大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年06月23日 | 万葉の花

<1023> 万葉の花 (127) ちち (知智、知々) = イヌビワ (犬枇杷)

         ちちの実や 陵墓も夏の 繁りかな

 ちちの実の 父の命 ははそはの 母の命 おぼろかに 情(こころ)尽して 思ふらむ その子なれやも 丈夫(ますらを)や 空しくあるべき 梓弓 末振り起し 投矢以ち 千尋射渡し 剱太刀 腰に取り佩き あしひきの 八峰(やつを)踏み越え さし任くる 情障らず 後の代の 語り継ぐべく 名を立つべしも                                                                                                                                                                                                                   巻十九 (4164) 大伴家持

 大君の 任(まけ)のまにまに 島守(しまもり)に わが立ち来れば ははそ葉の 母の命は 御裳(みも)の裾 つみ挙げ掻き撫で ちちの実の 父の命は𣑥綱(たくづの)の白鬚(しらひげ)の上(うへ)ゆ 涙垂り 嘆き宣賜(のた)ばく 鹿兒(かご)じもの ただ独りして 朝戸出(あさとで)の 愛しきわが子   ― 以下略 ― 

                                                                   巻二十 (4408)       同

 集中にちちの登場する歌は、この4164番の長歌と巻二十の4408番の長歌の二首で、両歌とも「ちちの実の 父の命(みこと)」という「ち」の音を重ねることによって父を導く枕詞として用い、同じく「は」の音の重なりによって母を導く「ははそはの 母の命」を対に表現した技巧の勝った歌であるのがわかる。

 ともに家持の歌で、冒頭にあげた4164番の長歌は、「勇士(ますらを)の名を振るはむことを慕(ねが)ふ歌一首」の詞書が見え、左注に「追ひて山上憶良臣の作れる歌に和(こた)ふ」とあるので、この長歌は、憶良が重篤な病に陥り、人を遣わして藤原八束が見舞いをしたとき、これに応えて憶良が「士(をのこ)やも空しかるべき万世(よろづよ)に語り継ぐべき名は立てずして」(巻六・978)と詠んだ。これに対し、家持がこの歌に和して作ったというものである。

  大伴家は代々武を任として朝廷に仕えて来た家柄で、家持自身も兵部少輔の時代があり、最後は陸奥按察使特節征東将軍として陸奥国(宮城県)の任地で歿したという説があるほどである。この長歌の心意気というのは、そういう意味から言って理解される。なお、八束は藤原不比等の次男房前の第三子で、大納言に昇り、真楯の名を賜った度量の広い聡明な人物で、『万葉集』への関与も聞かれ、憶良には親しく接していた。と同時に家持にも関わりのあったことがうかがえる。

 憶良の978番の歌というのは「男子たるもの、虚しく朽ち果ててよいものだろうか。いつまでも語り継がれる名を立てることもなく」という意で、病に倒れた悔しさをいうこの憶良の男子たるももの歌にして家持の4164番の長歌はあるわけである。で、長歌の意は「父の命や母の命がいいかげんに心を傾けて育てた子ではないはずだ。そういう男子たるものが空しく世を過してよいものか。立派な弓を振り起し、投げ矢を遠くまで射渡し、大太刀を腰に差して、山々を越え、任を与えてもらった大御心に背かないように、後の世の人が語り継いでゆくほどの人として立派に名を立てるべきである」というもの。この歌は、重篤な病に罹り気弱になっている憶良を励ます内容になっているのがわかる。

 一方の4408番の長歌は「防人の別を悲しぶる情(こころ)を陳ぶる歌一首」の詞書がある歌で、家持が防人本人になって、その心情を詠んだ歌である。この歌も、やはり、父母に対する男児の恩愛が詠まれ、4164番の歌に通じるところがある。この長歌二首を見ると、家持の人となりというか、世の中に対するものの考え方というか、そういういわゆる資質というものがくっきりと見えて来る。家持には優雅な内容の歌もあるけれど、こうした情愛に満ちた歌がその特質として見られる点が、この「ちちの実」の表現をもって見える両歌にはうかがえる次第である。

               

  ここで本題の「ちち」という植物であるが、まず、トチ(栃)の実説がある。古くはトチをちちと呼んだことによる。次にイチョウ(銀杏)説がある。これはイチョウの樹幹が古木になると乳房のように垂れる現象に至るからである。例えば、大和葛城の一言主神社の神木のイチョウにこの現象が見られる。次にマツ(松)の実説がある。これは松毬(まつふぐり)をチチグリとかチチリと呼ぶためである。「チチとはチヂミフグリ(縮陰囊)の義」と説は述べている。

  だが、これらには否定的見解が見られ、トチの実説には現在の方言にそれらしい名が見当たらないこと。イチョウ説にはイチョウが有史前の樹木ではあるが、万葉当時の文献等に全く登場せず、中国原産で、渡来時期がずっと後の、古くても十三世紀のころではないかとされる点があげられている。また、マツの実説については、マツの名で集中に七十八首登場している点があり、チチリは江戸時代になってからという指摘があるといった具合である。

  これらに対し、有力な説にイヌビワ(犬枇杷)説がある。イヌビワはイタビの別名を有するクワ科イチジク属の落葉小高木で、我が国では本州の関東地方以西、四国、九州、沖縄、済州島に分布し、平地から丘陵、山地に自生する。葉は卵状楕円形で、互生する。雌雄別株で、花期は四、五月ごろ。イチジクと同じく花囊をつけ、これが実となり、この実や幹を傷つけると白い乳液が出るので、ちちの名が生じたと言われ、地方名にチチノキ、チチノミ、チチブ、チチコなどの名が見られるという具合である。

  加えて古文献には「一名いちぢく、一名いぬびは、一名むもれ木とよぶものの実にして、西土にいはゆる天仙果なり」とあり、目立たない木で、観察眼をもって見ないと判別出来ないほど特徴のない雑木であるが、実があれば、それとわかるので、山道などでも実さえついていれば案外たやすく見つけることが出来る。で、このイヌビワ説が今では最も有力な説になっているという次第である。なお、「ちちの実」の対語に用いられている「ははそ葉」の「ははそ」はコナラとするのが大方の見方である。 写真は左から花囊が見えるイヌビワ、実を鈴生りにするイチョウ、落下寸前のトチの実、まだ青い松の毬果。

 

 


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