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恵みの賜物によって生きる

2017-05-07 22:31:25 | メッセージ
宣 教 ローマ5・12-21 

今日の箇所には「アダムとキリスト」という小見出しがついているので、まずアダムの罪性について創世記2章の箇所から開いてみます。

2章7節~9節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」。
2章16節~17節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。

このように様々な木々とともに、園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」の二つの木が生えていたということです。ここで注目すべきは、神は園の中央のもう一つの「命の木」については何もおっしゃらず、ただ、「善悪の知識の木」から取って食べてはならない、と命じておられるということです。アダムは当初罪を知らぬ者として創造されました。彼には善悪の知識がありませんでした。それは罪についても無知であったということです。アダムの前には二本の木が植えられていました。それは特別な園の中央にある聖なる木です。どちらを選ぶかが彼自身に委ねられていました。それは「神に信頼していく命の木」の実か。あるいは「神への信頼関係を蔑ろにしていく木」の実か。アダムは別の道を選び、自我を増幅させていく「善悪の知識の木」から実を食べた。その結果、人アダムは、神なしに生きれるかのような者になり、神のまなざしを避ける者となり、すべての判断の基準を神にではなく、自我におく者となります。

アダムはその結果、エデンの園を出て行かざるを得なくなり、神の生命に接近することができなくなり、死ぬべき存在として地にあってさまよう者となるのです。これは人アダムの自ら選んだ道、それは何かその実に毒のようなものが入っていてそうなったのではなく、彼自身が何を選択したかということによって自ら招いた結果なのです。
した。それは現代人にも同様の人類の原罪であります

どうでしょう。神は本来人に永遠の生命、神の生命に与る神のこどもとなることを願われたのです。しかし、アダムはサタンの誘惑にのって、神の愛に逆らい、その神のご計画を無にした。それが罪なのです。

聖書でまた礼拝の説教の中で、よく罪、罪ということが言われるのが、好かん、嫌やという方もおられると思います。それはある意味自然な反応ともいえるでしょう。それはたとえば刑法や民法に触れるような犯罪を犯してもいないのに。道徳的な意味で何も悪いことをしていないのに、そんなに罪罪罪といわれても。。。という思いからだと思います。

このローマの信徒への手紙には罪ということが多く記されているわけですが。聖書でいう罪というのは「ハマルティア」と申します。
それは刑法民法に反する行為、犯罪の数々だけでなく、刑法民法に反していなくても、内面に抱く憎しみや恨みの数々も罪なんです。ということは罪なき人となるためにはそれら内面の数知れぬ複数の罪をも治めなければなりません。誰がいったいそのような罪を治めることができるでしょうか。しかしそれらの複数の罪は、実はアダム以来の単数形の罪は、すべての複数形の罪の根本にある人アダムの罪性から来ているのです。ですから聖書の罪ハマルティアの原意は、神に対して的外れの状態を意味するのです。
このローマの信徒への手紙を通して、パウロはその罪の問題が解決される必要があることを指摘しているのです。
パウロは「義人は一人もいない」「律法を実行することによってはだれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです」とそのように言っています。
パウロ自身何とか義人として生きていこうと律法を忠実に守り行なう人でしたが。復活の主イエスと出会うことによって、自分の原罪、根本的な罪。単数の罪を思い知るのですね。
パウロは熱心なユダヤ教の信奉者として神のために正しくあること、律法の教えを忠実に守ることが神のため自分の救いになると確信して、律法を守り行なうことができない異邦人を見下し、キリストの信徒を取り押さえ、迫害しました。
ところが復活の主イエスと出会ったとき、「神の前に正しく生きている」と誇っていた自分が、実は神さまの敵となっていた。彼ははじめの人アダム以来自我の内にあるぬぐってもぬぐってもぬぐいきれない罪の性質、根本的な罪を自覚するのです。そうして、主イエスの十字架こそ、このような人の罪の贖いのためであることをさとるのですね。

使徒パウロは今日の15節以降「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって(アダムのことです)多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人にゆたかに注がれるのです」と述べています。」
自分の底知れぬ罪深さを思い知れば知るだけ、主イエスの十字架の贖いによるキリストの死と救い、その大きな大きな計り知れない恵みであることを思い知る。
私たちもそうではないでしょうか。ああ自分は罪深い者、正しく立派にあろうと度量しても、熱心に生きようと思えば思うほど空回りし、罪に気づかされ意気消沈するような者ではないでしょうか。
 しかし、主イエスは6節「わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。8節「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。さらに10節「わたしたちが敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」。
まさにそのような神の救い、神に背き、自我に迷い出て神に敵対して生きてきたような私を、救いに招き入れてくださった。その計り知れない恵み、それらの恵みを総じて、パウロは9節に「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」と述べているんです。これぞパウロのいう「神の恵みの賜物」なんですね。

今日は、創世記2章の箇所を始めに読みましたが、私たちの創造主は元々人間が神の生命に与り、神のこどもとされて永遠に生きることを願ってやまないお方であるのです。
私たち一人ひとりがどんなに不従順で、不信心で、神に敵対するような罪深い者であったとしてもです。再び園の中央に植えられた二本の木の前に立ち、もはや滅びに至る木ではなく、神の生命の木、それは私たちの罪を贖う神の小羊として血を流してくださった十字架の御子イエス・キリストの前に立ち帰って生きるようにと、主は今日もそんな私たちを招いておられます。そこに神との和解による平安、神の命に与る幸いがございます。

20節「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。
この御言葉の恵みに与って、またここからこの5月の一日一日の歩みへとそれぞれ遣わされてまいりましょう。
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