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青春の忘れ物

2021-04-02 15:07:02 | 小説

アルバイトや旅行、インターンシップ、フィールドワークなどであわただしく夏休が終わると、大学の後期がスタートする。そして学業に落ち着く暇もなく、大学祭のシーズンに入る。名古屋を中心にした中部地域でも多くの大学が10月から11月にかけて大学祭を開催する。

山際が大学祭の実行委員会に入ろうと思ったのは、2年生になって間もないころであった。クラブ活動を何もやっていないので、就職に有利になるということを聞いていたこともあるが、大学生活にも慣れてきた中で、何かしたいという、なんとなくあせりのような虚しさを感じていたからでもある。

しかし、新しいことに決断できない山際が、意外にそれほど迷わず決めたのは、朝倉という友人が新学期のオリエンテーションのとき、彼の横に座っていたからである。

山際は1年浪人したので、大学では朝倉が先輩になる。朝倉は2年から大学祭の実行委員をしていた。3年になった今年は、おそらく実行委員の中心になるので、助けがほしかったのである。それで高校時代の友人であった山際に声をかけたのである。

朝倉は何事にも気の多い友人であり、失敗もあったが、その積極性には山際も一目おいていた。高校時代からの付き合いもあり、山際も朝倉と一緒なら安心できた。誘いに乗ったのには、もうひとつの理由があった。朝倉が言った次の言葉がなければ、長丁場の大学祭準備へのモチベーションにならなかったかもしれない。

「おととし、高校の同級生の大西咲子が槇山女子大に入ったことは、君も覚えているよな。その彼女が昨年、槇山女子大の大学祭の実行委員をやっていた。」と山際の隣で言った。

彼女のことは忘れていたようで、山際の心のどこかにいつも引っかかっていた。朝倉の言葉は、山際の心を騒がせた。軽い動揺が実行委員への返事を遅らせた。山際が躊躇しているように思えたので、朝倉は帰り道、神宮前の喫茶店に山際を誘った。そして彼を説得しようと実行委員会の活動内容をできるだけ丁寧に話した。それは大体、次のようなことだった。

大学祭のテーマや主な内容、スケジュールは、大体5月の実行委員会で相談して決めることになるが、出演者を変えるか、同じでいくか、誰にするかということが重要な決めごとになる。例年、辛気臭い学術的な講演会やシンポジウム、ゼミナールの研究発表などは減らす方向にある。しかし模擬店はクラブの資金集めになるので活発になってきている。また、一部の教員はゼミの研究発表を重視するので、それを無視できない。要は、いつも同じようなパターンなのでたいしたことはない。如何に楽しいものにするかということだという。

ひととおり聞いた後、山際が、「大西咲子さんが昨年、槇山女子大の実行委員だということだったが、他の大学はあまり関係ないね」と言ったので、朝倉は、次のことを付け加えた。

それぞれの大学は毎年、開催時期をたとえば10月の第3週というように決めている。それは長年の慣行となっているが、それまで他大学との時期の調整が行われてきた結果である。しかし、どうしても開催日が同じ大学がでてくるのはやむを得ない。そこで如何に特色を出すかが、その大学の腕前となる。

つまり、大学間は大学祭の内容や集客については、ある意味ではライバル関係にあるが、実は時期の調整を考えたりする中で、定期的に交流し、お互いにいろんな協力を行うようになってきている。中部地域の大学同士の実行委員会は、6月ごろに調整会議を行うようになっている。開催のプログラム、出演者の手配、会場の設営、当日の運営などで情報を交換する。それだけでなく、お互いの大学祭当日にも、大学間で役割分担して、人員を派遣したりする。

最後に朝倉が言ったのは、昨年の大学祭の交流会が槇山女子大であり、そこで朝倉は咲子に会ったということだった。

朝倉は、「久しぶりに見た咲子は相変わらず綺麗だったよ。化粧をしてるので、その魅力がいっそう際立ってきたようだった。」と言った。

「彼女は高校時代、おとなしいが芯が強い女だと思っていたが」と山際が言うと、「そうだけど、いまでは口も回り、ますます行動的になっていた。」と朝倉は言った。

「大西さんは覚えているが、それで、君と彼女はまだ付き合っていたのかな」と山際はたずねた。

「もう付き合いは止めているよ。君も知っているじゃないか。」朝倉は、いまさら何を言うのかと、不愉快そうに応えた。

山際は、朝倉と咲子の位置関係を確かめったかったのである。確かめたところで、どうこうする気はない。彼女と直接どうこうするということは山際にとってハードルが高すぎると思っていた。しかし咲子への関心は、彼自身が自覚している。

「もう高校3年のころから、なにかぎくしゃくして、3年の2学期頃からなんとなくコミュニケーションがスムーズにいかなくなってね。彼女にすれば受験のほうが大事だったのだろう。成績も我々よりよかったし、名門女子大に行くには付き合いは煩わしかったのだろうな。」と朝倉が言うと、「ふうーん」と山際はしばらく沈黙した。

「だいたい、我々と彼女とは身分が違う。それは最初から感じていたものだが。何しろ彼女の親は自動車会社の偉いさんらしいし、兄はIT企業のエリートらしいから。時流に乗っている家族ってとこかな」と、朝倉は彼女との交際をやめたことを正当化するように、言葉をつづけた。

我々というのは、自分にもあてはまることだが、と山際は思った。

「そんなことは、身分というほどのたいしたことではないだろう。もと皇族とか大名の家柄ならともかく、ただのサラリーマン家庭だし。大西さんは以前から尊大ではなかった。それに家族と大西さんは別人だし、関係ないと思うけど。」と山際は言った。そしてふと、朝倉が自分を無意識に牽制しているのでは、と思った。

山際にとって朝倉は親友なので、2人のいきさつの大体のことは知っていた。しかし、微妙な男女関係の経緯や心理状態は親友であってもわかりにくいものである。特に1年先に大学生になった朝倉との付き合いは、最近は少なくなっていたのでなおさらだった。

「大西さんは今年も槇山女子大の実行委員をするつもりかどうかわからないな。」と、

山際はつとめて事務的に聞いてみた。

「今年もおそらくやるだろう。2年間は絶対にすると思うよ。もう僕には関係ないけどね。」朝倉は言った。山際は、親友でもある朝倉と女性関係でもつれることはさけなければならない、少なくとも実行委員のメンバーになるには、と思った。

 

 朝倉と咲子は高校1年生から同じクラスだった。その上、クラブも同じ美術部だったので、おのずから交際が始まった。そのような中で、何か口実があればお互いの家を行き来する仲になっていた。しかし、親密な関係になることは咲子がさけていた。おそらく、彼女の理性がそうさせた。理性とは高校生としての節度、親の意向への配慮もあったかもしれないが、むしろ咲子の朝倉に対する感情と、それに沿った彼女の意識が理性としてそうさせたのと言った方が正確であろう。

そのような彼女の態度に、朝倉はいつも一抹の不満と将来への不安をもっていた。昨今の高校生の交際なら、ある程度の肉体的な交渉はできると思っていた。しかし、せいぜい手をつなぐ程度だった。それは、外部に交際をアピールする宣伝になったかもしれないが、張り子の虎のように見せかけのものだと思い、欲求不満であった。彼の不満や不安は、彼をあせらせた。しかし咲子は応じなかった。彼はそのような不満を普段は彼女に言わなかった。もともと陽気だったためであるが、強いて明るく付き合った。そんな明るさを咲子は気に入っていたので、付き合うことは嫌ではなかった。

しかしあるとき朝倉は、控え目であったがそのような不満をまとめてメールで書いたことがあった。咲子はそんなことをあえて言いだした朝倉を不愉快に思った。裏切られたように思った。咲子は、もう付き合いに疲れてきたので、それならやめたいという、つれないものだった。朝倉は逆に焦ってそれを修復しようとした。

朝倉は咲子を頻繁に遊びに誘った。それはボーリングやカラオケなどの近場のものもあったが、咲子はしばらくするといつも退屈そうにした。そこで、名古屋市内の動物園や美術館、青少年科学館などにも行った。咲子は知的なことは芸術的なことには関心があったので、それが好きなように見えた。しかしどちらかと言えば、動物園でもジェットコースターや観覧車のほか、いろんな仕掛けのある乗り物がことのほか気に行っていたようであった。そこでは、咲子は思いっきり楽しそうにふるまっていたからである。

そこで、朝倉は夜行バスでのディズニーランドや大阪のUSJにも誘った。彼女はもちろん賛成したが、交通費はともかく、乗り物はもっぱら朝倉が負担したので、朝倉のこづかいでは大変だった。そのような努力でも交際が深まったわけではなく、それ以上の行為には、気後れして手が出せなかった。結局のところそれらは上滑りして、朝倉には徒労のように思えてきた。朝倉はだんだん付き合いの疲れを感じるようになっていった。

山際が朝倉と付き合うようになったのは、高校2年生で同じクラスになったからである。単に席が近かったので話すようになったのだが、よくしゃべる朝倉とややおとなしい、一見内向的な山際は、なぜかうまくいった。

高校2年は大学受験にはまだ時間があり、比較的自由に高校生活を謳歌できるときだった。そんな時期の友人として、朝倉は山際にとって世間の窓口のようだった。朝倉は、遊びや友人などいろんなところへ山際を紹介してくれたからである。その中に咲子との出会いもあった。

山際が朝倉や咲子と知り合いになったのは、山際と咲子のそのような、やや交際が沈滞化してきた2年生の11月ごろだった。咲子が誕生会を自宅でするというので、朝倉が山際を誘ったのである。

咲子の自宅に行く前に、プレゼントを買うため2人は文房具店や雑貨店、家電専門店などを回った。朝倉はいつもの楽天的な様子とは異なり、彼女のプレゼントに神経質なほど慎重になり、迷ったことに山際は不思議に思った。当時の微妙な関係を反映していたためであったが、山際はそのようなことは知らなかった。

雑貨店で、朝倉は、猫のぬいぐるみを買いたがった。バイブレーターのように振動する、肩こりに効くという代物だったが、山際はそれは幼稚だと反対した。その代わりに適当に、近くにあった、真珠のついたペンダントがいいと勧めた。考えるのが面倒くさくなった朝倉は、それに従った。山際は実用的で目立たないものがいいと思い、USBをプレゼントにした。

誕生会はクラスや美術部の数人が集まり、こじんまりとしていたが、会話がはずみ、トランプやカラオケなどで楽しかった。

咲子はペンダントが気に入ったようであった。朝倉は「実はそれは山際が選んでくれた。ほんとうは猫のぬいぐるみをプレゼントしたかったのだけど」と余計なことを言ってしまった。咲子は笑った。

「ぬいぐるみは朝倉君らしいね。でももうすぐ大学生だし、ペンダントでよかったわ。」と言った。朝倉は結果的によかったという安堵もあったが、反面、彼女に対する気持ちが否定されたような感じがした。

それから2週間ほどした秋も深まるころ、山際は朝倉にハイキングを提案した。2年生の最後の思い出、ひょっとして高校生活の最後の思い出になるかも知れないと思ったからである。それはいつになく山際が率先したことであったが、山歩きが趣味であった山際がリーダーシップを発揮できる、わずかな領分であった。そのため、行き先も経験のある山際が考え、鈴鹿山脈の御在所岳に行くことにした。そこは名古屋から比較的近くにある千メートル以上の山として、手ごろだったからであり、コースの取り方によっては、急峻な岩場もあり、高山的な雰囲気もあったからだった。

朝が早いので湯の山温泉に前泊することにした。ところが、朝倉は咲子も誘ってみようと言いだした。彼女との関係を修復するためには、とにかくいろんな口実を探していたのである。山際はそれが朝倉への協力になるのなら、友人として構わないと思った。

「しかし、咲子さんがOKするかな。」と山際が懸念した。

「それは賭けかもしれないが、人生はギャンブルの継続。まあ賭けてみるよ。」と、朝倉らしく応えた。

実は、朝倉は咲子が断ると思っていた。親が許すかどうかということはともかく、彼女が受け入れると思う自信が、最近の朝倉にはなかった。が、意外に咲子がすんなり賛成して、3人で行くことになった。

咲子にとって山や温泉はいつもの学園生活を脱却できるので、気晴らしになると思ったのである。女子の友人同士では、そんな機会はあまり考えられなかったし、男子学生は安心できないかもしれないが、3人ということもあった。少なくとも彼ら2人は信頼できたからである。そのうえ山際がいるのでなんとなく新鮮な感じがしていたし、朝倉との交際が、これから幾分変化するきっかけになることを期待した面もあった。

湯の山温泉までの私鉄は、のどかな田園の中を走った。いつになく咲子ははしゃいでいた。リュックから出したスナック菓子を2人に与えたり、朝倉と楽しそうに高校の教師の批判やクラスメイトの噂話をした。その話す勢いで、手が朝倉の手や肩に触れたりした。朝倉は咲子の屈託のない態度に、久しぶりに心が晴れるのを感じて、嬉しそうだった。

話題が一段落すると、咲子は最近のドラマのテーマソングを軽く口ずさみながら、迫りくる山並みを眺めたりしていた。

そのような2人を眺めながら、山際は、ひょっとすればこの計画が自分は2人のためになったのかな、と嬉しくもあったし、反面ばからしい気分もあった。

旅館は山の斜面を切り開いた道路に面した3階建のひなびたものだったが、学生の身分では、贅沢なぐらいであった。内湯もあり、10畳の部屋の窓からは、鈴鹿山脈の大きな山肌が迫って見えた。

 非日常的な経験は、若い生命を開放的にする。

夕食までの時間があったので、3人は温泉の大浴場に入った。混浴ではないが、若い男女の体力がそれぞれの肉体に熱気をみなぎらせて、それを色づかせた。

 湯につかりながら、朝倉は隣の山際に「きょうはいい日になりそうだな。」と言った。

「高校生活の記念になるといいな。」と山際は応じた。

「なんの記念?」と朝倉。

「それはわからないけど、咲子さん次第かな」と山際は朝倉を応援するつもりで言った。

夕食は食堂で他の家族連れなどと一緒だった。

「こんな日は、ビールで乾杯しよう」と朝倉が缶ビールの大を3本買ってきた。

「高校生だとわからないかな。」咲子が不安そうにいった。結局、「わかってもいいじゃないか」という朝倉に従った。

咲子の浴衣の胸から、桜色した肌が見える。それを朝倉も山際もちらちら見ながら、飲食を楽しんだ。

 「そうだ、美術部の卒業作品を来年描くとき、咲ちゃん、モデルになってくれない?」朝倉は酔いにまかせて、いつもの陽気さを飛躍させて言った。

「えっモデル。それは来年になってから考えてもいいけど。もちろん服を着てね。」咲子は少し顔を赤らめた。

「もちろん。では期待してます。」と、まじめそうに朝倉が言った。

実はヌードを想定していたが、咲子に多少の酔いはあっても、やはりそれは了解しないであろうと朝倉は思った。しかしそのような冗談めいたやりとりは、3人の心を開放していくようだった。

夕食をゆっくり楽しんだ後、3人は部屋に帰って、普段のまじめさに戻った。

山際は2人に、「御在所を登るには主に3つのコースがあるけど、どのコースにする?」と地図を示して尋ねた。御在所岳山頂へは、「一の谷登山道」、「表登山道」、「中登山道」と主に3つのルートがある。しかし、実は第4のルートとしてロープウェーもある。

朝倉は地図を指で示しながら、「ここにロープウェーもあるが、それはどうかな。」と冗談めかして言った。

「それは論外」と山際は応えた。

「しかし、頂上が目的なら、それの方が楽でいいのじゃないかな。」と朝倉。

「それはだめ、何のために山登りに来たのかわからないわ」と咲子が言った。

「頂上に着けば同じだろう」と朝倉は言ったが、即座に咲子が返した。「それは違うわ。登山のだいご味は汗をかいたり、危険なところを登ったりするところにあるのよ。そうでなければ、いい景色を眺めて感動したり、頂上に立って感激しないと思う。」

「わかった。冗談冗談。山際、君に任せるよ」と朝倉が引いた。

「面白い変化があるコースにしましょう。」と咲子が言ったので、山際は岩場もある程度ある真中の「中登山道」を選ぶことにした。

 明日の登山に備えて早く寝ようと、畳の部屋で早い目に布団を敷くことになった。

 「私、真中でいいわ」と咲子が言った。大胆な提案だった。しかしそれは、朝倉を牽制する方法としていいと思ったからである。もし朝倉が真中なら、咲子はその隣になり、山際の目の届かないところで何かされると困ると思った。朝倉が端なら、山際が咲子の隣になり、それは朝倉に悪いということも含んでいた。

「子供のとき、川の字で寝るのが一番安心して寝れる方法だったのよ」と咲子が言った。

「ではそうしよう。」と男たちは賛同した。

咲子はすぐに眠ってしまったようだった。朝倉はしかし、咲子の隣でなんともできない自分を持て余して、眠れそうになかった。山際が眠ったのかどうか分からずに、ふと思い付きのように咲子の顔を覗き込んで、その閉じた唇に口づけをしようとした。触れるかどうかわからない程度だったが、咲子は眠っていて知らないようだった。

 咲子が幾度か寝返りをうったとき、その白い足が布団から山際の方にはみ出してきたのに山際は気づいた。山際はそのとき、自分の体の芯が熱くなるのを感じた。そして、何を思ったのか、ためらいながらもそっと咲子の足に手を伸ばした。そして、大腿のあたりから上を撫でるように触った。

咲子は、「うっ」というようなわずかな音を発して、足をよじった。そのとき、なんともしれない、強いて言えばチーズのような香りがした。それがどこから流れてくるのか、何か記憶があるような香りだったが、彼はわからなかった。彼は変な気分になった。

山際は、そのような大胆な行為を自分が犯した罪を感じて、たじろいだ。そのあと、なかなか眠れなかった。

 あくる日の朝、咲子は何ごともなかったように起きた。「おはよう!」と2人はそれぞれが昨夜の記憶を忘れようと、強いて平静に彼女に接した。

 

岩場にはところどころ鎖が設置されている。急な斜面を滑るように下りたり、岩を巻くように登ったりした。そのコースの途中、2つの長い柱のような岩に四角い岩が乗っかるようにして挟まっているものがあった。

「これが地蔵岩」と山際は指さした。それを見て「自然は面白い造形をつくるな」と朝倉が感心したように見上げて言った。

「私らの美術作品にないような迫力があるわ。」と咲子。

「自然が作ったものには意味はない。人間が意味づけしているだけだよ。人間の価値観や美的感覚を反映しているだけ」と山際が言うと、「犬や昆虫や動物には、岩の形をみてもなんとも思わないだろうな」と朝倉らしい解説をする。

「あら、哲学的なことを言うのね」と咲子が言う。

「でも、長い年月に水中から隆起したり、褶曲したりして鈴鹿山脈ができたということは、自然現象だとしても我々人間にとって想像できないな。」と朝倉が言うと、「でも、鈴鹿山脈が今の姿になって百万年ぐらいしかたっていないらしいよ。」と山際。

「日本列島なんかせいぜい1億年以下でできている。大陸でも2億年、それ以前に地球はいろんな変化があったと地学でならったね」朝倉が続けた。

「46億年以上の歴史。自然の変化に何かの意志があるとすれば、神としか言いようない」と山際が言う。

「神に意図はないと、倫理の先生が言っていたな。神はルールを作って、あとは自然に任せているって。神様も細かいことを考える暇はないからかな。」と朝倉が続けた。

「そのルールは数式であらわされるということかな。自然科学的には」と山際。

咲子は、笑って「宗教や哲学めいた何かまじめな話ね。数学まで来そうだわ。勉強はわすれましょうよ。何か無理しているの?」と言った。

ふと昨夜の行為を男らは思い出した。彼女への昨夜の負債をそれぞれ意識して黙り込んだ。

咲子は思ったよりタフだった。岩場もかなりあったが、予定どおりの時間に頂上に着いた。

山頂は、それまでの急峻な山道と打って変わって、広々した空間だった。ロープウェーから降りた客も合わさって、町のような賑やかな雰囲気を醸し出していた。おまけに1等三角点が登山者を見下すかのように偉そうに立っている。

頂上からは、西に遠く比良山地の山なみ、北には養老山地の山なみが見える。いずれも1千メートルを超える山脈である。そのような遠くから、風が絶え間なく吹き通っていた。

昼食の弁当を食べながら、「咲ちゃんは山登りも好きだったの?」と朝倉が聞いた。

「そうよ。子供のころ、家族でよく行ったわ。だいたい朝倉君は私を普通の女の子のように見て、ほんとうの私をよく見ていないわ」と答えた。朝倉は意識のずれの原因を指摘されたように思った。

「でも結構遊びも楽しんでいるんじゃないの」と不満げに朝倉が言った。

「もちろん遊びは好きよ。でも楽しいだけじゃ、それだけで終わり」と咲子。

朝倉は、今朝の登山コースを選んだときのことを思い出した。そして、ふと、咲子は山際を意識して、そんなことを言っているのかな、という疑念をもったが、それはすぐ山頂の風とともに吹き飛んで行った。

このときの御在所登山は、3人にかけがえのない思い出となった。それから3人で出かけることはなかったし、朝倉と咲子も3年生になってあまり会わなくなっていったからである。

 

高台にある大学は、神宮前の駅から歩いて10分程度のところにあった。学部が3つのこじんまりした大学であったが、専門性の高い教育をしていたので、愛知県内でも一定の評価があった。大学は芝生が広く校舎はその周りに点在していた。正門から入るとそれほど広くない通路に桜やケヤキの並木があった。

桜のシーズンが終わると、ケヤキ並木の新緑がトンネルを作って、その下を緑風が流れるような快い季節を迎える。そんな1年間で最も美しいかもしれない5月、大学祭の実行委員会が開かれた。

朝倉は実行委員会の副委員長に選ばれた。副委員長の重要な任務は、大学祭の内容の計画とスケジュールの策定である。毎年、大体のパターンを引きつくので、大まかな構成は決まっているが、出演者はもちろん変えなければならない。それと、その年だけの魅力あるプログラムを考えることも必要だった。

朝倉は、山際をアシスタントにした。3年生と2年生という上下関係があるといっても、高校の同級生の友人同士は、気兼ねなく対等に相談や議論できるので都合がよいと思ったからである。

会議のあと、学生会館の広いロビーの片隅の椅子にすわって、朝倉は大学祭への意気込みを山際に伝えた。

「君にしてはずいぶんまじめに取り組んでいるのだね」山際がひやかすと、「それは仕方ないだろう。大役を与えられた以上、うまく行くように考えないと。」と朝倉がまじめそうに言った。

「ところで、今年は、昨年よりも楽しいものにしたいのだが、それにはどんなアトラクションが大切かな。お笑いタレントは、是非いいものを招きたい。女装のおかまもいいな。そのほか何かこれといったいいアイデアはないかな」と朝倉が尋ねた。

「僕は始めてだから、よくわからないけど、お笑いタレントは大学祭に必要かな。おかまの演技も大学にふさわしいのかな。」と山際は考えるように、やや遠慮がちに疑問を言った。

朝倉はそのような反対意見を、まじめに受け止めることが大事と思った。

「そういえば、そうかな。一般学生が楽しんで人気がいいのだけど、お金をかける割に学生の評判は悪いし。マンネリになっているからかな。一般学生は勝手なものだな。」と言った。

山際は「でもやはり、いつものアトラクションはいるだろうね。それと大学らしいシンポジウムは絶対不可欠だろうね。」と言った。

「そこが問題。シンポジウムは参加学生が少ない。テーマやパネリストの工夫がいるだろうしね。」と朝倉は言いつつ、ふとそこに自分なりの工夫として、全体を通した大学祭のコンセプトが必要だと思った。そして、そのコンセプトの目玉こそが、シンポジウムになる。つまり、全体をひとつのトーンでまとめるということだ、と朝倉は思った。

「そうだ、いつもはテーマを適当に考えているけど、それとあまり関係ないプログラムを作って、学生集めばかり考えているのが問題だな。」と朝倉。

「では、お笑いタレントもその観点で選ぶのかな」と山際。

「それは無理かな。タレントは客寄せだから、コンセプトにはこだわらないよ。しかし、あれは一番お金を食うから、要検討かな。自分的には、シンポジウムをいいものにしたいから。」

そう言って、ふと朝倉は思いついたように、「君は考えるのが得意だろうから、コンセプトを考えてくれないかな。それをもとにテーマのフレーズを決めよう。」と山際に頼んだ。

そのとき、ふと、開幕を盛り上げるのも新しいものがいるのでは、と山際は思った。山際は、オーケストラをやろうと提案した。朝倉は、それは無理だろうと応えた。「つまり、本学にオーケストラはないし、まさか名古屋交響楽団のようなプロを呼ぶのではないだろうな」それは予算上、不可能であることはわかっている。

「それと、シンポジウムとクラシックをコンセプトでつなぐことはできるかな。無理をすることはない。予算と相談だから」と意見を言った。朝倉は、そんなものに予算を食われると、シンポに使う分がますます減ると困ると思ったからである。

そのとき、他の大学のオーケストラを呼ぶということを山際は思いついた。

「それなら予算もあまり要らないし。せいぜい謝礼程度で、つまり30万円ほどで来てくれないかな」と山際は言った。

「うーん、できるかも。どこの大学が引き受けるかどうかだな。総合大学でないと、オケを持っていないし。」と朝倉が言うと、「君が1年先輩だから、そこはどこか選んでくれないかな。交渉は僕がやるとしても」と山際が頼んだ。

「それと、シンポとコンサートはひとつのコンセプトでつなげると思うよ。そこがクラシックのいいところだ。たとえば、ベートーベンの運命や田園、第9などは、イメージができるので、そのようなシンポにあわせられる。ベルディの椿姫、プッチーニのマダムバタフライも、コンセプトを恋愛や人間の感情をテーマにすればつながる。」と山際が言う。「なるほど、では、まず何をコンセプトにするかということが先決ということかな」と、朝倉は、先ほどの話に戻した。

数日後、第2回目の実行委員会が開かれたとき、朝倉は山際とのこのようなやりとりを要約したうえで、いつもと違う点として、コンセプトを重視し、そこからテーマと内容を考えるという方向を述べた。委員長の田岡もそのほかのメンバーも了解した。

委員長の田岡は、細身のスマートな感じで貫録はないが、あまり発言しないので、何を考えているのかわからない男であった。ただポイントは突いてくるので、みんなが信頼していたし、それだけに発言に威圧感もあった。田岡は、朝倉の話を聞いてから、「それなら、一度、槇山女子大に行ってみようか。女子大は内容をまじめに考えてから全体を計画しているから、きっと参考になると思う。一度話をしておくので、日が決まれば連絡するよ」と言った。

朝倉らもそれに異論はなかった。ただ、話が大きくなるな、と朝倉はやや重荷に感じた。そして、誰に連絡するのかな、親しい女性でもいるのかな、思ったとき、朝倉はふと咲子を思い出した。

 数日後、2人は田岡とともに槇山女子大の正門で受付をした。そこから眺めるキャンパスは女子大らしく、すべてが華麗で清潔感があり、緑がキャンパスにあふれていた。まっすぐに伸びたメイン道路の両側にケヤキ並木が連なり、整然と校舎が並んでいる。その先の勾配のある舗装道路を登って行くと、校舎の一番奥のつき当たりにガラス張りのクラブハウスがあった。大学祭実行委員会の部屋は、そこの部室のひとつがあてがわれていた。

ドアを入ると、同じく3人の女学生が彼らを待ち受けていた。その中に大西咲子がいるのを朝倉と山際はすぐに見つけた。朝倉は昨年の大学祭で彼女を見かけていたので驚かなかった。山際は彼女を見たとき、驚くよりもずいぶん懐かしい感じがした。

一応、初対面のような挨拶を交わしたが、座って雑談を始めると、直ぐに高校時代の思い出話になった。それを見た田岡は、「君ら知り合いだったのか」と驚いたようであった。それとともに、咲子が彼らと楽しそうに話すことに、自分の領域が犯されるような不愉快さを感じた。が、「それなら、話は早い。」と直ぐ取り繕って、本題に入った。

 咲子は、高校時代の面影はあったが、化粧をして大人びていたことはもちろん、実行委員として2年目で、すでに大学祭を取り仕切っているように見えた。それもそのはずで、実行委員長になっていたからである。

 話を一応聞いてから咲子は、「では、とりあえず、本学の昨年のテーマと全体計画を説明するわ」と言って、概略を説明した。テーマがコンセプトを反映して作られ、全体計画はその柱に位置付けられて、体系化されている。その様子は、女学生らしいまじめさと、論理的な思考が合わさっていたように思えた。

 「だれが中心になって考えたの?」と朝倉が聞いた。

「まあ、たたき台のようなものは私が考えたけど、昨年は2年生だったので、3年生の委員長がいろいろ検討して、うまくやってくれたのよ」と咲子が誇らしげに言った。

大学によってこれまでの方法があると思うので、それを否定しないことが大事だとも付け加えた。ただ、こういうものは、だれかが中心になって一人でまず考えて、それをたたき台にして周知を集め検討することがいいと、咲子はアドバイスした。

 「それは、山際君にお願いしている」と勝手に朝倉は言った。先日の経緯からして、そうなるのかな、と山際はある程度納得していたので、あえて反対しなかったし、そのような場で見苦しいことはできなかった。それに、昨年は2年の咲子が考えたことを、同じ2年のしかも同い年の山際ができないとは言えなかったであろう。

しかし田岡が了解してくれるか、朝倉は田岡を見た。田岡はうなずいていた。副委員長の朝倉に任せるつもりだったので、誰が考えてもよかったのである。

 最後に、咲子は「昨年の実行委員会の記録があるから、それを山際君にお貸しするわ。大学によって方法は違うけど、参考にはなるかもね」と言って山際の表情を眺めた。

3人は彼女の親切に対して礼をいって、提案をありがたく受け入れた。

その後は、大学祭の内容の話になったが、槇山女子大では、お笑い芸人を呼ぶようなあからさまな客寄せはしていないようだった。

「大学祭は遊びとしても、やはり大学にふさわしいアカデミックな雰囲気が大事だから。」と咲子は言った。

朝倉は、高校時代の彼女が乗り物を好んだことからみると、ずいぶん成長したと思った。ただ、深く考えれば共通している面があった。それは変化を好み、それを具体化する行動的なところだった。それがいつも彼女の底辺を支えていたアイデンティティだったのだが、そこまでは気付かなかった。

「では、アトラクション的なものは、どんな行事」と朝倉が聞いた。

「そうね、コンサートかな」と咲子が言ったとき、山際は自分が提案していたオーケストラのアイデアと共鳴したように感じた。しかしムニバスコンサートと名付けられたその内容は、学生バンドによるジャスやポップス、オカリナ演奏などの軽音楽や、有名な歌曲、昭和歌謡などの比較的軽いものだった。山際は、「テーマとそれらの行事へのプロセスを詳しく教えてもらえないだろうか」と咲子に尋ねた。

「議事録で大体のことがわかると思うけど、説明した方が早いかもね。」と咲子は言った。そして、帰り際に咲子は、山際君に実行委員会の記録を説明したいので、後で2人で話し

をしたいと、田岡に了解を求めた。

田岡はやや不満げだった。彼女を誘って名古屋の街を4人で、できれば2人で飲みに行こうという魂胆だった。田岡は体が細い割に度量があることを態度で示したかったので、それに反対するような了見の狭い反応はしなかった。「それは必要だろう。大西さん、山際君に懇切丁寧にお願いするよ」と言った。

いっぽう、朝倉は高校時代の御在所岳登山を思い出した。あのとき少しのきっかけがあれば、山際と彼女の交際が始まったかも知れないと思っていた。朝倉が意図的にきっかけを作らなかったことはなかったので、自分を責めなくてすんでいた。その後、きっかけらしいものができなかったことは幸いだった。朝倉は、もはや彼女を独占する資格はないと思っていた。しかし、自分に関係ないと思っても、これが山際と咲子の新たな交際のきっかけとなるかもしれないと思えば、気がかりにならないとはいえなかっただろう。

朝倉の頭を占領し始めたもうひとつの疑念は、それ以上に深刻だった。それは、田岡と咲子が何か関係があるのではないかということである。田岡と咲子に何かあるのなら、山際がそこに割込むと、ややこしくなって大学祭の進行にも影響するかもしれない。帰りの電車で隣にいた田岡との会話が途切れると、朝倉の頭をそんなことが占領し始めた。そして、それが取り越し苦労ならいいが、と思った。

 

山際と咲子は、地下鉄で金山の近くの串カツの店にいった。そこは女子大生が行くような店でなく、サラリーマンや学生がよく行く店であった。チェーン店なので、山際も大学近くの店に行ったことがある。咲子は昔なじみの山際とフランクに話すのにふさわしい店をと、彼を案内したのである。

2人はカウンターの隅のコーナーに並んで座った。ビールを飲みながら、昨年の大学祭の資料を見せ、そのコンセプトがどのようにして会議で決まったのか、そしてテーマの設定、主な行事、アトラクション的な行事、それらの関連の概略を一応説明したが、おざなりなものだった。山際もそれほど真剣には聞いていなかった。疲れていたし、堅い話は飲み屋の雰囲気には合わなかったからでもあった。

「資料を読んでみて、また参考になればいいし、それでわからないことがあれば聞いてよ」と言って、咲子は説明をやめた。

そのあと、身の上話になった。咲子は山際に大学生活のことを質問した。1年浪人していたので、彼女の知らないその間の苦労にも興味があった。

ビールや焼酎、水割りなどをチャンポンで飲んでいると、酔いで山際の視界が狭くなり、隣の咲子に女性を意識するようになってくるのは、やむをえないことであった。

咲子は酒が比較的強い方だったが、だんだん酔いが回ってくるのを感じた。そうしていると、だんだん山際に対して、高校からの感情が高まってくるのを感じていた。むしろ彼を誘ったことの本当のわけは、高校時代に忘れていたものを取り戻すためであることを、心の片隅で自覚していた。

咲子は時を見計らって、「私ね。あの田岡さんと昨年からたびたび会っているのよ。」と告白めいて言った。

山際は、朝倉と同様、それを想像していないわけではなかったので、彼女の言葉にある程度驚いたが、それほどショックではなかった。ただ、なぜいま自分に告白したのか、疑問に思った。

「つまり、つき合っているということ?どの程度」と山際が聞くと、咲子は「まあつきあっていることになるわね。程度は想像にお任せするけど、精神的にはそれほどではないのよ」と応えた。それなら精神以外の面では深いのか、と思わざるをえないような言葉だった。山際は咲子とつきあってもいないし、恋愛感情は持っていないはずだから、それに対して別に嫉妬することはないと思った。

しかし、しばらくして、カウンターの隣の彼女が、その太ももを彼に押し付けるようにしてきたため、彼の体の芯が熱くなってくるのを、どうしようもなかった。彼は少しおののいたが、酔いも手伝って、そっと左手を咲子の太ももに置いた。そして、ためらいながらも、自然にまかせるように手のひらで少し撫でるようにした。彼女はそれを咎めたり、手で除いたりするようなことはなかった。彼のされるままに任せていた。

しばらく後、咲子は微笑んで彼を見返すと、おもむろに咲子は言った。

「わたし、朝倉君に悪いと思ったので、山際君とは親しくなれなかったのだけど、ほんとうはあの頃からあなたのことは興味があったのよ。」

山際は少し驚いた。「そうだとしても、僕は君とつき合っている朝倉君を裏切ることはできなかっただろうし、知らなくてそれでよかったと思うよ」と言うのがせいいっぱいだった。

山際は彼女の気持ちを知った以上、彼女に対する感情が高ぶってくることをどうしようもできなかった。大学祭を機会にして、こうして咲子と行動できることは、運命のような感じすらしたのであった。田岡や朝倉の表情が思い浮かんだ。それは彼の前途に掛る試練かもしれなかった。しかし、女に対するとき、男の利己的な側面は同じだ、それを非難される筋合いはないと思った山際は、彼女をいま独占しているということに、どうしようもない高揚感を感じていた。

しかし、ここでこうして話していることが、なんとなく危険なように思った。

「大西さんありがとう。」と、あえて名字で言うと、「今日のところはこれでおしまいにしない。いまの君の言葉はありがたいけど、少し飲んでいるからね。気持ちはまた変わるかもしれないし。」というと、「まあ、失礼ね。こんなことを私に言わせて、逃げるの」「いやそういう意味ではないよ。もう遅いから。じゃ、今度、日を変えてゆっくり会わない?それまで、資料を読んで質問などをまとめておくから」と、理性を取り戻した山際は、酔いにまけないように律儀な口調で言った。

都会の光と影の交わりのなかで、歩行者は影絵のようにアイデンティティを失う。帰り道、咲子は山際と腕を組みながら、体を預けるようにしてきた。

「酔っているみたいだね」と山際は努めて冷静に言ったが、酔っているのは彼も同じだった。欲望や感情が理性を上まわっていくのをどうしようもなかった。

ビルの横の空き地に彼女を連れていくようにした後、山際は咲子に唇を重ねた。彼女は少し口を開いて舌に触れてきた。

いまの山際には、そのような行為重荷にはならないようだった。

そのときだった。チーズのような香りがした。彼のハッとした。あの湯の山温泉の宿で匂ったものを思い出し、同じだと思った。

山際は自宅に帰って、自分の部屋で寝転ぶと、天井がぐるぐる回っているように思った。それは彼の頭の中も同様だった。咲子、朝倉、田岡が表れて、彼の脳裏を駆け巡った。

酔いがさめると、今日の行為がだんだん重荷になってきた。咲子はどうしてあんなに急いでいたのだろう、という疑問がもたげてきた。それに、あのなんともいえぬ香りのありかが、彼女のものだったのだということが、彼女の彼に対する過去と現在をつなぐリアルな感覚をもたらした。

それらは彼の心だけでなく身体をも刺激するようだった。

 

翌週、実行委員会の会合があった。それまで、山際は朝倉や田岡と会うことをさけていた。講義中も席が隣にならないようにした。咲子との関係において、彼らを無視できないことは、彼の心にずっしりと重くかかっていた。

実行委員会では、コンセプトをどうするかということが議題になった。山際は、それまでいろいろ考えた結果、「アイデンティティ」というのはどうだろう、と提案した。その日の朝それを朝倉に言ったとき、「少し難しいのではないか」と彼は言い、とにかく会議で皆の意見を聞こうということになったのだった。

会議でその意味と理由を聞かれた山際は、「青年期のアイデンティティの喪失は昔から言われてきたが、最近、性同一性障害、つまり男性や女性というアイデンティティが身体と心で違うことや、日本人のアイデンティティの喪失など、いろいろ話題になっている。」と、社会背景を理由にあげた。しかし、その意味はうまく説明できなかった。

辞書をみると「存在の根拠」とか、「環境や時間の変化にかかわらず連続する自己同一性」などと表現されていると言うと、田岡が「だいたい同一性という意味がわからないな。もう少しぴんとくる表現はないかな。テーマがアイデンティティでは難しすぎる。」と言って反対した。

山際は、先日の組織論の講義の中で、滝山信夫教授が言ったことを思い出した。それは「アイデンティティとは、自分らしさである。しかし、個性ではない。その人や地域をその人らしくしているもの、つまりその人を支えている土台のようなものだ。」ということだった。「性別意識、日本人という意識、職業意識などの意識がそれだが、それが最近曖昧になっているので、不安感や精神疾患が増えてきている。人間の意識は、何か明確なものと一体化することで安定する。何かへの帰属がはっきりしていないことが、アイデンティティの喪失をもたらす。世界的な交流によって変化の大きい時代、あるいは未成熟な青年期では、アイデンティティがあいまいになる。」講義でそんな話があったことを、山際は思い出しながら、とつとつと述べた。

田岡は、「その人らしさが、その人のアイデンティティ、その地域らしさがその地域のアイデンティティ、そして名古屋のアイデンティティ、本学のアイデンティティというのならわかるかな」と納得したように言った。

委員のひとりが、「アイデンティティはグローバル化に対するもので、日本人がわれわれを見直すという意味で、時代を示す重要な言葉ではないかな」と応援した。

朝倉は、自分のことを考えていた。自分に明確なアイデンティティがないように思えてきて、咲子との交際もそれでうまくいかなかったのかな、となんとなく自分流に理解した。

そんなな流れで、皆がなんとかアイデンティティをコンセプトにすることに賛成した。

田岡はおもむろに、「では、そこから具体的なテーマと計画づくりが必要になる。今月中に朝倉君と山際君、頼むよ」と、強いて大物らしく、任せるような態度で言った。そして、山際の方を向いて「先日の槇山女子大の委員長とは、あれから何か進展したのかな」と聞いた。

山際はドキッとした。しかし、田岡が公的な会議の場で、個人的なことを聞くはずはないと思いなおした。先日の咲子の話の概略を説明し、それを参考にしてテーマとプログラムを考えるつもりであることを述べた。

朝倉は、先日、山際が提案したオーケストラのことに触れた。

「まだ全体計画が決まっていないので参考だけどね、オーケストラで本学の大学祭のレベルの高さと、アイデンティティを表現してはどうかなと、先日、山際君と話したのだけど」と言うと、田岡が、「アイデンティティをオーケストラで?よくわからないな。まあ、オケのことは槇山女子大の委員長に聞けば、なんとかなるのでは。槇山にも小さいけどオケはあると聞いているし、他大学との交流もあるだろうから、紹介してもらえば」と言った。

山際は、咲子に会う理由ができたと思った。実は、会うことは先日彼女に言ったが、具体的な逢瀬について、まだ連絡していなかったからである。

会議の後、山際と朝倉は田岡に誘われて、神宮前の居酒屋に行った。ひととおり大学祭の話題が終わると、「ところで、先日の帰り、山際君と大西さんはどんな話になったのかな。」と田岡は話題を咲子に変えた。実はどちらかといえば、それが田岡が彼らを誘った目的だった。

彼は、山際と咲子のその後の状況を知るとともに、自分と咲子との交際をあからさまにして、山際に交際をこれ以上の個人的な交際を遠慮させようとしたのである。

田岡は、咲子との付き合いは昨年からのもので、もう1年ほどになること、最初は大学祭の実行委員会の交流から始まったこと、そのうち、金山の街中を歩きまわる間柄になったことを、ある程度の詳しさで話した。

金山は名古屋の副都心になっていたが、飲み屋やホテルも多く、歓楽街的な要素が多分にある。そこで遊びまわるとは、朝倉や山際にも大体の察しがついたし、そう察せよと田岡が示したようだった。つまり、朝倉や山際にとって、すでに咲子は田岡のものになっているということを示したかったのである。

山際は、「昨年の大学祭の資料から、コンセプトやテーマの設定、主な行事などの考え方を詳しく聞きましたよ。これからの本学の取り組みに役立ちそうです。」と、やや大げさに言った。しかし、その後の先日の咲子との経緯を詳しく話す勇気はなかったし、田岡のために、すでに走りだした咲子との交際をいまさらもとに戻す気はなかった。

自分から言えば、せっかく盛り上がった関係を邪魔しようとするのが田岡ではないか、と思った。しかし、咲子の立場からもそういえるのかどうかが問題だった。彼女の自分に対する好意は自分のせいではないし、今後どうなるかは彼女次第だ、と山際は強気になった。

 

山際はメールでいろいろやり取りしながら、数日後の咲子との逢瀬を設定した。大学祭のプログラムの相談、特に、田岡から指示されていた、オーケストラの件があった。場所は、先日と同じ串カツ屋にした。山際も咲子も、先日に戻ってその雰囲気を継続したかったのである。

2人は大学祭のプログラムについて、そのコンセプトの設定方法について話し合った後、山際は咲子に、オーケストラを大学祭に招待できるかどうか尋ねた。咲子は、女性ばかりのオケでいいなら、大学のクラブに聞いてみるが、総合大学のオーケストラの方がレベルが高いので、できるだけ当たってみると言った。

彼女はもう立派な社会人のような立ち回りができるようで、山際は感心した。

それから、高校時代の話になった。特に思い出深かった御在所岳登山のことを話していると、2人ともそこに何か忘れ物をしたような気分になっていった。

おそらく2時間ほどそんな会話を楽しんでから、酔いも回って盛り上がってきたころ、山際は先日のように咲子の大腿に手を置いた。、さらに股間に近づけて、彼女の反応をみた。彼女はくすくすと笑いながら、「それはだめ。ほら、ほかの人が見ているわ。ホテルを今夜とっているので、それまで待って。」と言った。

山際は驚いた。「え、ホテルを予約したの?」

「ええ、シティホテルだけど。今夜会議で遅くなるので泊ると、親に行って出てきたの」と言う咲子は、平然としているように見えた。山際は彼女の覚悟を無益にはできないと思った。しかし、その前に田岡との交際を聞いておきたかった。

「田岡さんから聞いたのだけど、君と昨年来つき合って、かなり深い関係だというけど、それはいいの」と聞いた。咲子は「それはそうだけど」と言ってから、「気になるの?実はあまり乗り気ではなかったのだけど、彼が強引に私を連れまわして、私に考える間もなく…」と言葉を濁した。それまでの明瞭な言葉とちがうことが、彼女の当惑を表しているようだった。

山際は、それはそれでいいと思った。彼女が自分を特別な存在として見てくれるのなら、乗りかかった船のように、将来を賭けてみようと思った。

 シティホテルに着いたころは、もう11時を回っていた。ベッドの前の椅子に座ってから、唇を重ねた。お互いの舌を感じるように、幾度も繰り返した。山際は時間に追われているような癖がなおらず、せっかちにことを運ぼうとした。咲子は女性が覚悟をしているときのように落ち着いていた。

山際はあの香りを感じた。そのありかを探っていた。ひと通りの行為のあと、咲子は一緒に風呂に入ろうと彼を誘った。

 風呂では、彼女はその引き締まった若い肉体を惜しげもなく彼にさらしつつ、彼が抱くのに任せた。山際は普通の女性とそのような経験をするのが初めてだったので、その未知な肉体のはじけるような反応に興奮を抑えることはできなかった。

 風呂を出てから、当然のようにベッドに入り、お互いに若い肉体を求めあった。彼女の香りの部分は、熱く熟している花のように彼を受け入れた。

 

 翌日、金山の駅前で朝食をしながら、お互いに昨夜来のことを思い出し微笑みを交わした。山際は、先日来の咲子の思いきった行動に、気後れがしていた。しかし、もはや自分のものになったという自信が、彼に落ち着きと自信を与えていた。彼女がある意味普通の女性であったことに安心するとともに、その行動力には敬意を感じていた。

咲子は山際を冷静に観察していた。彼女は山際に期待していたのは、田岡などにない、彼がときどき見せる冷静で知的な山際の行動だった。しかし、ベッドでそれを見ることはできなかった。いま見る彼は、彼女が期待した人間であるかどうかはわからなかった。少なくとも普通の男とさして変わらないように思えた。ただ、アイデンティティをコンセプトにするというアイデアは彼女が彼に抱いた尊敬の一部になっていた。

「そうそう、オーケストラの件、早急にあたって見るわね。」と咲子は、まじめな関係に戻ったように、昨日の話をした。「すべて咲きさんにお願いで申し訳ないが、よろしくお願いします。」と馬鹿丁寧に言うと、咲子は笑いながら「わかりました。」とおどけるように応えた。

 

大学祭までは、スケジュールは順調に進んで行った。9月からは、アトラクションのお笑い芸人を大阪で交渉したり、シンポジウムの出演者の手配、さらに某私大のオーケストラとの曲目選定や楽器の輸送、出演料などの打ち合わせ、ポスター、プログラム作りなどの事務的な仕事が山ほどあり、山際や朝倉は慣れない仕事に明け暮れた。

田岡は全体の進行管理をうまくやるため、リーダーシップを発揮した。そのため、彼らの業務の間に咲子が表立って関係することはなかったし、そのようなことをあえて話題にしないことは、暗黙の了解のようだった。

田岡の誘いにも咲子はある程度応じていた。しかし山際との交際だけでなく、大学祭の準備で忙しくなると、忙しいことを理由に、田岡に対して煮え切らなくなっていった。

田岡はそのようなことをあまり気にしない風だった。しょせん、諸行無常。男女の仲はそんなものと割り切っていた。むしろ、山際や朝倉と咲子が高校時代の友人関係にあったのなら、彼らに咲子への優先権があっても仕方ないと思っていた。

山際はそのような忙しさの中でも、時間が許す限り電話やメールで咲子と連絡を取り、例の串カツ屋に咲子を誘った。咲子もできるだけ応じて、逢瀬を楽しんだ。そんなとき、咲子は女性としてやさしく彼を包むようにしたので、山際は逢瀬が安らぎになることを感じていた。そのため、だんだん彼女に対して遠慮なく本音をさらけ出すようになってきた。約束の時間に遅れたり、食事のとき食べ物を口に入れて平気にしゃべったり、ベッドの前に脱いだ衣類を床にほっておいたり、彼女が朝にシャワーをしている最中にトイレに入ったりした。

 

大学祭が近付いた10月の中旬、朝倉は山際を打ち合わせを兼ねて、神宮前の飲み屋に誘った。「最近、咲ちゃんとうまくやっているようじゃないか。」とうらやましげに、冷やかし半分に言った。山際は朝倉に対して、半分は優越感、残り半分は申し訳ない気持ちで、彼女との交際をある程度の詳しさで、適当にあいまいにして話した。

「そうか、咲ちゃんは高校時代から君の方に気があったのかな。いまさら気がついた自分が馬鹿だったな。」と言った。朝倉は彼女を咲ちゃんと呼ぶところに、彼女への親しさをアピールするとともに、山際への優越を示そうとしていたのかもしれない。

山際はしかし、朝倉がふと言ったことが気になった。それは「咲ちゃんは、以前の理知的な面に、行動的な積極性と、感情的な面が加わって素晴らしくなったけど、何か移り気で熱しやすく冷めやすくなったようだな。」と言ったことである。

「なぜ、そういうことがわかるのかな」と山際は聞いた。

「いや、僕とのつきあいもそうだったけど、田岡君ともそうだし、君もそうならないとも限らないよ。それに大学祭の委員のメンバーが、委員長の言うことがよく変わると批判しているそうだ。」と朝倉は言った。

自分に対する多少の妬みがあるのではないか、と山際は思った。自分は別だと思いたかったし、彼女を信じていたかったが、これまでの自分の経験に基づいて言う朝倉のことばは、ある程度はほんとかもしれないと、少し不安になった。

 

10月の第3週、大学祭が開催された。大学祭は実行委員会のメンバーにとって半年間準備してきたプログラムの見せ場である。

大学祭は好天に恵まれて、予定通り進んだ。

通路の並んだクラブやゼミの模擬店では、関係ある他の女子大学の応援も多く、華やかで賑やかだった。お化け屋敷、金魚釣りなどもあった。教室ではクラブの研究発表の展示、映画、文芸際、カラオケ大会などがあった。

ステージでは、開幕の学長、市長の挨拶の後、盛りだくさんの催しものがあった。1日目は、軽音楽、ダンス、おかまの踊り、よさこいなどがあった。2日目はお笑いタレントの演技などがあり、最後は某私立大学オーケストラによる交響曲、特にスメタナのモルダウ、グリーグ、シベリウス、ガーシュイン、武光徹などの小曲が連続的に演奏された。滝廉太郎、信時潔、古関裕而などの歌曲などもあった。キーワードはアイデンティティ、すなわち国民的音楽であった。

シンポジウムもグローバル化とアイデンティティをテーマに、滝山教授の基調講演のあと、大学の教員と有名人がパネリストに参加した。

大学祭の視察と応援、激励を兼ねて、槇山女子大の実行委員長や委員が来る予定になっていた。ところが、委員連中は来てくれたが、委員長の咲子は来なかった。

その日、山際に彼女からメールがあった。彼女の叔母が急になくなり、通夜と葬儀で2日間は動けなくなったということだった。やむをえないことではあったが、山際はすこしがっかりした。それが今から思えばケチのつき始めだったかもしれない。

2日間の大学祭が無事終わり、他大学の実行委員も入れて盛大に大ホールで打ち上げパーティが催された。そのとき、あわてるようにして、咲子が入ってきた。司会をしていた田岡は、咲子を久しぶりに見て、手を振って招いた。そして、会場に向って言った。「…大学祭がこのように成功したのは、槇山女子大の応援のおかげであり、オーケストラのお世話やプログラム作りに大変ご尽力いただきましたことを、特に大西咲子委員長をはじめ、委員の皆様に感謝申し上げたい。」

咲子は田岡の隣に立ちながら、欠席の失礼を理由とともに話した。田岡と咲子は長々と談笑している様子で、山際の方には来なかった。

朝倉は気を聞かせて咲子を山際の方に呼んだ。そのとき、咲子は久しぶりの山際に微笑んだが、あまり話したがらなかった。しばらくして咲子は田岡のテーブルに戻ってしまった。山際は先日、朝倉が咲子について言ったことを思い出した。彼女が心変わりをしたのか、と疑った。

彼は彼女にそれを確認するため、「きょう、帰りに一緒に飲みに行かないか」と、その場からメールを送った。彼女はそれに対して、メールで「今日はだめ。まだ先日の親戚の手伝いがあるから」と返事した。そんな様子を見ながら、「誰からのメール?」と田岡が聞いた。その目は山際を探していた。

その夜、田岡と咲子がともにホールを出て帰るのを眺めながら、朝倉は山際に言った。「咲ちゃんは、しばらくすると気が変わるから、今夜またメールでもしたらいい。」

山際はその夜、咲子に「会いたい」とメールを送った。このまま彼女との関係が終わるとは、とても信じられないし、受け入れられないことであった。しかし、なぜか彼女から返事がなかった。

山際はその後、頻繁に彼女にメールをして、彼女と付き合いを継続しようとした。彼女のいまの状態を無視したストーカー的ともいえる行為に、ついに彼女はそれを「デリカシーのない人だ」とメールで非難してきた。山際は謝った。しかし、彼女の態度がやや冷たくなり、不安になればなるほど、早く会いたいというあせりの気持ちが募った。

そうこうしていると、彼女から来週の槇山女子大の大学祭で会おうというメールが来た。山際は、「首はまだつながっているな」と感じた。しかし、彼女がさらに付け加えたのは、「先日渡した昨年の大学祭の議事録を見たいという大学の友人がいるので、そのとき持ってきてほしい。」ということだった。借りたものだから、返さないといけない。いままで借りっぱなしで、いいかげんな人間と思われているのかもしれない、と山際は考えた。しかし、それが彼女との交際の消滅を意味しているようで、いやな胸騒ぎを禁じえなかった。

 

槇山女子大の大学祭は、女子大らしくこまごまとした気配りに満ち溢れていた。正門のぬいぐるみの出迎え、案内役の女性のコスチュームに着飾ったエスコート、模擬店の整然とした並び、プロのバンドに合わせた学生のダンス、美術展、大学オーケストラのミニコンサートなど、すべての面でセンスがよかった。それらは緑やガラス張り校舎の多いキャンパスと相乗効果をもたらしていた。

咲子は久しぶりに山際と会った。2人で会場を歩くと目立つので、最後のシンポジウムの会場で会おうと咲子は彼に約束した。そのとき山際は、手持ちの資料を返そうとした。咲子はそれを見て、直ぐにそれを受けようとはしなかった。鞄を持っていて重そうだったので、彼はそれを返すことを躊躇した。シンポジウムの時でもいいと思った。

 

山際は、咲子がいつものような明るい態度で会ってくれたことに安心していたので、大学祭を楽しむ気分になれた。大学祭をひととおり見ながら、山際は田岡や朝倉と出会わないか心配だった。彼らが来るとは聞いていたが、咲子との約束があったので、彼らと同行することは避けたのである。しかし、これが咲子との最後の日になるかもしれないという不安は、いつも脳裏から離れなかった。

シンポジウムの基調講演は全国的に有名な経営評論家、竹田正隆氏の「組織と女性」であった。共同体が組織の基本にあること、そこにアイデンティティあり、女性のコミュニケーションの能力が組織を生き生きとさせる」というものだった。竹田正隆氏と交渉し、招くのに成功したのは咲子だった。

山際は、隣に座っている咲子の横顔に生気がみなぎって、目が輝いているのを見て取った。自分はこのような彼女にふさわしい存在だろうか、彼女との将来があるなら、そうならないといけないのだが、なれるだろうか、と思わずにはおれなかった。

シンポジウムが終わってから、2人は以前に行った串カツ屋に行くのが当然のように、どちらともなく誘って行った。

乾杯のあと、お互いの大学祭の成功を祝った。その後唐突に、山際は咲子に「僕は咲きさんを失いたくない。」と言った。

咲子は、「別に、つきあいをやめるとは言っていないけど。それなら、あまりメールをしないで。私はあなただけでなく、田岡さんや朝倉君、そのほかの男性とも付き合いたいのよ。あなたとは、まだ恋人にはなれないかもね。」と応えた。

山際は了解した。咲子とのつきあいが続くことだけで、満足だったから。

 

遅くなり、彼女をタクシーで送ることになった。2人は後部座席に並んで座っていたので、彼女の太ももが彼のそれにくっついた。彼女は、酔いもあったのか幾分顔を赤らめていた。そして、恥ずかしげに少しうつむき加減に前を見ていた。

山際は先に神宮駅前でタクシーを降りなければならなかった。

帰り際、咲子は「ここでチューしちゃいけないよ。」と言った。そして、すぐ、「このほっぺにチューして」と言った。山際は言われたとおり、彼女のほほに唇をあててから、タクシーを降りた。

彼は今日の1日の疲れにかかわらず、彼女と別れることにならなかったことに満足した。

電車に乗ってから、山際は手にまだ資料を持っていることに気付いた。

「しまった、渡すのをまた忘れてしまった」とつぶやいた。

それにしても、何回も渡す機会があったのに、どうして彼女はそれに気付かなかったのかな、と彼は不思議な気持ちだった。

 

あの日、咲子はそれを返してもらいたくなかったのかもしれない。そう思ったのは、それから彼女に幾度か会ってからのことだった。

その忘れ物はまだ彼の部屋にある。

いつ返そうか、と彼はときどき思うが、彼女が求めるまで待っておこう、それがある間は田岡や朝倉よりも自分を、彼女が選んでいる証拠だと思った。