つれづれなるままに

日々の雑記

紅葉をもとめて① 鑁阿寺 金蔵院 塩原

2024-11-19 10:37:26 | 


(竜神大橋)

11月14,15日 紅葉の言葉に誘われて
栃木県と奥久慈方面の旅に参加しました。


インスタグラムで有名になった佐野市にある金蔵院の紅葉。
まだまだ紅葉には程遠い風景でした。




清瀧山 金蔵院(こんぞういん)





紅葉が進んでくると…




(ネットよりお借りしました)


足利市にある鑁阿寺(ばんなじ)は大銀杏の黄葉で有名です。
こちらも少し早かったです。














宿のある塩原へ。
途中の山々の紅葉はきれいでした。

紅の大橋











翌朝 宿の窓から。
お天気は小雨のようです。






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建物めぐり 福島県迎賓館 旧高松宮翁島別邸 御薬園

2024-11-18 12:51:05 | 





旧高松宮翁島別邸(福島県迎賓館)は、大正天皇第三皇子・高松宮宣仁親王殿下が、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下の御保養のために、大正11年に建設されたものです。
当時、既に天鏡閣はあったものの、高松宮宣仁親王殿下は御還暦前の慰子妃殿下を気遣われ、自然の景観を庭園に見立てた純日本風のたたずまいを有する別邸を1年余りの歳月をかけて完成させました。(ネットより)


詳細は下記サイトより

福島県迎賓館(旧高松宮翁島別邸) - 雅へのいざない

天鏡閣より5分ほど歩くと、移築されたという門が見えてきます。




内部は華美ではありませんが、女性のお部屋らしい雅な作りです。








お風呂は総檜作り。





東屋から見た猪苗代湖。





東屋から見た別邸。







会津松平氏庭園である「御薬園」へ。





お茶屋御殿





阿弥陀寺へ向かいましたが、
だいぶ暗くなってしまいました。




芭蕉句碑
ものいえば唇さむし秋の風





阿弥陀寺より近い渋川問屋さんで夕食です。
郷土の料理を堪能しました。










明日は山形へ向かいます。

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建物めぐり 天鏡閣 猪苗代町

2024-11-10 14:43:33 | 



天鏡閣

天鏡閣は福島県猪苗代町にある旧有栖川宮家・高松宮家翁島別邸。
天鏡閣の詳細は公式ホームページをご覧ください。

国指定重要文化財「天鏡閣」公式ホームページ





入室して先ずはお茶をケーキをいただきました。





先方のお部屋を見ながら。





気品のあるルネッサンス風洋風建築です。
大理石でできているマントルピースに惹かれました。
26個あるそうです。
















私たちが入室した側から。








裏道を通って旧高松宮翁島別邸(福島県迎賓館)へ向かいます。
猪苗代湖が見えます。





素敵な木を見つけました❣




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建物めぐり 蛇の鼻御殿 会津

2024-11-09 11:18:35 | 




蛇の鼻御殿




花と歴史の郷 蛇の鼻 すりばち池


蛇の鼻とは、福島県本宮市にある広大な公園です。

◆蛇ノ鼻地名の由来
平安後期に起こった大乱、前九年の役で源義家がこの地で交戦し、その際四方の敵に放った矢が 花の様に見えた事から、「矢ノ花」と呼ばれる様になった。その後、玉井村(現大玉村)と本宮町(現本宮市)に分割された際、 玉井には「矢ノ花」と言う地名が残ったが、本宮ではその地名と区別する上で、大名倉山に伝わる 大蛇伝説の「蛇」からとって、初めは「蛇ノ花」と呼ばれていたが、後世になって山が切れて盆地に落ち込む場所を 「鼻」と呼ぶ事から、今日の「蛇ノ鼻」になったと言う。(ネットより)


蛇の鼻御殿とは、福島県本宮の豪農伊藤 弥の邸宅として、1904年(明治37年)に建てられた。建物の材質の中には、現在では入手困難とされるものもある。玄関周りの巧妙精密な彫刻は、二本松市で200年以上続く橋本仏具彫刻店の初代(父)とその子(兄と弟)により彫られたもので、日光東照宮にみられる彫刻を参考にして製作された。また、各部屋の襖を飾る作品は、狩野派を主に、時代に名を残す画家たちにより描かれており、ほか伊藤博文や、三条実美、木戸孝允の扁額なども見ることができる。
蛇の鼻御殿は平成8年(1996年)12月、文化財保護法により登録有形文化財として登録されました。登録有形文化財は築後50年以上を経過し、造形の模範となり再現が困難な建物が対象とされています。(ネットより)



玄関の天井








老松の間





木戸孝充の扁額







黒柿の板戸と階段







階段の彫刻





昼食は猪苗代湖近くの「いわはし館」で祝言そばをいただきました。







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田中一村展

2024-11-02 15:17:11 | 日常あれこれ

10月30日雨上がりの午後、東京都美術館へ。
田中一村展はやはりとても混んでいました。
人と人の間より絵画を覗き込む状態でした。




田中一村とは
明治41(1908)年,栃木県に生まれる。幼い頃から画才を発揮し,7歳の時,父の濔吉(号稲村、稲邨)より「米邨」の号を与えられる。

大正15年東京美術学校入学後,わずか2か月余りで中退,その後南画家として活動する。第19回青龍展に「白い花」を出品入選するが,その後中央画壇とつながりをもつことはなかった。

昭和33年50歳で単身奄美大島に移住。紬工場で染色工として働き,蓄えができたら絵を描くという生活を繰り返し,亜熱帯の植物や動物を描き続け,独特の世界をつくりあげた。

絵描きとして清貧で孤高な生き方を通した一村は,昭和52(1977)年69歳でひっそりとだれにも看取られずにその生涯を閉じた。(AMAMI PARKより)










NHK 東京都美術館の案内より
田中一村展 奄美の光 魂の絵画 
本展は、一村の神童と称された幼年期から、終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品まで、その全貌をご紹介する大回顧展です。世俗的な栄達とは無縁な中で、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ一村の生涯は、「不屈の情熱の軌跡」といえるものでした。
自然を主題とする澄んだ光にあふれた絵画は、その情熱の結晶であり、静かで落ち着いた雰囲気のなかに、消えることのない、彼の魂の輝きをも宿しているかのようです。
本展は、奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅する決定版であり、近年発見された資料を多数含む構成により、この稀にみる画家の真髄に迫り、「生きる糧」としての芸術の深みにふれていただこうとする試みです。



晩年の作品に興味がありました。



奄美の海に蘇鉄とアダン(ネットより拝借)




アダンの海辺(ネットより拝借)




不喰芋(くわずいも)と蘇鉄


奄美に行く前の作品 「白い花」と「秋晴」 (ネットより拝借)




白い花(ネットより拝借)





秋晴 (ネットより拝借)



晩年の作品に惹かれて訪れましたが、
この「秋晴」も印象に残りました。


sumau というサイトの絵がきれいです。
https://sumau.com/2024-n/article/2373

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