高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

藩校サミットin水戸(その3)

2012-02-23 09:00:15 | 歴史
水戸城はかっては佐竹氏の城でしたが、関ヶ原の戦いの責任を問われ、秋田に転封になりました。戦略的に重要な地でしたので、家康の5男武田信吉、10男徳川頼宣(紀州徳川家の祖)を経て、11男の徳川頼房が城主となりました。
歴代藩主の中で、特に有名なのは第2代の徳川光圀で、水戸の黄門さまとして知られています。光圀の大きな業績は大日本史の編纂を手掛けたことで、事業が本格化したのは光圀が西山荘に隠居してからのことです。この事業は代々の藩主に引き継がれ、完成したのは明治になってからでした。隠居所の西山荘は、水戸から北へ20kmほどの常陸太田市にあります。


(空堀にかかる大手橋を渡ると、土塁で堅固な枡形になっています)

 
(土塁の内側は茨城大学付属小学校)

 
(水戸第二中学校の敷地内にある大日本史編纂の地と彰考館跡)

旧水戸城内には、学問編纂の地に相応しく、今は茨城大学付属小学校、水戸第二中学校、水戸第三高校などが建ち、学問の府となっています。水戸駅で第二中学校の生徒も、歓迎の横断幕を持っていたことから職員と知り合い、特別に屋上に案内していただきました。
水戸城の北には那珂川が流れ、非常時には天然の要塞になるとともに、平時は舟が往復したものと思われます。学校に御三階櫓の写真がありましたが、かっての展望もこんなだったのでしょうか。


(旧水戸城内はほとんどが学校の敷地です)

 
(徳川光圀公と水戸家の系譜)

 
(水戸第二中学校の屋上から那珂川方面の眺め)


(太平洋戦争の水戸空襲で焼失した御三階櫓)

(水戸市)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする