改過之法の編
春秋時代(しゅんじゅうじだい、孔子はこの時代の人物です)に、各国役人は(★その役人達は相互に頻繁に往来し、多くの人を見てきたので、人を見る学問と経験も充実していて、そのために)一人の言動を観察するだけで、すぐその人の未来の吉凶禍福(きっきょうかふく)を推測し出すことができ、当たらないことはなかったのです。そのような記載は、「左伝(さでん)」「国語(こくご)」(★他に「公羊伝(くようでん)」「穀梁伝(こくりょうでん)など」などのいろいろな種類の史実の本の中から見ることができます。大体の吉凶の前兆は、その人の心から生じていたので、自然に言動として現れてきます。例えば、温厚な感じの人は、しばしば福運を得て;逆に、酷薄(こくはく、むごくて思いやりがなく薄情な)な人は、よく災いに出遭います。一般の凡夫は、学問が深くなくて見識も狭いから、禍福に定めがなく推測することもできないと言っていますが、人はもし至誠の心を持っていて、その心が天道と一致していれば、その人の福報はもうすぐ目の前に来ます。彼の善行を見ればそのことを予見できます。同様に逆に、人にいよいよ災禍が訪れる前にも、その人の不善な言動を見ただけで、あらかじめそのことを推測することができます。
(★私の若いときは、福報がなく、かつ短命な運命でした。私の先生方、方東美先生、章嘉大師と李炳南居士、お三方とも、道徳が高く、学問が深く、人を見る能力がある方達なので、私を見ていたら、私のその運命を知っているので、とても不憫に思い、慈悲に私に「運命改造、自ら福を求める」ことを教え導いてくださいました。★人を観察する二つの原則は、心は善良で、温厚で、人に接するときも、忠実で情に厚くて、いつも人を思いやって、人のために考えられる人は、必ず、その人には将来は福報があります。逆に、それと正反対で、心が狭くて、自分のことしか考えられなくて、他人に損害を与えて自分の利益を図る事を平気にし、自分に利益がないことを絶対にしなくて、人に対しても、酷薄でいると、その人には、福報がありません。仮に、今彼に福報があるように見えても、今のその福報は、彼が過去世で修めていた、運命の中の福報です。その福報は本来多かったはずです。しかし、彼の心が不善であって、言動も不善であるので、彼のその運命中の福報もうその不善の原因で大分減ってしまったのです。それなのに、減らされてもまだ少しの余福(残された福報)があります。ですから、もし、彼は良い心を持って、よいことをすれば、彼のその福報はきっとその一生で享受しきれないほどです。さらにその余福は彼の子孫の代まで続くことができたはずです。★吉凶禍福は予測できるものです。「至誠の心が天と一致する」、私たちはこの事ができれば、もうそれで完璧です。思いや言動はすべて誠実で、天の自然の法則に合っていることです。「天道」とは自然の法則です。どんな人のいかなる意見もその中に加えていません。そのいかなる意見とは、我々がよく言う、妄想、分別です。その中に、絶対に、妄想、分別を加えなければ、我々の心も天と一致するができます。心が真誠で、清浄で、平等でいれば、我々の心は天と一致することになれます。★人に福または災いのどちらかが、すぐ訪れるのかを観察し予見することができるように、一人の人間のみならず、一つの家庭、一つの団体、一つの社会、さらに進んで、一つの国家、世界まで、そのような見方で予見できます。当たらないことはないです。この中に道理があって、学問があります。絶対に妄言ではありません。ですから、我々は自分自身を省みて、我々の言動と心が、もし至善であれば、自分でも、自分の災厄が必ず取り除かれ、福報が必ず来ると断言できます。しかし、もし我々の心は不善で、言葉も不善で、言葉巧みで人を騙したりして、行動も不善であれば、自分はそろそろ警戒するべきです。なぜなら、災難は必ず一歩一歩自分に近づいてきているからです。家庭も、社会も、国も、世界も、みんな同じ道理です。)
もし今、福を得たく、災禍を避けたいと思う心があれば、善行云々する前に、まず、過ちを改めなければなりません。(★ここはとても重要です。善行をし、徳を積むことを言う前に、まず、自分自身の過ちを改めなければなりません。なぜなら、もし過ちを徹底的に直さないと、修めている善の中に、同時に悪が混じっていて、善も完全な善でなくなるので、現れてくる善のご利益も明らかでなくなります。ですから、善を修めるより先立って、まず改過から行うべきです。)
しかし、改過するにあたって、一番目は、まず「恥を知る心」を起こさなければなりません。考えてみれば、昔の聖賢達が私と同じ人間であって、彼ら達は後世の人々に敬われて、万世の師表と仰がれているのに対して、私はなぜか、一文の値打ちもない割れた陶器のように、支離滅裂(しりめつれつ、ばらばらでまとまりがなく、筋道が立っていないさま。)で、悩みだらけで、世の七情五欲(しちじょうごよく、中にある七情のという煩悩:喜・怒・哀・楽・愛・悪(お)・欲;外にある五欲という誘惑:金欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲)に耽溺(たんでき、ふけりおぼれること)していて、ひそかに不道徳なことをし、だれにも知られていないのだと思い込んで、傲慢な態度をとっていて、まったく慚愧(ざんき、自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。)の色がなく、平気でいます。そのままであれば、必ず畜生などの悪道(三悪道、つまり、地獄、畜生、餓鬼道)に堕ちてしまうことにも気づかないままです。世で、一番汗顔すべき、一番恥じるべきことは、これより大きなことはありません。孟子さまが仰っていたように、「恥之於人大矣(恥を知ることは、人間にとって、とても大切なことです)。」なぜなら、恥を知ることができれば、聖賢になれます;恥を知らないだと、畜生に入ります。これは改過するに当たって、とても肝心なところです。(★過ちを直すに当たって、了凡先生は三点を挙げました。一つ目は、恥を知る心です。儒教の教えの「知恥近乎勇(恥を知るは勇に近し、つまり、恥を知っているから勇猛精進に改過自新できます)」が言っているように、「勇」は勇気を持って、思い切り改過自新(かいかじしん 過ちを改めて心を入れかえること)することです。★人は、本当に恥を知る心があれば、一つの妄心(もうじん 煩悩にけがされた心。迷いの心。誤った心。)も起こせず、一つの悪念も起こせなくなります。常に昔の聖賢達を思い出すべきです。彼達は確かに万世の師表です。孔子は、今まで2500年以上にわたり、釈迦仏は、今まで3000年近くにもわたり、今でも、国を問わず、民族を問わず、さらに信仰を問わず、世間に伝えつづけられてきています。今でも、多くの人々に尊敬され、その教誨を受け入れられ、見習われています。彼達こそ本当の「大丈夫(だいじょうふ、儒教では、道徳が高く、人格の優れている人のこと)」と呼べます。彼達はそれができるのに、私はなぜできないのかと自分によく言い聞かせると、自然に気持ちを奮い立たせて、自ら努め励むことができます。★世の七情五欲にふけり溺れることは、つまり、世間の人は、過度に情欲の快楽に溺れていて、その情欲は本当ではないことに気付かないままなのです。その中に、確かに、楽があります。聖人もそれを否定しません。しかし、あなたはその快楽と情欲のために、大きな代償を払ったのです。つまり、得より損の方が大きいのです。そのことを、釈迦様が経典の中で、教えてくださらなければ、我々はそれを想像すらつかないのです。我々が払った代償は大きすぎます。その代償とは、まさに、六道輪廻です。その真相を本当に分かれば、とても怖くなります。世で一番恐怖なことは、実は六道輪廻です。★聖賢達は、この世にいると、七情五欲から離れていないのですが、彼達は、情欲に対してとても無欲淡泊であって、言動は礼儀にかなっていて、正しく道理や道義にも合っています。「礼」とは、節度があるものです。つまり、やり過ぎてはいけません。逆に、足りないこともいけません。足りないこととは、つまり、礼にかなっていません。過度だと、同様に、礼にかなっていないことになります。だから、「礼」には「節」があり、「節」とは、節度です。昔の聖賢達の教誨では、結婚し家庭を作り、子供を産むことにあたっては、夫婦は賓客(ひんきゃく、大事な客)に対するように互いに尊重し合うべきです。つまり、家庭のなかにも、節度があります。絶対に情欲に溺れることがありません。現在の社会と違います。だから、昔の家庭は和睦で、秩序があります。この部分の家訓は、意義が深く、我々凡夫の病根(びょうこん、悪いことの根本原因)を示してくださいました。我々凡夫は聖者になれないのは、まさに、そこに根本的な原因があります。
★一番浅い部分から話すと、人々は七情五欲の享受が好きですが、自分の命をもっと大事にします。その命さえも捨てなければといけない時になると、恐らく、七情五欲も捨てられます。それでも自分の身体と命だけ、捨てたくなくて、尚且つ、自分が長生きできるように望んでいます。それも人間としての普通の感情です。自分を長生きにさせたければ、生活の各方面を節制(せっせい、ほどよくすること)するべきです。古人が言うように「病気は口から入り、災いは口から出る」というように、災厄に遠ざけたいであれば、言葉を慎重にしなければなりません。態度を慎まなければなりません;身体健康でいたいのであれば、食事や日常生活を注意しなければなりません。沢山の人が健康長寿を願っていますが、その道理が分からなければ、中年以後になると、身体はだんだん衰弱になっていきます。養生の方法を知らないからです。私が実践している養生の方法は、26歳に仏法を習い始めて半年間経った時に、菜食のいろいろなご利益や菜食すると健康にすごく有益であることを知り、菜食主義者になることを決心しました。26歳から今まで、菜食して五十何年も経ちました。私の同級生や友達は、みんな私を見て、羨ましくなっています。なぜなら、私の顔つきが変わったのです。そして、体質も変わりました。今年私は75歳で、病気になったことがありません。私の身体はとても健康です。去年、オーストラリア政府が私に永久居住許可を贈与して下さったときに、規定に基づいて、私は健康診断しにいきました。検査が終わると、医者が私に言いました「和尚さんはとても健康で、ここに来て検査する必要が本当にないです」。私は「必要がなくても、検査していただきたいです」と言いました。なぜなら、私は検査を受けると、みなさまに、仏法を勉強するご利益を示すことができます。第一のご利益は、健康な身体です。私の今の体力は、三、四十代の人の体力と比べられるぐらいです。医者は私に何を食べていて、なんの営養品をとっていますかと聞きました。私は「私はどんな栄養品も食べていません」と答えました。なぜなら、そのようなものはみんな副作用があります。生活は簡単にすればするほどよいです。お野菜、お豆腐でいいのです。私は水を飲みます。飲料などを飲みません。飲料の中に、本当の事をいうと、今の人は衛生を言いますが、飲料は衛生とは言えません。中に沢山の化学成分が入っています。お茶でさえ、人がお茶を出してくださったときは、その方に敬意を示すために飲みますが、それ以外、私自分ではお茶を飲みません。私自分では、水を飲みます。そして、私が食べる食事の量はとても少ないのです。間食も絶対にしません。私は、毎日読書する時間がとても長いので、夜の12時位になってやっと寝ます。翌朝の六時ぐらいに起きます。特に用事がなければ、昼食の後に少し休憩します。何らかの用事があれば、休憩しなくても大丈夫です。私は気力が満ち溢れていて、仕事も正常にこなしています。それでも、菜食には栄養がないと言えますか?私はその証明ができます。沢山の出家者は菜食していても、身体はとても元気で、痩せていません。
★ですから、健康の本当の要因は、心の清浄です。心に妄想がなく、雑念がありません。その次は、食事や日常生活に正しくしていることです。秩序があって、節制があることです。絶対に、七情五欲に溺れないことです。それだと、あなたの心は初めて、清浄になれます。名聞利養(みょうもんりよう、名声と利得)、貪瞋痴慢(とんじんちまん、貪欲、瞋恚、(因果応報を信じなくて善悪の区別がつかない)愚かさ、傲慢さ)を放下しなければなりません。心が清浄でいることは、健康の本当の原因です。七情五欲に溺れていて、節制しないのだと、その結果は想像するに堪えないほどです。身体の健康はまずありません。
★畜生などの悪道(三悪道、つまり、地獄、畜生、餓鬼道)に堕ちてしまうことは、つまり、仏が経典でよく説かれているように、「人の身をとても得難く、仏法にとても出会い難い」です。我々がこの一生の人間の身体を失うと、来生はまた人間として生まれ変わることは実に難しいです。その比例はとても少ないです。大部分の人間は、次、同じように人間として生まれて来られません。なぜなら、人間として生まれて来るには条件があります。それは、仏法のみならず(仏法でしたら、親孝行して、五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫(出家者なら不淫欲)、不妄語、不飲酒)を守れば、来世はまた人間として生まれかわることができます)、中国の昔の聖賢達からも教わりました。それは、仏法の中で説く五戒と十善(不殺生、不偸盗、不邪淫(出家者なら不淫欲)、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪、不瞋、不邪見。この十戒をよく守り、さらに、慈悲な気持ちを持っていて、人の善行を喜び、布施行をよくすると、来世は天に生まれ変わります。もちろん、この五戒と十善を守り、念仏して、極楽浄土への往生を願うと、必ず、六道から脱出でき、極楽浄土へ行けて、仏になれます)を守ることと同じように、儒教でも、倫理道徳、五倫十義(「五倫」とは、身分や地位です;「十義」とは、その身分や地位に応じて果たすべき義務です。「五倫十義」は簡単にいえば、つまり、夫は道義があって、温厚仁愛で、妻は温和で優しく従順でいて、それぞれの家庭での務め(男子は家庭の収入を獲得し、妻子を思いやり守り、教育し;女子は子供を産み育て、よく子を教育し、そして夫に従い、よき相談相手になって支えることなど)を果たすべきです;父母は慈悲で子供を愛するべきで、子供は両親を敬い、親孝行するべきです;年長の兄弟は友愛で弟妹を守るべきで、年少の弟妹は年長者の兄弟を敬うべきです;年長者、上司や先輩は、年少者、部下や後輩に対して、仁義があって、守ってあげるべきで、年少者、部下や後輩は、年長者、上司や先輩に対して、忠実で責任を持って言われた仕事に努めるべきです;友達同士は信用を守り、義理人情があるべきです)を全部よく守れば、来生は必然で、また人間に生まれ変わることができます。我々は今人間として生まれて来たことができたのも、過去生で、五戒十善をよく修めたからです。この一生はその過去世の修めた果報です。しかし、この一生で、私たちは引き続き、その修めをしていますか?それは自分自身に問うべきことです。
★聖賢達は私たちと同じく人間でしたが、彼達は天人になり、聖人、賢人になり、さらに菩薩、仏になりました。それに対して、我々は今の考え、見解や言動などが共に不善であるので、我々の前途は餓鬼道、地獄、畜生です。果報には天地の差があります。本当に恥ずかしく感じるべきです。ある人が私に聞きました。「和尚さんはなぜ仏法を学びますか」?私の答えはとても簡単でした。「仏法を習うのは、聖人に習い、道理が分かる人間になるためです」。道理が分かる人間になることのみで、自分の境地を高めることができます。現在は仏菩薩と同じような生活をして、将来は仏菩薩の境地に入ります。我々仏法を習う本当の目標はそこにあります。今、この身体がまだ存在する間に、この身体から離れていない間に、この身体を道具として利用して、国、社会やみんなのためにより多くの善事をして、奉仕していくことです。この身体はそのための道具です。「了凡四訓」中から言えば、つまり、断悪修善(だんなくしゅぜん、過ちを改め、善行を修め)、積功累徳(しゃっくるいとく、功を積み、徳を重ねること)することです。人々の模範になれるように努めることです。その際にこの身体という道具を使わないといけないですが、その身体は私には全く関係なく、ただの道具です。(仏法では、この身体は仮のもので、一時的なものです。その身体を執着してはいけないと説かれています)
そして、改心するにあたって、二つ目は、「畏敬(いけい、畏れて敬う)の心」を起こさなければなりません。
(★「畏」を知ることができると、初めて、誠意をもって相手を敬うことができます。「畏」とは、かしこまる、恐れるという意味で、その中にも恭敬(くぎょう、きょうけい)な意味も入っているので、「畏敬」としてつながって使う場合は多いです。★「畏敬の心」、昔には、みんな、父母、教師、目上の人や年長者に対して、畏敬の念を持っていて、敬愛しながら、おそれる気持ちもありました。考えてみれば、もし、畏敬な心を持っていなくて、恥も知らないのであれば、そのような人はどんな悪いこともできそうですね。今の社会では、恥を知る人は少なくなってきて、畏敬の気持ちを持っている人も減りました。原因はどこにありますか?よく教えてあげていないからです。人は聖賢ではなく、仏菩薩でもありません。だから、教育は何よりも大切です。だから、「礼記(らいき)」の「学記(がっき)」編の中で「建国君民、教学為先(国を建設して、その国民を統治するに当たって、教育することは一番大切である)」と説かれています。)
私たちの上に天と地の鬼神が監察していて、彼達をごまかせません。例え私たちの陰でのわずかな過ちでも、天と地の鬼神達からみれば、鏡にはっきりと照らされているように、すべてお見通しです。私たちが犯したその過ちは重いのだと、必ず、私たちは想像がつかないほどの災難に遭うことになり;その過ちが軽いのだと、私たちの現在の福報が減ってしまいます。私たちはそれでも、まったく恐れないでいられますか?そればかりではなく、日頃の日常生活のなかでも、実は、沢山の人に見られています。私たちの言動はすべて見られているのです。私達はいくらそれを隠そうとして、巧妙な手口で過ちをごまかそうとしても、学問や道徳がある方などの他人からみれば、すぐその本心を見破ることができます。本当に自己欺瞞(じこぎまん、自分で自分の心をあざむくこと)するだけで、一文の値打もありません。それでも、恐れて謹む気持ちになれないのですか?
(★天地鬼神はいますか?絶対います。います?どこにいますか?我々の目では見えないし、耳にも聞こえず、身体で触れることもできないのです。しかし、我々が接触できないのだから、存在しないと認識してはいけません。我々が接触できないものは沢山あります。それらは存在しないと言ってはいけません。そして、現実に、鬼神に関わる言い伝えは、中国歴史に多く記載されていて、現代でも、よくテレビ、新聞や雑誌などから、いろいろ鬼神にまつわる話が報道されています。それらの報道は本当ですが、それでも、沢山の人が信じません。それも無理はありません。自らの経験でないと、いくら人から聞いても、信じられません。どの日かに、本当にご縁があって、鬼神を見かけて、そこから初めて信じるようになるでしょう。
★私が仏法を学び始めた頃に、つまり二十代の時に、朱鏡宙居士、とてもお世話になった長者で、彼から沢山の実話を聞きました。すべて彼ご自身が経験したことで、本当の話です。その時に、私たちが彼になぜ仏法を勉強し始めたのかを聞くと、彼はそのきっかけを話してくださいました。それは、1930年代頃に、朱鏡宙居士が蘇州市のある銀行の頭取をしているときのことです。ある晩、彼は友達と集まってマージャンをしていました。よく夜中の二時頃になって、ようやく帰宅していました。或る晩、彼が家に帰る途中のことです。その時は、交通機関は今のように多くなくて、彼はいつも歩いて帰りました。街灯も少なくて、すごく離れた所に少しあったぐらいです。だから、結構うす暗いのです。彼の帰宅する道は大体、歩き四、五十分の距離です。その晩、彼はいつものように、夜遅く歩いていると、彼の前方に知らない人が歩いていました。最初は、彼は特に気にしていませんでした。しかし、その前の人の後ろで歩いてから三十分位経った時に、突然、彼は考えました。前の人が女性のように見えていたので、「一人の女性はなぜこんな夜中にこんな暗い道に出てきたのでしょうか」と不審に思った途端に、突然鳥肌が立つほど怖くなりました。それで、前の女性をよくみると、なんと、上半身だけで、下半身はなかったのです!彼は背筋が凍るほど怖くなりました。彼が驚いている間に、前の人はいなくなりました。消えたのです。彼はその人と一緒に30分も歩いていたので、絶対に、目がかすんでいたわけではありません。彼は本当のお化けを見えました。その日から、彼は仏法を信じ勉強し始めました。朱鏡宙居士は、仏法を学び始めてから、そのお化けにとても感謝感激していると言いました。なぜなら、もし、その目で見ないと、彼は一生絶対に仏法を信じなかったからです。彼の岳父である章太炎は、当時の文壇で盛名を馳せていた方で、敬虔な仏教徒でもあります。沢山の実話を知っていて、よく朱鏡宙居士に話してあげていましたが、朱鏡宙居士は、それを聞いても、半信半疑でした。しかし、ずっと後になって、そのお化けを見たことを自ら経験すると、やっと、信じるようになりました。このような実話は、沢山あります。もっと話すと、何時間もかかります。とても面白くて、絶対に嘘偽りではありません。
★私たちの善行を人に知らせないほうがいいです。逆に、我々の悪事は、人に知ってもらった方がよいです。なぜなら、人に叱られると、それだけでその悪行を大分償えるようになります。人から指摘されると、本当に私たちの過ちであれば、その指摘を素直に受け入れ、悔い改めます。もし、人に指摘されたが、私にはそのような過失がまったくなかったときにも、私は喜びます。なぜなら、私は濡れ衣を着せられましたが、その無実の叱責で私の災いが消されます。それは私の業障が取り除かれることができる最高の方法です。だから、人の叱責は事実であるかどうかにかかわらず、我々は感謝の気持ちを持つべきです。古くから伝えられている「有則改之、無則嘉勉(過ちがあれば、すぐ改めて直します;なければ、今後それがないように自分を戒めます)」のように、つまり、人から叱責されたとき、特に悪意がある批評の時でも、私にはそのような過失があれば、すぐ改過自新します。私にはそのような過失がなければ、今以上に努力して、そのような過ちがないように自分を戒めます。そうすることによって、自分自身の道徳や品行を高めることができます。ですから、本当に断悪修善し、積功累徳(しゃっくるいとく 功を積み、徳を重ねること)して、自分自身を高めることができる人は、世の一般の人と違います。彼の心の中は人の良いところばかりを見ていて、人の欠点や不善を自分の心に置かないのです。人の過ちを自分の心に置くことは、もっとも無意味で価値のないことです。なぜなら、私たちの心は本来善良であって、とてもきれいなのに、人の不善をその心に置いて、気に留めると、結局自分の純善なる心を潰す羽目になります。もったいないことであり、無駄にくやしいことです。)
それに、一人の、極めて大きな罪を犯した人間は、例えばまだ最期の一息が残っている時など、どんな時であっても、その罪を懺悔し、改心することができます。また、古人の中には、一生悪事を働き、死の直前に、それを悔い改めて、一つの善なる念を起こしたので、それによって、死後の平安の兆しとして、苦痛がなく安らかな亡くなり方を果たすことができた方がいました。つまり、その一念の猛烈さによって、百年もの悪行が洗い落とされることができたのです。それはまるで、千年にわたって暗かった岩窟の中を、一つのランプだけで照らすと、その千年もの暗黒が取り除かれるかのようです。ですから、過去の過ちであろうと今の過ちであろうと、問わずに、改めることができるのは一番貴重なことです。
(★過ちは暗闇のようで、一つの灯りでその暗黒を照らし破ることができます。その灯りとは智慧です。覚醒(目が覚めること)です。本当に自覚して、過去の行為が間違っていたと悟ると、その一念の覚りで、一念の本当の智慧が表れてきて、それで罪が消されていきます。しかし、その一念の覚り、その一念の智慧はとても得難くて、貴重なものです。なぜなら、我々は長い間に情欲の中にいて、無量劫以来、情欲に迷い込んでいます。生命は恒久です。我々の肉体は短いですが、我々の精神は永遠にわたって存在します。仏教では、我々に法身慧命(ほうしんえみょう、自性とその智慧)があると説かれています。その法身慧命は恒久なものです。しかし、我々は無量劫の輪廻の中で、その本性を迷い失ってしまいました。むやみに、無知に、この肉体は自分だと執着して、五欲六塵(ごよくろくじん、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五つの欲と、色・声・香・味・触・法の六塵です)の享受を貪って、無量無辺の罪業を造りました。それが原因で、この一生で、いろいろな意に適わないことに出遭い、一生で、いろいろな苦難に遭遇することになっています。ですから、我々は凶を取り除き、吉を求めるために、まず、改過をするべきです。了凡先生は、ここで、自分の経験を家訓にして教えてくださいました。特に、私たちに、最期の際にまだ一息でも残っていれば、そこで悔い改めれば、どんな大きな過ちでも取り除けることを教えてくださいました。)
(定弘法師の講義:
★「古人の中には、一生で悪事を働き、死に際に、それを悔い改めて、つまり、一つの善なる念を起こさせたので、それによって、死後の平安の兆しとして、苦痛のない、安らかな亡くなり方を果たせた方がいました。」:
経典にこのような例がありました。『観無量寿仏経』中では、ジャータシャトルは邪知邪見で、あの提婆達多(だいばだった、仏の弟子でしたが、釈迦さんを裏切って、仏法の教えを背いて、自分で仏陀になりたいからと、釈迦仏を殺害する企みし、破和合僧(はわごうそう、六和敬を修める正法僧団を仲違いさせる)をしていました)と一緒に組んで、ジャータシャトルは自分が国王になりたいから、提婆達多と密謀(みつぼう、秘密のはかりごと)をして、自分の父親を殺して、母親を監禁して害を及ぼしました。その罪はとても重くて、五逆罪(父親を殺す、母親を殺す、阿羅漢を殺す、出仏身血(すいぶつしんけつ、仏身を傷つけ出血させること)、破和合僧この五つの、無間地獄に堕ちる重い罪)と十悪業(十善に反対する事、つまり、殺生、偸盗、邪淫(出家者は淫欲)、妄語、両舌、悪口、綺語、貪、瞋、邪見(愚痴))を犯していました。それはすべて地獄の果報が待っている罪ですので、提婆達多は生きたまま、地獄に堕ちました。アジャータシャトルは、臨終のときに、地獄の火が見えて、恐怖を感じて、そこで犯した罪を心から深く懺悔しました。釈迦仏は彼に念仏して極楽浄土への往生を願うように教えてあげました。そこで、アジャータシャトルは一念の善なる念を起こして懺悔して、極楽浄土への往生を願い、一心念仏して、本当に極楽浄土へ往生できました。しかも、その往生する品位(ほんい)はとても高くて、上品中生(じょうぼんちゅうしょう)でした。他の例にも、「往生伝」に記載されていた唐の時の張善和の場合ですが、その人は、牛を殺す仕事をしていて、一生、数を数えきれない程の牛を殺しました。彼の臨終のときに、ある出家者に教え悟らされ、殺生業を懺悔して、改心して、極楽浄土への往生を願い、ついには念仏して、往生できました。
ですから、上の事例のように、肝心なのは、我々が改心できるかどうかです。
★「つまり、その一念の猛烈さに、百年もの悪行が洗い落とされるのます」:
その一念は、凄まじく、真心が究極に達している至誠な心です。経典にも、至誠な心で「南無阿弥陀仏」と一回を念仏すれば、八十億劫(こう、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの期間と言われる)の生死重罪(しょうじの重罪、前世の善悪の業により生死を繰り返すこと)が除かれると説かれています」)
しかし、この世は無常であって、命を失いやすく、一息でも吸えないと、呼吸が停止してしまい、命がなくなります。その時に改心したくても、もう時すでに遅しなのです。そうなると、まずこの世の果報では、千年も、百年も、悪名を傳えられることになり、仮に家系に孝行な子供や賢い孫が生まれてきても、そのあなたが背負う悪名を洗い落とすことはできません。そして、死んだ後にあの世の果報では、千劫も、百劫も地獄に堕ちたままで苦を受けることになり、仮に聖賢、仏菩薩が来ても、そのあなたを助け出せることができません。そんなことを考えても、恐れずにいられるでしょうか?
(★死ぬまで改心しないで後世の人々に罵られるほどの汚名を残すことは、非常に不名誉なことです。実は、それより、更に恐ろしいことは、来世の果報を受けることです。悪業を造り過ぎて、所謂、「十悪五逆罪」です。その罪は、阿鼻地獄に堕ちる果報が待っています。地獄と言えば、本当にとても恐怖なのです。仏は「地蔵菩薩本願経」の中で、はっきりと説かれています。重い罪があれば、苦しい地獄の果報を受けることになります。地獄はどこから来たのですか?昔、私が初めて仏法を習うときに、朱鏡宙居士が私に、彼の岳父である章太炎先生の実話を教えてくださいました。章太炎先生が当時北京に住んでいて、そのとき、彼はしばらくの間に、東嶽大帝(とうがくたいてい、泰山府君(たいざんふくん)とも呼び、閻魔大王の次に高い地位の冥府の大王です)の判官(はんがん)になったことがありました。本当に鬼神がいます。東嶽大帝は中国の山東省の泰山にいます。彼は五、六個の省(日本の都道府県みたいな中国の行政単位)を管轄していて、管轄範囲はとても大きいです。その管轄地域中の人の生死、吉凶禍福を全部管理しています。判官の地位も高くて、今の事務総長に相当します。東嶽大帝は章太炎先生にその判官の仕事を担当するように招きました。章太炎先生が晩寝ているときに、輿を担いでいる二人の冥府の獄卒が来て、その輿に章太炎先生を乗せて冥府に連れて行きます。夜が明けると、彼の冥府でのその判官の仕事が終わり、また自宅に送り返されます。彼は昼間に、この世つまり人間で仕事をし、夜、冥府で仕事をしなければれならないので、昼夜休むことができません。
章太炎先生は昼間に、冥府での見聞を友人に話していました。彼は地獄の中に炮烙(ほうらく。銅の円柱を業火で赤くなるほど熱していて、罪人がその円柱を抱くとすぐ灰になるほど焼かれ、焼き死んでしまい、そして、地獄の業風に吹かれて、生き返って、またその火の柱を抱きにいく、そうしてまた焼き死に、罪の果報が尽きるまで、その刑罰の繰り返しなのです。これは淫欲の果報で、邪淫などを犯した男性が地獄で受ける刑です。彼達は淫欲の業力で、その火柱が美女に見えるから、抱きに行くのです。焼き死んで、地獄の業風に吹かれ、生きかえった時には、先の事もうすでに忘れていて、また火柱が美女に見えてしまい、抱きにいきます。ちなみに、邪淫を犯した女性には、地獄では鉄床(鉄のベッド)の刑罰が用意されています)という刑罰があるのを見ると、とても残酷で、非人道的だと思い、その炮烙(ほうらく)の刑を廃除するように、東嶽大帝に進言しました。東嶽大帝はその進言を聞くと、うなずき、何も言わずに、二人の獄卒に章太炎先生を、炮烙の刑罰の行われている現場に連れて行くように命じました。その刑の現場に着き、獄卒が「着きました」と章太炎先生に伝えても、章太炎先生には何も見えません。そこで、彼が恍然大悟(こうぜんたいご、突然分かるようになること、ふと思い当たる、はっと悟る)しました。なるほど、なんと地獄は閻魔大王が作ったものではないのです、閻魔大王が作っていないから、もちろん、それを廃除することができません。その地獄の刑罰はどこから来たのですか?それは、罪を犯した人の自分自身の業力で自然に変化し出したものです。人が悪夢を見るように、自己自得で、他人のだれかがわざと作り出したものではありません。章太炎先生はそのことが分かり、その後そのような進言をしなくなりました。
最後に、改心するにあたって、三つ目は、「勇猛精進な心」」を起こさなければなりません。人は改過できないのは、大体は、本気になれず、ぞんざいで、いい加減に、その日暮らしをするからです。私たちは、「また今度に直すから」とぐずぐずせずに、ためらわずに、今すぐ果敢に、改過自新に勇気を持って、挑戦していく心を奮い起こさねばなりません。小さな過失だと、体に刺さった小さい棘のように、すぐに取り除いて;大きな過失だと、指先が毒蛇に噛まれて、毒が急速に体中に蔓延する前に、すぐその指を切り取らなければならないように(訳者:昔の民間療法はそのような治療法だったと思います)、少しもためらわずに、怠らず、滞りなくすぐ改めなければなりません。それはまさに「易経」の六十四卦(ろくじゅうしけ)の第42番目の風雷益(ふうらいえき)卦です。
その「恥を知る、畏敬の心、勇猛精進な心」三つの心を起こしていれば、たとえ、過ちがあっても、春の氷が太陽に当たってすぐ融けるように、勇猛で直ちに直せて、改心することができ、成功しないということはないのです。
しかし、人の過ちと言っても、「事柄上から改める」のと、「道理上から改める」のと、「心の念から改める」とのその三つがあります。修行の技量が違うので、現れる効果も異なります。例えば、以前は殺生していました。今からそれを改め、殺生しないように誓います;以前は怒って人を罵りました。今から、それを改め、怒らないように誓います。そのようなことは、みんな事柄上から改める方法です。これは自分自身を強制的に抑えていることで、かなり難しい修行です。その病根は依然として、残されていて、抑えられるときと、抑えきれない時が出てきます。それはやはり、抜本的な改善策ではありません。
本当に上手に改過できる人は、やはり、具体的な事柄を禁止する前に、なぜそれをしてはいけないのかとういう道理を知るべきです。例えば、私達には殺生という過ちがあることにします。その時は、まず、考えるべきことは、天道は全ての命を慈しみ、愛し、大事にしています。そして、すべての命があるものは、みんな自分の命を大事にして、失いたくない死にたくない心を持っていて、私達は自分を養うために、彼達を殺しています。私達は本当にそれで、安心できますか?尚且つ、彼達が殺された時の状況や、包丁に刻まれ、鍋に入れられ、煮られているときのいろいろな極めて悲惨な苦痛を考えてみたことがありますか?私たちは、自分を養うために、日常的にいろいろな豊富な珍味を食べています。しかし、食べ終わると、味がなくなります。なにもありません。それでしたら、野菜や豆などの菜食でも、十分お腹を満たるのに、なぜ、必ず、殺生の罪を犯して彼らの命を犠牲にしてまで、自分の福報を損なうことをするのでしょうか?
さらに、血がある命はみんな霊知(れいち、ここでは、知覚、知恵、仏性です)があります。霊知がある以上に、私達人間と同じく、一体です。私たちは自分自身の徳行(とっこう、徳の高い行い。道義にかなった行い)を修め高めて、彼達の尊敬を集め、親しまれることができていないのだけではなく、逆に、毎日彼達を殺して食べ、彼達に、未来に渡り、限りなく、深く憎まれ、長く恨まれ続けられることを何故平気ですることができるのでしょうか。そんなことを考えてみると、肉や魚などの命ある食べ物をみると、悲しくなり、とてもその肉が喉を通らなくなります。
そして、もし、私達は以前、「よく怒る」という過ちがあるならば、その時に、まず、考えるべきことは、人間誰にも至らない点があります。それをある程度理解してあげ、大目に見て、不憫に思い、許してあげるべきです。そして、仮にそれは、誰かが、理不尽にわざと我々を困らせるようなことをしているのであっても、それは、彼が道理をわきまえていないことだけで、彼の過失なので、我々に何ら関係ありません。怒る必要もさらにありませんと考えるべきです。
そして、もっと考えるべきことは、本当の天下の豪傑には、誰ひとり、傲慢で独りよがりな人がいないはずということです。そして、聖賢の学問も、決して、人に貪欲、傲慢、瞋恚、怨恨の気持ちを引き起こし、他人に害を及ぼすようなことを教えている学問ではありません。ですから、他人からなんらかの不適切な扱いをされたときに、我々は自分自身を省みます。すべては、我々自分が道徳学問をよく修めていない、またその修めがまだ足らなくて、我々の誠意と真心も足りなかったから、それで、その相手に感動を与えられなかった、感化することができなかったからのだと思うべきです。
そのように、すべて自分自身を点検して反省するのです。そうすれば、例え他人から誹謗中傷をされても、「玉琢かざれば器を成さず(たまみがかざればうつわをなさず、《「礼記」学記から》生まれつきすぐれた才能を有していても、学問や修養を積まなければ立派な人間になることはできない)」のように、それらの出来事は、すべて、この私の道徳と学問を高めるため、私を鍛え、磨くためのものであるのだと悟ります。私はまったく怨恨の気持ちを持たずに、喜んで、すんなり承ります。どこにも怒る必要がありません。そのようにして、誹謗中傷するような言葉を聞いても、なにもないようにまったく怒らないでいると、例えその讒言の炎は天にも昇るほどの勢いであっても、誰かが火のついたたいまつを持って虚空を燃やすようなことで、いつか、その火が自ずと燃え尽き、消えていくように、その誹謗中傷も結局自然に消えていきます。
もしその誹謗中傷を聞いて、すぐ怒り出してしまい、いろいろな理由を挙げて極力自己弁明しても、結局蚕が糸を吐きだし、繭を作り自分をくるむように、自縄自縛(じじょうじばく、自分の心がけ・言葉・行為のために、自由な動きがとれず苦しい立場になること)すると同じで、自ら厄介事に頭を突っ込み、悩む道を選ぶようなことになります。だから、怒ることは無益であるというだけではなく、さらに、実に有害であります。
同じように、殺生や怒ることの他にもいろいろな過ちがある場合も、すべて、今のように、道理上から改め、つまり道理をわきまえてよく考えることです。その道理が分かれば、自然にその過ちを改めることができます。
そして、その「心の念から改める」とはなんでしょうか。過ちは沢山ありますが、すべて我々のその心が作り出したものです。我々の心さえ不動でいれば、過ちはどこからも出てきません。本当に聖賢に学びたい、仏法を修行したい人は、例え色欲、名誉欲や物欲が深く、怒りっぽいなど、諸々の過ちがあっても、逐一探し出して、一つ一つ直していくのではなく、ただ、一心になって善を為していればよいのです。常に正念を保てていれば、自然に邪念に汚染されることがなくなります。太陽が空高く輝き、明るく照らせば、自然にもろもろの魑魅魍魎(ちみもうりょう、暗い所に隠れるのが好きな、木や石、川などの様々な化け物)、妖怪変化(ようかいへんげ、妖怪、怨霊、お化け、魔物など)が消えていくように、常に正法、正念があると、自然に邪法、邪念の居場所がなくなります。これは古来、聖賢の教えの神髄、極意です。
過ちは心より作り出されたもので、もちろん、根本的な所から、つまり心より改めなければなりません。例え毒樹を切るときも、枝を一つ一つ切ったり、葉を一枚一枚取ったりするより、直接その根を抜き取って、根こそぎにする方がよいみたいなことで、根本からの解決策を講じなければなりません。ですから、大抵の最上級の修行技量は、心念(しんねん、心の考えや思い、心に念じること)から退治することです。その効果も抜群で、すぐさま心が清浄になれます。心が動くと、すぐそれに察して、すぐさまその念を消し、無くします。もしまだそのようにして心から改めることができなければ、二の次の策として、「道理上から改心すること」で悪念、邪念などの過ちを除去します。それもできなければ、三番目の、つまり、「事柄上から、逐一に改め、対処する」しかありません。
そして、最上級の改過する方法の「心念から改める」ことができる上根(じょうこん、修行の機根(きこん、能力、素質)が優れている方)の人は、必ず同時に、下の三番目の「事柄上から改心する」の基礎も疎かにしません。つまり、心念上、道理上、事柄上から同時に修めるのはよい方法です。しかし、もし、事柄のみ直して、その道理が全く分からず、心念も依然として変わらないでいると、それは、やはり少し不器用な改過する方法となります。
しかし、改過することに発願すると、明らかに分かるところでは、常に善友からの勧誡(かんかい、善に向かうようにすすめ、悪に陥らないよういましめること)が必要です。そして、目が見えないところでは、つまり冥々中では、鬼神達の護持や感応も必要です。
昼も夜も、一心に懺悔し改過して止まないと、七日間、十四日間、一か月、二か月、三か月間になると、必ず霊験あらたかになれます。その感応としては、例えば、以前なんとなく憂鬱に感じていたに対して、改過した今は、心が広くなって、安らかで、愉悦に浸ります。または、以前よく間違った判断をするに対して、今は物事に対処するときに、智慧が湧くように、相応しい判断ができるようになります。または、以前はいつも忙しくて、よく疲れを感じ、いろいろな障礙に出遭い、なかなかうまくいかなかったのですが、今は以前と違って、すべて、順調に運べるようになって、厄介な問題や忙しい事もなんとなく、順序よくこなしていて、疲労感もありません。あるいは、以前に苦手な人や嫌いな人を見ると、何となく、苦手意識や嫌な思いをしてしまいましたが、今は、そういう人を見ても、嫌ったり、恨んだりしないだけではなく、さらに、その人達に対しても、心から善意な気持ちを持って、礼儀正しく接することができるようになります。さらに、夢の中にも、不思議な境地を見られます。例えば、夢の中で、黒いまたは汚いものを吐き出したり、仏菩薩などの聖賢にお会いできたり、その方達の説法や教誨を聞いたり、助けも頂いたりします。または、夢の中で空に飛んだりして、あるいは、夢で、天の宮殿、極楽浄土などの仏の国土を見たりして、そのようないろいろな殊勝な瑞夢(ずいむ、縁起のよい夢、吉夢(きちむ))を見ると、それらは、すべて、罪が取り除かれた吉祥な兆候(ちょうこう、きざし、しるし)です。しかし、そのような効験があっても、それで満足してしまい、その夢の境地に執着して傲慢な気持ちを起こすと、その吉兆(きっちょう)の瑞相は逆に、改過する修行のさらなる進歩の妨げになります。
昔に、蘧伯玉(きょはくぎょく、春秋時代の衛の大夫(たいふ、官職名))は、彼が二十歳の時に、既に、毎日改過自新し、断悪修善することの重要性を知ったので、とても真面目で努力して改過していました。彼は、毎日とても努力して改過して、一年が経って、二十一歳になったときに、やはりまだすべての過ちを改めることができていないと思いました。さらに、そのまま改過しつつ、二十二歳になって、二十一歳の時の事を振り返ってみると、やはりまた夢の中のようで、まだ過ちがあります。そのまま、年を追うごとに、彼が改過し続けて、五十歳になったときに、振り返って見てみると、やはり、過去の四十九年間の中にまだ何らかの過ちがありました。古人でさえそのような工夫をして絶えずに改過していました。
それに比べて、我々は唯の凡夫であって、我々の過ちや悪業は本当にハリネズミの針のように、実に数がとても多いです。過去を振り返ってみても、自分たちの過ちはどこのあるかさえ分からないことが多いです。それで、十分、我々の心は雑であって、つい、うっかりして、自分たちの過ちさえ見落としてしまうことがよく分かります。しかし、もし、過ちを改めないと、その過ちはますますひどくなるだけです。そして、罪が深く業障が重い人にも、いくつかの兆候が表れてきます。例えば、記憶力が悪くなり、頭の動きも悪くなって、愚かでよく間違ったことをして、忘れっぽくて、彼に何かを言っても、すぐ忘れられてしまう様子とか;他にも、何もないのに、まるで自分で悩み事を探しにいくような感じで、よく、くよくよしたり、イライラしたり、悩んだりする様子とか;または、公平無私で徳行が高い人を見ると、機嫌が悪くなり、または恥ずかしくて気分が悪い様子を見せているとか;あるいは、正論(せいろん、道理にかなった正しい意見や議論)や聖賢の教誨を聴くと、不愉快になる様子とか、さらに誹謗することもある様子とか;または、人に恩恵や物などを施しているのに、逆にその相手から恨まれ、感謝されない状況にあうとか;または夜によく悪夢をみるとか;精神的に元気でないとか;ひどい状況だと、精神的おかしくなり、または認知症にかかったりして、意識が混乱したり、妄言したりする様子とかです。これらの様子はすべて、悪業が多すぎ故に、現れた兆候です。ですから、我々にそのような現象が少しでも起きると、すぐに自分には過ちや悪業がかなり重くなっていたことに気付き、警戒して、すぐさまに奮発して、改過自新しなければなりません。さもないと、事態を更に悪化させ、自ら自分の将来を誤ることになります。
念仏人様のご翻訳された『了凡四訓』(『陰隲録(いんしつろく)』)の一部を整理して掲載させていただきました。
ご覧いただき、ありがとうございました。
春秋時代(しゅんじゅうじだい、孔子はこの時代の人物です)に、各国役人は(★その役人達は相互に頻繁に往来し、多くの人を見てきたので、人を見る学問と経験も充実していて、そのために)一人の言動を観察するだけで、すぐその人の未来の吉凶禍福(きっきょうかふく)を推測し出すことができ、当たらないことはなかったのです。そのような記載は、「左伝(さでん)」「国語(こくご)」(★他に「公羊伝(くようでん)」「穀梁伝(こくりょうでん)など」などのいろいろな種類の史実の本の中から見ることができます。大体の吉凶の前兆は、その人の心から生じていたので、自然に言動として現れてきます。例えば、温厚な感じの人は、しばしば福運を得て;逆に、酷薄(こくはく、むごくて思いやりがなく薄情な)な人は、よく災いに出遭います。一般の凡夫は、学問が深くなくて見識も狭いから、禍福に定めがなく推測することもできないと言っていますが、人はもし至誠の心を持っていて、その心が天道と一致していれば、その人の福報はもうすぐ目の前に来ます。彼の善行を見ればそのことを予見できます。同様に逆に、人にいよいよ災禍が訪れる前にも、その人の不善な言動を見ただけで、あらかじめそのことを推測することができます。
(★私の若いときは、福報がなく、かつ短命な運命でした。私の先生方、方東美先生、章嘉大師と李炳南居士、お三方とも、道徳が高く、学問が深く、人を見る能力がある方達なので、私を見ていたら、私のその運命を知っているので、とても不憫に思い、慈悲に私に「運命改造、自ら福を求める」ことを教え導いてくださいました。★人を観察する二つの原則は、心は善良で、温厚で、人に接するときも、忠実で情に厚くて、いつも人を思いやって、人のために考えられる人は、必ず、その人には将来は福報があります。逆に、それと正反対で、心が狭くて、自分のことしか考えられなくて、他人に損害を与えて自分の利益を図る事を平気にし、自分に利益がないことを絶対にしなくて、人に対しても、酷薄でいると、その人には、福報がありません。仮に、今彼に福報があるように見えても、今のその福報は、彼が過去世で修めていた、運命の中の福報です。その福報は本来多かったはずです。しかし、彼の心が不善であって、言動も不善であるので、彼のその運命中の福報もうその不善の原因で大分減ってしまったのです。それなのに、減らされてもまだ少しの余福(残された福報)があります。ですから、もし、彼は良い心を持って、よいことをすれば、彼のその福報はきっとその一生で享受しきれないほどです。さらにその余福は彼の子孫の代まで続くことができたはずです。★吉凶禍福は予測できるものです。「至誠の心が天と一致する」、私たちはこの事ができれば、もうそれで完璧です。思いや言動はすべて誠実で、天の自然の法則に合っていることです。「天道」とは自然の法則です。どんな人のいかなる意見もその中に加えていません。そのいかなる意見とは、我々がよく言う、妄想、分別です。その中に、絶対に、妄想、分別を加えなければ、我々の心も天と一致するができます。心が真誠で、清浄で、平等でいれば、我々の心は天と一致することになれます。★人に福または災いのどちらかが、すぐ訪れるのかを観察し予見することができるように、一人の人間のみならず、一つの家庭、一つの団体、一つの社会、さらに進んで、一つの国家、世界まで、そのような見方で予見できます。当たらないことはないです。この中に道理があって、学問があります。絶対に妄言ではありません。ですから、我々は自分自身を省みて、我々の言動と心が、もし至善であれば、自分でも、自分の災厄が必ず取り除かれ、福報が必ず来ると断言できます。しかし、もし我々の心は不善で、言葉も不善で、言葉巧みで人を騙したりして、行動も不善であれば、自分はそろそろ警戒するべきです。なぜなら、災難は必ず一歩一歩自分に近づいてきているからです。家庭も、社会も、国も、世界も、みんな同じ道理です。)
もし今、福を得たく、災禍を避けたいと思う心があれば、善行云々する前に、まず、過ちを改めなければなりません。(★ここはとても重要です。善行をし、徳を積むことを言う前に、まず、自分自身の過ちを改めなければなりません。なぜなら、もし過ちを徹底的に直さないと、修めている善の中に、同時に悪が混じっていて、善も完全な善でなくなるので、現れてくる善のご利益も明らかでなくなります。ですから、善を修めるより先立って、まず改過から行うべきです。)
しかし、改過するにあたって、一番目は、まず「恥を知る心」を起こさなければなりません。考えてみれば、昔の聖賢達が私と同じ人間であって、彼ら達は後世の人々に敬われて、万世の師表と仰がれているのに対して、私はなぜか、一文の値打ちもない割れた陶器のように、支離滅裂(しりめつれつ、ばらばらでまとまりがなく、筋道が立っていないさま。)で、悩みだらけで、世の七情五欲(しちじょうごよく、中にある七情のという煩悩:喜・怒・哀・楽・愛・悪(お)・欲;外にある五欲という誘惑:金欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲)に耽溺(たんでき、ふけりおぼれること)していて、ひそかに不道徳なことをし、だれにも知られていないのだと思い込んで、傲慢な態度をとっていて、まったく慚愧(ざんき、自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること。)の色がなく、平気でいます。そのままであれば、必ず畜生などの悪道(三悪道、つまり、地獄、畜生、餓鬼道)に堕ちてしまうことにも気づかないままです。世で、一番汗顔すべき、一番恥じるべきことは、これより大きなことはありません。孟子さまが仰っていたように、「恥之於人大矣(恥を知ることは、人間にとって、とても大切なことです)。」なぜなら、恥を知ることができれば、聖賢になれます;恥を知らないだと、畜生に入ります。これは改過するに当たって、とても肝心なところです。(★過ちを直すに当たって、了凡先生は三点を挙げました。一つ目は、恥を知る心です。儒教の教えの「知恥近乎勇(恥を知るは勇に近し、つまり、恥を知っているから勇猛精進に改過自新できます)」が言っているように、「勇」は勇気を持って、思い切り改過自新(かいかじしん 過ちを改めて心を入れかえること)することです。★人は、本当に恥を知る心があれば、一つの妄心(もうじん 煩悩にけがされた心。迷いの心。誤った心。)も起こせず、一つの悪念も起こせなくなります。常に昔の聖賢達を思い出すべきです。彼達は確かに万世の師表です。孔子は、今まで2500年以上にわたり、釈迦仏は、今まで3000年近くにもわたり、今でも、国を問わず、民族を問わず、さらに信仰を問わず、世間に伝えつづけられてきています。今でも、多くの人々に尊敬され、その教誨を受け入れられ、見習われています。彼達こそ本当の「大丈夫(だいじょうふ、儒教では、道徳が高く、人格の優れている人のこと)」と呼べます。彼達はそれができるのに、私はなぜできないのかと自分によく言い聞かせると、自然に気持ちを奮い立たせて、自ら努め励むことができます。★世の七情五欲にふけり溺れることは、つまり、世間の人は、過度に情欲の快楽に溺れていて、その情欲は本当ではないことに気付かないままなのです。その中に、確かに、楽があります。聖人もそれを否定しません。しかし、あなたはその快楽と情欲のために、大きな代償を払ったのです。つまり、得より損の方が大きいのです。そのことを、釈迦様が経典の中で、教えてくださらなければ、我々はそれを想像すらつかないのです。我々が払った代償は大きすぎます。その代償とは、まさに、六道輪廻です。その真相を本当に分かれば、とても怖くなります。世で一番恐怖なことは、実は六道輪廻です。★聖賢達は、この世にいると、七情五欲から離れていないのですが、彼達は、情欲に対してとても無欲淡泊であって、言動は礼儀にかなっていて、正しく道理や道義にも合っています。「礼」とは、節度があるものです。つまり、やり過ぎてはいけません。逆に、足りないこともいけません。足りないこととは、つまり、礼にかなっていません。過度だと、同様に、礼にかなっていないことになります。だから、「礼」には「節」があり、「節」とは、節度です。昔の聖賢達の教誨では、結婚し家庭を作り、子供を産むことにあたっては、夫婦は賓客(ひんきゃく、大事な客)に対するように互いに尊重し合うべきです。つまり、家庭のなかにも、節度があります。絶対に情欲に溺れることがありません。現在の社会と違います。だから、昔の家庭は和睦で、秩序があります。この部分の家訓は、意義が深く、我々凡夫の病根(びょうこん、悪いことの根本原因)を示してくださいました。我々凡夫は聖者になれないのは、まさに、そこに根本的な原因があります。
★一番浅い部分から話すと、人々は七情五欲の享受が好きですが、自分の命をもっと大事にします。その命さえも捨てなければといけない時になると、恐らく、七情五欲も捨てられます。それでも自分の身体と命だけ、捨てたくなくて、尚且つ、自分が長生きできるように望んでいます。それも人間としての普通の感情です。自分を長生きにさせたければ、生活の各方面を節制(せっせい、ほどよくすること)するべきです。古人が言うように「病気は口から入り、災いは口から出る」というように、災厄に遠ざけたいであれば、言葉を慎重にしなければなりません。態度を慎まなければなりません;身体健康でいたいのであれば、食事や日常生活を注意しなければなりません。沢山の人が健康長寿を願っていますが、その道理が分からなければ、中年以後になると、身体はだんだん衰弱になっていきます。養生の方法を知らないからです。私が実践している養生の方法は、26歳に仏法を習い始めて半年間経った時に、菜食のいろいろなご利益や菜食すると健康にすごく有益であることを知り、菜食主義者になることを決心しました。26歳から今まで、菜食して五十何年も経ちました。私の同級生や友達は、みんな私を見て、羨ましくなっています。なぜなら、私の顔つきが変わったのです。そして、体質も変わりました。今年私は75歳で、病気になったことがありません。私の身体はとても健康です。去年、オーストラリア政府が私に永久居住許可を贈与して下さったときに、規定に基づいて、私は健康診断しにいきました。検査が終わると、医者が私に言いました「和尚さんはとても健康で、ここに来て検査する必要が本当にないです」。私は「必要がなくても、検査していただきたいです」と言いました。なぜなら、私は検査を受けると、みなさまに、仏法を勉強するご利益を示すことができます。第一のご利益は、健康な身体です。私の今の体力は、三、四十代の人の体力と比べられるぐらいです。医者は私に何を食べていて、なんの営養品をとっていますかと聞きました。私は「私はどんな栄養品も食べていません」と答えました。なぜなら、そのようなものはみんな副作用があります。生活は簡単にすればするほどよいです。お野菜、お豆腐でいいのです。私は水を飲みます。飲料などを飲みません。飲料の中に、本当の事をいうと、今の人は衛生を言いますが、飲料は衛生とは言えません。中に沢山の化学成分が入っています。お茶でさえ、人がお茶を出してくださったときは、その方に敬意を示すために飲みますが、それ以外、私自分ではお茶を飲みません。私自分では、水を飲みます。そして、私が食べる食事の量はとても少ないのです。間食も絶対にしません。私は、毎日読書する時間がとても長いので、夜の12時位になってやっと寝ます。翌朝の六時ぐらいに起きます。特に用事がなければ、昼食の後に少し休憩します。何らかの用事があれば、休憩しなくても大丈夫です。私は気力が満ち溢れていて、仕事も正常にこなしています。それでも、菜食には栄養がないと言えますか?私はその証明ができます。沢山の出家者は菜食していても、身体はとても元気で、痩せていません。
★ですから、健康の本当の要因は、心の清浄です。心に妄想がなく、雑念がありません。その次は、食事や日常生活に正しくしていることです。秩序があって、節制があることです。絶対に、七情五欲に溺れないことです。それだと、あなたの心は初めて、清浄になれます。名聞利養(みょうもんりよう、名声と利得)、貪瞋痴慢(とんじんちまん、貪欲、瞋恚、(因果応報を信じなくて善悪の区別がつかない)愚かさ、傲慢さ)を放下しなければなりません。心が清浄でいることは、健康の本当の原因です。七情五欲に溺れていて、節制しないのだと、その結果は想像するに堪えないほどです。身体の健康はまずありません。
★畜生などの悪道(三悪道、つまり、地獄、畜生、餓鬼道)に堕ちてしまうことは、つまり、仏が経典でよく説かれているように、「人の身をとても得難く、仏法にとても出会い難い」です。我々がこの一生の人間の身体を失うと、来生はまた人間として生まれ変わることは実に難しいです。その比例はとても少ないです。大部分の人間は、次、同じように人間として生まれて来られません。なぜなら、人間として生まれて来るには条件があります。それは、仏法のみならず(仏法でしたら、親孝行して、五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫(出家者なら不淫欲)、不妄語、不飲酒)を守れば、来世はまた人間として生まれかわることができます)、中国の昔の聖賢達からも教わりました。それは、仏法の中で説く五戒と十善(不殺生、不偸盗、不邪淫(出家者なら不淫欲)、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪、不瞋、不邪見。この十戒をよく守り、さらに、慈悲な気持ちを持っていて、人の善行を喜び、布施行をよくすると、来世は天に生まれ変わります。もちろん、この五戒と十善を守り、念仏して、極楽浄土への往生を願うと、必ず、六道から脱出でき、極楽浄土へ行けて、仏になれます)を守ることと同じように、儒教でも、倫理道徳、五倫十義(「五倫」とは、身分や地位です;「十義」とは、その身分や地位に応じて果たすべき義務です。「五倫十義」は簡単にいえば、つまり、夫は道義があって、温厚仁愛で、妻は温和で優しく従順でいて、それぞれの家庭での務め(男子は家庭の収入を獲得し、妻子を思いやり守り、教育し;女子は子供を産み育て、よく子を教育し、そして夫に従い、よき相談相手になって支えることなど)を果たすべきです;父母は慈悲で子供を愛するべきで、子供は両親を敬い、親孝行するべきです;年長の兄弟は友愛で弟妹を守るべきで、年少の弟妹は年長者の兄弟を敬うべきです;年長者、上司や先輩は、年少者、部下や後輩に対して、仁義があって、守ってあげるべきで、年少者、部下や後輩は、年長者、上司や先輩に対して、忠実で責任を持って言われた仕事に努めるべきです;友達同士は信用を守り、義理人情があるべきです)を全部よく守れば、来生は必然で、また人間に生まれ変わることができます。我々は今人間として生まれて来たことができたのも、過去生で、五戒十善をよく修めたからです。この一生はその過去世の修めた果報です。しかし、この一生で、私たちは引き続き、その修めをしていますか?それは自分自身に問うべきことです。
★聖賢達は私たちと同じく人間でしたが、彼達は天人になり、聖人、賢人になり、さらに菩薩、仏になりました。それに対して、我々は今の考え、見解や言動などが共に不善であるので、我々の前途は餓鬼道、地獄、畜生です。果報には天地の差があります。本当に恥ずかしく感じるべきです。ある人が私に聞きました。「和尚さんはなぜ仏法を学びますか」?私の答えはとても簡単でした。「仏法を習うのは、聖人に習い、道理が分かる人間になるためです」。道理が分かる人間になることのみで、自分の境地を高めることができます。現在は仏菩薩と同じような生活をして、将来は仏菩薩の境地に入ります。我々仏法を習う本当の目標はそこにあります。今、この身体がまだ存在する間に、この身体から離れていない間に、この身体を道具として利用して、国、社会やみんなのためにより多くの善事をして、奉仕していくことです。この身体はそのための道具です。「了凡四訓」中から言えば、つまり、断悪修善(だんなくしゅぜん、過ちを改め、善行を修め)、積功累徳(しゃっくるいとく、功を積み、徳を重ねること)することです。人々の模範になれるように努めることです。その際にこの身体という道具を使わないといけないですが、その身体は私には全く関係なく、ただの道具です。(仏法では、この身体は仮のもので、一時的なものです。その身体を執着してはいけないと説かれています)
そして、改心するにあたって、二つ目は、「畏敬(いけい、畏れて敬う)の心」を起こさなければなりません。
(★「畏」を知ることができると、初めて、誠意をもって相手を敬うことができます。「畏」とは、かしこまる、恐れるという意味で、その中にも恭敬(くぎょう、きょうけい)な意味も入っているので、「畏敬」としてつながって使う場合は多いです。★「畏敬の心」、昔には、みんな、父母、教師、目上の人や年長者に対して、畏敬の念を持っていて、敬愛しながら、おそれる気持ちもありました。考えてみれば、もし、畏敬な心を持っていなくて、恥も知らないのであれば、そのような人はどんな悪いこともできそうですね。今の社会では、恥を知る人は少なくなってきて、畏敬の気持ちを持っている人も減りました。原因はどこにありますか?よく教えてあげていないからです。人は聖賢ではなく、仏菩薩でもありません。だから、教育は何よりも大切です。だから、「礼記(らいき)」の「学記(がっき)」編の中で「建国君民、教学為先(国を建設して、その国民を統治するに当たって、教育することは一番大切である)」と説かれています。)
私たちの上に天と地の鬼神が監察していて、彼達をごまかせません。例え私たちの陰でのわずかな過ちでも、天と地の鬼神達からみれば、鏡にはっきりと照らされているように、すべてお見通しです。私たちが犯したその過ちは重いのだと、必ず、私たちは想像がつかないほどの災難に遭うことになり;その過ちが軽いのだと、私たちの現在の福報が減ってしまいます。私たちはそれでも、まったく恐れないでいられますか?そればかりではなく、日頃の日常生活のなかでも、実は、沢山の人に見られています。私たちの言動はすべて見られているのです。私達はいくらそれを隠そうとして、巧妙な手口で過ちをごまかそうとしても、学問や道徳がある方などの他人からみれば、すぐその本心を見破ることができます。本当に自己欺瞞(じこぎまん、自分で自分の心をあざむくこと)するだけで、一文の値打もありません。それでも、恐れて謹む気持ちになれないのですか?
(★天地鬼神はいますか?絶対います。います?どこにいますか?我々の目では見えないし、耳にも聞こえず、身体で触れることもできないのです。しかし、我々が接触できないのだから、存在しないと認識してはいけません。我々が接触できないものは沢山あります。それらは存在しないと言ってはいけません。そして、現実に、鬼神に関わる言い伝えは、中国歴史に多く記載されていて、現代でも、よくテレビ、新聞や雑誌などから、いろいろ鬼神にまつわる話が報道されています。それらの報道は本当ですが、それでも、沢山の人が信じません。それも無理はありません。自らの経験でないと、いくら人から聞いても、信じられません。どの日かに、本当にご縁があって、鬼神を見かけて、そこから初めて信じるようになるでしょう。
★私が仏法を学び始めた頃に、つまり二十代の時に、朱鏡宙居士、とてもお世話になった長者で、彼から沢山の実話を聞きました。すべて彼ご自身が経験したことで、本当の話です。その時に、私たちが彼になぜ仏法を勉強し始めたのかを聞くと、彼はそのきっかけを話してくださいました。それは、1930年代頃に、朱鏡宙居士が蘇州市のある銀行の頭取をしているときのことです。ある晩、彼は友達と集まってマージャンをしていました。よく夜中の二時頃になって、ようやく帰宅していました。或る晩、彼が家に帰る途中のことです。その時は、交通機関は今のように多くなくて、彼はいつも歩いて帰りました。街灯も少なくて、すごく離れた所に少しあったぐらいです。だから、結構うす暗いのです。彼の帰宅する道は大体、歩き四、五十分の距離です。その晩、彼はいつものように、夜遅く歩いていると、彼の前方に知らない人が歩いていました。最初は、彼は特に気にしていませんでした。しかし、その前の人の後ろで歩いてから三十分位経った時に、突然、彼は考えました。前の人が女性のように見えていたので、「一人の女性はなぜこんな夜中にこんな暗い道に出てきたのでしょうか」と不審に思った途端に、突然鳥肌が立つほど怖くなりました。それで、前の女性をよくみると、なんと、上半身だけで、下半身はなかったのです!彼は背筋が凍るほど怖くなりました。彼が驚いている間に、前の人はいなくなりました。消えたのです。彼はその人と一緒に30分も歩いていたので、絶対に、目がかすんでいたわけではありません。彼は本当のお化けを見えました。その日から、彼は仏法を信じ勉強し始めました。朱鏡宙居士は、仏法を学び始めてから、そのお化けにとても感謝感激していると言いました。なぜなら、もし、その目で見ないと、彼は一生絶対に仏法を信じなかったからです。彼の岳父である章太炎は、当時の文壇で盛名を馳せていた方で、敬虔な仏教徒でもあります。沢山の実話を知っていて、よく朱鏡宙居士に話してあげていましたが、朱鏡宙居士は、それを聞いても、半信半疑でした。しかし、ずっと後になって、そのお化けを見たことを自ら経験すると、やっと、信じるようになりました。このような実話は、沢山あります。もっと話すと、何時間もかかります。とても面白くて、絶対に嘘偽りではありません。
★私たちの善行を人に知らせないほうがいいです。逆に、我々の悪事は、人に知ってもらった方がよいです。なぜなら、人に叱られると、それだけでその悪行を大分償えるようになります。人から指摘されると、本当に私たちの過ちであれば、その指摘を素直に受け入れ、悔い改めます。もし、人に指摘されたが、私にはそのような過失がまったくなかったときにも、私は喜びます。なぜなら、私は濡れ衣を着せられましたが、その無実の叱責で私の災いが消されます。それは私の業障が取り除かれることができる最高の方法です。だから、人の叱責は事実であるかどうかにかかわらず、我々は感謝の気持ちを持つべきです。古くから伝えられている「有則改之、無則嘉勉(過ちがあれば、すぐ改めて直します;なければ、今後それがないように自分を戒めます)」のように、つまり、人から叱責されたとき、特に悪意がある批評の時でも、私にはそのような過失があれば、すぐ改過自新します。私にはそのような過失がなければ、今以上に努力して、そのような過ちがないように自分を戒めます。そうすることによって、自分自身の道徳や品行を高めることができます。ですから、本当に断悪修善し、積功累徳(しゃっくるいとく 功を積み、徳を重ねること)して、自分自身を高めることができる人は、世の一般の人と違います。彼の心の中は人の良いところばかりを見ていて、人の欠点や不善を自分の心に置かないのです。人の過ちを自分の心に置くことは、もっとも無意味で価値のないことです。なぜなら、私たちの心は本来善良であって、とてもきれいなのに、人の不善をその心に置いて、気に留めると、結局自分の純善なる心を潰す羽目になります。もったいないことであり、無駄にくやしいことです。)
それに、一人の、極めて大きな罪を犯した人間は、例えばまだ最期の一息が残っている時など、どんな時であっても、その罪を懺悔し、改心することができます。また、古人の中には、一生悪事を働き、死の直前に、それを悔い改めて、一つの善なる念を起こしたので、それによって、死後の平安の兆しとして、苦痛がなく安らかな亡くなり方を果たすことができた方がいました。つまり、その一念の猛烈さによって、百年もの悪行が洗い落とされることができたのです。それはまるで、千年にわたって暗かった岩窟の中を、一つのランプだけで照らすと、その千年もの暗黒が取り除かれるかのようです。ですから、過去の過ちであろうと今の過ちであろうと、問わずに、改めることができるのは一番貴重なことです。
(★過ちは暗闇のようで、一つの灯りでその暗黒を照らし破ることができます。その灯りとは智慧です。覚醒(目が覚めること)です。本当に自覚して、過去の行為が間違っていたと悟ると、その一念の覚りで、一念の本当の智慧が表れてきて、それで罪が消されていきます。しかし、その一念の覚り、その一念の智慧はとても得難くて、貴重なものです。なぜなら、我々は長い間に情欲の中にいて、無量劫以来、情欲に迷い込んでいます。生命は恒久です。我々の肉体は短いですが、我々の精神は永遠にわたって存在します。仏教では、我々に法身慧命(ほうしんえみょう、自性とその智慧)があると説かれています。その法身慧命は恒久なものです。しかし、我々は無量劫の輪廻の中で、その本性を迷い失ってしまいました。むやみに、無知に、この肉体は自分だと執着して、五欲六塵(ごよくろくじん、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五つの欲と、色・声・香・味・触・法の六塵です)の享受を貪って、無量無辺の罪業を造りました。それが原因で、この一生で、いろいろな意に適わないことに出遭い、一生で、いろいろな苦難に遭遇することになっています。ですから、我々は凶を取り除き、吉を求めるために、まず、改過をするべきです。了凡先生は、ここで、自分の経験を家訓にして教えてくださいました。特に、私たちに、最期の際にまだ一息でも残っていれば、そこで悔い改めれば、どんな大きな過ちでも取り除けることを教えてくださいました。)
(定弘法師の講義:
★「古人の中には、一生で悪事を働き、死に際に、それを悔い改めて、つまり、一つの善なる念を起こさせたので、それによって、死後の平安の兆しとして、苦痛のない、安らかな亡くなり方を果たせた方がいました。」:
経典にこのような例がありました。『観無量寿仏経』中では、ジャータシャトルは邪知邪見で、あの提婆達多(だいばだった、仏の弟子でしたが、釈迦さんを裏切って、仏法の教えを背いて、自分で仏陀になりたいからと、釈迦仏を殺害する企みし、破和合僧(はわごうそう、六和敬を修める正法僧団を仲違いさせる)をしていました)と一緒に組んで、ジャータシャトルは自分が国王になりたいから、提婆達多と密謀(みつぼう、秘密のはかりごと)をして、自分の父親を殺して、母親を監禁して害を及ぼしました。その罪はとても重くて、五逆罪(父親を殺す、母親を殺す、阿羅漢を殺す、出仏身血(すいぶつしんけつ、仏身を傷つけ出血させること)、破和合僧この五つの、無間地獄に堕ちる重い罪)と十悪業(十善に反対する事、つまり、殺生、偸盗、邪淫(出家者は淫欲)、妄語、両舌、悪口、綺語、貪、瞋、邪見(愚痴))を犯していました。それはすべて地獄の果報が待っている罪ですので、提婆達多は生きたまま、地獄に堕ちました。アジャータシャトルは、臨終のときに、地獄の火が見えて、恐怖を感じて、そこで犯した罪を心から深く懺悔しました。釈迦仏は彼に念仏して極楽浄土への往生を願うように教えてあげました。そこで、アジャータシャトルは一念の善なる念を起こして懺悔して、極楽浄土への往生を願い、一心念仏して、本当に極楽浄土へ往生できました。しかも、その往生する品位(ほんい)はとても高くて、上品中生(じょうぼんちゅうしょう)でした。他の例にも、「往生伝」に記載されていた唐の時の張善和の場合ですが、その人は、牛を殺す仕事をしていて、一生、数を数えきれない程の牛を殺しました。彼の臨終のときに、ある出家者に教え悟らされ、殺生業を懺悔して、改心して、極楽浄土への往生を願い、ついには念仏して、往生できました。
ですから、上の事例のように、肝心なのは、我々が改心できるかどうかです。
★「つまり、その一念の猛烈さに、百年もの悪行が洗い落とされるのます」:
その一念は、凄まじく、真心が究極に達している至誠な心です。経典にも、至誠な心で「南無阿弥陀仏」と一回を念仏すれば、八十億劫(こう、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの期間と言われる)の生死重罪(しょうじの重罪、前世の善悪の業により生死を繰り返すこと)が除かれると説かれています」)
しかし、この世は無常であって、命を失いやすく、一息でも吸えないと、呼吸が停止してしまい、命がなくなります。その時に改心したくても、もう時すでに遅しなのです。そうなると、まずこの世の果報では、千年も、百年も、悪名を傳えられることになり、仮に家系に孝行な子供や賢い孫が生まれてきても、そのあなたが背負う悪名を洗い落とすことはできません。そして、死んだ後にあの世の果報では、千劫も、百劫も地獄に堕ちたままで苦を受けることになり、仮に聖賢、仏菩薩が来ても、そのあなたを助け出せることができません。そんなことを考えても、恐れずにいられるでしょうか?
(★死ぬまで改心しないで後世の人々に罵られるほどの汚名を残すことは、非常に不名誉なことです。実は、それより、更に恐ろしいことは、来世の果報を受けることです。悪業を造り過ぎて、所謂、「十悪五逆罪」です。その罪は、阿鼻地獄に堕ちる果報が待っています。地獄と言えば、本当にとても恐怖なのです。仏は「地蔵菩薩本願経」の中で、はっきりと説かれています。重い罪があれば、苦しい地獄の果報を受けることになります。地獄はどこから来たのですか?昔、私が初めて仏法を習うときに、朱鏡宙居士が私に、彼の岳父である章太炎先生の実話を教えてくださいました。章太炎先生が当時北京に住んでいて、そのとき、彼はしばらくの間に、東嶽大帝(とうがくたいてい、泰山府君(たいざんふくん)とも呼び、閻魔大王の次に高い地位の冥府の大王です)の判官(はんがん)になったことがありました。本当に鬼神がいます。東嶽大帝は中国の山東省の泰山にいます。彼は五、六個の省(日本の都道府県みたいな中国の行政単位)を管轄していて、管轄範囲はとても大きいです。その管轄地域中の人の生死、吉凶禍福を全部管理しています。判官の地位も高くて、今の事務総長に相当します。東嶽大帝は章太炎先生にその判官の仕事を担当するように招きました。章太炎先生が晩寝ているときに、輿を担いでいる二人の冥府の獄卒が来て、その輿に章太炎先生を乗せて冥府に連れて行きます。夜が明けると、彼の冥府でのその判官の仕事が終わり、また自宅に送り返されます。彼は昼間に、この世つまり人間で仕事をし、夜、冥府で仕事をしなければれならないので、昼夜休むことができません。
章太炎先生は昼間に、冥府での見聞を友人に話していました。彼は地獄の中に炮烙(ほうらく。銅の円柱を業火で赤くなるほど熱していて、罪人がその円柱を抱くとすぐ灰になるほど焼かれ、焼き死んでしまい、そして、地獄の業風に吹かれて、生き返って、またその火の柱を抱きにいく、そうしてまた焼き死に、罪の果報が尽きるまで、その刑罰の繰り返しなのです。これは淫欲の果報で、邪淫などを犯した男性が地獄で受ける刑です。彼達は淫欲の業力で、その火柱が美女に見えるから、抱きに行くのです。焼き死んで、地獄の業風に吹かれ、生きかえった時には、先の事もうすでに忘れていて、また火柱が美女に見えてしまい、抱きにいきます。ちなみに、邪淫を犯した女性には、地獄では鉄床(鉄のベッド)の刑罰が用意されています)という刑罰があるのを見ると、とても残酷で、非人道的だと思い、その炮烙(ほうらく)の刑を廃除するように、東嶽大帝に進言しました。東嶽大帝はその進言を聞くと、うなずき、何も言わずに、二人の獄卒に章太炎先生を、炮烙の刑罰の行われている現場に連れて行くように命じました。その刑の現場に着き、獄卒が「着きました」と章太炎先生に伝えても、章太炎先生には何も見えません。そこで、彼が恍然大悟(こうぜんたいご、突然分かるようになること、ふと思い当たる、はっと悟る)しました。なるほど、なんと地獄は閻魔大王が作ったものではないのです、閻魔大王が作っていないから、もちろん、それを廃除することができません。その地獄の刑罰はどこから来たのですか?それは、罪を犯した人の自分自身の業力で自然に変化し出したものです。人が悪夢を見るように、自己自得で、他人のだれかがわざと作り出したものではありません。章太炎先生はそのことが分かり、その後そのような進言をしなくなりました。
最後に、改心するにあたって、三つ目は、「勇猛精進な心」」を起こさなければなりません。人は改過できないのは、大体は、本気になれず、ぞんざいで、いい加減に、その日暮らしをするからです。私たちは、「また今度に直すから」とぐずぐずせずに、ためらわずに、今すぐ果敢に、改過自新に勇気を持って、挑戦していく心を奮い起こさねばなりません。小さな過失だと、体に刺さった小さい棘のように、すぐに取り除いて;大きな過失だと、指先が毒蛇に噛まれて、毒が急速に体中に蔓延する前に、すぐその指を切り取らなければならないように(訳者:昔の民間療法はそのような治療法だったと思います)、少しもためらわずに、怠らず、滞りなくすぐ改めなければなりません。それはまさに「易経」の六十四卦(ろくじゅうしけ)の第42番目の風雷益(ふうらいえき)卦です。
その「恥を知る、畏敬の心、勇猛精進な心」三つの心を起こしていれば、たとえ、過ちがあっても、春の氷が太陽に当たってすぐ融けるように、勇猛で直ちに直せて、改心することができ、成功しないということはないのです。
しかし、人の過ちと言っても、「事柄上から改める」のと、「道理上から改める」のと、「心の念から改める」とのその三つがあります。修行の技量が違うので、現れる効果も異なります。例えば、以前は殺生していました。今からそれを改め、殺生しないように誓います;以前は怒って人を罵りました。今から、それを改め、怒らないように誓います。そのようなことは、みんな事柄上から改める方法です。これは自分自身を強制的に抑えていることで、かなり難しい修行です。その病根は依然として、残されていて、抑えられるときと、抑えきれない時が出てきます。それはやはり、抜本的な改善策ではありません。
本当に上手に改過できる人は、やはり、具体的な事柄を禁止する前に、なぜそれをしてはいけないのかとういう道理を知るべきです。例えば、私達には殺生という過ちがあることにします。その時は、まず、考えるべきことは、天道は全ての命を慈しみ、愛し、大事にしています。そして、すべての命があるものは、みんな自分の命を大事にして、失いたくない死にたくない心を持っていて、私達は自分を養うために、彼達を殺しています。私達は本当にそれで、安心できますか?尚且つ、彼達が殺された時の状況や、包丁に刻まれ、鍋に入れられ、煮られているときのいろいろな極めて悲惨な苦痛を考えてみたことがありますか?私たちは、自分を養うために、日常的にいろいろな豊富な珍味を食べています。しかし、食べ終わると、味がなくなります。なにもありません。それでしたら、野菜や豆などの菜食でも、十分お腹を満たるのに、なぜ、必ず、殺生の罪を犯して彼らの命を犠牲にしてまで、自分の福報を損なうことをするのでしょうか?
さらに、血がある命はみんな霊知(れいち、ここでは、知覚、知恵、仏性です)があります。霊知がある以上に、私達人間と同じく、一体です。私たちは自分自身の徳行(とっこう、徳の高い行い。道義にかなった行い)を修め高めて、彼達の尊敬を集め、親しまれることができていないのだけではなく、逆に、毎日彼達を殺して食べ、彼達に、未来に渡り、限りなく、深く憎まれ、長く恨まれ続けられることを何故平気ですることができるのでしょうか。そんなことを考えてみると、肉や魚などの命ある食べ物をみると、悲しくなり、とてもその肉が喉を通らなくなります。
そして、もし、私達は以前、「よく怒る」という過ちがあるならば、その時に、まず、考えるべきことは、人間誰にも至らない点があります。それをある程度理解してあげ、大目に見て、不憫に思い、許してあげるべきです。そして、仮にそれは、誰かが、理不尽にわざと我々を困らせるようなことをしているのであっても、それは、彼が道理をわきまえていないことだけで、彼の過失なので、我々に何ら関係ありません。怒る必要もさらにありませんと考えるべきです。
そして、もっと考えるべきことは、本当の天下の豪傑には、誰ひとり、傲慢で独りよがりな人がいないはずということです。そして、聖賢の学問も、決して、人に貪欲、傲慢、瞋恚、怨恨の気持ちを引き起こし、他人に害を及ぼすようなことを教えている学問ではありません。ですから、他人からなんらかの不適切な扱いをされたときに、我々は自分自身を省みます。すべては、我々自分が道徳学問をよく修めていない、またその修めがまだ足らなくて、我々の誠意と真心も足りなかったから、それで、その相手に感動を与えられなかった、感化することができなかったからのだと思うべきです。
そのように、すべて自分自身を点検して反省するのです。そうすれば、例え他人から誹謗中傷をされても、「玉琢かざれば器を成さず(たまみがかざればうつわをなさず、《「礼記」学記から》生まれつきすぐれた才能を有していても、学問や修養を積まなければ立派な人間になることはできない)」のように、それらの出来事は、すべて、この私の道徳と学問を高めるため、私を鍛え、磨くためのものであるのだと悟ります。私はまったく怨恨の気持ちを持たずに、喜んで、すんなり承ります。どこにも怒る必要がありません。そのようにして、誹謗中傷するような言葉を聞いても、なにもないようにまったく怒らないでいると、例えその讒言の炎は天にも昇るほどの勢いであっても、誰かが火のついたたいまつを持って虚空を燃やすようなことで、いつか、その火が自ずと燃え尽き、消えていくように、その誹謗中傷も結局自然に消えていきます。
もしその誹謗中傷を聞いて、すぐ怒り出してしまい、いろいろな理由を挙げて極力自己弁明しても、結局蚕が糸を吐きだし、繭を作り自分をくるむように、自縄自縛(じじょうじばく、自分の心がけ・言葉・行為のために、自由な動きがとれず苦しい立場になること)すると同じで、自ら厄介事に頭を突っ込み、悩む道を選ぶようなことになります。だから、怒ることは無益であるというだけではなく、さらに、実に有害であります。
同じように、殺生や怒ることの他にもいろいろな過ちがある場合も、すべて、今のように、道理上から改め、つまり道理をわきまえてよく考えることです。その道理が分かれば、自然にその過ちを改めることができます。
そして、その「心の念から改める」とはなんでしょうか。過ちは沢山ありますが、すべて我々のその心が作り出したものです。我々の心さえ不動でいれば、過ちはどこからも出てきません。本当に聖賢に学びたい、仏法を修行したい人は、例え色欲、名誉欲や物欲が深く、怒りっぽいなど、諸々の過ちがあっても、逐一探し出して、一つ一つ直していくのではなく、ただ、一心になって善を為していればよいのです。常に正念を保てていれば、自然に邪念に汚染されることがなくなります。太陽が空高く輝き、明るく照らせば、自然にもろもろの魑魅魍魎(ちみもうりょう、暗い所に隠れるのが好きな、木や石、川などの様々な化け物)、妖怪変化(ようかいへんげ、妖怪、怨霊、お化け、魔物など)が消えていくように、常に正法、正念があると、自然に邪法、邪念の居場所がなくなります。これは古来、聖賢の教えの神髄、極意です。
過ちは心より作り出されたもので、もちろん、根本的な所から、つまり心より改めなければなりません。例え毒樹を切るときも、枝を一つ一つ切ったり、葉を一枚一枚取ったりするより、直接その根を抜き取って、根こそぎにする方がよいみたいなことで、根本からの解決策を講じなければなりません。ですから、大抵の最上級の修行技量は、心念(しんねん、心の考えや思い、心に念じること)から退治することです。その効果も抜群で、すぐさま心が清浄になれます。心が動くと、すぐそれに察して、すぐさまその念を消し、無くします。もしまだそのようにして心から改めることができなければ、二の次の策として、「道理上から改心すること」で悪念、邪念などの過ちを除去します。それもできなければ、三番目の、つまり、「事柄上から、逐一に改め、対処する」しかありません。
そして、最上級の改過する方法の「心念から改める」ことができる上根(じょうこん、修行の機根(きこん、能力、素質)が優れている方)の人は、必ず同時に、下の三番目の「事柄上から改心する」の基礎も疎かにしません。つまり、心念上、道理上、事柄上から同時に修めるのはよい方法です。しかし、もし、事柄のみ直して、その道理が全く分からず、心念も依然として変わらないでいると、それは、やはり少し不器用な改過する方法となります。
しかし、改過することに発願すると、明らかに分かるところでは、常に善友からの勧誡(かんかい、善に向かうようにすすめ、悪に陥らないよういましめること)が必要です。そして、目が見えないところでは、つまり冥々中では、鬼神達の護持や感応も必要です。
昼も夜も、一心に懺悔し改過して止まないと、七日間、十四日間、一か月、二か月、三か月間になると、必ず霊験あらたかになれます。その感応としては、例えば、以前なんとなく憂鬱に感じていたに対して、改過した今は、心が広くなって、安らかで、愉悦に浸ります。または、以前よく間違った判断をするに対して、今は物事に対処するときに、智慧が湧くように、相応しい判断ができるようになります。または、以前はいつも忙しくて、よく疲れを感じ、いろいろな障礙に出遭い、なかなかうまくいかなかったのですが、今は以前と違って、すべて、順調に運べるようになって、厄介な問題や忙しい事もなんとなく、順序よくこなしていて、疲労感もありません。あるいは、以前に苦手な人や嫌いな人を見ると、何となく、苦手意識や嫌な思いをしてしまいましたが、今は、そういう人を見ても、嫌ったり、恨んだりしないだけではなく、さらに、その人達に対しても、心から善意な気持ちを持って、礼儀正しく接することができるようになります。さらに、夢の中にも、不思議な境地を見られます。例えば、夢の中で、黒いまたは汚いものを吐き出したり、仏菩薩などの聖賢にお会いできたり、その方達の説法や教誨を聞いたり、助けも頂いたりします。または、夢の中で空に飛んだりして、あるいは、夢で、天の宮殿、極楽浄土などの仏の国土を見たりして、そのようないろいろな殊勝な瑞夢(ずいむ、縁起のよい夢、吉夢(きちむ))を見ると、それらは、すべて、罪が取り除かれた吉祥な兆候(ちょうこう、きざし、しるし)です。しかし、そのような効験があっても、それで満足してしまい、その夢の境地に執着して傲慢な気持ちを起こすと、その吉兆(きっちょう)の瑞相は逆に、改過する修行のさらなる進歩の妨げになります。
昔に、蘧伯玉(きょはくぎょく、春秋時代の衛の大夫(たいふ、官職名))は、彼が二十歳の時に、既に、毎日改過自新し、断悪修善することの重要性を知ったので、とても真面目で努力して改過していました。彼は、毎日とても努力して改過して、一年が経って、二十一歳になったときに、やはりまだすべての過ちを改めることができていないと思いました。さらに、そのまま改過しつつ、二十二歳になって、二十一歳の時の事を振り返ってみると、やはりまた夢の中のようで、まだ過ちがあります。そのまま、年を追うごとに、彼が改過し続けて、五十歳になったときに、振り返って見てみると、やはり、過去の四十九年間の中にまだ何らかの過ちがありました。古人でさえそのような工夫をして絶えずに改過していました。
それに比べて、我々は唯の凡夫であって、我々の過ちや悪業は本当にハリネズミの針のように、実に数がとても多いです。過去を振り返ってみても、自分たちの過ちはどこのあるかさえ分からないことが多いです。それで、十分、我々の心は雑であって、つい、うっかりして、自分たちの過ちさえ見落としてしまうことがよく分かります。しかし、もし、過ちを改めないと、その過ちはますますひどくなるだけです。そして、罪が深く業障が重い人にも、いくつかの兆候が表れてきます。例えば、記憶力が悪くなり、頭の動きも悪くなって、愚かでよく間違ったことをして、忘れっぽくて、彼に何かを言っても、すぐ忘れられてしまう様子とか;他にも、何もないのに、まるで自分で悩み事を探しにいくような感じで、よく、くよくよしたり、イライラしたり、悩んだりする様子とか;または、公平無私で徳行が高い人を見ると、機嫌が悪くなり、または恥ずかしくて気分が悪い様子を見せているとか;あるいは、正論(せいろん、道理にかなった正しい意見や議論)や聖賢の教誨を聴くと、不愉快になる様子とか、さらに誹謗することもある様子とか;または、人に恩恵や物などを施しているのに、逆にその相手から恨まれ、感謝されない状況にあうとか;または夜によく悪夢をみるとか;精神的に元気でないとか;ひどい状況だと、精神的おかしくなり、または認知症にかかったりして、意識が混乱したり、妄言したりする様子とかです。これらの様子はすべて、悪業が多すぎ故に、現れた兆候です。ですから、我々にそのような現象が少しでも起きると、すぐに自分には過ちや悪業がかなり重くなっていたことに気付き、警戒して、すぐさまに奮発して、改過自新しなければなりません。さもないと、事態を更に悪化させ、自ら自分の将来を誤ることになります。
念仏人様のご翻訳された『了凡四訓』(『陰隲録(いんしつろく)』)の一部を整理して掲載させていただきました。
ご覧いただき、ありがとうございました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます