浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

暑かった2週間

2010-08-31 09:23:53 | 日記・エッセイ・コラム

この2週間でようやく自分の広報紙3,500枚をを配り終えました。

盆過ぎから多少涼しくなるだろうと予想していましたが、なんの盆前より暑い天気で、腕と顔は真っ黒になりました。さすがに、3時間もポスティングしているとふらふらになります。この時期は9月議会前で時間的に余裕がありましたので、毎日の日課にしたような形で各戸を回り配っていました。

この時期でしたから、通りを歩く人は少なく、地元の人と話す機会はいつもより少なかったことは残念でしたが、それでも地元の状況を知るうえでは貴重な活動になっていると思っています。

少しでも、私自身の考え方や市政状況を知っていただくために続けたいと思っています。

以上


「国民の意見を聞く」?

2010-08-30 08:24:15 | 国際・政治

「国民の意見を聞く」という言葉が安易に発せられ、氾濫しているような気がしてなりません。言葉そのものは、数多くの人たちから意見を聞くということですが、実際にどのように政治家は聞くべきなのでしょうか。

マスコミやテレビのコメンテーターは、事あるごとに「国民の声を聞いたか」という発言をしますが、それはあたかも「我々の言うことを聞け」と言っているように過ぎないような気がしてなりません。どんな意見も主観的なならざるを得ないことを念頭に置かなければならないのです。

国民から付託を受けた政治家である以上、判断の表明はその政治家も信念や負託の実現に向けて努力している結果であることも事実なのです。数多くの多様な民意の中で最終的に判断するのは政治家自身であり、その評価は選挙でしか判断できないという現実があるのです。100人いれば100の意見があるということです。無論、政治家の判断に、説明責任は必要となってきます。

「声を聞く」ということのむずかしさをつくづく感じると同時に、必ず判断に対する反対が常に存在するという精神的圧力に政治家は耐えなければならないということなのでしょう。

以上


実現のための熱意はどこに?

2010-08-28 15:37:54 | 国際・政治

マックス・ウェーバーを持ち出すまでもなく、政治に「情熱」が必要だとはよく言われる言葉です。そこには自らの思いを実現するための「熱意」、つまり「情熱」がなければ、職業としての政治家になりえないということです。

しかし、実現のための熱意が、本来の民意を問う議論が置き去りにされ、単に対立を生む方向へと進んでしまうことに、議会制民主主義の崩壊の危うさを感じてなりません。

名古屋の河村市長のマニフェストは絶対だとする議会解散への熱意は、実現のための対立を生んでいることになっても、マニフェストの是非を問うことになっていないのではないでしょうか。仮にリコールが通ったとしても、このような対立が絶えず起こりうることになってしまうとすれば、市民は疲れてしまうのではないかと思うのです。あらゆる政策判断において、市民を巻き込んでの議論をすべきなのでしょうか。

実現のための熱意が、全知全能でもない限り、多様な民意の中で絶えず正しい方向に向かっているとは言えないのです。何のために議会があるのか、河村市長は説明すべきなのではないかと思います。

以上


「政党」と言う組織

2010-08-26 08:23:52 | 国際・政治

岩波国語辞典によれば、「政党」とは、「ある政治上の理想・目的を実現するために、政治権力への参与を目指して結ばれた政治団体。」とあります。

「政局」に対して批判的な論調が多いようですが、政党という団体組織であれば、政局は必然であり、個々の政治家の理想や目的が強ければ強いほど、権力闘争に陥りやすいということになります。会社組織のように、ピラミッド型の組織の上に適材適所を配置するというような組織でもないからです。

「政局」ではなく『政策』論争をすべきだという論調に賛同はできても、国民はすでに政権を選択しているのであり、「政局」はあくまでも組織内事情であるということです。国民の視点を問えとはよく言われることですが、国民の選択は選挙でしかないのです。

「大衆民主主義」の問題点を認識しなければならないのかもしれません。

以上


選挙とマニフェスト

2010-08-25 07:55:57 | 国際・政治

「選挙で選択されたマニフェストは絶対か」という問題について考えるとき、議会制民主主義の考え方やマニフェストへの対応に、コンセンサス、共通認識ができていないような気がします。

選挙で示されたマニフェストは接待のものであるという考え方は、非常に危険です。確かに示されたマニフェストによって投票する行動によって政治が動き民意が反映されると考えがちですが、選挙は選択の行動であっても、マニフェストを100%信認する民意の表れとは言えないのです。候補者の選択しかできない選挙は、すべての政策を信任したとは必ずしも言えないのです。マニフェストはあくまでも政策であり、社会環境の変化ととともに変えざるを得ないものであり、また変えなければならない時もあると思うのです。

あまりにもマニフェストにこだわることによって、政治のかじ取りを間違い、取り返しのつかない失敗をすることにもなりかねません。政治の失敗のリスクを極力抑えることの仕組みが、一つの民意とされる議会に与えられた役割でもあるのです。

かといって、マニフェストをおろそかにしてはなりません。将来の方向性を示す政治としての表明であることを考えれば、結果責任を問われます。実現のための努力が問われるのであって、説明責任をきちっと果たすことこそ重要ではないかと思われます。いたずらに対立を招くような結果だけは避けるべきではないかと思います。

以上