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つれづれ婆は 今日も元気に!

好きなものを写していきます

薔薇

2024-05-21 07:16:05 | 
雨が凄く降った次の日、予定をキャンセルしてバラ公園に行ってみました。もっと早くに入りたかったのだけれど9時半にならないと門が開きません。
雨の雫を写してみたかったのですが、ダメ、失敗。知識と技術が無いです。

                               失敗作ですが 厚かましくアップしちゃいます
                    





                    





                    





                    





                    





                    





                    





                    
                                ボケボケじゃ~~ん
                                いつの日か 綺麗な水玉を写したい!
   



                                モデルになってくれたのは この白薔薇ちゃん
                    

                           重い内容が続いたので、薔薇の美しさに心が踊るようでした。
                           レンズの向こうは別世界
                           香りに包まれて、楽しくて楽しくて 同じような画像を量産
                           ちっとも上達しないのに
                           厚かましくアップする私
                           お付き合いくださって ありがとうございます
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小さな薔薇 と ひとりごと

2022-01-06 08:17:47 | 
                  
                      


                     


                       


雪の降る日に空へと昇った女の子のことが週刊文春に出ていました。最後の電話に残っていたといわれる会話が某所に上がっていました。
芸能界でなかったら女の子は別の人生で、別の悩みを抱えながらも生きていたかなぁと。改めて、ご冥福をお祈りします。
                        
                   


                  



今朝は一段と寒くて暗い朝になりました。お庭で採れた八朔をマーマレードに変身させるべく格闘中。沢山頂いたのです。無農薬なので安心して食べられます。
家から出たくないけれど、グラニュー糖もキビ糖も底をついたので買いに行かなくては。色々と値上がりです。来週は湯沸かし器の交換で出費もあるし、どんぶり勘定の私は気をつけなくてはと思っています。
湯沸かし器の交換で一悶着あったからか、ジーサンは費用については何も言わないので私が出します。パートでしたが働いていて良かったです、少しのへそくりは作っておくべきですね。離婚してもやっていける程ではないけど、時々のストレス発散には役立ってくれることも有り、お金は大事です(ど庶民の心の支え)


                  
                       続きのチャールストンにしようかと思ったけれど、名前の知らない小さな薔薇にしました。
                       
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2020年の自己満足

2021-09-01 07:10:56 | 
                     彼岸花 2020
              

引退なさる前の平成の天皇と皇后が、高麗神社に行かれたことがありました。引退が決まってからのお出かけでした(参拝とは言いたくないので、お出かけと書かせてもらいます)
気になっておりましたが、次第に記憶の底に沈んでいたのでした。が、数日前、偶然見つけたサイト様に、坂口安吾の書いたものが載っていて、とても興味が湧きましたので、初めの部分を転載させて頂きます。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45910_37866.html
安吾の新日本地理
高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻――
坂口安吾


今日では埼玉県入間郡高麗コマ村ですが、昔は武蔵の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能ハンノウ行きで終点まで行き、吾野アガノ行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から二ツ目の駅が高麗コマです。高麗村の北側背面は正丸峠を越えて秩父に通じ、東南は高麗峠を越えて飯能に、また高麗川を下れば川越市へでて入間川から荒川となり(つまり高麗川が入間川に注ぎ、入間川が荒川にそそいで)昔の隅田川で申しますと浅草で海にそそいでおった。その海にそそぐところが今の浅草観音様のところ、そこが当時の海岸で海はそこから上野不忍池しのばずのいけまで入海になっていたものの由です。もっともそれは江戸開府ごろの話ではなくて、浅草の観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘や芝山内がまだ海岸だった頃のことだ。
 続日本紀、元正天皇霊亀二年五月の条に、「駿河、甲斐、相模、上総かずさ、下総、常陸ひたち、下野しもつけの七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置く」とある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官撰国史の記事なのである。
 この高麗コマは新羅シラギ滅亡後朝鮮の主権を握った高麗コウライではなくて、高句麗コクリをさすものである。
 高句麗は扶余フヨ族という。松花江上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済クダラと新羅シラギがあった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。日本の仏教は欽明天皇の時、今から千四百年ほど前に百済の聖明王から伝えられたと云われているのである。
 ともかく扶余族の発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族であることは確かなようです。
 この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、日本の諸方に住みついていたと考えられます。高句麗は天智天皇の時代に新羅シラギに亡ぼされたが、そのはるか以前からの当時の大陸文化をたずさえて日本に移住していることは史書には散見しているところで、これらの史書に見ゆるものは公式の招請に応じたものか、または日本のミヤコや朝廷をめざして移住してきたものに限られているのであろう。
 自分の一族だけで自分勝手に海をわたり、どこかの浜や川の中流、上流などで舟をすて、自分の気に入った地形のところへ居を定めた。というテンデンバラバラの家族的な移動は、日本の諸地に無数にあったものと想像しうるのである。
 もとより、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千数百年前に於ても易々たるものであったことは想像に難くない。いかなる猛獣や毒虫が住むかも知れぬ原始の山野を歩くのに比べれば、南鮮と北日本を結ぶ航海の方ははるかに易々たるものであったに相違ない。
 戦後の今日、朝鮮からの密輸や密入国は発動機船を用いているらしいが、それは監視船の目をくぐるに必要な速力がいるための話で、まだ沿岸に監視の乏しかった終戦直後には大昔と変りのないアマの小舟でさかんに密輸や密入国が行われ、それで間に合ったのだ。別に監視のあるわけでもない大昔には、アマの小舟で易々と、また無限に入国して、諸方に定住し得たのは自然であろう。
 遠く北鮮の高句麗には、南鮮と北九州北中国を結ぶような便利はないが、今日、密輸入密入国の一基地はウラジオストックに近い北鮮の羅津あたりにもあって、小舟によって潮流を利用したり、または潮流を利用して荷物を流す方法もあるという話であるが、荷物を流すのはとにかくとして、潮流を利用するというカンタンな航海法、もしくは出航後自然に潮流に乗ってしまったという航海の可能性は十二分に考えられるのである。
 
                   略

 日本の原住民はアイヌ人だのコロポックル人だのといろいろに云われておるが、貝塚時代の住民はとにかくとして、扶余族が北鮮まで南下して以来、つまり千六七百年ぐらい前から、朝鮮からの自発的な、または族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を持っておったし、数的にも忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。先住民が主として海沿いの高台に居を占めて原始生活をしていたのに比べて、彼らは習性的に(または当時の彼らの科学的考察の結果として)山間の高燥地帯に居を占め、低地の原野を避けるような生活様式を所有しておった。大昔の低地は原始林でもあるし洪水の起り易い沼沢地帯でもあって毒虫猛獣の害も多く、それに比して山岳地帯の盆地の方が居住地としての安全率が高かったのであろう。そこには先住民たる貝塚人種の居住もなく、全てに於て山間に居住地を定める方が他とのマサツや獣虫天災の被害が少なかったのであろう。またコマ、クダラが亡びて後は特に密入国的な隠遁移住が多かったであろう。
 つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。
 つまり今日に於てもウラジオストックからの漂流機雷が津軽海峡のレンラク船をおびやかす如くに、当時に於ても遠く北鮮からの小舟すらも少からぬ高句麗の人々をのせて越や出羽の北辺にまで彼らを運び随所に安住のを営ませていたであろうということを念頭にとどめておくべきであろう。
 むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく場合が少くなかったと思われる。
 霊亀二年五月に今の高麗コマ村(以下コマ村と書く)がひらかれたという続日本紀の記事に於ても、決してその年に渡来したコマ人をそこに住ませたのではなく、
「駿河と甲斐と相模と上総と下総と常陸と下野の七ヶ国のコマ人一千七百九十九人を武蔵の国にうつしてコマ郡をおいた」
 とある通り、すでに各地に土着しておったコマ人を一ヶ所にまとめたにすぎない。
 これがコマ人の総数でなかったことは確かであろう。恐らくそれ以前に日本各地に土着したコマ人たちは、単に民として中央政府の支配下に合流して自らをコマ人、クダラ人、シラギ人などと云うことなく新天地の統治者に服従して事もなく生活していたに相違なく、これに反して、すでに日本の諸地に土着しつつも敢てコマ人と称して異を立てておった七ヶ国のコマ人一千七百九十九人の方が珍しい存在と云うべきであろう。彼らが土地を移して一ヶ所にまとめられた意味はそういうところにあるのかも知れない。
 この移住は高句麗が新羅に亡ぼされてのち約五十年後に起った。そしてその後、
「天平宝字二年八月に帰化の新羅僧三十二人と尼二名と男十九人女二十一人を武蔵国に移して新羅郡をおいた」
 という記事もある。
「天平宝字五年春正月、美濃と武蔵二ヶ国の少年二十人ずつに新羅語を習わせた」
 という記事もある。武蔵の国の新羅郡というのは明治二十九年に北足立郡に編入された新座郡のことだそうだ。
 高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ系、クダラ系、シラギ系その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる。
 時の政府によって特に朝鮮の一国と親しんだものや、朝鮮の戦争に日本から援軍を送った政府もあり、そこに民族的なツナガリがあったのかも知れない。
 コマ(コクリをさす。以下も同じ)の文物を最も多くとりいれたのは聖徳太子のころであるが、太子はさらに支那の文化を直接とりいれることに志をおいた。日本統一の機運とは、まさにこれであったと私は思う。
 何系何系の国内的の政争が各自の祖族やその文化にたよる限り国内の統一はのぞめない。これを統一する最短距離は、そのいずれの系統の氏族に対しても文化的に母胎をなす最大強国の大文化にたよるにまさるものはない。太子の系統はコマの滅亡と共にあるいは亡びたかも知れないが、ともかく日本統一の機運を生みだした日本最初のまた最大の大政治家は聖徳太子であったと云えよう。支那の文物を直接とりいれる機運のたかまると共に日本の中央政府は次第に本格的に確立して、奈良平安朝のころに雑多の系統の民族を日本人として統一するに至った。こうして民族的な雑多な系統は消滅したが、それは別の形で残ったものもある。それが何々ミコトや何々天皇、何々親王の子孫という系譜である。源氏や平家の系譜の背景にも相当の古代にさかのぼっての日本史の謎があるように思われる。桓武、清和、宇多というような平安朝の天子を祖とすることまではハッキリしているが、その平安朝の天子に至るまでの大昔が問題であり謎である。甚しい謎だ。
 桓武天皇はどうして遷都しなければならなかったのだろう? なぜ長岡の工を中止したのだろう? それから数代、必ず前天皇の子を皇太子に立てる風習はなぜだろう。
 後年南北朝の休戦条約に交替に皇位継承というのがあるが、それは当時の新工夫ではなく、非常に古い源流があったのではないかと思われる節々もあるのです。
 藤原京を経て奈良京に都したとき、日本の中央政府はどうやら確立の礎が定まったと見ることができる。
 武蔵の国に七ヶ国のコマ人をあつめてコマ郡をおいたのはその時のことだ。全国各地に土着した多くのコマ人は決して自らコマ人などとは称せず、中央政府のもとに日本人になりきってしまった時だ。七ヶ国の一千七百九十九名だけが、なぜコマ人と称して異を立てる理由があったのだろう?
 コマの祖国はその約五十年ほど前にシラギに亡ぼされているのだが、そのときコマの王様王族が日本へ亡命したというような記事は歴史に現れていない。
 むしろシラギがコマを亡した直後に続々来朝移住したのはシラギ人だが、勝った方が堂々と来朝移住し、負けた方がコソコソ遁入して隠遁定着するのも自然の数で、正史が亡命者の方を大ッピラに記載できないような意味もあったろう。そして関東一円にもシラギの移住は甚しく多かった。一まとめに何千人というのはないが少数ずつ次々とあって、コマの移住者の比ではないようだ。
 ただ大宝三年四月の条に、
「従五位下高麗若光に王コキシ姓を与えた」
 とあって、大宝三年というとコマ亡びて三十五年後だが、シラギ人の賑やかな来朝移住時代にコマ人が王姓をもらい、これがコマ家の祖先と云われている。コマ村のコマ神社の宮司コマ家に伝わる系図によると、武蔵の国現入間郡コマ村のコマ人はここに移り集って若光に統率されていたもので、その子孫がコマ神社宮司家であることになっているのだ。
 この系図は中世にいったん焼け、そこで一族全員の記録を集めて新しく造ったものであるが、その書き出しは虫がくってチョン切れておって、
「これによってつき従ってきた貴賤相集り、屍体を城外にうめ、また神国の例によって、御殿の後山に霊廟をたて、コマ明神とあがめ、郡中に凶事があるとこれに祈った。長子家重が家をついだ。天平勝宝三年に僧勝楽が死んだ。弘仁と其の弟子の聖雲とが遺骨を納めて勝楽寺をたてた。聖雲は若光の三番目の子である」
 という意味の前書きがあって、そこから系図になっている。その系図は
 家重。弘仁。清仁。(以下略)
 とあって、家重は死んだ人の長子であり、弘仁は家重の弟らしく、又その弟に当る三男が聖雲らしく、清仁は弘仁の子である。
 この前書の前の方がチョン切れているから死んだ人の名は現れないが、恐らく若光をさすのであろう。
 虫が食ったと云われているが、実際はそうではない。中世に焼けた後に、一族参集して一度は再び完成した系図があったのである。ところが、それを更に後世の誰かが「これによって」の前の方を引き裂いて捨てたのである。虫がくったのではなく引き裂いた跡はハッキリしており、さき残った字の一部分がついているが、偏の一部程度だから読むことはできない。
 後世の子孫が引き裂かねばならぬ理由があったのだろう。たぶん国撰の史書と異る記載があるために、後世の子孫にとって当時の事情として都合がわるい記事があった為だろうと察せられる。なおこの系図はその後一時人手に渡ったこともあり、また明治十八年には内閣修史局のモトメに応じて差しだし、内閣修史局で模写をつくり原本を本主に返したともあるから、それらを機縁に一部を破却する必要があったのかも知れぬ。
        ・・・ここまでお借りしました。ありがとうございました・・・以下は略しますので、ご興味のある方はサイト様でお読みになってね。


最後の方に以下の文章がありました。・・・以下転載・・・
社務所の一室で、私たちは持参のお弁当をひらいた。参拝の人々の記名帳をひらくと、阿佐ヶ谷文士一行が来ておって太宰治の署名もあったが、呆れたことには、参拝者の大部分が政治家で、特に総理大臣級が甚だ多く参拝している。私は妙な気持になって、
「どういうわけで、こう政治家がたくさん来るんだろう?」
 と呟くと、宮司は笑って、
「当社のオ守りは総理大臣になるオ守りだそうで、いつから誰が言いだしたのか知りませんが、たまたま当社に参拝された方々から都合よく二三の総理大臣が現れて、政界に信心が起ったのかも知れませんな。この春は当時大臣の黒川さんと泉山三六さんが見えましたよ」
                                       ・・・ここまで・・・

政治家、特に総理大臣も高麗神社を訪れるそうです。出世を願っての参拝だったのでしょうか。私にはそうは思えません。ご先祖様に報告か誓いの参拝だったのではないでしょうか。私の想像に過ぎませんが、最近知った出来事と符合します。明治維新は何故起きたのか。このとき日本は負けたと言われるのは何故か。
引退前の天皇と皇后が、訪れたのはなぜなのか。

ご興味のある方は、サイト様を訪問なさってね。


              


上記サイト様の最後に・・・
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第一六号」
   1951(昭和26)年12月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第一六号」
   1951(昭和26)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

とありました。そのことも転載させて頂きますね。

追記
今朝のYahoo!ニュース、皆さまご覧になりましたよね。
眞子さまが単独で(ご家族とは別で)ワクチンを接種なさった。2度目もお済ませになった。このニュースを見て、恐らく渡米するのではないかと思っていました。
納采の儀や結婚式などの関連の儀式を行わないのは、アチラにとっては好都合でしょう。しかもコロナのせいにできる。
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騙されないために

2021-08-31 07:48:50 | 
                            振り返りシリーズ

                          2019年 10月 彼岸花
                    
                          自己満足の世界です



高橋洋一チャンネルから https://www.youtube.com/watch?v=14wAhS6u-A0
第247回 五輪赤字は将来世代が負担?の嘘を暴く

「東京五輪の赤字を将来若者が負担するって本当ですか」と言う質問に対して、高橋氏が答えています。
○○が赤字だから、将来若者が負担する…このフレーズはよく聞かされます。本当でしょうか? 気になったので視聴してみました。

では、聞き書きです。

オリンピックが、先ずどういう主体がやっているか?という所から、話を解きほぐしたほうが良い。
オリンピックの主催者が、赤字を負う。
主催者はIOCだが、運営主が居て、契約が結ばれていて、基本的には東京都。
だから、もし赤字が出たら基本的には、東京都が赤字を被る。

今まで3兆円の赤字と言うか、経費が出ているのだが、今まで1兆円国が負担して、2兆円が東京都ということで、既に経費は負担してしまっているから
それで赤字がどうのこうのという人は、多分、企業の赤字と勘違いしているのだけど
政府とか東京都の経費と言うのは、それ自体が赤字とは違う概念。
ハッキリ言えば公共事業に似ている。

これから更に膨らむ経費は、東京都が負担する。
これまでの経費が全部赤字かと言われると、公共事業のようなものだから赤字ではない。政府の方は既に1兆円出しているが、これは前年度予算でやっているから
将来、経費が負担になるということはない。
東京都は2兆円で今回観客を入れなかったので、もう少し膨らむと思う。
これが将来の負担になるか、ならないかと言う議論だが、敢えて言うと東京都と言うのは、もの凄く裕福だ。
裕福と言うのは、実はバランスシートを見ないと判らない。
東京都はざっくり言うと35兆円くらいの資産があって、負債は6兆円くらい。
30兆弱の純資産がある。

資産が沢山あるのは、企業が沢山あって法人税を沢山取りまくっていた結果。
東京オリンピックの赤字をだれが負担するかと言ったら、今までの上がりで負担するから、既に負担は終わっている。
そういう意味では、これからの若者が将来負担することは、有り得ない。

将来の若者が負担するのではなくて、今まで東京に住んでいた都民と、東京に本社がある企業の払った税金で、既に払っていますということ。
当てにしていたチケット収入1000億位は、当初の予算に組み込まれてないので補正予算でやるだろう。

これまで取り上げていて使ってないから、貯まっている。こんな地方自治体はザラに無い。が、このことは言わないことになっている。
五輪の赤字も本当は東京が全部持つんだけど、国と交渉しますと言って、緑の人は上手。
30兆資産があることは、国も知っているから、協議はしない。
東京都は、その資産で土地を買ったりしている(たっぷりある)

この手の話しは情報公開しているのに、知らないで喋る人が多い。
東京都の財務諸表を見て喋っている人は居ないのじゃないか。
財務諸表は、公開している。
都や国はバランスシート(財務諸表)を作っていて公表しているから、それを見ればわかる。

収入が入らないから、今までの資産を温存しつつ増税するという手もある。論理的には。でも、資産を取り崩せばすぐ終わるじゃないかと、私(高橋氏)なら言う。
政府(財務省)は、資産を温存させながら増税というパターンは多い。
皆、財務諸表を見てると思ってない。
ちゃんと見ないと駄目。皆が見れば「この資産を売ればなんとかなるだろう」と言える。

各都道府県も殆ど資産超過(財務諸表が出ている)負債の方が大きい所は殆ど無い。
大阪は数兆円で、東京より小さい。
夕張市みたいになると大変だが、そういう所は少ない。
煽って「大変だ」と言うのは、バランスシートをみればバレちゃう。
京都市もキチンとみると、そんなに酷くない。

                   ・・・ここまで・・・

京都市は大変みたいですけど(よう知らんけどね)
高橋氏のお話しも、全部信じて良いのかどうかは判りませんが、私の知らない世界なので視聴してみました。税金を上げると言われると嫌だけど、納得してしまう国民です。
でも、資産を売るってことですが、CkokuやKkokuに売却されると困りますね。
これからコロナでお金を使ったことを強調しつつ、税金上げモードになるでしょうし、財政の健全化も目指してますから、増税には気を付けようと思って聞き書きしました。確かコロナ予算は余ってましたよね(記憶違いかな?)
これ以上、消費税とか上げると、本当にダメになってしまう。三流転落国家になってしまうそうで、それは嫌だと思っています。


                    


                   
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彼岸花 2019

2021-08-29 14:12:28 | 
                 
               



もうすぐ9月。悠仁親王のお誕生日も近いです。親王殿下のお誕生の数日後に父が亡くなったので、15歳にお成りだと、15年経ったんだわと思い出します。
今年もお墓参りは出来そうにありません。こっそり帰省するには、ちょっと遠いかな。

紀子妃の誕生日のお言葉も注目されます。私は、紀子妃がお気の毒でなりません。頑張ってこられたけれど、眞子さまがねぇ。週刊誌に書いてあるように、
家庭内では会話もしにくい状態なんですかね。
無私の心と、紀子妃は仰って入内なさったけど、昭和の時代で「無私の心」は終わっていたと思います。美智子さまは頂点にいらして、ご自身の思いを貫かれているし、
雅子さまもそうですよね。私には、そう見えるんです。
オリ・パラの開会式を欠席なさって、それを押し通せるというところが、無私の心とは程遠いところに居るという証拠です。無私は無視になっているかも。

そういう皇室ですから、眞子さまに強く言える人が居ないんでしょう。皇族らしくあれと求めても、難しい皇室になってしまったようです。殿下が、どうなさるか…。
週刊誌に書かれている様に、ニューヨークに行くことになるのでしょうか。追放といえば、それらしく聞こえますが、追放なんかできるわけないです。陰で援助のパターンになることは明白。難しいです。私は、美智子さまがどうあれ、雅子さまがああでも、皇統は男系男子で続いていけば良いだろうと思っています。
人格とか頭脳優秀とか関係なく、皇統が繋がれば良しとするのです。皇統を繋げて欲しいのです。我が国にはそれしか残ってないので。危うい日本になりましたね。

                            ***

気になるのは、日本が草刈り場にされるという、このことだけ。コロナの対応も、どこか間違っているのではと思うのですが、何かに引きずられてしまっていると感じています。どうにもならないのでしょうね。
渋谷の若者用のワクチン接種会場に長蛇の列が出来てましたが、あれは仕込み?じゃないかとネットには上がってますね。金属片が発見されましたし、若者が平気かなと思うので、私も半信半疑でテレビニュースを見ています。金属片入りの枠チンを接種後、お亡くなりになってしまった方もいらっしゃるし、ワクチンによる金属アレルギーを起こした体験談も出ていました。長蛇の列は、怪しい???


                      
                        2019年 10月  儚いです


昨夜、暑くてエアコンを点けました。タイマーをセットすると調子が悪くなるので、就寝前には消していたのです。暑くて目が覚めて、お水を飲んでエアコン再点火(笑)
在庫探しも悲しくなってきました。カメラを持ってお散歩ルンルンしたいです。後暫く、暫くの辛抱。何歳からでも、リハビリで体力を取り戻すべし!
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