浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

二元代表制の地方議会

2010-06-30 08:38:35 | 国際・政治

名古屋市議会の状況を見ていると、ついつい二元代表制である地方議会はどうあるべきかと考えさせれてしまいます。

二元代表制は、行政の執行をつかさどる首長とそれをチェックする議会として、車の両輪にたとえられます。とはいっても、予算執行権もなく行政執行の追認機関に近い状態であった議会を考えると、必ずしもその両輪は同じ大きさではなかったといえます。従来、あまり良い意味でつかわれない「根回し」という潤滑油によって、お互いに歩み寄りながら、蛇行しながらも前へ進んでいたわけです。不透明であるというその「根回し」への批判、また議会の議員は活動しているのかという批判の対象となるのですが、調整機能をどこに求めるかという問題が残ります。

名古屋市のように、一方的な市長の主張に反論する議会という対立構図の議論をしているとはいえない状況をどう打破していくのかが二元代表制の問われるところです。

市長の「減税10%」によって選挙に勝ったとい事実は尊重されなければなりませんが、10%という数字がどこまで練られてどれだけ意義のある数字かを議論し、どうやって政治的解決を図るのか、それとも対立をあおり議会解散の請求による力づくの解決を図るのかが注目されるところです。

ある意味では議会の活性化(刺激?)につながっていますが、何かにつけ対立が深まれば深まるほど、混乱により市民は置き去りにされてしまうこと、勝ち負けだけが争点となり二元代表制の意味をなくすこと、市民に密着する政策が置き去りにされてしまうことなど、決して良い結果を生むとは考えられません。どのような政治的決着を図るのか、そして二元代表制の機能をどう発揮していくのか、良い解決の道はあるのでしょうか。

以上


ブログ、ようやく1000アクセス

2010-06-29 09:41:51 | 日記・エッセイ・コラム

ブログのアクセスページ数が、始めて以来、ようやく6週間で1000を超えました。しかしアクセス解析を見ますと、おそらく特定の数人の方のアクセスが中心であることが分かります。実際定期的に見ていただくよう今後も続けることで、その人数を少しでも増やしていく記事を書いていきたいと望んでいます。

あまりよくわからないような記事を書いているという批判もあるかとは思いますが、毎日続けようとしていますので、くだらないことを書くこともあります。しかし、身の回りのことやそのときに思うことを書き綴るのは、自分自身の考えの整理にもなり、とにかく書くことを義務ずけるようにしています。

議員という政治のはしくれに属していますので、その周辺のことが多くなるのはお許しください。また、前にも述べましたように、活動報告に主眼を置くのではなく、私自身の主張や考え方、理念、行動を知っていただくようなことを書こうと努めています。自己中心的ではなく、できる限り第三者的な考え方を取り入れながら、自分を主張したいと思っております。

記事は時間をかけて原稿をしっかり作って掲載しているわけではありませんので、校正のない文章の間違いやワープロの打ち間違いが多々あるかとは思いますが、お許しください。

以上


医療制度の崩壊

2010-06-29 07:42:22 | 国際・政治

昨日、議長不信任決議案の提出で大揺れし長時間にわたった6月議会もようやく終わりました。

前にも述べましたように、今議会で国民健康保険制度について質問をいたしましたが、調べれば調べるほど制度として抜本的改革をしなければという思いが強くなります。参議院選挙の大きな争点にはなっていませんが、制度の崩壊に向かっていることに真摯に受け止めている候補者はどれだけいるのでしょうか。無論、争点は数多くあり、表面に出ていないだけだとは思いますが、有権者がこの問題を大きく叫ぶ時が来るような気がしてなりません。

年々膨らむ医療費に対し、制度が付いていかないという状況は、年金に限りません。国民皆保険制度という税的制度でありながら、一般の多くの人に理解されていないのが現実ではないでしょうか。特に国民健康保険制度は、他の協会健保などに比べ、強制力が劣り加入階層も低所得者が多く、制度そのものの崩壊に向かっています。制度全体でいえば、後期高齢者医療制度が始まり、制度間の調整がつかない状況の中、国保財政にしわ寄せがきているのではないかと思います。つまり、財政規律のために制度を細分化したわけですが、逆にそれぞれの制度の欠点が表面化したというわけです。

多くの国会議員がこのような制度崩壊を認識し、いち早く改善に取り組むことを願うばかりです。どこまで理解しているか国会議員の皆さんにアンケートでも取れればと思ったりもします。

以上


「最大多数の最大幸福」は正しいか

2010-06-28 07:31:55 | 国際・政治

功利主義を代表する「最大多数の最大幸福」の考え方は、政治思想として正しいかどうかという問題であります。つまり、公共政策において、この理念の問題点を指摘しなければなりません。

共同社会における社会の最大効用を求めることは、政策として間違いないように思われますが、一方で最大幸福を求める過程で、個人の犠牲を強いてしまう可能性を考えなければならないということです。また、その最大幸福が、金銭的な物差しの価値観で測るとき、人間の幸福とは物質的な面だけで測れるかどうかということになります。

身近な例を言えば、岐阜市では2年前に、市岐商・立命館問題がそうであったかと思います。定員割れしていない人気校である市岐商が、将来の少子化を見越し、また建物のに改築に費用がかかるという理由で、立命館高校にしようというものです。立命館高校であれば、最初の土地や建物の無償譲渡や貸与のコスト的問題を除き、市税の将来負担もなくなり、将来の子供の教育や地域の活性化(これはきわめて疑問ですが)になるとするものです。

立命館高校誘致が最大幸福になるのかという問題は別にして、ここで問題になるのは、多くの署名を集め反発した市岐商の生徒やOB、そしてその関係者、また私学関係者や教育者です。いわゆるこの人たちにとっては幸福ではないという感情であり、価値観であったわけです。

結果を言えば、岐阜市議会は僅差で、立命館誘致を否決しました。皆さんはどうお考えですか。

「最大多数の最大幸福」には、一方で犠牲者がいることを決して忘れてはならないということではないでしょうか。

以上


リセットされる世界?

2010-06-27 07:52:34 | 国際・政治

先週から参議院選挙が始まりました。総理大臣が変わってすぐの選挙戦となり、いきなり消費税論議が中心となり、なぜか違和感が付きまとう論戦になっているような気がしてなりません。内閣支持率や政党支持率が急回復を示したことが、新たな信認だからとしてリセットされたと考えるからでしょうか。

しかし、「過去の検証」と「将来への政策理念」は絶えずセットで語られるべきだと思うのは私だけでしょうか。今の状況はその「過去の検証」が全く語られない状況に大きな不安と不満を持たざるをえません。

民間の企業が、政策を失敗し赤字を出せば、責任を取らされその政策を切り捨てればそれでことは終わります。政治の世界はそうはいかないというところに根深い問題があります。つまり、政治の世界では過去の失敗を切り捨てることが簡単にできないからです。一度始めたサービスを簡単に切り捨てることはなかなかできないのが政治です。

であるからからこそ、「過去の検証」と「将来への政策理念」の連続性を持っていないとまた新たな混乱は必至です。政治は選挙でリセットできないのです。

以上