浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

組織の論理

2013-06-25 08:25:29 | 日記・エッセイ・コラム

 全柔連のニュースを見ていると「組織の論理」を考えざるを得ない。

 組織の中だけで通用してきた論理が、いかに世間とずれが生じているかという典型的な例であろう。こうしたことは、どこの組織にも存在する組織だけの論理があることである。税金が投入されようとされていまいと、どの組織にも存在するのではないか。だからと言ってその論理が容認されるわけではなく、果たしてその組織の成長や発展を阻害していないかが問題になる。特に、競争のない組織体であれば、時代の流れとともに、その論理が組織の論理が発展を阻害することになることは十分考えられる。一般的に企業は、競争社会の中で生き抜かなければならないという条件のもとで、自浄作用が行われるため、こうした世間とのずれは起きることがまずないであろう。

 政治や行政においても、全柔連のような組織の論理があると言えるであろう。昔に比べればかなり変わってきたと思うが、絶えずそうしたずれを認識しながら、本来のその組織の役割、責務を考えていかなければならない。時代が変化する中で、単にコンプライアンスという責任にとどまることなく、成長発展のためにどうすべきかを議論していかなければならないであろう。

以上


政治の選択肢

2013-06-24 17:57:48 | 国際・政治

 冷戦後の全体主義および共産主義の終焉によって、民主主義及び資本主義が発展、成長の体制であることが明確になったとされるイデオロギー的勝利が証明されるような形でのもと、政治のイデオロギー的選択肢は限られてしまったという状況を今一度考える必要があるのではないだろうか。

 つまり、政治の成立過程においてそうしたイデオロギーに依拠するところの対立があったにもかかわらず、その対立がなくなるとすれば、政党の成立根拠はどこに求めるべきであろうかということである。

 こうした状況において、マニフェスト選挙がどれだけ選挙において効果的なものであるか疑問になる。一つ一つの争点は極めて重要であっても、数多くの争点においていろいろな考え方が示され交錯すると明確な争点として、政党の埋没が懸念される。一方で埋没しないようにと考えたとき、極端なマニフェストを示さなければという思いから、実現の可否よりも選挙のためだけのマニフェストになってしまう可能性がある。

 今回の都議会議員選挙はどう見るべきであろう。結局、昨年の衆議院選挙の焼き直ししかなかったのではないだろうか。アベノミクスに対する評価よりもそうした政治の選択肢をしっかりと考えないといけないのではないだろうか。金融政策、経済政策で負の部分を考えなくてよいのだろうか。長期展望に立つとき何をすべきだろうか。私たちが求める豊かさとは何なのか。

 ある本で、「閉そく状況とは選択肢のなさにある」としていたが、まさに私たちはそのような状況にあるのではないか。一方向に偏っていってしまう怖さを感じずして日本は救われない。

以上


マイケル・サンデル「それをお金で買いますか」を読んで

2013-06-18 07:03:22 | 日記・エッセイ・コラム

 前のブログにも少し触れましたが、いかに私たちが、もちろん私自身も市場主義的な考えに変わってしまっているか、慣れてしまっているか、を感じてしまいました。それも一つの時代の流れであり、そうした世界に私たちが満足していればそれはそれでよいということになるのでしょう。

 しかし、この本では、道徳心があまりにも破壊される方向に向かっているといった警鐘でもあります。すべてを物体とすることによって、お金に換算されつつある世界に私たちの将来はあるのでしょうか。お金は確かに大切ではありますが、それが目的化することによって、私たちの道徳心、絆、優しさをなくしてしまう世界にとても未来があるとは思いません。

 話は変わりますが、NHKの福島さくらプロジェクトの子どもたちのメッセージを読んで涙が止まりませんでした。彼らの夢や希望をかなえる世界を考えたとき、それは物質面ではなく、人として当たり前の道徳心を持つこと、そしてそうしたことを素直に思う社会をつくらなければならないという事かと思います。

 自分自身も反省ばかりです。競争は成長を促すが対立を生み、お金はゆとりを与えるが卑しさも生む、決してお金を否定するものではないが、失ってはならないものをしっかりと考えていく必要があるようです。

以上


マイケル・サンデルが示す問題意識

2013-06-14 08:54:07 | 日記・エッセイ・コラム

 前からこのブログでも少し述べていますように、マイケル・サンデルが提示する問題意識については、共感するところがあり、本を読んで感じたことがありますので書いています。

 それは、「道徳の腐敗」という点です。本では、ちょうど、保険、広告、命名権についての論考の部分を読んでいますので、改めて私たちの身の回りを見たときに、「道徳の腐敗」の点を感じた次第です。

 商業重点主義が、知らず知らずのうちに、私たちの道徳面を浸食し、腐敗に導く懸念を考えなければならないと思いました。おそらく、賛否はあると思います。しかし、心の豊かさを奪ってしまうような事態を避けれうために私たち自身が考えなければならないことでしょう。

以上


「上場企業52%無借金経営」のニュースを見て

2013-06-03 21:28:25 | 社会・経済

 日経新聞によると52%の上場企業が借入より現金が上回る無借金の経営状態にあるそうです。皆さんはこのような企業の経営状況をどのように感じるでしょうか。

 確かに、企業の内部留保によって企業の財務体質は強くなっていることを示すものですから、決して悪いことではないかもしれません。企業の存続、将来への対応、新たな設備投資への準備など、財務体質の強化は経営者にとって重要な経営方針の一つではあります。しかし、違和感を持つのは私だけでしょうか。

 昔は、無借金経営といえば、古い伝統のある同族企業や特殊な分野に特化した中小企業だったような気がしますが(特別データもないので私だけの思い込みかもしれませんが)、それを思うと、半数以上の企業が無借金とは、以下にカネ余りの時代になったかと思います。

 果たして企業が、ある意味では守りの経営という状況でよいのでしょうか。企業単体で見れば、株主の価値を上げる行為として、経営者の評価は上がるかもしれません。しかし、社会全体を考えればどうでしょうか。

 一つは、売り上げが上昇していない状況の中で、それだけの現金が内部にたまっているということは、資金が十分に循環されていないことを示すことになります。データはないので空論となるかもしれませんが、デフレ状況を考えればそう推測できます。今一つは、企業の活力が損なわれてしまうのではないかという心配です。無借金が一つの指標となってしまうと、新規投資に躊躇が出てきてしまう恐れがあるのです。

 このような点だけで論じるのは暴論ですが、社会の活力を奪ってしまうことを恐れるわけです。むろん、各企業は血のにじむような努力によって、無借金にしたんだという誇りは持っています。しかし、一方で、社員や非正規社員の犠牲の上に立つようなものであってよいのか、構造改革によって下った法人税はそのままでよいのか、企業の組織論理に立ったままの経営でよいのか、再考すべき点が多々あると思います。

 専門家ではありませんので、データに立脚した議論をすべきですが、言いたいのは経済的視点に立ったものばかりでなく、ミクロの部分で、日本のかつての経営、また企業の在り方を論じていく必要があるのではないかとも思います。

 アベノミクスで、株価が上がったことを否定するものではありませんが、実体経済において、お金の還流が問題であり、一人一人の国民にどのように還元されていくのか、政治の面で考えてみなければなりません。

以上