リカリズムな日常

6拍子に彩られた破天荒な毎日

首根っこを死神の鎌が掠めて行った夜

2010年03月05日 | プライベート
最近肩こりがひどく、鉄のかたまりを首から下げているようだったので
毎日半身浴をしながら本を読んで汗をかいていました。

ゆうべもいつものように、バスソルトを入れて文庫本片手に小トリップ。
フィッシュストーリーを読んでおりました。

「地獄への道はきれいに飾られている」

と、そんな文章に出会い、ああ、なるほどそのとおりだと思いながら
その日の読書をやめて立ち上がったときでした。

目の前が真っ暗になり、いや真っ暗になったってことに気づいてないまま、
ドッターン!と大きな音がしてそっちにびっくりしてました。
なんの音?!って振り返ろうとしても体がうまく動かず、
手も首もうまく動かず、思考も動かず。
空をかいて何かをつかんだと思ったらお風呂場の柱で。
そこからすこしずつ感覚と視界が戻り、
手にしていた文庫本が床に落ちた音にびっくりしていたんだってことに気づきました。

バランスを保っていられずほうほうのていで上がり、
何が起こったかよくわからないけれどこの程度で済んでよかったと自分を落ち着かせ。
気を取り直してシャワーを浴びたら、また意識が飛びそうになり。
自分が起きているんだか寝ているんだか、
生きてるんだか死んでるんだかわかんない感覚が恐ろしかったです。

たまらなくなってバスタオル巻いたまま部屋に戻り、寝ている拓さんを揺り起こし、
拓さんに私が見えていれば私は生きているし、見えていなければ死んでるんだろうと
そんなことを考えて必死でした。


ただの立ちくらみにしちゃ、出来すぎていて。
打ち所悪かったら本当に死んでたかもしれないと思うとぞっとしてしまって。

あんなふうにひとりで死んでいくのは本当に嫌だと思いました。
そして人間は結構簡単に死んでしまえると実感。

起こされた拓さんは災難だったでしょうね。。。。
でも寝ぼけた拓さんは「大丈夫大丈夫、死なないから」と繰り返してなかなか取り合ってくれなかった。
(そのあとゆっくり起きて私を慰めてくれました。)


じつは、ついこないだ。
人生で初めて、近い将来死んでしまうかもしれない未来を抱えた人を鑑定しました。
病気でもなんでもなく、突然交通事故か何かで命を落とすビジョンが見えて。

私なりに必死でした。
なんとか回避できる方法を探し、その人の回りの人間にも話し、本人にもその必要性を説きました。
が、誰もが実感がわかないみたいで。
当の本人ですら、もやもやとしたまま別の人に相談して不安を解消してしまった様子。
人がひとり死ぬかもしれないという事実に、人はこんなにも他人事なのだと思い知った出来事でした。

私一人が不安をかかえ、そのリミットまでチリチリと消耗してしまう。
何事もなく済んで欲しいと願うばかりです。

何かが起こったとき、私はすべてを受け入れられるだろうか。
今こうしてこの事実を書き残すのも怖いのですが、
もし、何かのサインになれればと思い書いています。



「死」は不意にやってくるものではないと思うのです。
たとえそれが突発的な事故であっても。
魂の重要な通過点ですから、必ず何かのサインがあります。
ひとりひとりの死には意味があるのですが、それは千差万別、さまざまだと思います。
ですが、私の今の見解では、心が死ねば体も死ぬと、考えています。
逆の場合はよっぽどの時でないと、ありえないように思います。

今ニュースで話題になっている中学校2年生の女の子だって、どっか心が死んでしまったんだと思うのです。
だから、飛び下り自殺が簡単にできてしまう。
目に見えないサポートすらも断ち切ってしまう。

病気は、断ち切られてしまった心の一部を思い出して欲しくて起こるものだと私は思うのです。
頑固な人ががんになりやすい、なんて話聞いたことありませんか?
風邪をひくのは神様が時にはやすめって言ってるんだ、とか。

「一心同体」という言葉があるように、心と体はどうしても切り離せないものです。

私が鑑定したその人だって、忘れている愛や優しさや思いやりがごっそり、あるのです。
あまりにも忘れすぎていて、他人と自分をセパレートしつづけた結果が「死」になってしまうだけ。
人はひとりじゃ生きていけない、って言葉はまさにそのとおり。
人とのつながりは時にわずらわしいけれど、そのつながりがあって初めて愛を知り、与え合い、共存しあう。
他人は自分の鏡です。
回りにいる人は自分の一部です。
いいところも悪いところもすべて含めて自分自身なのです。
そこからずっとずっと目をそらし続けていくことは自分を切り捨て続けていくことに他ならない。

肉体は永遠ではありませんが、魂は永遠です。
たとえここで一時的に切り捨てられても、心は永遠に追いかけてきます。
逃げればますます追いかけてくるだけ。
ただ、果敢に立ち向かうほかないのです。
なぜなら、人は成長を望んでいる生き物だから。
ずっとずっと、成長し続ける存在だから。
植物が太陽に向かって伸びていくように、人も成長しようとするのです。
それは素晴らしいことなのだと思います。
つらいことばかりではない、その向こうに今まで知る由もなかった大きな愛を感じられる。

この世で本当に大事なことは
「知る」ことと、「愛する」ことだけです。
あとは大して重要じゃありません。


中学校2年生の両親の提訴についていろんな見解が飛び交っていますが、
我々が本当にできること、しなければいけないことは、
この事実を身近に受け止めて、自分の環境に照らし合わせて見直すことじゃないでしょうか。
いじめが悪い、いじめられる側が悪い、そんなことを言いたいのではなく。

私だって、この能力がなければ、死を他人事のように感じていたかも知れません。
でも、自分自分の首根っこを死神の鎌が掠めて行った今、より強く感じています。


わたしは、こういう宣言をなるべく差し控えて来ました。
考えを地道に発表するよりも、わかりやすい形にしてからどーんと出そうとしてきた。
でも、今これからはもっと明確に語っていこうと思います。
批判を食ったり、反感を買ったりするかも知れませんが、自分だっていつどうなるかわからないのですから。
思い残すことのないように、つたない文章だけれど、私の考えを語っていこうと思います。