後半部分の聞き書きです。
https://www.youtube.com/watch?v=L8f8Tz-XG4A
【伊藤貫の真剣な雑談】第14回「アメリカ民主政治の堕落と混乱を予告したトクヴィル!!!-後編」[桜R5/5/27]
トクヴィル
自由・平等・民主をやっていくと国民は逆に自由を失っていくことになると彼は次の5つの点で説明している。
1 多数派至上主義による専制主義。
2 世論崇拝現象から生じる知的な画一主義。
3 民主主義社会の平等主義から発生する嫉妬による抑圧現象、もしくは嫉妬による抑圧主義。
4 ヨーロッパの革命前の世界と革命後の世界、それからヨーロッパとアメリカを比べた場合に、トクヴィルは中間的な支配者層というのがアメリカには
存在していないし、革命後のフランスにも存在していない。
トクヴィルはこの中間的な支配者層を非常に重視している。中間的な支配者層というのは「国王」が居て「国民」が居て、
その真ん中に「中間的支配者層」が、革命前のフランスや19世紀のイギリスには居た。
トクヴィルの分析によれば国家の自由と国家の寛容を本当に維持していたのは、国王でも一般国民でもなくて中間的な支配者層であったと。
5 中央政府による保護者的な統制的な「新しい奴隷制度」(トクヴィルの言葉による)
トクヴィルによると民主主義・自由主義・平等主義をやっていると、そのうち政府の力が強くなって、政府は国民を保護してやるというポーズを
とりながら、新しい奴隷制度を作ることになるだろう。
トクヴィルはフランスでは民主主義を支持していたが、多数派が全てを決めてしまう社会というのは長期的にはマズイことになると考えていた。
彼の文章を引用
先ず1について
民主主義のエッセンスは民主派が多数を行使することである。議会は多数派の意思を立法化する。社会は多数派の政治的な優越性を認めるだけでなく、
多数派に道徳的な優越性まで認めてしまう。
民主主義では一人ひとりの議員の資質よりも議員の数が問題になる。多く議員を当選させた人が勝ち。これは人間の知性の分野まで平等主義の原則を
適応することであり、数が多ければそれで良いのだと。数が多い人間が政治的にも道徳的にも勝ちだと。
私(トクヴィル)は個人的には多数派は何をやっても良いという考え方に、不潔で卑しいものを感じる。アメリカでは多数派が少数派を沈黙させることができる。ヨーロッパでは最も専制的な国王でさえ少数派の言論を止めることは出来ない。アメリカでは多数派が物理的な権力だけでなく道徳な権限まで行使している。
トクヴィルは言う「ティラニー ドゥ ラ マジョリテ」(専制による圧政)「世界諸国の中で、(1830年代のアメリカのこと)アメリカくらい思考の
独立と議論の自由が欠けている国は無い!」 アメリカは少数派の意見を唱える人を露骨に迫害して、村八分にして社会から抹殺してしまう。
アメリカの言論迫害はスペインの異端新聞より酷いものであると彼は言う。
アメリカ人はいつも多数派の意見に迎合しようとする、そのような計算高い国民となっている。その為アメリカでは偉大な人格者というものが出てこないと。
フランス革命にしろアメリカの独立革命にしても、自由主義・民主主義を実践したということになっているけれども、トクヴィルの目から見て、
これは「ティラニー ドゥ ラ マジョリテ」専制政治を引いているように見えると。
次の2について
平等主義・民主主義の時代になって人々は一般の世論に心理の根拠を求めるようになった。革命以前の階級社会においては、それぞれ違う階級に
所属する人たちは、全く異なった見解を抱くことを不思議に思わなかった。階級社会では深い学識と教養を持つ少数の力強い人たちと多くの無知な大衆が
共存していた。そのような時代の人たちは少数の卓越した知性を持つ賢人の意見に耳を傾け、彼らの意見をガイダンスとして自分の意見を形成していった。
当時の人々は大衆の世論は真理だなどと思っていなかった。
しかし平等主義・民主主義の時代になると一般の世論が非常に強い影響力を持つようになった。人々は世論の推移に従うようになり、世論の判断を信奉するようになった。最多数となった意見が時代の真理とみなされるようになって、人々にとって自分自身で考えてみるという行為は不要となった。
多数派による世論が一種の宗教となったのである。この世論に従うという人々のパターンは人間の思考力を狭い範囲に閉じ込めてしまった。
平等主義を実践する民主主義社会は。逆に知的精神的な自由を拘束している。
階級社会の漆黒から開放されたはずの人間の知性は多数派世論による拘束という新しい別の牢屋に閉じ込められるようになった。新しい形の奴隷制の時代を作ったと彼は言う。
次に3について
平等を望む人間の心理は屡々、社会の強者や優越者に対する嫉妬や怨恨となり、人々は自由な状態における不平等よりも隷属状態における平等を望むようになる。人間の欲求の中で最も強いのは自由に対する欲求ではない。平等こそが最も強い人間の欲求である。従って民主主義社会では優越した人、
もしくは自分と違った人に対する嫉妬や不快感が、政府の権力を使って人間社会に画一化を求める。人間の格差や差異を消滅したいという衝動になる。
従って人々は社会環境に均一化と人間の同一化を求めるようになる。これによって政府は国民からの平等化・均一化を受け入れて政府の規制権と介入権を
拡大していく。
これに関して伊藤氏が感じるのは、今のアメリカは「差別反対・偏見反対」とマスコミと民主党は、それ一色である。そして「お前は差別している、偏見を持っている」と連日、相手を攻撃することが起きている。ポリコレとかウオーク(意識が冷めているとか高いとか)
今のアメリカではマスコミにおいても教育機関においても政治活動においても行政機関においても言論の自由と表現の自由が非常に厳しく規制されている。
大学に入ると教授が生徒に「私はアナタをHeとかHimとか呼んで良いか? それともアナタはSheと呼ばれたいかHerと呼ばれたいか?
それともTHeyとかThemと呼ばれたいか?」と聞く。
外見は男の子でも自分は女の子と思っているかもしれないのにHeと言うと、彼のアイデンティティを傷つけることになる。だから教授は男の子をみると
「君をHeと言って良いか」と、女の子に対しても「アナタをSheと呼んで良いですか?」と。
ひどい場合は、小学校1年の先生が1年生の生徒に、聞くのだ。「彼と呼んで欲しいか、彼女と呼んで欲しいか」と。
小学校の先生が「ハーイ ボーイズ & ガールズ」と言うのもダメなのだ。自分のことをボーイとかガールと思いたくない子供も居るから。ジェンダーフリーとかジェンダーはその日によって変わるとか…そういう人の前で「ボーイ」「ガール」と言ったら差別表現になると。
ポリコレやウオークネスからくる極端な言論の抑圧なのだ。言論の制限が実際に起きていて、嫉妬による差別感情というのは笑い事ではない。単数形でなく複数形で呼んでほしいという人も居て、英語の文法まで無茶苦茶になってきている。
平等主義から発生した抑圧主義は、アメリカでは言葉の基礎的なことまで制限されるような事態になっている。
次の4について
中間的支配者層が無くなると政府は例え自由主義・民主主義を守っているようなフリをする政府であっても、実際には全体主義的な行動が取れるということをトクヴィルは指摘している。
国王と庶民の間の権力保持者を伊藤氏は中間的支配者層と呼んでいる。トクヴィルは中間的支配者層の存在を非常に重視している。中間的支配者層があるからこそ、彼の考えによれば16世紀から18世紀までのヨーロッパ諸政府は政府による専制主義・画一主義・言論弾圧を阻止できたと。
トクヴィルより少し前のイギリスの思想家エドマンド・バークも同じことを言っている(伊藤氏)
トクヴィルによる中間的支配者層というのは、中小の領主、もしくは貴族階級・騎士階級(ナイト、シュバリエ)・紳士階級・聖職者階層(牧師、神父)。
彼らが国王と国民の間に居て、一種のクッションのようになっていた。この中間的支配者層こそ地域のコミュニティのリーダーシップを取っていた。
国王がいちいち地域のリーダーシップを取るわけ無いので、中間的支配者層が庶民のリーダーシップを取って庶民を指導していた。
トクヴィルによれば民主主義体制よりもこの中間的支配者層のあったアリストクラシィのほうが個人の独立を保障するのに向いていた。
アリストクラシィというのは日本語では貴族制度と翻訳されることが多い。伊藤氏は貴族と訳すのは違うと思うと。アリストというのはギリシャ語で「優れた」という意味、「卓越した」という意味。「貴族」=「特権的な贅沢している人たち」というのとは違う。
アリストクラシィにおいては国王は権力を独占することが出来ず、国家の統治権を分割せざるを得なかった。
国王が勝手なことをやろうとした場合、これらの有力者たちは結束して国王の専有な行動を阻止する能力を持っていた。中間的支配者層というのは国王に対する拒否権を持っていた。しかしトクヴィルによれば、フランス革命はこのような中間的支配者層を一掃してしまった。
中間的支配者層が無力化されたため民主主義社会では、政府の権力に対する抵抗できる個人が居なくなった。民主社会における個人は弱々しく孤立する存在であり中央政府に対抗できない。無力化された群衆は中央政府の組織化された権力に従うしか無い。従って民主主義は国民を中央政府によって均一化された矮小された市民の群れというふうに扱われるようになった。これは1840年のアメリカの民主主義の最終部に書かれていることで、
これを読んだ二十世紀後半の人々は皆、驚いた。
1840年の文章でトクヴィルは第二次大戦後の西ヨーロッパもしくは北欧の福祉社会を予言したいたのだ。百年後の社会をこうなるだろうと書いていた。
スウェーデンとかデンマークとかノルウェーみたいな福祉社会主義は、必ずしも人間の尊厳にとって望ましい生き方ではないと。トクヴィルは福祉主義も
あまり賛成ではなかった。何故かと言うと、福祉主義を進めるとトクヴィルは国民が政府に従属しすぎることを凄く嫌がっていた。
トクヴィルは皆が民主主義や自由主義をやっていると思っているときに、本当の自由や深い思慮は無いのではないかと疑問を抱いていしまうのだ。
トクヴィルはパスカルだ大好きだった。
二十世紀に人間が作った福祉社会を、彼は何と新しい専制主義とまで呼んでいる。彼に言わせると新しい専制主義において政府は均一的な大衆の矮小な
快楽に対することまで満足させてやろうと行動する。政府は親切で保護者的な、かつ几帳面な態度で人々の日常生活と欲望をコントロールしていこうとする。
新しい種類の専制主義の目的は国民を永遠的に向上的に幼児的な段階に留めて置くこと。国民が精神的に大人になれない状態に留めておくこと。
すべての国民にとって何が幸せなのかということを決定するのは政府である。政府のみが国民の幸せを定義する能力を持っている。政府は国民にとって
生き方や必要な関心事や娯楽まで予め決めてあげる。政府はまるで国民の一人ひとりが自分のことを自分で考える必要性まで除去してやろうとするようである。
その結果として国民は一人ひとり考えなくなり、人間の自由意志は非常に狭い範囲内でしか機能しなくなる。
国民が自立して自治する能力は衰退していく。自分のことは自分で考えて決めるというようなことが出来なくなった国民は自分のことを幸せな境遇に住んでいると
思うようになる。社会は細かい画一的な規則で縛られるようになり、この社会では独創的な思考の持ち主や強い精神力を備えた人は拘束的な環境から脱出できなく
なる。人間の意志力は抑制されて鈍化され枯渇化されていく。そして国民は単なる勤勉で臆病な家畜の集団となっていく(この言葉は非常に有名になった)
優しくて平和的な奴隷制の下の国民とトクヴィルは呼んでいる。
このようにコントロールされ拘束されている国民は、自分たちの監督者を選挙で選んでいるのは自分たちだと思って満足している。
人々は人間としての真の自由を失った状態の下で生きながら、自分は人間としての自由を維持していると思いこんでいる。
トクヴィルは1835年のアメリカの民主主義における選挙において、政治指導者の質は低下していくと。普通選挙を実行すると政治家の質が落ちて
いくと。1835年に書いている。その議論がもの凄く説得力がある。トクヴィルは彼自身がブルジョワ封建主義王朝の国会議員だった。彼は民主的な選挙というものを体験している。
彼は選挙で国会議員になったのに、彼の目から見ると、民主的な選挙をやると政治指導者の質は落ちていくというふうにトクヴィルは判断している。
僕は1835年のトクヴィルの分析というのは2023年の現在も正しいと思う。
トクヴィルが指摘した3つのポイントは現在でも正しいと思う。
民主主義政治の仮説もしくは前提は報道の自由・言論の自由を実践すれば、それによって啓蒙された国民たちは、質の良い政治指導者を選出するだろう。
これが民主主義の仮説、もしくは前提。しかしトクヴィル自身はこれを信じていなかった。
トクヴィルによれば報道の自由と言論の自由に関して言えば、アメリカのジャーナリズムは教育レベルが低くて彼らの言論は粗野であり攻撃的である。
彼らには本当の信念や節操というものは無く、他人の弱所や欠点を暴きたてることに熱中している。しかし、そのようなジャーナリストが群れをなして
同じ主張を繰り返すと、世論はその方向に引きずられていってしまう。
個々のマスコミ人は矮小な存在に過ぎない。それにも拘らずこれら矮小なマスコミ人が集団となると、彼らはアメリカで最大の社会的影響力を行使している。
伊藤氏:トクヴィルは言論の自由・報道の自由が実践すれば人々が啓蒙されるとは思ってなかった。
次にトクヴィルが言っているのは
全ての人に投票券を与えれば、優秀な人が選出されると民主主義は主張してきた。しかし私はアメリカで逆の事態が発生していることを発見した。
本当に優秀なアメリカ人は選挙に出たがらない。彼らは政治に関わることを避けて経済活動に専念している。選挙に出馬したがるアメリカ人は
凡庸な人たちばかりである。しかも一般の投票者たちが、選挙で優秀な人達に票を投じるということもない。
民主主義社会の投票者は自分の失望や嫉妬や怒りといった感情に基づいて票を投じているのであり、自分よりも優越した人を選挙で支持しようとしているわけではない。
従って優秀なアメリカ人にとって政治家というキャリアは魅力のあるものではない。
政治家になれば自分の独立を失うし、人前で品の無い振る舞いをしなければならないこともある。従って彼らは政治家としてのキャリアを避ける。
普通選挙を実施すれば、優れた政治指導者が出てくるという考え方は完全な妄想であるとトクヴィルは言っている。
しかも国民の知的レベルの向上には明らかに限界がある。
公の政策を理解するには政策を勉強する時間が必要である。しかし大部分の国民は自分の生活を支える労働をすることで精一杯である。
彼らには公共の政策を勉強してみる時間的な余裕と経済的余裕など無い。そのような余裕のある生活をしている人々はごく少数である。
そして、そのような人たちは一般の庶民ではない。従って大部分の国民は本当の政策理解力を持てないまま表面的な印象に左右されて投票している。
そして口の上手い詐欺師的な政治屋たちは、そのような国民を操るテクニックを身につけている。そのため質の低い人物が選挙で大量当選するのである。
トクヴィルは1835年にこれを書いたが、今でも正しい。どこの国でもそうだと思う。(伊藤氏)
最後になるが(5番目?)民主主義と平等主義はマテリアリズムを強化して学問と芸術まで低劣化させていくと。
民主主義体制下の人々は目先の利益に執着する。
彼らは自分の境遇に不満を抱いており、どうしたら私はもっと良い生活が出来るだろうかということばかり考えている。
富と快楽の増大が彼らにとって、この世で最も素晴らしいことのように思える。
自由主義と民主主義は多数の自己利益の増大主義者を生み出す。
知的精神的に高尚な価値判断を保つことを説く者たちは、これら自己利益のチャンピオンに踏み潰されてしまう。
民主主義において社会の進歩はマテリアリスト的な基準によってのみ図られるようになる。テリアリスト=物質主義もしくは経済利益優先主義・
拝金主義。
従って公徳や公正というコンセプトは空洞化していく。経済的な繁栄の追求は、徳のある生き方とは無関係なものになる。
そして人々は競争に勝つ、もしくは成功するということが生きる目的となる。
このような生き方によって人間は獣化していく。
とトクヴィルは言っている。しかももっと凄いのはマテリアリズムは精神の病であると。マテリアリズムという病気は人間に内在している利己心という
欠陥と素晴らしい共存共栄関係にある。民主主義は物質的肉体的な快楽主義を増強させて文明を劣化させていく。民主主義体制では文学も劣化していく。
作家は大量に売って金儲けすることを目指すようになり大衆受けする文章を書きまくる。アリストクラシィ社会の文学は少数の読者を喜ばせるために
洗練されたスタイルで高貴な理想を描いた。当時の文学は金儲けとは無縁の行為であった。
しかし現在の民主主義社会の文学は単なる商売に過ぎない。しかも民主主義主義社会は言語そのものを変えてしまった。
民主主義社会の圧倒的な多数派は学問や哲学には興味がない。圧倒的な多数派は商売と政治に関心を抱いている、したがって言語はこの多数派の好みを
満足させる方向に変化していって、形而上学や神学・哲学は廃れていく。
言語は決められたスタイルを失い、洗練と下品が無秩序に混在するようになる。そして言語も社会も泥沼状態になっていく。
これがトクヴィルのマテリアリズムが文明を破壊していくという理論。
蛇足になるが、19世紀はフランスでもギリシャとかラテンの古典を読むのが流行らなくなったのだが、トクヴィルは19世紀になっても
ギリシャとラテンの古典を学習することが、民主主義に内在している数々の欠陥に対抗するために最も効果的な方法であると言っている。
古典をじっくりと学ぶことが金銭欲に塗れた社会に非常に、洗練されており、非常に危険な市民を生み出すからである。トクヴィルは金銭欲に塗れた社会に、
非常に洗練された危険な市民が必要であると言っている。民主主義の欠陥を正すためには、洗練された危険人物が必要だと。
僕(伊藤氏)はこれを読んでトクヴィルは自分のことを言っているのではないかと。トクヴィルは教養があり本当のことを書く。アメリカのマスコミがゴロツキとか。
19世紀の前半において、これを言うのは危険であった。彼は自分がどういう人間か自覚していたと思う。
これが最後
トクヴィルはこういう啓蒙思想(自由主義・平等主義・民主主義)を実践すれば国民は向上し文明の質も良くなっていくだろう政治も良くなっていくだろうと
いうことに、800ページの本に色んな欠点を明瞭に説明してみせて、そんなの無理に決まっていると証明してみせた。
最後に彼がどういうふうに書いたか。
民主主義の低劣化と堕落、そして最終的には崩壊していくわけだが、民主主義が悪くなっていくのを食い止めるには、トクヴィルさんは宗教心を復活させなければダメだと言っている。
トクヴィルとキリスト教との関係は非常に複雑で、彼は16歳から17歳まで熱心なキリスト教者だった。だが16歳から17歳のときに哲学書を沢山読んで、
キリスト教の教義にはフィクションに過ぎないものが多いと悟った。少年時代に一時的にキリスト教の信仰を失った。
一生涯、彼はキリスト教の教義に対して疑問を持っていた。だからキリスト教の教義を全て肯定する立場には戻らなかったのだが、しかし、
14世紀から18世紀までのヨーロッパ文明の基盤となったのは、やはりキリスト教的な人間観とキリスト教的な世界観である。
キリスト教の教義に疑いを抱くようになったトクヴィルではあるが、キリスト教的な人間観と世界観は、捨ててはいけない、捨てたら大変なことになると、
これを捨てたら増々人間は悪くなると彼は悟ったのだ。
トクヴィルは、キリスト教の教義に失望した後も、キリスト教的な人生観や世界観は捨ててはいけないと言い続けた人。
彼によれば神、もしくは究極の真・善・美という概念を持たない限り、人間は価値判断の基準を持てない。なぜならば人間というのは目先の利益とか虚栄心とか
プライドや金銭欲・権力欲を満たすために生きているのだから、そのために人と争うことしか出来ない。
目先の競争に勝つことが人間の価値判断になるかというと、ならない。人に勝ちたいとか羨ましがられたいとかいうのは、永劫的な基準を持つ価値判断にはならない。
だからトクヴィルは、神もしくは究極の真・善・美というようなコンセプト維持しない限り、人間は価値判断の基盤となるものを持てないということを指摘した。
彼が言うには神に関するアイデアが明確でないのなら、人間が生きる意味と目的そして義務の観念も曖昧になってしまう。
その結果、人間は懐疑心に取り憑かれて動揺し、無責任になったり臆病になったり無思考状態になったりする。
神の概念(人間の理解を超えた非常に崇高なもの)こそ人間にとって最も重要なことである。
しかしながらこの概念は、人間にとって最も困難な概念であり、人間の理性を使っても答えが出てこない問題であると。
理性で神の存在を証明できないが、存在しないことも証明できない。人間の目先の打算もしくは勝ち負けを超えた超越的な価値が存在するかしないかも、
人間の理性を使っては肯定も出来ないし、否定も出来ない。
だから彼は、これが人間にとって最も重要であるが困難でもあり、しかも理性を使ってもイエスかノーか答えが出てこないものであると。
当然のことながら科学的な実証主義を使っても答えは出てこないのだ。例えばパスカルは有名な物理学者で数学者であり神の存在を信じていたし、最近になるとホワイトエッドという有名な数学者がいるが彼も神の存在を信じていたし、アインシュタインも神の存在を肯定していた。
有名な数学者・物理学者も神のコンセプトを支持している人もいる。自然科学や実証主義を使っても答えは出てこない。
トクヴィルによるとこの答えの出てこない問題(神は存在するか否か)、人間の行動は神の基準から見ると別のものに見えるというような思考が可能であるか不可能であるか、それは理性によっては答えが出ない問題であると。
つまり頭脳(ブレイン)を使って判断するか、それとも魂(スピリットもしくはソウル)によって直感するしかないと(インテューション)。
インテューションを肯定するか否定するかによって立場が違ってくる。しかしスピノザとかパスカルとかアインシュタインなどの科学者は肯定していた。
だから頭のいい人は宗教を信じないが、頭の悪いやつは宗教を信じてるということは言えないのだ。
最終的には民主主義・自由主義・平等主義の欠陥を本当に是正しようとするならば、トクヴィルは神の存在というものをもう一回考え直して信じる必要があると。
そして彼は魂の存在というものも信じるべきであると言っている。
彼は宗教心を失った近代人がマテリアリズムや快楽主義の罠にハマって行くならば、自由主義・民主主義・平等主義を実行しても社会はいずれ道徳的な
麻痺状態に陥っていくであろう。宗教を失った民主主義は価値判断力を失って不安定で無秩序になる。従って社会に古くからある宗教を慌てて捨てない方が良い。
宗教を慌てて捨てて新思想を注入してもロクな結果にはならない。人々は心の空洞を埋めるために快楽主義に飛びつくであろうと彼は言っている。
最終的には神学論争的になるが、宗教心とというものを持つことが民主主義・進歩主義・自由主義・平等主義による人間の腐敗や堕落や文明の劣化や低劣化に
対抗するためには、そういう考えを持たなければいけないと。
またアメリカのことになるが、アメリカは少なくとも1950年代まではキリスト教的な価値判断が正しいというのが一般的な世論であった。
ところが1960年代から既に60年間、キリスト教的な価値判断は笑いものになってきた。特に大学の教授やマスコミ人とかはキリスト教的な価値判断を嘲笑して、
ポリコレとかフェミニズムとかジェンダーイコーリティとか、ウオークネスとか…新しい思想を持ち込んだ。
そして喧嘩ばかりしている。今のアメリカは、政治的な問題や社会的な問題に関してマトモな討論が成り立たない。共通の価値判断を失った国民というのは
お互いに罵るだけでマトモな議論にならないのだ。
トクヴィルが言ったように、慌てて古くからある宗教を捨てて新思想を注入するとロクでもないことになると。これはホントの本当でしょう。
僕は今のアメリカの価値判断の錯乱状態はキャンセルカルチャー(お前に発言の自由はない。お前の話なんか聞きたくない)になっているから、
これで民主主義が成り立つか? 成り立たない。アメリカはここまで来ている。
アメリカのこういう状態を見るたびに、トクヴィル先生は正しかったと、180年前にアメリカがこうなるとあの人は判っていたのだと思う。
・・・ここまで・・・書き間違いがあるかもしれず視聴なさってください
前半部分は5月29日にアップしています
難しかったけれど視聴できて良かったです。読み返す事ができるようにとボケ防止も兼ねて聞き書きしてみました。最後まで読んでくださってありがとうございます。
それにしてもアメリカの酷い状態に驚くばかりです。文法が可怪しくなってしまうのにHeをTheyで言うとか驚きました。ここまで無茶苦茶になっていたなんて。
日本に押し付けてくることも、日本以外の国に押し付けることも、表向きは綺麗事に言っていますが、実はアメリカの利益だけ優先していると思います。
私が心配なのは日本のことだけ。アメリカのようにキャンセルカルチャーの蔓延する国に落ちぶれてほしく有りません。
*****
ノゴマ 残っていた在庫から
今頃は お山に行って 彼女を見つけたかな?
https://www.youtube.com/watch?v=L8f8Tz-XG4A
【伊藤貫の真剣な雑談】第14回「アメリカ民主政治の堕落と混乱を予告したトクヴィル!!!-後編」[桜R5/5/27]
トクヴィル
自由・平等・民主をやっていくと国民は逆に自由を失っていくことになると彼は次の5つの点で説明している。
1 多数派至上主義による専制主義。
2 世論崇拝現象から生じる知的な画一主義。
3 民主主義社会の平等主義から発生する嫉妬による抑圧現象、もしくは嫉妬による抑圧主義。
4 ヨーロッパの革命前の世界と革命後の世界、それからヨーロッパとアメリカを比べた場合に、トクヴィルは中間的な支配者層というのがアメリカには
存在していないし、革命後のフランスにも存在していない。
トクヴィルはこの中間的な支配者層を非常に重視している。中間的な支配者層というのは「国王」が居て「国民」が居て、
その真ん中に「中間的支配者層」が、革命前のフランスや19世紀のイギリスには居た。
トクヴィルの分析によれば国家の自由と国家の寛容を本当に維持していたのは、国王でも一般国民でもなくて中間的な支配者層であったと。
5 中央政府による保護者的な統制的な「新しい奴隷制度」(トクヴィルの言葉による)
トクヴィルによると民主主義・自由主義・平等主義をやっていると、そのうち政府の力が強くなって、政府は国民を保護してやるというポーズを
とりながら、新しい奴隷制度を作ることになるだろう。
トクヴィルはフランスでは民主主義を支持していたが、多数派が全てを決めてしまう社会というのは長期的にはマズイことになると考えていた。
彼の文章を引用
先ず1について
民主主義のエッセンスは民主派が多数を行使することである。議会は多数派の意思を立法化する。社会は多数派の政治的な優越性を認めるだけでなく、
多数派に道徳的な優越性まで認めてしまう。
民主主義では一人ひとりの議員の資質よりも議員の数が問題になる。多く議員を当選させた人が勝ち。これは人間の知性の分野まで平等主義の原則を
適応することであり、数が多ければそれで良いのだと。数が多い人間が政治的にも道徳的にも勝ちだと。
私(トクヴィル)は個人的には多数派は何をやっても良いという考え方に、不潔で卑しいものを感じる。アメリカでは多数派が少数派を沈黙させることができる。ヨーロッパでは最も専制的な国王でさえ少数派の言論を止めることは出来ない。アメリカでは多数派が物理的な権力だけでなく道徳な権限まで行使している。
トクヴィルは言う「ティラニー ドゥ ラ マジョリテ」(専制による圧政)「世界諸国の中で、(1830年代のアメリカのこと)アメリカくらい思考の
独立と議論の自由が欠けている国は無い!」 アメリカは少数派の意見を唱える人を露骨に迫害して、村八分にして社会から抹殺してしまう。
アメリカの言論迫害はスペインの異端新聞より酷いものであると彼は言う。
アメリカ人はいつも多数派の意見に迎合しようとする、そのような計算高い国民となっている。その為アメリカでは偉大な人格者というものが出てこないと。
フランス革命にしろアメリカの独立革命にしても、自由主義・民主主義を実践したということになっているけれども、トクヴィルの目から見て、
これは「ティラニー ドゥ ラ マジョリテ」専制政治を引いているように見えると。
次の2について
平等主義・民主主義の時代になって人々は一般の世論に心理の根拠を求めるようになった。革命以前の階級社会においては、それぞれ違う階級に
所属する人たちは、全く異なった見解を抱くことを不思議に思わなかった。階級社会では深い学識と教養を持つ少数の力強い人たちと多くの無知な大衆が
共存していた。そのような時代の人たちは少数の卓越した知性を持つ賢人の意見に耳を傾け、彼らの意見をガイダンスとして自分の意見を形成していった。
当時の人々は大衆の世論は真理だなどと思っていなかった。
しかし平等主義・民主主義の時代になると一般の世論が非常に強い影響力を持つようになった。人々は世論の推移に従うようになり、世論の判断を信奉するようになった。最多数となった意見が時代の真理とみなされるようになって、人々にとって自分自身で考えてみるという行為は不要となった。
多数派による世論が一種の宗教となったのである。この世論に従うという人々のパターンは人間の思考力を狭い範囲に閉じ込めてしまった。
平等主義を実践する民主主義社会は。逆に知的精神的な自由を拘束している。
階級社会の漆黒から開放されたはずの人間の知性は多数派世論による拘束という新しい別の牢屋に閉じ込められるようになった。新しい形の奴隷制の時代を作ったと彼は言う。
次に3について
平等を望む人間の心理は屡々、社会の強者や優越者に対する嫉妬や怨恨となり、人々は自由な状態における不平等よりも隷属状態における平等を望むようになる。人間の欲求の中で最も強いのは自由に対する欲求ではない。平等こそが最も強い人間の欲求である。従って民主主義社会では優越した人、
もしくは自分と違った人に対する嫉妬や不快感が、政府の権力を使って人間社会に画一化を求める。人間の格差や差異を消滅したいという衝動になる。
従って人々は社会環境に均一化と人間の同一化を求めるようになる。これによって政府は国民からの平等化・均一化を受け入れて政府の規制権と介入権を
拡大していく。
これに関して伊藤氏が感じるのは、今のアメリカは「差別反対・偏見反対」とマスコミと民主党は、それ一色である。そして「お前は差別している、偏見を持っている」と連日、相手を攻撃することが起きている。ポリコレとかウオーク(意識が冷めているとか高いとか)
今のアメリカではマスコミにおいても教育機関においても政治活動においても行政機関においても言論の自由と表現の自由が非常に厳しく規制されている。
大学に入ると教授が生徒に「私はアナタをHeとかHimとか呼んで良いか? それともアナタはSheと呼ばれたいかHerと呼ばれたいか?
それともTHeyとかThemと呼ばれたいか?」と聞く。
外見は男の子でも自分は女の子と思っているかもしれないのにHeと言うと、彼のアイデンティティを傷つけることになる。だから教授は男の子をみると
「君をHeと言って良いか」と、女の子に対しても「アナタをSheと呼んで良いですか?」と。
ひどい場合は、小学校1年の先生が1年生の生徒に、聞くのだ。「彼と呼んで欲しいか、彼女と呼んで欲しいか」と。
小学校の先生が「ハーイ ボーイズ & ガールズ」と言うのもダメなのだ。自分のことをボーイとかガールと思いたくない子供も居るから。ジェンダーフリーとかジェンダーはその日によって変わるとか…そういう人の前で「ボーイ」「ガール」と言ったら差別表現になると。
ポリコレやウオークネスからくる極端な言論の抑圧なのだ。言論の制限が実際に起きていて、嫉妬による差別感情というのは笑い事ではない。単数形でなく複数形で呼んでほしいという人も居て、英語の文法まで無茶苦茶になってきている。
平等主義から発生した抑圧主義は、アメリカでは言葉の基礎的なことまで制限されるような事態になっている。
次の4について
中間的支配者層が無くなると政府は例え自由主義・民主主義を守っているようなフリをする政府であっても、実際には全体主義的な行動が取れるということをトクヴィルは指摘している。
国王と庶民の間の権力保持者を伊藤氏は中間的支配者層と呼んでいる。トクヴィルは中間的支配者層の存在を非常に重視している。中間的支配者層があるからこそ、彼の考えによれば16世紀から18世紀までのヨーロッパ諸政府は政府による専制主義・画一主義・言論弾圧を阻止できたと。
トクヴィルより少し前のイギリスの思想家エドマンド・バークも同じことを言っている(伊藤氏)
トクヴィルによる中間的支配者層というのは、中小の領主、もしくは貴族階級・騎士階級(ナイト、シュバリエ)・紳士階級・聖職者階層(牧師、神父)。
彼らが国王と国民の間に居て、一種のクッションのようになっていた。この中間的支配者層こそ地域のコミュニティのリーダーシップを取っていた。
国王がいちいち地域のリーダーシップを取るわけ無いので、中間的支配者層が庶民のリーダーシップを取って庶民を指導していた。
トクヴィルによれば民主主義体制よりもこの中間的支配者層のあったアリストクラシィのほうが個人の独立を保障するのに向いていた。
アリストクラシィというのは日本語では貴族制度と翻訳されることが多い。伊藤氏は貴族と訳すのは違うと思うと。アリストというのはギリシャ語で「優れた」という意味、「卓越した」という意味。「貴族」=「特権的な贅沢している人たち」というのとは違う。
アリストクラシィにおいては国王は権力を独占することが出来ず、国家の統治権を分割せざるを得なかった。
国王が勝手なことをやろうとした場合、これらの有力者たちは結束して国王の専有な行動を阻止する能力を持っていた。中間的支配者層というのは国王に対する拒否権を持っていた。しかしトクヴィルによれば、フランス革命はこのような中間的支配者層を一掃してしまった。
中間的支配者層が無力化されたため民主主義社会では、政府の権力に対する抵抗できる個人が居なくなった。民主社会における個人は弱々しく孤立する存在であり中央政府に対抗できない。無力化された群衆は中央政府の組織化された権力に従うしか無い。従って民主主義は国民を中央政府によって均一化された矮小された市民の群れというふうに扱われるようになった。これは1840年のアメリカの民主主義の最終部に書かれていることで、
これを読んだ二十世紀後半の人々は皆、驚いた。
1840年の文章でトクヴィルは第二次大戦後の西ヨーロッパもしくは北欧の福祉社会を予言したいたのだ。百年後の社会をこうなるだろうと書いていた。
スウェーデンとかデンマークとかノルウェーみたいな福祉社会主義は、必ずしも人間の尊厳にとって望ましい生き方ではないと。トクヴィルは福祉主義も
あまり賛成ではなかった。何故かと言うと、福祉主義を進めるとトクヴィルは国民が政府に従属しすぎることを凄く嫌がっていた。
トクヴィルは皆が民主主義や自由主義をやっていると思っているときに、本当の自由や深い思慮は無いのではないかと疑問を抱いていしまうのだ。
トクヴィルはパスカルだ大好きだった。
二十世紀に人間が作った福祉社会を、彼は何と新しい専制主義とまで呼んでいる。彼に言わせると新しい専制主義において政府は均一的な大衆の矮小な
快楽に対することまで満足させてやろうと行動する。政府は親切で保護者的な、かつ几帳面な態度で人々の日常生活と欲望をコントロールしていこうとする。
新しい種類の専制主義の目的は国民を永遠的に向上的に幼児的な段階に留めて置くこと。国民が精神的に大人になれない状態に留めておくこと。
すべての国民にとって何が幸せなのかということを決定するのは政府である。政府のみが国民の幸せを定義する能力を持っている。政府は国民にとって
生き方や必要な関心事や娯楽まで予め決めてあげる。政府はまるで国民の一人ひとりが自分のことを自分で考える必要性まで除去してやろうとするようである。
その結果として国民は一人ひとり考えなくなり、人間の自由意志は非常に狭い範囲内でしか機能しなくなる。
国民が自立して自治する能力は衰退していく。自分のことは自分で考えて決めるというようなことが出来なくなった国民は自分のことを幸せな境遇に住んでいると
思うようになる。社会は細かい画一的な規則で縛られるようになり、この社会では独創的な思考の持ち主や強い精神力を備えた人は拘束的な環境から脱出できなく
なる。人間の意志力は抑制されて鈍化され枯渇化されていく。そして国民は単なる勤勉で臆病な家畜の集団となっていく(この言葉は非常に有名になった)
優しくて平和的な奴隷制の下の国民とトクヴィルは呼んでいる。
このようにコントロールされ拘束されている国民は、自分たちの監督者を選挙で選んでいるのは自分たちだと思って満足している。
人々は人間としての真の自由を失った状態の下で生きながら、自分は人間としての自由を維持していると思いこんでいる。
トクヴィルは1835年のアメリカの民主主義における選挙において、政治指導者の質は低下していくと。普通選挙を実行すると政治家の質が落ちて
いくと。1835年に書いている。その議論がもの凄く説得力がある。トクヴィルは彼自身がブルジョワ封建主義王朝の国会議員だった。彼は民主的な選挙というものを体験している。
彼は選挙で国会議員になったのに、彼の目から見ると、民主的な選挙をやると政治指導者の質は落ちていくというふうにトクヴィルは判断している。
僕は1835年のトクヴィルの分析というのは2023年の現在も正しいと思う。
トクヴィルが指摘した3つのポイントは現在でも正しいと思う。
民主主義政治の仮説もしくは前提は報道の自由・言論の自由を実践すれば、それによって啓蒙された国民たちは、質の良い政治指導者を選出するだろう。
これが民主主義の仮説、もしくは前提。しかしトクヴィル自身はこれを信じていなかった。
トクヴィルによれば報道の自由と言論の自由に関して言えば、アメリカのジャーナリズムは教育レベルが低くて彼らの言論は粗野であり攻撃的である。
彼らには本当の信念や節操というものは無く、他人の弱所や欠点を暴きたてることに熱中している。しかし、そのようなジャーナリストが群れをなして
同じ主張を繰り返すと、世論はその方向に引きずられていってしまう。
個々のマスコミ人は矮小な存在に過ぎない。それにも拘らずこれら矮小なマスコミ人が集団となると、彼らはアメリカで最大の社会的影響力を行使している。
伊藤氏:トクヴィルは言論の自由・報道の自由が実践すれば人々が啓蒙されるとは思ってなかった。
次にトクヴィルが言っているのは
全ての人に投票券を与えれば、優秀な人が選出されると民主主義は主張してきた。しかし私はアメリカで逆の事態が発生していることを発見した。
本当に優秀なアメリカ人は選挙に出たがらない。彼らは政治に関わることを避けて経済活動に専念している。選挙に出馬したがるアメリカ人は
凡庸な人たちばかりである。しかも一般の投票者たちが、選挙で優秀な人達に票を投じるということもない。
民主主義社会の投票者は自分の失望や嫉妬や怒りといった感情に基づいて票を投じているのであり、自分よりも優越した人を選挙で支持しようとしているわけではない。
従って優秀なアメリカ人にとって政治家というキャリアは魅力のあるものではない。
政治家になれば自分の独立を失うし、人前で品の無い振る舞いをしなければならないこともある。従って彼らは政治家としてのキャリアを避ける。
普通選挙を実施すれば、優れた政治指導者が出てくるという考え方は完全な妄想であるとトクヴィルは言っている。
しかも国民の知的レベルの向上には明らかに限界がある。
公の政策を理解するには政策を勉強する時間が必要である。しかし大部分の国民は自分の生活を支える労働をすることで精一杯である。
彼らには公共の政策を勉強してみる時間的な余裕と経済的余裕など無い。そのような余裕のある生活をしている人々はごく少数である。
そして、そのような人たちは一般の庶民ではない。従って大部分の国民は本当の政策理解力を持てないまま表面的な印象に左右されて投票している。
そして口の上手い詐欺師的な政治屋たちは、そのような国民を操るテクニックを身につけている。そのため質の低い人物が選挙で大量当選するのである。
トクヴィルは1835年にこれを書いたが、今でも正しい。どこの国でもそうだと思う。(伊藤氏)
最後になるが(5番目?)民主主義と平等主義はマテリアリズムを強化して学問と芸術まで低劣化させていくと。
民主主義体制下の人々は目先の利益に執着する。
彼らは自分の境遇に不満を抱いており、どうしたら私はもっと良い生活が出来るだろうかということばかり考えている。
富と快楽の増大が彼らにとって、この世で最も素晴らしいことのように思える。
自由主義と民主主義は多数の自己利益の増大主義者を生み出す。
知的精神的に高尚な価値判断を保つことを説く者たちは、これら自己利益のチャンピオンに踏み潰されてしまう。
民主主義において社会の進歩はマテリアリスト的な基準によってのみ図られるようになる。テリアリスト=物質主義もしくは経済利益優先主義・
拝金主義。
従って公徳や公正というコンセプトは空洞化していく。経済的な繁栄の追求は、徳のある生き方とは無関係なものになる。
そして人々は競争に勝つ、もしくは成功するということが生きる目的となる。
このような生き方によって人間は獣化していく。
とトクヴィルは言っている。しかももっと凄いのはマテリアリズムは精神の病であると。マテリアリズムという病気は人間に内在している利己心という
欠陥と素晴らしい共存共栄関係にある。民主主義は物質的肉体的な快楽主義を増強させて文明を劣化させていく。民主主義体制では文学も劣化していく。
作家は大量に売って金儲けすることを目指すようになり大衆受けする文章を書きまくる。アリストクラシィ社会の文学は少数の読者を喜ばせるために
洗練されたスタイルで高貴な理想を描いた。当時の文学は金儲けとは無縁の行為であった。
しかし現在の民主主義社会の文学は単なる商売に過ぎない。しかも民主主義主義社会は言語そのものを変えてしまった。
民主主義社会の圧倒的な多数派は学問や哲学には興味がない。圧倒的な多数派は商売と政治に関心を抱いている、したがって言語はこの多数派の好みを
満足させる方向に変化していって、形而上学や神学・哲学は廃れていく。
言語は決められたスタイルを失い、洗練と下品が無秩序に混在するようになる。そして言語も社会も泥沼状態になっていく。
これがトクヴィルのマテリアリズムが文明を破壊していくという理論。
蛇足になるが、19世紀はフランスでもギリシャとかラテンの古典を読むのが流行らなくなったのだが、トクヴィルは19世紀になっても
ギリシャとラテンの古典を学習することが、民主主義に内在している数々の欠陥に対抗するために最も効果的な方法であると言っている。
古典をじっくりと学ぶことが金銭欲に塗れた社会に非常に、洗練されており、非常に危険な市民を生み出すからである。トクヴィルは金銭欲に塗れた社会に、
非常に洗練された危険な市民が必要であると言っている。民主主義の欠陥を正すためには、洗練された危険人物が必要だと。
僕(伊藤氏)はこれを読んでトクヴィルは自分のことを言っているのではないかと。トクヴィルは教養があり本当のことを書く。アメリカのマスコミがゴロツキとか。
19世紀の前半において、これを言うのは危険であった。彼は自分がどういう人間か自覚していたと思う。
これが最後
トクヴィルはこういう啓蒙思想(自由主義・平等主義・民主主義)を実践すれば国民は向上し文明の質も良くなっていくだろう政治も良くなっていくだろうと
いうことに、800ページの本に色んな欠点を明瞭に説明してみせて、そんなの無理に決まっていると証明してみせた。
最後に彼がどういうふうに書いたか。
民主主義の低劣化と堕落、そして最終的には崩壊していくわけだが、民主主義が悪くなっていくのを食い止めるには、トクヴィルさんは宗教心を復活させなければダメだと言っている。
トクヴィルとキリスト教との関係は非常に複雑で、彼は16歳から17歳まで熱心なキリスト教者だった。だが16歳から17歳のときに哲学書を沢山読んで、
キリスト教の教義にはフィクションに過ぎないものが多いと悟った。少年時代に一時的にキリスト教の信仰を失った。
一生涯、彼はキリスト教の教義に対して疑問を持っていた。だからキリスト教の教義を全て肯定する立場には戻らなかったのだが、しかし、
14世紀から18世紀までのヨーロッパ文明の基盤となったのは、やはりキリスト教的な人間観とキリスト教的な世界観である。
キリスト教の教義に疑いを抱くようになったトクヴィルではあるが、キリスト教的な人間観と世界観は、捨ててはいけない、捨てたら大変なことになると、
これを捨てたら増々人間は悪くなると彼は悟ったのだ。
トクヴィルは、キリスト教の教義に失望した後も、キリスト教的な人生観や世界観は捨ててはいけないと言い続けた人。
彼によれば神、もしくは究極の真・善・美という概念を持たない限り、人間は価値判断の基準を持てない。なぜならば人間というのは目先の利益とか虚栄心とか
プライドや金銭欲・権力欲を満たすために生きているのだから、そのために人と争うことしか出来ない。
目先の競争に勝つことが人間の価値判断になるかというと、ならない。人に勝ちたいとか羨ましがられたいとかいうのは、永劫的な基準を持つ価値判断にはならない。
だからトクヴィルは、神もしくは究極の真・善・美というようなコンセプト維持しない限り、人間は価値判断の基盤となるものを持てないということを指摘した。
彼が言うには神に関するアイデアが明確でないのなら、人間が生きる意味と目的そして義務の観念も曖昧になってしまう。
その結果、人間は懐疑心に取り憑かれて動揺し、無責任になったり臆病になったり無思考状態になったりする。
神の概念(人間の理解を超えた非常に崇高なもの)こそ人間にとって最も重要なことである。
しかしながらこの概念は、人間にとって最も困難な概念であり、人間の理性を使っても答えが出てこない問題であると。
理性で神の存在を証明できないが、存在しないことも証明できない。人間の目先の打算もしくは勝ち負けを超えた超越的な価値が存在するかしないかも、
人間の理性を使っては肯定も出来ないし、否定も出来ない。
だから彼は、これが人間にとって最も重要であるが困難でもあり、しかも理性を使ってもイエスかノーか答えが出てこないものであると。
当然のことながら科学的な実証主義を使っても答えは出てこないのだ。例えばパスカルは有名な物理学者で数学者であり神の存在を信じていたし、最近になるとホワイトエッドという有名な数学者がいるが彼も神の存在を信じていたし、アインシュタインも神の存在を肯定していた。
有名な数学者・物理学者も神のコンセプトを支持している人もいる。自然科学や実証主義を使っても答えは出てこない。
トクヴィルによるとこの答えの出てこない問題(神は存在するか否か)、人間の行動は神の基準から見ると別のものに見えるというような思考が可能であるか不可能であるか、それは理性によっては答えが出ない問題であると。
つまり頭脳(ブレイン)を使って判断するか、それとも魂(スピリットもしくはソウル)によって直感するしかないと(インテューション)。
インテューションを肯定するか否定するかによって立場が違ってくる。しかしスピノザとかパスカルとかアインシュタインなどの科学者は肯定していた。
だから頭のいい人は宗教を信じないが、頭の悪いやつは宗教を信じてるということは言えないのだ。
最終的には民主主義・自由主義・平等主義の欠陥を本当に是正しようとするならば、トクヴィルは神の存在というものをもう一回考え直して信じる必要があると。
そして彼は魂の存在というものも信じるべきであると言っている。
彼は宗教心を失った近代人がマテリアリズムや快楽主義の罠にハマって行くならば、自由主義・民主主義・平等主義を実行しても社会はいずれ道徳的な
麻痺状態に陥っていくであろう。宗教を失った民主主義は価値判断力を失って不安定で無秩序になる。従って社会に古くからある宗教を慌てて捨てない方が良い。
宗教を慌てて捨てて新思想を注入してもロクな結果にはならない。人々は心の空洞を埋めるために快楽主義に飛びつくであろうと彼は言っている。
最終的には神学論争的になるが、宗教心とというものを持つことが民主主義・進歩主義・自由主義・平等主義による人間の腐敗や堕落や文明の劣化や低劣化に
対抗するためには、そういう考えを持たなければいけないと。
またアメリカのことになるが、アメリカは少なくとも1950年代まではキリスト教的な価値判断が正しいというのが一般的な世論であった。
ところが1960年代から既に60年間、キリスト教的な価値判断は笑いものになってきた。特に大学の教授やマスコミ人とかはキリスト教的な価値判断を嘲笑して、
ポリコレとかフェミニズムとかジェンダーイコーリティとか、ウオークネスとか…新しい思想を持ち込んだ。
そして喧嘩ばかりしている。今のアメリカは、政治的な問題や社会的な問題に関してマトモな討論が成り立たない。共通の価値判断を失った国民というのは
お互いに罵るだけでマトモな議論にならないのだ。
トクヴィルが言ったように、慌てて古くからある宗教を捨てて新思想を注入するとロクでもないことになると。これはホントの本当でしょう。
僕は今のアメリカの価値判断の錯乱状態はキャンセルカルチャー(お前に発言の自由はない。お前の話なんか聞きたくない)になっているから、
これで民主主義が成り立つか? 成り立たない。アメリカはここまで来ている。
アメリカのこういう状態を見るたびに、トクヴィル先生は正しかったと、180年前にアメリカがこうなるとあの人は判っていたのだと思う。
・・・ここまで・・・書き間違いがあるかもしれず視聴なさってください
前半部分は5月29日にアップしています
難しかったけれど視聴できて良かったです。読み返す事ができるようにとボケ防止も兼ねて聞き書きしてみました。最後まで読んでくださってありがとうございます。
それにしてもアメリカの酷い状態に驚くばかりです。文法が可怪しくなってしまうのにHeをTheyで言うとか驚きました。ここまで無茶苦茶になっていたなんて。
日本に押し付けてくることも、日本以外の国に押し付けることも、表向きは綺麗事に言っていますが、実はアメリカの利益だけ優先していると思います。
私が心配なのは日本のことだけ。アメリカのようにキャンセルカルチャーの蔓延する国に落ちぶれてほしく有りません。
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ノゴマ 残っていた在庫から
今頃は お山に行って 彼女を見つけたかな?