中越地震復興「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
寅太の家の庭に咲く山野草などのブログです。

埋蔵金を追って日光にとぶ(その6:いろは坂)

2010-01-31 01:10:06 | 地理

【いろは坂】

今回は少し時間が戻るが、いろは坂である。12月の初めにスタッドレスにはき替えていたが、やっと活躍の場がやってきた。いろは坂の手前に日光口サービスエリア(SA)があり、ここで最後の休憩をする。このSAから遊歩道があり、歩いて10分で日光杉並木の見学もできる。
しばらく走ると前方に男体山が見え、道は大きく左に曲がる。カーブの外側にいろは坂の説明があるが、ゆっくり見ている余裕はない。明治以前は女人禁制の山だったから、この付近で女人は
男体山を拝んで引き返したのであろうか。
現在は一方通行で、上りが第2いろは坂、下りが第1いろは坂であるが、昭和40年までは第1いろは坂しかなかった。カーブごとに「いろは……」 の文字が順に表示され、見ていて楽しい。登りの坂の途中には、黒髪平と明智平の2箇所の休憩所があり、休んだのは黒髪平で、明智平は素通りした。


(いろは坂を前にして休憩した日光口SA)

 
(杉並木はSAから歩いて10分) (前に男体山、いよいよいろは坂)

 
(いろは坂の案内図)      (周りは雪とクマザサ)

 
(45度傾ければ似た標識に)  (四つ割武田菱にそっくり)

 
(日本の道百選いろは坂)  (いろは・・・と急カーブが続く)

さて翌日、下りの日の予定は華厳の滝と日光東照宮である。朝は冷たいが、風もなく湖面に波が立っていない。男体山は古くは二荒山(ふたらさん)」と呼ばれ、いまでは下野富士や日光富士の別名を持っている。中禅寺湖、二荒神社、男体山に別れを告げ、華厳の滝(ここは別途掲載)経由で第1いろは坂を下る。
先日の(その1)の標識で気付かれてしまったが、7番カーブが「と」、22番カーブが「ら」、16番カーブが「た」で、上りの第2いろは坂に、3文字があると思っていた。しかし、「ら」は下りの2番目に現れた。これは下りがカーブが多く、第1いろは坂に28文字あることになる。
さて次回は、中禅寺湖の水が流れ落ちる華厳の滝である。

 
(氷柱の上に新雪をかぶる)  (静かな湖面にツララが写る)

 
(埋蔵金など知らぬ静かな湖面)  (男体山と二荒神社に別れ)

(日光市)
コメント (7)
この記事をはてなブックマークに追加

埋蔵金を追って日光にとぶ(その5:二荒山神社)

2010-01-30 00:34:00 | 地理

【二荒神社中宮祠】

日光東照宮が造営されたのは、約4百年前であるが、下野一の宮の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)の歴史はそれよりもはるかに古い1200年前に遡る。男体山(2484m)を御神体とし、日光連山、華厳の滝、いろは坂などもみな境内の中というから驚きである。
東照宮の左奥に本社、中禅寺湖畔に中宮祠(ちゅうぐうし)、男体山山頂に奥宮があり、今回訪れたのは中宮祠である。御神木のヒメコマツには、「どんな時にも支えあうのが大事」と書いてある。


(中宮祠の御神木は愛のヒメコマツ)

 
(支えあうヒメコマツ)       (中宮祠の鳥居)

 
(二荒山神社中宮祠)   (境内にあったさざれ石)

 
(中宮祠の巨大なイチイ)     (天然記念物の標識)

(日光市)
コメント (7)
この記事をはてなブックマークに追加

埋蔵金を追って日光にとぶ(その4:中禅寺)

2010-01-29 00:10:50 | 地理

【日光山中禅寺】

中禅寺湖だから近くに中禅寺があっても不思議ではないが、じつはここに来るまで知らなかったのである。寺が実在するとなれば、寺があっての中禅寺湖になる。
立木観音を納めた本堂の、一段上に五大堂があり、ここからの中禅寺湖および男体山の眺めは素晴らしい。
立木観音は通称で、正式には十一面千手観音菩薩で、重要文化財の指定を受けている。日光を開山した勝道上人が、カツラ(桂)の立木に刀で刻んだ一刀彫で、観音には根が付いているのである。じつに温和な表情で、これを見ればしばし埋蔵金など忘れてしまう。
境内にはカツラの巨木があり、また境内の愛染堂は、ここで松竹映画「愛染かつら」の撮影があったと記してあった。埋蔵金は忘れたといいながら、仁王門とカツラの大木では太陽の光を微妙に映し、かなりダイヤモンドにはこだわっているようである。


(五大堂からの中禅寺湖展望)

 
(陽光を背後に仁王門)  (鐘楼、山門と後ろは男体山)

               
  (立木観音堂)      (重要文化財立木観音)     

 
(本堂裏の五大堂からの眺め)

 
(桂の大木)            (愛染堂)

(日光市)
コメント (14)
この記事をはてなブックマークに追加

埋蔵金を追って日光にとぶ(その3:中禅寺湖の冬)

2010-01-28 00:04:54 | 地理

【中禅寺湖の冬】

前回の中禅寺湖は穏やかな湖面であったが、その前日は晴れていたが風が強く、湖面に波が立っていた。陽に当たり光り輝く雪と氷、そして波を中心に撮ってみた。太陽の穏やかな光と、冬の中禅寺湖の波が上手く出ているでしょうか。

 

 

 

(日光市)
コメント (9)
この記事をはてなブックマークに追加

ダイヤモンド富士

2010-01-27 00:08:04 | 四季

自宅から歩ける距離に富士山が見える所があり、ダイヤモンド富士が観察されるのは1月23日の予定である。高尾山が12月21日の冬至の日であるから、約1ヶ月の遅れである。ところが埋蔵金探しに日光に行く予定になっており、埋蔵金も欲しいがダイヤモンドも欲しいので困っていた。しからば、日光の中禅寺湖の近くで観察しようと、出かけたのである。
富士山に似た山は、中禅寺湖の左手に見える昨日の山である。山の形が富士に似ているし、宝永山らしい突起も左の稜線にある。近くの山であるから、車で湖畔を移動すれば、頂上に沈むところは見つけられる。
ところがまさに沈もうとする直前に、雲がかかり太陽が見えなくなった。湖畔を見渡すと陽が当たっている所が見える。急いで移動して撮ったのであるが、キラリと光るが山の頂上のダイヤモンドではない。
旅行から帰って、25日は太陽が出なかった。そして26日、夕日が沈んだのは富士の稜線より右手の大室山であった。これで今年のダイヤモンド富士の撮影は終わった。


(1月19日に自宅近くから見た夕日、富士山の左に沈む)

 
(1月23日、旅先の日光で挑戦)

 
(直前に雲、すぐに湖畔を移動)

 
(1月26日、すでに夕日は富士の右側に沈む)

(日光市と自宅付近)
コメント (5)
この記事をはてなブックマークに追加

埋蔵金を追って日光にとぶ(その2:中禅寺湖)

2010-01-26 08:12:48 | 地理

【中禅寺湖】

日光は何回か訪れているが、冬と世界遺産になってからは初めてである。しばし埋蔵金を忘れて、単なる観光客になってみよう。先ずは中禅寺湖であるが、右端の男体山よりは中央の小さな菱形の山が気になる。
やはり埋蔵金が頭から離れていないようである。
(何処かに武田家の埋蔵金は眠っているので、どんなことでも見逃さない。下段の鴨が泳ぐ画像で、左から2羽目と3羽目は菱形を上手く作っているが、1羽目がどうも歩調がとれてない。これでは武田菱は描けない。それともこの湖底に、埋蔵金は沈んでないのか?)


(中禅寺湖、気になるのは中央の綺麗な三角の山)

 
(少し引いて、さらに左岸も入れた中禅寺湖)

 
(中央付近の泳ぐ鴨と右端の男体山)

(日光市)
コメント (7)
この記事をはてなブックマークに追加

埋蔵金を追って日光にとぶ(その1)

2010-01-25 10:39:59 | 地理

武田家の埋蔵金のありかを、南アルプスの麓の秘境遠山郷に引き付けておいて、本人は日光に飛ぶという陽動作戦にでた。八王子市と日光市は、八王子千人同心が日光を守るのが任務であった縁で、姉妹都市になっている。両市の距離は123kmと、何か意味ありげな数字である。
なぜ埋蔵金で日光に目を付けているかと言えば、千人同心は日光金番と言われたからである。「金番」では余りにもそのものズバリで、「勤番」と読んだのではないか。徳川家康の霊廟の守りが任務だから、日光と八王子の度重なる往復を、怪しむ者はいない。彼らはセッセと財宝を、日光へ運んだのではないだろうか。
幕末までの記録は、最初は頭二人に同心50人づつの100人が50日で交代、寛政3年(1791)からは頭一人に同心50人が半年で交代し、216年で1030回の記録が残っている。
なお、栃木県の県花はヤシオツツジ(八汐躑躅)、日光市の市花はニッコウキスゲ(日光黄菅)である。(躑躅、日光に黄金色ねぇ~)


(ホテルの玄関の生花は「夢」、そして背後は全面が菱形)

中禅寺湖の畔に建つホテルの玄関で、先ず無数の菱形が出迎えてくれた。そして風呂に行こうと、廊下から庭を見ると、なんと菱形があるではないか。
湯ぶねに使り、その日のことを振り返ると、綺麗な男体山(2484m)だって半分埋もれているとすれば、地上に現れた部分は菱形中の半分である。夜になるとこの山が光りだすのではと見守ったが、暗い闇につつまれ、菱形が光りだすことはなかった。
いろは坂のカーブには、「いろは・・・」~「ん」まで、坂の名に因んで文字の付いた標識があった。標識は垂直に建っていたが、地面に対して垂直なら看板も菱形、しかも武田家の四つ割菱を連想させる形である。
日光東照宮ではまばゆい大判御守を売っていたが、そのうちに「夢」がつかめないものだろうか。


(姉妹都市日光は矢印方向に123キロ )

 
(庭の雪の中に菱形、男体山だって半分埋まった菱形)

 
(杭を45度傾ければ菱形、ラッキー7は「と」、22番は「ら」)

 
(16番は「た」、スリップしないように気を付け大判を探せ)

(日光市)
コメント (5)
この記事をはてなブックマークに追加

八王子宿の武田家の謎に迫る(その4)

2010-01-23 01:46:36 | 歴史

「御旗盾無御照覧あれ!」、合議をむねとする武田の頭領が、この言葉を発するときは、何人も異議を唱えることはできない。越後長岡藩の参州牛久保の壁書きにある「常在戦場」と同じである。御旗は武田家の祖の新羅三郎義光の、源氏の日の丸の旗であり、盾無は盾もいらないほど強固な鎧で、甲斐源氏の棟梁の持つものである。
武田の野望を秘めた埋蔵金が、それほど簡単には見つかると思わない。武田家の埋蔵金に関しては、信玄の埋蔵金、信玄の娘見性院(信松院とは姉妹)の夫の穴山梅雪の埋蔵金、大久保長安の埋蔵金の3つがあるといわれ、いずれも未発見である。この中でも信玄の時代には金山の開発で、莫大な量の金を溜め込んだと思えるし、大久保長安も佐渡の金山や石見の銀山でかなりの蓄財がある。しかも方位に滅法強いし、金山開発、石見検地や甲州街道の宿場で見せた土木工事にも優れている。ここはじっくり謎を解き明かすよりない。


(頂点が躑躅ヶ崎と富士山の菱形の追分の対角は?)

地図に重要点をプロットすると、追分から富士山Bと躑躅ヶ崎の館Aは、ほぼ同じ距離にあることがわかる。すなわち追分はB-Aを底辺とする二等辺三角形の頂点に位置する。
武田の紋は武田四つ割菱で、外形は二等辺三角形の合体でもある。c-d線で二等辺三角形を折り返し、その中心線の向うところが、埋蔵金の最も有力な地点とみた。はっきりと指し示しているのは、南アルプスの麓の遠山郷である。ここは武田家と関係あるところか調べてみた。
飯田市の遠山郷、信玄や勝頼の忠実な部下の、遠山氏の治めた所である。現在は国道152号線が通っているが、中央構造線の大断層地帯で、極めて峻険な谷や山のある地帯である。信玄も大軍を持ってこの地を通り、遠州に遠征するが、この付近で軍隊を分けたという。遠山氏は武田方として三方原合戦や長篠合戦にも参加、武田の有能な武将の一人である。また石見検地が行われたとされるのは、甲斐、越後、信濃、美濃、山城、石見などがあげられ、信濃は検地の場所とも符合する。
Googleの拡大地図で、この地点をさらに虫眼鏡で見れば何かあるかと探したが、液晶画面の汚れしか見えなかった。


(信松院を囲い込むことが重要、あなたならどんな図形を書きますか?)

推理としてはなかなかだが、追分と富士山、躑躅ヶ崎の館のトライアングルは偶然で、財宝は以外に近い八王子宿の地下に眠っていることも考えられる。
八王子宿の重要な場所は、追分n、大久保長安屋敷跡h、富士浅間神社fである。宿の中ならいくら穴を掘っても、宿建設でごまかすことができる。この地点は図形の頂点になっても、この真下に隠すことは、あまりにも単純で考えられない。とすれば狭い範囲で描けるのは武田菱である。
重要ポイントを頂点に武田菱を描くと、m、k、e、gの4箇所がでてくる。この菱形の中に長安の屋敷が入る。そしてもう一人重要なのが、武田一族の心の支えとなる松姫が建立した信松院(しんしょういん)が、囲みこまれていることである。
父の信玄の「信」、そして松姫の「松」から信松院と名付けたが、「信」は許婚の織田信忠の文字でもあると推察できねば、埋蔵金を探すのに性格的に向いてない。
左の武田菱は私が画像に乗せたもので、この位置には特別の意味はない。現地を訪れた時に、追分の交差点の歩道橋は絶対に菱形だと思った。でもまったく意味のない形をしていた。八王子市内が猪の被害のように、掘り起こされるのも心配だが、何か新しい手がかりもつかもうと思う。まずこのパソコンだが、解像度がかなり悪く、埋蔵金探しには適していない。
明日から数日間、埋蔵金探しの旅に出かけますが、遠山郷ではないのですが、千人同心に関係ある場所です。

(八王子)
コメント (12)
この記事をはてなブックマークに追加

八王子宿の武田家の謎に迫る(その3)

2010-01-22 00:16:03 | 歴史

武田の埋蔵金がそれほど簡単には見つかると思わない。信玄の時代には金山の開発で、莫大な量の金を溜め込んだと思えるし、大久保長安自らも佐渡の金山や石見の銀山でかなりの蓄財がある。しかも方位に滅法強いし、石見検地や甲州街道の宿場で土木工事にも優れ、猿楽師の子として猿知恵もある。ここはじっくり謎を解き明かすよりない。
世界遺産の石見銀山は超有名になり、石見の名前はよくでてくる。大久保石見守長安、もともと国の名前でもあるが、彼の名前から石見銀山と名付けられ、4百数十年後に世界遺産になったのである。石見銀山の次に期待される偉業は、莫大な財宝が発見され、破綻しつつある日本の役に立つことである。
八王子宿も埋蔵金の場所のひとつと思われるので、あわてないでまず八王子宿を学習し、予備知識を持ってからにしよう。先ずは清和源氏義光流の四つ割菱の武田氏の紋が入った地図で説明する。


(八王子宿の現在の姿、黒い道路が鍵形の甲州街道の古道)

大久保長安は甲州街道日野宿も造るが、この宿を抜け大和田という所で淺川を渡る。夏場は飛び石づたいに渡ったが、水量の多くなる時期には簡単な木橋もあったようである。淺川を越え八王子宿に入ると、防御性を高めるために鍵の手(枡形)に曲げてある。図の黒塗りの部分で、現在は真っ直ぐであるから、防御性を高めるのに意図的に北西に迂回させたものである。
旧道の通っていた竹の鼻公園に、日本橋から12番目の一里塚碑が建っている。公園に隣接して小さな永福稲荷神社に、「蝶の飛ぶばかり野中の日かげかな」の芭蕉の句があった。黒い旧道を右折すれば、追分まで一直線で前方に連行峰が見え、この延長線に躑躅ヶ崎の館がくるように設計したというのが、寅太の仮説である。八王子宿は横山十五宿と呼ばれ、十王堂宿、横山宿、八日市宿、本宿、八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、上野原宿、横町、寺町、久保宿、嶋坊宿の15宿で、大きな宿は横山宿と八日市宿である。この一角で多摩が神奈川県から東京都に移管される、原因の一つの舞台となった壷伊勢屋を見つけた。(壷伊勢屋事件は別途触れることにする)
追分で左が甲州街道が続くが、八王子宿の出口は、武田家や後北条家の遺臣が千人同心として住んだ千人町で、古道は八王子宿の入口と同じように鍵形に曲がる。
ここで追分の道標を良く見ると、左甲州道中高尾山道、右あんげ道となっている。調べると、陣馬街道は陣馬の麓で案下(あんげ)を通ることがわかった。古くから追分でYの字に分かれ、甲州街道と陣馬街道と思っていたが、陣馬街道はあんげ道と呼んだようである。しかもYの字の中間に1本古道らしいものがある。
追って調査はするにして、もしかすると寅太仮説の大菩薩嶺に向う線が崩れるかも知れない。
甲州街道の南には、大久保長安陣屋跡、信松院、富士森公園があり、北には長安が築いた石見土手が残っている宗格院という寺がある。
最後に追分のすぐ南に興岳寺(地図の興岳院は間違い)があり、千人同心頭石坂弥次右衛門の顕彰碑が建っている。慶応4年に西軍が日光に迫った時、日光勤番の石坂は、戦わずして西軍に日光を引き渡した。八王子に帰った石坂は、問責の声に自らの命を断った。この結果日光は戦火から守られ、後世に世界遺産となるのだが、石坂の判断が正しかったことが、いま高く評価されるのである。

 
(淺川の向こうが八王子宿、旧道に建つ一里塚の碑)

 
(一里塚の説明と隣の永福稲荷神社)

 
(芭蕉句碑とふたたび真っ直ぐな甲州街道へ)

 
(壷伊勢屋を発見、前方に連行峰が見える)

 
(いよいよ追分、左甲州、右あんげ道?)

 
(鍵形に曲げる、昭和初期の新道建設の記念する碑)

 
(富士森公園の富士浅間神社)

 
(信玄の娘松姫建立の信松院と石見土手のある宗格院)

 
(淺川の洪水から八王子を守った石見土手と説明)

 
(興岳寺と日光を守った千人同心頭石坂弥次右衛門の功績)

(八王子)
コメント (7)
この記事をはてなブックマークに追加

八王子宿の武田家の謎に迫る(その2)

2010-01-21 00:13:16 | 歴史
ダイヤモンド富士の観察で、冬至の日に高尾山の山頂で、ダイヤモンド富士が見られるのはすでに述べている。富士山と高尾山を結ぶ線を、北東に伸ばしていけば、この線上にある地域は冬至の日にダイヤモンド富士になるが、この線が甲州街道と重なり追分を通ることがわかった。
すなわち追分で富士を拝むことは、その真後ろの富士山を拝むことになる。大久保長安は山岳信仰が強く、富士森公園に富士浅間神社と富士塚を建立している。また高尾山の奥の院の背後に、浅間神社があり、ここで浅間神社を拝むことは、富士山に行ったと同じことだといわれてきた。

甲州街道は日野から淺川を越え八王子宿に入ると、防御性を高めるために鍵の手(枡形ともいう)に曲がり、迂回しながらまた元の街道の延長線に戻る。そのあとは一直線で追分まで続いているが、地図の上で追分側が少し北(左肩上がり)に傾斜している。
甲州街道の西の中央に見えるのは、武蔵・相模・甲斐の国境にある連行峰(1016m)といわれている。ここで止めておけば、何も起こらなかったが、八王子宿の甲州街道を西に延々と延ばしてみた。Googleの地図を何枚もつないで進んだら、甲州街道の延長線は、武田家の終焉地で、再起を計り風林火山の旗を納めた天目山栖雲寺の付近を通った。更に延ばすと、驚くべきことに躑躅ヶ崎の館(いまは武田神社)につながった。
追分で甲州街道を背に連行峰を拝むことは、武田家の再興を願うことである。

ここまできたら、追分からの陣馬街道が、何処かに向かっているのは察しが付くが、思い付くのは甲斐・武蔵・信州国境にある甲武信ヶ岳(2475m)である。同じように陣馬街道を真っ直ぐに伸ばしてみた。何と大菩薩嶺(2057m)にぶつかり、冷や汗がでてきて、これ以上の作業は恐くなって中断した。
大菩薩嶺は甲斐源氏の祖の新羅三郎義光が、一族の繁栄を願い、南無八幡大菩薩と唱えたことが山の名前になった、武田家の聖地というべき山である。

何と長安は徳川の家臣として、八王子宿の縄張りを決めるのに、武田家の再興を頭に設計したと推定した。かれは死後に徳川家康の家臣団の派閥争いに巻き込まれ、謀反の疑いをかけられる。死後に遺体は掘り起こされて磔になり、一族はことごとく処刑されるという、江戸時代最大の疑獄事件に発展した。


(追分から各街道の延長線を引く、何と武田家の重要ポイントばかり)


(隠されていた長安の秘密、追分に立って武田家の再興を誓ったのか)

伊能忠敬がこの時代に生まれていれば、大久保長安の野望は夢と消えたであろうが、この時代は長安だけが、天体観測などから方位を正確に読む術を知っていたと思われる。
自らが設計した八王子宿と甲州街道の追分の地に立ち、それぞれの方角に祈りを捧げ、長安は武田家の再起を誓った。八王子宿にはこんな秘密が隠されているのであろうか。
こんな重大事実があるとすれば、今まで誰かが発表しているに違いない。調べるとあった。馬場喜信氏は中世の町の設計に山当ての手法があり、甲州街道は西の連行峰を東西の基準線とし、追分は高尾山と富士山の線が結ばれる延長線にあると述べている。連行峰からさらに西に延ばすと、天目山や躑躅ヶ崎の館が線上にあることや、大菩薩嶺については触れてない。長安が背を向けた東の先に、何があるかはわからないが、多分江戸城にも近いのであろう。
そんなことから、「寅太の仮説」がここに生まれ、初めて公開されることになる。
長安は石見銀山だけでなく、金山奉行もかねて莫大な資産を持っている。しかも太閤検地に匹敵する石見検地を実施して、土木工事に優れ、武田の再興資金を隠すのは容易もないことである。大久保石見守長安、武田家では猿楽師(平安時代の芸能で、こっけいな物まね言葉芸などを演ずる)だった謎の多い男である。
次回からは武田の埋蔵金を、地図の上で定規と虫眼鏡で追いかけることにする。

 
(追分に建つ道標と見えてきた大久保長安の野望)

 
(左に進むと高尾山薬王院奥の院と浅間神社、その先には富士)

 
(真っ直ぐ進む先には、躑躅ヶ崎の館とたなびく風林火山の旗)

【参考】馬場喜信著「八王子を読む」、「多摩の街道と宿」
(八王子)

コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加