浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

TPP交渉に思う

2013-02-27 15:06:43 | 国際・政治
 先に紹介しました『移行期的混乱』のなかで、「アメリカは、WIN-WINという言葉が好きで、両方が得するけれどもどっかで誰かが損をしている。内田樹氏は、WIN-WINはウソで、LOSE-LOSEが本当だと言っている。」ということを著者が語っています。

 たしかに、WIN-WINというとどちらもメリットがあり徳をするような錯覚をしてしまいがちですが、交渉事には必ず妥協する部分、物事を治めるための着地点が必要で、純粋に個の利益だけを考えれば得にならない部分も出てくるのが現実です。交渉の両者が双方玉虫色の結論に至るということはまずないということです。ましてや国益だけを考えればそうなってしまうことは明らかです。民間の交渉事においても、どこかで妥協点を見つけることによって交渉が図られます。

 TPPの交渉においては、いくら日本の国益にそぐわないものとして主張を続けるとすれば、はなから交渉しないほうがよいということになります。TPPに限らず、すべての国と国の貿易交渉はそうです。

 ですから問題は、こうした前提で交渉に臨むかどうかということになります。必ずどこかで痛みを伴う、それを承知でどこまで全体の国益となりうるか、十分な説明が求められることになるでしょう。

以上



「移行期的混乱」平川克美を読んで

2013-02-25 08:36:21 | 日記・エッセイ・コラム
 副題には『経済成長神話の終わり』とあります。

 戦略的な側面でいえば、経済成長そのものの否定ではなく、歴史的に未経験の領域となる人口減少する時代に対する思考の転換とそれによる制度設計が求められているということになるのでしょう。その転換を必要とする移行期において、私たちはもがき苦しむ試行錯誤の時代に突入していると言えるわけです。

 すべての価値判断基準がお金または経済効率に換算されるとする自由主義による経済成長は、日本人なら誰しも疑問に思うところでしょうが、私たちの生活習慣は自由主義や個人主義の名のもとに、すでに知らず知らず侵されているという恐れがあります。こうした転換は頭では理解しても、現実的な行動の上ではなかなかできないのです。つまり、お金がすべてではないと頭でわかっていても、現実的な目先の判断はお金で判断するという価値観に支配されてしまっているということです。

 合理的な行動と同時に、行動の価値判断、私たちはどこにも飛べるべきなのでしょうか。

以上



IAMAS三輪眞弘教授の音楽を知る

2013-02-18 17:09:15 | 日記・エッセイ・コラム
 月1回の例会となっている勉強会にて、三輪教授の音楽や人柄を知ろうと言うことで、いままでに聞いたことのない現代音楽を知ることになりました。ご本人は不在でしたが、奥様が出席され、主催者中心にエピソードを交えた経歴や人柄を知り、作品である音楽を聞いたり発表会のビデオを見たりして、出席者の感想も含め2時間強にわたり勉強してきました。ちょうどその日にNHKで加納高校の生徒が先生の作品を演奏することもあり、その番組も見ました。

 率直に言えば、現代音楽そのものを全く理解していませんので、難解な世界でした。ちょうど現代美術を見て理解不可能になるような感覚です。私たちが慣れ親しんできた先入観で聞くと全く理解できないということになるでしょうし、ご本人もテレビでおっしゃっているように聞かせるものではないということなのでしょう(こういう言い方ではなかったかもしれませんが私はそう理解して聞いていました)。音楽形成のアプローつが全く違うわけですし、コンピュータのアルゴリズムが先にありそれを音として表現する(単に音にする?)という手法です。と書きましたが、ご本人に言わせれば全く違うでしょうけれども、とにかく私自身は全く整理できていません。

 アンチ権威主義であり、無駄を無駄であると知りつつそれを追求する自由人として、既成概念を打破しようとしている研究者であり哲学者、という表現は適切ではないかもしれませんが、人物像を語ればそうなる気がします。先日のクリムトの経歴でも語った様に現代芸術の中からブレークスルーする概念が生成されるとすればこうした発想の転換から出現してくるのかもしれません。

 そうした難解な形成過程を経てつくられた音楽を聞いた個人的感想をいえば、「どこか古代的・宗教的な懐かしさと未来や宇宙の未知を感じさせる音楽であり、違和感とともに共感も感じた」ということです。理屈ではなく聞いた感想がこのようなものだったとすれば、聞くためではなく作られた音楽をそう感じるとはなんと皮相な事かと思いますが、既成の音楽しか判断基準のない私としてはそのような感想が精いっぱいだということです。もちろんすべての作品を知っているわけではないので部分的な感想であるということですが。

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地域の包括的エネルギー政策と活性化

2013-02-14 10:37:57 | 日記・エッセイ・コラム
 超長期的な視点に立てば、化石燃料の有限性、核燃料廃棄物の危険性と長期的問題(現核燃料の処理問題)の課題は避けて通ることができない現実です。人間の英知によって科学的に解決されるということも言えますが、現時点で解決方法が見出されていない以上、楽観論だけで議論するわけにはいきません。本当の危機が迫った時に対処できないような楽観論では危機管理とは言えないからです。

 こうした課題にはエネルギー政策の大きな方向転換が必要であることは明らかであり、その方向転換のためには大きな政治の力が必要になります。なぜならば、発達した現代社会において、エネルギーの供給は公平の原則に立脚しなければならないからであり、格差を増長するような政策になってはならないのです。つまり、こうしたエネルギー問題を市場主義にさらしてしまうことは避けなければなりませんし、一方で管理一辺倒の硬直的な体制では転換がなかなか進まないという問題も指摘されます。

 さて、このような状況を踏まえながら、現在考えられる小発電(太陽光、風力、地熱、小水力など)の推進は、ダウンサイジングされたエネルギー政策として推進を加速させるべきであることは言を俟たないところです。いわば、大局的なエネルギー政策ではあっても実施主体は地方で積極的に進められなければならないことになります。

 昨日富士通総研が出している政策研究の中で、「地域経済活性化に向けた地方自治体における包括的エネルギー政策」(若生幸也)の事例研究が載っていました。重要な点は、包括的なエネルギー政策をつくる上において、地域経済の活性化を考えることが大切で地域内資金の循環がなければならないということです。大規模事業者(地域外)の参入は資金及び利益流出が考えられることから地域の活性化には必ずしも好ましくないことになります。「地域的価値を高める仕組みを地方自治体が構想しない限り、地域に賦存するエネルギーが価値化ができたとしても、その利益は地域外に流出する恐れがある。この点を留意しつつ、地方自治体における包括的エネルギー政策を構築することが望まれる。」(抜粋)

 今日の新聞報道で、地域のある企業が自分の地域内の遊休地に2億円ほどの地域の企業による設備投資で太陽光発電をすると発表しました。現在の地域の行政の補助制度は、各家庭の太陽光発電しか行われていませんが、こうした地域内で完結する資金循環の事業に対しては何らかの補助制度が必要ではないかと感じました。それは包括的エネルギー政策に含まれてもよいかと考えます。

 エネルギー政策は国の政策であるという考えではなく、地域の活性化と結び付ける政策として積極的に進める必要があります。確かに太陽光発電といっても実績がないことから不安定な事業であるかもしれませんが、今できることを大局的にかつ迅速に行っていくのが行政の役割です。また、中央においても、地方の活性化、地方分権を念頭に大局的なエネルギー政策を進めていただきたいものです。

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「グスタフ・クリムト」展を見て

2013-02-11 11:22:58 | 日記・エッセイ・コラム
 愛知県立美術館で「クリムト」展があるということで見てきました。こうした高名な画家の美術展によくある有名な絵(教科書に載っているような)からくる印象だけで、あまり前知識もなく見に行ったのですが、作品そのものの素晴らしさもさることながら、やはりその作家の生き様や時代背景が語ることの大きさを感じることに意味がある様な気がします。 展示されている作品としては、代表的な数点しかなかったため、作品を鑑賞するというより、展示会そのものがそうした流れに沿って構成されていたためかもしれません。

 クリムトが、室内装飾家でもあったこと、体制の中でもがき近代芸術の先駆けであったこと、それが故に反体制的な活動をリードした作品へと変遷しいることなど、とても興味深く知ることができました。

 現代美術でも語ったことがある、社会性を表現する作品、というものにいかに私たちが受け止めることができるだろうかという点を考える必要があると思います。私たちは、芸術という領域にどうしても政治的な社会性が入り込むのを嫌うところがあるのですが、新たなものを生み出すエネルギーのためには、社会性を持つ芸術が必要なのではないでしょうか。芸術の世界が硬直した組織になればなるほど、そうしたブレークスルーが望まれるのです。

以上