章1~17節 世界祈祷週間

12月に入り、2016年も残すところ1カ月となりました。
一年の恵みを数えつつ、恵みのクリスマスにむけた備えを共々になしてまいりたいと願います。来週11日のチャペルコンサート、24日のキャンドルライトサービス&クリスマス・イブコンサート、そして25日はクリスマス礼拝と続きます。主に祈りつつ期待して備えていきましょう。

本日は、バプテスト世界祈祷週間を覚えての礼拝として、特に全世界に福音が伝えられる「世界伝道」とその福音のもつ「平和と和解の働き」を覚え、祈り、ささげる時となるよう願っております。

本日から4月のイースターまでの約5ヶ月間、マタイの福音書から御言葉を聞いていきます。
今日はその1章の前半に記されています「救い主イエスの系図」の箇所です。
その系図は、旧約のアブラハムの時代より、イスラエルの統一王であったダビデを経て、さらに捕囚と苦難の時代を貫いて、遂に救い主イエスに至ります。
それはおおよそアブラハムから2000年の時代に至る系図です。

「系図」と訳された原語は、ギリシャ語でビブロス ゲネセオースという言葉で、それは「創造の経緯」と直訳できます。ひらたく言えば「いのちの誕生の書」といった意味合いがあります。
それはいわば神さまがお造りになられた「いのち」が連綿とつながれてきた系図といえるでしょう。

さて、当時ユダヤの祭司たちは自分の誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。その系図への強い思い入れというものは、イスラエル、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになったからです。今日の主イエスの系図にも、アブラハムの子、ダビデの子からなっているように、その系図はイスラエル、ユダヤの「信仰の父祖アブラハム」から始まり、さらに歴史的にもイスラエルの初代の王、ダビデにつながっています。そこにユダヤの人々は自分が神から選ばれた「神の民」であるという存在意義を見いだすことができるからです。

しかし、今日の主イエスの系図はそんな彼らの誇り高き系図とは異なる一面が示されています。ユダヤの祭司たちが憶えた系図は、自分の誕生からさかのぼり250年前までの父系の系図であったのに、この主イエスの系図にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリアと何と5人の女性が登場します。通常の系図は父系の「誰は誰を」と記されますが、これら女性が登場しているところは、「誰は誰によって」又「誰は誰から」と記されています。

夫を亡くして寡婦となったタマルは、義父ユダの冷酷さの中で苦しみ、自分の存在意義をかけて遊女を装いユダの子孫を宿した女性です。又、ラハブは、エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でしたが、エリコの城壁を偵察に来たヨシュアの遣いの者たちが守られるようにヤコブ書によるなら、その信仰によって彼らを助け、後にサルモンとの間にボアズが生まれたいうことです。次のルツはイスラエル、ユダの家系でない異邦人でしたが、先のボアズとの間にオベドが生まれたということです。さらにウリヤの妻は、バテシュバのことですが。あえてウリヤの妻となっているのは、その子ソロモン王の父であるダビデ王が忠実な僕ウリヤを裏切り死に至らせたその恐ろしい罪が露わにされるためです。さらにイエスの母マリアもまた、主の御心とはいえ自分の預り知らぬうちに子を宿すという苦悩を抱えます。

そのように救い主イエスの系図は、父系中心の系図とは異なるんですね。ここには当時の男性優位の社会の中で、辛酸をなめなければならなかった女性たちの姿があります。イエスさまの母マリアだって姦淫で子を宿したと見なされれば石打ちで殺されかねませんでした。女性の側の言い訳など通用しない、そんなそんな世の中でした。

このようにイエスさまのこの系図は、連なった者の人生と彼らを取り巻く人の世の罪を赤裸々に示します。神はそのような人の世の罪と痛みが露わにされるため、その只中に肉をとっておいでくださいました。イエス・キリストの誕生はまさにそんな世の罪が取り除かれるため、又、世の力から解放がもたらされるために、この系図の中にお生まれになったということであります。
それはどこか高いところからではなく、この系図が示すように人の苦しみや痛みを共にしてくださるお方として私たちのもとにお生まれくださった。来週以降またお読みしますが、マタイはその救い主の名を、「インマヌエル」と呼びます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。

この救い主イエスの系図に記されたひとり一人。それは私たちひとり一人であるかも知れません。神の赦しなくしては到底神の祝福に与り得ない存在であるということにおいて同様であります。

むろん私たちはこのアブラハムからなる神の民の血筋とはいえませんが。しかし聖書は、そのアブラハムの祝福によって地上のすべての民族が祝福に入ること、さらにローマ書13章には「共におられる主、イエス・キリストみよって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木された」と記されています。私たちがどんなに小さくても、到底神の前に立ち得ない罪人であったとしても、救い主イエスによって神に立ち返る時、この神の民の系図に接ぎ木され、祝福を受け継ぐ者とされている。
どんなに尊く、感謝なことではないでしょうか。

本日は世界祈祷週間をおぼえての礼拝を捧げておりますが、先にも申しましたように聖書はアブラハムの祝福によって地上のすべての民族がその祝福に与るべきことを示しています。

主イエスの福音は今日のこの世界において最も暗く、闇のようなところにまでも、文字痔入り地の果てまでも届けられることが求められています。

私たちの教会が加盟する日本バプテスト連盟がアジアという場所を宣教の地としているのは、かつての戦争における私たちの罪の告白と和解がキリストによってもたらされるためです。またルワンダでの働きに参与しているのも、人と人を隔てる敵意の壁の開放、キリストにある平和と和解をルワンダの人たちと共に確認していくためであります。

救い主イエスさまの御降誕を待ち望むアドベントにおいて、まずこの驚くべき神の新しい救いのご計画が全世界にもたらされた、そのことを覚えたいと思います。又、私たちも神の救いのご計画のために用いていただけるよう祈り求めてまいりましょう。

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希望の言葉

2016-11-27 16:23:14 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル12章 待降節Ⅰ・アドベント

先週23日はラブソナタ大阪が中之島の大阪国際会議場で10年ぶりに開催されました。
教会からも数名が参加いたしました。先日のFAXで23日の集会は日本、韓国の参加者とスタッフを加えると総参加者3320人となり、そのうち116人の方がクリスチャンになる信仰決心をされたというご報告をいただきました。私たちの中にもお友達や知人をお誘いしてご一緒された方もおいででしたが。まずホールに入りますと、韓国からこの集会のために自費で訪日し、ご奉仕くださる方々が、次々と歓迎の挨拶をして出迎えてくださると、さらに会場に入りますと一人ひとりに丁寧な案内をして下さり、感激しました。
又、メインのラブソナタの集会では世界的にも活躍されている、砂絵を描くアーティストの、父なる神の愛を思い起こさせるパフォーマンスやフルート演奏者、オペラ歌手や声楽家による賛美がささげられました。自分の栄誉や称讃のためでなく、創造主であられる神さまの作品として、その神さまを賛美しておられるお一人おひとりのオリジナルな主イエスにある救いの証をとともに最高の賛美にふれ、心熱く、主の臨在の迫りを強く感じました。日韓の人たちが主イエスにあって一つとされ、和合し、国境を越えた天の国の喜びを頂いた思いです。「天の国は私たちの間にすでにあるのだ」と、おっしゃる主イエスのお言葉をまさに実感した貴重な時となりました。

さて、本日はこれまで4週に亘り読んできましたダニエル書も最後となります。
今日はダニエルの見た幻:黙示にあたる最後の12章から「希望の言葉」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

まず今日の箇所は、前の10章からなるダニエルの黙示録といわれるような「終わりの時についての幻」の記述でありますが。そこに示されたとおり、ユダヤの民に対する迫害は権力の移り変わりとともに厳しさを増し、ダニエルの後の時代には凄まじい弾圧と迫害が起こるのであります。
そのような中で、主の契約を破り偶像を拝む人たち。一方、権力に従わず、信仰を守り抜いた人たち。又、中には厳しい迫害下で殉教を遂げる人たちも預言されています。

今日の12章1節には、それらの預言とともに、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」と語られています。
聖書には7人の大天使長がいてミカエルはそのうちの一人で、ユダヤの民を守る天使でありました。神に忠実に生きるために苦難に遭うイスラエル、ユダヤの民。その信仰の闘いの先には神の救いが必ずもたらされるという約束がここに宣言されているんですね。苦難はある。艱難は来る。信仰の闘いは主を信じる者すべてに起こってきます。しかし、必ず主なるお方による救いとすべてが報われる時が訪れる。それが聖書の変わることのないメッセージであります。
けれどもその日、その時まで主はいらっしゃらないのかというと、決してそうではありません。6節の「川の流れに立つ、麻の衣を着た人」もまた天使の一人でありましょう。その天使が激流のような厳しい迫害下で主に忠実に生きようとしていた人たちの間に立って共に闘っておられるということが象徴的に示されています。主は厳しい状況の中にも共におられるお方なのです。
2節-3節には「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々(多くの者を主の救いに導いた人々の意味)は、とこしえに星と輝く」と記されています。
ここには、いわゆる死者の復活が語られています。それは永遠の生命に入る者だけではなく、永久に続く恥と憎悪の的となる者も地の塵の中から、すなわち死から目覚めるというのですから、驚きです。
人はだれもこの世の人生をどう生きたかがすべて問われる日が来るのです。いわゆる裁きの座に着くべき時です。主イエスは、その時があたかも羊飼いが羊と山羊を左右に選り分けるように、その時にはそれぞれの業が明るみにされて、主に忠実に生きた者たちは永遠の命に与り、不義の者たちは永遠の罰を受ける事になるとおっしゃいました。
日本では死んだ後の世界のことを、いわゆる天国とか地獄とかいうわけですが。それは何かきらきら光あふれる所とか、真っ暗闇で鉄棒をもった鬼に苦しめられる所だろうかとかぼんやりと想像する人も多いかも知れません。しかし聖書は大変明確です。それは永遠の生命と永久に続く憎悪の的。前者は、主なる神さまとの永遠の交わりに入れられること。そして後者は神さまとの交わりが永久に絶たれてしまうことです。一言でいえば、神と共にある世界か、神なき世界かです。人間にとって本当の地獄というのは、
神との関係や交わりが断絶した状態のことなのです。それを聖書は罪といいます。
「光あるうちに光の中を歩め」との聖書のお言葉がありますように、日毎日毎の延長線上に来たるべき時があるということを覚え、日々励み務めたいと願います。

さて、5節~7節は、艱難の時代を経た成就に向けての宣言です。
しかしダニエルはこれらの主の幻を見せられても理解できず、「主よ、これらの終わりはどうなるのでしょうか」と尋ねます。それに対して天のお方は、「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている」と告げます。このところを口語訳聖書は「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい」と訳しています。それは、この先行き見えない時代にあって、神のご計画がはっきりとは分からない。否、分からなくなってしまうような状況にたとえなったとしても、「あなたの道を行きなさい」「神が与えてくださるあなたの人生をひたすら行くんだよ」といわれているんですね。私たちクリスチャンも主イエスの、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14章)という、その道に招かれています。

水曜日の聖書の学びの時にある方が、この今日の箇所を読まれてこうおっしゃいました。「自分の死も近いかな。体重も減り不安になり悩むことはあるけど、今の自分は幸いであることを感謝できる。ダニエルがこの先の結果を知りたいということに対して、神さまは何も答えられなかったことに共感できる。未来を不安に思わずに今を幸いにいれることが感謝」と、その方はおっしゃったんですね。これってすごい証だと思いませんか。
もう今日の聖書のメッセージをそのままにご自分の言葉で話してくださったように思います。この私に与えられた救いの道を、たとえそこに茨が生えていようが、砂利道であろうが、でこぼこ道だろうが、感謝をもってひたすら歩む。なぜならそれが神が共にいてくださる道だからです。今日からアドベント、クリスマスを待ち望んで行く時節に入りましたけれど、それがインマヌエル、主が共におられる「命の道」なんですね。

冒頭でもお話しましたが。ラブソナタの集会で韓国のオンヌリ教会の牧師がお話しくださったのですが。その中で、「あなたは誰」「あなたは何者ですか」と、大阪市内の人たちに次々とインタビューしていくという映像を見せてくださいました。その問いかけに戸惑う人、驚く人、分からないという人、と反応は様々でしたが結局誰もその問いかけに答えることができなかったのです。多くの人は普段そんなこと考えたりせず過ごしているし、若い人だと自分探しの旅を内に外にすることもあるでしょうが。その答えを見いだす人は少ないのではないでしょうか。
しかし、この「わたしは誰で、何者か」という人間にとって根本的な答えをもっている人と、もっていない人とでは、その生き方は全然違ってくるのですね。聖書にその答えがあります。
聖書の中で「人は何ものでしょう」と問いかけている箇所がいくつかございますが。
たとえば、ヨブ記7章17節以降で、その激しい試みの中でヨブはこう言っています。「人間とは何者なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらも、ほうっておいてはくださらない」。
ヨブはその非常な苦しみの中で、自分を知っておられる方の中に自分の存在を見いだしています。ダニエルもまた大変厳しい時代状況、恐れと悩みが絶えない中にあったと想像できますけれども。そういう「わたしは何ものか」、「我ら神の民とは如何なる存在なのか」という苦悩の中で、彼はなお「神は我救い」と主を賛美して、自らの道を歩み続けたのでありましょう。

今日の箇所で、ダニエルが先行きも見えず、主の啓示が理解できない中で、「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と、その日、その時がいつ来て、どうなるのかを知らせてくださるように尋ねてますが。それに対して天の使いは、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる」と答えます。
 私たちの信仰も何か心地の良く順調に事が進むような時よりも、むしろ逆境の中で問われ、試され、育まれていくものですね。御言葉に聞き、よりたのみ、信じて待ち望んでいく中で、主に「清くされ、白くされ、練られていく」のですね。
まさにヘブライ人への手紙12章にあるように「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。」
 このように、艱難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生むということを私たちは知っています。そうですね。主は愛する子を鍛錬し、清め、白くし、練られるのです。

そうして13節の最後には「希望の言葉」がこう綴られています。
「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がる(復活する)であろう。」
ここでも、世の先行きの見えない状況に思い悩み、振り回されず、ただ「あなたの道を行き、憩いに入りなさい」と招かれています。
今日何度も申しました。世の中の多くの人は、『自分は何もの』かという問いかけについて、答えることができない。又、知らずに過ごし、一生を終えているのです。
「わたしは誰であるのか」「わたしは何ものか」このことを知っている人は、いろんな試練や試みに遭っても、その根底のところで揺らぐことがありません。
私たちは主の愛と恵みによって「罪を贖われ、神の子」とされた者です。
その根底のことを日々確認し続ける。それがクリスチャンの道であります。そこに「わたしの道、命の道」があります。神の民、神の子とされ、今を生かされている喜びと感謝にあふれる者でありたいと願います。
今日聖書のメッセージ、「希望の言葉」を胸にまたここから今週のあゆみ、クリスマスに向かってそれぞれが「自分の道に従って」主に整えられてまいりましょう。
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恐れ悩みの中で

2016-11-20 14:26:37 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル7章15-28節

本日はダニエル書7章から御言葉を聞いていきたいと思います。
この箇所はダニエル書の黙示(録)といわれる部分にあたります。ダニエル書の1~6章までにおいては、ダニエルがバビロン王のネブカデネツアルの夢を幾度も解き明かしてきたわけですが。この7章からはダニエル自身が幻と夢を見るのです。しかし彼はその幻と夢について自分で解き明かすことができず、「大いに憂い、悩まされた」というのであります。
それは7章初めのところに「天の四方から風が起こって、大海を波立たせ、その海から四頭の大きな獣が現れる、というものでした。第一のものは獅子のようで、第二の獣は熊のようで、第三の獣は豹のようであった。さらに夜の幻で見たのは第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、他の獣と異なって、これには十本の角があって、その角を眺めていると、もう一本の小さな角が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった。その角には口もあって尊大なことを語っていた」とあります。

何だかこども頃に見たヒーローものの怪獣のようですが。注解書や略解などを読みますと、この4つの獣について、第一の獅子のような獣がバビロン王国とその王で、第二の熊のような獣がメディア王国とその王で、さらに第三の豹のような獣がペルシャ王国とその王で、そして4番目のものすごく、恐ろしく、非常に強い獣とは、ギリシャ王国を指し、特にその中心はシリヤで、10の角は歴代のシリヤの王を指し、「尊大な事を語る」口をもつ小さな角とは、アンティオコス4世であるという説です。
アンティオコス4世の王在位は前175~164年の9年で、それはユダヤ人にとって最悪の暴君でした。彼はギリシャ文化をシリヤばかりかユダヤにも導入し、ユダヤの人々にゼウスやディオニソスといったギリシャの神々を崇拝するように強要しました。前167年にはユダヤ人に対して徹底した宗教弾圧を開始しました。そして最もユダヤ人の人たちが大切にしていたエルサレム神殿内にギリシャの神の像を建てて拝ませ、ユダヤ人たちの伝統的な宗教行事を禁止し、ユダヤ人たちに対して律法への不服従を誓わせようとします。そして、その命令に従わない者たちを処刑したのです。これはイスラエル・ユダヤ民族がそれまでの歴史で体験した最大の宗教迫害だったのです。こうしたことがダニエルの幻と夢とに示されたということですね。そのような最も厳しい迫害の只中においてこのダニエル書は信仰をもって主に忠実に従って生きる人々を、神が励まし希望を与えて、勝利を与えてくださる、とのメッセージを伝えるために編纂されたのです。

本日読みました15節からは、そのダニエルの見た幻と夢を、一人の人が解き明かしていくという箇所ですが。この一人の人とは神に仕える天の使です。この天の使いによれば、「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。しかしいと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう」ということでありました。

そこでダニエルは「第四の獣について知りたい」と願ったとあります。
それは彼が見た幻の中でも、非常に恐ろしく、強く、不可解であったからです。
20節に「これは、他の角よりも大きく見えた」。さらに21節「見ていると、この角は聖者らと闘って勝った」とも言われています。それは、神を神としていく信仰を貫いたユダヤの人々の多くが迫害や殉教に遭うようになり、世の悪の権力者が勝利したかのような状況が象徴的に表されています。このことは実際には先ほど申しましたように、獣の十本の角の中からさらに出てきた一本の角すなわち、シリヤの王アンティオコス4世が。真の神を汚す尊大なことを語り、エルサレム神殿にまで偶像の神々を建てて、ユダヤ人たちに偶像礼拝を強要し、ユダヤの祭り事や彼らが神の民として大切に守ってきた律法を彼らから奪うために、実に凄まじい迫害を繰り返してユダヤ人たちを大いに悩まし苦しめていることが語られています。ダニエル自身も王室仕える身でありながらも、その信仰を貫いたがために、ライオン穴に投げ込まれ、あわやとう経験をしたのです。

そのダニエルは恐ろしい幻と夢を見て、大いに憂い、悩みます。
主に従う者がどうしてこのような災いや苦難に遭わなければならないのか。悪の力が勝つというのはなぜなんだろう。それはまさに暗たんたる嘆きの中からの問いであります。

しかし、一方でダニエルは希望ともいえる幻を与えられていました。
9節には「王座」が据えられ、「日の老いたる者」が「そこに座した」。さらに13節には「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることはない。」

私どもにとりましては、それはまさに主イエス・キリストの再臨を彷彿とさせる描写でありますが。繰り返し22節には「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行ない、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」とも語られています。
それは天の使いの解釈によれば26節、27節。「やがて裁きの座が開かれ、彼(第四の獣の王権のこと)は、その権威を奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる。天下の全王国の王権、権威、支配の力は、いと高き方の聖なる民に与えられ、その国はとこしえに続き、支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う」と、そのように示されたということであります。

『日の老いたる者』。それはこの歴史の初めからおられるお方のことです。そのお方こそが真に王座に就くに相応しいお方であり、すべてを裁く権威者であります。その裁き主がやがてまったき裁きを行ない、信仰者を迫害してきた暴君の権威は奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる。さらに、いと高き者の聖者ら、すなわち最期まで、死に至るまで神に忠実に生きようとした信仰者たちが、それらすべての王権、権威、力を神から与えられて、それはとこしえまでも続くという実に壮大なビジョンを、ダニエルは見せられるのですね。

これらのダニエルが見たもの、天の使いから語られた御言葉は、迫害の最も厳しい時代にあった信仰者たちにとって、にわかに受け入れること、又理解できることがらでは決してなかったでしょう。ダニエルでさえ「大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった」と述べられているとおりです。
人は得たいの知れない事、先行きに何が待ち受けているか分からない状況の中で恐れを抱き、不安になります。もしかすると今の時代の私たちも、そのような恐れや不安が増大しているのかも知れません。そんな捉えようのない恐れ悩みの中でダニエルは、それでも28節「しかし、わたしはその言葉を心に留めた」とあります。

もうじきクリスマス、次週はアドベント(待降節)に入りますけれども、その「御言葉を心に留めた」というのは、あの救い主イエスさまの誕生のエピソードにおいて幾度も語られております。
ルカ福音書で救い主がお生まれになったという喜びの知らせが最初に届いたのは、当時ユダヤの社会から疎外され、軽んじられていた羊飼いたちでした。その彼らに天の軍勢が現れ、彼らのために救い主が生まれたという喜びの知らせを天使から聞き、早速赤ん坊の救い主イエスさまをお祝いするために、仕事をおいて聖家族のもとを訪ねて、その喜びの知らせを人々に伝えるのであります。ところがその喜びの知らせを聞いたユダヤの人々は不思議に思った。疑問に思った、疑ったのですね。そこには、羊飼いなんぞにそんな救い主メシアな王がお生まれになったなどという知らせが届けられるものか、という偏見や思い込みが人々のうちにあったからではないでしょうか。
しかし、母マリアは違いました。「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とございます。母マリアは、羊飼いをとおして示された知らせ、メッセージに驚きつつも、それを「心に納め」、何度も何度もそのことを咀嚼し、反芻していったのですね。

まさにこの今日のダニエル書7章28節の「わたしはその言葉を心に留めた」というのは、そういうことであります。現実的には一体どこに救いの徴があるのかといえるような現状でした。目に見えるところでは先も見えず、ただ絶望するしかないような状況であったのです。けれども、すべてを裁かれる神はおられ、やがて必ずその時は訪れるのです。厳しい迫害の中で最期までその神を信じて忠実に生きる一人ひとりを神さまはご存じであり、まったき裁きを行ない、天の御国を与えてくださるのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)
それは今や、救い主イエス・キリストによって私たちの間に実現されていることであり、さらにキリストの再臨における完全な統治に向けて成し遂げられる。その事を、今を生きる私たちもそれぞれの困難な中で、待ち望む者であります。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブライ11:1)。その信仰がほんとに私たちにも問われている、否、益々問われる時代になってきているように思います。

今日の箇所は非常に難解なところで、それを解釈しようとしても様々な説があり、どれが正しいと人の知恵等では分かりませんが。代々の権力者による悪政と迫害が尽きず、ほんとうに人々が絶望する外ないような状況において見せられ記された、それがこの書であります。
翻って、昨今の政治の混迷、世界の国々、又日本が今後どのような様相を帯びてゆくのかまったく見当がつかない今の世界の状況。ニュースを見、有識者らの見解を聞いても同様に確かなことは分かりません。それはあたかもダニエルの幻のようです。
しかし、唯、確かなのは、そのような不確かな時がいつまでも続くのかという私どもの不安や困難の先には、必ず来たるべき時が訪れ、まったきお方の裁きがなされ、約束の「人の子」による完全な統治が実現される。その希望の約束の言葉を、私たちもダニエルのように「心に留め」ていきたいと切に願います。「主は生きておられます」。今週もここから主の約束を胸に抱き、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
 
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チャペルコンサートのお知らせ

2016-11-19 17:09:10 | イベント
日 時  12月11日(日) 開場 13:30
               開演 14:00(90分を予定)


出 演  ベル・フィリア (ハンドベルクワイア)

     ゆかり☆ゴスペル(萱原有香理さんゴスペルライブ)

     腹 話 術   (カンちゃん&栗谷加代子さん)


入場無料
(震災支援のための自由献金はございます)



主催・会場

   日本バプテスト大阪教会 大阪市天王寺区茶臼山町1番17号


尚、駐車場のスペースはございませんので公共交通機関でお越しください。
  JR天王寺駅中央口出口及び・地下鉄御堂筋線・谷町線各6番出口より北へ徒歩5分。

   
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真の神にのみ仕える

2016-11-13 15:11:06 | メッセージ
主日礼拝宣教 ダニエル3章  

先週の大きなニュースは米国の新大統領としてドナルド・トランプ氏が選出されたことでしょう。大方のマスメディアの予想とは異なる結果となりましたが。今も反対する人たちの抗議が続いているうようですが。いずれにしろ、アメリカ合衆国の人々の抱える諸問題が大きく深刻な事態であることの一端を垣間見せられた思いです。
アメリカはもともと移民の人々が多くおられ、二代目の大統領ジェファーソン氏も移民の一人であったそうですが。今も53という多くの州による合衆国として今日まで成り立っています。そこには多様性や寛容性、自由と民主主義が尊重されてきた長い建国からの歴史があります。そのことが今後も堅持されていくのかどうか、先行きは不透明でありますけれども、今世界から注目されています。日本にも大きな影響を及ぼすことになることが予想されてもいます。一国の長たる人がどのような判断をしていくのか、神の介入を祈らないではおれません。

さて、本日はダニエル書3章のネブカデネツァル王と3人のユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴのエピソードから、御言葉に聞いていきたいと思います。
イスラエルの国は壊滅的状況とされ、異教の地バビロンの捕囚とされた人々、そのダニエルら4人の物語を先週より読み始めました。
バビロンの王に召し上げられ養成を受けて王に仕えることとなった4人でしたが。ある時、ネブカドネツァル王の見た不思議な夢を、ダニエルは主なる神によって解き明かすことになります。そうしてダニエルは非常に高い位につくことになり、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴもバビロンの行政官に任命されます。ところが、ここは異教の地であります。王は巨大な金の像を造り、「もしひれ伏して拝まないなら、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのでありますから、大変なことです。

そうした事態の中で、カルデヤ人の役人たちは、ユダヤ人のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴら3人が、ネブカドネツァル王の造った金の像を拝まなかったという理由で、彼らを王に訴えます。
カルデヤ人らにとっては、捕囚の民である彼らが自分たちの行政官であることがうとましかったのかもしれません。それを聞いた王は怒りに燃え、彼ら3人を自分のもとに連れてこさせて、「わたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今・・・ひれ伏し、わたしが建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と彼らを詰問するのです。

それに対してシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません」と、ピシャリと言い放ちます。彼ら3人の態度は断固たるものでした。如何なる地上の権力者の前であろうとも、彼らの立ち処は変わりません。それは彼らの神への信仰の確信から来たものでした。

昔からどのような国であっても、為政者や権力者たちはその民に特定の崇拝の対象を強要することで、国をまとめようとしてきました。現代の社会においては、「国家経済」という名の偶像を拝することが奨励され、優先され、それがかえって市民を不安や生きにくいくさせているように思えてなりませんが。とにかく、この当時のバビロンは多神教でしたので、ネブカデネツァルのこのような政策も受け入れられていたのです。

けれども、ただ唯一の神のみを信じ仕えるユダヤ人の場合は異なっています。ネブカデネツァルが造った金の像にひれ伏すことは、その自分たちが信じ仕える神に背くことになるからです。又、十戒の1,2の戒めにあるとおり、神が最も忌み嫌われることが、偶像礼拝ですから、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の臣下ではありましたが、金の像を拝むことだけには従うことができませんでした。異教の地バビロンにおいて王に対しても敬意をもって忠実に仕えていたであろう彼らでしたが、「神でないものを神のように崇拝する。」そのことに対してはきっぱりと拒否する態度を堅持したのです。あの内村鑑三先生をはじめ、有名無名に関わらず、このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴたちのように権力に屈せずただ主なる神、自らの救いの神のみを拝していった信仰の先達のことを想うとき、彼らの姿勢から私たちも学び倣うことがあるように思えます。

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の前で、17節「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」と、その信仰の告白を言い表します。
さらに彼らはこうも言っています。18節「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
まあここをお読みになって、彼らが口にする「そうでなくとも」と言うのは。先の「必ず救ってくださる」と述べた言葉と矛盾しているように思われるかも知れません。「何だ、必ずと言っておきながら、そうでなくともというのは変だ」と。この新共同訳はあまりよい訳とはいえません。口語訳聖書では、ここは「たとえそうでなくても」となっています。
この、「たとえそうでなくても」という言葉には彼らの強い意志、「生ける主こそ神である」「このお方に従う」という決意がにじみ出ているように思えます。

私たちも「主が共におられるのだから」と信仰をもって踏み出します。けれども、神さまだけがほんとうに人の道の何たるかを知っておられるのですから、「たとえそうでなくとも」というのは、何かうまくいかなかった時の逃げ口上ではありまん。「たとえ自分の考えどおりでなかったとしても、主は知っておられる。主がすべてを導かれる。」そういう信仰の表明だということですね。このような主への信頼の言葉を私たちも日々口にする者でありたいと願うものであります。

ダニエルらの時代も、また彼らのエピソードが書物として編纂されていった時代も、ユダヤ人たちは権力と悪政による激しい迫害下におかれていました。そう状況のもと、不条理ともいえる死を遂げる信仰者が多かったのであります。そういう中で、「神は救えなかったのか」「神はどこにおられるのか」という不信へ誘う囁きが、信仰者に向けられていったことでしょう。
このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの「たとえそうでなくとも」と言う言葉の中に、彼らは真に畏るべきお方がおられることを知っていたことが分かります。マタイ福音書のイエスさまのお言葉に、「体は殺しても魂を殺すことのできない者を恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい」とあります。その真に畏るべきお方にどこまでも従い行く。この「たとえそうでなくとも」という言葉が、まことに壮絶な迫害にさらされていたユダヤの人々に、どんなにか大きな励まし、支えとなったことかと想像いたします。
この日本でも大きな迫害の歴史を経て、又戦後の民主主義や自由を保障する日本国憲法によって、今のこの信教の自由は認められるようになりましたけれども、それがどんなに貴重なことかと心底思います。一方で時を同じくして迫害にさらされている地もございます。「思想信条、信教の自由」が与えられ、守られるよう心から願うものです。

さて、バビロンのネブカドネツァルは彼らの3人の言葉を聞くや、「血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた」とあります。
王は兵士の中でも特に強い者に命じて彼ら3人を縛り上げ、燃え盛る炉の中に投げ込ませました。
するとどうでしょう、彼ら3人を引いていった屈強な男たちさえその吹き出る炎が焼き殺したというのです。この後のダニエル書6章も、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルは無事で、彼を告発者たちが逆にライオンに食べられてしまう、そんな出来事を伝えています。「復讐はわたしのなすことである」とは神さまのお言葉でありますが。ここには義人を苦しめる者は、その犠牲者のために用意した刑罰そのものを自ら被ることになるということが、伝えられているのであります。

こうして「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った」のでありますが。「間もなく・・王は驚きの色をみせ」とありますね。その「間もなく」の間に何が起こっていたのか。それについて、旧約聖書続編の「ダニエル書補遺アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」の中で、彼ら三人が若者は神をたたえ、主を賛美しつつ、炎の中を歩んでいた。そしてアベド・ネゴことユダヤ名のアザルヤは立ち止まり、火の中で、口を開いて祈ったとあり、その言葉が記されています。
 そこには、「あなたは、お造りになったすべてのものに対し正しくあられ、その御業はすべて真、あなたの道は直く、その裁きはすべて正しいのです」(4節)と祈られ、「あなたが主、唯一の神であり、全世界で栄光に輝く方であることを彼らに悟らせてください」(22節)との祈りが続きます。
そうしてまさにその祈りは聞かれるのであります。
続編には、その炉の中に天使が降り炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼しい風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった、と書かれていますが。

その時ネブカドネツァルは炉の中に、「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている」と言ったというのが25節ですね。王は燃え盛る炉の口に自ら近づき、3人の名とともに「いと高き神に仕える人々よ出て来なさい」と呼びかけ、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた」と、3人が祈ったように王が主を賛美するのです。

バビロンの多神教という宗教的地盤をもつ中で、その王がこのような信仰を言い表したことは驚きといえないでしょうか。先にも申しましたが、王は多神教という地盤を利用して国家的な一つの宗教を打ち立て、より強固で団結力のある一つの国家としてつくりあげようとしていました。その権力をもって優秀なユダヤ人たちをバビロン化させ、その信仰をも簡単に変えることができると高を括っていたのかも知れません。けれども、エルサレムの神殿の崩壊とバビロン捕囚下において、ユダヤの人々は深い悔い改めによりその信仰はより堅固なものとされていたのです。試練の中で揉まれながら主に向かう信仰は、天と地を創造し、生と死を司っておられる神によって導かれ守られるのです。

バビロンのネブカドネツァル王は、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神、すなわち真の神々の神、すべての王の主をたたえよ」と、すべてをおさめたもう生ける神を賛美してさらに言います。「彼ら3人が王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったから、神はこの僕たちに御使いを送って救われた。」
この王の言葉は、おなじく多神教のこの日本に住む、私たちキリスト者にチャレンジを与えているように私には思えます。仏教の影響が根強く、又地域や家族とのかかわりの中で異教的な行事や慣習も多くあり、私たちはそういう中でいろんな信仰の闘いにさらされます。そこで闘いが起きないのはむしろ信仰の危機といえるのかも知れません。
どこかでいいかげんに妥協し、いつしかそれが習慣化してもはや自分の中に葛藤さえ生じなくなった時、そこに果たして救い主への感謝、それどころか主とのいのちの交わりが保たれているといえるのか。主の御前にあっての自己吟味が必要かも知れません。
私たちは信仰の闘いが起こることを通して、自分と神さまとの関係、又、何を第一としていくかが問われます。それは又、より深く神さまの栄光を仰ぐための実は機会でもあることを覚えたいものです。

もう一つ、このネドカドネツァルも見た四人目の者については、先に申しましたように、
神に仕える天使だとも言われていますが。他に、主に忠誠を尽くして最期を遂げた殉教者たちを表している、とも読めなくはありません。
しかし、ここで4人目の者についてネブカドネツァルが、「神の子のような姿をしている者」と言ったように、それは、燃え盛る炉で火に囲まれるような状況に投げ込まれる中にも、「わたしはあなたを決して見捨てない」といって、共にいて守り、希望を得させ、賛美をささげさせてくださる、インマヌエルの主であられます。
真に神に仕え従い行く者の道がどのように厳しく、闇のような中にあっても、主は必ず共にいてくださる。そのことを今日は三人の若者の主への信頼と、「たとえそうでなくとも」という信仰の確信の御言葉から聞いてまいりました。

最後に、先週の水曜日にお二人の方が教会を訪ねてこられました。お一人はキリスト教について教えてほしい、という内容で、1時間くらい朝の祈祷会前にその方とお話する機会がありました。又、夕方の祈祷会に10年前に1ヶ月でバプテスマ受けたが、その後教会から離れて家が仏教のためにキリスト教の信仰と仏教の信仰の違いが分からなくなり、悩んでいるということで教会を訪ねてこられたということです。祈祷会の祈りの時に御自身からそのことを勇気をもって打ち明けてくださり、共に祈り合いました。
 ほんとうに、キリスト教について知りたいという方や、クリスチャンになられてからもいろんな問題で悩み苦しんでおられるかたがたがまだまだ多く地域におられるということを改めて実感した二つの出会いでした。
 この大阪教会に連なるわたしたちそれぞれに託された務め、働きがあります。それは主が今も生きてお働きくださっていることが、証しされていく主のご計画と栄光のためにそれぞれが用いられている、ということです。そのためにさらに主に祈り求めつつ、今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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神に仕える者の決心

2016-11-06 15:10:57 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル書1章1-21節 

11月に入り米国の大統領選、お隣りの韓国大統領の問題、そして日本では、なんでそんなに慌てなければならないのか分かりませんが、TPP法案が強行採決によって国民不在のなかで決議されています。便利さや安いコストだけを引き替えに食の安全やいのちが危機にさらされるようなことはほんとうに避けるべく、じっくりと慎重に審議していただきたいと願うものであります。

この11月は4週に亘りダニエル書から御言葉を聞いていきます。
ダニエル書は先週まで読んでまいりましたエゼキエル書と重なる紀元前586年~539年のバビロン捕囚時代、さらにその後のキュロス王による捕囚解放によるエルサレム帰還の時代を背景としています。異教の地で捕囚として暮らすイスラエルの人々。
このダニエル書からは、主なる神を信じる彼らが激しい宗教的弾圧と迫害によって苦しめられていた歴史的背景が読みとれます。
これらのエピソードと語られた預言の言葉は、バビロン捕囚の下におかれた人々のみならず、解放されてエルサレムに帰った後も、大国の侵略や激しい迫害にさらされるユダヤの人々にとっても、神の民としての歩みを確かなものとし、励ましを与える書であったのです。
現代の日本において憲法で「信教の自由」は保障されており、私たちの信仰生活も自由に行なうことができるのでありますが。比率からいえば全人口の1%にも満たないキリスト者として、どのような心構えをもって信仰を貫き、いのちの基としていくのか。そういうメッセージをこのダニエル書から聞き取っていければと願っております。
本日は①神の民としての危機と試練 ②神の民として生きる者に与えられた賜物・知恵 ③神に仕える者の決心 それぞれテーマのもと御言葉に聞いていきたいと思います。

①神の民としての危機と試練
当時のイスラエルの人々は、バビロンの侵略によって神殿もろとも都は破壊され、バビロンの国策のもとでユダの指導者をはじめ、貴族や技術者、宗教的などが捕囚とされました。又、ユダの多くの一般は壊滅したユダに残されたのです。そういう事態から
、「イスラエルの民はもはや神の選ばれた民ではなく、神から契約を破棄されたものと考える者がでてきました。さらに彼らの多くが「自分たちの先祖の神、主なる神が唯一絶対的神ではなく、異教の神々よりも劣っている」などと考えはじめていたのです。
 信仰の父祖アブラハムから始まって、エジプトの奴隷の状態から導き出され、約束のカナンの地においてダビデ王による建国、ソロモン王の時代の神殿建設と、神の民としての歩みを導かれてきたイスラエルの民でした。しかし神の言葉と戒めが軽んじられた結果として、イスラエルは南北に分断され、さらに双方は大国に滅ぼされてしまったのです。そうしてそれら神の民としてのアイデンティティーが崩壊しそうな状況の中で、ダニエルたちの出来事が起こされたということです。
捕囚の地において、バビロンの王は3節にあるように、侍従長に命じて「イスラエル人の王族と貴族の中から、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れてこさせ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた」とあります。その中に含まれていたダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ。
バビロンの王は、彼らが自分に仕えるにふさわしい者となるようにと、かの地の言語、文書を学ばせます。同時に、バビロンの文化や慣習に従った宮廷の肉類と酒を毎日与えるように定めたというのですね。「定められた」ということですから、それはいわば強要であります。さらに彼らを受け持った侍従長は、4人の名前をそれぞれ、ベルテシャツアル、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴと変えて呼んだのです。まあどこの国もたいがいそうでしょうが、名前には意味がこめられているものです。
ダニエルという名は「神は私の裁き主」という意味ですし、ハナンヤは「主は憐れみ深い」、ミシャエルは「誰が神か」、アザルヤは「主はわが助け」という神の民であればこその意味をもっていたのです。
ところが、その4人の名前がみな、バビロン式の名前に変えさせられたのです。それは、彼らの存在や尊厳を奪うことでした。ダニエルのベルテシャツアルのベルは異教の偶像の名であり、「ベルよ、彼の命を守りたまえ」という意味です。他の3人の名前も、バビロンの偶像の神々にちなんだ意味があったということで、それはまさにこの4人の神の民としての存在意義(アイデンティティー)が否定されるというとてつもない屈辱を彼らは経験するのです。日本もかつて近隣諸国の方々に対しての「同化政策」の一つとして、名前を改名させて日本名をなのらせるという強要した過った歴史の汚点があるわけですけれども。
このダニエルたちにとっては、それはまさに神の民として生きるうえでの大きな危機であり、試練の時となったのです。ところがどっこい、その試練こそが、彼らを神の民たらしめる機会となっていくのです。彼らの、「わたしが私であるための闘い」「私は神の民である」という闘いが、ここから始められていくのであります。

まず、「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心」します。
「郷に入れば郷に従え」というような諺がありますけれども。ダニエルにはどうしてもゆずることのできない理由がありました。それは、この宮廷の食卓のごちそうの中には、偶像にささげられた食べ物も混じっていたのです。レビ記11章に規定があるように、ヘブライ人(イスラエルの民)には、食べることのできるものと、食べることのできないものが定められているからです。
たとえば、肉は完全に血を抜いて火をしっかり通さなければならなかったのですが、その食卓に出されるのは、血が滴るぐらいレアな肉であり、しかも偶像の神々にささげられてきたものとなれば、なおさらのことそれを食べることは主の御前にあって身を汚すことを意味していたのです。

ダニエルらは決断を迫られていました。育ち盛りの彼らはやっぱり肉を食べたかっと思いますね。野心が芽生える年齢です。命じられるとおりにすれば、自分たちの身分は捕囚ではなく、かの地においての将来も保証され、出世の機会を得ることになるでしょう。

けれども、それを受け入れていくということは、自らの、神の民としてのアイデンティティーを失うことになる。そればかりか、命令を拒否するなら、命を危険にさらすことにさえなりかねない。

②神の民として生きる者に与えられる神の知恵
そういう中、少年たちの多くはいわれるままに従うのですが、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4人は重大な決心をします。それが「神の御前に自分を汚すまい」という決心でありました。そうして彼らは一切の肉類と酒を飲食することを拒むのであります。正直すごいなあと思います。現代の豊かさの中で、また信仰の面でも主イエスにあるきよめと自由の恵みを享受して、食べる物は何でも食べてきた私たちからすれば、彼らはほんとうにすごい決断をしたもんだなあと思うものでありますが。

そのようにダニエルら4人は力をもつ者のいいなりになって身を汚して、自分の出世や栄誉を得ることで、神の民としての尊厳や存在意義を失ってはいけないと、神の御前で誠実に生きる道を選び取ります。

ダニエルはそのけっしんしたことをすぐに実行にうつしました。彼は「自分を汚すようなことはさせないでほしい」と侍従長に願い出たのです。
それを聞いて大変困惑し、ダニエルに「同じ年頃の少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか」と、まあ侍従長からすれば当然ともいえる言葉が返ってきます。

ここで、ダニエルにも侍従長の立場を考えるという人の思いもきっとあったと思うのですが。しかし、そこでダニエルは妥協しません。では、どうしたか。そこが今日の聖書の大きな一つのポイントだといえますが。ダニエルはここで、侍従長が自分たち4人のために定めたに世話係にある提案をいたします。
それは「10日の間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせて試してください」「その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考え通りにしてください。」
 そうしたところ、その世話役はこのダニエルの願いを聞き入れたというのです。そこに「神の御計らいがあった」からです。人にはできないが、神にはできるのです。
そうして10日間試した結果、「彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった」というのですね。この「どの少年よりも」というのは、いわれるまま妥協した少年たちのことでしょうね。肉をしっかり食べていたいたその人たちよりも、ダニエルら4人は顔色も健康状態も良かった。それは単に肉体的にがっちりとなったということでなく、魂の健やかさがあった、生気が満ちあふれていた、ということではないでしょうか。

17節「この4人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた」とございます。
又、20節「王は知恵と理解力を要する事柄があれば彼らに意見を求めたが、彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れていたと」とございます。
まあ古今東西。権力者もその地位にのぼりつめますと、神に祈るのであればよいのですが。いろいろと伺いを立てたくなる。助言を周りの人にではなく、あやしげな口寄せや占師に求めるということがあるようで、かの大バビロニア帝国のネブカドネツアル王にも、おかかえの祈祷師や占師がいて、それが国策に大きな影響を及ぼしていたということですね。

しかしここで問題はダニエルら4人が、怪しげなえたいのしれない占師や祈祷師とは異なり、「神から恵まれ、賜物を与っていた」ということです。箴言に「主(神)を畏れることは知恵の初め」(1章7節)とございますように、心から神を畏れ敬うダニエルたちをこのような形でお用いになろうとしたのですね。
神に信頼して生きる者に、いうならば世の知恵でなく、神の知恵が備えられるのです。
それはあらゆる危機や誘惑から救い出してくださる神さま恵みの賜物であります。

私たちもこのダニエルたちほどにはないとしても、日本という異教の地ともいえるこの社会、また神をも畏れないような世において、様々な問題や困難に突き当たることもあるでしょう。家の宗教、親族の信仰観、中には様々な事情から主日礼拝に集うことの困難をおぼえていらっしゃる方もおられるかも知れません。
それは、このダニエルたちのように「主に信頼して生きるその信仰が試され、練られている時」ともいえるでしょう。そこで、「主こそ、私の救い」と、主から受けた新しいいのちに自分の存在意義を見いだし続けていくとき、主は天来の知恵と御計らいをお与え下さるのですね。ダニエルたちのように、信仰に立ってそれを表明し、一歩を踏み出せる私たちでありたいと願います。

③神に仕える者の決心
最後に、今日は「神に仕える者の決心」という宣教題をつけました。
5節で、バビロンの王は、自分に仕えさせる目的のためにダニエルら4名に養成したと記されています。王はその権力のゆえに自分を神のように崇めさせ服従させようとしたのです。ダニエルはそれが、偶像礼拝にも等しいこと、また自らのアイデンティティー(存在意義)を否定されることであると、敏感に察知しました。
異邦人の侍従長は「わたしは王様が恐ろしい」と言っていますが。ダニエルは真に恐れるべきお方を知っていました。
ダニエルの名前は「神はわたしの裁き主」です。彼はまさにその名のとおり、自分の裁くお方がだれであるのかを知り、主を畏れて生きる道を自ら選び取ったのです。

私たちはどうでしょうか。恐れなくてもいいものを恐れ、ほんとうに畏れなければならないお方を二の次にしていないか。その主なるお方にまっすぐに信頼して歩んでいるだろうか。又、わたしは生き方の基準をどこにおいているのだろうか。このダニエルたち4人の若者から問われているように思います。

私たちにとりましてのいのちの源、存在意義、それは主イエス・キリストにある御救いです。自ら十字架におかかりになるほどに、私を愛して、新しい救いのいのちに入れて下さったこのお方によって、神の子、神の民として迎えられた。その大いなる恵みに生かされて、私たちもまた、ダニエルたちのように血色よい輝くそれぞれの顔にされてまいりましょう。たとえ困難のなかにありましても、主に信頼をおいて今週もここから歩み出してまいりましょう。
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神我らのうちに住まう

2016-10-30 17:36:02 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル43:1~9 

先週の23日はYさんが天に召されて丁度1年となるということで、奥様はじめご長男様ご夫妻やヘルパーであった方もともに主に礼拝をささげるときがあたえられほんとうに感謝でした。
又水曜日の午前中の祈祷会には、福井達雨先生の著書「子どもの笑顔を消さないで」など多数、障がい者福祉の先駆けともいえる活動を半世紀以上続けて来られた止揚学園うおり、職員の方々がご来訪くださり、止揚学園の近況報告とお証を聞く貴重な機会となりました。いつもはカレンダー等をお持ちになって活動のアピールをなさるのですが今回はそうではなく、「相模原の障がい者施設殺傷事件」をうけて、入所者と施設当事者の立場からお伝えできればという目的を持ってご来訪くださったとのことでした。「あの事件が起こってから、よく、防犯対策は?ということが言われるようになってきた。しかし、問題はそこにありのではない。むしろこれまで社会が弱い立場におかれた人とともに歩むことが出来ていなかったから、そのような社会が開かれてこなかったからこのような事件が起こったのではないでしょうか」とおっしゃっていました。ちなみに、止揚学園の福井生新園長も「相模原事件を問う」という新聞のコラムにこういう記事を寄せられています。一部のみご紹介します。
「障害者総合支援法や障害者差別解消法ができるなど、障がいのある人を取り巻く状況は表面的には良くなったようだが、大切なものに向き合ってこず、何かを忘れてきたためにこんな事件が生じたのでないか。新たな法律の制定によって、障がいのある人の中でも選別が起きている。障がいの軽い人の就職などが進む一方で、重度の人たちは法律が求めるような結果に行き着けない。そういう状況の中で、「重度障害者は役に立たない」「いない方が国のため」という考えが生まれている気がする。」

また新しく職員となられたもう一人の方は、「止揚学園は出来ないことがダメと評価される場ではなく、できないことをみんなで担い合い、助け合う場です。職員になる前は、もっと何かできることが問われるのかと思っていましたが、それよりも、障がいを持つ仲間の人と真剣に向き合う私自身が問われることが多い。止揚学園のご飯はおいしい。ここはほんとうに神の家族です」とおっしゃっていました。この方は神学研究科大学院を出られたのでありますが、ある日止揚学園の職員募集の公告を見られて、見学に行かれそこで、止揚学園の暖かい心、生活をされておられる方々と出会い、頭で得た知識としての学問でなく、聖書の言葉が具体的に実践されている止揚学園で働きたいと決意されたということでした。優生思想という言葉がまかり通る現代にあって、人の命に優劣などありはしないというメッツセージを主イエスの福音を基とした止揚学園の取り組みからまたお聞きすることができました。

さて、今日のエゼキエル書のお話ですが。ユダの民がバビロンの捕囚となってから25年、エルサレムの都と神殿が倒壊してから14年目。主なる神は幻で、エゼキエルをエルサレムの都に伴われ、その高い山から「新しい神殿の幻」をお見せになります。
8章のところで都に残されたユダの人々が偶像礼拝と不義に満ちた生活に堕落している有様をエゼキエルが幻によって見せられる箇所を礼拝で読みましたが。その10章に、遂には「主の栄光が神殿を去る」という恐ろしい幻を彼は見ることとなります。けれどもそれがすべての終わりではなく、主はエゼキエルに希望の言葉をも託されるのです。
それはやがて捕囚となった人々は都エルサレムに帰ってきて、その地の忌まわしいものは取り除かれる。そうして36章26節に、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行なわせる」ございます。
神殿と倒壊した都は廃墟となりますが、14年目にしてエゼキエルは新しい神殿の中に主の栄光が入り、再びかつてのように主の栄光が神殿を満たしている。そのような荘厳な幻を見せられるのであります。

その時エゼキエルは神殿の中からこう語りかける声を聞きます。
7節「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。」
それは再びイスラエルが神の民とされ「神が彼らの間にとこしえに住む」という宣言であります。彼らは囚われの地において、あたかも銀が火によって精錬されるように、その信仰を練られました。それはまさにこの神さまの宣言が現実のものとして実現されるため。彼らが約束の地に帰ってきて、彼らが神の民となり、神が彼らの神となられるというその預言が現実のものとなるためであったのです。

さてここに、「主の栄光が神殿の中に入り、神殿を満たした」とあります。その「主の栄光。」であります。それはエゼキエル1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。」今日の2節には「大地はその栄光で輝いた」とございます。
人は神を見ることはできませんが、詩編19編に「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」とうたわれていますように、ほんとうに今日はすばらしい秋晴れでありますけれども、その自然界を創造され、すべての源となる神さまの栄光の一端を仰ぎ見る思いがいたしますが。エゼキエルはその主の栄光をまざまざと見せられたとき、3節「わたしはひれ伏した」というように、唯々主なる神を拝するばかりでありました。

「大地は神の栄光で輝いた」との御言葉は、崩壊した大地の再生、甦りを物語っています。罪の世界によって崩壊した大地、自然界、国土、人、すべて、神によって創られた生きとし生けるものと神さまとの関係の回復。それが神の栄光の顕現、顕れなのです。
翻って現代の大気汚染や地球温暖化。政治の迷走、人の命よりも経済や利益をあげることが優先されていくような今日であります。地に揺さぶられ、光を失っていくような今日にあって、創世記1章31節には、「天地万物を創造された神は、お造りになったすべてのものをご覧になって、見よ、それは極めて良かった」と感嘆された。神さまはその世界が取り戻されていくことをどんなに願っておられることでしょうか。

その神の御心に逆らい、招きを拒み続けた結果として北イスラエルと南ユダ王国の倒壊、他国による侵略と捕囚、都エルサレムの神殿崩壊でした。
捕囚として連れられた人たち、又、エルサレムに生き残った人たちは、先週読んだエゼキエルの幻のように、「我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる」(37:11)
と、ただ自分たちの行く末に絶望する外ありませんでした。
そのような絶望的な思いの中で彼らは深い悔い改めと神の民としての存在意義を思い起こしていったとき、それは具体的には旧約聖書の編纂という形でなされたわけですが。
神さまはエゼキエルに幻をとおして、神の栄光が到来し、「大地はその栄光で輝いた。」そういう神による一方的ないのちの関係回復が示されるのです。
それは神と人、人と人、さらには分断された人たちが共に生きる世界の回復。神の栄光が大地に輝くとはそういう姿であります。

そしてその大地を満たした神の栄光が、5節「神殿の中に入り、見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。」主が幻で示したもう新しい神殿は、単に目に見える建造物ではありません。主がご臨在され、その栄光が満ちている、それが新しい神殿です。いくら立派で荘厳な建物であっても、そこに生ける主のご臨在がなければ、ただの建物に過ぎません。ですから、わたしたちは本物の礼拝に与るためには、礼拝に主がご臨在くださるように祈り求めて集わないといけません。そうして、ほんとの礼拝をさせてください、わたしに御言葉をくださいと求めて集いますと、そういう御心にかなう祈りは即答えられますよね。神を礼拝する礼拝者がいないのであれば、ここで示されている「新しい神殿」とはいえません。逆に、建物は古く小さくても、また場所がら不便なところであっても、神さまを心から畏れ敬い礼拝している集まりの中に、主は生き生きとお働きになられ、その礼拝者のうちに主がともにおられることが証されていきます。主は建物や場所の条件によるのではなく、礼拝者一人ひとりが霊と真理をもって礼拝するその中に、その栄光を現し、聖霊で満たし、ほんとうにわたしたちを生きるものとしてくださるのです。


過ぐる25日は、Hさんが天に召されて1年という日でありました。その翌日の水曜日の夕方でしたけれども、生前彼の介護ヘルパーをされていたお二人の方が、教会を訪ねてこられ、「Hさんが逝去して丁度1年になるのでお参りをさせて頂きにきました」ということでした。そこですぐに記念室にご案内したのですが。お二人は、赤しゃれた服を着たHさんのお写真に、「よう、久しぶり」と語りかけ、黙祷なさっていました。Hさんもきっとお二人がおぼえて来て下さったことをどんなに喜んでおられることか、と思いました。1年前のあの日、そのお一人の方が教会に訪ね、Hさんの突然の死を伝えてくださったのですが。もしその知らせがなければ、彼は一人寂しく仏教式で荼毘にふされていたことでしょう。生前Hさんがほとんど教会を休まれることはなく、礼拝と祈祷会にいらしていたこと。又、ヘルパーさんに自分は大阪教会に行ってクリスチャンとなり、礼拝を中心とした信仰生活を送っているということを常日頃からあかしされていたことで、ご本人の一番願っていたかたちで「天国へ旅立つ告別式」を行なうことができました。このようにご本人が一番願われていたであろうかたちで主の御もとにお送りすることができましたのは、ほんとうにわたしにとりまして神さまの御業をお証させて頂く貴重な体験となりました。又、彼を通してSさんが信仰の決意を主の御前で表明なさったことも神さまのご慈愛の顕れであると思います。まあそのように如何に日常において主と共にあり、その幸いをあかしする日々をおくることが、自分や周りの人たちの救いにつながっていくか。そのことを主はHさんを通してわたしたちに示してくださいました。

さて、今回の聖書教育の成人青年科の話し合いのポイントで、「主の栄光は神殿の中に納まりきれるものではありません。それにもかかわらず、神さまは神殿の存在にこだわります。確かに神さまとの交わりは主日礼拝の時間と場所に限定されませんが、それでもわたしたちが主の日の礼拝にこだわる理由について、また礼拝を中心とする生き方について考えてみましょう」という問いかけがありました。このことに、わたしはどう答えていけるでしょうか。
ヨハネ4章23節以降にこうあります。
「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
それは律法、そうあらねばならないという義務感からなされるものではもはやありません。救いの感謝と、神共にいますその喜びによって、自ら進んで捧げられる真の礼拝であります。それは私どもにとりましては主イエス・キリストによってもたらされました。
主イエスの十字架の愛によって頑なな石の心が打ち砕かれ、やわらかな肉の心が与えられた。その計りがたい恵みによって、今日もわたしたちはこうしてともに教会に集い、霊と真理をもって礼拝をお捧げしているのです。

今日はエゼキエル43章から、「神我らのうちに住まう」という題で、お話をさせていただきました。47章には、この新しい神殿の敷居の下から水が湧き上がり、流れ、泳ぐほどに溢れる川となって、きよめ、生きものを生き返らせ実らせるとあります。
わたしたちは、まず主の日の礼拝によって主の栄光を拝し、そこで主の愛といつくしみを心新たに思い起こし、神殿から溢れ流れ出る生ける命の水に活き活きと泳ぐように、主の愛に満たされて、 今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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神の霊を受けて

2016-10-23 15:00:25 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル37:1~14  

この箇所は、バビロンの捕囚となっていた預言者エゼキエルが「主の霊によって」体験したこととして語られています。エゼキエルは「主の霊に連れ出され、谷の真ん中に降ろされるのでありますが。そこは骨でいっぱいであった」とあります。さらに「谷の上に甚だしく枯れていた骨」が放置されている有様を目にします。
今のこの時期はちょうどハロウィンということで、そこかしこにガイコツの絵や人形とか、わざわざ枯れはてたような服装などした人がその辺を歩いているようですが。まああんまり気持ちの良いものではありません。あれはよく誤解されるのですが、キリスト教とは全く関係がありません。古代ケルトで行なわれた収穫感謝の祝いと死者の祭り、いわばお盆のような風習が、現代の商業的イベントとして行なわれているだけで、喜ぶのは神さまではなく、お菓子の会社です。
この枯れた骨とは11節に「これらはイスラエルの全家である」と語られます。それはかつてエルサレムの神殿崩壊時に紛争の中で殺されたイスラエルの人のずっと放置されていた骨とも考えられでしょう。あるいは又、バビロンという捕囚の地に連行され、その異教の地で亡くなったイスラエルの人びとの骨であったとも考えることができます。しかしそれだけではなく、当時捕囚の地にあって苦悩し絶望する外なかったイスラエルの民。生きてはいるけれど、望みはうせ、滅びるばかりだと言う彼らも又、神さまの眼には枯れはてた骨のようであったのでありましょう。北イスラエル、さらに南ユダも滅ぼされ、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」という彼らに対して、生ける主なる神さまは、彼らのいのちの回復と民の復興を約束なさるのであります。一見するとおどろおどろしいこの情景ですが。しかしここには北イスラエルと南ユダの民が、生きておられる真の主、神を知り、その神との交わりの回復を得て、一本の木のように一つとされ復興していくその良き知らせ、福音が語られているのですね。

さて、捕囚の民をはじめエルサレムに残された民は、そのあまりに悲惨な状況ゆえに
生きてはいましたが、その有様は生きたしかばねのような状態。かつて日本の敗戦後がそのようであったのではないでしょうか。
主なる神は、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」とお尋ねになります。エゼキエルはそれに対して、「いや、それは無理でしょう。あり得ません」とは言わず、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えます。人は眼に見えるところで判断しますが、「神さまは人の思いを遙かに超えて働かれる方である。」この信仰がエゼキエルに、そう返答させたのでありましょう。
そこで主はエゼキエルに対して、そういう厳しい現実の只中にあった囚われの民に向かって、預言し、御言葉を語るようにお命じになります。
それが、4節以降の「主の言葉を聞け。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。・・・そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」とのお言葉でした。
エゼキエルは主が命じられたとおり預言しますと、7節「音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。(何だか命の誕生のようなすごい情景にも思えるのですが)しかし、その中に霊はなかった」というのです。
どういうことでしょう。「枯れた骨」が音をたててあわさり動き、それらの上に肉や皮膚が覆われても、そこに「霊」がなかった。それはどこか創世記の天地創造のくだりで神さまが人をいのちある者としてお造りになられた時の情景と重なって見えてまいります。創世記2章7節「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」この神の息は、神の霊の事であります。
つまり、いくら骨に筋や肉が生じ動くようになったとしても、それがたとえどんなに見栄えよく立派でも、そこに神の霊が吹き入れられてないのなら、生きているいのちとはいえない、ということであります。
この神の息、「霊」が吹き入れられるということは、すなわち神との交わりのうちに生きる者とされる、ということであります。それが本来の人が生きている状態であるということですね。しかし残念なことに、人はその罪の性質から神の愛に反して、神との交わりのうちに生きる楽園を追われ、世において生きるための様々な労苦を負う者となるのでありますけれども。
この当時のイスラエルの人々もまた、神に背き続けた結果といえる悲惨な状況の中で、「我々の望みはうせ、我々は滅びる」という失望感に囚われさいなまれていた。それはもはや未来を思い描くことのできない状態であります。
イザヤ書49章に次のような御言葉が記されております。
14節「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れた、と。」
「神さまは自分たち罪人をお見捨てになられた。神さまはは去って行かれたのだ。」そのような喪失感が人々の心を支配していたのです。その姿はあたかもエデンの園から追われた初めの人のようであります。
ここでそういう人たちを前に、エゼキエルがいくら「主の御言葉」を預言しても、萎えた人々の心にそれは届き難い現実があったのでしょう。
そこで主は、エゼキエルにお命じになります。
「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
そうしたところが、10節「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」というのです。主の霊によってしかばね同然のような者が、「生き返って、自分の足で立った。」その姿はとても主体的ですね。何ものかに依存するのでなく、力におもねるのでもなく、自分の足で立つ。神の霊が吹き入れられる人は、本当に生きる力を取り戻していくんですね。神さまとの関係の中で自ら決断し、行動していく力が取り戻されていくのです。その人はもはや神ではない世のものを神のように崇拝しません。世のあらゆる囚われから自由になり解放されていきます。生ける神さまとの交わりを回復した者は、どんな時にお感謝があり、何ものにも奪うことのできない喜びが溢れてきます。「主の霊のあるところには自由がある」と聖書にもあるとおりです。そのことを日常の中で体験するようになります。中にはどうしたらそのように生きられるのか、とお思いになる方もおられるかも知れませんが。それは先ほどから申しあげておりますように、神さまの霊が人のうちに吹き込まれることによって、神さまとの関係が回復されているならそのように生きることができるのです。

この主の霊によって新しいいのちに与っているクリスチャンにとりましても、日ごとに主の霊に満たして頂いて「主よ、あなたの御業を顕わしてください」と、主に期待をもて祈ることができる、それは何にも代えがたい大きな恵みではないでしょうか。そしてさらに、神の霊、聖霊によって創られた主のからだなる教会にあってこうして礼拝し、祈り合うことを通して、主は人知では計りがたい御業を顕わしてくださいます。個人的にはそのような証しがあり、又しょっちゅう伺いもするのですが。より多くの方と分かち合うことがまだできていないので、そういう証の機会がもっと増えるとよいなと願っているのですが。
そういうことで、私たちは共に「主よ、あなたの御業を求めます」と祈り求めていくことによって、主御自身がその栄光を顕わしてくださいます。主の御業を目の当たりに体験した人は、生ける神さまの証しが満ちあふれます。まさに今日の御言葉のように、「わたしが主であることを知るようになる」(6節、14節)のです。
先ほど読んだイザヤ書49章14節の「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れた」というイスラエルの民の失望感と嘆きの言葉に対して、主なる神さまは、その後の15節にこのようにお答えになっています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」
これがわたしたちの主なる神さまなのです。
主は、わたしたちが世の罪の力に支配され、滅んでいく事を決して望んでおられません。たとえ私たちが見放され、忘れられたように考え、疲れ弱りはてて、自分が枯れた骨のように思えてしまうそんな時があったとしても、決して主はあきらめない。お見捨てにならない。「あなたと一緒に十字架のどん底までいってあなたを救う。」これが聖書の根底に流れる神の愛のメッセージであります。その愛の真実をお示しになるためにイエス・キリストはこの地上においでくださいました。今も変わることなく、すべての人びとが、そして今日ここにおられるおひとりお一人が神の霊によって新しく生まれるようにと、招いてくださっています。
聖霊は、私たち一人ひとりが日々新しくされ、自分の足で立ってあゆむ力を備えてくださいます。さらに、教会の交わりに聖霊の風を起こして下さり、ひとり一人を生かし、共にあって「主は生きておられる」との証しを立てさせてくださいます。この主の愛を受け取り、主の証に満ち溢れる、祈り合う主の群れへとさらに導かれてまいりましょう。
 
最後になりますが。先週礼拝に東熊本教会のNさんが出席され、ご本人より直接ご証しをお聞きすることができました。ロビーの週報ボックスの上に掲示してありますとおり、その被害の大きさたるや、教会の方々の悲鳴が聞こえてきそうでありましたが。Nさん曰く、「そういう礼拝堂の壁も無残に崩れ落ちる被害に遭う中で、全国のバプテスト連盟の諸教会、大阪教会からも震災支援の募金をお寄せ頂いたおかげで、礼拝堂の崩れ落ちた壁を修復できました」と、ご丁寧なお礼の言葉を頂きました。わたしはその言葉を伺いながら、逆にわたしの方が励ましをいただいた思いでした。実は数日前に南九州地方連合を窓口とした支援金によって熊本の3教会の修復が叶ったことで今月いっぱいでひとまず終了という報告を受け、わたし自身どこか一段落ついたというような思いがあったのです。けれどもNさんの報告をお聞きしながら、当事者と言いますか、実際に被災された方々にとりましては、電気が通り建物が修復されてきてはいますけれども、未だ骨に筋が生じ、肉付けされている段階であり、そこにはいのちの息吹が取り戻されいく事がどんなに待望されていることかと想像いたしました。それは又、先日の鳥取地震による被災者、東日本大震災と原発事故の被災者の方もそうでありましょう。わたしたちは大きな災害、そして被災者の現実を前にして何とも無力です。けれども今日のところに「カタカタと音をたて、その無力な骨と骨が近づいた」ように、私たちも近づき合って、主の御言葉に肉づけされた関わりを築いていきたいですね。全国の連盟、又関西地方の連合諸教会との繋がりを活かして時には出かけ、送り出す。そうやって主の御言葉が受肉していく中に、必ず神さまはいのちの息を吹き込んで下さいます。
「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらのものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」エゼキエルが命じられたように預言すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」アーメン。
私たちも生ける神さまの霊に満たされて、今週もここから遣わされてまいりましょう。
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立ち帰って生きる喜び

2016-10-16 15:16:08 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル33:1-11 


「神のパッション」
本日はエゼキエル書33章から、「立ち帰って生きる喜び」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。新約聖書ヨハネ3章16節の御言葉にこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」私たちが「一人も滅びないで、永遠の命を受ける。」そのために神は独り子なるイエスさまをお与え下さったというこの御言葉は、聖書全体を凝縮した神さまからの愛のメッセージであるともいわれていますが。
本日の箇所の前半では、主なる神さまが民を見守る見張り番についてお語りになっていますけれども。民を見守るよう任命された見張りは、「剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任はこれ自身にある。しかし、見張りが、剣を臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。」
ここの「一人の命でも奪われるなら」とおっしゃる神さまの民に対する熱情・パッションは、先ほどのヨハネ福音書3章の「一人も滅びないで」という主のあの言葉とも相通じる神さまの愛であります。それは11節に語られるように、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。口語訳では「わたしは誰の死をも喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。まさに、主は、悪人がその道から立ち帰って生きることを、何よりも「喜ぶ」とおっしゃっているのです。滅びるばかりの罪の中に抜け殻のように生きていた私たちが、「神に立ち帰って生きる。」それは私たちの喜びであり、同時に父なる神さまの喜びであるのです。

「預言者の責務」
さて、このエゼキエに臨んだ主の言葉は、エゼキエルを「見張りとする」という召しでした。預言者(原語:ローマ-)には元々「見る者」という意味があります。主なる神はエゼキエルにこれから先のことを見通し得る者、人々に警告を発し、悪人に対しては悪の道から離れて主に立ち帰るよう毅然と語るべき者としての務めを与えられたのでした。主はその務めについて、先ほどの見張りのたとえで語られます。
 主はエゼキエル自身に対して、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに語らねばならない。わたし(神)が悪人に向かって、『悪人よ、お前は死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」
その責務は大変重たいものであります。しかし裏を返せばそれほどまでに主はその民を愛してやまず、彼らが滅びることがないよう切に願っておられるということです。
それゆえに預言者エゼキエルに対してこのように厳命しておられるということですね。
 先週お話しましたように、ユダの崩壊とバビロン捕囚後のエルサレムに残こされたユダの人々は、自分たちの罪を悔い改めるどころか、神は自分たちを見捨てたと神さま
のせいにして、異教の偶像を拝むようになっていました。又、神への畏れを無くしたユダの社会には不正や不義、搾取が起こり、貧富の格差が増し、あらゆる悪がはびこっていたのです。
そういう中バビロンにいたエゼキエルに託された課題はとてつもなく大きなものであったと思うのですけれども。ただここを読んで気づかされますのは、彼が国家とか、
権力というものに対して何か働きかけるように召されたのではなく、むしろ荒廃した、このままにしておけば罪に滅ぶほかないユダの民のひとり一人を見張り、忍耐強く語りかけるように召されたのだということです。それは単なる評論や非難としてではなく、ほんとうに彼らが立ち帰って生きるために、悪人に対しては悪によって滅ぶことがないよう悪の道から立ち帰ってほんとうの命を得るために、見守り、警告を発し、とりなしていくのです。エゼキエルはまさにそのために召命を受けたのであります。それはほんとうに至難の業であったと思えますが。神さまは、一人の人が救われる、立ち帰って生きる者とされることが、すなわちイスラエルの救いになると願われたのですね。
 今主によって招かれている私たちも同様に、まずひとり一人がそれぞれに立ち帰って生きる者とされている。その道が守られている。それが主の教会全体の祝福となっているということであります。主の御恵みによって救いに与った私たちも又、エゼキエルのように見守る者として召され、さらに神さまが創造されたこの世界を見守り、見張り番として召されていることを覚えたいと思います。
 確かに私たちはエゼキエルのような預言者ではありませんが。主なる神さまの御救いに導かれて、罪赦され、あがなわれ、新生に与った者なのであります。ローマの信徒への手紙8章28節には、わたしたちひとり一人は「神さまのご計画に従って召されている」とありますように、それぞれにオリジナルな主から託されている務めがあるということであります。
 又、新約聖書テモテ第二の手紙4章2節に「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」と語られておりますが。このエゼキエルの時代同様、私たちも又、「神はもういない」「主の道は正しくない」と人々が言うような時代を生きています。不正や不義が横行し、拝金主義が当然のようにまかり通るこの世界、社会の中で、バビロンにおけるエゼキエルがそうであったように、私たちも神のことばを伝えることの困難を覚えることが多々あるのではないでしょうか。しかしそういう現実の中で、御言葉を伝え、証するというチャレンジが、新生に与った私たちひとり一人には与えられているのではないでしょうか。

丁度一昨日14日でYさんが闘病中の病床で「主イエスを救い主として信じることにしました」と信仰告白をされ、洗礼を受けられて新生クリスチャンとなられて1年が経ちました。彼はそれから奇跡の9日間を過ごして天国に旅立っていかれたのですが。お別れは残された奥様をはじめ私たち大阪教会の友にとりまして確かに寂しいものでございましたが。彼がご自分の創造主であり、救い主のもとへ立ち帰って新しい命に与ったということは何にも代えがたい喜びでありました。やがて私たちも天において新しい朝を迎えるその日には、主イエスの御もとにあって再びお会いできることでありましょう。
何度かお話しましたように、私は彼が闘病中であった時は、主の御救いについて正面から彼と向き合ってお話をすることの難しさを覚えていました。けれど土壇場にきて、ご本人が信じるか信じないか、受け入れるか否かはご本人が決めることであり、まずは
わたしには主イエスの福音を語る務めがある。牧師ですから当然といえばそうなのですが。この時改めてそう意を決し闘病の床にある彼にお尋ねしました。こうして彼は、「主イエスを信じることにいたしました」とはっきりと、信仰決心を口にされたんですね。この出来事はわたしにとって決して忘れることのできいない神さまからのプレゼントであったとほんとうに想いますけれども。しかしこのように一人の人が罪と死に滅びることなく、主の御救いに与り、神に立ち帰って生きるために務めるのは、何も牧師だけに託されたことではございません。先ほど申しましたように、みなさまおひとりお一人が今日の箇所の見守りの手として、神さまの御計画によって召されています。
「滅びの道に行ってはならない、立ち帰って生きよ。」神さまのその熱い愛のメッセージを伝え、証しする者でありたいです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても」という御言葉のチャレンジに、応え、用いて頂けるように祈り、備えたいと思います。

「立ち帰って生きる喜び」
さて最後に、今日の箇所で最も大切な受け取るべきメッセージは何でしょうか。
それは、「主は悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」とおっしゃるそのお言葉です。
それは主イエスがマタイ9章13節で、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃったそのことなんですね。イエスさまの周りには、実にそのような貧しさや病のために世間から取り残されたように生きざるを得なかった人、又、罪に囚われ負い目や劣等感を覚えていた人たちが集まってきたのです。
しかし当時の律法を遵守していたユダヤ教徒や律法の専門家たちの中には、そんなイエスさまを罪人の頭だと言って蔑み見下し、憎悪と嫉妬を覚え、排斥しようとした人たちがいたのですね。ほんとうに立ち帰らなければならなかったのは、自分たちには罪はないと神と人の前に自らを正当化し、イエスさまによる神の救いを認めようとしない彼らであったのです。彼らはその高慢のために神さまの慈愛に満ちた呼びかけが、もはや聞こえなくなっていました。これはクリスチャンであってもややともすると、自分が主イエスによって罪贖われ、赦されている尊い恵みを忘れ、救いの感謝が色あせてしまうと、
人を裁いたり、偏見をもち、優劣をつけてしまう恐ろしい過ちを犯してしまうかも知れません。主に立ち帰って生きることが、やはり絶えず必要なのです。主といつも生きた交信をしてつながり続けるということですが。これは一人でできるわけではありません。教会につながり、聖霊のとりなしのもと、週ごとにさらには日々新たに「立ち帰って生きる」者とされ、そうして御言葉を伝え、証しすべく遣わされていくのです。
「立ち帰って生きよ。」今日の主の熱いこのメッセージに真の平安と喜びがあります。今週もその主の御言葉を受け、応えるべくここから遣わされてまいりましょう。
祈りましょう。

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神の激怒を招く偶像

2016-10-09 17:29:37 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル書8章1-13節
     

前回までの預言者エリヤ、エリシャの北イスラエルにおけるエピソードから、本日より南ユダの預言者本日よりエゼキエルの書から御言葉に聞いていきます。
時はイエスさまがお生まれになる約600年前の紀元前6世紀、先に北イスラエルはアッシリア帝国によって滅び、南ユダもバビロン王国によって滅ぼされることとなります。エゼキエルは捕囚としてバビロンに連れて行かれた人々に向かって神の言葉を伝えた預言者であり、預言者エレミヤとほぼ同時代の預言者でした。彼はエレミヤより少し後の預言者になるのですが。エレミヤはユダ王国の滅亡までの時代、ユダの民が神に立ち返らなければ滅びると訴え続けたのですが、エゼキエルはユダが滅んでしまった後の時代、なおも神に立ち返ることのないユダの民に対して、神の審きを訴え続けた預言者でした。同時に囚われの異教の地において、望みを持つことのできないエルサレムのユダの民に対して、なおそこに神の回復と救いの御業が起こる、そのような神の御計画と希望とを伝えたのであります。
エゼキエルという名前には、「神が強くする」という意味があります。それはまさに彼の預言者としての使命は、厳しい現実の中にあるユダの民が、やがて訪れるであろう神の大いなる御業を仰ぎ見、暗黒のような状況下においても「神が強くしてくださる」、そのことのために彼は用いられたということであります。

本日は8章3節「激怒を起こさせる像」5節「激怒を招く像」という2度に亘って語られた言葉から、「神の激怒を招く偶像」と題をつけました。
この題を先週の水曜日から、Yさんが和紙に書いて下さったものを、教会の看板に貼っております。いわゆる仏像等の多いこの天王寺界隈の寺院や仏閣にお参りに行かれる方々も教会の看板をご覧になられているかと思いますが。何か当てつけ、非難してという意味でありません。
先々週のことですが。教会のお隣のKさんのお母様がご逝去されたとのお知らせを聞き、お通夜に出席してまいりました。宗教は仏教(浄土宗)でしたので、お坊さんの読経のもと仏式で行なわれました。私たち家族は、故人のこれまでのお交わりの感謝を込め、残されたご長男さんはじめご遺族の上に深い慰めとお支えを願いつつ、参列させて頂きました。その時のお坊さんが何と、「大阪9条の会平和ネット」の事務局長さんで、世間はせまい、と思ったことですが。
このお坊さんが短いお奨めの中でおおよそ、このようなことをおっしゃっていました。「故人の魂はもうここには居らず、やすらぎの場へと移されたのだから、故人は自分のことよりもむしろ今地上にいるご家族や私たちのことを気遣っておられる。地上にいる
私たちがどのように生きてゆくかが大事」と。まあ、宗教は違いましても、たいへん共感いたしました。
霊は石や木で刻んだものの中にとどまるものではありません。ましてや木も石もすべて被造物は神さまがお造りになったのですから、どんな立派な建物や国宝といわれるような像の中にも、神さまをお納めすることはできません。真の神はどこにでも自由にお働きになられる生けるお方であられるのです。

さて、冒頭申しましたようにユダ王国とエルサレム陥落により、ユダの指導者たちや知識人や技術者、また祭司や預言者たちはバビロンの捕囚として連行されます。エゼキエルもその一人でした。その一方いわゆる一般の庶民らの多くはエルサレムに残されるのです。
最初のバビロンの捕囚から6年目の年、バビロンの地にいたエゼキエルが捕囚とされていたユダの長老たちと自分の家で集まりをしていた時のことです。エゼキエルの上に、「主なる神の御手が下り、髪の毛の房をつかまれ、天と地の間に引き上げられ、現在のエルサレムの神殿の様子を見せられたのです。それは、バビロン捕囚に連行されず、エルサレムに残った長老をはじめ人々が、「神の激怒を招く偶像」を作り、偶像礼拝を行なっている異様な光景でありました。
さらに、主のおっしゃるままに庭の入り口の壁穴ごしに中をのぞきこんで、入って見ると。周りの壁一面に、あらゆる地を這う者と獣の憎むべき像(神ならざるものを神として祀った像)やあらゆる偶像が彫り込まれています。そこにはイスラエルの長老70人がおり、その中心にシャファンの子ヤアザンヤが立っていた、とあります。この人物は、かつてヨシヤ王が宗教改革をもってイスラエルからあらゆる偶像を一掃したときの、優れた書記官シャハテの息子であったのです。父親とは全く逆にその息子は偶像をエルサレム神殿に増殖させ、神の激怒を招く偶像礼拝の指揮をとっていたのです。
今日は14節以降お読みしませんでしたが、そこでは数々の偶像礼拝が具体的に記されています。民は主の神殿を背にしていたとありますが。これは神を捨てる背信行為を表します。彼らは顔を東に向け、神でなく太陽を崇拝していたとあります。
バビロンの捕囚からわずか6年。エルサレムに残ったユダの人々は、悔い改め、神に立ち返るどころか偶像礼拝に明け暮れる日々を過ごし、神の激怒を招いていたのです。ここには彼らがなぜそのように神ならざるものを拝むようになってしまったか、その言い分が次のように記されています。
12節「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている」。
そもそもユダとエルサレムの滅亡は再三に亘る神の戒めと警告に耳をかさず、罪から離れることなく不義を行なってきた民に対する審きでありました。それは打たれた民が自ら悔い改め、おのが神である主に立ち返って生きるためであったのです。しかし民は目の前の状況や不安から、目に見える形での安心材料、安易な拠所としての偶像を造り、それを拝したのです。この事について祈祷会の時、ある方がその体験をお話して下さいました。「かつてこの教会で役員も務め働きをなさっていた人が、教会に来なくなった。ある日テレビを観ていると、山の上で偶像に一心不乱に向かい崇拝しているその人を見た。前の通りでお会いして、尋ねることはとてもできなかったが、テレビの人物はその人に間違いなかった。何が彼をそのように走らせたのか。大変ショックだった」。誠に残念な事例でありますが。
 ここでユダの人々は、「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられた」と言っているわけですが。しかしここの8章4節を見ますと何と書かれているでしょうか。
「イスラエルの神の栄光があった」。今だエルサレムに神の栄光が「あった」とちゃんと記されているんですね。現状に失望したエルサレムの人々には、このイスラエルの神の栄光が見えていなかったのですね。ここから、私たちも目に見える状況に左右されることなく、主はともにおられるというインマヌエルの約束を忘れない者でありたいと願います。
 ところで、このイスラエルの民から見た神の栄光とは、イスラエルの民を宝の民として愛してやまない、ということ一つであります。神が民の偶像礼拝に「激怒した」と新共同訳で訳されている言葉を、口語訳では「ねたみ」と訳されています。それは、神のイスラエルの民に対する熱情を表しています。十戒のところに語られる「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」。この熱情の神というのも「ねたむ神」と以前は原意に近く訳されていました。それほどまでに神は主の民を愛してやまないお方であるということです。みなさんお一人おひとりもそうです。主はねたむほどに愛しておられるんですね。だから前の6章などでは、偶像礼拝を姦淫だとまでおっしゃっています。それほど主はご自分の民一人ひとりを愛しておられるということです。
エルサレムに残ったユダの民が「主は自分たちを御覧にならない。主はこの地を捨てられた」などと言って、偶像礼拝に走る。これこそ主の御心をどれだけ悲しませ、傷つけてることでしょうか。信頼関係を裏切られた時私たちは言い尽くしがたい悲しみと怒りを感じるでしょう。「ねたむほどまで愛しておられる」。それは私たちにとって十字架にかかり血を流し、肉を裂かれて、そうしてまでわたしを救ってくださったその愛であります。その主の愛を忘れ神ならざるものにより頼んで崇拝し、主にねたみを起こさせ悲しませることのないよう、日々主への感謝と信頼をもって生涯をあゆみ通したいものです。

最後に、先日のニュースに類人猿が他者の思考を推し量ることができる、まあそういう能力があるのではないかという研究発表がなされたそうですが。その同じ京大の霊長類研究所らが2014年に発表した人間と人間に近いとされるチンパンジーの大きな違いについて、わたしは9月久山療育園の全国支援者会議の席で伺い驚きました。チンパンジーと人間その一番の違いなんだと思われますか。それは「想像力」だそうです。実験リポートではチンパンジー6頭と人間のこども(1歳~3歳57人)を対象に絵を描く能力を比較したところ、チンパンジーにも人間同様に線をなぞる能力などが一定にあるが、「想像して書く力」はないことがわかったそうです。人間は輪郭をなぞるだけでなく、2歳後半になると「おめめ、ない」などと言って「ない」部分を補って書くことができたそうです。チンパンジーは、かけた部分を補うことは一頭もできなかったそうです。想像する力は人間に与えられた特異な能力といえる、ということですね。
そのようなことを聞いて思いましたのは、それは、実は天地万物をお造りになり、私たち人類をお造りになられた神さまの恵みであるのでしょう。創世記に神は御自身の似姿として「人」を創られたとございます。この神の似姿こそ、自分と異なる存在、他者の思いを想像し、大切にすることが出来る。それは単に思慮を推し量るだけではなく愛すること、それこそが神の似姿といえるのではないでしょうか。まあ近年愛をもたらす想像力が逆に退化していく人間の有様に、新しい研究として「サル化していく人間」というのもなされているそうですが。寂しい限りですけれども。ほんとうにそうならないように、私たちは罪を繰り返してしまう弱い存在であることを自覚して、たえず神に立ち返り、罪を悔い改めて神の愛を知るという、最も尊い想像力を頂いていく必要がございます。
 私たち一人ひとりの魂をねたむほどに愛して下さる熱情の神さまとその救いの御業を決して忘れることがないように、日々を歩んでまいりたいと願います。祈ります。
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