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人間の創造意義

2017-07-16 14:34:14 | メッセージ
礼拝宣教 創世記2章4節b~25節 

先週の創世記1章では、神が地のあらゆる草木をはじめ、あらゆる動物を御言葉をもってお造りになられた。そして、人を神ご自身にかたどってお造りになったという記事を読みました。
そこで描き出される人間は、すべての被造物の中の一員であるとともに、人がその全被造物の中でどのような目的をもって造られたかということが明示されていました。
28節にあるように、人は地に満ちて地上を治める動植物を管理する存在としての祝福を受けている。そういう聖書からのメッセージでありました。

そして今日の2章では、ではその「人間とは如何なるものか」ということについて説かれています。それはまた後ほど詳しくお話するとして。9節を見ますと、その人間の主である神は、エデンの園をもうけ人をそこに置かれたとあります。
1章で人が神の創造の秩序に従って地を管理するものに命じられたの同様、この2章においても神は、「人をそのエデンの園に住まわせて、地を耕し、守るように」命じられます。ここで人に具体的生きる日常の場所が備えらるのです。

エデンとは、へブル語で「楽しみ」や「喜び」という意味があります。ギリシャ語では「パラダイス」(楽園)で、その名のとおりエデンには人が生きる喜びや楽しみがあったということです。4つの川の源であり、その肥沃な地、豊かな鉱物や食べ物があり、多くの生き物が共生共存していたエデンの園。
そこで初めの人アダムは、土を耕し、地を守っていくという使命が託され、その報酬として余りある程のゆたかさがあったのです。

以前私が住んでいた九州の教会には畑があり、そこにナスやキュウリ、イチジクの木を植えていました。私はもっぱら食べるばかりで、たまに水をやる程度でしたが。それでも時々土に触れ実のなっていく様子を眺めるのは楽しいことでした。土いじりは何でもいやしの効果があるそうですが。まあ、そういう時人はDNAというか、意識の深いところでエデンの園にいた時のことを思い出すのかも知れません。

いずれにしても、農業や菜園においてまず何より大事なのは、地を耕して命ある種や苗が育つためのよい土壌を作ることだそうです。そして水をやり日光に気をつけて肥料をやって守ってゆく。そのように「地を耕し、守る」。そのことに心と体を使っていけば、それだけの報いがあるでしょうし、逆にそれを怠たるなら、実りも限られたものとなるでしょう。しかし昨今の異常気象の猛威には人は為す術もありません。それも、地を治めることよりも経済効果や効率を最優先にしてきたつけが回って来ているのかも知れません。地球温暖化、乱獲、大気汚染もそうでしょう。
「神は人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた」のです。
神から管理を委託されたこの大地をどのように耕し、守っていくか。その真価が今日の時代問われているように思えます。

さて、16節以降を読みますと、主なる神は人に命じて「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」と言われます。

すべての木から取って食べる自由があるなら善悪の知識の木からも取って食べてもいいじゃないか。そう思う人もいるかも知れません。
けれども、エデンの園の所有者は一体誰でしょう。それは人ではなく天地万物の主なる神さまであります。そのお方が人にあらゆる恵みの賜物を与えておられる、それはただ神の一方的な恵みによるものです。
にも拘わらず、人は自分がまるでそのすべての所有者であるかのように地をむさぼり、人が神の恵みの賜物によって生かされているということを忘れ、管理者としての使命を次々と投げ出していくとき、人類は自ら招く状況に直面することになっていくことを、私たちはもはや寓話としてでなく現実の事柄として捉えているのではないでしょうか。

さて、では今一度人間がそのあるべき原点に立ち返っていくには、どうしたらよいのかということを聖書から聞いていきたいと思います。

それは6節にありますように、神は地を潤され「土のちり(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられる」ことで、「人は生きる者となった」とあります。
人は大地の一部である「土のちり」から造られたんですね。人体が29種類の元素からなっているのは知られていて、それはすべての土の中に含まれているものという事です。最近火山付近の泥の成分が人の細胞内の環境に非常に似ているという発見がなされたそうですが。いずれにしても、人はやがては死にその体はちりとなって大地に帰ります。
詩編103:14-16には「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」と記されてあるとおりです。そのようにもろい土の塵でもって人は形づくられたわけです。
しかし大事なことは、「その鼻に、神が命の息を吹き入れられると、人は生きる者とされた」ということですね。神の息によって「生きる者」となった。ここが重要なのです。それが
草木のような他の被造物と異なっているのです。

人は神の命の息が吹き込まれることで、神の霊を受けて生きる存在なのです。それは初めのアダムのみならず、すべての人は神の命の息を吹きこまれて生きる者されているのです。赤ちゃんが始めにする仕事は羊水を吐き出すことですが。すると肺に空気が流れ込んで肺を満たし呼吸が始まります。命の息が吹き入れられるのです。
因みに、人が死ぬ時には、「息を引き取る」と言いますが。これは息が神のもとに帰るということです。コヘレトの言葉(伝道の書)12章7節には「塵は元の大地に帰り、霊(息)は与え主である神に帰る」と記されています。
私どもにとって根源的な魂・生きる力は命の源である神さまから与えられるのです。人はその主なる神の命につながり、生かされているのであります。

さて、初めの人アダムは、エデンで土を耕し、守っていくという仕事があり、その報酬としては余りある程の食物がありました。何の不自由もないはずでした。しかし、主なる神さまはアダムをして「人が独りでいるのは良くない」と言われます。
それは、人にはやり甲斐ある仕事とゆたかな報酬だけでは満たされない根源的な欠乏があったということです。神はアダムが孤独であり、自己完結している様子をご覧になって、良い状態ではない、とおっしゃったんですね。

そこで神は、「彼に合う助ける者」こそが彼に必要だとお考えになり、人と同じく土で形づくられた野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を人のところへ持って来られて、人がそれぞれに名をつけて呼ぶのをご覧になられますが、人は「自分に合う助ける者を見つけることができなかった」のです。

時代は変わりますが。旧約聖書のイスラエル王国の時代にソロモンという王様がいました。彼はダビデ王の子でその王位を継ぎ、世の宝、名声すべてを掌握したような栄華を極めた王となります。しかし彼はそう言う身でありながら、なおも満たされ得ない魂の渇きと、孤独を経験したのです。ソロモンが書いたとされる「コへレトの言葉」を読んでみますと、そのことがよくわかります。

礼拝の招詞として、その4章8節以降が読まれました。
「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限なく苦労し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで 誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。ひとりよりもふたりが良い。共に苦労すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する」。

アダムは「助けるもの」を他の生き物からは見出せませんでした。やはり人の根源的欠乏を補い助けるのは人であるということで、神はアダムに合う助け手となる人をお造りになります。
それが21節以降のところです。「主なる神は、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」。

ここで注目したいのは、神は人に合う助ける者を、他の生き物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から造られたということであります。
なぜあばら骨からだったのか、頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思いますが。以前にも申しましたが、それは古くからあばら骨のある胸には「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と信じられていたからです。
神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り上げられ、人に合う(ふさわしい)助ける者として、彼に出会わされたということであります。
それは、人に楽しみや喜びを、それだけでなく又労苦や悲しみといった感情を分かち合ったり、共感することのできる存在、そういった助ける者が必要であるということを物語っています。

今日のこの24節の個所は、結婚式のときによく読まれるところでしたが。
確かに、人にふさわしい助け手として男と女の婚姻について述べていると読めます。しかし、人に合う助ける者とは結婚や婚姻に限ったことだけではありません。
先に読みましたコヘレトの言葉でも、友情とか友愛についても語っていましたが。ましてや私たちは主イエスにある救いの自由に生きているのですから、助け手となる人は多様な存在であり、多様な関係の中にある、と読んでよいと思います。

人間らしさとは、まさに自分と違いをもった他者と違いを越え、相互に認め合い、支え合い、助け合うことのうちに確認できるものでありましょう。一緒に笑い、一緒に泣いて、一緒に喜び合う。そうした時私たち人間は生きている、又、生かされていることを実感できるのだと思います。

助ける者(ヘルパー)といえば、何か手伝いや助手のような響きがあり、助ける側と助けられる側といった固定した関係を思いがちです。けれども、ここで主がおっしゃった「助ける者」とは、ただ一方通行の「~してあげる」「~してもらう」というような関係や従属の関係ではありません。それは相互が助け合うパートナーという意味の関係なのです。
「私は強いから大丈夫、自信がある、人の世話になんかならんでよい。自分で生きてていける」という人。「お金さえあれば何とかなる」という人も世の中にはおられるかも知れません。果たしてそうでしょうか。どんなに強気であっても、病や事故、人の危機はいつ起こるかも知れません。そういう自分の力や持てる物ではどうすることもできないような状況になったときに初めて、人は何ともろくはかない者かと思い知らされるのです。
「人は独りでは生きられない」。そのことを主なる神さまは最初からご存じです。
だからこそ、その弱く、もろい者同士が互いにつながり、助け合っていく、そこに人間の営みのゆたかさと平安が生まれていくのですね。人はそのように造られているのです。

最後になりますが、私たちはここで決して忘れてならないことがあります。それは2章全体に「主なる神」と記されたお方との関係であります。
土くれから造られ、、神さまご自身の息・霊を吹き入れられた。そうして単に生物的に生きるのではなく、霊的存在として生きる者とされた私たちです。その命の霊なる神さまとの交わりを日々絶やすことなく生きることが、本来のあり方なのです。

先に読んだコへレト4章8節以降に「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い」と友愛への賛辞が書かれていますが。その後になぜか「三つよりの糸は切れにくい」とあるんですよね。
二つの糸というのはわかります。それは先ほどの「人に合う助ける者」として、人と人とが寄り添い、つながって生きる、いわば絆ともいえる関係性です。
ではもう一本の糸とは何でしょうか?実にそれこそが、人の命の源である主なる神さま、救いの主なのです。「三つよりの糸は切れにくい」。「人間の創造意義」の源がここにございます。
今日この祝福された関係性を今一度それぞれが確認し、この福音を伝え、証する存在としてまたここから遣わされてまいりましょう。
祈ります。
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