大福寺の続きです。
「不二門」の右側と2階は民芸品の収集場所(蔵)になっていました。
棟方志功筆 「阿弥陀三尊」
大福寺の歴史
棟方志功は福光時代にたくさんの文化人との交流がありました。
「土徳」という言葉も初めて知りました。
「不二門」の右側と2階は民芸品の収集場所(蔵)になっていました。
棟方志功筆 「阿弥陀三尊」
大福寺の歴史
棟方志功は福光時代にたくさんの文化人との交流がありました。
「土徳」という言葉も初めて知りました。
書簡には現れないが、柳(宗悦)はこのとき棟方の作品に画期的な変化が生じていることに驚いた。福光に疎開する前の棟方の絵はタッチは荒々しくて面白いが、柳から見れば我執の強い代物であった。ところが福光で描いた棟方の絵はそのような我執の濁りが消えて、描線は躍動の中に深い静けさをたたえ、彩色は冴え渡って不可思議な光明を放っていたのであった。棟方には大きな内面の転換が生じていた。
棟方に内面的な転換をもたらしたものは南砺地方の真宗王国の伝統だった。綽如上人、蓮如上人いらい何十世代にもわたって積み重ねられた念仏の生活、それがこの土地の風土となって、眼に見えぬ力で人々を育てる。仏意の大きさに包まれて「誰も彼も、知らずの内、ただそのままで阿弥陀さまになって暮らしている」不思議な世界。棟方の心を開いたもの、人々が自然に「お育て」に預かる力、柳はこれを「土徳」(どとく)という新しい造語をもって讃えた。そして南砺の「土徳」との出会いはそれまでの柳の民藝美論を新しい次元に方向づけた。「土徳」を社会学的に考えるならば、マックス・ヴェーバーがよく用いる「エートス」がこれに近いのではないだろうか。
大福寺住職 太田浩史氏 「柳宗悦と南砺の土徳」より
棟方に内面的な転換をもたらしたものは南砺地方の真宗王国の伝統だった。綽如上人、蓮如上人いらい何十世代にもわたって積み重ねられた念仏の生活、それがこの土地の風土となって、眼に見えぬ力で人々を育てる。仏意の大きさに包まれて「誰も彼も、知らずの内、ただそのままで阿弥陀さまになって暮らしている」不思議な世界。棟方の心を開いたもの、人々が自然に「お育て」に預かる力、柳はこれを「土徳」(どとく)という新しい造語をもって讃えた。そして南砺の「土徳」との出会いはそれまでの柳の民藝美論を新しい次元に方向づけた。「土徳」を社会学的に考えるならば、マックス・ヴェーバーがよく用いる「エートス」がこれに近いのではないだろうか。
大福寺住職 太田浩史氏 「柳宗悦と南砺の土徳」より