浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

情報開示と情報リテラシー

2013-01-31 11:16:21 | 日記・エッセイ・コラム
 地方自治法の改正に伴って地方議員の政務調査費が政務活動費に名前を変え、経費と認められる範囲も少し拡大しようとしています。それに伴い、情報開示をさらに進めようとする動きになっています。

 情報開示を進めていくことには問題はないと思います。私たち一人一人が意見をぶつけ議論していくうえでは、個人攻撃や組織の秩序の崩壊とならないことを前提に、是非を判断する、また物事を決定していくための十分な情報が求められます。

 情報の非対称性も問題になりますが、情報リテラシーも大きな問題となります。情報を判断していく能力の重要性は言うまでもないことです。一方で、一つの情報に対していろんな解釈ができるとすれば、その解釈の是非は、その情報自体のとともに情報の量も必要になってきます。つまり中途半端な情報では、是非の判断が大きくちがってしまう可能性があるからです。反面、情報開示が際限なく行われるとすれば、どこまですべきかという情報開示の線引きが極めて難しい問題となります。

 リテラシーが十分に行われていない、一面だけしかとらわれていない情報が独り歩きし、問題を発生させる可能性があります。特に、SNSが発達した社会では、一つの発言が多くの誤解を呼び、取り返しのつかない事態となってしまう可能性が高いからです。例えば、無責任な発言や、ひと時の感情的な発言で、影響力の大きさから個人の社会的制裁までに発展してしまう恐れがあります。

 情報開示の線引きの問題と情報リテラシーという各個人が持つ能力の問題を考えさせられることが多いようなj気がします。情報開示されなければ単に組織の問題だと批判されたり、発言の重要性を自覚しない、庶民の意見として自由に発言すればいいんだという風潮が気になって仕方がありません。秩序や良識、社会組織の崩壊は避けなければならないと言えば、保守的すぎるでしょうか。

以上



自閉症協会の講演にて

2013-01-29 11:00:38 | 日記・エッセイ・コラム
 先週の土曜日に、岐阜県自閉症協会の主催による『自閉症成人施設の30年の実証と課題』と題するあさけ学園の近藤施設長の講演がありました。

 この施設には、昨年訪れており、施設の概況はある程度承知していましたので、やはり課題は利用者の高齢化ということになります。そのために、日中活動の中で高齢化の対応を模索しているということですが、運動や行事などを通して労働以外の活動も取り入れ、また作業時艇もボランティアによるパッチワークや手織りなどの趣味の活動を経験するということも行っておられます。

 最後に「高齢化に向けての現状と課題」と題してまとめておられますので紹介いたします。

・活動が『生きがい』となる結びつきも必要である。
・身体機能とスキルの低下とともに、諸機能保持のプログラムを取り入れる。
・父母以外の成年後見についても準備を進める。
・親とのかかわりや死別へ適切な対応が必要。

 ある意味では、私たち自身が考えていかなければならないライフステージにおける課題と全く同じだということです。ノーマリゼーションの理念からすれば、意思表示ができない利用者に代わって、いかにこうした課題に取り組んでいけるサポートが必要ということになります。それに社会や行政がどうかかわっていくのかそれが私たちに課せられた問題ということになるのでしょう。

以上



地方分権の後退

2013-01-28 10:17:33 | 国際・政治
 先週のブログで、地方公務員の給与減額による交付税の削減に関連して、地方分権の後退の懸念を示したところですが、昨日の中日新聞にもそのような記事が載っていました。

 多様化する社会、また地方の衰退が顕著になる中、グローバル化する社会の一方で、ダウンサイジングした社会制度への移行がなければ、サスティナブルな社会の構築はできないのではないかと思います。マクロな成長戦略に重点を置くと、どうしても中央集権的な政策に頼ることになり、国としての指標は改善されるかもしれませんが、実質的な生活の質の向上は、ミクロの政策のことが多く、地方分権を進めると言うことはその意味でも重要です。

 一括交付金の廃止は、地方分権の目的を大きく後退させることになりかねません。ひも付き補助金を増額すればよいとい問題ではなく、地方には地方のそれぞれの事情があり、また民主主義の発想からいえばそのときどきの事情によってそこに住む人たちの思いも違うわけです。すべての権限や財源を地方にとは言いませんが、地方の努力を促すような形を進めてもらわないといけません。

 地方と中央の役割分担の線引きは明確ではないと思われますが、地方分権の流れを後戻りさせるような政策は、断固として反対いたします。

以上




「現実」主義の陥穽

2013-01-27 10:49:12 | 国際・政治
 ある方の薦めで丸山真男先生の本を読むようになったのですが、そのきっかけがが表題の丸山先生の小論です。というのも、私自身は現実主義者だという話から、この小論に書かれてある様な現実主義の危険や問題を指摘されたのです。

 小論の内容については読んでいただければと思うのですが、確かに現実を認める、また受け入れるという姿勢は、危険な方向への事実としてその危険性をも認めてしまうということになりかねないという見方は、その通りであろうとしか言いようがありません。例えば、今問題になっている原発問題を取り上げれば、原子力の危険性は明らかであり、廃棄物の処理が技術的にも解決されていない状況の中で、原子力発電を続けるということは、災害の危険性を問う前に、原子力の利用は即時撤廃しなければならないということになるのでしょう。

 しかし、そうであっても、グローバル化が進む世界にあって、原発を受け入れざるを得なかった現実、状況、またその時の判断も事実(エネルギー問題、環境問題、生活の向上などに対する対応として)であり、目先の解決と将来の解決の比重の平衡をとっていかなければならないといのが現実主義であり、保守性だと思うのです。もちろんここでは原発の危険性というものをしっかり認識していなければならないのは当然のことなのです。

 安倍政権の発足後、自民党は経済の再生を最優先をしています。昨日の中日新聞に掲載された佐伯啓思先生の話でも、アベノミクスの現実主義を述べておられますが、まさにその通りで、今ある危機に対応しなければ政治は進められないことも事実なのです。けれども、現実主義の陥穽を考えると、よく言われる財政規律や、グローバル化や外交、原発の問題も忘れてはならないということです。当然のことながら国民にとって痛みを伴う政策も必要になるのであり、そうした側面でも説明をきっちり果たすことが、批判はあっても何より重要ではないかと思います。

以上



ICT教育を学んで

2013-01-25 14:30:35 | 社会・経済
 表題についての前に、昨日、政治哲学者である丸山真男先生の小論文、「であることとすること」についての感想を途中まで書きかけましたが、自分自身の考えがもう一つまとまっていないので、削除してしまいました。一部掲載してしまったので、見た方にはお詫び申し上げます。時を見て取り上げますのでお許しください。

 さて、タイトルのICT教育についてです。ICTとはInformation and Communication Technology の略で、情報と伝達の技術、例えば電子黒板やデジタル教科書を使って、教育を進めようというものです。、

 岐阜市では、来年度の重点施策として、全小・中学校にこの電子黒板とデジタル教科書を3億円強の予算を使って導入しようとしています。確かにこうした技術の進展は目覚ましいものがあり、利便性からパソコンや携帯が身近になっていることを思うと、教育の分野でも活用されることは十分にあり得ることです。しかし、教育は人が行うものであることから、機械技術に頼ってしまうような何かしら不安と問題を感じずにはおられない印象があるのも事実です。

 岐阜市には教育研究所があり、このICT教育の研究も行っていると聞きましたので、導入前に先立ち見学に行ってきた次第です。

 結果からいえば、ICT教育も教え方の手段のあくまで一つであり、すべてそれが担うと言うものではないということです。情報が多く、視覚的、聴覚的な技術によって、子どもたちの興味が湧き、教える手段として選択肢が多いということです。教科書本文の拡大、挿絵・写真の表示、アニメーションの表示、豊富な参考資料、本文の朗読や発声、ポイントの表示や書き込みなどの機能が、教師にとっても生徒にとっても効果的に役立つということです。

 こうした教育手段の情報や選択肢の拡大は、一方で、時間的な制約の中で、教えるほうの力量にかかってくる可能性が大きくなることも懸念されます。教える先生によって教える内容が違ってきてしまうとか子どもの興味が本来教えるべきところではなくなると言った、教育範囲の自由度が広がるゆえの問題点も考えなければなりません。また、機械に頼ることで、子どもたちと向き合うことがなく、教えるノウハウだけの教育であってはならないわけです。

 つまるところ、繰り返しになりますが、教育は人であるということであり、何といっても教える側の情熱とそのためのスキルアップが求められるということです。この点において、教育研究所の果たす役割は大きく、日々の問題もさることながら、大所高所に立った教員の向上をめざしてもらいたいものです。

 最後に、2日前に紹介した西部邁先生の本に以下のようなことが載っていますので、少し長い文ですが紹介します。

 「技術の合理性が近代に対して結いつの信頼を与える、という考え方は認められない。技術の合理性は、その技術がどんな信頼できる『目的』のために使用されるかということに係わってくるのであり、そしてその目的は技術によって与えられないのである。さらに、技術という手段は、他の(位階的、慣習的そして価値的な)手段と抵触することがあり、その場合には、技術がほかの手段よりも信頼に値するかどうか改めて問われなければならなくなる。」(中公文庫P170)

以上