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明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

『憲法第43条』 と 『一票の格差』

2011-06-27 | 戯言
政治家とか。

政治屋とか。


町会議員から、

国会議員まで。


生活の根幹である、

 『日本』 という 『国』 を治める為、

選挙という手続きを経て、

皆の信託を受け行動する人。


しかし、


 『政治』 を行う者は、

 『国民の奉仕者』 ではない。

国民を指導し、 『正しい方向へ導く』 ものだ。


こんな事を書くと、


何処の 『共産党員』 だ?と思うだろうが、

自分は、 『自由主義』 である。

人に指示されるのは大キライな方だ。


しかし、


社会生活を行う上で、

司法に従い、義務を果たすのは当然だと思う。


必要な自由は欲しいが、

日本が無くなってしまっては、

そうも言ってられない。


つまり、


 『正しい方向へ導く』 というのは、

間違った考え方ではない。


間違っているのは、

 『正しい』 と言っている、その 『方向』 である。


ところで、


 『憲法第43条』 に書かれている、


『全国民を代表する選挙された議員』


という、文言が有る。


これは、


どの地域から選出された 『国会議員』 も、

全ての 『国会議員』 は 『国民全体の代表である』 と言う事だ。


だから、


よく聞く、

 「地元の選挙区が・・・」 とか、

 「選挙区の支持者が・・・」 とか、

そんな事は、全く関係ないのだ。


これが、


 『市議会議員』 でも 『県議会議員』 でも一緒である。

 『市議会議員』 なら全員が 『市』 全体の代表。

 『県議会議員』 なら全員が 『県』 全体の代表なのだ。


 『国会議員』 が、

単純に地元の意見を国会に持ち込むのは 『言語道断』 である。

全ては、 『国全体の為』 で無くてはならないのだ。


もちろん、


地元の意見を聞かない様では、話にならないが、


それは、まず 『国』 の事を考えて、地元の事も含むべきである。

 『国全体の利益を優先』 するべきなのだ。

これが出来ない 『国会議員』 は、

国ではなく、地元で頑張るべきである。


 『国全体の利益』 を 『国会議員全員』 が考えた時、

くだらない 『政争』 など起きるのだろうか?


 『政治家個人』 や

 『地元の一部の人間』 や

 『経済の権力者』 の意見が先行していては、

何も 『国益』 につながらない。


それは、


国益を重んじるハズの 『国会』 としての体を成していない。


たまに国会で議論される、

 『誰が、何か違反した』 とか、

 『あの結果は誰の任命責任だ』 とか、

そんな事は、国会の外で議論すべきだ。


まぁ、

国益に損なう事であれば、

国会で議論する価値もあるだろう。

しかし、

それ程、重要な議論は稀である。


そして、


『一票の格差』。


これは、


 『国会議員』 が場所によっては、

比較的に、少ない国民から、選ばれる事があるのが問題だ、と

言われている事だが、


例えば、


 『議員Aは200票』 だが 『議員Bは100票』 で当選した。というのは、

大した問題ではない。


日本という、国全体の利益を考える人間であれば、

その選考手順に意味などないのだ。


たまたま、 『票に差が出てしまっただけ』 の話である。


そんな事より、問題なのは、

 『国民の利益』 より、 『その他の利益』 を優先する 『国会議員』 である。


正直、


 『国益を最優先』 にして働いている国会議員など僅かしかいないと思う。


議員の選出は、国民の義務であるが、


その、 『立候補者の資質』 を見極めなければ、


政治が混迷し、国が破綻する事になりかねない。


それは、 『一票の格差』 なんかより


もっと重要な事ではないのか?と思うのだが。




アクセル間違い事故 対策

2011-06-16 | 戯言
最近、というか、ここ何年か。


コンビニに突っ込む車のニュースが多発している。


ついこの間では、意識を失った運転手が、暴走したあげく、

小学生を轢いてしまった。


そして、最近も、老人が「踏み間違え」で、

人を死なせてしまった。


なんでしょう?


なんか、虚しさを感じる。


自分も、車を運転するが、

あえて、「ヒールトゥ」でもしない限り、

アクセルと、ブレーキを一緒に踏まない。


間違いは誰にでもあるとは言っても、

何か理由がありそうだ。


しかし、


どんな理由があったとしても、

「間違いで人を死なせてしまっている」事に代わりは無い。


これは、「AT車」が殆どになってしまったのが、多発している原因であろう。


近々、メーカーも対策をしそうだが、

そんなに難しく考えなければいいのに。


正直、「デッドマンスイッチ」を導入すれば、

解決すると思う。


認識センサーも、画像処理もいらない。

車検の時に現行の車にも取り付けできるし。

費用も、メーカーが企業努力する事で、安く済むはず。


単純な話、


左足のスイッチに、踏んでいないと、エンジンがストールする機能を持たせる。

それは、中間点であり、踏み込みすぎてもストールする。

まぁ、ストールもプラグに電気が流れなければ止るんだから、そこにスイッチを咬ますだけ。

何故やらないのか?

研究はしているが、万人に通用しないからか?


でも、エンジンが止ったらブレーキが利かなくなるんだよねぇ・・・。


まぁ、暴走は無くなると思うんだけど。


他人と、つながる事。

2011-05-31 | 戯言
最近、


「家族」 を殺してしまったニュースを耳にした。


以前から、たまに流れるニュースではあるが、

殺してしまう程、憎んでいたのだろうか?


確かに、


一時的な感情の高ぶりで、

「怒り」 を感じる事は、多々あるが、

「殺したい程」 ではない。


社会通念上、 「殺人」 は違法であり、

社会的制裁や、社会的抹殺の対象になり得る。


しかし、


カッとなって、

そういう、周りが見えなくなった状態で、

殺してしまうのは、

対象が、たまたま 「家族」 であっただけで、

場合によっては、 「無差別殺人」 などの結果になるのかもしれない。


それとは別に、


親が、子供を、

置き去りにしたり、

閉じ込めたり、

過度な体罰によって、

死なせてしまう場合がある。


あたかも、事故のようだが、


「殺意」 が無いだけで、 「殺人」 に変わりは無い。


以前、ドラマの中で描かれていた「親子」が、

まさに 「それ」 であった。


生まれた時は、愛情が深く、

非常に可愛がっていたにも拘らず、

自らの状況が、劣悪になっていくにつれ、

愛情よりも、憎しみが強くなる。


不思議な事に、


愛情が有るにも拘らず、

「憎い」 という感情が「同居」している。

愛情が有るから故にかもしれないが。


本来、 「愛情」 と 「憎しみ」 はイコールなのかもしれない。


では、


なぜ、 「愛情」 だけには成らないのか?


それには、


世間体とか、

体力の限界とか、

経済力とか、

意見の相違とか、


結局、


「自分の思い通り」 に成らない事が、

積み重なり、

「憎しみ」 という 「愛情」 になってしまうのだろう。


では、 「憎しみ」 が増えないようにするには?


人間誰しも、感情があるのだから、

無くすのは不可能だろう。


ただ、


人間には、


 「コントロール出来ないモノが沢山ある」 事を、


理解するしかないのだ。


人生とか、

寿命とか、

子孫とか、

親とか、

他人とか、


その中で、一番難しいのが、


「他人」 であると、理解する。

自分以外は全て 「他人なのだ」 と、理解する。


それは、


川が流れるように、

砂浜に波が打寄せるように、

地球が自転しているように、

宇宙が広がり続けているように、


自分には、 「どうしようも出来ないモノだ」 と理解する。


そうすると、


憎しみは、増えにくいのではないか。


そう、思いながら、今日も 「他人」 と繋がっている。



「行動する自由」 と 「自己責任」

2011-05-27 | 戯言
ひと昔前、

 「自己責任」 という言葉が注目されていた時期がある。

2004年、イラクで起こった、あの事件だ。


彼の 「死」 に対し、

様々な意見があった。


その当時、首相の決断により、

殺されたのだと言う意見もあったが、

大半の国民は、首相の決定に賛同していたと思う。


しかし、


当時、首相の心境は計り知れないモノがある。


公人として、

国民の長として、

その決断は正しかったのだろう。


しかし、個人として、

自分の決定で、人が死んでしまう。


直接、手を下す訳ではないが、

まさに、苦渋の決断だろう。


法務大臣が、

犯罪者に対し、

司法の決定の下に、

 「死刑」 を宣告するのとは、訳が違う。


彼は、犯罪者ではない。


どちらかと言えば、

善良な青年であったらしい。


当時のイラクの状況に対して、

 「無知であった事が罪」 なのは否めないが、

その、最後は、ネットを通じ、世界中に配信された。


決して、良い最後では無かった。


自分も、見てしまったが、

非常に残酷な最後であった。


残酷な最後ではあるが、

現実に世界で起こっていることである。


それは、


目を背けてはいけない現実だ。


 「自己責任」


彼は、死を選んだ訳ではないが、

不本意ながら、死んでしまった。


それは、


 「登山」 や、

 「探検」 や、

 「モーターレース」 や、

 「スポーツ」 などで、

死んでしまった人達と同じなのだろうか?


違いがあるとすれば、


 「死」 を感じていなかった事だろうか。


しかし、


 「死」 を覚悟しながら、

自己責任において、何かを行う。

それだけが、 「自己責任」 ではない。

責任は、生きていく以上、必ずついて来る。


それは、


 「大人」 も 「子供」 も関係ない。

責任の取り方に違いはあるだろうが、

全ての行動は、 「自己責任」 なのだ。


稀に、

突発的な、

事故とも呼べる状況に遭遇する事がある。

 「無差別殺人」 のように、

 「飲酒運転のトラックによる追突」 のように、

 「爆破テロ」 のように、

一見、被害者に責任は全く無いように思えるが、


「行動する自由」 の下に、

外に出て、

行動をした結果なのだ。


死を恐れるあまり、

シェルターの様な 「要塞」 に

一生隠れているのも自由なのだ。


生まれたての子供は、

自分で歩く事は出来ない。


しかし、


いずれ、立ち上がり、歩き出す。

その時から、 「危険」 は始まり、

「自己責任」 が生まれる。

本人が「危険」を感じることが出来なくても。


自分は、


 「危険の伴わない、不自由」 よりも、

 「危険のある、自由」 を選ぶ。






争いを生むのは 「人間」 だから。

2011-05-26 | 戯言
「戦争」 とは悪い事なのだろうか?


結果として、多くの命が奪われ、

兵士として戦った者が傷つき、

残ったのは、廃墟になった、

ボロボロの街。


結果だけを見れば、


なんて無慈悲で、

なんて惨い事をするのだろう。

と、

嘆きたくなる、惨状がそこにある。


しかし、


元々、「戦争」とは、

「個々の人間同士の争い」であり、


それが、


家族、

グループ、

町、

国、

と、大きくなっただけに過ぎない。


争いのキッカケは、

些細な事から、

重大な事まである。


隣人同士の争いならば、

「ゴミが敷地に落ちてきた」

とか、

「犬の鳴き声がウルサイ」

とか、

「異臭が酷い」

とか、


ともすれば、我慢すれば何とかなる事から、


「勝手に敷地に車を停めている」

とか、

「庭にあった物が壊された」

などの実害。


しかし、まだ「話合う」事によって解決可能だ。


これが、国同士となると、

「領域侵犯」

や、

「主権侵害」

や、

「不法占拠」

や、

「武力行使」

など、

到底、我慢では済まされない事がある。


まず、話し合いも出来るだろうが、

 「武力行使」 や 「不法占拠」 に至っては、

そんな悠長にしていては、占領されてしまう。


つまり、


この時点で、 「戦争」 となってしまうわけだが、

その、当事者となる 「兵士」 は、

無理やり、戦わされているのだろうか?


実際には、


どの国の、

どの戦争でも、

兵士たちは、

家族を護るため。

故郷を護るため。

結果として、国を護るために、

戦っているハズだ。


みんな、「護るために戦っている」事になる。


だとすると、


すべての国が「侵略」を行わなければ、

「戦争」は無くなるのだろうか?


おそらく、


平和な時代が続いて、

幸福感が薄れて、

更なる幸福を求めるようになって行く時、

「資源」や「征服欲」によって、

「侵略」が始まってしまうのではないか?と思う。


世界では、「独立」する為、

戦争を起こす人達もいる。


それは、「独立」する事で、

「幸福」になろうと努力した結果だが、

それは悪い事なのだろうか?


人間が、人間である限り、

戦争はなくならない。


正しい 「戦争」 はないが、

「戦争」 が悪いわけではない。


誰しも、戦争で傷つく事を望んではいない。


しかし、


 「戦う事を放棄」 してしまったら、


戦争は起こらないが、

誰も護る事は出来ない。


きっと、


いつでも 「戦う意思」 を持っている事が、

互いの緊張感となり、


戦争が起き難い状況を作っているのだろう。