仏教における縁起(えんぎ、サンスクリット:pratiitya-samutpaada、パーリ語:paTicca-samuppaada)
は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちで
それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は「因縁生起」
(いんねんしょうき)の略で、「因」は原因、「縁」は条件のことである。
経典によれば、釈迦は縁起について、
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
– 『南伝大蔵経』12巻、234頁
と述べた。またこの縁起の法は、
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来の世に出ずるも出てざるも
法界常住なり。如来は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生
のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
– 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)
と説かれる。これは「彼」の存在が「此」によって規定されていることを示す。
縁起は、「此があれば彼があり、」「此がなければ彼がない。」という二つの定理によって
簡潔に述べられうる。このような有と無と二つの文句が並べられるのは、修辞学的な装飾や、
文学的な表現ではなく、この二つは論理的に結び付けられており、「此があれば彼がある」
ということの証明が、「此がなければ彼がない。」ということなのである。具体的な例と
しては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。
なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。このように
後者の「此がなければ彼がない。」は、前者の「此があれば彼がある」ことを証明し、
補完する、必要不可欠なものである。
は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちで
それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は「因縁生起」
(いんねんしょうき)の略で、「因」は原因、「縁」は条件のことである。
経典によれば、釈迦は縁起について、
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
– 『南伝大蔵経』12巻、234頁
と述べた。またこの縁起の法は、
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来の世に出ずるも出てざるも
法界常住なり。如来は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生
のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
– 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)
と説かれる。これは「彼」の存在が「此」によって規定されていることを示す。
縁起は、「此があれば彼があり、」「此がなければ彼がない。」という二つの定理によって
簡潔に述べられうる。このような有と無と二つの文句が並べられるのは、修辞学的な装飾や、
文学的な表現ではなく、この二つは論理的に結び付けられており、「此があれば彼がある」
ということの証明が、「此がなければ彼がない。」ということなのである。具体的な例と
しては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。
なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。このように
後者の「此がなければ彼がない。」は、前者の「此があれば彼がある」ことを証明し、
補完する、必要不可欠なものである。