今年2回目の大寒波襲来は、どこに行ったのでしょうか。今朝から快晴で、雪面に朝の光が反射していました。大雪警報の中での快晴ですから、助かったことでしょう。
雪国の不思議な現象に、「しみわたり」があります。雪面が凍り、大人でもその上を歩くことができます。晴れた日が2日続かないとこの現象は見れませんので、もう少し春に近づかないとだめですね。 越後のノウサギは、冬の間は白い保護色になります。ライチョウなども同じように、色が変わりますね。
ケンケンパ、ケンケンパの要領で進みますが、縦に2個並んだ小さな跡が前足で、横に2個並んだ大きな跡が後足です。雪面に残った足跡からも、ノウサギの跳躍力に驚きます。 (長岡市)
雪国の不思議な現象に、「しみわたり」があります。雪面が凍り、大人でもその上を歩くことができます。晴れた日が2日続かないとこの現象は見れませんので、もう少し春に近づかないとだめですね。 越後のノウサギは、冬の間は白い保護色になります。ライチョウなども同じように、色が変わりますね。
ケンケンパ、ケンケンパの要領で進みますが、縦に2個並んだ小さな跡が前足で、横に2個並んだ大きな跡が後足です。雪面に残った足跡からも、ノウサギの跳躍力に驚きます。 (長岡市)
今年2回目の大寒波襲来で、新幹線以外のJR線は、ほとんど運休の状態でした。三国を越えると真っ白な世界に変わりますが、大雪にしては湯沢の雪量は、意外に少ないように感じました。
長岡駅(長岡城の本丸跡)から車で、長岡城の大手だった大手通りを進みますと、信濃川にかかる大手大橋があります。火焔土器と長岡の象徴になっていますフェニックスの標識が見えてきます。戊辰戦争でこの付近を、西軍が洪水の信濃川を渡って奇襲しましたので、長岡城は落城しました。
この日向かったのは、知り合いが入院しています長岡赤十字病院です。この病院の前身は、米百俵で設立した長岡会社病院です。病院からは信濃川、そして長岡市街が見えるのですが、この日は雪で視界がききませんでした。信濃川河川敷一帯は、長岡祭の花火の会場です。 (長岡市)
この日向かったのは、知り合いが入院しています長岡赤十字病院です。この病院の前身は、米百俵で設立した長岡会社病院です。病院からは信濃川、そして長岡市街が見えるのですが、この日は雪で視界がききませんでした。信濃川河川敷一帯は、長岡祭の花火の会場です。 (長岡市)
我が家の庭のコケリンドウ(苔竜胆)は、今年が2回目の越冬である。最初の冬は小さな葉を見ても、越冬葉だと自信がなかったが、今は間違うことはない。名前の語源にもなっている苔のような小さな葉で越冬をする。
越冬する場所は、霜が根が浮き上がらない、苔などの間が好きなようである。
明日から来週の初めまで、長岡で用事があり、ブログを休みます。田舎の豪雪の画像で、再開になると思います。 【山野草の索引へ】
越冬する場所は、霜が根が浮き上がらない、苔などの間が好きなようである。
明日から来週の初めまで、長岡で用事があり、ブログを休みます。田舎の豪雪の画像で、再開になると思います。 【山野草の索引へ】
花の少ない季節の公園などでは、パンジーととも冬場の花の代表格である。和名のアラセイトウ(紫羅欄花)より、ストックの名で知られている。「ストック」は英語名で、幹や茎を意味する。スキーのストックも同じ意味である。
アブラナ科/アラセイトウ属。
南ヨーロッパ原産の半耐寒性多年草であるが、秋まきの一年草として扱う。和系はアラセイトウ(紫羅欄花)。
葉は披針形で花は紫、赤、白色など多彩である。切り花では八重咲き品種の人気が高い。
花期:12~4月。
(多摩丘陵)
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南ヨーロッパ原産の半耐寒性多年草であるが、秋まきの一年草として扱う。和系はアラセイトウ(紫羅欄花)。
葉は披針形で花は紫、赤、白色など多彩である。切り花では八重咲き品種の人気が高い。
花期:12~4月。
(多摩丘陵)
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国営昭和記念公園で見たシュンラン(春蘭)に、大きな実が付いていた。葉に隠れるように咲く小さな花とは、不釣り合いの大きさである。この後、縦方向に裂け、風に乗せて埃のような種子を飛ばす。葉に隠れるように、今年の春に咲く蕾がある。
我が家では株の衰えるのを恐れ、実が付いてもいつも切り取っている。 (国営昭和記念公園)
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我が家では株の衰えるのを恐れ、実が付いてもいつも切り取っている。 (国営昭和記念公園)
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幕末にイギリス人ベアトが、愛宕山から写した江戸の街並みは、当時の大名屋敷を正確に伝えるものとして極めて貴重です。正面に写った屋敷が長岡藩邸です。
幕末の長岡藩邸は、皇居二重橋付近に上屋敷、愛宕下に中屋敷、深川と広尾に下屋敷、向島に預かり屋敷がありました。上屋敷は藩主の役職により、たびたび屋敷が変わりますが、中屋敷などはほとんど同じ場所にありました。
尾張屋板の切絵図では、御紋が付いているのが上屋敷、■が中屋敷、●が下屋敷です。また文字の頭方向が、屋敷の入口になります。
都市図画家の立川 博章氏は、明治陸軍の測量図、古文書、古地図、浮世絵等の情報から、江戸の町並みを鳥瞰図で再現しましたが、空から町を見たような素晴らしさです。
幕末に西郷隆盛と勝海舟が愛宕山に登り、江戸の町を戦火から守ることを話し合ったといいます。この鳥瞰図のような光景が、二人の前に広がっていたのでしょうね。 この日は新潟から上京された長岡藩士の末裔が、五間梯子の肩章を持参しました。長岡城が落城し、八十里越から会津の戦火を潜り抜けた貴重な品物です。 長岡藩邸の詳しいことについては、“江戸の長岡藩邸めぐり”、五間梯子については、“長岡藩藩旗の「五間梯子」”をご覧下さい。
(東京都港区)
尾張屋板の切絵図では、御紋が付いているのが上屋敷、■が中屋敷、●が下屋敷です。また文字の頭方向が、屋敷の入口になります。
都市図画家の立川 博章氏は、明治陸軍の測量図、古文書、古地図、浮世絵等の情報から、江戸の町並みを鳥瞰図で再現しましたが、空から町を見たような素晴らしさです。
幕末に西郷隆盛と勝海舟が愛宕山に登り、江戸の町を戦火から守ることを話し合ったといいます。この鳥瞰図のような光景が、二人の前に広がっていたのでしょうね。 この日は新潟から上京された長岡藩士の末裔が、五間梯子の肩章を持参しました。長岡城が落城し、八十里越から会津の戦火を潜り抜けた貴重な品物です。 長岡藩邸の詳しいことについては、“江戸の長岡藩邸めぐり”、五間梯子については、“長岡藩藩旗の「五間梯子」”をご覧下さい。
(東京都港区)