陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

日本人はなぜノーベル文学賞から遠いのか

2020-10-12 | 芸術・文化・科学・歴史

毎年10月になると、世事を騒がすニュースの一つがノーベル賞である。
今年は、化学賞などにも日本人の該当者おらず、毎年のように期待される文学賞も外れてしまったという。当然だが、平和賞にも漏れて、そもそも経済賞は期待できない。行政改革によって学術会議の存在意義が揺らぎ続けるなか、権威ある老獪の学者がいながら、若い世代の後継者が育たないことで、将来的なノーベル受賞者の輩出が危ぶまれるとの見方もある。

ノーベル賞はロビー活動も奏功するとはいうが、選考基準が明かされるのが長らくあとであるため、真偽のほどはさだかではない。もし日本の現経済状況と時期を等しくしているというのであれば、アベノミクスが終焉を迎えた今年に日本人の名が出なかったのは必然であるのだろうか。まさか、そんなことはあるまい。

今回は、この文学賞についての私論である。
日本人の有力候補として名が挙がる村木春樹氏。ハルキストには残念至極だが、別段、受賞とまでいかずとも、彼の文学的価値が落ちるわけでもなかろう。2018年にノーベル文学賞がセクハラ問題で見送られ、その代替賞の候補にあがったのだが、村上氏はみずから辞退を申し出ている。そんないわくつきの受賞をしたくないのは、作家ならずとも誰しもの本音だろう。村上氏といえば、パレスチナ問題で緊張著しいなか、イスラエル現地での講演会で堂々と、みずからを「壁にぶつけられた卵」になぞらえて、そのねじれた政治問題を揶揄し話題になったことがあった。日本の現存作家で語学を操り、あれだけ他国の権威へもの申せる作家がいるだろうか。私は村上ファンではないが、彼はその姿勢だけで十分に日本を代表する、無冠の文豪である。だからこそ、ハルキは愛される。

過去、ノーベル文学賞を受賞した文士はふたりだけ。
川端康成と大江健三郎だけだ。近年の研究で、谷崎潤一郎や三島由紀夫も候補にあがっていたという。個人的に、私は大江文学が好きではない。ねちねちした学者くささがある。川端と大江の受賞には、作家の孤児としての生い立ちやハンデを背負った家族への負い目なども加味されていたのかもしれない。個人的にはヒューマニズムに貫かれた表現とすれば遠藤周作を推したいし、吉川英治や司馬遼太郎などなど優れた時代劇の名手だっている。

エドワード・サイードの言うオリエンタリズムやら辺境性にのっとれば、島国日本の固有性を体現する作家としてまず、歴史小説家がふさわしいというべきであろう。
しかし、それが無理なのは、あきらかにフェミニズムだの、ポリティカルコレクトだの、お仕着せのカチコチな西洋イデオロギーからすると、土着くささのある日本の時代劇たるものが旧弊に見える原理を礎としたうえでの人間のもの悲しさを求めているからではないのか。私たちはサムライのカッコ良さを愛しているがしかし、あの血を尊ぶ姿勢においそれと服従したいとは願わない。武士はあきらかに「ねつ造された日本人の理想像」なのである。武士が生きた当時に、武士としての生き方をしたひとが全日本人のいくらいただろうか。ゲイシャもそうだが、私たちは間違った代表者を、海外に知らしめている。

ともあれ、ノーベル文学賞こそが、たしかに優れた世界文学と出会えるブランドであるのは事実である。
日本生まれで英国へ帰化したカズオ・イシグロ、青春の挫折を描いたヘルマン・ヘッセ、第一次世界大戦後の自堕落な若者を描いたヘミングウェイ、美文の思想家ベルクソン、首相のチャーチル、『ペスト』が話題になったカミュ、『百年の孤独』のマルケス。2016年にはシンガーソングライターのボブ・ディランまでが栄誉にあずかっている。

一方で、1901年から始まる1世紀以上の受賞者の顔ぶれなのかで、現在、どれだけの受賞者を覚えているのか、その作品を手にするひとは殆どいないのではなかろうか。世界文学全集にかならずリスト入りするような名だたる文豪や詩人はほんとどいない。そのことを鑑みれば、別段、日本の作家が受賞しようがしまいがどうでもいいように思える。

ノーベル文学賞というのは、日本人にありがちな、海外とくに西欧文明圏の権威がないと自国の優れた文化価値を認めることができないという悪い癖を体現したイベントである。

ところで、ここからは児戯に類した推測になるが。
今後、万が一にも日本人の表現者が受賞可能性あるとすれば、それは純文学の小説家ではなく、映画監督もしくはアニメーション制作者、漫画家になるのではと考えている。いまの大人の厨二病めいたラノベに毛が生えたような純文学に小説としての価値があるとは思えず、むしろ国を超えての政治性や豊かな創作能力を開花させているのが、その分野の表現者たちだからだ。専門の作家よりも、映像に携わったプロの描く小説のほうが抜群におもしろい。ジブリ映画ふくめ日本のアニメーションの評価も海外でとみに高まっているのだし、10年後ぐらいにはありえるのではなかろうか。

そもそも、ノーベル「文学賞」ではなく。「文化賞」もしくは「芸術賞」に改名すべきではないだろうか。
20世紀冒頭と違い、識字率も各段にあがり、小説執筆が限られたインテリゲンチアの特権行為ではなくなった今、表現者がめざすべきはより人類の課題に対する切なるアプローチであり、それは社畜としてあくせく働きたくないから手っ取り早くラノベ作家(異世界転生とかあの手のお話で)をめざすといったような後ろ向きな創作行為から生まれないものではないだろうか。ペンを剣ではなく、円(数字でわかる価値)に変えたいだけのひとがいる。センセイと崇められ社会の上流にいたいと願う人には、泥水をすすってもなお懸命に生きる名も無きひとの苦悩など、微塵もわからないからである。しかし、書くことでしか自己救済できないというのは創作セラピーでもあるから、私はその意義を全否定しはしない。書き続けるだけで生きたいと切に願う者はひたすら書けばよい。自己完結するものに、対外的な栄誉をもとめるのは、いささか無理ではないのかというだけのことだ。


(2020/10/09)


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