中越地震復興「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
寅太の家の庭に咲く山野草などのブログです。

岡田幹事長が憲政の神様の里へ

2009-05-31 01:19:15 | できごと

当初は、天地人の直江屋敷を訪れる予定であったが、民主党幹事長に就任して間もない岡田克也氏が、津久井湖記念館において講演会があるというので出かけた。
この津久井湖の湖底に、憲政の神様と崇められる、尾崎行雄(咢堂)の故郷が眠っている。
幼少のころ津久井町又野で過ごした咢堂は、役人だった父の転勤に伴い各地に移り住む。明治23年の第1回衆議院選挙は、三重県から立候補することになる。25回連続当選、東京市長などを歴任した。
また米国に桜を贈り、ハナミズキ(花水木)を返礼に貰ったのはよく知られた話である。
会場になった津久井湖記念館の外に、ハナミズキに似たヤマボウシ(山法師)が満開であった。


(尾崎咢堂の故郷に咲くヤマボウシ)

 
(会場の津久井湖記念館と満員の聴衆に語りかける幹事長)

姿三四郎の決闘の地としても知られる峯の薬師に、咢堂の手植えのモミジと句碑が残されている。 
岡田幹事長の選挙区は三重である。憲政の神様が生まれた里での演説では、政権交代を熱く語った。
岡田幹事長は民主党代表の座は鳩山由紀夫氏に譲ってはいるが、近い将来に来る総理の候補であることは、多くの人の認めるところであろう。
咢堂の詩を心に秘めて、国民のための政治を行って欲しいものである。

 
(峯の薬師の尾崎咢堂句碑)

 
(熱く語る岡田克也民主党幹事長)

(相模原市城山)
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天地人(春日山城その2)

2009-05-30 00:40:21 | 歴史

坂道には各種の植物が生えているが、エンレイソウ(延齢草)がかなり多いのに気づく。このエンレイソウの何代か前の、人間に例えるなら、いわゆる祖先が謙信公や御館の乱を見たのであろうか。
二ノ丸を過ぎると、山頂の本丸はすぐに着き、本丸跡には史跡春日山城址の大きな石碑がたっている。本丸に連なる南側に天守閣跡がある。山頂からの眺めは素晴らしいが、眺めるのは後回しにして、御館の乱で三の丸の景虎と闘った、景勝屋敷に急ぐため、山頂を通り越して反対側に降り始める。


(春日山城の山道でも見たエンレイソウ)

 
(春日山城と現在位置)

本丸のすぐ下に本丸側に傾斜した大きな松の木があり、その近くが杭で囲った箇所がある。底に水をたたえた大井戸跡で、山頂に水が沸くのは、地質学的には西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が働いて水が湧き出ると、説明文には書いてある。
物理の原理など知らぬ当時の武士は、神から授かった湧き水とでも思っていたことであろう。
大井戸の先はかなり深い掘割があり、その向こうの広い所が景勝の屋敷跡である。
ドラマでは景勝役の北村一輝が、極度に寡黙で気難しい役を熱演しているが、春日山城の館の配置からも、裏側の印象は拭いない。
景勝屋敷を見学した後は、ふたたび頂上に戻り、山頂からの上越市の街並みを展望する。
次回に記載する直江屋敷の方向に、米山と直江津の海が見える。
先ほどの景勝屋敷は、昔は展望は開けていたのであろうが、現在は樹木が茂って見ることができない。
次回は毘沙門堂などを見ながら、直江屋敷に下ることにする。

 
(本丸跡)

 
(天守閣から景勝屋敷へ)

 
(井戸)

 
(景勝屋敷跡)


(春日山の頂上からの眺め)


(米山と直江津方面)

(上越市春日山)
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天地人(春日山城その1)

2009-05-29 07:44:26 | 歴史
御館から車で20分ほど街中を走り、春日神社の入口に着いた。ここに駐車場があるが、狭いので10台程度しか止めることができない。神社を見学しながら、春日山城があった山頂まで登ることもできる。
昨年の10月に春日山に来ているので、この駐車場の石垣の上から謙信公の銅像が見おろしているのは知っている。かなり草が茂り、謙信の見通しが悪くなっているので、この画像は紅葉が始まる昨シーズンのものである。
この奥に車で行く人はほとんどいないが、昨年の学習効果で、山頂に最も近い、最後の駐車場まで車で進んだ。 先には売店もトイレもないので、急いで進まないように注意が必要である。


(ノアザミ)

 
(上杉謙信公と現在位置)

春日山城については、各所に建てられた立派な案内や、売店では城郭の予想図も売っているので学習してほしい。
三の丸への山道に、景虎をイメージさせるような美しいノアザミ(野薊)が咲いていた。
御館の乱で景勝と争うことになる景虎は、北条氏康の7男として生まれ、幼い頃は甲斐の武田氏の人質となり、越後にも人質としてやってきた。天性の美貌と聡明さを備えたに人質を謙信は慈しみ、自分の幼名の景虎を名乗らせ、景勝の妹(姉とも)を娶らせた。
越後毛利の血を引く由緒ある武将等は、成り上がりの上田の景勝よりは、相模の北条の血を引く景虎を担いでも不思議ではない。こんなことからアザミのように、景虎の隠されていた刺を出させてしまった。
三の丸には米蔵と上杉三郎景虎の屋敷があるが、相模の北条から来た若者に、謙信はいかに期待していたかがわかる。
さらに登ると二の丸であるが、本丸(実城)を取り囲むように位置し、春日山の中核機能があったことが伺える。
もう少しで頂上の本丸に着くが、まだ景勝や直江兼続の屋敷が出てこない。予習のつもりで、もう一度イラストマップに戻ると、マップでは隣り合わせのようになっているが、本丸を挟んで、景勝の屋敷があり、右端に直江屋敷も見える。

 
(春日山城の城郭予想図)

 
(三の丸屋敷跡)

 
(上杉三郎景虎屋敷)

 
(二の丸屋敷跡)

(上越市春日山)
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シャクナゲ

2009-05-28 08:42:07 | 樹木

越後路で、シャクナゲ(石楠花)は、よく見る植物である。
♪佐渡のつばめは 千里の海も 恋のつばさで 越えると聞いた♪
細川たかしの「佐渡の恋唄」には、♪赤いシャクナゲ 咲く岬♪ と、佐渡の岬に咲く赤いシャクナゲが歌詞にでてくる。
佐渡のつばめは恋で千里の海を渡ったが、きのうの新聞によると、佐渡の雌のトキ(朱鷺)は雄を
捨てて海を渡ったようである。
さて、天地人ゆかりの地は、直江兼続と主君の上杉景勝が生まれた上田庄がある南魚沼市、そしていま旅している上越市、兼続とお船の与板城がある長岡市、そして上杉家が移り住んだ米沢市が挙げられる。
上越という文字は、新潟の出身者でもよく理解してない。越後を3つに分けた時、上方に近い所から、上越、中越、下越(かえつ)となり、これに地方を付け上越地方、中越地方などと呼んでいる。しかし上越線の開通により、上越の言葉が独り歩きを始めた。
上越線は、上野(こうずけ)国高崎駅と越後国の宮内駅(長岡駅の一つ手前)を結ぶ線である。この線は群馬県側から国境の清水トンネルを抜けると、雪国の湯沢に出て、そのまま中越地方を走る。
上越のスキーといえば、上越線沿線にあるスキー場を指し、100年前に日本にスキーを伝えた、レルヒ少佐の銅像があるスキー発祥の地の上越市のことではない。


(赤いシャクナゲ)

 

このように上越線の基点は上野(こうづけ)であって、かっての東京の表玄関の上野ではないが、上野を始発とした上越新幹線の誕生により、ますます混乱してきた。
一方、上越市が誕生したのは、昭和46年(1971年)のことで、城下町高田市と湾口と工業都市の直江津(なおえつ)市が合併してできた。
高田市は天地人の舞台になっている春日山を含んでいるが、やがて徳川家康の子の松平忠輝が、平地に高田城を完成させ、幕末は高田藩榊原家15万石で維新を迎えた。
高田市の市制施行は明治44年で、直江津市の昭和29年よりかなり古い。
では高田市の歴史が古いかというとそうでもない。直江津は越後の国府が置かれたところで、国分寺や越後一ノ宮の居多神社(弥彦神社も越後一ノ宮)もこの地にあり、謙信の時代にも湊町として栄えた。
ここに御館が建てられたのは、当時は最もなことである。
直江津は、直江の津と呼ばれ、直江兼続の直江家の名前の由来になっているようである。

 
(さあ、次回は一気に春日山へ)

石楠花、石南花/ツツジ科/ツツジ属。
中国原産のツツジ科の常緑低木。有毒植物。
葉身は長楕円形で全縁、枝先に花を多数付ける。
名前の由来:中国名の石楠花からこの名が付いた。
花期:4~6月。
(上越市)
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天地人の御館とツツジ

2009-05-27 00:24:27 | 歴史

NHK大河ドラマ「天地人」の前半の山場は、謙信が死んだ後に、後継者をめぐり争った御館の乱(おたてのらん)である。
謙信の四人の養子の中の、若い二人が争うことになるが、謙信の姉(妹とも言われる)の子の上杉景勝と、相模の北条からきた上杉景虎の、二人の養子が、越後の有力武将を二分して戦った。
謙信が後継を決めないで亡くなったことが、争いのもとになったが、謙信は景勝を越後守護職に、一つ年長の景虎に関東管領職を継がせようと考えていたと思われる。


(御館公園に咲く赤いツツジ)

 
(御館公園に向かって左と右の現在の様子)

御館は、北条に追われて越後に逃げた関東管領職上杉憲政のために、謙信が造営した館で、関東管領職を譲られてからは、謙信もここで政務を行った。
二重の堀に囲まれた東西120m、南北150mの規模で、現在は六分の一が御館公園として残っている。
御館の乱については、最後から2枚目の画像を拡大してほしい。
御館公園の一角には、赤いツツジ(躑躅)が咲いていた。

 
(かっての館跡と建物予想図)

 
(公園の表示と御館の乱)


(いよいよ天地人のゆかりの地へ)

(上越市五智)

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鴎が鼻のトウキ

2009-05-26 07:19:49 | 四季

むかし、米山登山をするといえば、土産にトウキ(当帰)を催促された。米山が見える柏崎海岸の鴎が鼻(かもめがはな)にも生えていて、日本海に沈む夕日に照らされていた。
この一帯は福浦八景と言われ、その中でも海岸からの眺めが綺麗なのが、鴎が鼻である。遠くに米山、その手前に赤い米山大橋、そして海岸線が綺麗である。
8代将軍吉宗の孫で、寛政の改革で知られる松平定信公は、白河と柏崎を領地とした。諸外国からの開国の動きを機敏に察知し、柏崎の海岸線に台場(砲台)を築いて防備を固めた。
定信の説明は真面目な歴史の話であるが、説明文が書かれた石碑の回りはちょっと異様である。


(米山名物のトウキが夕日に輝く)

 
(米山国定公園で最も綺麗な福浦八景鴎が鼻)

少しカメラを引くと、何とこの岬はいつの間にか、お台場から恋人岬に変ってしまった。
柏崎に住んでいたころは、恋人岬などなく、今は中年?男が一人で、カメラを下げて来る所ではなくなった。
日本海に沈む夕日を、久しぶりに見た。少し水平線に雲がかかり完璧ではないが、恋人岬(いや鴎が鼻です)からの眺めを堪能した。

 
(松平定信の砲台跡の説明、そして今は恋人岬)

 
(日本海に沈む夕日)

(柏崎市福浦八景鴎が鼻)

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ワスレナグサ

2009-05-25 00:32:00 | 山野草

招魂社祭の後、遠路広島から参加した、長岡藩士の末裔と古戦場に出かけた。
先祖の名は伊東道右衛門、長岡藩士の中でも最も勇敢に闘った一人である。
この道右衛門の碑が、古戦場に近い福島江のほとりにある。常在戦場の長岡藩士の碑はいくつかあるが、その中でも際立って立派な碑を、地元住民が建ててくれた。
槍の達人だった道右衛門はこの時すでに62歳、「我と戦わんと欲する者は、来て勝負せよ」と大声で叫んで、槍で戦い続けたが、最後は銃で倒された。
近代兵器で武装した長岡藩士だけでなく、三河の気骨で戦った老武士は長岡の誇りでもある。
中越地震での倒壊を心配していたが、「戊辰長岡戦役戦士伊東道右衛門『忠烈輝千古』」の碑は、長岡城の方向を向いて建っていた。

碑の周りは綺麗に清掃され、たくさんの花が植えられていた。その中でワスレナグサ(勿忘草)が雨にぬれながら、子孫を待っていた。
この後、老武士や多くの藩士の命と引き換えに、長岡城を奪い返した、大黒古戦場と八丁沖古戦場を回った。八丁沖と呼ばれる底なし沼を、八丁沖の奇襲
長岡藩士は渡ったが、いまでは見渡す限りの美田である。

 
(伊東道右衛門碑と右は福島江)

 
(大黒古戦場と八丁沖古戦場)

勿忘草/ムラサキ科/ワスレナグサ属。
ヨーロッパ原産で明治時代に日本に渡来した多年草。
葉は長楕円形で粗い毛がある。淡青色で中央が黄色の五弁花を付ける。
名前の由来:西洋の伝説で、恋人に「私を忘れないで」と、この草を投げながら、川の中に沈んでいった若者の言葉を花の名前にした。
花期:4~6月。
(長岡市城岡)
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雨の招魂社祭

2009-05-24 09:37:33 | 四季
長岡城が落城したのは、(慶応4年)5月19日である。この日に近い日曜日に、悠久山の蒼柴神社に隣接している招魂社において、戊辰戦争と西南戦争に散ったあまたの御霊を弔う招魂社祭がある。
中越地震で傾いた社殿の工事も終わり、蒼柴神社に通じる山道の蛇橋も復旧した。

関越道のトンネルを出ると、いつも道路脇のタニウツギ(谷空木)が迎えてくれる。
悠久山の近くにもタニウツギは多いが、祭りの当日は雨の日が多く、いつもタニウツギは濡れている。
画像を撮った時は曇り空であったが、式典の始まる頃からやはり雨になった。常在戦場の長岡戦士が闘った戦は、間違ってなかったと誇りに思うが、藩士の涙なのか、やはり御霊は悲しいようである。

 
(タニウツギといつも雨の招魂社祭)

 
(河井総督・山本大隊長の慰霊碑と牧野家霊廟)>

(長岡市悠久山・蒼柴神社)
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キリ

2009-05-23 11:44:15 | 樹木

勝海舟の祖先である米山検校は、事業に成功して莫大な資産を蓄え、ふるさと長鳥(ながとり)を襲った飢饉から村を救った。村人は御礼塔を各所に建て、感謝の気持ちを表わした。
御礼塔は現在3基が実在し、昨年は2箇所(勝海舟の祖先のふるさと杉平Ⅰ)回った。今回は残りの1基の、能満寺に近い山中に建つ御礼塔を探して歩いた(勝海舟の祖先のふるさと杉平Ⅱ)。


下段の左の画像は棚田を見おろす山中で、キリ(桐)の花が出迎えてくれた。後方の山の上には、柏崎刈羽原発の方向にのびる送電線が見える。
勝海舟のふるさとと、長州毛利を生んだ北条毛利(きたじょうもうり)の看板が御礼塔の入口にたっていた。柏崎は秘められた歴史の宝庫である。

 
(向こうに棚田と鉄塔、右は海舟と毛利の祖先の看板)

桐/ゴマノハグサ科/キリ属。
古くから栽培され、各地に野生化しているゴマノハグサ科の落葉広葉樹。
大きな広卵形の葉は対生し、枝先に大きな円錐花序を作り、紫色の花をたくさん付ける。箪笥、琴、下駄などの良質な材料として利用される。
名前の由来:切ってもすぐに芽を出し、どんどん成長するため、「伐る」が名前の由来になった。
花期:5~6月。
(柏崎市北条地区)
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マムシグサ

2009-05-22 09:11:59 | 山野草
今回の長岡行きは長い旅になった。目的は悠久山の蒼柴神社の隣にある招魂社の祭に参加することであった。戊辰戦争、西南戦争で亡くなった多くの御霊の慰霊祭で、全国から縁の人が集まった。
長岡に行ったついでに、天地人の春日山、会津藩ゆかりの小千谷市や小出島の中心地の魚沼市などを回って帰ってきた。
櫻井よしこが小さい時を過ごした小千谷市の真人(まっと)にある真人温泉に入り、その後は市の最南端の池の平地区まで足をのばした。
大崩(おおくずれ)集落があり、山を越えれば中越地震の震央の川口町が近いが、この集落の被害は少ないほうだったと会った住民が話してくれた。いかにも過去に地震に関係しそうな地名であるが、大崩がいつ起きたのかわからないようである。

道路の山際に、マムシグサ(蝮草)がたくさん生えているのを見つけた。背丈以上もある巨大なマムシである。比較のために約30cmの高さの2リットル入りペットボトルを並べてみた。ペットボトルの手前には通常の大きさのものが生えていた。

 
(大き過ぎて画面に入らない。左のペットボトルと比較)

 
(大崩集落の遠景と綺麗な棚田)

蝮草/サトイモ科/テンナンショウ属。
森や林のやや湿った場所に生育するサトイモ科の多年草。
球根が小さいと雄株になり、大きくなると雌株になる。この属は種間の区別が難しいが、仏炎包の色が緑色のものはカントウマムシグサ、紫褐色はムラサキマムシグサなどとも呼ぶ。
名前の由来:偽茎のまだら模様がマムシに似ていることからこの名が付いた。
花期:4~6月。
(小千谷市池の平)
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