ふしょうなブログ

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詩が置き忘れた言葉「僕たち」

2005年08月18日 22時00分05秒 | 詩と言葉
このブログを運営するにあたってどうしても書きたい事があります。
詩から「僕たち」「私たち」という言葉が消えてどのくらいになるのでしょうか?
詩(ポエム)に「現代」と冠がついて現代詩となってからでしょうか?

何かしらのテーマを共有する意味合いでの「僕たち」、感動、感情の共有を求める意味合いでの「僕たち」は詩の地平から退場してしまったようです。オレンジレンジの歌詞を検証するまでも無く、歌詞の世界では連発されている「僕たち」、「俺たち」。歌詞と詩の違いは「共有」を作者側からも読み手からも求めるか求めないかにあるようです。

たとえば次のような内容の文章は歌詞とみなされるのでしょうか


明日と言う日の未来を信じて
「僕ら」は歌う
希望の歌を

僕らは信じる輝く未来を

さあ、一緒に歌おう
「僕ら」の歌を


このような読み手に「共有」を求め、また「問いかけ」を行う事を詩は拒絶しているようです。
少し勘ぐって考えてみると「僕たち」→「同志」、「問いかけ」→「連帯」と繋がる左翼的思想への潜在的アレルギーも垣間見えるようです。

まあ、ラップ自体にしてもアメリカ(本場が何時も正しいとかの安易さではありません)のラップは政治的要素、人種差別への抵抗運動、キリスト教への反発(イスラムへの改宗)など様々なテーマが展開されていますが、日本のラップに関していえば、殆どが恋愛を歌っているようです。(間違っていたらコメントください)

結局のところ、詩についても同様で恋愛詩へと収斂していくのかも知れません。恋愛ほど詩情を永遠にくすぐリ続けるテーマは他に見当たらないのは事実です。ただ、詩の根源はギリシャ神話、神々への賞賛だと思いますが、

=まとめ=

Yock自身も愚作「黒い船虫」の文中で述べたように「共有」への幻想と決別するつもりです。しかし、最近浮上している「読む詩」から「聞く詩」、発話される詩の場合に「問いかけ」「共有」無しに聞き手の共感を得られるのかなとの疑問みたいのもあります。実際に発話される詩を聞いたことがないので、あくまでも想像にすぎませんが、悪く言えば「閉ざされた」呟きを聞いて感動できるのかなという感じがします。歌詞は歌うことを前提として書かれていますが、詩は読まれることを前提としている気がしますし。

まとめと書きながら、どうやら上手くまとまりませんでした。でも、思うことは多少なりとも書けたかなと思います。


↓黒い船虫へのリンクです。よろしかったらご参照ください。

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=46164

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