AI(人工知能)は当初、人間の情緒に訴える感性的な作業は不得意とされ、したがって、クリエイティブな仕事はむしろ人間の専売特許になるだろう。ひとびとは定型的な単純な計算作業や肉体労働からは解放され、余暇を楽しむことができるだろう。そんな楽観的な見通しがありました。
ですが、2023年現在、AIの進化はすさまじく。
すでにチャットGPTでは、人間が話しかければ自然らしき文章の作成も可能とのこと。キーワードの精度を高めれば、好きな画風で描けるAI絵師なるものも登場しはじめたとか。
すでに売れっ子のコピーライター業は大口の顧客を失いはじめているという証言もあります。
創作分野のみならず、AIに置き換えられる職種は多岐にわたり、事務的な作業者のほとんどは失職の恐れがあるとさえ伝えられています。
高度なプログラミングもできるとあれば、国が推奨しているITスキルの人材もやがて同様の末路をたどる可能性があります。この技術さえあれば食っていける、という安心がなくなってしまったわけです。恐ろしい事態ではありませんか?
2年ほど前にある本で、当時すでに海外では、レンブラントの複製絵画を精密に描けるAIが登場したと知りました。その頃から、実はクリエイティブな分野ほどむしろ、AIに奪われてしまうのでは、と危惧したものです。そもそもアートとは、多くの志望者が鳴かず飛ばずのいっぽうで、当たれば億万長者の世界でもあります。だが、その高価なアート作品を安価に誰でもコピーできるのならば、どうなるのか?
AI創作で問われるのは、作者の必要性。
でも、AIが創作してくれるのならば、人間の作者は必要ない──のでしょうか?
この答えはイエスともノーとも言い難いものです。
たとえば、自分の好きな漫画家の作風をそっくりそのまま真似たAI漫画家がいるとしましょう。けれども、そのAI漫画家さんは、サイン会で握手をしてくれたり、講演をしてくれたり、ラジオでトークをしてくれたりはしないのかもしれません。ネタにつまったせいで、連載中にややバグったような描画をしたり、計算外の偶然のいたずらでできた色塗りで新しい作風を確立できないかもしれません。長期連載になると絵柄が変わってしまったり、キャラの性格が180度別人になったりもする。そうした揺らぎはなく、いつも、十年たっても、二十年たっても、同じような安定した絵柄で、万人受けする平均的なストーリーは見せてくれるけれども、読者はそういった展開に飽きてしまうのかもしれません。AIの作風は過去の学習であって、未来に開かれていないからです。
そもそも、創作者が飽和状態な現状。ただでさえ、似たり寄ったりの画風、作風、展開はあるものです。
そして、今や、なろう作家のように、公募ではなく、インターネットの素人投稿からデビューする作家もいる時代です。いまの読者が求めているのは、作家のカリスマ性なのか、それとも親しみやすさなのか。文学賞でさえ、女子高生だの芸人だの作家の属性を求めているのです。
読者やファンへの親しみやすさを創作者に求めていくのならば。
匿名性や汎用性の高いAIよりも、人間に軍配があがるのかもしれません。誰にでも売れる漫画よりも、私だけのお気に入りセンスで描いていてくれる、オンリーワンのあの人、といったふうに。
漫画、小説、ドラマ、映画、そして芸術作品。
私が感動したものはすべて、作者の名前があったもの。二次創作も含めて、「この人」のものだから、もっと続きが見たい、読みたい。ブログやツイッター等で言動を追ってみたい。故人ならば、そのエッセイまであたりたい。そう思わせた作者は、はたして、彼ら彼女らの作風をAIが真似たのだとしても、私はときめくのでしょうか?
外形的な創作物はできるのかもしれません。人間が一週間かけておこなった作業を、ものの数秒で。
けれども、AI創作者は創作の過程でこぼれおちたアイデアの出しかただとか、生みの苦しみだとか、売れるまでにあったイザコザだとか、およそ創作者がぶつかる人生の酸いも甘いも味わうことがありません。AIには心がないからです。そして、創作者のらしさを形づくるものは、はたして、個々人の心もちでであります。
人気作の作家が続きを書けなくなったり、あるいは突然に読者を裏切るような想定外の方向に話を捻じ曲げたの出たとしても。それでもファンが見放さないのはなぜなのでしょうか? それは、作者と読者とのあいだには、創作物を介在しての、心のつながりがあるからなのです。
AI手塚治虫が新作を発表しても、「火の鳥」「ブラックジャック」などの遺作のほうが今後とも読まれるでしょう。丸を定規なしで正確に描けたという手塚の伝説や、新人に嫉妬してあらゆる分野の創作を網羅したという強欲ぶりの伝説も、色褪せることはないでしょう。AI美空ひばりが歌っても、歌姫の遺品を見たいという往年のファンは消えないでしょう。なぜか? わたしたちは作品を味わいたいだけではない。その創作者そのものの心根をたずね、その人となりと交わりたいと切に願う、そんな生きものだからです。
AI創作では、感動したとしても、誰にファンレターを出せばいいのでしょうか? そうした受容者の楽しみさえなくなるものでしょうか?
漫画家さんが背景をAI絵描きに頼めば作業は楽ちんでしょう。
けれども、アシスタントさんとの家内工業的な仕事のノウハウの伝授や、食事を共にした対話。そうした集団作業がすべて孤独な独り作業に置き換わる。そんな漫画家ははたして、人の心に訴えるものを描くことができるのか、私は疑問なのです。
作品を通じて、鑑賞者だった者が、美への憧れなり、醜への衝撃なり、あるいは怒りや憎悪なりで、いきおい創作者に変じてしまうケースは多々あります。多くの文化史は弟子と師匠との関係だけで繋がれたのではない。ラファエル前派のように、数百年のちの断絶を経て、作品と向き合った者がくみとって、新しい芸術のいのちを生んだケースもあるのです。クリエイティヴィティとは、同じ価値のものを再現するこではなく、過去をひきつぎながらもビッグバンのような新しいものを生み出すことなのです。
そうした創作上の神秘的な伝承、人間どうしの信頼に基づく美的価値のコミュケーションを、はたしてAI創作はどこまでやりとげるのでしょうか? 自分が欲しいもの、カタチ、色をそのまま提示してくれるのは、ただの商品の製造にすぎませんが、ほんらいのクリエイターと呼ばれる者ならば、そうした既存の価値を一歩外したものを生み出すことができるのではないでしょうか?
そして、肉体をもたない作者にはやはり香気や好きという感情を抱かないものなので、自分の心に圧巻するような足跡を残すような創作者に対しての敬意はやはり損なわれないのではないか、と私めは思うわけです。つまり、AIには個人のブランド──コピーされやすい創作の技術や表現力ではなく、人間に本来の品位や魅力──を確立することができないわけですから。
AIは素人が創作する手助けをしてはくれるでしょうが、創作にまつわる障害をとりのぞくあまり、そうした苦労にまつわる楽しさを奪ってしまう恐れもあります。
その昔、「ミスター味っ子」というアニメで、天才料理少年の凝った料理よりも、負けた母親の手料理のほうが好きだと泣いて叫んだ子どもの話がありました。私たちは下手か上手かではなく、その人の創作物だから欲しい、好ましいと思う「愛」を、正確な作業者のAIではなく、不確実であいまいな人間という実存に求めていくのです。
失敗しても、醜くても、その人のものだから許せる、その傷はやりなおしができる、また頑張ればいいじゃない──という人間本来の優しさを、AI創作が奪うのだとしたら。
AIと共存すべきわれわれは、AIそのものを否定するのではなく、そのいびつな感覚のありかたをこそ疑わねばならないではないでしょうか。AIがすべての善なる回答を与えてくれるのだと、ゆめゆめ思わないことです。自分の胸に、感覚に問いかけるという訓練を忘れては、やがて人間の描くものはなくなってしまうのでしょう。
AI創作で問われるのは作者が不要か必要かという二元論ではなく。
むしろ、創作に向かうわれわれ人間のこころのありかを見つめる作業の大切さ、まさにそれに尽きるのです。
(2023/04/16)