孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

原発  世界では原発回帰の動き 日本では拡大する脱原発デモ

2012-07-22 22:42:06 | 原発

(6月29日の首相官邸前脱原発デモ “flickr”より By SandoCap http://www.flickr.com/photos/sandocap/7467143046/

【「こうする以外には電力供給の安定性を確保する方法が見つからない」】
福島第1原発事故は、日本だけでなく世界の原発に対する姿勢に大きな影響を与えましたが、世界的に見ると、事故後に高まった脱原発の動きは、その後「やはり原発が必要・・・」という方向へ回帰しているようです。

****東日本大震災500日 世界の原発、変わる流れ****
■環境・経済性で再評価
昨年3月の東京電力福島第1原発事故を契機に先進国に広がった脱原発の流れが減速している。脱原発の推進が電力供給を不安定にし、電気料金を高騰させる危険性が認識され、欧米では稼働年数延長や新規建設の承認など再評価の動きが出てきた。一部には新型天然ガスによる火力発電への期待もあるが、環境面や価格の安定性で優れた原発の利用を進める現実的な道が探られている。

◆全廃方針に批判
「こうする以外には電力供給の安定性を確保する方法が見つからない」。ベルギーのヴァテレ・エネルギー相は4日に決めた原発の稼働延長について欧米メディアの取材に応えた。

ベルギーは2015年から25年にかけて国内7基の原発を全廃する方針を9年前に決めている。しかし現在でも総発電量に占める原発の比率は50%超で、代替電源として期待された太陽光、風力発電は総発電量の1%程度しかない。
脱原発は電力不足を招く危険が大きく、15年に廃止予定の3基のうち1基の稼働延長を認めざるをえなくなった。11年12月発足のディルポ政権は、25年までの全廃方針は維持しているが、議会からは「見通しが甘かった」との批判が出ている。

一方、02年に脱原発計画を決めたドイツは、太陽光、風力発電を総発電量の約12%まで成長させた代替エネルギー確保の成功例だ。福島第1原発事故後の11年7月には、22年末までの原発全廃を法制化した。しかし、電力価格高騰が国民生活を直撃している。太陽光や風力発電で作られた電気を電力会社に固定価格で買い取らせる制度が00年に導入され、買い取り費用が電気料金に上乗せされていることが一因だ。

ドイツの12年の家庭用電気料金は1キロワット時あたり25・74ユーロセント(約25円)の見通しで、00年に比べて約85%も値上がりした。消費者団体は「10世帯に1世帯の割合で電気料金を払えなくなっている」と指摘する。

電気料金高騰を受け、ドイツは6月29日、太陽光発電の買い取り価格の約20~30%引き下げを決めた。しかしそれでも「30年までに買い取り費用などで3000億ユーロ(約29兆円)の負担が必要」との試算もある。コストの安い原発は次第に支持を取り戻しつつある。

これに対して原発依存度が78%に達するフランスでは今年5月の大統領選で、「25年までに原発比率を50%まで引き下げる」と公約したオランド氏が当選。エロー首相も7月3日の議会演説で公約実現に意欲をみせた。

しかし、欧州で脱原発が国民生活に与える負担の大きさが明らかになる中、オランド大統領自身は当選後、原発政策をめぐり目立った発言はしていない。
欧米メディアでは「ギリシャなどの債務危機が経済の足を引っ張っている中、脱原発が進むとは思えない」との指摘も多い。

◆米、推進にかじ
欧州の情勢を横目に米原子力規制委員会(NRC)は2月、ジョージア州で2基、3月にはサウスカロライナ州で2基の原発新設を認めた。
米国では1979年のスリーマイル島事故を機に原発の新設が止まったが、オバマ政権は二酸化炭素を排出せず、原油価格変動の影響も受けない原発の推進にかじを切っている。

米国では新型天然ガス「シェールガス」開発への期待から天然ガス価格が下がり、原発のコスト上の強みが減るとの見方もある。しかし議会内には「天然ガス価格がどう動くかは誰にも分からない。今後、多くの原発が必要になるだろう」(ラマー上院議員)との声もあり、原発の優位性は揺るぎそうもない。

≪新興国≫
■電力需要拡大で注目

今後も経済成長が見込まれる中国やインドなどの新興国では、福島第1原発事故後も原発へのニーズは衰えていない。生産活動や生活水準向上のためのエネルギーの確保が不可欠。原油などの価格上昇が予想される中、大規模な原発建設計画が打ち出されている。エネルギー安全保障の観点からも原発への期待は大きい。

「福島第1原発事故という悲劇にもかかわらず、原子力の安全で確実な平和利用の重要性を認識する」。アジア太平洋経済協力会議(APEC)のエネルギー相会議は6月25日のサンクトペテルブルク宣言で原発の意義を強調した。
宣言の背景にあるのは世界的なエネルギー需要の拡大だ。日本エネルギー経済研究所の試算によると、2035年の世界のエネルギー需要は08年の1・6倍に増える見通し。原油や天然ガスなどの価格高騰の恐れもあり、「エネルギー対策のリストには原発も加える」(ロシアのノバク・エネルギー相)必要がある。

中国は35年にエネルギー需要が08年の2倍になるとされる最大の需要国だ。政府は5月末、20年までに約60基の原発を新設する計画を承認し、福島事故後も「現実的な選択肢」との位置づけに変化はない。

インドも同様だ。09年の発電量は日本と同程度の9千億キロワット時で、1990年の3倍以上。総人口は約12億人で、今後の需要増は確実だ。政府は2032年までに原発の発電能力を現状の約13倍、6300万キロワットまで高める計画で、昨年7月には韓国と原子力協定を締結。日本とも交渉を進める。シン首相は5月に議会で「原発という選択肢を諦めては国益を害する」と訴えた。

一方、エネルギー資源に乏しい国々では安全保障の観点からも原発の意義は大きい。原発には一度ウランを輸入すれば安定的に発電を継続できる準国産電源としての特長もあるからだ。 天然ガスなどの資源をロシアに依存するハンガリーなどの中欧諸国や電力の一部を中国から輸入しているベトナムなどでは、「緊急時でも供給が途絶えない自前のエネルギー源として原子力が必要とされている」(日本政府関係者)。

ただし新興国でも原発の安全性への不安は広がっている。インドでは昨年9月、住民の反対運動の結果、2基の原発の建設作業が一時中止された。エジプトでも原発建設計画が住民の反対運動で宙に浮いている。【7月22日 産経】
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産経としての原発に対するスタンスも窺われる記事ではありますが、報道内容は事実でしょう。

ゆるやかにつながり、冷静に行儀よく、しかし執拗に主張する
それぞれの国にはそれぞれの事情がありますが、日本では不思議なくらい、事故後あまり目立った国民による脱原発の行動はありませんでしたが、3月以来毎週金曜夜の恒例になった首相官邸への反原発デモがここにきて大きく広がる様相を見せています。

ツイッターやフェイスブックの呼びかけで、3月のスタート当初は300人程度でしたが、最近は主催者発表で15万人とかいった、これまでにない規模に膨れ上がっています。
先日の20日には、鳩山元首相が参加し「この時点での再稼働はやめるべきだと私も思っている」と訴えたことなども話題となっています。

今回の首相官邸への脱原発デモは、従来の政権への対決姿勢を明確にした組織的抗議行動とはかなり様相を異にしており、いろんな考え方の一般の人々が脱原発という一点で集まったもので、ある意味気楽に参加できるイベント的な感もあるようです。

警備する側にも、敢えて参加者を刺激して逮捕者などを出すようなことがないように・・・という思惑もあるようです。
一方、参加者側からは、マスメディアの姿勢について、政府・東電に配慮したかのようにデモを無視するような扱いをしている・・・との批判もあります。

***デモ「革命」、ゆるやかに整然と 官邸前の脱原発行動***
毎週金曜日の首相官邸付近の抗議行動が大規模になっている。首都圏反原発連合が主催し、13日は主催者発表で約15万人(警察は発表せず)。誘導や応急班などをスタッフが手弁当でこなしている。

作家の広瀬隆さんらは6月22日の約5万人を集めた抗議行動の後、「若者が頑張っているんだから、僕たち老人もできることをしよう」と、有志のカンパでヘリを飛ばすことに決めた。翌週29日、「正しい報道ヘリの会」と名付け空撮写真を撮った。

6日には、小雨まじりだというのに主催者発表で約15万人が集まった。国会議事堂前駅などでは改札を出ても路上に出られない。別の駅から遠回りして国会議事堂裏側にたどり着く。警察官に列の最後尾につくように促され、多くの人がおとなしく2列に並ぶ。

若い警官が「イベントに参加される方は、列の最後尾に」と大声を出す。苦笑する若者がいたが、何度も繰り返す警官に嘲笑する意図があったとも思わない。実際、いつも警備している“デモ”とは明らかに異質な「何物か」になっていただろう。

■動かない行列
特定政党に結びついたようなプラカードやビラがほとんどなく、「反原発」だけで結びつくという主催者の意図がよく浸透している。行列が動く気配がまったくない。終了30分前、主催スタッフが回ってきて「もう動きません。ここでシュプレヒコールを」と説いて回る。「再稼働反対!」の連呼が上がるが、官邸ははるかに遠い。太鼓など鳴り物がない中での単調な連呼は、30分も続けると苦行に似てくる。サウンドデモのような祝祭性は、薬にしようにもない。それでも、回を追うごとに参加者は増える。

1960年、日米安保条約が自然承認される日を目前に、同じように国会議事堂は労組や学生らに取り巻かれていた。その数20万人とも言われるから、規模は近づいている。当時の報道によれば「はげしいジグザグ行進」で国会の門を突破し、座り込みを狙った(江刺昭子『樺美智子 聖少女伝説』)。東大生の樺さんは、デモで命を落とした。

■冷静に執拗に
隔世の感がある。今はジグザグどころか歩けないのだから、デモ行進ではなく「デモ行列」。一部からは警官に怒号が飛んだが、逆にツイッターには「逮捕される覚悟より、ギリギリのところで抗議を続ける根気を」という発言があった。

安保闘争以後、労組など組織動員のデモは予定調和的な示威行動となり、路上の一般人は振り向きさえしなくなった。2003年、イラク戦争反対をきっかけに東京・渋谷で始まったサウンドデモは、DJやバンドらが先導し、若者らを巻き込んでの社会事象にもなった。高円寺のリサイクル店・素人の乱が主導した「家賃タダにしろ!」デモなどは、主張の新奇さだけでなく、管理が厳しくなる一方の路上を自分たちの手に取り戻すという主張が共感を集めた。以来デモ取材を続けたが、官邸周辺の抗議行動は先行例のいずれとも違う、まったく新しい様相を呈している。

ジョイスの『ユリシーズ』では、あらゆる暴力が嫌いという主人公が「革命だって整然と分割払い方式でやらなきゃ」と語る。今回の抗議行動は、参加者たちに「あじさい革命」と呼ばれている。ゆるやかにつながり、冷静に行儀よく、しかし執拗(しつよう)に主張する。「革命」という言葉に、いい意味での革命が起きている。 【7月18日 朝日】
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「革命」という言葉を使うのも気恥しい感があります。
昨年10月にニューヨークなどで広がった「ウォール街を占拠しよう」という若者らの抗議行動にも似た感があります。

原発近くで暮らして思うこと
個人的なことを言えば、私は原発と隣り合わせ、約10kmほどのところに暮らしています。職場などは2kmぐらいの至近距離です。
普段、国内ニュースには殆んど目をとおさないこともあって、東京での脱原発を求める行動がこんなに広がっていること自体、最近まで知りませんでした。参加者側が批判するように、メディアの扱いがこれまで小さかったということもあるのかもしれませんが。

原発を抱えた地元では、東京とは異なり無風です。先の県知事選挙でも反原発を1枚看板にした候補が現職に挑みましたが、大差で敗れました。原発を抱える市での得票も伸びなかったようです。

いろんな考えの方の人がいて、私の周りにも原発の危険を訴える方もいますが、私自身は正直なところ、普段、原発の危険性を真剣に感じることはありません。
“危険性”ということで言えば、私たちの生活はすべからく何らかの危険性に溢れており、それをある意味“無視”することで生活が成り立っていると考えています。

道を歩けば、あるいは車のハンドルを握れば、それなりの(恐らく原発事故よりはるかに高い確率の)事故の危険性がありますが、家に閉じこもるようなことはありません。生活においては、安全性というのは唯一絶対の尺度ではなく、利便性や必要性と総合的に勘案されるひとつの尺度です。
そんな感じ方をしているせいで、原発に限らず、食の安全とか医薬品の副作用とかいった問題で、ことさらに危険性をアピールする主張にはちょっと引いてしまうと言うか、違和感を感じます。そうした感じ方がすべてで、あとの議論は付け足しです。

別に原発が絶対安全などとは思ってはいませんが、福島のような破滅的な重大事態が自分のまわりで起きるとも、正直なところ思っていません。少なくも私が生きている間は。
地震の被害で言えば、市街地を流れる川の上流のダムが決壊して、街全体が水没する確率の方が現実的なようにも思えます。

また、原発が完成された技術とも思っていません。使用後の核廃棄物の扱いなどは対応を将来に先延ばしたまま使っているのが実態でしょう。
ただ、それについても、「まあ、将来の人たちで考えてよ」といったところです。それなりの知恵も生まれるのでは。

自然エネルギーなどの取組を進めることには賛成ですが、せっかく莫大な費用を投じて建設した現存施設を無駄にすることについては、いかがなものか・・・というのが本音です。
安全性面でも、普段から正常運転して監視するより、中途半端な形で放置しておく方が何らかのトラブルがおきやすいのでは・・・とも思っています。
ベタな原発推進派の意見になりますが、原発の稼働停止で地元の被る経済的影響は小さくありません。地元にとっては大きな問題です。
原発に関するハード・ソフト面の技術は、今日本が海外から求められる数少ない技術です。このまますたれさせるのはもったいない感がします。福島の教訓を生かしたより安全な技術開発を行うのもひとつの道かと思います。

まことに不真面目・不謹慎・不勉強極まる考えとお叱りを受けるかとは思っています。
お叱りを受けるついでに敢えて言えば、そんなに安全への配慮をされるのであれば、「たかが電力」ということで自分たちの生活の利便性を犠牲にすることも厭わないというりっぱな覚悟であれば、日本国内の原発の危険を云々する前にもっと目を向けるべき問題が世界には山積しているのではないでしょうか。

世界には飢餓に苦しむ人々、身ひとつで逃げてきた難民、最低限の医療の受けられない人々・・・そうした生命の危機に直面した人々が多数存在しています。私たちの豊かな暮らしのほんの少し、コーヒー数杯程度をそうした人々に振り向ければどれほどの人々の生命が救われるか・・・。

東京での脱原発イベントに楽しく参加している人々を見ていると、自分とは関係のない人々そうした深刻な事実には目を向けることなく、自分の恵まれた生活の安全をひたすらに叫ぶ・・・そんなふうにも思えてしまいます。ちょっと言い過ぎですね。止めておきましょう。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2012-08-22 08:47:35
全く同感です。言い過ぎでは全くありません。
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