高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

大胡城・牧野氏まつり③

2016-08-12 02:12:43 | 歴史
【牧野氏まつり】
いよいよ牧野氏まつりの本番です。まつりを盛り上げるのは川越藩火縄銃鉄砲隊(以下川越藩鉄砲隊という)ですが、今回は長岡から栃尾衆鉄砲隊が加わりました。 また開府400年を2年後に控えた長岡市からも大勢の関係者が駆けつけました。
幕末には前橋市の中心部は前橋(厩橋)藩越前松平家17万石の領地でした。 しかし川越から移ってきたのが慶応3年(1867)で、それ以前は前橋は川越藩の分領でした。すなわち寛延2年(1749)前橋藩に入封した越前松平家は明和4年(1767)に利根川による崩落がひどく川越藩に移り、前橋は分領としました。養蚕で財をなした前橋の商人は、越前松平家の前橋への復帰を画策し、慶応3年に川越から100年ぶりに戻ってきました。従って川越藩鉄砲隊は越前松平家に属していたと言えます。


(祇園まつりの大通りをパレードする九曜巴紋を付けた栃尾衆鉄砲隊)

一方栃尾衆鉄砲隊は上杉謙信が栃尾で長尾景虎と名のっていた時代の鉄砲隊で、背中に付けている旗印は長尾家の「九曜巴紋」です。上杉謙信の生涯につきましては、栃尾が生んだ上杉謙信を参照願います。
長尾氏は群馬県にも総社長尾氏や白井長尾氏がありますが、みな「九曜巴紋」です。
また長岡藩にとって川越藩は庄内藩と三方領地替えで、長岡が川越に移る予定でした。領地替えは前代未聞の御沙汰止みになりますが、この後で長岡藩は大事な領地の新潟港を失いました。

 
(鉄砲隊が養林寺に到着し牧野忠昌様と記念撮影、忠昌様の向かって左が忠慈様)

越前松平家は徳川氏の御家門で、藩祖は徳川家康の二男の結城秀康です。
長兄信康が自刃の後は二男として徳川家を継ぐ順番にあったのですが、すでに豊臣秀吉の養子となり下総結城家を継いでいたので後継者には選ばれませんでした。
関ヶ原の戦いののち秀康は北ノ庄75万石の城主になりました。 秀康の子供から5家が分かれ津山松平家(10万石)を本家に、福井松平家(32万石)、松江松平家(18万石)、前橋松平家(17万石)、明石松平家(8万石)があります。さらに松江藩から広瀬藩・母里藩、福井藩から糸魚川藩が生まれますので全部で8大名家になります。

 
(川越藩鉄砲隊が本堂と牧野家墓地に参拝、中央金色の兜は松平様)

川越藩鉄砲隊は前橋松平家当主の松平様が大将で、栃尾衆鉄砲隊は長岡藩の次期当主忠慈様が指揮をとられていました。


(大胡城本丸跡で鉄砲隊を出迎える大胡太鼓のみなさん)

 
(川越藩鉄砲隊に負けじと演武する栃尾衆鉄砲隊)


(川越藩鉄砲隊は鎧兜そして鉄砲など全て本物です)

津山松平家が10万石で宗家なのには訳があります。これは越後高田藩で起こった越後騒動が大きく関わっていますが、詳細は機会があったらお話ししましょう。
(前橋市)      ・・・つづく・・・

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大胡城・牧野氏まつり②

2016-08-11 05:27:23 | 歴史
【大胡城主・牧野康成公の法要】
大胡城跡に隣接して建っている養林寺は、牧野家の菩提寺です。天正18年(1590年)北条氏の小田原城が落城し徳川家康が関東に移封されると、牧野康成は牛久保(豊川市)から移り大胡城主となりました。そしてかって大胡氏の念仏道場があった場所に養林寺を建立しました。徳川将軍家に御朱印地として願でたところ許され、養林寺に葵の御紋の使用を許可されました。
関ヶ原の戦いのあった1600年には、康成とその嫡男忠成は家臣と共に、徳川秀忠の武将として上田城合戦に参戦しました。
上田城攻めに時間をとられ関ヶ原合戦に遅れたことから、牧野氏配下の軍令違反の責任をとらされました。康成は上州吾妻砦に蟄居させられ、忠成はいずこかへ出奔してしまい、牧野氏は存亡の危機を迎えました。
大河ドラマ「真田丸」の第二次上田合戦が近づいてますが、牧野氏が登場するか否かに興味があります。


(大胡氏の念仏道場跡に建つ養林寺)

 
(養林寺山門と徳川将軍家歴代供養塔)

許されて大胡に戻った康成は、慶長14年(1609年)病に得て大胡城で亡くなりました。2代大胡藩主となった忠成は大坂冬の陣(1614年)そして大坂夏の陣(1615年)の活躍が認められ、元和2年(1616年)に越後長峰5万石、元和4年(1618年)に越後長岡に栄転しました。
今回の法要には牛久保の牧野成定公奉賛会に加え、越後長峰城址保存会(上越市吉川区長峰)の役員の参加があり、牛久保~大胡~長峰~長岡の歴史の鎖がつながりました。
2年後の2018年は長岡に移ってから400年となり、長岡では開府400年の準備が進んでいます。


(養林寺での法要)

 
(赤城山を背にした牧野康成公墓地)

牧野家は大名が5家あります。宗家は越後長岡7万4千石で、支藩が常陸笠間8万石、丹後田辺(舞鶴)3万5千石、信濃小諸1万5千石そして越後三根山1万1千石です。田辺藩は三河の時代に分かれていますが、残りは康成の子(笠間)や孫(小諸、三根山)が藩祖です。
(前橋市)      ・・・つづく・・・

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大胡城・牧野氏まつり①

2016-08-08 05:17:32 | 歴史
【大胡城主・牧野康成公顕彰会の発足】
群馬県前橋市で開催された第2回大胡城・牧野氏まつりに参加しました。
昨年は11月でしたが、今年は大胡町の大胡祇園まつりの初日の7月30日(土)に開催されました。
前日の29日(金)、文具メーカーのプラス(株)の研修所「音羽倶楽部」で、大胡城主・牧野康成公顕彰会の発足式がありました。
徳川家康の江戸入りに合わせ、北の守りを固めるために康成公は三河の牛久保から2万石で大胡に移ってきました。


(第2回大胡城・牧野氏まつり)

 
(音羽倶楽部と牧野康成公顕彰会の発足の記念撮影)

江戸時代初めに牧野家で康成の名前が付いた武将は3人います。
まずは大胡初代藩主の牧野康成(やすなり)、次は田辺藩の藩祖となる牧野康成(やすしげ)です。牧野家は大名が5家ありますが、大胡を経由しなかった唯一の大名で、三河の時代に長岡藩の流れとは分かれています。そして最後が康成の孫で小諸藩の藩祖となります康成(やすなり)です。

 
(牧野忠昌名誉会長の挨拶と地元に伝わる八木節の披露)

顕彰会は牧野忠昌名誉会長、顧問に山本龍前橋市長そして会長に伊藤静雄前大胡町長で発足しました。
発足式には豊川市牛久保の牧野成定公奉賛会からも役員が出席されました。


(大胡城主牧野康成ゆかりの地)

(前橋市)      ・・・つづく・・・

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大胡城の牧野氏まつり(その3)

2015-12-28 04:35:49 | 歴史
大胡城の牧野氏まつり(その1)(その2)、の続きです。
【川越藩鉄砲隊演技と牧野忠昌さま講演】


(大胡城の土塁が残っています)

牧野家とその家臣が三河の牛久保から大胡に移ってきたのは、天正18年(1590年)のことでした。
元和2年(1616年)には越後の長峰に移りますので、大胡にはわずか26年でした。

 
(大胡城に川越藩鉄砲隊の入場です)

川越藩鉄砲隊は本物の甲冑を身に付け、実弾こそ使ってませんが鉄砲も本物です。鉄砲の発射音の凄さには驚かされました。

 
(鉄砲隊の演技、指揮は前橋藩主松平大和守)

 
(火を噴く鉄砲の白熱の演技をした鉄砲隊が退場します)

大胡城跡での鉄砲演技には、雨の中を大在の地元のみなさんが演技の見学に訪れました。
演技終了後は大胡城の一角にあります大胡シャンテで、旧長岡藩第17代当主牧野忠昌さまの講演がありました。

 
(地元合唱団は「古城」と「荒城の月」の合唱)

 
(牧野忠昌さまの講演)

大胡の滞在はわずか26年間でしたが、大胡では多くの優秀な家臣が採用しました。米百俵で知られます小林虎三郎の祖先も、上州赤堀城主の末裔と伝わります。

 
(講演お礼の花束贈呈)


(牧野さまからは「常在戦場」の色紙)

(前橋市大胡)          (おわり)

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大胡城の牧野氏まつり(その2)

2015-12-21 06:18:04 | 歴史
【養林寺での法要②】


(養林寺に川越藩鉄砲隊が向かっています)

幕末の前橋藩主は17万石の松平越前家(松平大和守)でした。でも6ヶ月で廃藩置県になりました。
もともとは松平大和守は前橋藩主だったのですが、利根川の氾濫などで川越に移り、前橋は分領的な存在でしたが、慶応3年に戻ってきました。
牧野氏まつりに松平大和守のご当主が出席され、川越藩鉄砲隊が登場するのも不思議ではありません。

 
(山門で川越藩鉄砲隊が山本前橋市長と牧野家ご当主に挨拶)

 
(鉄砲隊を指揮する前橋藩松平大和守ご当主と山本前橋市長が固く握手)

 
(牧野家ご当主による柏の植樹と鉄砲隊は大胡城へ)

養林寺の法要に続き、大胡城跡で川越藩鉄砲隊の実演がありました。

 
(大胡城の説明と大胡風神太鼓による歓迎)

(前橋市大胡)          (つづく)

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大胡城の牧野氏まつり(その1)

2015-12-20 09:48:37 | 歴史
【養林寺での法要①】

徳川家康の傘下に入った牧野康成公は、家康が江戸に入府した時に牛久保から上州大胡(前橋市大胡)に移り2万石の大名となりました。
高台に大胡城を築き、鎌倉時代に大胡氏の館があった場所に、康成は養林寺を建て牧野家の菩提寺にしました。


(大胡氏の館跡に建つ牧野家菩提寺の養林寺)

前橋市は今年の大河ドラマ「花燃ゆ」で盛りあがっているようですが、今年から「牧野氏まつり」が開催されることになりました。

 
(前橋市大胡の第1回牧野氏まつり)

 
(養林寺本堂での法要)

中央に3本、その左に1本の板塔婆が立ててありますが、中央の3本は真ん中が康成公、右が牛久保城主成定公、そして左が長峰経由で長岡藩主になる忠成公です。
左の1本は徳川家康公で、今年は400回忌になります。

 
(牧野家の墓地)

 
(牧野家墓地の説明)

  
(徳川家康供養塔と養林寺山門)

(前橋市大胡)          (つづく)

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牧野成定公450回忌(その3)

2015-12-14 06:59:51 | 歴史
その1その2のつづき)

【光輝院での講演と牛久保小学校の熱演】

牧野成定公450回忌法要に続き、光輝院の本堂を舞台にして、牧野家ご当主の講演や地元の小学生が演じます劇などの発表がありました。


(牧野家菩提寺の光輝院)

旧越後長岡藩17代当主の牧野忠昌さまからは「牛久保と牧野家」と題する講演で、地元の領民から愛された牧野家のことが語られました。
また地元の語り部からは「成定公徳川譜代への道」と題した朗読がありました。

 
(牧野忠昌さまの講演と語り部による朗読)

いよいよ牛久保小学校の児童の登場です。朗読と模造紙に牛久保時代の出来事を書き発表です。
牧野家と家臣は牛久保から上州の大胡へ、そして越後の長峰を経由し長岡に移りました。そして登場したのは牛久保で牧野家に参集した牛久保六騎です。

 
(牛久保小学校児童の熱演)


(圧巻は参州牛久保の壁書き「常在戦場」にひれ伏す藩士)

最後は牛久保小学校の児童が熱心に稽古した「米百俵」です。
戊辰戦争で焼け野原になった長岡に、支藩の三根山藩から百俵の米が送られてきました。
その日の食べ物に困っていた藩士は、米の分配を迫りましたが、大参事小林虎三郎は米を売って教育資金にするというのです。この時虎三郎は「常在戦場」の掛け軸を掲げました。
(「米百俵」は山本有三の戯曲や小泉総理の所信表明演説で知られています)


(熱演を終わり牛久保小学校の記念撮影)

(豊川市)          (おわり)

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牧野成定公450回忌(その3)

2015-12-03 06:26:56 | 歴史
その1その2のつづき)
【光輝院の法要】
450年前に牧野成定公が長年の宿敵の徳川家康と和解し、その傘下に入らなければ長岡藩はありませんでした。亡くなる直前に成定公が下した英断は、今でも牛久保を故郷として慕い、行政レベルでも長岡市と豊川市は「災害の相互応援協定」を締結しています。


(牧野家菩提寺の光輝院)

 
(お稚児さんも参加して本堂で法要)

 
(ご住職講話と牧野家当主ご挨拶)


(参州牛久保常在戦場のふるさと)

 
(右は参州牛久保の壁書)

 
(牛久保のみなさんと記念撮影)


(450回忌記念誌)

(豊川市)          (つづく)

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牧野成定公450回忌(その2)

2015-11-27 06:21:19 | 歴史
          (つづき)
その1と前後しますが、東海道新幹線豊橋駅からJR飯田線に乗り、4駅目が長岡武士のふるさとの牛久保駅です。
牛久保城は石垣や堀などの城跡は残っておらず、本丸跡の駅のとなりに石碑が残っているだけです。


(牛久保駅に隣接する牛久保城の跡)

 
(山本勘助養父屋敷跡と長谷寺)

駅から数分の所に駐車場になっている大林勘左衛門屋敷跡がありますが、ここが武田信玄の軍師として知られた山本勘助が住んでいた所です。長岡藩の家老の山本家を継いだのは山本五十六で、勘助と山本家は同門です。
今回450回忌は光輝院(古地図では光輝庵)と牧野成定公廟で行われましたが、先ずは途中にあります長谷寺(ちょうこくじ)に寄ってみましょう。

 
(牛久保の今と昔、本丸跡が牛久保駅です)

 
(山本勘助の墓)

 
(山本勘助の墓と摩利支天を守っている長谷寺)


(牧野家菩提寺の光輝院です)

山本勘助については「山本勘助系図と長岡」を参照して下さい。
(豊川市)          (つづく)

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牧野成定公450回忌(その1)

2015-11-24 06:27:47 | 歴史
江戸幕府を開いた徳川家康が亡くなったのは元和2年(1616)ですから、今年で400年(400回忌)になります。
各地でさまざまなイベントが開かれています。
「常在戦場」の長岡武士のふるさとの豊川市の牛久保では、牛久保城主の牧野成定(なりさだ)公は徳川家康と激しく戦っていました。永禄9年(1566)5月、家康の武将としての器を認め、今川の家臣を離れ家康の傘下に入ることになります。
その年の秋、徳川家の武将に変わったことを置き土産に、42歳で成定は亡くなりますが、それから数えて今年が450年になります。


(牛久保の牧野成定公廟)

 
(徳川家康公400年祭)

 
(御稚児さんと成定公廟)


(牧野成定公とは)

 
(可愛い御稚児さんです)


(みんなで成定公廟にお焼香です)

(豊川市)          (つづく)

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