更新を中断していた馬堀海岸~観音崎公園~浦賀駅散歩の連載を再開します。紅葉散歩を優先して掲載していたら、ここまでずれ込むとは…。すみません。段取り悪くて。でも年内には観音崎散歩の連載が終わる様に頑張りましたっ!楽しんで下さい。
ちなみに、中断前の記事は11月に掲載してあったのですが、流れが悪いのでこの記事の直前に移動しました。散歩開始時から読みたい!と思われた方は、下へスクロールして下さい。
足柄峠を越えて相模国に入った古代東海道は、鎌倉を経て走水に至り、ここから海路をたどって上総の国へ通じていた。
主祭神:日本武尊・弟橘媛命
景行天皇の御代、東征中の日本武尊は、古代東海道をたどって来たり走水から船で上総へ渡ろうとしたが、暴風雨に阻まれ立ち往生した。この時同行してきた弟橘媛がみずから入水して海神の怒りを鎮め、航海の安全を図ったという伝説にちなみ創建された古社。
日本武尊が航海に先立ち「水走る」と称えたことから走水の地名が起こったという。
明治18年(1885)に旗山崎が軍用地になり、弟橘媛の櫛が流れ着いた旗山崎(御所ケ崎)に立てられた社を走水神社境内へ移し、めいじ42年(1909)に合祀した。
航海の安全を願って奉納された舵の碑。
絵馬も弟橘媛。
上の画像は社殿から走水海岸に向けて撮影しましたが、一番パワーが強いとされるのは社殿の左に続く道の奥。三の宮の奥から走水海岸を望む場所さそうです。そこまで行かなかった~。アホか~~っ!!
んでも三の鳥居までは行ったの。そこにあった石碑です。
「さねさしさがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも」竹田宮晶子内親王御染筆
私は鈍感な方ですが、トップ画像の石段辺りから上はなんか空気が違ってる気がしました。気のせいかもしれんが…。
説明板発見:弟橘媛命の記念碑
日本武尊 弟橘媛命の御遺蹟を偲奉りて(弟橘媛命の記念碑裏面 東郷平八郎閣下の草案に成ると曰ふ)
嗚呼此れは 弟橘媛命いまはの御歌なり
命夫君 日本武尊の東征し給う伴われ
駿河にては危き野火の禍いを免れ 此の走水の海を渡り給う
時無く暴風に遭い 御身を犠牲として尊の御命を全からしめ
奉りし其のいまはの御歌なり
御歌に溢るる心情はすべて夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず
其の負烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし
廃八郎等七人相議り 同感者を得 記念を不朽ならしめむと
御歌の御書を竹田宮昌子内親王殿下に乞い奉り
彫りてこの石を建つ」
7人とは私が知ってる人は、東郷平八郎と乃木希典のみですが、詳しい人はご存知かもしれないので、残りの5人は伊東祐亨 井上良馨 高崎正風 上村彦之丞 藤井茂太とありました。海軍・陸軍人々です。
説明板には:露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官 男爵 上村彦之丞 明治43年6月5日 とありました。日露戦争の時に手に入れたのでしょうか?ちなみに、水雷を置いてある拝殿右手から、防衛大学へ続く道がありました。観音崎周辺には日本の防衛を担うものが色々残ってる模様です。
ご神木。ご神木の左奥に、包丁塚がある。これは走水の住人であった大伴黒主が日本武尊に料理を献上した故事に由来して建てられたもの。
当日は神社の祭事がありまして、ゆっくり撮影出来なかったのだ。
時刻は既に11時45分になっています。いけません。なんと!馬堀海岸駅から既に80分かかってます。う~む。そんなに寄り道してないのに、時間がかかり過ぎです。当初計画ではここまで半分位だったハズ…。こ~れ~は~、今日は浦賀の歴史散歩は諦めるしかないかも?
さ、先を急ごう。観音崎で時間短縮出来るかもしれんし。続きます。
ちなみに、中断前の記事は11月に掲載してあったのですが、流れが悪いのでこの記事の直前に移動しました。散歩開始時から読みたい!と思われた方は、下へスクロールして下さい。
足柄峠を越えて相模国に入った古代東海道は、鎌倉を経て走水に至り、ここから海路をたどって上総の国へ通じていた。
主祭神:日本武尊・弟橘媛命
景行天皇の御代、東征中の日本武尊は、古代東海道をたどって来たり走水から船で上総へ渡ろうとしたが、暴風雨に阻まれ立ち往生した。この時同行してきた弟橘媛がみずから入水して海神の怒りを鎮め、航海の安全を図ったという伝説にちなみ創建された古社。
日本武尊が航海に先立ち「水走る」と称えたことから走水の地名が起こったという。
明治18年(1885)に旗山崎が軍用地になり、弟橘媛の櫛が流れ着いた旗山崎(御所ケ崎)に立てられた社を走水神社境内へ移し、めいじ42年(1909)に合祀した。
航海の安全を願って奉納された舵の碑。
絵馬も弟橘媛。
上の画像は社殿から走水海岸に向けて撮影しましたが、一番パワーが強いとされるのは社殿の左に続く道の奥。三の宮の奥から走水海岸を望む場所さそうです。そこまで行かなかった~。アホか~~っ!!
んでも三の鳥居までは行ったの。そこにあった石碑です。
「さねさしさがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも」竹田宮晶子内親王御染筆
私は鈍感な方ですが、トップ画像の石段辺りから上はなんか空気が違ってる気がしました。気のせいかもしれんが…。
説明板発見:弟橘媛命の記念碑
日本武尊 弟橘媛命の御遺蹟を偲奉りて(弟橘媛命の記念碑裏面 東郷平八郎閣下の草案に成ると曰ふ)
嗚呼此れは 弟橘媛命いまはの御歌なり
命夫君 日本武尊の東征し給う伴われ
駿河にては危き野火の禍いを免れ 此の走水の海を渡り給う
時無く暴風に遭い 御身を犠牲として尊の御命を全からしめ
奉りし其のいまはの御歌なり
御歌に溢るる心情はすべて夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず
其の負烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし
廃八郎等七人相議り 同感者を得 記念を不朽ならしめむと
御歌の御書を竹田宮昌子内親王殿下に乞い奉り
彫りてこの石を建つ」
7人とは私が知ってる人は、東郷平八郎と乃木希典のみですが、詳しい人はご存知かもしれないので、残りの5人は伊東祐亨 井上良馨 高崎正風 上村彦之丞 藤井茂太とありました。海軍・陸軍人々です。
説明板には:露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官 男爵 上村彦之丞 明治43年6月5日 とありました。日露戦争の時に手に入れたのでしょうか?ちなみに、水雷を置いてある拝殿右手から、防衛大学へ続く道がありました。観音崎周辺には日本の防衛を担うものが色々残ってる模様です。
ご神木。ご神木の左奥に、包丁塚がある。これは走水の住人であった大伴黒主が日本武尊に料理を献上した故事に由来して建てられたもの。
当日は神社の祭事がありまして、ゆっくり撮影出来なかったのだ。
時刻は既に11時45分になっています。いけません。なんと!馬堀海岸駅から既に80分かかってます。う~む。そんなに寄り道してないのに、時間がかかり過ぎです。当初計画ではここまで半分位だったハズ…。こ~れ~は~、今日は浦賀の歴史散歩は諦めるしかないかも?
さ、先を急ごう。観音崎で時間短縮出来るかもしれんし。続きます。
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