海に吹く風

海の大好きな私
ここで皆さんとお話しましょう

日々思うこと、短歌についても書いていきます

首里城

2022-05-27 08:39:47 | 短歌

首里城の復活の日を夢に見る不死鳥のごとき赤き甍の
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追憶の海9

2022-05-24 18:43:13 | 短歌

荒れすさぶ心なだめに石上露子(いしのかみつゆこ)も見しか浜寺の海

ウィキペデキアより引用
「1882年6月11日、大阪府石川郡富田林村(現在の富田林市)の寺内町で、裕福な大地主で造り酒屋でもある杉山家の長女として誕生[1]。幼年期は旧家の長女として、琴や和歌、漢籍、日本画、上方舞等を学ぶほか、家庭教師を招いて指導を受けた。1903年(明治36年)、21歳の時、与謝野鉄幹が主宰する新詩社の社友となり、同社の雑誌「明星」に短歌を寄稿する。また「婦女新聞」「婦人世界」「ヒラメキ」「新潮」等にも文章を寄せた。1907年(明治40年)、「明星」明治40年12月号に代表作となる「小板橋」を発表。 同年12月に旧家どうしの婿養子縁組で結婚。文筆活動に夫の理解を得られることがなく、翌1908年には新詩社を退社させられ、本人の意思とは別に断筆に至る等、不幸な結婚生活を送った。 2男児を儲けるも、後年に夫の投機の失敗による杉山家の没落を経て夫と別居し、1931年(昭和6年)から「明星」の後身「冬柏(とうはく)」に再び短歌の寄稿を始める。 子供を病死や自殺で亡くす等し、晩年は生家で過ごした。1959年(昭和34年)10月8日、脳出血で死去。享年78。墓所は高貴寺。」

私が露子のことを知ったのは小さい旅というガイドブックで富田林の項を読んだとき。
与謝野晶子と同時代の人で、「明星」に寄稿したこともある。
生母は露子が幼少の頃に離縁され、継母が来た。
祖母も二番目の妻であり複雑な家族関係の中で育った。
大地主の家の一人娘なのでやはり長男である初恋の人と添い遂げることはできず、その思いを詠った「小板橋」という詩は当時絶唱として絶賛された。
不幸な結婚生活で、文学活動を禁じられ家制度に一生を縛られたような人だった。
夫は婿として焦りがあったのか投機に失敗し財産の半分以上を失い精神に異常をきたした。
夫が療養生活を送ったのが浜寺の別宅である。
長く別居していたが、夫の最後のころは息子の懇願もあり、露子も浜寺の家にいた。
夫が亡くなった戦後次男夫婦と浜寺で同居しやっと平穏な生活を送れると思っていたのに、次男は猟銃自殺をしてしまった。
どこまで古い家に呪われたように不幸なのか。。
露子の初恋の人は結婚はせずカナダに渡ってそこで亡くなった。
遺品の中には露子が送った振袖があった。
その裏地には露子の短歌が刺繍されていたという。
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追憶の海8

2022-05-22 08:06:07 | 短歌

赤白の煙突からの石油の火埋め立てののちの風景なりき
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追憶の海7

2022-05-19 13:42:35 | 短歌

砂の城崩るるまでを見てゐたる夕暮れの浜はるかに遠し
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追憶の海6

2022-05-16 16:22:26 | 短歌

胸熱き晶子の海は今はなく松風だけに面影を聴く

明治時代浜寺公園には料亭がいくつかあった。
そこで歌会が開かれ、与謝野晶子はそこで鉄幹と出会った。
松林を晶子と鉄幹はそぞろ歩きをしていたことだろう。
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追憶の海5

2022-05-13 10:50:47 | 短歌

桜貝拾ひし海はなくなりて高速道路がどこまでも伸ぶ

浜辺には貝が打ち上げられていた。
一番多いのは2~3センチの白に縦の筋の入った貝だった。
そして桜貝も時々見つかった。
桜貝は淡いピンク色で薄く、まるで少女の爪のようだと思った。
桜貝をよく拾った。
それからガラスの破片が波で丸くなったものも綺麗だった。
ラムネの瓶のような青色、乳白色・茶色・透明など。
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追憶の海4

2022-05-10 12:10:59 | 短歌

米軍からの返還ののちの茅渟の海埋め立てまでの短かりしよ

浜寺の海の戦後の歴史を調べてみた。
1945~1958年ま浜寺公園は米軍に接収されていた(長いな)。
浜寺の海は米軍のプライベートビーチとなり日本人は立ち入り禁止であった。
1955年浜寺海水浴場として使うことが許可された、
しかし1961年水質汚染のため浜寺海水浴場・諏訪ノ森海水浴場は水泳禁止となった。
たった6年しか浜寺の海は泳ぐことができなかった。
そして1962年大阪湾の埋め立てが始まり堺市以南の多くの浜辺はなくなった。

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追憶の海3

2022-05-07 10:30:21 | 短歌

海近く建つ洋館の高塀に鋭角のガラス立ち並びたり

子供の頃住んでいた家から海までは子供の足で15分くらいだったと思う。
阪堺電車船尾駅横の踏切を渡り、商店街を歩き、南海本 線の諏訪ノ森駅横の踏切を渡り、
国道26号線の信号を渡り(たぶんあったと思うが)海までは大きなお屋敷が続く高級住宅街だった。
立派な洋館が多くひっそりとしていた。
そしてとても高い塀の一番上には泥棒よけに切り立ったガラスがいっぱい埋め込まれていた。
それは見ているとぞくっとするような怖さがあった。

このメインの道以外にも海へ行くルートはいろいろあった。
その道では信号はないので国道26号線を車がいない時、遠くにしかいない時を見計らって走って渡るのだ。
大人もやっていたのでそのころは悪いことだとは思っていなかった。
どの道を歩いても立派な洋館があった。
そこは私が住んでいるエリアとは別世界であった。
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追憶の海2

2022-05-04 12:05:01 | 短歌

人影もなき砂浜に一人立ち怖くなかつた子供のころは
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追憶の海

2022-05-01 09:59:15 | 短歌

幾たびもひとり歩きて見し海は少女期の我を包みてくれき
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