中越地震復興「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
寅太の家の庭に咲く山野草などのブログです。

歴史の宝庫かしわざき(その12)

2008-10-31 06:49:05 | 四季

【いざ!勝海舟のふるさとへ(2)】

きのうの朝刊各紙は、甲南女子大で保管している源氏物語「梅枝(うめがえ)の巻」が鎌倉時代の写本で、勝海舟の「勝安芳」の蔵書印があるのを、発見したことを載せていた。

さて、親切な民家のおじいさんにお礼を言い、車は杉林の道を下る。昔はみんな貧しかったので、飢饉の恩人なら囲炉裏を囲んだ一家の団らんで、父親が子供に検校のことを聞かせたのではなかろうか。
いまでは、とうに囲炉裏などなくなり、子供達は自分の部屋でテレビを見るだけ、地元の古い言い伝えなどには関心を示さない。
世間のオヤジ達は話す場がなくなり、すっかり無口になって威信も低下してしまった。

さて、棚田を過ぎると道路の傾斜が緩やかになり、道幅もかなり広くなり、向こうに集落が見えてきた。ここが2つ目の御礼塔がある大角間(おおがくま)の集落である。
この塔は今回の地震で、土砂の中に埋もれたのを掘り起し、道路脇に移し代えたという。道端の見易い所に置かれ表示もあり、車で走っていてもこの塔を見逃すことはない。
近くの看板には、「思いやりのある明るい村大角間」、そして「小さな村の大きな元気」とある。思いやりのある勝海舟の祖先のふるさとが、中越沖地震から早く立ち直り、明るい村そして元気な村を取り戻してほしいものである。


畑にソバ(蕎麦)が植えてあった。株の間から地面が見え、昔の稲作ができない痩せた畑などでよく見る光景であった。


(痩せた地にも生えるソバ)

道端の碑は3つあり、中央の大きな碑が、この地域でよく見られる筆塚である。庶民が読み書きができなかった江戸時代のものではないと思うので、明治のころに地域の成功者である米山検校のことを話し、子供達に学ぶことの大切さを教えたのであろうか。
左の塔は風化が以外に少なく、米山検校の名前が明瞭に判読できる。

 
(杉林の狭い道を下る)   (急に開け棚田が現れる)

 
(向こうに集落が見える)    (近づくと大角間の里)

 
(検校御礼塔は向こうに)  (3つの碑の前に並ぶ椅子)

 
(中央の碑は筆塚のようだ)  (左の碑が米山検校御礼塔)

このあたりからは道幅も広く、立派な舗装道路が続き、車は少しだけ長鳥方面に進む。また向こうに集落が見え、同時に赤い舟底の舟が一艘見えてくる。勝海舟の祖先のふるさとを思い起させる、咸臨丸の文字が目に飛び込んできた。(つづく)

 
(さらに道を走る)     (あっ、あの咸臨丸だ)

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歴史の宝庫かしわざき(その11)

2008-10-30 05:23:09 | 四季
【いざ!勝海舟のふるさとへ(1)】

先駆けが2発入ったが、いよいよ本番である。小千谷や長岡の花火は基本的には奉納花火で、花火が揚がる前に奉納の説明をする。昨年の小千谷は片貝の浅原神社での還暦者提供の花火を見てみよう。
「お待たせしました。祝還暦、片貝中学校第17回卒業“となかい”のみなさんによる、“人生に同朋ありて一緒に歩まん、我が道の掉尾を飾る”先駆け10号、豪華絢爛大スターマインの打揚げでございます」と放送が流れる。(でもこの花火すごいね、寅太もたまげた)

いつもコメントに登場する信徳さんは、前橋にお住まいとのことである。前橋は江戸時代の初めに、我が長岡藩の大胡城(おおごじょう)のあったところである。しかも戦国時代は、上杉謙信が、「厩橋城(うまやばしじょう)」を置き、そこに越後毛利の本流の北条(きたじょう)高広をおいて、北条(ほうじょう)など関東の押さえとした。
厩橋の北条は坂東武者の末裔ではなく、鎌倉幕府の重鎮大江広元に連なる公家の末裔であり、長州毛利は越後毛利の支流である(くど~い、齢をとった)。

さて、700年遡る毛利家の祖先に比べれば、こちらは明治の後半まで生きた勝海舟の祖先ははっきりしている。
後に米山検校と名乗る曾祖父の(山上)銀一が、柏崎市の長鳥を後にしたのは、今から約200年前である。越後には盲目が多く、。女は瞽女(ごぜ)になり、男は鍼灸や按摩、そして琵琶などを弾き、そのわずかな収入で生計をたてた。

銀一は越後から江戸に入り、行き倒れ同様なところを、幕府の奥医師石坂検校に救われた。そして江戸で成功した銀一は、盲人組織の最高位である検校の官位を買い、ふるさとの山に因んで米山検校(けんぎょう)を名乗った。
詳細は、「勝海舟の祖先のふるさと杉平」をご覧いただきたい。

北条コミュニティセンターで概略の道順は聞き、長鳥に入ったが、結果的には最初の入口がわからず、JR信越線の踏切から道を登り、峠を越えて三波晴夫の故郷の長岡市の塚山まで入ってしまった。この道はいつか来た道である。寅太が柏崎に住んでいた3年半の間に、数え切れないほど長岡との往復に使った「塚山峠」である。

峠の道では誰にも会わないし、誰かに聞けばわかる話でもなく、歴史を知っていそうな人は鯨波から訪ねた多くの人の雰囲気でわかる(お主、ごぞんじだな・・・て調子)。車は元の長鳥駅の近くまで戻り、踏切の先にある細い道を登る。やがて道幅は少し広くなるが、途中で工事のショベルカーや小型ダンプカーに道を塞がれる。やっと工事現場を抜けると、大学生であろうかこの山道を使ってランニングをしている。でも検校の御礼塔の場所や検校の名前を聞いてもわからない。(なまえ~を聞いてもわからない、泣いてばかりいる寅太さん)

江戸で成功した検校は、数度にわたる故郷の飢饉に、救援米を贈り飢餓から住民を救った。長鳥地区には今でも3つの御礼塔があるといわれ、残っているのは、岩の入、大角間(おおがくま)そして杉平の集落である。
峠はやがて下り坂に入るが、それらしき塔には出会わなかった。
途中にある墓地の近くには、アキノキリンソウ(秋の麒麟草)の群生とキキョウ(桔梗)が、夏を惜しむかのように咲いていた。


(勝海舟のふるさと長鳥の道端に咲くキキョウ)

あきらめて下り始めると、右手に1軒の民家が見えた。地獄で仏とはこのことで、一人のお爺さんに訪ねると、100mほど戻った大きな桜の木の下に碑があるという。車から降りて歩いて戻った。道から2mぐらい斜面を登った草の中に3つの碑が並んで立っていた。
その一つが探す御礼塔で、左から十三夜塔、庚申塔、そして御礼塔であるが、肝心の御礼塔は文字が風化して読むことができない。お爺さんによれば、尾根伝いに交叉するように尾根道が走り、昔は柏崎から小千谷に抜ける街道で、その道端に立っていたとのことである。

 
(長鳥の踏切を渡り左に登る) (中越沖地震か工事中の道路)

 
(峠を過ぎて民家を発見)   (行き過ぎた道の上にあった塔)

 
(これが岩ノ入の御礼塔)    (十三夜塔と庚申塔)

勝海舟の祖先米山検校の末裔達はみな親切で、工事中のショベルカーや車も作業を中断して、道を譲ってくれたし、民家のお爺さんも道案内をしそうな雰囲気である。
お爺さんにお礼を言って、さらに下ると急に見晴らしの良いところにでて、前方に棚田が広がった。今でこそ棚田は美しいが、近年までは貧しさの象徴的な風景である。
(つづく)
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サンショウの実

2008-10-29 23:30:19 | 樹木
勝海舟の祖先のふるさとの杉平で見たサンショウの実が付いた木は、大きくて立派である。
アケビ(木通、通草のを貰った区長さんの家の近くにあったが、いま赤い実がいっぱいなっていた。

ところで、「伝説の宝庫かしわざき」シリーズは、間もなく終わるが、一つ気になることがある。それは中越沖地震から1年以上経過したので、柏崎市内の寺院の墓地の修復はかなり進んでいる。しかし、持ち主のわからない墓が、放置されていることである。
戊辰戦争から百数十年も経過すると、当然持ち主のわからない墓も多くなる。そして子孫は、そこに祖先の墓があることも知らない。

柏崎は桑名領で、戊辰戦争の後は、桑名に帰ったり、上京したものもあろう。菩提寺に永代供養せよとはとてもいえないし、放置した自己責任で、取り除かれるのも止むを得ないところである。
北越からやがて会津そして五稜郭を転戦する、藩主松平定敬が本陣とした勝願寺のある大久保の地には、桑名藩士の墓もあるのではないか。

勝願寺で見たものは、一見「三つ葉葵の紋」にも見えた。でも院殿の法名でないので、藩主ではない。「柏崎日誌」に関係がある極楽寺では、期限を決めて通知を呼びかけ、名乗らねば撤去するとの張り紙がある。
桑名市にお願いしたいのは、大きな桑名藩士戦没墓は今後も柏崎市(寺かも)が永代守るかも知れないが、今回撤去されようとしている墓石は、桑名市の責任において調査の上で、桑名市民に公表するなりして、幕を引いてはいかがでしょうか。

 
(勝願寺の立派な墓も)    (張り紙があった極楽寺)

(サンショウは柏崎市杉平)
【山野草の索引(樹木)へ】

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アケビの実

2008-10-28 06:51:08 | 樹木
勝海舟の祖先のふるさとで見た山野草などを紹介しよう。その後、「伝説の宝庫かしわざき」シリーズに戻ることにする。
花火の本番の先に揚がる、少し小さな花火を「先駆け」というが、勝海舟のふるさと柏崎・杉平の先駆けは先ずアケビの実である。
なぜ、微禄の勝海舟が篤姫や将軍に、何故お目見えできるのか、祖先の係わりからこのあたりの謎もわかってくる。

勝海舟の祖先になる米山検校のふるさとを先頭にたって守ろうとしている、地区の区長さんは惜しげもなく、アケビ(木通、通草の美味しそうな実を採ってくれた。
なお、越後に生えているアケビは、ほとんどがミツバアケビ(三つ葉木通)である。
(一部の画像はすでに公表済)

 
(鈴なりのアケビの実)    (勝海舟のルーツは杉平)

(アケビは柏崎市杉平)
【山野草の索引(樹木)へ】

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歴史の宝庫かしわざき(その10)

2008-10-27 09:28:34 | 四季

【いざ!日蓮上人ゆかりの番神堂へ】

きのうは東京の世田谷区にある松蔭神社で行われている、萩・世田谷幕末維新祭りの2日目であった。作家・一坂太郎氏の講演会が、松蔭神社の松下村塾で両日ともあり、1日目は「松蔭と阿部正弘」、2日目は「司馬遼太郎が描いた松蔭と晋作」である。2日目は司馬ファンも重なり、人出が多そうである。

柏崎の観光物産展の人達には、前日には、明日の午後に来ますといったが、長州の聖地で、「あなた達は越後毛利の末裔で、祖先をうんだ地の柏崎からきました」といったら、先祖を愚弄すると、桑名藩の地元柏崎が戊辰戦争と同じようにふたたび包囲される心配がある。敵襲に遇わないためには、理論武装が必要である。
最初に用意したのは、歴史読本「戦国大名家系譜総覧」である。ここには藩祖は毛利時親(ときちか)で、三浦泰村の乱(宝治合戦)で、毛利季光と長男、二男、三男は殺されたが、四男の経光(つねみつ)は柏崎・佐橋荘(さはしのしょう)で難を逃れ、長州毛利の祖の時親が安芸吉田荘を譲られたとある。

2冊目は、2003年のNHK大河ドラマ「北条時宗」である。ここには5代執権北条時頼(渡辺謙)と、夫に親と兄弟を殺され、愛の通わない妻涼子(浅野温子)の間に生まれた子が時宗(和泉元彌)とでてくる。主人公の母の父(おじいさん)が、1冊目にでる毛利季光(高橋英樹)である。そして高橋英樹の妻(おばあさん)は(三浦)藤子(大谷直子)で、反乱を起す三浦泰
村の妹である。
でも宝治合戦の説明は難しい。ここは、親子、兄妹、夫婦などを図にすると合戦の背景と厚木市の毛利が滅ぶ様子がよくわかる。

3つの資料があれば、敵地に乗り込んでも恐いものはなく、どんな非難の目にさらされても、歴史の真実をたんたんと述べるだけである。寅太は「常在戦場」、そして「義」に生きる末裔である。ここは中越地震のボランティアの心に戻り、「義により我は柏崎に助太刀」である。

毛利に比べれば、すぐ明治時代まで生きる勝海舟の先祖など、いとも簡単に説明できる。隣のブースは東京・龍馬会で、「坂本龍馬」の本が飛ぶように売れている。「龍馬の先生の勝海舟のふるさと柏崎にお寄り下さ~い。笹だんご、おいしいですよ~」。

でも、【いざ!勝海舟のふるさとへ】は、きょうは無理である。慈眼寺のホームページでは、ゆかりの自治体として「柏崎市」の切り口が今までなかった。
柏崎が毛利のふるさと宣言してくれたので、これからは勝海舟、坂本龍馬、桑名藩、貞心尼、良寛などに展開ができる。ここは、まずHPに勝海舟の記載が必要である。前置きが長くなったが、きょうは日蓮上人と番神堂である。

さて、柏崎にはいくつかの伝説があり、最も知られているのは「お光と吾作」である。「佐渡おけさ」や「佐渡情話」では、佐渡と柏崎は、竿をさせば届くといいながら、49里波の上と数字まで示して具体的である。
この距離をたらい舟をこぎながら、お光は番神岬の常夜灯を目標に、吾作の元に通った。妻子ある吾作は悩み、ある夜お光が目標にした常夜灯を消した。哀れにもお光は目標を失い、日本海の藻屑と消える悲恋の伝説である。

(海の柏崎 3番)

 ♪番神岬に夕陽は落ちて お光吾作の悲しき恋よ
    今も通うかタライ舟 ホンニソダテバサ アノソコノソノ柏崎 ♪


(いたるところにツワブキが咲く)

与謝野晶子もお光の一途な恋を詩にして残している。番神の諏訪神社に、お光吾作の碑と、たらい舟があるが、今回は寄らなかった。

  おたらい舟 荒波もこゆうたがはず 番神堂の灯かげ頼めば   与謝野晶子

番神堂は日蓮上人ゆかりの建物である。文永11年(1274年)3月、佐渡流罪を許された日蓮は、寺泊に着くべきところを大風に遇い、2日間漂浪して番神岬に流れ着いた。そして日蓮は三十番神をこの地に勧請した。明治4年の大火で焼失したが再建され、今は柏崎市の有形文化財である。 ホンニソダテバサ。

 
(番神堂と日蓮上人)

 
(日蓮上人着岸の地)

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歴史の宝庫かしわざき(その9)

2008-10-26 02:50:50 | 四季

【いざ!萩・世田谷幕末維新祭りへ】

近年は東京都世田谷区の秋の風物詩にもなっている、第17回の萩・世田谷松蔭祭りが華やかに開催された。今年からこの祭りに、初めて参加する柏崎に対する
来場者の反応が、気にかかるところである。

やはり、なぜ柏崎が長州毛利家のルーツなのか、不思議のようで朝から大きな菊の花を胸につけた大会関係者の訪問が多い。そしてその理由を説明すると納得し、みんなが極めて好意的に見えた。
朝の開幕の来賓者や大会関係者の数名が、柏崎市の参加に触れてくれたが、開幕でマイクを通しての発言は重みのあるところである。


(本日の華は、長州毛利の聖地で孤軍奮闘の会津若松親善大使の白虎隊士)

そして、会津若松市の観光関係者の挨拶では、会津が萩と同席するのはこの祭りだけで、それだけに意義深いことを強調していた。 
しかしながら、河村官房長官ら政府の要人が居並ぶ席で、祝辞に相応しくない過激な発言が含まれていると前置きしながらも、今年の4月頃に、TBSが会津若松鶴ヶ城の籠城戦において、降伏した理由として、択一問題の正解としたのが、「城内の糞尿問題で困った」こととし、全国に流したことには無念の様子で、おめでたい席の挨拶だけに、会津を出立するときに、これだけは発言して戻るのだとの決意が見えた。
義を誠を貫こうとした、会津を冒涜するようなクイズを作る関係者の、これからの反省を求めるところである。

 
(河村官房長官と越智衆議院議員の祝辞)

では会津が、柏崎に対して懐いているものは何であるのか、今日は確かめてみたい。柏崎は長州毛利家のルーツ、勝海舟の祖先のルーツの地を、今回の初参加では強調した。
でも柏崎は、会津藩主で京都守護職松平容保の実弟で、桑名藩主松平定敬の領地なのである。幕末に京都所司代として、共に京都の治安を守った仲間である。

長岡や柏崎は薩長に対しても怨念は少なく、会津には共に戦った親しみがある。
桑名藩が治める領地でも、新政府軍(西軍)の墓所は大切に守り続けてきた。
萩・世田谷幕末維新祭りを通じて、全ての参加団体の友好を強めて欲しいと願うものである。柏崎の出展の米や餅を中心した商品はよく売れていたことは付け加えておく。

 
(神社境内入口の絶好の場所に位置する柏崎ブース)

 
(大会主催役員も柏崎がなぜ参加と質問攻め)

慶応4年閏4月27日、桑名藩の領地の柏崎の鯨波(くじらなみ)で、海道を進んだ西軍の主力部隊と、会津・桑名の連合軍が衝突した。
長く、厳しい北越戦争の始まりで、激しい戦いは互角のまま夕方を迎えた。
しかし、十日町町経由の山道を進んだ別働隊が、「雪峠の戦い」と「小出島の戦い」の勝利が伝わると、一歩陣を引いた。

鯨波は死者が比較的少ない戦いであるが、雪峠と小出島が「戦い」なのに、こちらは「鯨波戦争」で、その激しさが伺える。
戊辰戦争後の廃藩置県で、この一帯は柏崎県になった。県庁が置かれた場所は、桑名藩陣屋である。また、北越の地に散った西軍の隊士の招魂所と沢山の墓は、東軍に組した桑名藩の地の、こころ優しい人々に今も守られている。

 
(鯨波で、左が西軍、右東軍の間で戦闘開始)

 
(桑名藩陣屋および柏崎県庁跡の碑と西軍の招魂所)

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歴史の宝庫かしわざき(その8)

2008-10-25 05:35:38 | 四季

【いざ!幻の毛利・南条館を探そう】

きょうは東急世田谷線の松蔭神社前駅の松蔭神社で、萩・世田谷幕末維新祭りがある。そこに、「一文字に三ツ星」の長州毛利家の幟を掲げ、柏崎市が初めて幕末維新祭りに参加する。
今回の柏崎の旅で、知り合いになった柏崎の実行委員のみなさんは、準備は万端であるが、当日の天候をとても心配していた。
でも大丈夫である。きのうまで降っていた雨はすでに上がり、天気は回復方向にある。祭りを見学する人は、毛利家の幟を見て、どんな反応を示すのか興味深々である。

松蔭神社の近くに
、柏崎出身の熱心な実行委員の一人がお住まいで、22日(水)にはFM世田谷の電波で、FM局の特派員として、祭りに来場を呼びかけていた。以前から、世田谷・萩・柏崎の、「3本の矢」にも似た、不思議な縁を持つ3つの地域をトライアングルとして捉え、FMの電波に乗せていたようである。
今回の初参加でメールの交換があり、寅太が管理人をしている、慈眼寺のホームページ“管理人のひとりごと”で、毛利家発祥の地を探るに気づいていたとのことである。
寅太は松蔭神社からかなりはなれているが、FM世田谷の周波数をキャッチできる場所を探し回った。
1箇所だけ完璧に受信できる場所があり、若い(見えないが若々しい声)パーソナリティと特派員で掛け合う形で、毛利家と勝海舟のルーツの地を紹介していたのを聞くことができた。
なんと、最後には慈眼寺のホームページの紹介があった(特派員さんありがとう)。

さて、きょうも幕末維新祭りの当日なので、番神さんと日蓮上人を後回しにして、肝心の毛利の里にしよう。


(北条コミュニティセンターの秋の草花)

地元の柏崎市議と待ち合わせ、まず北条(きたじょう)コミュニティセンターに向かう。本来ならJR信越線北条駅が出発点になるところである。
コミュニティセンターには、「ぬくもりの里・北条」の看板がかかっている。訪ねた地元の歴史に詳しい職員が、忙しそうに働いている。きょうは外部から多数の見学者が来るとのことある。来訪者の目的が、毛利の里かと思ったがさにあらず、中越沖地震の復興状態の視察のようである。

柏崎市がなぜ長州毛利家の里かは、先日のブログと、先ほどの毛利家発祥の地を探ると、毛利家のふるさと佐橋荘で述べているので、今回は省くことにする。

北条コミュニティセンターの「越後毛利氏と北条城」の説明文の前で、きょうの来訪者用を迎えるために、秋の草花を生けている最中である。
ススキ、ケイトウ、シロシキブ(白式部)と、赤紫色の花はコスモスの一種であろうか。
実はこの後、毛利氏ゆかりの南条館跡の佐橋神社には行かないで、一路勝海舟の先祖のふるさと長鳥(ながとり)へ向かった。

 
(JR信越線北条駅近くの北条コミュニティセンターを訪ねる)

勝海舟の先祖である米山検校の、出身地長鳥地区を訪問した後、ふたたび北条駅の近くに戻る。駅前の商店や付近を歩いている人に聞いても、場所がわかるような答えは返ってこない。
これは鯨波戦争や桑名藩陣屋跡を聞いても、ほとんどの住民は知らなかったので、もう驚くことではない。まず佐橋の言葉自体が知られていない。この一帯には鯖石川(さばいしがわ)が流れ、鯖石地区は一般的な名で飛ばれ、鯖石は佐橋からでたとも伝わる。
近くに由緒ありそうな「刈羽神社」が見つかったが、行ってみると刈羽神社で、探している佐橋神社とは関係なさそうである。

 
(付近を探すと、見つかったのは刈羽神社)

 
(八石山と佐橋神社がありそうないくつかの森)

 
(ついに発見、南条古城址・毛利館跡の看板)

車でかなり走り、会う住民にはほとんど聞いたが、佐橋や毛利は誰もわからない。でも今回も、一人幸運にも知っている人に会った。どうも近くの森の中にありそうなことをいう。そして遂に佐橋神社を発見し、やっと幻の南条館跡に立つことができた。

 
(南側には崩れそうな石段と佐橋神社の石碑がある)

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歴史の宝庫かしわざき(その7)

2008-10-24 06:29:08 | 四季
【いざ!美しき尼僧・貞心尼の足跡へ】

すっかり旅のブログになり、きょうは番神堂と日蓮を予定していた。でも、まわりに咲いている山野草は、ツワブキ(石蕗)ばかりである。
ふと気がつくと、花ではないが柏崎には華があることを思い出した。美しい尼僧の貞心尼で、柏崎が最も誇れる華に相応しい。
昔ほど良寛の史跡を訪ねる人は少なくなったが、それでも清貧の生涯を通した良寛の人気は続いている。

その晩年を彩ったのが、貞心尼との出会いである。柏崎にきて初めて美しい尼僧がブログに登場する(でも良い画像がない)。
また、河井継之助愛用の茶碗は、蓮月尼の作であるが、貞心尼は京都の蓮月尼と加賀の千代女とともに、幕末の三大女流歌人といわれる。
17歳で小出島(現魚沼市)の医師・関長温と結婚するが、6年ほどで離婚した。小出島を去った理由には諸説がある(またブログの友人の出身地の小出島が登場した)


やがてマスは知人のいる柏崎に移り、23歳のとき閻王寺にて剃髪し貞心と称した。28歳で福島村(現長岡市)の北にある閻魔堂に移り、良寛のうわさを聞き思慕の念を深めることになる。
文政9年(1826年)に貞心には、和島の島崎の木村家の庵居に移住していた良寛を訪れた。貞心尼30歳、良寛さん70歳の時であった。
長岡から信濃川を渡り、塩入峠の難所を越えて、やっと木村家に着くが良寛は不在だった。貞心尼は手づくりの手毬に手紙を添えて帰ることになった。

 これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ (貞心尼)
(子どもと手毬をついてあそんでいると聞きますが、それは仏への精進の道に思われます。私にも弟子にして一緒につかせて下さい)
良寛は返歌として次の詩を残した。
 つきて見よ ひふみよいむなここのとを 十とおさめて また始まるを (良寛)
(手毬をついて無心になるのを求めるならば、一緒について下さい)


(柏崎で最も美しい華の貞心尼)

良寛の死まで5年間、相聞詩の交換と訪問は続いてが、天保2年(1831年)に良寛は貞心尼に見取られながらか亡くなった。
 君にかく あいむることのうれしさも まださめやらぬ ゆめかとぞ思う (貞心尼)

二人の合作では
 くるに似て かえるに似たり おきつ波  (貞心尼)
         あきらかりける 君の言の葉    (良寛)

良寛の時世の詩は
 散る桜 残る桜も 散る桜     (良寛)
 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ    (良寛)
 形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉  (良寛)

良寛の没後しばらく閻魔堂にとどまっていたが、44歳のとき柏崎の洞雲寺住職から得度を受け、柏崎の釈迦堂の庵主となった。54歳まで釈迦堂に住んだが柏崎大火で火災に遭い、人々の寄進で不求庵を建て、二人の弟子とそこに住んだ。
遺稿に「もしほぐさ」や「蓮(はちす)の露(つゆ)などがある。

 
(市内に散らばる貞心尼の史跡と閻王寺にさす光)

 
(閻王寺にて剃髪し貞心と称す)

 
(大火後に住んだ不求庵跡)

柏崎の市内には墓や住んだ堂跡のほか、数え切れないほどたくさんの歌碑が駅前などに残されている。駅前の歌碑は別の機会にしよう。

洞雲寺の貞心尼の墓は、弟子の尼僧が建立したもので、「孝室貞心此丘尼墳」の法名と辞世の句が刻まれている。
 くるに似て かえるににたりおきつなみ 立居は風のふくにまかせて (貞心尼)

洞雲寺の本堂の前の歌碑には、生前を忍ばせるように、【恋は学問を妨ぐ】の二人の詩が並んでいる。
 いかにせむ まなびの道も 恋ぐさの しげりていまは ふみ見るもうし (貞心尼)
 いかにせん うしにあせすと おもひしも 恋のおもにを 今はつみけり (良寛)

 
(洞雲寺の山門と地震のつめ跡が残る本堂)

 
(洞雲寺の貞心尼の墓と歌碑)

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歴史の宝庫かしわざき(その6)

2008-10-23 06:23:21 | 四季
【いざ!行かん御野立公園へ】

きょうは10月23日、中越地震から4年が過ぎた。
あの時、ゴルフの帰りに友人を送って、京王線のS駅に向かい、その寸前で大きく揺れるのを感じた。あれから4年、早く中越の復興を祈るばかりである。

さて、長岡生まれの寅太でも「三階節」や「米山甚句」くらいなら知っている。でも柏崎に転勤して、初めて覚えた地元の歌は「海の柏崎」である。

(海の柏崎 1番)
♪ 行こか米山 御野立キャンプ 月の明かりで三階節を
    踊りゃ夜明けの鐘がなる ホンニソダテバサ アノソコノソノ柏崎 ♪

柏崎には明治天皇が明治11年に北陸巡行のおりに立ち寄られ、野立ちをされた風光明媚な場所がある。
天皇の野外休息所を御野立所というが、ここは巡行を記念して御野立公園となっている。

外はまだ少し暗さが残っている。海岸に咲くツワブキもフラッシュを使っての撮影である。でもこの色は日本海に沈む夕日にも似ている。
中越地震復興「寅太の山野草」も、適当な画像がなく、だんだん「寅太の旅」になりかかっている。


(海岸でよく見るツワブキ(石蕗)は今が満開)

天皇巡行の地だけにいくつかの碑がある。能登半島を望む斜面に、「能登岬はろけき月のかりわたる」の大場遍路(おおばへんろ)の句碑がある。

そして柏崎なら田中角栄である。顕彰碑には角栄の恩師元二田小学校長の草野道之輔書と下田村(現三条市)がうんだ文学博士諸橋轍次もろはしてつじ)の撰である。
特別協賛ではライシャワー駐日大使の名前も読み取れる。
地元での角栄の人気は絶大である。ホンニソダテバサ。

この付近から米山の海岸線一帯は福浦八景と呼ばれ、風景がもっとも綺麗な所とされている。特に鴎が鼻から米山を背景にした米山大橋は絶景である。

(海の柏崎 2番)
♪ 海の福浦岩間の千鳥 浮かぶヨットに飛び交うかもめ
    夢の国かよ佐渡島 ホンニソダテバサ アノソコノソノ柏崎 ♪


長岡育ちの寅太は、海を眺めるのが好きである。今回、柏崎に集まった先輩は、後輩のことをあだ名で呼ぶことが多かった。寅太のあだ名は「太陽」で、目が輝いて、そして真っ赤になって白い球を追いかけることからだと、前回の集まりで先輩が教えてくれた。
日本海に沈む夕日を、一人で飽きることなく見ていた。金色に輝く夕日から1本の道が自分に対して走っている。
違う場所から見ている知らない人に、「こちらから見ると綺麗ですよ」というと、「こっちもきれいですから」と返事がくる。
そこに動くと、光の帯がどこまでも追いかけてくる。夕日はみんなに向かって道をつくり、平等に光を与えてくれることを知った。
ウソのような話である。ホンニソダテバサ。

 
(福浦八景の看板と御野立公園の入口)

 
(公園から米山方面と、右は天皇巡行碑)

 
(遍路の句碑と田中角栄の顕彰碑)

 
(左は米山方向、右は柏崎市街)

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歴史の宝庫かしわざき(その5)

2008-10-22 09:56:27 | 四季
【いざ!出陣鯨波の戦場へ】

中越地震で被災地に駆けつけた寅太の車には、テントと中越地震のボランティアの時に使った毛布が積んである。
久しぶりの柏崎では1時間でも貴重に感じ、朝5時に古戦場の鯨波に向かう。

ここは戊辰戦争で高田に終結した新政府軍(西軍)が、長岡そして会津に向かう途中に通過せねばならない要地にある。
柏崎は会津藩主松平容保の実弟で、京都所司代桑名藩11万石松平定敬(まつだいらさだあき)の飛地であるが、本領の桑名とそれほど大きさは変わらないのが実情であろう。

桑名藩松平(久松)家は、徳川家康の異母弟にあたり、母御大の方が離別したあとに生まれた久松定勝に連なる藩である。11万石ではあるが、松平正信を迎えたことにより、格式は極めて高い家柄である。

西軍は高田から海道と山道の二手に分かれ、山道軍は会津藩陣屋のある小千谷と小出島に向かい、海道軍は桑名藩の柏崎に迫った。一方、東軍は鯨波駅裏の小高い山の松林に潜み、西軍を迎え撃つ備えを固めた。
そして閏4月27日の未明に、山頂の東軍と米山を背景にした集落近くに到達した西軍との間で、激しい銃撃戦が始まった。
一説には鯨波駅の西にある前川を挟んで、西軍2500名、東軍500名の激しい銃撃戦で、付近の集落一帯は炎に包まれたという。

ここに会津征伐の初戦である「鯨波戦争」の火蓋が切られたのである。西軍にとっても苦難の北越戊辰戦争は事実上ここから始まる。
一日続いた戦闘は五分五分に見えたが、夜半に雪峠、小出島の戦いの敗戦が伝わると、西軍は陣地を後ろに引いた。


(戦場跡地に咲くノコンギク)

鯨波で「鯨波戦争」を聞いても誰もわからないが、でもここまできて寅太も引き下がれない。10人目位に訪ねたおじいさんから、鯨波駅の背景にある蒼海ホテルの跡地と米山方向の集落との間で砲撃戦があったという。
それと今は老人ホームになっている小高い丘は、昔はかなりの高さがあり、ここから戦いを物語るような銭の束が出たともいう。
それではいま寅太が立っているところは、戦場の真っ只中ではないかと空を見上げる。まだ明けきってはいないが、越後路の秋の空は青く澄み渡っている。

 
(鯨波駅前に愛車を止めて、背後は鯨波の海)

 
(鯨波周辺地図と美しい鯨波の浜辺)

 
(左が西軍、右東軍の間で戦闘開始)

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